イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版 2012年9月21日掲載
イワクラ(磐座)学会会報27号掲載      
                              

下鴨神社の上賀茂神社からの分社<引き裂かれた神々>

1 はじめに
 下鴨神社(賀茂御祖神社)の創建は崇神天皇の時代に遡るとの説もあるが、
文献上の初見は『続日本後紀』承和15年(848)2月21日条にある
天平勝宝2年(750)12月に賀茂御祖大社に御戸代田一町を充て奉った記事で、
上賀茂神社の初見『続日本紀』文武天皇2年(698)3月21日条「禁山背国賀茂祭日会衆騎射」よりかなり後である。
 下鴨神社は独自に成立したとの説もあるが、実際は上賀茂神社から分立したとのことである。
井上光貞氏は、論文「カモ県主の研究」(文献1)のなかで次のように述べている。
「下鴨社が奈良前期には独立していなかったということは、単に山城風土記から推測されるばかりでなく、
封土の点でも、居地の問題でも立証されることである。
それはもはや推測の域を越えて、疑いのない史実であると考定してよいのである。
そこで、この考定にもとづいて、カモ社の歴史を再構成すると、
カモ社は古の昔から、いまの上賀茂の地にあって、奈良時代のはじめまで、カモ社といえばこの社、一つだけであった。
文武朝以来、天平の初年まで、祭の日には制止を加えられるほど殷盛をきわめたカモ社とは、このカモ社に他ならなかった。
しかるに、おそらく天平の末年から天平勝宝二年(750)にいたる間に、
カモ社の分社がとりたてられてもう一つのカモ社、下鴨社が出来上り、
上カモ社の封戸十四戸に対し、天平勝宝二年、封戸十戸を賜わることとなった。
分社の理由は不明だが、上カモ社の祭の盛大に手を焼いた国家の、宗教政策の結果ともみられるだろう。」
 本論文は、かかる下鴨神社の分社における律令政府の宗教政策について考察したものである。


              
         
                       図1 下鴨神社(賀茂御祖神社)境内図(『都名所図絵』巻六)
                           上部向かって右から御本社御祖神(東殿)、御本社御祖神(西殿)
                           印鑰社(いんやくのやしろ)現:印納(いんのう)社、宝庫
                           三所社(みところのやしろ)現:三井(みつい)社

2 氏神祭祀の移転(祭祀の分割)
(1)下鴨神社の分社
 座田司氏(さいだもりうじ)氏は『賀茂社祭神考』の中で、
賀茂御祖神社及び三井神社の鎮座について次のように述べている。(文献2 )
「賀茂縣主族は近江朝廷の時代の『庚午年籍(こうごねんじゃく)』に、
 山城國愛宕郡出雲郷雲上里(現今の上賀茂、大田神社の東方)神坂(かむさか)に居住してゐたことが明かにせられてゐるが、
 この地方が恐らく賀茂族の本拠であつたのであらう。
 この地は後に山を負ひ、南は肥沃なる平野を控へ、西は賀茂川に限られ、東は高野川を界とし、
 その両川の合する所が下鴨河合で、現今の荒神口以南にまで及ぶ地域であつたと想像する。
 かゝる景勝の土地の開拓耕作を行はしめんが為めに、その守護神として賀茂別雷神を招ぎ降して信仰を捧げ、
 神助を乞わんとしたのは正に有り得べきことである。
 続いて、その開拓地の中央に自己等の祖神と仰ぐ三神(注)を祀り、その地を中賀茂と称し、開墾の進捗に伴うて、
 その最南の土地を下鴨と名付けて、更に賀茂建角身命と玉依媛命との二柱の神を奉斎し、
 こゝに賀茂三社一体の形を整へてその信仰を確立したのである。
 されば当時には賀茂縣主族は下鴨方面に相当移住してゐたと見るべきであらう。
 由来下社と三井神社とは共に蓼倉郷即ち賀茂川とその支流高野川との合流地鮎、
 両河が持ち運ぶ土砂の堆積した三角洲の上に、南北に隣り合つて建てられてゐたやうである。」
 (注)下鴨神社の境内摂社の三井神社(図1参照)に祀られている神で、賀茂建角身命、玉依姫、伊賀古夜(いがこや)姫を指す。
    三井神社は、延喜式内の大社で山城国風土記に蓼倉(たでくら)の「三身の社(みいのやしろ)」とある社である。
    三神は、賀茂縣主族の開拓地における新興勢力の奉斎した原初の神である。
    玉依姫の母の伊賀古夜姫が祀られたのは、当初、丹波国との関係が重要視されたからであろう。
    伊賀古夜姫を祀る京都府亀岡市宮前町にある宮川神社の氏子達は、現在でも賀茂祭の行粧に奉仕している。

