イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版 2015年7月13日掲載
イワクラ(磐座)学会会報34号掲載      
   


     北山と甑岩<延喜式 大国主西神社>
                                                               イワクラ(磐座)学会  江頭 務
はじめに
 延喜式神名帳の摂津国菟原(うばら)郡には、河内国魂(くにたま)神社 大国主西神社 保久良神社の三社が記載されている。
このうち河内国魂神社と保久良神社は現存しているが、大国主西神社は謎である。
後世の文献はそれをえびす信仰で有名な西宮神社に比定しているが、
西宮神社は江戸時代には隣の武庫郡にあったためこの点が問題とされている。
本稿は、三輪山の祭神:大国主神(大物主神)と磐座信仰との共通性から、
越木岩神社の論社としての適格性を過去の論文をベースに要約したものである。
まず、三輪山に相当するものとして神社の裏の北山が挙げられる。
北山には奥津磐座と中津磐座に相当する太陽石と陽石の巨石があり、麓の越木岩神社には辺津磐座に相当する甑岩(陰石)がある。


1 北山と甑岩の全体図
 北山は兵庫県西宮市に属する六甲山系の南にある海抜230m程度の山である。
北山の麓には、磐座で有名な越木岩神社の「甑岩」がある。(図1A)

現在は離れ小島のように甑岩は北山から分離されているが、延喜年代には山塊として一体であったと考えられる。

 
 図1A 北山・越木岩神社近傍のGoogle Earth衛星写真
    (太陽石―203m―陽石―477m―甑岩)
  図1B 亀の頭から見た北山の核心部 
     左端に太陽石、右に雛の冠が見える


2 古代北山・太陽観測施設説
 昭和五十年代、「日本のピラミッド」研究家の大槻正温(まさやす)氏は、
北山の巨石群で構成された古代北山・太陽観測施設説をとなえた。
これについて、松本翠耕(すいこう)氏の「六甲巨石文化」(文献1)に関連記事が掲載されている。
また、入手しやすい本として、大和(おおわ)岩雄氏の『神々の考古学』(文献1)にその抜粋(添付資料1参照)が載せられている。
しかし、現時点で、太陽観測施設の基準となる巨石を特定できるものもあるがそうでないものもある。
また、方位測定をどのような方法で行ったのかも不明である。
そこで図2は、先人の研究を改めてハンディGPSを用いて調査しなおしたものである。(文献2)
結論としてこれが古代北山・太陽観測施設かどうかは不明であるが、太陽を崇める古代の祭祀場であった可能性は考えられる。
太陽祭祀は磐座の原初形態である。


図2 太陽観測施設説 北山巨石群と方位の測定結果

<巨石の形状と特徴>
①太陽石(図3)
 この岩は、「六甲巨石文化」の記事の中に写真があり、調査対象との一致は明確である。
 また、岩登りの愛好家の間でボルダータワー(boulder tower)と呼ばれている有名な岩である。
 ボルダーとは丸い大きな石のことで、フリークライミングの対象ともなっている。
 南(図3の右側)に向いて口を開いた人の顔に見えることから人面岩とも呼ばれる。
 大槻正温氏はこれを「太陽石」と呼び、太陽観測施設の中心をなす巨石であると主張した。
②火の用心石(図4)
 この岩は、「六甲巨石文化」の記事の中に写真があり、調査対象との一致は明確である。
 その写真に写っている岩の側面には、ペンキで「火の用心」の文字が書かれている。
 ここから、この岩の名前が付けられた。

図3 太陽石 西側から撮影した太陽石
図4 火の用心石 北側から撮影した火の用心石

③ピーク(図5)
 この岩と調査対象との一致は必ずしも明確でない。甲山に向う顔のような岩が頂上にある。
④亀の頭(図6)
 この岩と調査対象との一致は必ずしも明確でない。

   
図5 ピーク
   北側から撮影。
   顔のような岩がある。
図6 亀の頭
   左手に太陽石、右手に雛の冠が見える。
   この岩の背後には亀の甲羅に似た平たい岩がある。

⑤方位盤石(図7)
 この岩は、「六甲巨石文化」の記事の中に写真があり、調査対象との一致は明確である。
 なんだかお尻のようである。
⑥雛の冠(図8)
 この岩と調査対象との一致は必ずしも明確でない。
 この岩は、岩登りの愛好家の間でバットマンと呼ばれているボルダーのすぐ上にある。
 ④亀の頭から見た光景が、顔(巨岩)の上に乗っかった冠のように見える。(図6参照)

