イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版 2011年9月21日掲載
イワクラ(磐座)学会会報24号掲載   
  
                              

   上賀茂神社御生所 御休間木の謎

1 はじめに
 上賀茂神社(かみがもじんじゃ)の通称で知られる賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)は、
京都市北区にあるユネスコ世界文化遺産に指定された神社である。
式内社、山城国一宮で、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ:下鴨神社)とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、
賀茂神社(賀茂社)と総称される。賀茂神社両社の祭事である絢爛豪華な葵祭は特に有名である。
五月十五日の葵祭の王朝行列に先立つ五月十二日の夜に斎行されるのが、
上賀茂神社の祭儀中最も古くて重要な秘儀とされる御阿礼神事(みあれしんじ)である。
その斎場は御生所(みあれどころ)と呼ばれ、中央に長さ四間の松丸太が二本扇状に立てられる。
これを御休間木(おやすまぎ)と称する。
本論文は、この御休間木の祭祀的な意味の解明を目的とする。

 ここで、本論文の理解の根幹をなす御阿礼神事に関連する重要な伝承を紹介しておく。
それは、鎌倉時代初期成立の『年中行事秘抄』四月賀茂祭条に「旧記」(「賀茂旧記」)として記載されているものである。
<「賀茂旧記」>
旧記に云く。
御祖多々須(みおやたたす)玉依媛命、始めて川上に遊びし時、美しき箭(矢)流れ来りて身に依る有り。
即ち之を取りて床下に挿す。
夜、美男に化して到る。既に化身たるを知る。
遂に男子を生む。
其の父を知らず。
是に於いて其の父を知らむが為に、乃ち宇気比洒(うけひざけ)を造り、子をして杯酒を持ちて父に供へしむ。
此の子、酒盃を持ちて天雲に振り上げて云く、「吾(われ)は天神の御子なり」と。
乃(すなわ)ち、天に上るなり。
時に御祖神等、恋ひ慕ひ哀れ思ふ
夜の夢に天神の御子云く、「各吾に逢はむとするに、天羽衣・天羽裳(もすそ)を造り、火を炬(た)き、鉾をフ(ささ)げて待て。
又、走馬を餝(飾)り、奥山の賢木(榊)を取り、阿礼を立て、種々の綵色(さいしょく)を悉(つく)せ、
又、葵・楓(かつら)の蘰(かずら)を造り、厳(おごそ)かに餝(飾)りて待て

吾、将(まさに)に来たらむ」と。
御祖神、即ち夢の教に随ふ。
彼の神の祭に走馬ならびに葵蘰・楓蘰を用ゐしむること、此の縁なり。
之に因りて、山本に坐す天神の御子を別雷神と称ふ。


2 御阿礼神事
(1)神山

御阿礼神事は上賀茂神社原初の祭祀で、
葵祭に先立って上賀茂神社の北約2kmにある
神山(こうやま)から神霊を迎えることにある。
神山は標高301.5m、神の鎮座する神奈備山(かんなびやま)で、
形の整った円錐形をしている。
上賀茂神社の祭神である賀茂別雷神はこの山に降臨したと伝えられ、
上賀茂神社の旧鎮座地となっている。
山頂には、「垂跡石(すいじゃくいし)」(降臨石)と呼ばれる磐座(いわくら)がある。
『賀茂注進雑記』に「或記云神山かも山同訓にして口伝あり、
 往昔此御神降臨まします所岩根あり、是を降臨石といふ。其神山御生所云々」
図1 上賀茂神社社務所前から望む神山

(2)御阿礼神事
「阿礼(あれ)」とは神の出現をあらわす言葉であり、阿礼木(あれぎ)は神の依り代となる木を指すものである。
御阿礼神事とは、別雷神の出現を願い感受する神事である。
御阿礼神事について良く知られたものとして文献1〜8があるが、
ここでは文献3をベースに一部他の文献の内容を加味してまとめたものを以下に示す。
 神事は、降臨、遷霊、神幸(みゆき)、頓所仮駐(とんしょかちゅう)の四行事より成るが、
降臨は古来神籬(ひもろぎ)を完全に鋪設(ほせつ)して清祓(せいふつ)を行えば、
神は自ら降臨せられるとの信仰に基き、入念に鋪設し修祓することによっておわっている。(注)
次に遷霊は、榊に紙垂(しで)を附することと、御囲(おかこい)前を三匝(さんそう: 三周)することによっておわる。
神幸は、御榊(みさかき)を捧持(ほうじ)して御生所より頓所まで進行し、御榊を夫々立てることで頓所仮駐の形をとる。
(注)これは神社側の一般的な説明であるが、降臨はあくまでも御生所での神事のなかで行われるというのが筆者の見解である。
   これについては、論文「上賀茂神社嘉元年中行事 御阿礼の祭祀構造の諸問題」(文献9)を参照願いたい。

<御生所の鋪設>
御生所の鋪設は、斎場を上社の北北西十数町の距離にある
神山の山頂の磐座と本宮とを結ぶ一直線上の丸山の南麓台地(本宮の後方約八町)に設ける。
御生所は四間四方の地区を限って、地上一間の杭四十八本で囲われる。
そこに、松・桧・榊その他の常緑樹の樹枝を立てて作った高さ二間に及ぶ青柴垣を以て囲い、御囲とする。

