研究論文電子版 2012年4月28日掲載
イワクラ(磐座)学会会報31号掲載     
       『河海抄』から読み解く 
      源氏物語の「みあれ詣」


はじめに
 『源氏物語』藤裏葉に登場する「みあれ詣」に、
紫の上が何時参詣したかについては解釈が三つに分かれている。
本稿は、「みあれ詣」の解釈の現況を紹介した後、『河海抄』の注釈を考証したものである。
尚、御生神事の詳細については
「下鴨神社 平安時代の御生神事 御蔭山の磐座祭祀」(文献1)を参照願いたい。

1 「みあれ詣」の原文と口語訳の例文
 最初に、『源氏物語』第三十三帖 藤裏葉の「みあれ詣」の原文と口語訳の例文を下記に示す。
原文 山岸徳平『日本古典文学大系16 源氏物語三』p195~196岩波書店 1964
 対のうへ、みあれに詣で給ふとて、例の、御かたがた、いざなひきこえ給へど、
 なかなか、さしもひき続きて、こころやましきをおぼして、たれもたれも、
 とまり給ひて、ことごとしきほどにもあらず、御車廿ばかりして、御前なども、
 くだくだしき人数、多くもあらず、事そぎたるしも、けはひ殊なり。
 祭の日のあか月に、まうで給ひて、かへさには、もの御覧ずべき御桟敷におはします。
 御かたがたの女房おのおの、くるま、ひきつづきて、御前、ところどころ占めたるほど、いかめしう、
 「かれはそれ」と、遠目よりおどろおどろしき御勢なり。

口語訳の例文 上野榮子『源氏物語四』 p308 日本経済新聞社 2008
 対の上(紫上)は下賀茂神社の御生に御詣りになるというので、
何時ものように六條院の御方々をお誘いになったが、
同行しては却ってお供のようで面白くないとお思いになって、
明石上、花散里など、どなたもお取り止めになったので、
紫上御一行(源氏・紫上・明石姫)は、大袈裟な行列ではなく、御車二十台ほどで、
御前駆などもごたごたと煩わしい大勢の人数ではなく、質素になさったが、却ってすぐれて見えた。
また、四月の酉の日の賀茂の祭りの当日には、早朝に(注1)下鴨と上賀茂(注2)に御参詣になり、
お帰りには、祭りの勅使の行列を御覧になるために、御桟敷にお越しになった。
御方々(源氏・紫上・明石姫)の女房たちが、それぞれ車を連ねて、
この桟敷の御前にところどころ場を占めた様子は堂々としたもので、
あれは紫上の一行であると遠くから見てもわかる豪勢さである。
  (注1)原著は「相当に」とあるが、「早朝に」の誤記と思われる。
  (注2)原著は「上鴨」とあるが、「上賀茂」に改めた。

2 「みあれ詣」の解釈における各説
 「みあれ詣」と称して、紫の上が具体的に何時、どこに赴いたかについては、
概略的には表1に示すように三つの説がある。
ここでは、便宜上、祭の行われる日を取って、午説、申説、酉説と呼ぼう。
尚、上賀茂神社(賀茂別雷神社)を上社、下鴨神社(賀茂御祖神社)を下社と略称する。

            表1『源氏物語』「みあれ詣」の解釈における各説 
  各説の名称  祭の日と内容   主たる推定場所  
 上社  下社
 午説  午の日 御生神事   切芝
  申説  申の日 みあれ日(国祭)   馬場   馬場
   酉説 酉の日 賀茂祭(勅祭)  下社⇒上社


<午説>
「みあれ」は上社だけでなく、下社にもある。
一般的に上社は御阿礼神事、下社は御生神事または御形神事と表記される場合が多い。
別雷神を御迎えする祭のため、下社よりも上社の御阿礼神事がよく知られている。
しかしながら、上社の御阿礼神事は夜に御囲・神館跡で行われる秘儀で、
紫の上一行の参詣は極めて考えにくい。
このため、作品としてはあるが、論考としてはない。
尚、上社の御阿礼神事の詳細については、
「上賀茂神社嘉元年中行事 御阿礼の祭祀構造の諸問題」(文献2)を参照願いたい。
御蔭祭は、比叡山山麓の御蔭山より神霊を本宮へ迎える神事である。
早朝下社本宮を出発した行粧は、昼間に御蔭神社に達し、神霊を奉じて夕刻本宮に帰着。
途中、糺(ただす)の森に於ける切芝神事、東游(あづまあそび)は優雅な王朝の祭典として知られる。
池田亀鑑氏の『源氏物語事典』は、これに関して次のように述べている。
「源氏物語の用例は御蔭神社(京都市左京区、御蔭山鎮座、玉依姫が別雷神を生んだ地と伝えられる)に
擬した下賀茂の神館を指すようである。」
また、小山利彦氏は『源氏物語 宮廷行事の展開』にて
「紫上の参詣したのは下鴨神社の御蔭祭における切芝之儀」であるとしている。