 『続日本紀』などには7世紀末から賀茂祭の盛んなる様子と
それに対する律令政府の抑圧と監視をうかがわせる以下のような記事がある。
@山背国賀茂祭の日、衆を会(つど)へ騎射することを禁ず。(『続日本紀』文武2年(698)3月21日条)
A賀茂神を祭る日に、徒衆会集(つど)ひて杖(ほこ)を執りて騎射することを禁ず。唯し、当国の人は禁の限に在らず。
                                               (『続日本紀』大宝2年(702)4月3日条)
B詔したまはく、「賀茂の神祭の日、今より以後、国司毎年に親ら臨みて検(かんが)へ察(み)よ」とのたまふ。
                                               (『続日本紀』和銅4年(711)4月20日条)
C家人、会集ふこと、一切禁断す。(『本朝月令(ほんちょうがつりょう)』神亀3年(726)3月条)

 ところが神亀3年(726)7月を境に状勢は一変し、奉幣にあずかり、祭の会集も許されるようになった。
それは、天平3年(731)行基の弟子の一部に出家を許した詔に見られるような律令政府の劇的な方針転換を思わせる。
律令政府は、抑圧をあきらめ、彼等の勢力の分断と取り込みを考えたのであろう。
D遣使奉幣帛於石成。葛木。住吉。賀茂等神社。(『続日本紀』神亀3年(726)7月20日条)
E勅したまはく、比年以来、賀茂の神を祭るの日、人馬会集すること、悉く皆禁断す。
 今より以後、意に任せて祭るを聴(ゆる)す。但し、祭祀の庭に闘乱せしめる勿れ。(『類聚三代格』天平10年(738)4月22日勅)

 そして天平宝字元年(757)『令集解(りょうのしゅうげ)』において、葛木鴨とは対照的に山城鴨は天神者として記載されるようになる。
これは下鴨神社の分社後、まもなくのことである。
F凡天神地祇者。神祇官。皆依常典祭之。謂。天神者。伊勢。山城鴨。住吉。出雲国造斎神等類是也。
  地祇者
。大神。大倭。葛木鴨。出雲大汝神等類是也。(『令集解』天平宝字元年(757) 神祇令天神地祇条)

 宝亀11年(780)、山城鴨は朝廷より賀茂県主の姓を賜う。ここに朝廷の山城鴨の分断と取り込みは完了する。
G山背国愛宕郡人正六位上鴨祢宜真髪部津守等一十人賜姓賀茂県主。(『続日本紀』宝亀11年(780)4月26日条)

 下鴨神社の分社の理由は、やはりこのような山城鴨の勢力の増大に危機感を覚えた律令政府の分割支配であろう。 
秀吉や家康による本願寺の分割支配(注)のように、上賀茂より下賀茂に進出した山城鴨の新興勢力にてこ入れを行った表れが
下鴨神社の成立となったのであろう。

(注)戦国期、宗教勢力の中で最大の政治力・軍事力を持っていた本願寺教団(一向宗)は、
   織田信長との10年におよぶ軍事的対立の末、天正8年(1580)門主である顕如光佐は信長とついに和睦、和歌山に退いた。
   嫡男の教如光寿は信長との徹底抗戦を主張して残留するが結局敗れ、石山本願寺はここに滅亡した。
   顕如から勘当された教如は確たる拠点を作れず各地を転々とした後、
   天正19年(1591)、豊臣秀吉から現在の西本願寺の地を与えられ伽藍を築いた。
   天正20年(1592)、顕如の死去で後継問題が浮上すると、教団の政治力削減を狙って秀吉がこれに介入、
   教如を廃し異母弟の准如光昭を門主に据えた。
   再び教団の中心の座を追われた教如は、ついに徳川家康を頼った。
   家康は教如と准如の対立を巧みに利用し、慶長7年(1602)烏丸七条の地を寺地として寄進、教団を二つに分割した。
   これが現在の東本願寺で、全国の末寺・門徒も東西の本願寺に二分された。(YAHOO!知恵袋「chihayan1971」)
   この結果、それまで外に向かっていたエネルギーは、東西両本願寺の勢力あらそいに転化され、
   徳川幕府の支配を容易にしたといわれる。

