イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版 2007年2月20日掲載
イワクラ(磐座)学会 会報9号掲載(増補改訂版)                    

                神奈備山イワクラ群の進化論的考察
                    <越木岩神社 稚日女のイワクラ>
                                                             イワクラ(磐座)学会  江頭 務
1 はじめに
 本論文は、イワクラにおいてもモンテリウスの型式学に類似した進化論的兆候が存在することを明らかにするものである。
まず、三輪山の奥津イワクラ・中津イワクラ・辺津イワクラの三つのイワクラが、進化論的に奥津イワクラに端を発し、辺津イワクラ、中津イワクラの順に成立することを述べた。
続いて、宝塚市の中山寺奥の院の裏山にある三つのイワクラの進化論的兆候を指摘したのち、西宮市の越木岩神社の甑岩を辺津イワクラとする北山のイワクラ太陽祭祀について検討した。
最後に、越木岩神社の稚日女のイワクラが、太古から存在するものでなく、社殿神道の影響により後世に築かれたものであることを推論した。

2 イワクラ進化論のイメージ
 考古学の研究手法として、ダーウィンの進化論をとりいれたモンテリウスの型式学(下注参照)がある。しかし、土器とイワクラではあまりにその扱う対象が違いすぎるので、イワクラへの直接適用は困難である。
それゆえ本論では、進化論的な考え方をとりいれたイワクラの研究方法を、「イワクラ進化論」として独自に提案する。

(注)本論文をよりよく理解するために、本論文で援用したモンテリウスの型式学の要点を以下に解説する。(文献1)
『モンテリウスは、生物の「種」が進化するように、考古資料の「型式(けいしき)」も進化すると説いた。「型式」はある同一種における、始原から現在までの進化過程の指標を指す。ヒトでいうなら「猿人」「原人」「旧人」「新人」等、人類の進化を特徴付ける指標のことを「型式」と呼ぶ。そして、考古資料にも型式の連なりはあり、各型式の比較によって型式の進化過程を説明することができるとした。 
型式変遷を説明するとき用いる重要な概念が「痕跡器官」である。「痕跡器官」というのは生物学の用語で、元々は実用的な機能や意味を有していたが、時代を経るごとにその機能・意味が失われてしまい、それでも形骸化した痕跡として、視覚的にまだ確認できる器官のことを指す。例えば、ヒトはサルから進化した生物であるが、この2つの種は「尻尾」という性質を見ても、そう言える。サルには、尻尾が付いている。尻尾として本来的な機能を有している状態である。対してヒトを見てみると、ヒトの尾に当たる部分を見てみると、そこには「尾骨」という形で、かつての尻尾の形跡が残っている。しかしこの尾骨は、すでに尻尾という本来的な機能が失われたもので、それが可視的痕跡として留まっているものである。これが痕跡器官というものであり、この痕跡器官をよく観察することで、生物種の進化の筋道を順序付けることができるのである。』

(1)沖ノ島のイワクラ
イワクラに進化論的な考え方が適用される前提として、イワクラに古いものと新しいものがあることが、最初に提示される必要がある。その具体例として考古学的遺物に裏付けられた沖ノ島のイワクラが挙げられる。
沖ノ島のイワクラ祭祀は、岩上祭祀(4世紀後半~5世紀前半)⇒岩陰祭祀(5世紀後半~6世紀末)⇒半岩陰・半露天祭祀(7世紀)⇒露天祭祀(8~10世紀)と変遷したことが知られている。
図1Aは、沖ノ島の沖津宮近傍の岩石群の模型写真を示す。


図1A 沖ノ島の沖津宮近傍の岩石群の模型写真(左下の建物は沖津宮)


図1Bは、沖ノ島の岩石群の実測配置図である。

この表示の岩は、岩上祭祀の遺跡(●印)を含むものであるから
4世紀後半~5世紀前半に祭祀が開始されたイワクラと見なすことができる。
この表示の岩は、岩上祭祀の遺跡(○印)を含まず岩陰祭祀の遺跡を含むものであるから
5世紀後半~6世紀末に祭祀が開始されたイワクラと見なすことができる。
この表示の岩は、 半岩陰・半露天祭祀の遺跡(▲印)のみを含むものであるから
7世紀に祭祀が開始されたイワクラと見なすことができる。


図1B 沖ノ島の岩石群の実測配置図   方位:上方が北 標高80~90m 1目盛り10m
    参考文献 「沖ノ島と古代祭祀」     小田富士雄著 吉川広文堂 1988年刊
            「宗像沖ノ島 海の正倉院」 松見守道著  平凡社    1979年刊

 つまり、沖ノ島のような狭い地域にイワクラが密集しているところでは、すべてのイワクラが同時に祭祀の対象となっていたのではなく、段階的にイワクラが成立したことがわかる。
このように、イワクラは太古から存在していた訳ではない。イワクラは人間が生み出したものであり、歴史のなかで生まれるものである。
イワクラ祭祀は時代と共に変遷する。その中で、新しくイワクラとして生まれる岩とイワクラの役目を終えて消えてゆく岩がある。その時、イワクラの進化論的考察は、イワクラの時系列分類の有力な手法となりうる。これが、イワクラ進化論の主張である。
 本論文は、かかる構想にもとづき、神奈備山イワクラ群の進化論的考察をおこない、西宮市の越木岩神社の稚日女のイワクラの設置時期を推定したものである。

