イワクラ(磐座)学会 調査報告電子版 2008年7月26日掲載
イワクラ(磐座)学会会報13号掲載                   

こしき岩の分類

1 はじめに
 六甲山麓の越木岩神社(西宮市)には、甑岩と呼ばれる巨大なイワクラがある。
本調査報告は、全国に散在する「こしき岩」と呼ばれるイワクラ(聖石)の名前の由来について調査・検討したものである。その結果、こしき岩の名前の由来は大きく分けて、「形状類似型」と「見晴らし・炊飯伝承型」と「遥拝・お供え型」の三つのタイプに分類されることがわかった。

2 形状類似型
形状類似型は岩の形状が甑に似ているもので、名前の由来として最も基本的なものである。ここで甑は弥生時代以降の土製の甑と、はやくても平安時代以降と推定される多段積みの木製の甑に分けられる。

(1)土製の甑
鹿児島県串木野市の西約40kmに位置する東シナ海に甑島と呼ばれる島がある。
江戸時代の『三国名勝図会』には、甑島の島名の由来が次のように述べられている。
「上甑に東西へ潮の通ふ海門あり、串瀬戸(くしのせど)といふ。そのうちに、甑形の巨岩あり、島民これを甑島大明神と称す。甑島の名はこれによりて得たりとぞ。」
しかし、本当にそうであろうか。
図1の写真の鳥居のある正面から見ると、甑形の巨岩はあまりに縦長である。
従って、これは図2の『大和耕作絵抄』にあるような多層積の木製の甑(井籠)からの想像であることがわかる。
甑島の初見は江戸時代よりはるかに古い奈良時代で、『続日本紀』の神護景雲三年(769年)11月の条に「天皇(称徳天皇)臨軒、薩摩国小六位、甑隼人麻比古(こしきはやとまひこ)、授外従五位下」とある。
『古事記』や『日本書紀』によれば、南九州の隼人は海幸彦の子孫で、弟神山幸彦との争いに敗れたため、山幸彦の子孫である大和朝廷の宮門を警護することになったという。
八世紀の中ごろ、薩摩隼人・大隅隼人(おおすみはやと)・阿多隼人(あたはやと)などの小王と共に、甑隼人の小王麻比古も、この小さい島から、宮門警護のために僅かばかりの兵を率い、はるばる奈良の都まで上がって勤番し、その功によって、他の隼人の小王らと共に叙位されたものである。(文献1)
「甑島」の名は、『続日本紀』の宝亀九年(778年)11月の条に初めて見え、『倭名類聚抄』 巻五の二十八丁には、「甑島:古之木之萬(こしきしま)」と読み方が注記されている。

図1 甑島の甑大明神(甑岩)の鳥居のある正面(文献1) 図2 多層積みの木製の甑:井籠(せいろ)(文献2@)

この時代の甑は、図3に示される古墳時代から続く瓦製の甑が主流である。尚、九州地方では、弥生式文化の時代から使われていたと推定されている。
図4は、甑大明神の岩の側面である。これを先端部の突起状の岩を除いて図3と比較すれば、甑と釜と竈の重なり具合や大きさや高さ
のバランスが極めて類似していることが分るであろう。奈良時代以前の人々にとって、甑大明神の岩の現在の側面こそが重要な意味をもっていたのである。


 
図3 兵庫県芦屋市三条古墳(文献3) 図4 甑島の甑大明神の岩の側面(文献4)

(2)多層積みの木製の甑
多層積みの木製の甑が何時ごろ用いられるようになったかは定かではないが、瓦製の甑の後である事は確かである。
瓦製から木製となり、それが発展して多層積みの甑になったといわれている。
焼き物の甑が、木の曲げ物の蒸籠(せいろ)にかわると、甑の字のつくり(瓦)が不自然となり、瓦の替わりに木を書くようになる。法隆寺(7世紀)の資材帳にその文字が見られる。(文献5)
曲げ物の蒸籠の形はもちろん円形であるが、後に井桁状のものがつくられるようになった。このため、蒸籠は井籠と書かれるようになった。多層積みはそのような時期にできたと考えられ、早くとも平安時代以降と推定される。