では、賀茂社の分割はどのような形で行われたのだろうか?
下鴨神社の祭神は、賀茂建角身命と玉依姫で、山城鴨の氏神である。
元は上賀茂神社で祀られていたものである。(文献3、4) 
つまり、下鴨神社の分立は、祭祀的には上賀茂神社からの氏神祭祀の分離独立を意味している。
分離の核心は別雷神と氏神の徹底した分離であり、
氏神の社である三井社を発展させる形で別雷命の御祖を祀る下鴨神社が創設されたと考えられる。
これはまさに、律令政府によって引き裂かれた神々といえるだろう。
おそらく、下鴨地区の人々もこれを歓迎したことであろう。
そしてこうすることで、山城鴨の団結力を削いだのではないだろうか。

(2)氏神祭祀の痕跡
 氏神祭祀は基層信仰であり、上賀茂神社の社殿ができる前の御生所(御囲)に係わる神事にその原点が求められる。
これについては、先の論文「嘉元年中行事 御阿礼の祭祀構造の諸問題」(文献5)で明らかにしたので、
詳細はそれを参照願うこととして、ここではその要点を掲載しておく。
御生所の祭祀は、別雷神と御祖神との重層的祭祀である。
氏人は祖神として御祖を崇め、御祖は天神たる別雷神を奉祭する。
このため、御祖は氏人と別雷神の仲介者としてふるまう。
御祖は氏人にとり血で繋がった親しき存在(氏神)であるのに対し、別雷神は御祖の奉斎する至高の存在である。
これを神祗政策の面からみれば、地祗と天神となろう。
御生所(御囲)における祭祀構造を、御祖と別雷神に別けて次第によって示せば表1のようになる。

表1 御生所(御囲)における重層的祭祀構造
御祖神(氏神・地祗) 別雷神(天神)
御囲前での直会(つかみの御料)  
御榊神事(割幣を給ふ)
祭員から御祖神への祈願の呪言  
(御祖神が別雷神を)「迎へ給ふ迎へ給ふ」
 
   消 灯
  御榊神事(割幣を結び懸く)
祭員から別雷神への祈願の呪言
(別雷神が)「移り給ふ移り給ふ」
立砂三匝(御祖神への感謝)  

立砂や御休間木は上賀茂神社のシンボルであるが、これらは賀茂建角身命・玉依姫を表象するものである。(文献6、7)
これらは、氏神が下社に移転したのちに、上社本社における隠された氏神の象徴になったものといえる。
従って、これらは賀茂御祖神社には存在しないものである。

 上賀茂神社の近くには賀茂建角身命を祀る久我神社がある。
この神社は氏神社とも呼ばれる上賀茂神社の第八摂社である。
春秋の例祭では、
上賀茂神社の神馬「神山(こうやま)号」による
牽馬の儀(ひきうまのぎ)が行われ、本殿を三周する。
これに関して、柴田実氏は
論文「氏神、産土神としての賀茂社」(文献4)の中で
次のように述べている。
「本来本社自体が氏神であったにもかかわらず、
何がゆえにこの社を建てて、
それをことさらに氏神社と称するに至ったのかが問題であるが、
それも畢竟するところはその本社が朝廷の崇敬を受けて
その祭祀も勅方に基づき官幣によることとなったため、
別に社を設け族のみの私の祭を営むことを
考へつくようになったといふに尽きるのではなかろうか。
他の諸大社にもその神官社家の氏神を
摂社にまつる例は多く存する。」
    図2 敷き詰められた白砂が美しい久我神社(氏神社)
         祭神:賀茂建角身命

