イワクラ(磐座)学会 調査報告電子版 2008年8月9日掲載
イワクラ(磐座)学会会報14号掲載

六甲山系周辺の岩石にまつわる民話と伝承

 六甲山系は阪神間の市街地の背後、西は塩屋から東は宝塚まで、幅約10km、長さ約30kmにわたって連なる細長い山系である。最高峰は931mで1000mに満たないが、市街地に近いことから市民の憩いの場となっている。本稿は、先にイワクラ(磐座)学会誌7号に掲載した「六甲山系の岩石にまつわる民話・伝承」の続編として、六甲山系の周辺部に散在する民話と伝承を紹介する。

@越木岩神社の甑岩

 越木岩神社は、古くから巨岩信仰で全国的に知られた西宮市の有名な神社である。越木岩神社の甑岩(こしきいわ)は、機能的には岩戸(いわと)と呼ばれる鳥居のようなもので、奥に稚日女尊宮(わかひるめのみこと)の磐座がある。稚日女尊宮は、天照皇大神の妹神で、神代に紀伊国伊都郡(かつらぎ町)奄田(三谷)に降臨し、御子の高野大神とともに大和・紀伊を巡った後、天野原に鎮まったとされる。また、一説には天照皇大神の幼名であるとも言われている。
説明の立て札によると、六甲山の石宝殿は、越木岩神社に分祀されている貴船社の奥宮である。貴船は水の神であり、雨乞いの神である。「雨乞い」のキーワードによって貴船社、石宝殿、弁天岩、鱶切り岩が一つに繋がっている。まさしく、今も昔も、水こそが人類生存の源である。
民話における石宝殿と甑岩の鶏の声の類似性はおもしろい。また、越木岩神社は北のえびすとも呼ばれ西宮神社と対応し、両社は、共に石の宝殿を奥宮とするのも興味深い。

見るものを圧倒する巨大な甑岩 十字の家紋が刻まれた甑岩(家紋は池田備中守長幸)

<伝承> 越木岩神社の由緒書きより要約
甑岩は、高さ10m、周囲40mの花崗岩の岩で、その形状が酒を作る時の甑に似ていることから名づけられた。古代信仰の霊岩とされ、今を去る約1100年前には、この岩より煙が立ちのぼり、海上を行く船からも見えたと伝承されている。この神の鎮まる霊岩を大阪城築城のために切り出そうと、村人達の制止の懇願を振り切って、豊臣秀吉が石工に命じて割らせたところ、今にも割れんとする岩の間より、鶏の鳴き声が聞こえ共に真っ白な煙が立ち昇り、その霊気に石工達は、岩もろとも転げ落ち倒れ臥し、如何にしても運び出せなかったと伝えられる。


(注)文中「豊臣秀吉が石工に命じて石を割らせた」とあるのは、歴史的には誤りである。
   甑岩の矢穴痕は、元和6年(1620)から寛永6年(1629)にかけて行われた徳川幕府による大坂城再築にかかわる採石によるものである。
   甑岩の刻印石は 「徳川大坂城東六甲採石場」と呼ばれる北山刻印群に属する。
   なお、十字の家紋が刻まれた石の管轄者である池田備中守長幸は、元和3年(1617年)に備中松山藩の初代藩主となった。
    参考サイト:「徳川大坂城東六甲採石場」http://www.gensetsu.com/04asiya/doc1.htm
           「越木岩自治会」http://kosikiiwajitikai.com/danjiri/dannjiridoromaku.pdf
           「池田長幸 - Wikipedia」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E9%95%B7%E5%B9%B8           

A夫婦岩

 この岩は、「磐座紀行」に磐座としてとりあげられている。この岩は、今も甲山の麓にある北山貯水池の西方を通る市道の真ん中にどっかと居座っていて、通行の邪魔になっている。岩は大きく二つに分離しており、その間には幹の直径が11cm程度の木が生い茂っている。この岩の近くに夫婦池と呼ばれる大小の二つの池がある。夫婦岩の名はここから付けられたものと思われる。
市道の真ん中にどっかと居座る夫婦岩

<伝承>磐座紀行 藤本浩一 1982年刊より
この岩は昔からその祟りを恐れられていた。道路建設の際、岩をくだいてどけようとしたが工夫が次々とわけもなく負傷したので設計を変更し、岩をそのまま残して道路を上り下りの左右に分けた。