(2)神奈備山イワクラ群の段階的形成
 山に多数のイワクラがある神奈備山においては、多数のイワクラが一時に発生したのではなく、段階的に成立したものと推定される。しかし、沖ノ島のように考古学的な遺物が無い場合、年代を特定することは一般には困難である。しかし、進化論的な考え方を用いれば、各段階の前後関係を推定できる場合がある。
 以下は、奥津イワクラ、中津イワクラ、辺津イワクラを備えた神奈備山モデルに進化論的考察をくわえることにより得られた各段階のイメージである。
神奈備山のイワクラの数に着目したイワクラ進化論のイメージの一例を、時系列的にステップA~Eに示す。植物が一つの種から生じるように、様々なイワクラの構成もまた一つのイワクラから生じるのは自然の流れであろう。そして、イワクラに変化をもたらす根源的な原動力は、文明の進展によって進化する神のイメージに他ならない。

イワクラ進化論のイメージ
ステップA:一つのイワクラ・太陽祭祀
 神跡の発見:山頂部に一つのイワクラ(群れ)
 
事例:三輪山
ステップB:二つのイワクラ・太陽祭祀
 山の麓にもう一つのイワクラ(群れ)が追加される。

事例:三輪山
ステップC:三つのイワクラ・太陽祭祀から人格神祭祀への移行過程
 山の中腹にもう一つのイワクラ(群れ)が追加され、神話の神々が登場する。

事例:三輪山
ステップD:三つのイワクラ(形式的)・人格神祭祀
 イワクラの新たな生成が停止し、これまでのイワクラ群が整理統合される。
三つのイワクラ思想の形式化・象徴化が進む。
(裏返して言えば、イワクラ祭祀の衰退)
 三輪山においては太陽祭祀が終焉すると共にイワクラ祭祀の集約化が進み、大神神社が成立する。

事例:現・大神神社と三輪山
ステップE:[岩門+小さなイワクラ(石神)]・石神祭祀 
麓の元のイワクラに小さなイワクラ(石神)が付加される。
山の上・中のイワクラは祭祀対象としての意味を失い、麓のイワクラは山から祭祀上分離される。
社殿神道の影響の増大により、岩門は鳥居、小さなイワクラは社殿をイメージしたものに変質する。

事例:現・越木岩神社と北山


3 三輪山
(1)神奈備山
神奈備山の共通例として
①山容が円錐形または笠形で共通している。
②部落に近い。平野にたいして聳えている。
③いずれも古来の大社が山麓に鎮座している。
等を挙げる人もいる。(文献2①)
しかし私は、これは神奈備山の一面をとらえたものであって、すべてではないと思っている。私は三輪山の登拝道の傍らに注連縄のかかった小さな岩をいくつも見たことがある。人は巨岩とか形の変わった岩に目を奪われがちであるが、この変哲も無い岩がどうしてイワクラなのかを考えることなくしてイワクラの全貌をとらえることができないと痛感した。
(注)三輪山山頂にある奥津イワクラへは、大神神社の隣にある狭井神社から登拝することができる。狭井神社に申し込み。写真撮影は禁止。
神奈備山もそれと同じである。結論から言えば、基本的に「神奈備山とは古代人が守り神になってもらいたい山」のことである。決して、秀麗な山だけがその対象ではない。従って古代、神奈備山は村の鎮守の森のように集落ごとにあると言えるほど無数にあったものと思われる。神奈備山が成立する要件とは「守り神になってもらいたい山」を、古代人が具体的にどう考えるかにかかわっている。
社会が発展した結果、神奈備山の淘汰が進み、秀麗な山、大社がある山が残り、それを後世の人が分類整理したのが、先に挙げた神奈備山の共通例ではないだろうか。
私の持論であるが、人が石に祈るとき石はイワクラとなり、祈りをやめるときイワクラは石に戻るのである。それと同様に、人が山に祈るとき山は神奈備山となり、祈をやめるときただの山に戻る。
この祈りこそ、イワクラ研究の依拠すべき原点であろう。

(2)三輪山の太陽祭祀
神奈備山のイワクラの源流を考察するには、大神神社を対象とするのが適格であろう。
大神神社は、三輪山を神体山として成立した神社であり、拝殿のみがあって本殿を有しない原始の神社の形態を今に残している。三輪山の山中には、三輪山山頂の奥津イワクラ、中腹の中津イワクラ、山麓の辺津イワクラの三つのイワクラがある。三輪山山麓の狭井神社の北東にある山ノ神遺跡からは祭祀用の土製模造品のほか、無数の石製品・須恵器・勾玉・臼玉・管玉・小形銅鏡などが出土しており、これらは弥生時代に始まり、奈良時代に至るにおける古代祭祀の実態を示すものとされている。

図2A 大神神社の拝殿(後方は三輪山)      図2B 狭井神社(ここに奥津イワクラへの参拝道がある)