 ここで留意すべきは、山城鴨の氏神はこれまで述べてきたようにあくまでも
賀茂建角身命と玉依姫との二柱でなければならないということである。
上賀茂神社の第一摂社の片山御子神社(片岡社)は、
上賀茂神社の本殿近くにあり、別雷命のお傍近くで奉仕する玉依姫を祀る。
ここでは、玉依姫の氏神という性格よりも神の奉仕者の面が強調されている。
現在も本宮恒例祭祀の時に、本宮の祝詞奏上前に当神社で祝詞を奏上するのは
「只今より御奉仕申し上げる本宮のお祭は、
御祭神の御名によってお仕え申し上げる」由を
あらかじめ奏上せんとする意味から行われる。(文献8)
図3 鈴が印象的な片山御子神社(片岡社)
    祭神:玉依姫

久我社、片岡社とも原初の姿は明らかではないが、
氏神を分離することにより賀茂御祖神社との競合を避けたものであると想像される。


3 天神地祗の変貌(祭祀への参入)
律令政府は祭祀を分割する一方で、賀茂祭に自ら積極的に参入することにより山城鴨の取り込みをはかった。
それは、前述の神亀3年(726)7月の賀茂社への奉幣から始まった。
@延暦3年(784)6月10日 朝臣船守を賀茂大神に遣わし奉幣、長岡遷都の由を告げる(『続日本紀』)
A延暦13年(794)12月22日 桓武天皇の賀茂社行幸(『水鏡』)
B大同2年(807)5月3日 賀茂の御祖ならびに別雷の二神の正一位の授与(『日本紀略』)
C弘仁元年(810)  嵯峨天皇の内親王を以て斎院制の創設(『一代要記』)
そしてついに、
D弘仁十年(819)3月16日、「賀茂の御祖ならびに別雷の二神の祭、よろしく中祀(注)に準ずべし」(『類聚国史』巻五)
 との勅が出された。これより賀茂祭は伊勢の神嘗(かんなめ)祭などと並ぶ勅祭となった。
(注)「中祀」は、「大祀」に次ぐ 重要な国家祭祀で、
   祈年(としごい)祭、月次(つきなみ)祭、神嘗(かんなめ)祭、新嘗(にいなめ)祭、賀茂祭の五祭である。
   尚、「大祀」は天皇の在位中最初にして最後のたった一回限りの大嘗(だいじょう・おおなめ)祭を指す。

これに関して柴田実氏は論文「氏神、産土神としての賀茂社」(文献4)の中で次のように述べている。
「大和朝廷の国家統一の過程にあつて、朝廷がみづからに服属する諸他の氏の氏神をば全く取潰し、
代はりにみづからまつるところの神の祭をこれに強制することなく、
逆にそれら各氏の旧来まつるところをそのまま認めるのみならず、
朝廷みづからもまたこれを崇敬し奉斎する一般的方針をとつたのに対し、
各氏もまたこれを歓迎し、それをもつてその社の格を高めるものと考へたため、
各氏神は氏神でありつつ、同時に国家(律令制の下では神祗官)の奉幣に与ることとなるに至つたのであつた。
今賀茂社はその点において正しく典型的であったわけである。」
しかしながら、氏神祭祀は本来私祭であり、朝廷が臣下たる氏族の氏神を直接的に奉斎することには問題があろう。
朝廷にとって御祖神とは別雷神の仲介者であり、この意味において御祖神の奉斎は勅祭となりうる。
またこれこそ、山城鴨が天神化した祭祀的な裏付けでもあろう。
つまり、御祖神は当初より地祇の中に天神的な要素を含んでいたといえる。
『山城国風土記』逸文と「賀茂旧記」によれば、別雷神は天神で、賀茂建角身命・玉依姫は地祗である。