<研究文献>
・池田亀鑑 『源氏物語事典』 p476 東京堂出版 1989
・小山利彦 『源氏物語 宮廷行事の展開』 p40 おうふう 2005

<翻訳書(作品)>
 [下社の御生神事]
・山岸徳平 『日本古典文学大系16 源氏物語三』 岩波書店 1964
  p446補注246「紫上は、御生の祭を見物に、午の日の午後、下鴨に行った」
・上野榮子 『源氏物語四』 日本経済新聞社 2008
  p308 本文「対の上は下賀茂神社の御生に御詣りなる・・・」
・池田亀鑑 『日本古典全書 源氏物語三』 朝日新聞社 1597
  p348頭注15-2「紫上は下賀茂(玉依姫が別雷神を生まれた所といふ御生山を移す)へ参詣・・・」とある。
  これは、くわしくは下社の神館を指すものである。
・吉沢義則 『対校源氏物語新釈(三巻)』 国書刊行会 1971 
  p258頭注「玉依姫が別雷神を生み給うた所で下賀茂である」
・吉沢義則 加藤順三 宮田和一郎 島田退蔵 『古典日本文学5 源氏物語中』 筑摩書房 1976
  p164 注11「みあれは別雷の神の御神体を八瀬の村の方からお迎えして来た時の祭」
 [上社の御阿礼神事]
・阿部秋生(あきお) 秋山虔(けん) 今井源衛(げんえ)
 『日本古典文学全集14 源氏物語三』 小学館  1995
  p437頭注4「賀茂上社の祭神、賀茂別雷神が天上より再来するのを迎える祭り。旧暦四月の午の日」
・瀬戸内寂聴 『源氏物語五』 講談社  1997
  p256本文「上賀茂神社の祭神の御降臨を迎えるお祭に参詣なさる・・・」
 [上社か下社か不明のもの]
・玉川琢彌 『源氏物語評釈 第六巻』 角川書店 1966
  p434注2「四月中の午の日」とあるが、上社にいったのか、下社にいったのか不明。
・林望(のぞむ) 『謹訳源氏物語五』 祥伝社 1911
  p355「四月中の午の日に行なわれる御阿礼の神事を見物」とあるが、
  上社にいったのか、下社にいったのか不明。


<申説>
申の日は、元々は山城の国司が検察する国祭(くにまつり)で、
「みあれの日」とも呼ばれ神社の馬場にて「あれ木」が立てられた。
この日は、摂関家の賀茂詣があり、その行列も見ものであった。
左大臣藤原頼長の日記『台記別記』久寿二年(1155)四月二十日丙申の条に
「(上社)馬場立榊付鈴木綿庶人或鳴之」とある。
あれ木には綱と鈴がつけられ、綱を引いて鈴を鳴らし願い事をした。
「かもの祭の中の日、みあれひくとて」と題した源順(みなもとのしたごう)の歌が残されている。(文献3①)
「賀茂の祭の中の日」とは、申の日のことである。
 われひかむみあれにつけていのること中中すずもまつにこえけり  源順
また、有名な西行の歌もある。(文献3②)
 おもふことみあれのしめにひくすずのかなはずはよもならじとぞおもふ  西行
一般に「みあれ引き」は上社の行事と思われているが、
下社でも行われていたことが前書のついた次の歌から想像される。(文献4)
 賀茂の下御社にあふひつけたる人人まゐりたる所
 神代よりいかに契りてみあれひくけふにあふひをかざしそめけん  藤原俊成

賀茂祭において上社と下社は対応関係にあり、
後に述べるように上社で行われる神事の多くが何らかの形で下社にも反映されている。

そのため、『延喜式』巻十五内蔵寮式賀茂祭条にある
「阿礼料五色帛各六疋 下社二疋 上社四疋」は、下社の榊に取り付ける五色の帛の可能性が高い。

江戸時代の博覧強記の国学者として知られる伴信友は『瀬見小河』で
「紫の上は、中申日のみあれに詣て、翌る中酉日に公家さまよりの御使を見むよしなり」と述べている。
上社の宮司であった座田司氏(さいだもりうじ)氏の論文「御阿礼神事」も中申日としている。
また、土橋寛氏は『日本古代の呪祷と説話』において、次のように述べている。
「紫の上のみあれ参拝は、当然四月中申の国祭の日のことであり、
翌日の祭の日(賀茂祭の日)は、朝早く独りで参拝した後、
斎王・勅使などの行列を見物するため御桟敷に陣取ったのである。」
尚、作品の数としては、申説は少数派である。

<研究文献>
・伴信友 『瀬見小河』(『神道体系 神社編八 賀茂』 p73 1984)
・座田司氏(さいだもりうじ) 「御阿礼神事」(『神道史研究』第8巻2号  p11 1960)
・土橋寛 『日本古代の呪祷と説話』 p103 塙(はなわ)書房 1989

<翻訳書(作品)>
・谷崎潤一郎 『源氏物語 巻十一』 中央公論社 1939
  p144「みあれ」を「御形」と表記して、頭注に賀茂神社にて葵祭の前日に行われる神事とある。
  葵祭の前日とは申の日である。


<酉説>
新間一美氏は論文「源氏物語葵の巻の<あふひ>について」において、要旨次のように述べている。
「信友も土橋氏も紫上が申の日に参詣したとするが、そうではないのである。・・・
もし申の日に参詣しているのならば、(酉の日の参詣に加えて)二度参詣していることになり、
不自然と言わざるを得ない。・・・
紫上は申の日ではなく、酉の日の早朝に下社上社の順で上下賀茂社を拝したと考えられる。」

作品として、酉説を明確に主張したものに『源氏物語注釈 六』以下の記述がある。
 「御阿礼」は、京都市北区上賀茂神社で陰暦四月中の午の日(葵祭の三日前)に、
 賀茂の祭神を北山に迎え、賀茂社へと導く祭。
 ただし、紫の上は午の日に参詣してはいない。
 はじめに、賀茂祭の一連の行事を総称的に「対の上、御阿礼に参うで給ふとて」と述べたもの。
 具体的には、後文に「祭の日の暁に参うで給ひて」とあるので、
 紫の上は、実際には酉の日(葵祭当日)の暁に参詣している。
この説は、『河海抄』の解釈とは異なっているが有力な説である。