私は、三輪山祭祀の根源は太陽祭祀にあると考えている。
それに関して、松前健氏に代弁して頂こう(文献3①)。
『三輪山の神様というのは「古事記」「日本書紀」などの古典では、雷神で蛇体の大物主神と記されています。しかし、私は古くは一種の太陽神の聖所であったのではないかと考えております。神体山の三輪山の山頂には高宮という祠がありますが、これは古くから日向神社とも呼ばれていました。「記」「紀」では海上を光り輝いてオオナムチのもとにより来ったという神です。この高宮の近くには、神聖な巨岩「奥津イワクラ」があり、大物主神の座とされています。後世では、この山頂の奥津イワクラと、中腹の中津イワクラ、山麓の辺津イワクラという三つのイワクラが、それぞれ大物主、大国主、少彦名だといっておりますが、これは後世的解釈で、もとは山頂のイワクラに太陽神が降り、これを中継ぎ式に、山麓に迎えたのではないかと思います。日向神とはこれを表した名なのでしょう。』 まったく同感である。
さらに具体的なものとして、奥野正男氏の次の記述(文献4)が挙げられる。
『三輪山では一年のなかで太陽の勢いがもっとも弱くなる冬至の日に、司祭者が山頂に登り、イワクラに太陽神の依り代としての銅鏡をはじめ玉類・武器類・土器に入れた供物などを供え、東(ひむがし)に昇る太陽に向かって礼拝したと私は推測します。その後、神霊が宿る山頂の聖地には、山宮(上宮)として日向神社が、また山麓には里宮として神体山を拝むための大神神社がつくられました。山頂の神社に「日向(ひむか)」という名前が残ったのは日(太陽)に向く、日に向かうというその意味からして、そこで太陽(日の神)に向かって拝むとか、太陽が昇る東(ひむがし)の方に向いて拝むという太陽祭祀がおこなわれていたためでしょう。』
 
さて、三輪山には、奥津イワクラ・中津イワクラ・辺津イワクラの三つのイワクラがあると言われる。しかし、三輪山のイワクラの分布図(下注参照)をみると、実に多くのイワクラが点在していることがわかる。
(注)三輪山のイワクラの分布図は、転載禁止となっているため、ここでは紹介できない。文献2②を各自直接参照のこと。
そのため、頂上の奥津イワクラはともかく、中津イワクラと辺津イワクラはどれだと特定するのは困難な状況にある。
大神神社自身の言葉を借りよう。(文献2②)
『現在、神社では文字に従って中津磐座、辺津磐座は中腹・麓の磐座を指しての名称であると説明しているが、共に一個処にとどまらず、数も多く、これだと断定はできない。やはり諸先輩の説かれるように神体山信仰では、「いわくら」は全山処々に点在するのが当然であるとか、あるいは祭祀の度ごとに磐座が変わったこともあるという説、また頂上の奥津磐座にたいして麓の三ヵ処より祭祀を奉仕したから、その線上はそれぞれに辺津、中津の磐座が存在するという説を考えるべきで、中世末期の大神曼荼羅ともよばれる古絵図は、第三の説を思わすものがある。』
イワクラ進化論の立場をとる私は、もちろん第三の説をとる。
上記の麓の三ヵ処とは、次のとおりである。(文献2②)
①拝殿奥からのイワクラ線
②山の神からのイワクラ線
③檜原神社からのイワクラ線
このことから、奥津イワクラは三つのイワクラの原点であり、最重要なものであることが分かる。


(3)三輪山のイワクラの進化論的考察
ステップA(一つのイワクラ)
神奈備山には、必ずその山頂に神跡がある。山頂に神跡のない山など神奈備ではない。ここで神跡とは神の依り代(よりしろ)でイワクラや神杉等がそれにあたる。神奈備の山は、部落に近くそんなに高い山ではない。なぜなら、人が頂上に立つことを前提にしているからである。富士山や穂高岳は高山ではあるが、古代の人々が登れない以上、神奈備とはなり得ない。
古代の人々は、集落の近くに聳える山の頂には神が降臨すると想像し、山に祈りをささげた。しかし、神の降臨は想像であって証明されたものではない。そのため、人々は頂上に向かった。鬱蒼たる原生林に覆われた道なき山の頂きに立つのは容易なことでなかったであろう。やっとの思いで頂上に達した人々は、山に祈る心の必然の結果として、そこに神跡を発見する。そしてその時から、山は真に神の山となる。
山頂でのイワクラ祭祀が始まる。

ステップB(二つのイワクラ)
 山頂でのイワクラ祭祀は盛んになってゆくが、山頂への人の移動、物資の運搬等が支障となりやがて限界を迎える。そのため、集落に近い山麓に新たな祭場が設けられる。
それがステップBのイワクラである。ここまではごく自然の流れであり、下記の文献(文献4)からの引用例から見ても一般的な見解と言えよう。
『祖霊や心霊が天降ったという古い伝承のある甘南備山(神体山)や各地の古社では、初め頂上が聖地(高宮)になり、後になってから山麓に祭祀の場がうつされ里宮して神社ができる例が多いのです。柳田国男は、山科県東八代郡二之宮の「美和明神」や山梨県中巨摩郡大井村の「三輪明神」などで、山頂の古宮と麓の里宮の両方で祭祀している例をあげ、「神を平地の里宮で御祭り申す以前に、先ず山頂の清浄なる地に於いて、御迎へする形は多くの社に伝はり、又民間の春夏の行事にも残って居る。(中略)それを三輪の御社ではもう罷めて居るだけでは無いか」といい、大和の神坐日向(みわにますひむかい)神社が初め山頂に祭られたと主張しています。』