 天神地祗(てんじんちぎ)とは天つ神(あまつかみ)・国つ神(くにつかみ)と同義である。
天つ神とは、高天原に住む神、もしくはそこから地上に降りて来た神を指し、
一般には『古事記』や『日本書紀』にみえる天御中主(あめのみなかぬし)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)などの
原古の造化の神々、および天照大神、月読命(つきよみのみこと)、建御雷神(たけみかずちのかみ)などの
日・月・星辰・雷電などの天空に結びつく神々を指す。
一方、国つ神とは、地上の山野・河川などに住んでいる神々を指すものとされている。
天神・地祗の語は、これを、中国の天地の神々を表わす漢語にあてたものである。
『延喜式』祝詞、大祓条では、天つ神は天上から八重雲を押し分け、降ります神と述べられ、
国つ神は、高山・低山の頂にいます神と述べられている。
『新撰姓氏録』によると、一般に宮廷貴族は天神族、地方的豪族は地祗族とされている。
これらを見ると、天つ神・国つ神の区別は、
『古事記』『日本書紀』の神話に基づく政治的な色彩のきわめて濃いものであることがわかる。
天孫に随伴して天降りした神の子孫である氏族が天神族、
それ以前から国土に住んでいた神の子孫である氏族が地祗族とされていたようである。(文献9)

 ここで天神地祗の問題を神話の面から検討する。
そのためには、下鴨神社分社前(750年以前)の信頼できる史料を挙げる必要がある。
それに適合するものとして『山城国風土記』逸文(『釋日本紀』 卷九 述義五 頭八咫烏条)が挙げられる。
『山城国風土記』逸文には、下鴨神社の記述がなく三井の社がかわりにあることから、
奈良時代初期の下鴨神社の分立前の記述と見なされている。

<『山城国風土記』逸文> 
山城の國の風土記に曰はく、可茂の社。
可茂と稱(い)ふは、日向(ひむか)の曾の峯(たけ)に天降(あも)りましし~、
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、~倭石余比古(かむやまといはれひこ:神武天皇)の御前(みさき)に立ちまして、
大倭の葛木山(かづらきやま)の峯に宿りまし、彼より漸(やくやく)に遷りて、山代の國の岡田の賀茂に至りたまひ、
山代河(木津川)の隨(まにま)に下りまして、葛野河(かどのがは:桂川)と賀茂河との會ふ所に至りまし、
賀茂川を見迥(はる)かして、言りたまひしく、「狹小(さ)くあれども、石川のC川(すみかは)なり」とのりたまひき。
仍(よ)りて、名づけて石川の瀬見(せみ)の小川と曰ふ。
彼の川より上りまして、久我の國の北の山基(やまもと)に定(しづ)まりましき。
爾の時より、名づけて賀茂と曰ふ。
賀茂建角身命、丹波の國の~野の~伊可古夜日女(かむいかこやひめ)にみ娶(あ)ひて生みませる子、
名を玉依日子(たまよりひこ)と曰ひ、次を玉依日賣(たまよりひめ)と曰ふ。
玉依日賣、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。
乃(すなわ)ち取りて、床の邊に插し置き、遂に孕(はら)みて男子(をのこ)を生みき。
人と成る時に至りて、外祖父、建角身命、八尋屋(やひろや)を造り、八戸の扉を竪て、
八腹の酒を醸(か)みて、~集(かむつど)へ集へて、七日七夜樂遊したまひて、然して子と語らひて言りたまひしく、
「汝の父と思はむ人に此の酒を飮ましめよ」とのりたまへば、
即(やが)て酒坏を擧(ささ)げて、天に向きて祭らむと為(おも)ひ、屋の甍を分け穿ちて天に升(のぼ)りき。
乃ち、外祖父のみ名に因りて、可茂別雷命と號(なづ)く。
謂はゆる丹塗矢は、乙訓の郡の社に坐せる火雷~(ほのいかつちのかみ)なり。
可茂建角身命、丹波の伊可古夜日賣、玉依日賣、三柱の~は、蓼倉(たでくら)の里の三井の社(みいのやしろ)に坐(いま)す。 