図5 多層積みの甑:井籠
高知県足摺岬の甑岩
祠の中にはしゃもじが置かれている。
図6 多層積みの甑:井籠
兵庫県西宮市越木岩神社の甑岩
岩の積み重ね状態が左と類似している。

 図5は高知県足摺岬の甑岩である。これは、明らかに図2に示したような多層積みの木製の甑(井籠)を意識したものである。図6は、兵庫県西宮市の越木岩神社の甑岩である。岩の重なり具合を見れば、これも足摺岬の甑岩と同類である。
甑岩は越木岩神社のイワクラで、その大きさは高さ10m・周囲40mである。
『摂津名所図会』武庫郡のところに「甑岩神祠(やしろ)は越木岩村にあり祭神巨岩にして倚疊(きちょう)甑の如し、此地の生土神(うぶすながみ)とす」とある。
倚疊(きちょう)とは、通常「いじょう」と読まれ、ぴったりと積みかさなることを指す。(文献2A)
甑岩は、酒米を蒸す時に使う井籠に似ていることから名づけられと言われている。
神社側が主張するように「延喜式神名帳に記載のある大国主西神社が越木岩神社の前身である」ことと、「延喜年間に甑岩から煙が立ち昇り、それが瀬戸内海を行く船からも見えた」という伝承とあわせると、甑岩の名は平安時代からあったのかも知れない。
尚、室町時代の俳諧の祖といわれる山崎宗鑑の句「照る日かな 蒸ほど暑き 甑岩」が残されていることから、室町時代には甑岩の名が確実にあったことがわかる。

3 見晴らし・炊飯伝承型
長崎市にある甑岩には次のような伝承(文献6)が残されている。
その昔、神功皇后が茂木に上陸された時、「三韓の見えるところはないか」と尋ねられたので土地の人はこの岩に案内しました。丁度お昼になったので、甑で飯を炊きました。
山を吹き下ろす風は、飯の蒸れる匂いを麓の浦へ運びました。この飯の香りで、神功皇后が昼食をとっていることを知り、以来、この浦を「飯香(いか)の浦」といい、この岩を「甑岩」と呼ぶようになりました。
また、類似の伝承(文献7)として
神功皇后の朝鮮出兵の時、遠征軍が天草灘からの乗船を待ってここに陣営を張り、甑を使って炊飯をやったので、この名が付いたという。その炊飯の匂いが下の海岸までとどいたらしく、その入江を飯香の浦という。
現在、甑岩には日本武尊が祀る甑岩神社が鎮座している。

図7 中央の三角の木立の山が甑岩(長崎市)(文献6)

尚、この甑岩のいわれについては甑類似説もあるが、形から見ても論拠は弱い。
『長崎名所図絵』に「長崎の東、・・・その頂に巌あり、甑の形のごとく崇くそびえて峭絶す」とある。地形的に、そそりたつ岩等をそのように呼ぶ場合があるので、そそりたつ岩の表現として用いたのであろう。やはり、見晴らし説が本命であろう。

 次の事例は兵庫県養父市にある兵庫県最高峰の氷ノ山(1510m)の甑岩である。
この岩に関する信仰や伝承の有無については不明であるが、炊飯の伝承ぐらいはあるかも知れない。山岳地帯にある甑岩において共通しているのは、抜群に眺望が良いことである。逆に言えば、山岳地帯において、見晴らしの利かない甑岩など存在しないということである。図8に、冬期の氷ノ山の甑岩の写真を示す。これを図7と比較すれば、形がよく似ていることが分るだろう。

図8 ドーム状に聳える雪に包まれた甑岩(兵庫県 氷ノ山)(文献8)

また、岩ではないが鳥取市にある見晴らしの良い甑山の由来として次の伝承(文献9)がある。
甑山は昔、武内宿弥がこの地を征し、この山に甑をすえ、鳥取市大桶に鍋をすえ、稲葉平定の布石と祭祀を行った。

図9 甑山(鳥取市)からの眺め(文献9)

いずれにせよ、伝承にでてくる甑の名のついた山や岩は、飯を炊くという以外に見晴らし台としての地形をそなえていることが多い。見晴らし台は、陣を構えたり、国見の儀礼として好都合である。