ステップC(三つのイワクラ)
ステップBからCは、神の人格化によってもたらされる。例えば、古事記に登場する大国主はその例である。ステップAとBの神は、いわば光のイメージである。光は、空を走り、直進する。やがて、人はその神を自分に似せて創造する。空を走る神から、人と同じように地を歩く神が出現する。
奥津イワクラ・中津イワクラ・辺津イワクラの「津」は難波津の「津」であり、港を意味する。航海をする神は、地上で言えば旅をする神となろう。中津イワクラは、旅をする神の象徴として設けられる。(宙を飛ぶ神であれば、中継点などは不要であろう)光のイメージは形としてはまだ残っているため、三つのイワクラはほぼ直線上に配置される。これが「三つのイワクラの直線配置」である。
三輪山に登拝してみればわかるが、三輪山の奥津イワクラ・中津イワクラ・辺津イワクラは、いずれも見上げるような巨岩ではない。岩の群れである。また、登拝道の左右に注連縄のかけられた岩が多数ある。岩も全体に小ぶりである。
想像するに、古代のシャーマンは神託をうけて山の山頂・中腹・麓から神の依り代としてのイワクラを選定した。「去年はこの石であったから、今年はこの石にしよう」といったこともあったのではないだろうか。要するに、三輪山における三つのイワクラとは、特定の不変の岩石を指すものではなく極めて流動的ということである。
三つのイワクラは、古代岩石祭祀の思想の現れである。これは、神社の成立に大きな影響を及ぼす。下表は、景山春樹著「神体山」(文献5①)からの抜粋である。この分類については異論もあろうかと思われるが、「三つのイワクラの思想」が、いかに根源的なものであるかを理解してもらう一助として紹介するものである。

奥津イワクラ 中津イワクラ 辺津イワクラ
自然神道 荒魂(あらみたま) 和魂(にぎみたま) 若魂(わかみたま)
自然神道 山宮 里宮 田宮
自然神道 水分神(みくまりのかみ) 山口神(やまぐちのかみ) 御県神(みあがたのかみ)
社殿神道 奥宮 神社 御旅所

太陽神も進化し様々なものに枝分かれしてゆく。そして、その具現化の一例が神話の神々である。この移行は自然に行われる。不可知・不可視・不可触な神が、実態を持った神に移行することは人々の欲望の自然な反映であろう。

4 古代中山吾孫子本神所
ステップD(形式化された三つのイワクラ)
三輪山の奥津イワクラ・中津イワクラ・辺津イワクラは岩の群れで、流動的なものであった。やがて「三つのイワクラの思想」は、象徴化、形式化されてゆく。
岩の群れは、明瞭な一つの巨岩に象徴化されるようになる。つまり、イワクラの流動性がなくなり、イワクラの固定化が始まったのである。このことは、「石神祭祀と社殿神道」の思想の萌芽を意味しているのではないだろうか。つまり、依り代から神の籠もれる石への進化である。このことを裏返して言えば、イワクラ祭祀の黄昏である。
さらにイワクラの置かれるべき位置である山頂・中腹・麓においても象徴化が進み、山頂・麓にこだわらず山の斜面に三つのイワクラが形式的に設定される。
これが、これから説明する古代中山吾孫子本神所である。

「イワクラ進化論」の発想は、私が中山寺奥の院の裏山にある中山吾孫子本神所と呼ばれる上、中、下のイワクラに遭遇した時に得たものである。
古代中山吾孫子本神所は、奥の院境内より頂上にかけた一帯の地域にあって、三輪山に奥津イワクラ・中津イワクラ・辺津イワクラの三ヶ所のイワクラが祭祀されているように、上の神所・中の神所・下の神所が設けられている。上の神所は山頂近くにあり、それから少し下ったところに中の神所がある。下の神所は、奥の院本殿裏の奥殿に取り込まれた巨岩である。(文献6)
  特に私が着目したのは、奥殿に取り込まれたイワクラであった。(図3)今、目にしている光景は、イワクラが仏閣に取り込まれようしている進化の過程ではないかと思ったのである。奥の院の僧侶に聞くと、このイワクラの前には仲哀天皇と大仲媛の一対の石像が祀られているという。「イワクラの前に石像」「イワクラの後に小さなイワクラ」、そして、その相似性が稚日女のイワクラ考察の糸口となった。


図3 本殿の左側の大悲水側から撮影した本殿裏の工事中の奥殿。
    奥殿の後に岩の一部が見え、奥殿に岩を取り込んでいることがわかる。

尚、奥の院は麓にある中山寺から歩いて2時間弱の山中にあり、集落に近接した意味での辺津イワクラではないことに注目したい。また三つのイワクラ間の距離も三輪山に比べ著しく短い。つまり、三つのイワクラは三輪山とは異なり、著しく形式化、象徴化しており、進化の兆候がうかがえる。
お寺にゆくと、四国八十八ヶ所霊場を模したミニ版八十八ヶ所を見かけることがあるが、これは四国八十八ヶ所霊場が有名になった後に作られたことは明らかである。それと同じく三つのイワクラが有名になった後に作られたのが、中山吾孫子本神所のミニ版「三つのイワクラ」であろう。「三つのイワクラ」思想が流布していたことの証拠である。
このように考えることにより、ただ古い古いと言われるイワクラにも時系列的な分類の可能性があることがわかる。

(1)上、中、下の神所の概要
①上の神所(七神の窟)


図4 上の神所(七神の窟)
    祭神の七神とは古事記紳統譜の神世七代(かみよななよ)のことで、天地創造の時、別天神(ことあまつかみ)に続いて出現した神々のことである。