図7 方位盤石
   正面に太陽の方位に関連する30度の
   切れ込みがある(図2参照)
図8 雛の冠
   雛の冠の先端部すぐ右手の林の中から
   「ピーク」の先端がのぞいている


3 北山の陽石
 太陽石から203m南にある大きな岩である。
この岩についての祭祀的な文献等は見当たらないが、岩登り愛好家の間ではコックロック(cock rock)と呼ばれている有名な岩である。
古事記に曰く、『我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり』
リンガ信仰は太古から世界各地にあり、悪霊を払い五穀豊穣と子孫の繁栄を祈る最も素朴な信仰である。
図1に見られるごとく太陽石・陽石・甑岩は南北線上にならんでいる。
これは、三輪山の奥津(おきつ)磐座(いわくら)・中津(なかつ)磐座(いわくら)・辺津(へつ)磐座(いわくら)に相当するものであろう。
三輪山の磐座祭祀は、出土遺物から古墳時代以前に遡るものと推定されている。

 
図9A 陽石       図9B 左の陽石から見た200m先の太陽石(2006年12月30日撮影)
      現在では、木々に覆われて見えないこともある。


4 越木岩神社の甑岩(陰石)
 太陽石から680m南にある甑岩(こしきいわ)は越木岩神社の磐座で、その大きさは高さ10m・周囲約40mである。
寛政八年(1796)に刊行された『摂津名所図会』に
「甑岩神祠(こしきいはのやしろ)越木岩村にあり、祭神巨岩(おほいは)にして倚疊(きてう)甑の如し、此地の生土神(うぶすながみ)とす。
 照る日哉蒸すかと暑き甑岩 山崎宗鑑」とある。(文献3①)
山崎宗鑑は、荒木田守武とならぶ室町時代の俳諧の祖である。


   文中の倚疊(きてう=きちょう)とは、
通常「いじょう」と読まれ、ぴったりと積みかさなる様を指す。(文献4①)
酒米を蒸す時に使う「甑(こしき)」という道具に似ていることから
「甑岩」と名づけられている。
甑は古墳時代にも土製の焼き物(図11)があるが、
ここでは平安時代以降の木製の井籠(せいろ)(図12)のことである。(文献5)
今から約1100年前の延喜年間には、
この岩より煙が立ちのぼり、海からも眺められたという伝承が残されている。
また、巨岩の形状が女性自身に似ていることから、
女性を守る神として子授かり・安産のご利益があるとされている。
これは、477m離れたところにある前述の陽石と一対であり、
原初からのものと考えられる。

 図10 越木岩神社の境内にある甑岩(陰石)  

 
 図11 古墳時代の甑 
    兵庫県芦屋市三条古墳(文献6)
図12 多層積みの木製の甑 
    井籠(せいろ)(文献4②)