御囲は内部を窺い見ることのできぬよう十分厚くし、
また乾(北西)の隅に入口を設けるが、
これも外部より少しも気付かれぬように作る。
中央に約四尺の杭を打ち込み、
これに紙垂を附した榊を阿礼木(あれぎ)として立て
(現在は、高さ約二間の榊が植わっている)、
その根元より前面、すなわち南側に
長さ四間の松丸太の尖端に榊の枝を多く結びつけたものを
二本斜上に向け扇形に出す。これを御休間木(おやすまぎ)と称する。
青柴垣を以てした御囲には、
藤づるの皮で作った径四寸ばかりの円座様のものをとりつける。
これを「おすず」と称する。
また、一間半の葵桂三組を御囲前面に飾りつけ、さらに御囲の前面、
即ち南庭一間半ばかりの所に、約一間半の間隔を置いて、
左右に高さ一尺程度の立砂を二基設ける。
 (尺貫法 1町=60間=109m 1間=6尺=1.82m 1尺=10寸=30.3p)
図2 御生所の解説図(文献8)

<御生所での神事 遷霊>
御阿礼神事は、五月十五日の葵祭の前、五月十二日(古くは四月中酉日)午後八時、
宮司以下諸員、御生所に参向、お祓をうけ横座に着く。
公私二棒ずつの幣帛を御囲にささげ、葵桂を烏帽子に挿し、まず神酒を三杯飲み、献饌の上、
「つかみの御料」と称する熟飯に干物の飛魚をほぐしたものと干わかめを炙って粉にしたものをまぜ合せて作った
「御物(おもの)」を食する。
次いで改めて手水を済まし、「(神霊を)迎え給う、迎え給う」と唱える。
燈を滅し、宮司以下祭員五員は、割幣(わりしで)(注)十五枚ずつを矢刀禰(やとね)五輩の捧持する榊の枝三箇所に夫々結び懸ける。
この時、次の秘歌を黙奏する。
 「跡たれし神にあふ日のなかりせば 何にたのみをかけて過ぎまし」
とくに割幣を結び懸ける時には深秘ありとされている。
その後、「(神霊が)移り給う、移り給う」と唱える。
次に矢刀禰五輩は、御囲の正面に立向い二基の立砂の外辺を左回りに三匝(さんそう:三周)し、
両立砂の中間に南面縦列に蹲踞(そんきょ)(此間諸員平伏)、
次いで宮司以下祭員は斎院神館(こうだち、かんだち)跡の仮設物の南庭の壇に着き蹲踞。
 (注)割幣(わりしで)とは紙幣のことであり、それは白紙に縦横に鋏を入れて、ヒラヒラとよく翻るような切り方をしたものであろう。
    榊の枝に結び懸けたのは元来木綿垂であったが、後には紙垂が一般的になった。(文献5)
    また、江戸中期の「賀茂本宮八社古来相承神号秘訣」には、割幣を「サキヘイ」と読んだ例がある。(文献4@)
<神幸>
次に矢刀禰五輩は御榊を捧持して神幸に進発する。
御榊が神館前を通御の際は、宮司以下祭員は正笏平伏、秘歌を黙奏する。
御榊は楠橋を渡り、楼門前を横切り、貴布祢新宮神社の拝殿を三匝後、
内二輩は楼門を入り、第一、第二の御榊を棚尾社の大床に立て、
他の三輩はさらに第三、第四、第五の御榊を捧持して二の鳥居を経て参道を南下、切芝(馬場)内の遥拝所(頓所)に立てる。
<本宮での神事 頓所仮駐>
別当代の「神事了(おわ)る」の由の報告を受けて開扉、葵桂を献じ、祝詞(のりと)奏上、閉扉の順に祭典を行なったのち退出。

(3)御囲の創成<御休間木のルーツ>
 原初、御阿礼の神事は磐座のある神山の山頂でおこなわれていた。

 
   図3A 神山山頂での神事   ⇒ ⇒  図3B 御生所での神事

図3Aの磐座の上に立てられた榊は阿礼木で、別雷神の再臨の依代である。

 いこま山手向はこれか木の本に岩くらうちて榊たてたり
              永久四年百首(堀河院後度百首) 源兼昌(かねまさ)

平安末期のこの歌は、岩座(磐座)に榊を立てる神山山頂の神事(図3A)を彷彿させる。
「いこま山」は大阪府と奈良県の境にある生駒山、「岩くらうちて」とは榊を立てる岩座をしつらえる意である。
御囲が御阿礼神事の時のみの仮設物である理由は、その源流が神は動くとする磐座祭祀にあるからであろう。


やがて神事の盛大化に伴い、神山の山頂からその南麓の神原(しんばら)に御囲が設けられるようになった。(文献1@)
江戸時代に著された山城国(京都府南部)の地誌である『雍州府誌(ようしゅうふし)』八 古蹟門上(愛宕郡)上賀茂山 には、
神山の様子が記載されている。
「上賀茂山。号武雷山伝言賀茂明神始現御生所地則此山也。毎年夏初酉日葵祭以松杉条構仮宮於此所
山南謂壇。春末夏初躑躅花多都人来遊謂壇躑躅見。到秋則採松茸於斯山。」
仮宮(御囲)が山の南に設けられたこと、さらに秋には松茸を採取したとあることから赤松の林があったこともわかる。
その後、御囲は丸山の南麓(現在地)に移動した。