②中の神所(五神の窟)


図5 中の神所(五神の窟)

祭神の五神とは、中山寺の説明板によれば、天照大御神から鵜葺草葺不合命に至る五代の神々のことである。鵜葺草葺不合命は、神代の時代の最後の神で、初代天皇である神武天皇の父である。つまり五神とは、神から人へのフィナーレを飾る神々で、人に最も近親感を抱かせる神々である。

③下の神所(三神の窟)


図6 下の神所(三神の窟)
中山寺奥之院の本殿正面。左側に白鳥石・大悲水がある。

最後の「下の神所」は、中山寺奥之院に当たる。この奥の院の隣には、白鳥伝説で有名な下から水が湧き出している白鳥石がある。祭神の三神とは、忍熊王とその両親の仲哀天皇・大仲媛を指す。仲哀天皇の後の皇后は、有名な神功皇后で、応神天皇はその皇子。先の皇后大仲媛の息子の忍熊皇子は、皇位継承をめぐる戦にて神功皇后に討たれた。いわば継子と実子の争いであり、応神天皇としては後味の悪いものであった。このため、忍熊皇子の鎮魂に意を払ったわけである。尚、奥の院(元々の中山寺)は、非業の死を遂げた忍熊王の御魂を祀るために聖徳太子により創建されたものである。
「紫の雲こそなびけ行きて見ん吾孫子の峰に神ぞまします」と詠んで中山に登ったとされる聖徳太子の伝説から言えば、中山吾孫子本神所は聖徳太子の時代よりずっと古くからあったものと考えられる。しかしながら、中山のイワクラは、各々単独には古代人の祭祀の対象であった可能性が高いが、当初は、三つのイワクラを一括して祭祀の対象とはしていなかったと推定される。

(2)中山吾孫子神所のイワクラ配置
イワクラの研究において、イワクラの配置の検討は極めて重要である。下記にGPSの測定結果とそれから得られた配置図を示す。

表2 中山吾孫子本神所のイワクラのGPS測定結果(世界測地系)

イワクラの名前 北緯 東経
奥津イワクラ
上の神所(七神の窟)
34度50分06.5秒 135度20分58.0秒
中津イワクラ
中の神所(五神の窟)
34度50分04.8秒 135度21分00.4秒
辺津イワクラ
下の神所(三神の窟)
34度50分01.3秒 135度21分03.5秒

・GPS測定器:エンペックス気象計株式会社製 ポケナビmini FG-530
     精度は平均15m(衛星の状態により変化する)
     ごろごろ岳山頂の三角点(点名:剣谷)での誤差例 ±0.4秒
・日本測地系への変換は、緯度に-11.7秒を加算、経度に+10.0秒を加算する。

図7 中山吾孫子本神所のイワクラの配置図
        (イワクラの座標の単位:m)
<緯度経度から距離の換算>
国土地理院の2万5千分の1の地図より、
北緯30.76m/秒  東経25.38m/秒を実測して適用
図8 イワクラの直線的配置の説明図



表3 三つのイワクラのGPSデータ

    奥津イワクラ:上の神所
からの直線距離
東を0度とした時の
時計回りの角度
中津イワクラ:中の神所 80m 40.4度
辺津イワクラ:下の神所 213m 48.8度

 図7の中の、⊿θ=8.4°は、イワクラの直線的配置の数値表現である。「イワクラが直線的に並んでいる」といった表現がよく使われるが、人により程度の差があり、客観性を欠くところがあった。そこで本論文では、図8に示すように奥津イワクラから中津イワクラを見た角度と奥津イワクラから辺津イワクラを見た角度の差⊿θをイワクラの直線的配置の数値データとした。この偏角⊿θ=8.4°は、古代人が「イワクラが直線的に並んでいる」と認識するひとつの基準データとなる。
 中山吾孫子本神所の配置図を見れば、三つのイワクラが南東の方向にほぼ直線的にならんでいることがわかる。「三つのイワクラの山頂から麓に向かう直線的配置」は、古代の太陽祭祀の形であり、古代人の沈黙のメッセージである。

5 北山における太陽祭祀の形
ステップD(形式化された三つのイワクラ)
北山は、六甲山系の西宮市に属する標高230mの奇岩累々とした岩山である。麓には甑岩と呼ばれるイワクラで有名な越木岩神社がある。この神社の前身は後に言及するように、大国主西神社である。このことを踏まえ、私は以下の根拠により、この地域における奥津イワクラ、中津イワクラ、辺津イワクラの存在を想定した。
①大国主西神社(越木岩神社の前身)は北山、大神神社は三輪山が、それぞれ神社の背後にある。
②大国主西神社はイワクラ祭祀で大神神社と同じである。
③大国主西神社の祭神は大国主であり、大神神社の大物主(下注参照)と一致する。
④北山は中山吾孫子本神所から9kmしか離れておらず、同一のイワクラ文化園と見なせる。従って、中山吾孫子本神所の三つのイワクラに類似したイワクラの存在が考えられる。

(注)大物主神は大国主神とは全く別神だとする座田司氏氏の説(文献2③)もあるが、ここでは以下の解説(文献7①)から、大物主=大国主と考えて差し支えないだろう。
『大物主神:古事記によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光輝いてやってくる神様が現れ、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。日本書紀の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂(にぎみたま)を大物主神として祀ったとある。』