5 延喜式 大国主西神社
 延喜式神名帳の菟原郡の大国主西神社は、一般的には兵庫県西宮市社家町の西宮神社境内末社(HP1)とされる。
このいきさつについて、西宮神社の元宮司である吉井良尚(よしひさ)氏の一文があるので以下にその要点を紹介する。
明治五年三月、西宮戎社は官幣大社廣田神社より分立し、祠掌として吉井良幹が任ぜられた。
翌明治六年六月、西宮戎社は大国主西神社と改称され、祠掌に吉井良秀が補任された。
さらに明治七年四月、この大国主西神社(西宮戎社)の村社から県社への昇格を願い出、
大国主西神社として県社に列せられた(明治七年六月三十日)。
ところが、同年八月二十八日付を以て先の大国主西神社の社格を取り消し、
西宮神社ともども廣田神社の摂社と定める旨、教部省から達しがあった。
この時点で教部省は、「西宮戎神社」と「大国主西神社」を別の神社と見ており、
「西宮戎神社」を「大国主西神社」と改称し県社への昇格を願い出た西宮神社側との認識の違いが混乱の一因となっている。
氏子総代が異議申立てをした処、十一月七日に摂社の儀はそのまま、「西宮神社」「大国主西神社」共に県社と定めるとの指令があった。
ここに云う「大国主西神社」とは、元は境内の阿彌陀堂という仏堂で、
享保二十年(1735)、大己貴命 少彦名命二柱を勧請し神社にしたとものである。
その後の県や教部省の考証においても大国主西神社の由来については確定できないとある。
戦後、廣田西宮両神社は別々の宗教法人となり、
大国主西神社は社格を持たぬ神社として、西宮神社の境内神社となっている。(文献7)(添付資料2参照)
このことから、西宮神社境内末社は、大国主西神社としては便宜的なものであることがわかる。
やはり、西宮神社そのものが大国主西神社であるかどうかが問題であろう。
西宮神社の前身が大国主西神社であるとする初見のものとされるものに、享保十九年(1734)成立の江戸幕府の地誌『摂津志』がある。
しかし、著者の並河(なみかわ)永(えい)はその理由を記していない。(文献8) 
これは寛政八年(1796)成立の『摂津名所図会』なども同様である。(文献3②)
大国主西神社を西宮神社とする説の論点をまとめたものとして、西宮神社の元宮司である吉井良隆氏の『神社史論攷』がある。(文献9)
すっきりした説は、エビス神を大国主神として祀る神社が全国的にみても多いことから
西宮(地名)の「西」を加えて大国主西神社とするものである。(文献10)
しかしながら、これには異論も多い。(文献11)
吉井良隆氏は、延喜式神名帳の神社名の検討から「西」は地名ではなく方角を指すものであるとし、
またエビス神を大国主神と結びつけることにも疑問を呈している。(文献9)
一般に最大の争点とされるものに、菟原郡と武庫郡の郡界問題が挙げられる。
大国主西神社は菟原郡であるが、西宮神社は武庫郡にある。
延喜年間の郡界は条里制から夙川とされているため、
当時の夙川が西宮神社の東を流れていたとする説があり、
西宮市常盤町にある「一本松地蔵尊」の脇には、郡界を示す石柱がたっている。(文献12) 
また吉本昌弘氏の論文「摂津国八部・菟原両郡の古代山陽道と条里制」によれば、阪神電車打出駅付近が郡界とされている。
これは、現在の芦屋市と西宮市の境界よりもさらに600m西側となる。(文献13)
田岡香逸(こういつ)氏は、論文「式内大国主西神社考」(文献11)において、
阪神電車打出駅の北約200mにある打出天神社(HP2)を大国主西神社の比定地としている。
近くには金津山古墳や打出小槌古墳があり、これらとの関係が指摘されている。
一方、越木岩神社説に関して、私見を述べれば次のようになる。
『古事記』によれば、大国主神(おおくにぬしのかみ)とともに国造りを行っていた少彦名神(すくなひこなのかみ)が常世の国へ去り、
大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けばよいのかと思い悩んでいた時に、海を照らしてより来る神があり、
大和国の三輪山に自分を祀るよう託宣したとある。
ここでは「海を照らしてより来る神」が何者かわからないが、
『日本書紀』では、大己貴神(おおなむちのかみ)がその神に「どなたですか?」と聞くと
「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。
幸魂・奇魂は和御魂(にぎみたま)と総称され、万物を慈しむ太陽のような神の優しい側面である。
それに対して荒御魂(あらみたま)は、天災などの神の荒々しい側面である。
神はこの両面を合わせ持つとされる。
『日本書紀』によれば大己貴神・大物主神(おおものぬしのかみ)は大国主神の別名とある。
このことから、「海を照らしてより来る神」(太陽)は大国主神の和魂(にぎみたま)となる。
つまり、大国主神=大己貴神=大物主神=大神(おおかみ)であり、
三輪山の奥津(おきつ)磐座(いわくら)に鎮まる大物主神を奉斎する大神(おおみわ)神社は内容的には大国主神社である。(文献14)

①『摂津名所図会』によれば越木岩神社(甑岩神祠)は武庫郡にあるが、それが延喜年代と同じであったかどうかは定かではない。
 『西宮市史』は、条里制に従って武庫郡と菟原郡の郡界を夙川としている。(文献12)
 越木岩神社は夙川の西岸にあり、西宮神社は夙川の東岸にあるため、
 越木岩神社が延喜年代に菟原郡にあった可能性は西宮神社よりも高いといえる。
②越木岩神社のある北山が、大国主神の和魂を祀る三輪山の西にあること。
③太陽石・陽石・甑岩(陰石)が、三輪山の奥津磐座・中津磐座・辺津磐座に対応すること。
④三輪山の山頂には日向(ひむかい)神社と呼ばれていた高宮(こうのみや)があり、
 かつての日神(ひのかみ)祭祀の祭場とされている。(文献15) 
 北山の山頂にも太陽信仰を思わせる太陽石と呼ばれる磐座があり、そこから南に向かう磐座線がある。(文献16)
⑤越木岩神社が見つけた資料に明治六年六月の兵庫県の辞令がある。(図13参照)