御祖神は国つ神であり、山の頂に鎮座する山城鴨の氏神である。
『延喜式』祝詞、大祓条では、天つ神は天上から八重雲を押し分け、降ります神と述べられ、
国つ神は、高山・低山の頂にいます神と述べられている。
図3Bの御生所は、図3Aの神山山頂を模したもので、松のかわりに御休間木が用いられている。
そして磐座のかわりとして青柴垣の神籬(御囲)が設けられている。
松は、榊、杉と並ぶ三大霊木であり、祇園祭の山にも依代として取り付けられている。
また、「待つ」の意味もある。

 たちわかれいなばの山の峰におふるまつとしきかばいま帰りこむ
                              百人一首 第十六番 中納言行平

「賀茂旧記」にあるごとく、別雷神の再臨を待つのは玉依姫と建角身命である。
待つ人のいない御阿礼はありえないのではないだろうか。
御阿礼は、天神たる別雷神とそれを奉斎する氏神(地祇)の重層的祭祀である。
前述の御生所での神事の祝詞「(神霊を)迎え給う、迎え給う」は氏神が別雷神を迎える行為、
「(神霊が)移り給う、移り給う」は別雷神の遷霊を示している。

これについての詳細は、論文「上賀茂神社嘉元年中行事 御阿礼の祭祀構造の諸問題」(文献9)を参照願いたい。

(4)御生所御囲の変遷

  図4Aの中に、
御休間請(受)三本長キ松丸木弐(二)本末ニ榊有」とある。
                     (  )内は筆者の補足
図の中央に二本あるのが御休間木で、
完全に御囲の中に含まれていることがわかる。
御休間木の長さは現行では四間(7.2m)、
御囲の高さは現行では二間(3.6m)である。
御休間木の一方は地面に接し、
他方は三本の棒を交差させた受け台に支えられている。
従って、御休間木は緩い傾斜でもって
地面に横たえられているものと推察される。
御囲の高さは、現行と同じ三本の横木が巡らされていることから、
現行の高さ程度と考えられる。
即ち、御囲の中が外から見えぬよう配慮されている。(文献8 @)
二本の御休間木前方の先端には榊が取付けられている。
おそらく、現行の阿礼木と称する榊が見当たらないことから、
この榊に幣を結びつけるような神事が行われたのであろう。
つまり、この二本の榊こそ阿礼木であろう。
神事は秘儀のため、榊は外部から見えなかったと推定される。
尚、図4Aには立砂が描かれていないが、
これは御囲の外にあるためである。
寛保二年(1742)に賀茂清足が著したとされる
「諸神事註秘抄」(文献1A、10)の中に
御阿礼神事の「立砂三匝」の記述がある。
寛保二年は、清足31才、父清茂64才の頃に相当する。
「諸神事註秘抄」の内容は、
ほとんど現行の御阿礼神事と同様である。
    図4A 賀茂清足筆御囲之図 寛政三年(1791)(注)(文献2@)
        (注)賀茂清足(きよたり)は寛政三年(1791)に80才で没した。
           従って、上図はそれ以前に描かれたものであるが、本論文では便宜上、成立年の目安として没年を記載した。
           清足は有名な賀茂清茂の長男である。
           賀茂清茂は、延宝七年(1679)〜宝暦三年(1753)の江戸中期の賀茂別雷神社社家出身の神道家・国学者で、
           絶えていた賀茂社の神事の復興に尽力した。
           著書には『賀茂群記類鑑』『往来田訴論記』『清茂県主日記』などがある。

尚、「立砂三匝」の記述が確認できる最古と思われる文書は万治三年(1660)の「神事次第覚書」である。(文献4A)
続いて、延宝二年(1674)の「年中神事略次第」には、立砂そのものの表記はないものの「諸神事註秘抄」ときわめて類似した
下記の記述(文献1A)があることから、「立砂三匝」は行われていたと見られる。
 「御榊令立向干御生所之正面給。三匝而御神幸(神秘)」

賀茂社の関係史料は膨大な量にのぼるが、
幸いにもこれを項目別にコンパクトに分類整理した「賀茂社関係古伝集成」(文献11)なるものがある。
この中に「御休間木」に関して、謎のような次の記述がある。
「御囲ノ柱数、六十四本此外外前ニ榊二本立。」
この記述は江戸中期に成立した「賀茂社記録」からの抜書きである。
「賀茂社記録」の主なる著者である賀茂清茂は、御囲之図を描いた賀茂清足の父であることから、
上記の記述は賀茂清足の「諸神事註秘抄」と共に、図4Aを説明したものと見なすことができる。
二本の御休間木の先端には、それぞれ阿礼木である榊がつけられていることがわかる。 


図4Bは、図4Aの御休間木、榊(阿礼木)、受け台を再現した模型写真である。

   図4B  御囲の御休間木、榊(阿礼木)、受け台の模型写真


さらに、現在の御囲(図2)と清足図(図4A)の異なる点は、清足図の前面に御戸が設けられていることである。
前述の「賀茂社記録」(文献11)では「御囲の柱数」に続いて次の記事がある。
 一、御戸ニ向テ観念、御戸ヲ開カセ給ヘ、祝二度申シテ謹テ御鑰ヲ合、身ヲ押ヒラヒテ御戸ヲ開也。
   次神主ハ神同体不二ノ観念他念妄情ナク真ニ神卜同体ノ理ヲ観シテ入也。
   祝モ同観念入間ニ、先向乾方一揖観念。往昔降臨神代昔ヲ思也。
    (注1)上記に関する古文書の写真画像が、国立国会図書館のホームページで閲覧可能になったので該当箇所をリンクで示す。
       『賀茂社記録 第47冊』 p83/163 p84/163 賀茂社本縁秘訣 賀茂清茂
    (注2)御鑰(みかぎ):鑰(やく)は鍵の意。(文献12)
       乾方一揖(いちゆう):乾(北西)の方向に向かい軽く一礼すること。
       昔、神は乾(戌亥)の方向から来たりて、垂迹石に降臨されたとされる。
       陰陽において、乾は天門にあたる。(文献13)