上記の神話において登場した神々を、雷の神と先祖の神(氏神)とに分けて示すと次のようになる。
『風土記』上賀茂神社(可茂の社)
雷神:賀茂別雷神・火雷~
氏神:賀茂建角身命・伊可古夜姫・玉依彦・玉依姫
(注)玉依彦を祀るところは少ないが、上賀茂神社の境内末社である土師尾社(はじおのやしろ)がある。
   この神社では御蔭(みかげ)祭に際して路次(ろじ)祭が行われる
   式内社:賀茂波爾(かものはにの)神社の論社でもある。(文献10)
   また、賀茂建角身命・伊可古夜姫・玉依姫を祀る「三井の社」が賀茂御祖神社の両本殿の西隣に鎮座している。
   (図1の「三所社」が「三井の社」に該当)
   下鴨神社の説明(HP1): 
   摂社三井神社は、『延喜式』に「三身三所坐神社」(みついみところにいますかみのやしろ)として収載されている御社です。
   また『風土記』山城国賀茂社のくだりに「蓼倉里三身社」(たてくらのさとのみついのやしろ)とある神社のことです。
   しかし記録に出るのは、七世紀・八世紀のころですが、御祭の姿は、
   まだ神社社殿が成立していない六世紀以前の磐座祭祀の時代の御祭が伝承されてきました。
   御殿があっても現在なお磐座祭祀を継承しています。特に古代鴨氏の祭祀や神地の構成がみられる珍しい神社です。

これが、下鴨神社の上賀茂神社からの分離独立(750年)によって、祭祀の区分は次のように集約される。
 ・上賀茂神社(賀茂別雷神社) 雷神:賀茂別雷神       降臨地:神山
 ・下鴨神社(賀茂御祖神社)   御祖神:賀茂建角身命・玉依姫

 賀茂別雷神から見た場合、両親は火雷~と玉依姫である。
それが火雷~にかえて賀茂建角身命を祀るのは、御祖神の実態が山城鴨の氏神であることを示すものである。
氏神は、氏族の祖先であるが、これには二つの表しかたがある。
一つは系図上の祖先であり、イザナギとイザナミのような一対の男女はその典型である。
もう一つは原初の社会体制である。賀茂族の場合はそれにあたり、
賀茂建角身命は軍事・政治を表し、玉依姫は祭祀を表し、その総体が原初の社会体制を表象している。
そのため、別雷神は、かかる社会体制が生み出した神という意味において別雷神の御祖となることができる。

<御蔭山伝承>
 御蔭山(みかげやま)は、太古鴨の御祖神が降臨された所と伝えられていることから御生山(みあれやま)とも呼ばれており、
比叡山の麓にある東山三十六峰第二の山(標高234m)である。室町時代?に山城が築かれ、現在も石垣が残されている。(HP2)
『信長公記』元亀元年(1570)9月24日条に御蔭山城の記述がある。(文献11)
御蔭山の麓には御蔭神社があり、葵祭の最初に上賀茂神社の御阿礼神事を模した御蔭祭が行われる。(文献12)
下鴨神社と同様に東殿に玉依姫、西殿に賀茂建角身命が祀られている。


     図4 御蔭神社の東殿(向かって右)と西殿

 賀茂の御祖神の降臨地が御蔭山となったのは、下鴨神社の分立後、実に2世紀半の後である。
平安時代の公卿藤原実資(さねすけ)の日記である『小右記(しょうゆうき)』寛仁2年(1018)11月25日の条に
「下社司久清進解文、可尋旧記皇御神初天降給小野郷大原御蔭山也」とあり、
これが御蔭山の古事を明らかにする初出の史料と思われる。
これに対して、『神祗志料附考』は次のようなコメントをつけている。
「某皇御神と申せるは下賀茂の社司の申せる言なれば、御祖神をさして申せるならんと思われるが、
御祖建角身命は、はじめ日向曽之峯に天降りし古事の正しき伝説ありて、御蔭山に天降りたまへりとは云うべきにはあらず」
下鴨神社創建時の思いが、このような降臨伝承を長い年月をかけて育んだのであろう。 
しかしながら、氏神はなお神山に坐すのである。
このことは、上賀茂神社の御阿礼神事においては斎院の関与が認められるのに、
下鴨神社の御生神事には斎院の関与が認められないことからも推量される。(文献5)