図9 北山(左上に太陽石がそそりたつ北山の核心部)
 
上記の想定にもとづき、北山地区を調査した結果を以下に示す。

(1)奥津イワクラ:太陽石


この岩は、岩登りの愛好家の間でボルダータワーと呼ばれている有名な岩である。
この岩に早期に着目したイワクラ研究家としては、昭和50年代半ば頃、北山の巨石群で構成された古代北山・太陽観測施設説をとなえた大槻正温(まさやす)氏が知られている。
大槻正温氏は、これを「太陽石」と呼び、巨石を結んだ線が冬至の日の出線と夏至の日の出線に一致することを主張した。(文献3②)
また、西宮市のNPO古代遺跡研究所を主宰する中島和子氏は、大きく口を開けた「顔の岩(イワクラ)」として紹介している。(文献8)
図10 奥津イワクラ:太陽石

(2)中津イワクラ:陽石


この岩は、岩登りの愛好家の間でコックロック(cock rock)と呼ばれている有名な岩である。これを訳せば、「陰茎岩」となる。
この岩がイワクラであると指摘した人は、私の知る限りではない。しかし私は、イワクラの研究を始めて、この岩を最初に見た時から、この岩が「縄文人が決して見逃すはずのない岩」であることを直感した。そして、それが今回の「三つのイワクラの直線配置」の発想につながった。
古事記に曰く、『我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり』
リンガ信仰は太古から世界各地にあり、悪霊を払い五穀豊穣と子孫の繁栄を祈る最も素朴な信仰形態である。
陽石は、縄文時代以降、古代人の間に行われた男根崇拝の信仰対象となったものであり、それゆえ、私はこの岩を「陽石」と呼ぶこととする。
 陽石と太陽石は、後に示すように極めて正確な南北の基準線を形成している。この事実は、陽石が太陽祭祀にとって不可欠のイワクラであることを証明しているのではないだろうか。
図11 中津イワクラ:陽石

(3)辺津イワクラ:甑岩

  甑岩は越木岩神社のイワクラで、その大きさは周囲約40m・高さ10mである。酒米を蒸す時に使う「甑(こしき)」という道具に似ていることから「甑岩」と名づけられている。また、巨岩の形状が女性自身に似ていることから、女性を守る神として子授かり・安産のご利益があるとされている。甑岩の裏にあたる北側には稚日女尊(わかひるめのみこと)を祀る北イワクラ(図16参照)がある。
このイワクラは、甑岩を女神(陰石)と見て男神ともいわれる。(文献9)
しかし、北イワクラが男根に似ているから男神というのは分かるが、祭神稚日女は当然女性であるから整合性がとれない。(神社に問い合わせたが、神社側もわからないとのことであった)

つまり、甑岩の陰石は前述の中津イワクラの陽石と対になっていることがわかる。
 図12 辺津イワクラ:甑岩  


(4)三つのイワクラの配置
北山のイワクラの周囲には幸いにも木々がなかったため、その位置をGoogle  Earthの衛星写真で確認することができた。そこから読み取った三つのイワクラの直線配置の偏角は⊿θ=3°であった。この値は、古代中山吾孫子本神所の⊿θ=8.4°の1/2以下であるので、古代人の直線性の感覚の許容範囲内に十分あると推定される。
尚、イワクラの位置測定はきわめて重要であるため、誤謬をさけるため参考までに本論文の末尾に付録として、GPSデータとの比較結果を添付した。位置が確定すれば、衛星写真の読み取り値が真値に近いことは当然である。


 表4 三つのイワクラのGoogle Earth衛星写真からの読み取りデータ

   奥津イワクラ:太陽石
からの直線距離
東を0度とした時の
時計回りの角度
中津イワクラ:陽石 203m 90度
辺津イワクラ:甑岩 666m 93度


図13 北山から越木岩神社のGoogle  Earth衛星写真
(上、中、下の白丸が奥津イワクラ、中津イワクラ、辺津イワクラの位置を示す)

(5)北山の太陽祭祀


表4のデータにおいて、注目すべきは奥津イワクラと中津イワクラが驚くべき正確さで南北の位置にあることだろう。太陽観測において何よりも重要なものは、正確な基準線である。南北の基準線がわかれば、冬至の日の出線等は正三角形を利用することにより古代人でも簡単に割り出せる。つまり、太陽祭祀が行われていた可能性が高といえるだろう。
北山に古代の太陽観測施設があったとする大槻正温氏の説は、ほぼ間違いがないだろう。しかし、中津イワクラの存在を見落としていたために、観測精度を欠くものとなった。この詳細については、別の機会に明らかにしたいと考えている。

図14 中津イワクラ(陽石)から見た200m先の奥津イワクラ(太陽石)

(6)北山の三つのイワクラの進化論的考察
 ここで、先に述べた中山吾孫子本神所と北山の「三つのイワクラ」を進化論的に比較する。
北山においては、辺津イワクラの甑岩が生活圏の近くにあるのに対し、中山吾孫子の辺津イワクラは里から遠く離れた山奥にあり、辺津イワクラの本来の意味を喪失している。また中山吾孫子においては、きわめて短い距離に三つのイワクラが並んでいることから、北山に比べ形式化の程度が著しく進んでいる。また、北山で太陽祭祀が行われていた可能性が高いことから、型式学的には、北山は中山吾孫子より古いと言える。
 これまでのことをまとめると、三つのイワクラの型式学的年代は、三輪山→北山→中山の順となる。
しかし、実際の年代の前後関係の確定にあたっては、外来文化の要素等も考慮する必要があることは考古学と同様である。