賀茂祭は「みあれ」をはじまりとすることから、
午の日から酉の日に至る賀茂祭の一連の行事を「みあれ」と総称する場合がある。
事例として、鎌倉時代の公朝(きんあさ)の歌が挙げられる。(文献3③)
 としごとにみるもめづらしみあれびのあふひかけたるかざり車は  権僧正公朝
葵かけたる飾り車とは、賀茂祭のきらびやかな牛車のことである。
このことから、酉の日も「みあれ日」と呼ばれていたことがわかる。
午・申・酉の日の「みあれ日」は、これまでの研究から次のようにおおまかに分類される。
 午:別雷神が御生まれになる日(みあれ神事)
 申:別雷神の御生まれを祝い、祈願をする日(みあれ引き)
 酉:別雷神への勅使奉幣(賀茂祭)

<研究文献>
・新間一美 「源氏物語葵の巻の<あふひ>について」 甲南大学紀要文学編103号 p24 p25 1996 

<翻訳書(作品)>
・山崎良幸 和田明美 梅野きみ子 熊谷由美子 山崎和子 堀尾香代子
 『源氏物語注釈 六』 p427注釈 風間書房 2006
・河添房江編 『源氏物語の鑑賞と基礎知識 梅枝・藤裏葉』 至文堂 2003
  p141鑑賞欄「紫の上は賀茂社に参詣(みあれ詣)し、帰途に葵祭を見物」
・中田武司 『源氏物語』 専修大学出版局 1987
  p784「紫の上は、御形(みあれ)のへご参詣なさる・・・
  賀茂のお祭の日の明け方に参詣(みあれ詣)なさって、
  その帰り道には、勅使の行列をご覧になるためお桟敷にお着きになられた」
・柳井滋(やないしげし) 室伏(むろふし)信助 大朝(おおあさ)雄二 鈴木日出男 藤井貞和 
 今西祐一郎(ゆういちろう) 『新日本古典文学大系21 源氏物語三』 岩波書店 1993
  p187「祭の日のあか月に詣で(みあれ詣)たまひて、かへさには、物御覧ずべき御桟敷におはします」
・石田穣二 清水好子
 『源氏物語 四』新潮日本古典集成 新潮社 1992
  p293頭注「紫の上、御形(みあれ)詣での帰り、賀茂の祭を見物」

[賀茂神社の異称説]
これまでに述べた午説・申説・酉説とは別に、みあれは賀茂社の異称とする説がある。
これに従えば、賀茂祭と別の時期に賀茂社に詣でることも「みあれ詣」に含まれるが、
そのような事例は今のところ史料に見当たらない。
つまり、下記に示す文献の
「みあれは賀茂神社の異称」とする見方は大多数の国語辞典にも採用されているが、
「みあれ詣」の解釈が分かれている現時点ではいささかフライング気味で定説とは言い難い。


・柳井滋『新日本古典文学大系21 源氏物語三』 岩波書店 1993
  p187下注24「みあれは賀茂神社の異称」とある。
・河添房江編『源氏物語の鑑賞と基礎知識 梅枝・藤裏葉』至文堂 2003
  p141語句解釈欄「御阿礼=賀茂別雷神社(上賀茂神社)の別称」とある。

以下の国語辞典には、『源氏物語』のみあれ詣の引用と共に「みあれは賀茂神社の異称」とある。
 『日本国語大辞典』第12巻 p606 小学館 2001
 『大辞典』第23巻 p595 平凡社 1994
 『日本大辞典 改修言泉』第5巻 p4415 大倉書店 1930
 『広辞苑』p2678 岩波書店 2008
 『大辞林』p2426 三省堂 2006


3 『河海抄』のみあれ詣の解説
 最初に述べなければならないことは、なぜここで『河海抄』を取上げるのかということである。
紫の上が「みあれ詣」と称していつどこに行ったかを知るための最良の方法は、紫式部に聞くことである。
しかし、それがかなわぬとなれば、紫式部にできるだけ近い人に聞くべきであろう。
私にとって、それが『源氏物語』の「みあれ」について述べた最古の注釈書である『河海抄』である。
『河海抄』は、事典方式となっており、項目の下に解説がある。
まずは、本文を引用して全体の解釈をした後に、必要な項目を検討してゆこう。

『河海抄』巻第十二 1360年代初頭 四辻善成(文献5)
 <たいのうへ(紫)みあれにまうて給ふ>
  賀茂祭前日於垂跡石上有神事、号御形(ミアレ)、
  御阿禮者御生(ミムマレ)也(見古語拾遺)。
  日本紀云、神聖生其中者或御禊(ミアレ)。
  祭の前の一日を御禊日といふ也、
  御生所は神館にありと云々、祭時御旅所也。

                    (句読点、段落は筆者による)
筆者訳
『古語拾遺』には、賀茂祭の前の日に「垂跡石」と呼ばれる石の上で神事が有り、
これを御形(みあれ)と称すとある。
また、みあれとは神が御生まれになることとある。
『日本書紀』には、神が御生神事や禊(みそぎ)で御生まれになったことが書かれている。
賀茂祭の前の一日をみあれの日と呼ぶ。
御生所は神館にありなどと言われる。祭の時の御旅所である。