4 遥拝・お供え型
大分県宇佐市の安心町(あじむまち)に広がる田圃の中に、こしき石と呼ばれる岩がある。こしきは漢字で書くと甑である。石は「いわ」と読むそうである。 高さ1.5m、周囲1mの石で、地面に60度傾いて突き刺さるように立っている。傾いている方向は、米神山の山頂にある環状列石の方向で、終戦後まではここに豊作を祈ってお供えをしていた。(文献10)
言い伝えでは、上にある帽子のような石蓋を動かすと、嵐が来たり、祟りがあるという。

図10 地面に傾いて立つこしき石(大分県宇佐市)(文献11) 図11 米神山の山頂を指すこしき石
                (文献11)


図12 米神山の山頂のストーンサークル(文献12)

こしき石を携帯用の甑と言う人もいるが、斜めに立つ甑などありえないであろう。
むしろ、これを男性自身であるとの説の方が妥当である。これについては、別の機会に論述したい。
香川県さぬき市鴨部においては、正月の餅をつくことを「こしきする」と言っていることから、こしき石に餅を供え豊作を祈ったものと思われる。(文献13)
コシキの語は炊(カシ)キからきたと言われているので、さぬき市の事例は十分に理のあるものである。
米神山とこしき石の関係は、三輪山と大神神社の拝殿の関係に相当する。
即ち、こしき石は、神体山たる米神山を遥拝するための石である。これは、傾いた立石という特異な形態からも明らかであろう。
また、ここでの祭祀の起源は、環状列石や稲作との係わりから、弥生時代とする説もある。(文献14)

5 その他の説
今までに挙げた主要な説の他にも様々な説があるので、それらを筆者のコメントを添えて簡単に紹介する。

(1)地形説
コシキは侵食による岩石地方の意。
引用資料:『日本全河川ルーツ大辞典』(文献15)
   コメント:多層積み木製甑の形状からの派生と思われる。

(2)子敷説
   出産の時のまじないや合図に用いたことから、コシキ(児敷き・子敷き)の意。
   「こしきを落とす」 甑を御殿の棟から落とす。昔、宮中でお産の時のまじないに行った。(平家物語三、徒然草六十一段)
 また俗に、「甑を落とす」を「腰気を下ろす」にとることもある。
引用資料:日本国語大辞典(文献2@)
コメント:語呂合わせで、子敷きが甑岩のルーツである根拠は薄い。
ちなみに、甑島は、古書には「子敷」と書かれている。(文献16)
このことからも、「子敷」は、甑の単なる読み方を示したもので、前述の『倭名類聚抄』の、「古之木」と同様に、子敷そのものとは無関係であることがわかる。
越木岩神社の安産信仰は、神社側の説明にもあるように、甑岩の割れ目が女性自身に類似していることから派生したものと思われる。(文献17)
 また、インターネットによる調査では、安産信仰のある寺社において「こしき岩」の名がついた聖石の存在は、越木岩神社以外に検索できなかった。
甑の語源としては、カシキ(炊)の他に、コシキ(越器。物を蒸す時火気を中に隔てて上に越す器)もあり、腰気は越器に通じる。

<参考 現代語訳 平家物語 三 中宮御産事>(文献18)
后御産のときに御殿の屋根から甑を転がすというまじないを行なった。
まじない自体は珍しいものではない。甑は米などを蒸す素焼きの土器で、出産のとき胞衣が滞るのを解くために甑を落として割る習慣があった。なぜ甑なのかはよくわからない。後代の『徒然草』には、「甑は子敷である。胞衣を子供が(胎内で)敷いているのである。子供が生まれてから、子供の子敷である胞衣が下りてこないときには、その(甑を落とす)まじないによって子敷を落とすのである。」と説明があるが、どの程度真実だろうか。それはさておき、皇子が生まれたときには甑を南へ落とし、皇女が生まれたときには甑を北へ落とすということに決まっていたものを、間違って北へ落としてしまった。下で見ていた人々が「これはどういうことじゃ。」と騒いだために上の方でも気がついて、あらためて南へ落としなおしたが、人々にとってあまり気分のいいものではない。

<参考 徒然草六十一段>(文献19)
御産の時、甑落す事は、定まれることにはあらず。御胞衣(えな)[胎兒を包める膜、子が敷くため子敷と甑と同音でまじないに用いた。次の大原も大腹と通じ安産を願ったもの。]滞る時の呪なり。滯らせ給はねばこの事なし。下ざまより事おこりて、させる本説[正しき確かなよりどころ]なし。大原の里の甑を召すなり。
ふるき宝蔵の絵に、賤しき人の子産みたる所に、甑おとしたるを書きたり。