続いて、前述の祝詞「(神霊を)迎え給う、迎え給う」と「(神霊が)移り給う、移り給う」に対応する次の記事がある。
 一、御生所ニテ四月御祭之時奉幣之祝詞、今日之奉幣使ヲ其後神人御櫃持来ル時、
    御櫃之中ノサキ幣ヲ取時ノ祝詞 向イ玉ヘ向ヘ玉フ
    但サキ幣五ツ入トモ七ツハカリ取(但シ割幣五ツ要ルトモ、七ツバカリ取リ)、
    其後神人榊ヲ持来ル時、彼サキ幣ヲムスヒツクル(彼ノ割幣ヲ結ビ付クル)。
    但一本ニ一ツ、五本ニツクル(但一本ニ一ツ、五本ニ付クル)
    結ヒサマノ祝詞(結ビツ様ノ祝詞) 移リ玉ヘ移リ玉フ。   (・・・)は筆者の追記
    (注)上記に関する古文書の写真画像が、国立国会図書館のホームページで閲覧可能になったので該当箇所をリンクで示す。
      『賀茂社記録 第2冊』 p32/62 皇太神宮尊號并御内陣秘事 賀茂清茂


  図5の年代は不明であるが型式学(注)的に考えて、
 図4より後のものと考えられる。
 図4Aの御囲の広さを狭くしたために、
 御休間木の受け台が御囲の外に置かれている。
 即ち、御休間木が御囲の外に突き出ていることがわかる。
 ここにも現行の阿礼木のようなものはなく、
 御囲の中にあるものは御休間木だけである。

 図5の上方に「折」とあるのは、折櫃(おりびつ)の略であろう。
 折櫃は薄い板で作った御櫃(おひつ)のことである。
 「賀茂社記録」の御阿礼神事の中に、
 御櫃からサキ幣(割幣)を取り出す記述がある。(前文参照)
図5 岡本逸夫氏蔵 御生所古図(文献2A)

(注)型式学(けいしきがく)的研究 
    考古学における研究法の一つ。
    器物や施設をつくるとき、それまでの方式を基礎とし、それに創意工夫を加えたり、手抜きをしたり、
    あるいは外来の技法を新しく応用することにより、器物や施設に変化が生じる。
    この変化の流れを把握し、特定の時期、地域、集団の器物や施設に固有な特性を
    「型式(けいしき)」として認識する。(『角川日本史辞典』)



清足図(図4A)と図5を比較してわかることは、第一に、図5においては、図4Aの御囲前面にあった御戸がなくなっていることである。
これは、御休間木の御囲からの突出と関係していると思われる。現行に一歩近づいたと言うべきであろう。
第二に、図5には、図4Aになかった立砂がはっきりと描かれていることである。立砂が神事に不可欠となった様が窺える。




 図6に、型式学的に配列した御生所御囲の変遷を示す。




上面
御休間木の長さ
現行:四間(7.2m)





先端の榊


正面
御囲の高さ
現行:二間(3.6m)
 
  T期(1791)          U期       V期(現行:詳細 図2参照)
                
                図6 御生所御囲の変遷

御囲の変遷の原動力は、図6に示すように御囲の広さの縮小にあると推定される。      
おそらく御囲の設置における、経済的な問題、人手の問題等によるものと考えられる。
そして形も楕円から半円、正方形に変化したと見られる。
T期においては、御休間木は御囲に隠されていたと推定されるが、U期においては先端が突き出ていることがわかる。
また、U期からV期(現行)への御休間木の配置の劇的な変化の理由は不明であるが、下記のような推定も成り立つかも知れない。
 U期において榊(阿礼木)が外に露出していることに対し、上賀茂神社の誰かが祭祀上問題があると異を唱えた。
しかしながら御囲の広さの制約が依然としてあるため、U期の御休間木の天地を反転させることを思いついた。
即ち、現行の形に整形したのである。
この結果、U期の御休間木の先端の榊(阿礼木)は、現行の御囲中央の榊(阿礼木)に統合され、御囲によって隠された。
別雷神は御囲中央の榊(阿礼木)に降臨し、二本の御休間木に合流するため、機能上はT、U期と同じになる。(図2参照)
つまり祭祀上の問題は解決された。
そのため、現行の御休間木先端の榊は阿礼木ではなくなり、U期の名残となった。

T期の御休間木が寝かされた状態で置かれている理由は、
御囲が内部を窺い見ることできぬよう十分厚い青芝垣で作られていることから、御休間木全体を外部から隠すためと考えられる。
おそらく、御阿礼神事が暗闇の中で行われる秘儀であることと関連しているのであろう。
また、御休間木先端の榊は、神幸(みゆき)の方向、即ち上賀茂神社の方向を指しているものと想像される。