内容は、神社南隣の西平町の戸長(こちょう)である吉井忠兵衛に「摂津国武庫郡越木岩新田大国主西神社祠掌申付候事」とある。
戸長とは、明治前期、地方行政区画の区や町村の行政事務をつかさどった役人。
明治五年(1872)の大区・小区制下では小区の長として置かれ、従来の庄屋・名主などから選ばれた。
明治二十二年町村制施行により廃止。今の町・村長にあたる。(デジタル大辞泉)
つまり、吉井忠兵衛に越木岩新田(昔の越木岩神社の住所名)の大国主西神社の守を申し付けるとある。
文中の祠掌(ししょう)とは社掌(しゃしょう)の旧称で神職の役職名である。
旧制度では県社や郷社などで社司(しゃし)に仕え、村社・無格社では祭祀をつかさどり庶務を管理した。
これは、前述の「明治六年六月に西宮戎社が大国主西神社と改称され、祠掌に吉井良秀氏が補任された」ことと同類のものと思われる。
『越木岩神社の古文書』には、
吉井忠兵衛の明治六年六月三十日付の「新田大国主西神社祠掌兼勤拝命書」が掲載されている。(文献17①)


図13 明治六年六月付の兵庫県の辞令(HP3)

それにしても越木岩神社と西宮戎社に大国主西神社がなぜ二つ存在するのか不思議であるが、
とにかく越木岩神社が論社として意識されていたことを示すものであろう。
尚、上述の西宮神社の吉井良秀氏は、『越木岩神社の古文書』から越木岩神社の社掌でもあることがわかる。(文献17②)

尚、越木岩神社の祭神は、大国主神→稚日女(わかひるめ)尊→蛭子(ひるこ)大神に変遷した。
甑岩の60mほど北に、古社として稚日女尊の磐座が鎮座している。
稚日女尊は日神(ひのかみ)(太陽神)である。稚日女は天照大御神の幼名とも、妹神や御子神であるとも言われる。(文献16) 
いずれにせよ、天照大御神から一歩下がった神である。

稚日女尊の磐座は人為的なものと思われる。
この磐座の成立により、北山が信仰の対象から切り離されたと想像される。(文16)
尚、稚日女尊は神功皇后の新羅征討説話にまつわる
生田神社の祭神としても知られている。
大国主神から稚日女尊の変遷は、
天照大御神の荒御魂を祀る広田神社の影響と推定される。
その時期は定かではないが、
広田神社が列なる二十二社が永例となった
永保元年(1081)の頃ではないかと想像される。
図14 稚日女尊の磐座
    (北座 高さ1.6m 幅1.7m)
 

また蛭子大神は、明暦二年(1656)に円満寺(えんまんじ)の教順が西宮神社より勧請したとある。(HP4)
『摂津名所図会』によると、西宮神社の隣にある円満寺は、
天正七年(1579)の兵火により鷲林寺(じゅうりんじ)(西宮市)から本尊薬師仏が当地に遷されたとある。(文献3③)
蛭子神社の勧請は、磐座祭祀の実質的な終焉を告げるものであろう。
越木岩神社は磐座(大国主神)にはじまり、古くは広田神社(稚日女神)、
その後は西宮神社(蛭子神)の影響下におかれたと言えるであろう。