(注1)「賀茂祭前日於垂跡石上有神事」の「前日」は賀茂祭の一日前ではなくて、
    ある程度幅をもった過去と考えられる。
    用例として、上覚(1147~1226)の著した歌学書である『和歌色葉』(文献6)に
    「むかしよりけふのみあれにあふひ草かけてぞ頼む神のちかひを
     けふのみあれとは祭のまへの日、大明神前の山のうへの旅所に御するをいふとぞ、
     賀茂の案内者申ける。なほなほ尋ぬべし。
     又みあれとは御所生と書たるとかや。若し生れたまひける日にや。」とある。
     文中の「祭のまへの日」の「祭」は酉の日の賀茂祭、
    「まへの日」は上賀茂神社の御阿礼神事が行われる午の日のことである。
    また「前の山のうへ」とは、上賀茂神社の北にある神山(こうやま)の山頂のことである。(図6参照)
    「みあれとは御所生」は、「みあれとは御生」の書き誤りと思われる。
(注2)「御形」は、神が形(姿)をあらわすことで(ミアラワレ)の意。御生(ミアレ)。
(注3)「御阿禮者御生(ミムマレ)也」の「御阿禮」の御は尊敬語を形成する接頭辞、
    阿と禮は変体仮名「あ」と「れ」の元となった漢字で、「あれ」は「生」の古語読みで現れること。
    「御生(ミムマレ)」は、「御生まれ(ミウマレ)」の意。
    即ち「みあれとは神が御生まれになること」となる。
(注4)(見古語拾遺)とあるが、『古語拾遺』にはかかる記述は見当たらない。
(注5)「神聖生其中者或御禊(ミアレ)」の、「聖生」は「御生(おうまれ、みあれ)」、
    「其中(そのなか)」は「御生神事の中で」、「者」は「事(こと)」と解釈した。
    「御禊(ごけい)」は、一般には、賀茂祭の前の午の日に、
    斎王が穢(けがれ)を祓うために鴨川に向かい、禊(みそぎ)をすることである。
    『源氏物語』葵の巻の車争いの場面は、この斎王御禊が舞台となっている。
    しかしながら、本文では「御禊(ミアレ)」とあり、御禊の説明としてミアレとあることから、
    文脈から「神が禊(みそぎ)で生まれた」と解すべきであろう。
    これは、伊弉諾尊のあわき原における禊による神産みのイメージと思われる。
    尚、『日本書紀(日本紀)』には御生神事を思わせる記述はない。
(注6)「祭の前の一日を御禊日といふ也」の「祭の前の一日」とは、
    前述のように賀茂祭の一日前ではなくある程度幅をもった過去のことで、
    この場合は斎王御禊の行われる午の日と考えられる。この日は御生神事が行われる日である。
    尚、「午の日のみあれ」は「申の日のみあれ」と混同されやすいが、
    申の日は別雷神が生まれた日ではない。
    土橋寛氏は『日本古代の呪祷と説話』のなかで次のように述べている。(文献7)
    四月中の申の日の国祭を「ミアレ日」というのは、別雷神が生まれた日だからでもなければ、
    示現・降臨する日だからでもなく、国祭の祭場に立てられた「御阿礼木」に基づく。
    この見解はすでに昭和二年(1927)に刊行された栗田寛の
    『神祇志料』巻六、山城国愛宕部「賀茂別雷神社」の項にも示されており、
    「凡賀茂祭、四月中申酉日を用ふ。申日これを国祭といひ、又御阿礼日とも云ふ。
    此祭に御阿礼木立つることあるを以て也」とある。
(注7)本文に引用のものは『国文注釈全書 河海抄』(文献5)であるが、
    原典の写本には様々なルビがふってあり参考になる。
    『河海抄』の原典写本画像の比較検討を、末尾に付録として添付しておいたので参照願いたい。

『河海抄』は室町時代初期のものであるが、続いて、文明四年(1472)には『花鳥余情』が成立する。
『花鳥余情』は、その序文に『河海抄』の跡を巡り、残るをひろひ、あやまりをあらたむるとあるように、
『河海抄』の増補改訂版というべきもので、両書を合わせ読むことにより深い知見を得ることができる。

『花鳥余情(かちょうよせい)』第十八 文明四年(1472) 一条兼良(文献5)
 <たいのうへみあれにまうて給とて>
  紫の上酉の日のあかつきにまうて給ふ也、
  御あれは玉依姫の別雷神をうみ給し所をいふにや、さて御生ともかく。
  すなはちかたちをあらはし給へる故に御形ともかけり。
  神館はたヽすと御おやとのあひたおきみちといふ所にありといへり。

                         (句読点、段落は筆者による)
筆者注釈
紫の上は酉の日の暁に「みあれ詣」にでかけられた。
みあれは別雷神が御生まれになることで、そのため御生とも書く。
即ち、形を現し給へる故に御形とも書く。
神館は糺の森と賀茂御祖神社との間の興路(おきみち)という所にあると言われる。

(注1)「紫の上酉の日のあかつきにまうで給ふ也」は、『花鳥余情』が酉説であることを示している。
   そして、詣でた所は興路の神館となる。
   しかしこれは結果的に『河海抄』の解釈と異なっており、
   『河海抄』の誤りを改めたというよりはおそらく一条兼良の錯覚であろう。
(注2)「御あれは玉依姫の別雷神をうみ給し所をいふにや」は、
   「御生」を説明する文としては不適切なので、
   「みあれは別雷神が御生まれになること」と踏み込んで意訳した。
   みあれは場所を指すものでないことは明らかである。

『河海抄』『花鳥余情』の記述から判明することは、以下の事柄である。
 ①「御生詣」と興路(おきみち)の神館との関連は強い。
 ②御生所は神館にある。
 ③御生所は御旅所である。
 ④垂跡石と呼ばれる石の上で御形(みあれ)の神事がある。
  (注)後に明らかになるように、上記②③の御生所は下社の切芝、
     ④の垂跡石は御蔭山の麓にある磐座を指す。