3 御休間木
 御休間木とは何かについて、これまでの見解では神が降臨する時の目印のようなものとされてきた。
そして阿礼木と呼ばれる榊に比べて軽視されてきたことは否めない。
しかし、賀茂清足の御囲の図を見る時、御休間木の存在が大きいことが感じられる。

(1)御休間木(おやすまぎ)の用語の解釈
  細かいことかも知れないが、「御休間木」の表記と読みは、文献1〜8により少し差違がある。
表記では、「御休間木」と「休間木」、読みでは「おやすまぎ」、「やすまぎ」、「おやまぎ」(文献5、8)がある。
本論文では、寛政三年(1791)の賀茂清足筆御囲之図に従って、表記は「御休間木」、読みは「おやすまぎ」に統一した。

まず分りやすいところから、間木(まぎ)について考えよう。
「間」とは前後を何かで区切られた間隔を指す。

 難波潟みじかき葦のふしの間も逢はでこの世をすぐしてよとや
                            百人一首第十九番 伊勢

つまり、両端を裁断された木、即ち丸太の美称であろう。

では「御休間木」の「休」とはなんであろうか。
「休」とは神の御休所(おやすみどころ)と推定され、「御休所」の「所」を「間木」に置き換えたものが「御休間木」である。
 この民俗事例として柳田国男氏の論文「柱松考」(文献14)が挙げられる。
柱松(はしらまつ)とは、七夕や盆の時に大きな柱を立てて、先端に御幣や榊をつけ、下から松明を投げて先端に点火する行事で、
盂蘭盆に精霊を招く高灯籠や迎え火、送り火と同じ機能をもつとされている。
以下は「柱松考」からの抜書きである。
「山口県熊毛郡岩田村に、諸精霊追善の為と申し、柱松と申す物を相調へ候、長さ三間乃至五間位の木の頭へ、
竹にて上戸(じょうご)の如く上を広く編みたるを付け、その中に藁などを入れ、
その中央に梵天幣(ぼんてんへい)と呼ばれる旗をたてる。
その旗には梵天聖霊御休息所などと書かれている。」 
この「御休息所」と「御休所」が同義であることが理解されるであろう。

(2)賀茂社の古伝が暗示するもの
前述の「賀茂社記録」(文献11)の中に、「御休間木」に関して謎のような次の記述がある。
 「御囲ノ柱数、六十四本此外外前ニ榊二本立梶田ト諏訪也。」
(注)上記に関する古文書の写真画像が、国立国会図書館のホームページで閲覧可能になったので該当箇所をリンクで示す。
   『賀茂社記録 第47冊』 p83/163 賀茂社本縁秘訣 賀茂清茂

さて、文中の暗号のような「梶田」と「諏訪」は何を意味しているのであろうか?
この謎解きが私の研究の端緒となった。
実は、「梶田」と「諏訪」の名は、岡本保可(やすよし)の著した延宝八年(1680)成立の
『賀茂註進雑記』第六造営の項に見られる。(文献15)
これは『賀茂社記録』の著者の一人である賀茂清茂の少し前の年代である。
文中の「外前ニ榊二本立」は明らかに「休間木」を指しているから、「梶田」と「諏訪」はそれらに対応していることがわかる。

「梶田」とは上賀茂神社の境内末社「梶田社(かじたのやしろ)」である。

 ならの小川の東岸に鎮座する小祠で、瀬織津姫(せおりつひめ)神を祀る。
旧参道の入口に祓戸神として祀られた社である。
「古より本宮における夏越祓(六月晦大祓)には
本宮へ必ず奉饌の儀がおこなわれる」という。(文献8A)
瀬織津姫神は、速河の瀬に坐して、大祓によって祓われた罪穢れを
大海原に持ち出してくれる女神である。(「六月晦大祓の祝詞」)
また、『古事記』の説く伊邪那岐(いざなぎ)命の禊祓(みそぎ)で化生した
禍津日神(まがつひのかみ)とされる。
私には、瀬見の小川で禊する玉依姫の姿が瀬織津姫に重なるように思える。
図7 ならの小川の東岸にある梶田社

 上記に関連して、下鴨神社の境内末社である井上社の「矢取り神事」がある。
井上社の祭神は、瀬織津姫命。社名は、社が井戸の上に建てられていることに由来する。
社前の池は御手洗池(みたらしのいけ)、下流の川は御手洗川または瀬見の小川と呼ばれる。
御手洗池の南庭では、五月の葵祭りに先だって斎王代が禊をするところである。
「矢取り神事」は、夏越(なごし)神事とも呼ばれ、古くは六月祓の一部として行われたものだが、
現在は八月、立秋前日の六日の夜に行われる。
法被姿の男女らが御手洗池に水しぶきを上げて飛び込み、矢に見立てた斎串(いぐし)を奪い合って、
無病息災を祈願する伝統行事である。


斎串は池の真ん中に五十本立てられる。
中央に親と呼ばれる背の高い斉串が二本立っており、
その周りを四十八本の斉串が囲っている。(HP1)
考えすぎかも知れぬが、私にはこれが御囲に見えてくる。
二本の背の高い斉串は御休間木、
背の低い四十八本の斉串はそれを円形に囲む杭である。
御休間木は二本の矢で、先端の榊が矢尻、赤松の丸太は丹塗りの軸をあらわす。
御休間木が水平に置かれているのは、川を流れ下る矢ではないだろうか?
要するにここでは、御阿礼の形が賀茂の祭祀に様々な形で
登場する可能性を指摘しておきたい。
図8 下鴨神社の境内末社 井上社
    「矢取り神事」の斎串(HP2)