参考文献
1「六甲巨石文化」松本翠耕(すいこう)(『東アジアの古代文化』28号 p25~37 大和書房 1981)
 『神々の考古学』p322~323 大和(おおわ)岩雄 大和書房 1998
2「古代北山・太陽観測施設説の調査報告」江頭務(『イワクラ学会会報』12号 2008)
3『摂津名所図会』三 ①p56 ②p52 ③p22~23 p56 秋里籬島 新典社 1984
4『日本国語大辞典』第二版 ①第1巻p969 ②第5巻p739 小学館 2001
5「こしき岩の分類」江頭務(『イワクラ学会会報』13号 2008)
 『新修芦屋市史』資料篇一 p420~421 図版27 図180 芦屋市 1976
6『時代別国語大辞典』上代編 p292 三省堂 1983
7『吉井良尚(よしひさ)選集』p41~47 西宮神社 1962
8『摂津志』並河(なみかわ)永(えい) 享保十九年(1734)成立(『復刻日本古典全集 五畿内志』下 p575 現代思潮社 1978)
9『神社史論攷』p17~19 吉井良隆 西宮神社 1990
10『福神の研究』p105~117 喜田貞吉(さだきち) 日本学術普及会 1935
11「式内大国主西神社考」田岡香逸(こういつ)(『日本上古史研究』第6巻6号 p101~113 1962)
  『西宮夷神研究』p127~137 吉井吉秀 西宮神社 1935 
  『日本宗教史の研究』p352~353 長沼賢海 教育研究会 1928
  『上代浪華の歴史地理的研究』p212~232 天坊幸彦 大八州出版 1947
12『西宮市史』第1巻 p468~472 p404~409 西宮市 1959
13「摂津国八部・菟原両郡の古代山陽道と条里制」 吉本昌弘(『人文地理』第33巻4号 p79~80 p86~87 1981)
14『大神神社』p85~101 中山和敬 学生社 1999
15『神社と古代王権祭祀』p55~72 大和(おおわ)岩雄 白水社 1989
  「三輪山イワクラ群の段階的成立」江頭務(『イワクラ学会会報』11号 2007)
16「神奈備山イワクラ群の進化論的考察」江頭務(『イワクラ学会会報』9号 2007)
17『越木岩神社の古文書』①p33 ②p38~41 越木岩神社 2012

ホームページ
HP1「神社拾遺 式内 大国主西神社(西宮神社境内末社)」http://jinja.kojiyama.net/?p=52633
HP2「打出天神社」http://www.trans-usa.com/ashiya/u_jinja.html
     「金津山古墳」http://www.trans-usa.com/ashiya/koganeduka.html
    「打出小槌古墳」http://www.trans-usa.com/ashiya/k_kofun.html
HP3「ミステリースポット 越木岩神社の甑岩」http://mysteryspot.main.jp/mysteryspot/koshikiiwa/koshikiiwa.htm
HP4「越木岩神社 ご由緒」http://www.koshikiiwa-jinja.jp/koshiki/

関連資料
神奈備山イワクラ群の進化論的考察<越木岩神社 稚日女のイワクラ>
古代北山・太陽観測施設説の調査報告
こしき岩の分類
三輪山イワクラ群の段階的成立<沖ノ島と三輪山の時系列比較>


添付資料1 古代北山・太陽観測施設説  『神々の考古学』p322~323 大和(おおわ)岩雄 大和書房 1998より


出典:「六甲巨石文化」松本翠耕 (『東アジアの古代文化』28号 p25~37 大和書房 1981)


添付資料2 国立国会図書館蔵 『社寺取調類纂』第4冊(21至27)
        マイクロ書写資料から読み取ったものを下記に示す。


本資料は、明治七年十一月七日の教部省の裁定を反映する文書である。
西宮神社と大国主西神社は独立した神社となっており、共に県社である。
西宮神社は式外。大国主西神社は式内であるが、由緒は口上とあるのみで明らかではない。
また、『特選神名牒』にも大国主西神社の神名は挙げられていないとある。

(注)用語解説
特選神名牒 Wikipedia
 『特選神名牒』は『延喜式神名帳』の注釈書である。教部省撰の全32冊。
 正史や古書、及び明治になって各府県にて作成された「神社取調書」や「神社明細帳」を参考に考証し、
 『神名帳』記載順に従い、各式内社の祭神・神位・社格・所在地等を記す。

神社明細帳Wikipedia
 神社明細帳は、内務省および庁府県に備え付けられていた神社の台帳である。

官有地第一種
 官有地は用途により第一種から第四種まで分類されている。第一種は皇宮地、神地。
 第二種は皇族賜邸、官用地。第四種は学校、病院等。
 第三種は上記以外(山岳丘陵林藪原野河海湖沼地澤溝渠堤塘道路田畑屋敷等其他民有地ニ有ラザルモノ此ノ他鉄道路線敷等)。

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