B大土神社の蛙岩

 六甲ケーブル下近くの大土神社で蛙岩を調査中、偶然にも大土神社の神主さんに出会った。蛙岩はもともと神社のずっと下の方にあり鉄の柵で囲われていたが、道路建設のため神社の境内に移されたそうである。今は、大土神社の駐車場で車と同居する肩身の狭い身の上である。
蛙の目の掘り込みは昔からあるとのこと。目を黒く塗ったのは神主さんのサービス。尚、お玉杓子については良く知らないとのことであったが、大土神社の左側を流れる六甲川にはお玉杓子に似た黒い石が五つあった。
この蛙岩は、無事に帰る(蛙)にかけて、登山者に親しまれているそうである。
また、この近くに伯母野山の高地性集落遺跡がある。
前を向いた大土神社の蛙岩

<民話> 「六甲山」 ヤマケイ関西 2003年刊 p146より
むかしこの岩は、夜ごとに大きな蛙の姿になって山道の真ん中まで出てきて、人々を驚かせた。そこで村人は出られぬように、岩の回りに鉄の柵を作り、蛙まつりと称して岩を祀った。この岩の後には、お玉杓子の形をした岩がいくつかあって、毎年少しずつ大きくなっていたともいう。

C袂岩

 この岩は有馬温泉の太閤橋の脇にある。
袂石は「たもといし」、礫石は「つぶていし」と読む。
高さ約5m、周囲約19m、重さ約130トンの巨石で、古代の巨岩信仰の遺跡ではないかといわれている。
注連縄のかけられた袂石

<民話>有馬温泉観光協会の説明板より
 あるとき熊野久須美命(湯泉神社の祭神)が狩場を通られたときに、松永たんぽぽ城主が葦毛の馬に乗り、重藤の弓と白羽の矢を持って鷹狩をしていました。松永城主はあやしく思って熊野久須美命を射ようとしました。熊野久須美命は袂から松永城主に向かって小石を投げられました。この小石が年月を経て大きくなり、袂から投げられたので袂石とか礫石といわれるようになりました。その後、有馬では葦毛の馬や重藤の弓(下注参照)、白羽の矢を持って入ることが禁じられ、もし持って入れば晴天が急に曇り風雨がはげしくなると伝えられています。
 (注)重藤(しげどう)の弓 下地を黒塗りにして、その上を藤で巻いたもので、大将などが持つ弓。

D知るべ岩

 蓬莱峡の阪急バス停「知るべ岩」のすぐ先の川の左岸に表示板があり、ガードレールを乗り越えて、道なき斜面を強引に降りると川べりにある。
ごみが散乱している陰気なところに、木々に包まれて忘れ去られたように鎮座している。貴重な文化財なのに、嘆かわしい。座頭谷は知るべ岩から大平山に至る川沿いのハイキングコースであるが、道標が整備されておらず今でも迷いやすい。

<伝承>「六甲山ハイキング」 大西雄一著 創元社 1975年刊 p124より
碑文によると、むかし豊臣秀吉が有馬入湯の際ここで旅人がしばしば道に迷うと聞き、この岩に「右ありま道」と刻んで道しるべにしたとある。その後、江戸時代のある秋の夕間暮れ、一人の京の座頭がせっかくの知るべ岩を見ることもかなわず、左の谷深く迷い込み、さまよううちに倒れてしまった。里人は哀れと思いねんごろに弔って、以来この谷を座頭谷と呼んだ。

 詳細は 蓬莱峡 座頭谷の伝説 参照
 
石碑の立つ知るべ岩

E高座岩(こうざいわ)
 生瀬・武庫川上流(武庫川渓谷)の川中に雨乞いで有名な高座岩と呼ばれる巨大な岩がある。
この岩の上で、雨乞いのための馬の生贄祭祀が行われたらしく、岩の上面は広く平坦である。