最後に、神官が形代を流して行事は終わるが、その後、松明を灯して摂社の河合社(祭神は玉依姫)に参拝する。
これは行事の間、河合社の玉依姫が井戸社に来ているとも考えられ、玉依姫の丹塗矢との関連が指摘されている。(文献16)
尚、斎串は五十串とも表記されるが、この時の「五十」は数が多いという意味である。

 前述のように、「梶田」が玉依姫を表しているのが確実だとすれば、
次の「諏訪」は玉依姫と対になるのは誰かというところから求められる。
それは、賀茂の伝承から言って、賀茂建角身命以外には考えられない。しかし、一応の説明は必要である。

 「諏訪」とは上賀茂神社の境内摂社「須波(すわの)神社」の旧名である。
楼門の右手、御物忌(おものい)川を隔てて玉依姫を祀る片山御子神社(片岡社)の右手の高台に鎮座する小祠である。
当社は明治以前には「諏訪社」と呼ばれる境内末社だったが、江戸末期の国学者・伴信友がこれを式内「須波神社」に比定し、
明治十年(1877)内務省によって「須波神社」に改称されたという。(文献17)

祭神の阿須波(あすは)神は、大宮所や神社の敷地を守護する神である。
尚、祭神については当然のことながら
諏訪神社の建御名方神(たけみなかたのかみ)とする説もある。
建角身の武勇を意味する「建」の字が共通しているが、
それより重要なことはそれを奉斎する諏訪の祝(はふり)のイメージである。
諏訪の大祝(おおほうり)は諏訪大社の最高の男系神官であると共に
武将として信濃の諏訪を治めた。
まさに賀茂建角身命を思わせるところの祝である。
これこそ、賀茂清茂の「諏訪」に隠されたメッセージであろう。
図9 高台にある諏訪社(現:須波神社)


(3)御休間木の正体
 ここで、図4ABをもう一度眺めてみよう。
御囲の中には、現在の阿礼木と称する榊はない。
榊は二本の御休間木の先端にあり、各々の先端は図4Bの状態で接近している。
ならば、別雷神が降臨するのは二本の榊の先端、即ち「賀茂旧記」の「別雷神を恋ひ慕ひ哀れ思ふ」御祖のもとであろう。
つまり、榊のついた御休間木は、別雷神の長大な依代であり、その正体は御祖である。
また御休間木は神幸(みゆき)の方向、南の上賀茂神社を指し示している。
上賀茂神社の立砂や下鴨神社の本殿の配置から、東方の御休間木が玉依姫、西方の御休間木が賀茂建角身命となる。(文献13)
実は、下鴨神社の祭神は御祖以外にも下記のように様々の神名があるが、
基本的には東殿(陰神・女神)と西殿(陽神・男神)の配置は変わらない。 
表1 下鴨神社(賀茂御祖神社)の御祖以外の祭神
出典 @ AB B C
東殿(陰神) 玉依姫 玉依姫 伊賀古屋姫 五十鈴姫
西殿(陽神) 大山咋神 大己貴命 建角身命 神武天皇

出典 @「神名帳頭註」「神社覈録(かくろく)」  A「二十二社註式」「神社啓蒙」
    B「下鴨御祖皇太神宮社記」        C「鴨県纂書」「下鴨社伝」

 ところで我が国の基層をなす日輪信仰に従えば、日の昇る東が西よりも尊ばれる。
上賀茂神社の本殿と権殿(ごんでん)の並びは、本殿が東、権殿が西にある。
権殿の「権」は第二と言う意味で、権殿は本殿に支障があった時に神に移っていただく「常設の御仮殿」である。
つまり、古代の祭祀においては神託を直接受け取る巫女が上席にあることがわかる。
葵祭の下鴨神社における「社頭の儀」においても、勅使の御幣物は東殿が宮司が、西殿は権宮司が奉る。(文献6A)
そのわけは別雷神からみて玉依姫が賀茂建角身命よりも親しい関係にあることによる。
一方、天皇・皇后の並びは「天子南面」(注)に従い天皇が東、皇后が西になっており、上記とは異なっている。
これこそ、山城鴨の氏神祭祀の伝統を物語るものである。
(注)「天子南面」とは、『周易』(易経) 説卦伝に「離」の卦を解説して
    「離也者明也。…聖人南面而聽天下。嚮明而治。」
    (離なる者は明なり。…聖人南面して天下に聽き、明に嚮(むか)ひて治む。) による。

 井上光貞氏の論文「カモ県主の研究」(文献18@)に掲載された賀茂系図を見ると、
まず初めに「鴨建玉依彦命之十一世苗裔 大伊乃伎命之子」とあり、始祖は玉依彦となっている。
次に、奈良時代前後の頃になると「久治良(くじら)と淨刀自女(きよとじめ)」、「呰麻呂(あざまろ)と真吉女(まよしめ)」、
「国島(くにしま)と麻都比女(まつひめ)・継虫女(つぐむしめ)」のように
祝(はふり)と斎祝子(いつきはふりこ)の名が対になっている部分が登場する。 
ここで祝とは男性の神官である。
現在では祝は一般的には神主・禰宜(ねぎ)に従って祭祀をつかさどる下級の神職を指すが、古代では神に仕える者一般を指す。
系図に現れた「祝仕奉(はふりつかへまつる)」の祝は、賀茂社最高の神官、即ち今の宮司(神主)に相当する。
斎祝子は他にも「いむこ」「いみこ」「さいご」など様々な読み方がある。
斎祝子は、忌子(いご、いむこ)につながるとされる女性の神官であるが、
その地位は現在の忌子(巫女)よりもはるかに高かったと予想される。
従って、斎祝子と忌子を同列に扱うことはできない。
ただ、斎祝子の記事は当主名の横の説明のところに小さく書かれているので、祝の補佐的な役割であったかもしれない。