さてここで、『河海抄』『花鳥余情』に共通して登場する神館(こうだち、かんだち)とは何で
あろうか。まずは、ここからはじめよう。

<神館>
『源氏物語』では、「対のうへ、みあれに詣で給ふ」とあることから、
紫の上(対の上)が単に御生神事の行粧を見物に行ったのではなく、
祭祀の場にお参りに行ったと考えられる。
従って『河海抄』『花鳥余情』は、そのことを注釈しているのであるから、
『源氏物語辞典』(文献8)のように、
紫の上が御蔭神社に擬した興路の神館に詣でたとする解釈も当然うまれる。
神館については、新木直人氏の論文「鴨社神館の所在」(文献9)がある。
鴨社神館御所は、『太政官符』寛仁二年(1018)11月25日条が初見である。(文献9①、10)
『源氏物語』が完成したのは1010年頃とされているから、これ以前に神館があったかどうかは不明である。
興路の神館の位置は、図1に示す①の黄色のエリアで、河合神社横の下鴨本通のあたりにあった。



図1 鴨社神館御所の所在位置(文献9②)
   ①神館御所旧跡(黄色エリア) ②解除御所旧跡 ③古切芝旧跡(赤色エリア)
   ④鴨社公文所旧跡、馬場殿旧跡 ⑤鴨社斎院御所旧跡 ⑥古馬場(茶色の道)
   ⑦鴨社神宮寺旧跡 ⑧鴨社西塔旧跡

文献9③には、神館の殿舎を示す資料として『建治元年(1275)四月二十六日、
御参篭御幸之時御所差図』との識語のある『鴨社神館御所絵図』が掲載されており、以下の説明がある。
尚、本稿に転載した図2は、新木氏が作成された『鴨社神館御所絵図』の解説図である。
「御所内の東向きの向拝のある殿舎は板塀と桧垣に囲われ
『御塗篭(五間×六間)。方庇(三間×五間)。下北面(六間×四間)。宿所(三間×四間)。板屋(三間×二間)。
御馬御輿』の棟のほか名称は付されてはいないが
御在所とみられるかなり大きな主要棟(四間×七間)などがあり、
毬の庭二面、弓庭一面と長期滞在されるために必要な設備をととのえた宮域を示している。
御所の東側には、河合社社域西側を元とする馬場が所在した。」(文献9④)

文中の御輿(みこし)は、神ではなく貴人の輿(こし)であろう。
つまり、貴人訪問時の輿の置き場と思われる。
図2の左端下の丸いものは弓の的である。


図2『鴨社神館御所絵図』 建治元年(1275)四月二十六日、御参篭御幸之時御所差図(文献9③)

ここで神館の使用目的を考えると次のようになる。
 ①貴人の参篭(さんろう)のための宿泊
 ②貴人の下社参詣のための休息所
  賀茂祭の時に、斎王が神事用装束に着替えるため等に利用。
 ③野外で行われる神事(切芝・馬場・蹴鞠等)の待機所
  弓庭は、騎射神事のためにあると思われる。
 ④御馬を留めておく所
  御生神事は神馬が核となる。図2には「御馬」の棟がみられる。
  神館に住まいする御馬とは、神馬のことではないだろうか?
  それはともかく、神館と馬場は接しており、馬との密接な関係は明らかだろう。
  上社では、馬場殿が神館と呼ばれたこともある。(文献9⑤)

ここには祭祀施設のようなものは見当たらないので、
紫の上一行が詣でたところは神館ではないことがわかる。
では、どこであろうか?

<御生所は神館にあり>
図1には神館に関連する場所として、古切芝・古馬場の位置が示されているが、
③古切芝(赤色のエリア)、⑥古馬場(茶色の道)の位置は、現在の切芝、馬場とは異なっている。
また、文献9④には次のような記述がある。
「御所の東側には、河合社社域西側を元とする馬場が所在した。
 馬場末には、御生神事の行なわれる切芝が所在する。」
文中「御生神事の行なわれる切芝」は、注目すべきである。
つまり、切芝神事は御生神事の一環であり、切芝を御生所と称しても何の不思議もない。
伴信友の『瀬見小河』によれば、上社においても「御あれ所の壇」と称する御旅所があった。(文献11①)
従って広義には、御生所は御蔭山の麓の磐座と神館の切芝を指すことがわかる。
平安時代、切芝は糺(ただす)の森の中心にあったとされる。
当時の森は広大で、現在(12万4千平方メートル)の40倍もあった。
切芝(きりしば)は、古代における森の中の斎場(ゆにわ)のことである。
芝とは、山野にはえる小さな雑木で、たきぎや垣にしたりするものである。
このことから、切芝とは、芝を切ってこしらえた垣でもって囲われた清浄地であると考えられる。
切芝は社殿のできる以前から糺の森の斎場であり、
現在の御祖の社殿は切芝の横に建てられたのである。
さらにその後、切芝の横に神館が建てられたと思われる。
そして糺の神は元々糺の森の地主神であったが、後に下社の祭神に包摂されるに至ったと考えられる。