 「御祖神」なる言葉は、「賀茂旧記」の別雷神の再臨を願うところで初めて登場する。

<「賀茂旧記」>
旧記に云く。御祖多々須(みおやたたす)玉依媛命、始めて川上に遊びし時、美しき箭(矢)流れ来りて身に依る有り。
即ち之を取りて床下に挿す。夜、美男に化して到る。既に化身たるを知る。遂に男子を生む。
其の父を知らず。是に於いて其の父を知らむが為に、乃ち宇気比洒(うけひざけ)を造り、子をして杯酒を持ちて父に供へしむ。
此の子、酒盃を持ちて天雲に振り上げて云く、「吾(われ)は天神の御子なり」と。
乃(すなわ)ち、天に上るなり。
時に御祖神等、恋ひ慕ひ哀れ思ふ。夜の夢に天神の御子云く、
「各(おのおの)吾に逢はむとするに、天羽衣・天羽裳(もすそ)を造り、火を炬(た)き、鉾をフ(ささ)げて待て。
又、走馬を餝(飾)り、奥山の賢木(榊)を取り、阿礼を立て、種々の綵色(さいしょく)を悉(つく)せ、
又、葵・楓(かつら)の蘰(かずら)を造り、厳(おごそ)かに餝(飾)りて待て。吾、将(まさに)に来たらむ」と。
御祖神、即ち夢の教に随ふ。彼の神の祭に走馬ならびに葵蘰・楓蘰を用ゐしむること、此の縁なり。
之に因りて、山本に坐す天神の御子を別雷神と称ふ。

 「賀茂旧記」は内容から推定して、『山城国風土記』逸文の後に賀茂祭の縁起を追加して成立したものであることから、
その成立は賀茂御祖神社の創建を見据えた準備であったとも想像される。


4 まとめ

1当初、賀茂祭は律令政府の抑圧を受けていたが、神亀3年(726)7月の賀茂社への奉幣から政府の方針転換があった。
 政府は抑圧をあきらめ、彼等の勢力の分断と取り込みをはかった。
 その結果、下鴨神社(賀茂御祖神社)は上賀茂神社(賀茂別雷神社)から天平勝宝2年(750)前に分離独立した。

2祭祀の分割は、公的には上賀茂神社から氏神祭祀を下鴨神社に移転することであった。
 しかしながら私的には、玉依姫は片岡社として、賀茂建角身命は久我社として、摂社化されることにより残された。

3御阿礼神事には、御囲における「直会」・「迎へ給ふの呪言」・「立砂三匝」に氏神祭祀の痕跡が認められる。

4朝廷の賀茂祭の参入により、下鴨神社の氏神は別雷神の仲介者としての側面が強調されるようになった。


関連論文
上賀茂神社細殿 立砂の謎
上賀茂神社御生所 御休間木の謎
上賀茂神社嘉元年中行事 御阿礼の祭祀構造の諸問題<斎院制の時代の御阿礼祭祀の復元>
下鴨神社 平安時代の御生神事<御蔭山の磐座祭祀>
『河海抄』から読み解く 源氏物語の「みあれ詣」


参考文献
1「カモ県主の研究」 井上光貞 (『日本古代史論集』p76〜81所収)
2『賀茂社祭神考』 座田司氏(さいだもりうじ) p48 1972 神道史学会
3『京都市の地名』日本歴史地名体系 第27巻 p510 1979 平凡社
4「氏神、産土神としての賀茂社」 柴田実 (『神道史研究』第24巻5,6号 p2〜13 1976 所収)
5「上賀茂神社嘉元年中行事 御阿礼の祭祀構造の諸問題」 江頭務 (『イワクラ学会会報』25号 2013 所収)
6「上賀茂神社細殿 立砂の謎」 江頭務 (『イワクラ学会会報』23号 2011 所収)
7「上賀茂神社御生所 御休間木の謎」 江頭務 (『イワクラ学会会報』24号 2012 所収)
8『上賀茂神社』p42〜43 建内光儀(たけうちみつよし) 2003 学生社
9『神道史大辞典』p700〜701 松前健 2004 吉川弘文館
10『式内社調査報告』第1巻 p189〜194 皇學館大學出版部1779
11『葵祭の始原の祭り 御生神事 御蔭祭を探る』p141 新木直人 ナカニシヤ出版 2008
12「下鴨神社 平安時代の御生神事 御蔭山の磐座祭祀」 江頭務 (『イワクラ学会会報』26号 2013 所収)

HPホームページ
HP1 「下鴨神社宮司挨拶」http://www.shimogamo-jinja.or.jp/guuji.html
HP2 「御生山」http://www.toshiomi.net/h36/02miare.htm


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