6 越木岩神社
 今までこの問題を意図的に避けてきたが、甑岩の北より東に33°の方角・距離70mの甑岩の上端よりやや高い小山の上に、稚日女(わかひるめ)を祀ったイワクラがある。これをどう扱うかが最大の課題である。ここでは、後世に築かれたものとして検討を進める。その根拠については、越木岩神社の歴史の検討のなかで自ずと明らかになるであろう。

図15 初詣で賑わうイワクラで有名な越木岩神社
                    (兵庫県西宮市)
図16 稚日女尊のイワクラ  
        (北座 高さ1.6m 幅1.7m)

(1)太陽祭祀から大国主祭祀へ
ステップD(形式化された三つのイワクラ)
越木岩神社の前身は、越木岩神社の由緒によれば平安時代の927年に編纂された延喜式神名帳に記されている大国主西神社であるとされている。(文献9)しかし、大国主西神社は西宮神社の前身であるとする説もあった。これに関して、西宮神社の元宮司である吉井良隆氏は「エビス神研究」の論文の中で、西宮神社説を否定する見解を述べている。(文献10)
最近、越木岩神社側が見つけた資料に、明治6年6月の兵庫県の辞令がある。内容は、神社南隣の西平町の吉井忠兵衛氏に「摂津国武庫郡越木岩新田大国主西神社祠掌申付候事」とある。つまり、越木岩新田(昔の越木岩神社の住所名)の大国主西神社の守を申し付けるということである。
これらのことから、越木岩神社の前身は大国主西神社であると判断した。
大国主西神社の祭神は当然大国主であり、大神神社のイワクラ祭祀と多くの共通点を持つ。太陽祭祀から大国主祭祀へ変更の時期は、三輪山山麓の山ノ神遺跡の出土品から弥生時代以降と推定される。
尚、大国主西神社の「西」は方角を表し、「三輪山の西」を意識したものと思われる。

(2)大国主祭祀から稚日女祭祀へ
ステップD(形式化された三つのイワクラ)からステップE(石神の付加)へ
神名の「稚日女」は若く瑞々しい日の女神という意味である。天照大御神の別名が大日女(おおひるめ。大日孁とも)であり、稚日女は天照大御神自身のこととも、幼名であるとも言われ、妹神や御子神であるとも言われる。神功皇后伝説で有名な神戸市の生田神社に祀られている稚日女は天照大御神の幼名とされている。(文献7②)
稚日女を祀ったのは、天照大御神の荒御魂を祭神とする広田神社の影響が想像される。その時期は定かではないが、広田神社が列なる二十二社が永例となった永保元年(1081)の頃ではないかと想像される。

 イワクラは、本来は神の一時的な座にすぎない。しかし、稚日女は凝縮化されたイワクラであり石神である。もはや、天下る神ではないのである。もとあったイワクラが石神化することはよくあるが、新たな石神がイワクラの傍に追加されることは、イワクラの自然な発展形態から考えて異様である。このようなことは、体の弱い者が細菌に犯されやすいように、イワクラ祭祀が弱体化しているから起こりうることである。
北山山頂の奥津イワクラから中腹の中津イワクラを経て山麓の辺津イワクラに降りてくるとされる神は、辺津イワクラの手前の稚日女のイワクラに阻止される。辺津イワクラであった甑岩はイワクラの地位を失い守護神的な岩に変質する、いわいる岩門(いわと)の誕生である。この結果、神体山信仰は崩壊し、奥津イワクラと中津イワクラの二つのイワクラは山にとり残される。つまり、二つのイワクラはモンテリウスのいうところの「痕跡器官」である。
ここで中山吾孫子本神所を思い出して貰いたい。下のイワクラは、中山寺の奥の院として、いつも参拝客で賑わっている。しかし裏山の上、中のイワクラは、イワクラの愛好者さえも知る人が少なくひっそりと眠っている。いつの日か完全に忘れ去られる時がくるであろう。そして、それが今の北山の姿ではないだろうか。
 そしてまた、下のイワクラの前に石像が置かれたように、越木岩神社の辺津イワクラの後に小さなイワクラが置かれたのではないだろうか。
三つのイワクラ祭祀の崩壊は、イワクラ祭祀の衰退期における外来文化の侵入によるものであり、それは強大化した社殿神道であることが想定できる。岩門と鳥居、石神と社殿の関係は、社殿神道の思想のイワクラへの転用である。どのようなものであっても永続的な純粋培養はありえず、何時の日か外部からの侵入を受けることは歴史的事実であろう。
よくイワクラ祭祀から社殿祭祀に移行したと言われるが、事実はそのように一面的ではない。イワクラ祭祀が社殿祭祀に先行したことはすでに定説であるが、社殿祭祀が発生した後では、両者の共存が続き、相互の影響が考えられる。どちらかと言えば、より近代的ともいえる社殿祭祀が時の権力と結びイニシアチブを取ったものと推定される。
(注)鳥居の起源については諸説あるが、岩門がその起源であるとするものは文献上見当たらない。このことは、逆に、鳥居の思想が岩門に適用されたことを示している。木の文化は、材料の入手と加工が容易なことから石の文化と同程度に古いと思われる。