神館・古切芝・古馬場の一体感を示すものとして、新木氏の興味深い一文がある。(文献12①)
「もともと切芝は、かつての神館御所への御幸道である古馬場にあった。
当時は、馬場が参道であり、参道が馬場であった。
古切芝は古代より永正十四年(1517)4月まで用いられた。
現在の切芝は、元禄七年(1694)に葵祭の行粧が再興された折に、
表参道馬場が造成され、その中ほどに設けられたものである。
切芝が七不思議に数えられているのは、
切芝そのものが不思議というのではなく、切芝の場所のことであろう。
古切芝といい、新切芝といい、糺の森の中心に位置していることが不思議なのである。」


図3 大木のある古切芝の推定地

古切芝は、神館の葵の群生地、古馬場に面するところにあった。(文献12①)
古馬場は、奈良時代から平安時代に用いられた。(文献12②)
ここで、図1を再び眺めると、神館のエリア①の右上の角の部分が、古切芝③であることがわかる。
つまり、古切芝は神館の管理域である斎庭と見なすことができる。
前述のように切芝は御生神事が行われるところで、この意味で御生所である。
『河海抄』において「御生所は神館にあり」とはこのことを指していると思われる。

<御生所は祭時御旅所也>
御生所(切芝)が御旅所とすると、その神はいずこから来るのであろうか。
下社の御生神事においては、それは御蔭山であろう。
それが、つぎの「垂跡石上有神事」につながってゆく。

<垂跡石上有神事>
この文言は、伴信友の『瀬見小河』などによると、
上社の北にある神山の巨大な磐座の記述とされてきた。(文献11②)
しかし、平安時代、御蔭山においても「石の上の神事」があることが判明した。
平安時代の御蔭山の神地は、現在の御蔭神社の社地とは異なり、
図4の○印(御蔭神社旧社地)に示すように
現在の高野川の右岸、叡山電車「八瀬比叡山口駅」南西にあったと推定されている。
また、当時の川筋は、図4の青線で示したように旧社地の北側を流れていたようである。(文献13①)
現在の社地は、旧社地が宝暦八年(1758)8月22日の土石流で埋没したため移転したものである。


図4 御蔭山・御蔭神社・御蔭神社旧社地・高野川旧川筋

図5の絵図は、御蔭神社の再建にあたりその後に作成されたもので、旧社地の様子が描かれている。
木で囲まれた二棟の建物が本殿、その前の大きな建物が拝殿である。(文献14)

                    上側:東

                    下側:西

図5 御蔭神社旧社地絵図 宝暦八年(1758)以前の状況を示す(文献14)


図5の絵図の上方が東である。
図の下の川の流れに「八瀬大河筋」とあるのが現在の高野川である。
この絵図が描かれた時代の御蔭山は全く孤立した山で、
しかも周囲を「谷川」「御生川筋」「八瀬大河筋」の三つの流れに囲われた
いかにも御生の神地に相応しい景観がそなわっている。
鳥居を入ると、やがて参道の両側東西に磐座がある。
西の磐座から湧水の流れが描かれ、その先の流れが「八瀬大河筋」へと合流している様がわかる。
当時人々には、この湧水が「八瀬大河」の源流として信じられていた。
この二つの磐座は、御生綱(あれつな)をつなぐ「船つなぎ」とも呼ばれた。(文献13②)
「船つなぎ」は、当時賀茂社の摂社であった貴船神社の由緒記に、
「玉依姫命が黄船に乗り浪花より淀川、鴨川を遡り、その川上貴船川の上流の地に至り、
清水の湧き出づる霊泉を認めて水神を奉斎す」とあるのに因んだものであろう。
貴船神社の奥の院の床下には、吹井と呼ばれる水の湧き出る泉があるとされる。
また近くには玉依姫命が乗ってきた黄船をかくしたとされる船形の石積みがある。

『神事記』は、祝(はふり)光敦(みつあつ)が、
平安時代の下社の年中行事の記録を永享年間(1429~41)に集成した文書である。
その中に、最古の御蔭山の神事が記録されている。
この時代には本殿などはなく、御祭神が降臨される磐座で神事がおこなわれたのである。(文献1)
この神事を、下社の宮司である新木直人氏の
『葵祭の始原の祭り 御生神事 御蔭祭を探る』(文献13③)から紹介しよう。
神馬を参道東西の磐座の間に牽きたてる。
東西の磐座に御生綱(あれつな)を懸け神馬の左右から御鞍に結ぶ。
磐座に懸けた御生綱の結び目に御生木(みあれぎ)をさし立てる。
湧水の西の磐座「船つなぎ」と東の磐座には、
それぞれ社司が座し、とり箸でお給仕しながら御供えをする。その間、歌笛を奏する。

これは、上社の御囲での神おろしの神事(御阿礼神事)にあたるものである。
『河海抄』の「賀茂祭前日於垂跡石上有神事 号御形 御阿礼者御生也」は、
伴信友の言うように上社の神山の降臨石での神事とされ、私自身もそう思っていたが、
これまでの検討から御蔭山の磐座での神事であることがわかった。



4 御阿礼神事(上社)と御生神事(下社)の対応関係
 下社は、天平の末年から天平勝宝二年(750)にいたる間に上社から分離したとされる。
これに伴い祭神の分離が行われ、上社は別雷神を下社は御祖神を奉斎することになった。
しかしながら、別雷神と御祖神はもともと一体のものであったため、
下社においては別雷神の御生神事が新たに求められた。(文献15)
そのため、下社の御生神事は上社の御阿礼神事の写しとみることができる。
表2に、上社と下社における「みあれ神事」の対応関係を示す。
尚、神事の詳細については文献1と2を参照願いたい。