 ここで注意すべきことは、この部分の系図は神社の系図であって、
律令時代以前の山城鴨の統治体制そのものを示すものではないということである。
しかしながら、賀茂系図から導かれる井上光貞氏の次の推定は、有力な資料が得られない現状では肯定せざるを得ないだろう。
「カモ社の行政や経済は男性神官たる祝の手腕にまつほかなかったが、
カモ社の宗教的儀式においては、女性神官がその中心であった。
・・・この背後には、国造や県主などの地方族長の王権が単に権力的な支配ではなくて、
同時に又、祭祀の統一という面をもっていたことと、それは男性の族長一人に体現されていたのではなくて
行政的男君と宗教的女君との二重王権であったという事実がひそんでいるだろう。」(文献18A)
おそらく、これが賀茂建角身命と玉依姫の実像ではないだろうか。
即ち、「梶田は宗教的女君、諏訪は行政的男君を意味する山城鴨の統治体制を象徴する祖神の姿である」といえる。

 ここで最後の疑問が残る。
それは、「御休間木は御祖也」とはっきりと言わないで、なぜ梶田と諏訪と言ったのであろうか? 
せめて「片岡」と「久我」と言えなかったのだろうか?
(注)片山御子神社(片岡社)は、上賀茂神社の第一摂社にして祭神は玉依姫。
   久我神社(氏神社)は、上賀茂神社の第八摂社にして祭神は賀茂建角身命。

梶田と諏訪は隠喩である。隠さなければならない事情があったのである。
井上光貞氏の説(文献18A)によると、賀茂祭の盛大に手を焼いた律令政府によって、
下鴨神社は天平の末年から天平勝宝二年(750)にいたる間に上賀茂神社から分社させられたとされる。
この時に、公的に上賀茂神社本宮の氏神は下鴨神社の御祖神として移転したのではないだろうか。
そして私的には、片岡社と氏神社に摂社化された。
このことが御休間木の祭神の姿を暗示的なものにしている最大の理由と考えられる。
『賀茂注進雑記』に「当皇大神宮の御事は、書々説々おほしといへとも、昔よりつかうまつる氏の宮人だに心府に秘し来るなれば、
外より本地とて決しあらはせる社記もなきにこそと見えて候歟。
吉田の某諸社の神縁を注記せし中にも、当社の御事は不詳と載たり。」とある。
尚、この問題については論文「下鴨神社の上賀茂神社からの分社」(文献19)を参照願いたい。

(4)神話とシンボル
 これまで述べたように、御囲は「賀茂旧記」の別雷神降臨の依代としての長大なシンボルであった。
では、他にそのような類例はあるのだろうか。
葵祭において、別雷神を本宮に迎えるにあたり、
本殿の内陣中央に神の御座所(御寝所)である御張台(みちょうだい)が調えられる。(図10)
その御張台の四本の柱に、御三器(ごさんき)と呼ばれるものが掛けられる。
御三器とは、鏡、枕、角を縦に吊るしたものである。
この意味する所は、鏡は天照大御神の御魂とあるように玉依姫を表すもので、
枕は丹塗矢との神婚を表している。そして角は言うまでもなく賀茂建角身命である。
つまり、御三器は「賀茂旧記」の別雷神誕生のシンボルであることがわかる。


図10 御張台の四本の柱に飾られた御三器(鏡、枕、角)(文献2B)
     正面左手にあるのは勧請の小麻(かんじょうのこぬさ)、または阿礼棒(あれぼう)と呼ばれる神の依代で、
     矢の形を象徴したものとも言われている。(文献2C)

断わっておくが、御張台に角や鏡を懸けるのは珍しいことではない。
『神道大辞典』によると、寝殿の主人が使用する御張台の前柱左右には角を懸け、後柱左右には鏡を懸けるとある。
この場合の角と鏡は邪気払いのためであろう。
ただ柱に枕を懸ける例は見当たらない。
御三器の一つ一つの品物は御張台に適合したものではあるが、それが組としてあるところに「賀茂旧記」の神話表現が認められる。
このように神話世界は、時としてシンボルとして体現される。


4 まとめ
1御囲の神事は、神山山頂の磐座祭祀が源流である。
 御阿礼は、天神たる別雷神とそれを奉斎する氏神(地祇)の重層的祭祀である。
 御囲が御阿礼神事の時のみの仮設物である理由は、神は動くとする磐座祭祀の影響によるものと想像される。

2現時点で最古と思われる寛政三年(1791)の賀茂清足筆御囲之図は現在の御囲と異なり
 a現行の阿礼木と呼ばれる中央の榊がない。
 b御休間木は外部から一切見えないよう囲われている。
 c二本の御休間木はほぼ水平に横たえられ、前部は受け木にて少し持ち上げられ後部は地面に置かれている。
 d御休間木は上から見てほぼ平行に近い形のハの字に置かれ
、狭い方(前部)は受け木にて支持され、広い方(後部)は地面に置かれている。
  原初の御阿礼神事の検討は、現行図ではなく賀茂清足筆御囲之図によるべきである。