(3)瓦の産地説
長野市の太郎山に甑岩と呼ばれる巨大な岩があり、文献20に次の記述がある。
甑とは瓦製の蒸し器を意味するが、焼物に適した粘土の産出地にもよくつけられる地名である。この近くで金色の砂が混ざった良質の粘土が産出してそう呼ばれていた。その地名にちなんで、この巨岩を甑岩と呼ぶようになったということである。

図13 素晴らしい展望の太郎山(長野市)の甑岩(文献20)

コメント:この岩に関する信仰や伝承の有無については不明である。
     この説を裏付けるものとして、福井県清水町に甑谷という地名があり、地名辞典(文献21)に次の記述がある。
     「甑谷の地名の由来は、古墳時代以来、甑の産地であったからか? 
     但し、今のところ甑や窯跡は発見されていない」
     図13の写真を見れば、これも見晴し型に含めて良いであろう。

6 甑岩の時系列
  まとめとして、極めて大胆であるが、各地の甑岩の時系列を以下に推定する。
   ・大分県宇佐市のこしき石         遥拝石      弥生時代
     稲作、ストーンサークル
   ・鹿児島県甑島の甑大明神岩      土製甑      古墳〜奈良時代
     土製甑の普及、日本書紀
   ・兵庫県西宮市の越木岩神社の甑岩  井籠       平安〜室町時代
     延喜年間の伝承、井籠(餅)の普及

研究論文
神奈備山イワクラ群の進化論的考察<越木岩神社 稚日女のイワクラ>
北山と甑岩<延喜式 大国主西神社>

参考文献
1 甑島「島名の由来」:http://www.koshikijima.net/history/yurai.html
2 日本国語大辞典 第二版 @第5巻 p739 A第1巻 p969 小学館 2001年刊
3 時代別国語大辞典 上代編 p292 三省堂 1983年刊
  『新修芦屋市史』資料篇一 p420〜421 図版27 図180 芦屋市 1976
  「本邦古墳発見の竈形土器」 島田貞彦 (『歴史と地理』第22巻5号 1928)
4 甑大明神の側面写真:http://www5.synapse.ne.jp/furusato/sub2kamikosiki.htm
5 図説 台所道具の歴史 p73〜75 GK研究所・山口昌伴(まさとも)著 柴田書店 1978年刊
6 長崎甑岩の伝説@:http://www2.odn.ne.jp/yumat/yama_kosiki_iwa.html
7 長崎甑岩の伝説A:http://www.seibonokishi-sha.or.jp/kishis/kis0111/ki06.htm
8 氷ノ山の甑岩:http://www.hk.sun-ip.or.jp/y-adachi/wakasa.html
9 稲葉山への道:http://www.pref.tottori.jp/kouen/guidemap/tottori17.htm
10 こしき石の祭祀http://www.coara.or.jp/~kamizuru/sadakyu8.html
11 こしき石の写真 http://homepage2.nifty.com/deestyle/mysteri/koshiki.htm
12 米神山のストーンサークル:http://beryoska.btblog.jp/cm/kulSc082n4601D7B5/1/
13 こしき山の昔話:http://www.niji.or.jp/home/kabese01/map/kosiki-hanasi.htm
14 佐田京石:http://homepage2.nifty.com/deestyle/mysteri/kyouseki.htm
15 日本全河川ルーツ大辞典 監修 池田末則著 竹書房 1979年刊
16 大日本地名辞書 第4巻 西国 p606 吉田東伍著 冨山房 1976年刊
17 東アジアの古代文化28号 p37 松本翠耕著 大和書房 1981年刊
18 平家物語:http://members.at.infoseek.co.jp/masa_n/heike/h85ch3_13.htm
19 徒然草:http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/turez_2.htm
20 長崎・太郎山の甑岩:http://www2.plala.or.jp/aki_ogawa/hike/ph-wakahotaro.html
21 角川日本地名大辞典 18福井県 p490 竹内理三著 角川書店 1991年刊

(C20111011アクセスカウンター)

トップページに戻る