          表2 平安時代におけるみあれ神事の対応関係
祭祀    神おろし(みあれ神事)  御旅所   
 上社   神山⇒  御囲(御休間木)⇒ 御あれ所の壇⇒ 本宮
 下社  御蔭山⇒  船つなぎ(磐座)⇒ 切芝⇒  本宮
(注1)神の降臨の神事は、原初は、神山と御蔭山の山頂であったが、
    神事の盛大化とともに麓の御囲と船つなぎに移転したと考えられる。
(注2)御休間木との磐座に立てられた榊(御迎え榊)は、別雷神を迎える御祖神を表象する。
    尚、御休間木については文献16を参照願いたい。
(注3)上社の御旅所について、『瀬見小河』に次の記述がある。(文献11①)
     「別雷神社より二町ばかり北に御旅所とて在り、
      道の西なる岡を御あれ所の壇と称ひて、祭の時、其處に假宮建て祭儀ありとぞ」
    詳細は不明であるが、「御あれ所の壇」とは下社の切芝に相当するものと思われる。


図6 平安時代の上社と下社におけるみあれ神事の流れ(Google ZENRIN)
    A:神山   B:御囲(御休間木)  C:御あれ所の壇  D:上賀茂神社
     a:御蔭山   b:船つなぎ(磐座)    c:切芝           d:下鴨神社

上社の御阿礼神事は夜の秘儀であり、
下社はきらびやかな行粧を伴うため両者は別ものと考えられる場合が多いが、本質は同じである。
みあれ神事とは、「賀茂旧記」にのっとり御祖が別雷神を迎える神事であり、
両者の差は、元々別雷神と御祖神の一体の祭が上社と下社の分離により祭神の分離がなされたため、
上社においては御祖神が、下社においては別雷神が隠されているだけである。


5『河海抄』にもとづく作品の解釈
 「みあれ詣」の中で、良く話題になるのが「こころやましき」である。
大多数の注釈は「紫の上の御供と見られては面白くない」である。
しかし、紫の上の行き先が『河海抄』による下社の切芝であれば、この解釈は異なってくる。
 ここで考えられることは、源氏の同行が想定されることである。
『新日本古典文学大系21』は御車の台数に着目し、
「紫上の六条院への転居の折は御車十五であった。(「少女(乙女)」)
源氏同行なので二十でも事そぎたるになる」と述べている。(文献17)
今回のみあれ詣は、原文「六條院の御いそぎは、廿日あまりのほどなりけり」に続くもので、
明石の姫君の入内を前にして今や絶頂期にある源氏がかつて失意のうちに須磨に赴いた頃を思い

 うき世をば今ぞわかるるとどまらむ名をばただすの神にまかせて

糺(ただす)の神へ感謝の念を奉げたものと想像される。
とすれば、今回のみあれ詣は源氏の意向によるもので、須磨の所産である明石の姫君の同行も考えられる。
糺の神は元々糺の森の地主神であったが、後に下社の祭神に包摂されるに至ったと考えられる。
切芝は、別雷神のあらわれる以前から糺の神の御座所であった。
 紫の上は気配りの人であるからいつものように等しく女房達に声をかけたが、
この時、源氏と紫の上のみあれ詣にかける思いは誰もが察知していたと思われる。
それなのに、誘いに応じてぞろぞろとついてゆくのは迷惑をかけるのではないだろうか?
女房達はそれを気に病んで同行を辞退したのであろう。
つまり、「こころやましき」は気に病む、心配することと解釈される。
 作者は須磨の帖を下地に、「みあれ」のこぢんまりとした祭と、
酉の日の壮麗な賀茂祭を対比して描いたと思われる。
紫の上は、御供が少なくともそれはそれで凛とした風情があり、
また賀茂祭の群衆の中でも源氏の正妻としての威厳を保っている。
作者が表現したかったのは、どのような状況においても輝きを失わない紫の上のそうした姿ではないだろうか。


6 結論
 『河海抄』の注釈の検討によれば、紫の上は午の日に下鴨神社の切芝神事に参詣したと推定される。
神館の御生所とは御旅所である切芝を指すものであり、
切芝神事こそ、絶頂期にある源氏と紫の上がつらかった昔を思い、内々に詣でるにふさわしい場であろう。


図7 切芝神事 神馬の前で舞われる東游(あずまあそび)(HP「まさとの写真館」)


参考文献
1「下鴨神社 平安時代の御生神事 御蔭山の磐座祭祀」 江頭務 
 (『イワクラ学会会報』26号 2013 所収)
2「上賀茂神社嘉元年中行事 御阿礼の祭祀構造の諸問題」 江頭務
  (『イワクラ学会会報』第25号 2012 所収)
3『新編国歌大観』第2巻 私家集編 歌集 角川書店 1984
  ①源順p528 歌番号2527 ②西行p528 歌番号2528 ③公朝p821 歌番号15720 
4『新編国歌大観』第3巻 私家集編Ⅰ 歌集 角川書店 1985
  藤原俊成p632 歌番号623 
5『河海抄(かかいしょう)』『花鳥余情(かちょうよせい、かちょうよじょう)』
 (『国文注釈全書』 室松岩雄編 国学院大学出版部 1908 所収)
6『和歌色葉』(『日本歌学大系』第3巻 p256 佐佐木信綱 風間書房 1972)
7『日本古代の呪祷と説話』 p103 土橋寛 塙書房 1989
8『源氏物語事典』 p476 池田亀鑑編 東京堂出版 1989
9「鴨社神館の所在」 新木直人
 (『古代文化』43-7 ①p36 ②p33 ③p35 ④p32 ⑤p37 1991 所収)
10『新訂増補 国史大系』27巻 p30~31 吉川弘文館 1965
11『瀬見小河』伴信友 安永二年(1773)~弘化三年(1846)
 (『神道体系 神社編八 賀茂』 ①p79 ②p78 1984 所収)
12『下鴨神社 糺の森』①p83~85 ②p101 新木直人 ナカニシヤ出版 1993
13『葵祭の始原の祭り 御生神事 御蔭祭を探る』新木直人 ナカニシヤ出版 2008
  ①表紙裏の地図 ②p33~35 ③p46~47
14『京の葵祭展』p67 京都文化博物館 2003 
15「下鴨神社の上賀茂神社からの分社 引き裂かれた神々」 江頭務 
 (『イワクラ学会会報』27号 2013 所収)
16「上賀茂神社御生所 御休間木の謎」 江頭務 
 (『イワクラ学会会報』24号 2012 所収)
17『新日本古典文学大系21 源氏物語三』p187 注27  柳井滋(やないしげし) 室伏(むろふし)信助 
  大朝(おおあさ)雄二 鈴木日出男 藤井貞和 今西祐一郎(ゆういちろう)  岩波書店 1993