3当初の御囲の役目は、御休間木の全体を外部から完全に隠すことにあったと想像される。
 御囲の変遷は、御休間木が御囲の外にだんだんと露出するようになっていることから
「御囲の面積の縮小」に起因するものと考えられる。

4清足の御囲にあっては現行の阿礼木がないことから、二本の御休間木の先に付けられた榊が阿礼木となる。
 そして御休間木は、「賀茂旧記」の別雷神を「恋ひ慕ひ哀れ思ふ」御祖であると想像される。
 つまり、榊のついた二本の御休間木は、別雷神の長大な依代であり、その正体は御祖である。
 上賀茂神社の立砂や下鴨神社の本殿の配置から、東方の御休間木が玉依姫、西方の御休間木が賀茂建角身命となる。

5江戸中期の「賀茂社記録」に「御囲外前ニ榊二本立。梶田ト諏訪也。」の謎めいた記述があるが、
 延宝八年(1860)成立の『賀茂註進雑記』に示されるごとく、
 梶田は上賀茂神社境内の梶田社、諏訪は同じ境内の須波神社を指すものである。
 この意味するところは、梶田は宗教的女君、諏訪は行政的男君であり、
山城鴨の祭政二重王権的統治体制を象徴する氏神(祖神)である。

6賀茂祭の盛大に手を焼いた律令政府によって、
 下鴨神社は天平の末年から天平勝宝二年(750)にいたる間に上賀茂神社から分社させられた。
 この時に、公的に上賀茂神社本宮の氏神は下鴨神社の御祖神として移転し、私的には、片岡社と氏神社に摂社化された。
 このことが休間木の祭神の姿を暗示的なものにしている最大の理由と考えられる。

7御囲や御張台の御三器は、いずれも「賀茂旧記」の神話世界を体現したシンボルである。


関連論文
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下鴨神社の上賀茂神社からの分社<引き裂かれた神々>
『河海抄』から読み解く 源氏物語の「みあれ詣」


参考文献
1「御阿礼神事」@p8 Ap12〜14 座田司氏(さいだもりうじ) (『神道史研究』第8巻2号 p2〜30 1960 所収)
2「賀茂社御阿礼祭の構造」@p124 Ap97 Bp107 Cp109 坂本和子 (『国学院大学大学院紀要』第3号 p89〜124 1971 所収)
3「御阿礼考」真弓常忠(『皇學館大學紀要』第14号 p21〜45 1976 所収)
4「祭祀の場所と構造 御阿礼神事における祭員の奉仕を中心にして」@p272 Ap270 熊澤栄二
 (『日本建築学会計画系論文集』第521号 1999 所収)
  ・「賀茂本宮八社古来相承神号秘訣」賀茂清茂ら 国学院大学 座田家旧蔵書 年代未詳
  ・「神事次第覚書」国学院大学 座田家旧蔵書 万治三年(1660)
5『日本古代の呪祷と説話 土橋寛論文集下』割幣p128〜129 土橋寛 塙(はなわ)書房 1989
6『京都の三大祭』@p67〜70 p93〜95 Ap107 所功(ところいさお) 角川書店 1996
7『古代の神社と祭り』p152〜182 p106 三宅和朗(かずお)吉川弘文舘 2001
8『上賀茂神社』p65〜68 @p65 Ap57 建内光儀(たけうちみつよし)学生社 2003
9「上賀茂神社嘉元年中行事 御阿礼の祭祀構造の諸問題」 江頭務 (『イワクラ学会会報』第25号 2012 所収)
10「諸神事註秘抄」賀茂清足 賀茂別雷神社蔵 寛保二年(1742) 
  (『京都産業大学日本文化研究所紀要』第15号 p199 2010 山本宗尚)
11『賀茂社関係古伝集成』大間茂 所功(ところいさお) (『京都産業大学日本文化研究所紀要』第6号 別冊付録 p42 p343 2001)
   「賀茂社記録」賀茂清茂ら は、国会図書館にその写本がある。
12『葵祭の始原の祭り 御生神事 御蔭祭を探る』 口絵 p62 p84  新木直人 ナカニシヤ出版 2008
13「上賀茂神社細殿 立砂の謎」江頭務 (『イワクラ学会会報』第23号 2011 所収)
14『定本柳田国男集』第11巻 柱松考p4 柳田国男 筑摩書房 1963
15『賀茂註進雑記』岡本保可ら編 延宝八年(1680) (『続々群書類従』第一神祗部 所収)
16『日本神話研究』 p233〜251肥後和男 教育出版センター 1985
17『式内社調査報告』第1巻 p210〜215 皇學館大學出版部 1779 
18「カモ県主の研究」 井上光貞 (『日本古代史論集』@p64〜67 Ap76〜82 吉川弘文館 1962 所収)
19「下鴨神社の上賀茂神社からの分社 引き裂かれた神々」 江頭務 (『イワクラ学会会報』第26号 2012 所収)


ホームページ
HP1「矢取り神事」http://sango-kc.blog.eonet.jp/eo/2010/08/post-150c.html
HP2「矢取り神事」http://sango-kc.blog.eonet.jp/eo/2009/08/post-9328.html


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