稚日女のイワクラは小さく容易に建設が可能であることに留意すべきある。
1995年1月17日の阪神大震災の際このイワクラは崩れたが、神社側の話ではその崩れ方から人工的に築かれたイワクラの可能性があるとのことである。(もちろんイワクラが古代人の建造物であるとする人々にとってはあたりまえのことではあるが・・・、私は、日本のイワクラの多くは、アニミズムの立場から本来自然石と考えている)

稚日女のイワクラの設置時期は、これまで述べたように社殿神道と密接な関係にある。古代に神社建築が存在しなかったことは、今では定説といってよい。(文献5②、11)また、神社の社殿建築が一般化する時期については、律令制下の官社制度が成立した天武朝(7世紀末)であるとの有力な説がある。(文献5②、12)

以上のことから、
稚日女のイワクラは一般に語られているように太古からあるものでなく、社殿神道の影響により後世に築かれたものと推定される。

7 むすび
本論文では、「三つイワクラの直線配置」をとりあげたが、私の先の論文「六甲山系ごろごろ岳 漢人のイワクラ」(イワクラ学会誌8号掲載)においては、「イワクラの三角配置(剣岩・鏡岩・弁天岩)」が、時の流れとともに起こり、変遷する様を述べている。これも、今から思えばイワクラ進化論の一例である。
イワクラは古代史を研究する上で貴重な古代遺跡であり、文化財の規定に照らし現在ボルダリングの対象となっているボルダータワーとコックロックの適切な調査・保護を西宮市教育委員会にお願い致します。


<参考文献>
文献1「型式論」http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/kouko17keisiki.html
文献2「大神神社」 中山和敬著 学生社 1999年刊
    ①神奈備の共通例 p49、50  ②磐座 p56~70 ③大物主神と大国主神 p98,99
文献3「東アジアの古代文化28号」大和書房 1981年刊
    ①対談 松前健、安井良三 p2~22 ②六甲巨石文化 松本翠耕著 p25~37
文献4「古代人は太陽に何を祈ったのか」 奥野正男著 大和書房 1995年刊 p19~70
文献5「神体山」 影山春樹著 学生社 2001年刊
    ①山をめぐる祭祀型態 p226 ②解説 岡田精司著  p238~241
文献6「郷土を知る―宝塚・史跡伝承の寺々―」 川端道春著 あさひ高速印刷 1994年刊 p16~18
文献7「フリー百科事典ウィキペディア」 http://ja.wikipedia.org/wiki/ ①大物主 ②稚日女
文献8「日本の磐座」http://www15.ocn.ne.jp/~kodaiisk/nihon.html
文献9「越木岩神社」 http://www5.ocn.ne.jp/~koshiki/gosintai.htm
文献10「神社史論攷」 吉井良隆著 1990年刊 p17~19
文献11「神社建築の源流―古代日本に神殿建築はあったか―」 岡田精司著 考古学研究46巻2号 1999年刊
文献12「神社建築の形成過程における官社制の意義について」 丸山茂著   建築史学33号     1999年刊


付録 衛星写真とGPSデータの比較例

  
表1 三つのイワクラのGPS測定結果(世界測地系)

イワクラの名前 北緯 東経
奥津イワクラ:太陽石 34度45分54.7秒 135度19分20.5秒
中津イワクラ:陽石 34度45分48.1秒 135度19分20.4秒
辺津イワクラ:甑岩 34度45分32.6秒 135度19分18.2秒

注1 GPS測定器:エンペックス気象計株式会社製 ポケナビmini FG-530
      精度は平均15m(衛星の状態により変化する)
  注2 ごろごろ岳山頂の三角点(点名:剣谷)での誤差例 ±0.4秒
図1 三つのイワクラの配置図(イワクラの座標の単位:m)
注 緯度経度から距離の換算は、国土地理院の2万5千分の1の地図より、
北緯30.76m/秒  東経25.38m/秒を実測して適用した。

表2 三つのイワクラの衛星写真とGPSデータの比較(距離)

   奥津イワクラ:太陽石からの直線距離
衛星写真データ GPSデータ 誤差率
中津イワクラ:陽石 201m 203m +1.0%
辺津イワクラ:甑岩 666m 682m +2.4%

  誤差率=GPSデータ/衛星写真データ

表3 三つのイワクラの衛星写真とGPSデータの比較(角度)

   東を0°とした時の、時計周りの角度 方位誤差sin⊿θ
下図参照
衛星写真
読み取り
データ
GPSデータ 角度の差⊿θ
中津イワクラ:陽石 90° 90.7° +0.7° 1.2%
辺津イワクラ:甑岩 93° 94.9° +1.9° 3.3%

角度の差⊿θ=GPSデータ-衛星写真データ


⊿θ:角度の差
 ズレr:目標地点Bを中心として方位線に接する円を描いたときの円の半径
方位誤差:目標地点Bを中心として方位線に接する円を描いたときの、
       円の半径rと方位線の発する地点Aから目標の地点Bまでの
       距離dとの比  r/d=sin⊿θ
      図2 方位誤差とズレの説明
               
関連資料
古代北山・太陽観測施設説の調査報告
こしき岩の分類
三輪山イワクラ群の段階的成立
北山と甑岩<延喜式 大国主西神社>

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