ホームページ
HP「まさとの写真館」 http://blogs.yahoo.co.jp/masato5827/32163290.html

関連論文
上賀茂神社細殿 立砂の謎
上賀茂神社御生所 御休間木の謎
上賀茂神社嘉元年中行事 御阿礼の祭祀構造の諸問題<斎院制の時代の御阿礼祭祀の復元>
下鴨神社 平安時代の御生神事<御蔭山の磐座祭祀>
下鴨神社の上賀茂神社からの分社<引き裂かれた神々>


付録 『河海抄』原典写本画像の比較・検討
 『河海抄』の原典写本は二十種類程度あると思われるが、
ネット上で公開されている代表的な原典写本画像としては以下のものがある。
「みあれ詣」に該当する画像をリンクにて下記に示す。

『河海抄』早稲田大学古典籍総合データベース 請求記号:文庫30 a0080 
  書写(刊行)年代:江戸初期 写本。中書本系(成稿本以前の形態のもの)
  本奥書:永和5年3月14日(散位基重) 応永16年仲春(師阿)

『河海抄』早稲田大学古典籍総合データベース 請求記号:文庫30 a0081 
  書写(刊行)年代:室町後期 写本。本奥書:長享2年小春下澣

『河海抄』早稲田大学古典籍総合データベース 請求記号:ヘ12 01272 
  書写(刊行)年代:不明 左中将雅敦天正3年写の写本。

『河海抄』阪本龍門文庫善本電子画像集 目録番号 70 033(記事は2枚の画像にまたがる)
  書写(刊行)年代:室町初期 
  第20巻末に散位基重が永和2年(1376)11月から5年3月まで、
  四辻家から借りだして書写したという元奥書を持つ中書本系の古写本。

<比較検討>
 最初に先に引用した「みあれ詣」の記述を基準として掲げよう。
  室松岩雄編『国文注釈全書 河海抄』(文献4) 底本:宮内省図書寮本
  <たいのうへ(紫)みあれにまうて給ふ>
  賀茂祭前日於垂跡石上有神事、号御形(ミアレ)御阿禮者御生(ミムマレ)也(見古語拾遺)。
  日本紀云、神聖生其中者或御禊(ミアレ)。
  祭の前の一日を御禊日といふ也、御生所は神館にありと云々、祭時御旅所也。
                                      (句読点、段落は筆者による)

 特徴的なのは、「御生」と「御禊」のとらえ方である。
①は「御阿礼(者)御生也」の「者」の一字が抜けている。
 「神聖生其中者或御禊ミアレ」は本文の通りである。
②は①と同様に「御阿礼(者)御生也」の「者」の一字が抜けている。
 「御生」には「ミマス」のルビがふってある。これは「御座(坐)」の意であろう。
 「神聖生其中」の「神聖」には「神(カ)聖(ミ)」即ち「カミ(神)」のルビ、
 「生」には「ミアレ」のルビがふってある。
 「祭の前の一日を御禊日と云也」の「御禊日」のところに「ミアレノ(日)」のルビがふってある。
 「御生所ハ神館(に)あり」の「御生所」には「ミマストコロ」のルビがふってある。
 これも前と同様に神の御座所の意味で使われているのであろう。
③は「御阿礼者御生也」の「御生」は「ミムマレ」のルビがある。
 「ミムマレ」は「みうまれ」即ち「御生まれ」であろう。
 「神霊生其中者或御禊」の「御禊」に「ミアレ」、「生」に「アレマス」のルビがふってある。
 「アレマス」は、「生(アレ)ます」の意であろう。尚、「聖」は「霊」となっている。
④は「御阿礼者御生也」の「御生」の右に「ミムマレ」、左に「ミアレ」のルビがふってある。
 「神聖(生)其中者或御禊」の「生」の一字が抜けているが、
 「聖(生)」には③と同様に「アレマス」のルビがある。
 尚、「御禊」には「ミアレ」のルビがない。
 「祭の前の一日を御禊日といふ也」の「禊」には「ケイ」のルビがある。

①~③から、「御禊」が「みあれ」と同じものとされていることがわかる。
記紀に、伊弉諾尊が黄泉国の穢れを落とすために「筑紫の日向の小戸の橘の
檍原(あはきはら)」で禊を行うと様々な神が生まれ、最後に天照大神・月夜見尊・素戔
嗚尊の三貴子が生まれたことに関係しているようである。いわゆる禊による神産みである。
これは、玉依姫が瀬見の小川で禊をしていた時に丹塗矢が流れてきたという伝承にも重なっている。

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