<民話>西宮ふるさと民話http://www.nishi.or.jp/~siryo/minwa/
                        『38 高座岩と白馬』より
 高座岩の下には龍宮城まで行ける道がついていて、乙姫様が高座岩の上に出てきて遊ぶことがあった。乙姫様は岩をよごされるのをたいへんきらい、岩が少しでもよごれると、天の神様にたのんで雨を降らせてもらい、せっせと掃除をした。そういうわけで、雨が降り出すと、また、乙姫様が高座岩を洗っていなさる。」と、村人達は話していた。
 ある年のこと、来る日も来る日もかんかん照りで、田の水が干上がり始めた。そこで、村人全員で氏神さまに雨乞いをしたが、雨はいっこうに降らなかった。その時、村の老人が言った。「昔から、天の神様は白馬がお好きと聞いとる。白馬を生贄として高座岩の上にお供えしてはどうじゃろう。それに、乙姫様も岩の上がよごされたら、天の神様に、雨を降らせてくれるようにたのんでくれるかもしれん。」
 やがて、毛並みの美しい白馬が引かれてきた。「この白馬を殺すのか。」「かわいそうじゃのう。」「村じゃ今、水がなければ、みんなが飢え死にするのじゃ。」村人たちは、口々に言いながら、白馬を東山の猪切谷(いのきりだに)へ連れて行き、首を切り落とした。首は生木の棒に藤づるでつるされ、ふたりの若い衆にかつがれた村人の行列は、高座岩までやってきた。
 岩のまん中につくられた祭壇に白馬の首が供えられた。祭壇から落ちる真赤な血は、みるみるうちに高座岩を血の色でぬりつぶしていった。「天の神様、白馬の首をお供えします。どうか、一日も早く雨を降らせてください。」村人達が一心に祈ると、今まで一点の雲もなかった空に、六甲山の向こうから真黒な雨雲が現れ雨が降り始めた。

<参照論文>高座岩の雨乞い

F行基の投げ石

 行基は(668〜749年)は奈良時代の僧で畿内を中心に諸国を巡り、民衆教化や池、堤、橋の建設などの社会事業を行ない、後に行基菩薩と称された。伊丹・有馬は行基との縁が深く、多くの伝説が残されている。この石は、阪急電鉄中山駅と山本駅の中間の天満神社の東の稲荷大明神の祠のそばにある。
行基の投げ石(写真:http://www.murakuchaihana.com/yamamoto.htmlより転載)

<伝承>http://www.cam.hi-ho.ne.jp/kr-suzuki/96aruko-0403.htmより
@行基が街道にあった邪魔な岩を杖で投げ飛ばしたもの
A天狗が六甲山から投げたもの
   との言い伝えがあるが、付近にあった古墳の天井石の一つとも考えられる。

G行基石

伊丹市役所の近くの伊丹市立博物館の玄関前に置かれている石である。
上のF行基の投げ石と同類のものである。

<伝承>説明板より
 この石は、もとは旧稲野村と旧伊丹町との境界にありました。
行基が東大寺を建立したとき、行基が祈念して六甲山から送っている途中で不要になって落ちた石とか、あるいは行基が食事中にお茶碗の中から箸で捨てた石など、行基の伝承と結びついた石です。また、境界にあったので境目石であるという人もいます。
 鈴原町6丁目の個人宅にあったものを当館(伊丹市立博物館)にご寄贈いただきました。

H鯉石

伊丹市役所の近くの伊丹市立博物館の玄関前に上のG行基石と一緒に置かれている石である。
鯉が竜に変じる話は多くあり、雨乞いに関係する伝承とも考えられる。

<伝承>説明板より
 文化年間(1810年ころ),有岡城跡(今のJR伊丹駅周辺)にあった材木屋新兵衛所有の畑地で、耕作の邪魔になっていた大石を掘り起こしたところ、その下に一尾の鯉が生息していました。そこで,家へ持ち帰り、どうしたものかと相談しましたが、あまりの不思議さに、これは竜の化身ではないかとして、野宮(猪名野神社)の弁財天の池へ放してやりました。
 その石には鯉の姿形か彫られたかのように残っていたので、役所(会所。今の中央2丁目ネオ伊丹ピルのところにあった)へ届け出、庭石として引き取られました。

<野宮(猪名野神社)>
 伊丹郷町の氏神で、「摂津名所図会」〔寛政八年(1796)〕には『野宮牛頭天王。天王町にあり、古豊桜宮と称し、後世猪名野の中なれば俗称して「野宮」といふ、近隣十四村の生土神といふ』と記されています。慶応四年(1868)の神仏分離により、「猪名野神社」と改称。

I矢文石
 久々知須佐男神社は、阪急電鉄塚口駅の東にあたる尼崎市久々知の近松公園の隣にある。
近松公園は江戸時代の文豪・近松門左衛門を記念したもので、近松の墓所がある廣濟寺もそばにある。

須佐男神社の矢文石(正面) 矢文石(背面)

<民話>久々知須佐男神社の説明板より
多田満仲公は摂津国守に赴任した時、住吉大神の御信託によって当須佐男神社のこの石の上から矢を放った所、矢は雲の上遥かに飛び上がり、池田五月山から戊亥(西北)の方向にあたる谷蔭の深いところに光を放って落ちていった。
満仲はその放った矢を問いながら来られた処、頭が九つもある大蛇に突き刺っており、大蛇から流れた血水跡はまるで紅の河のようになって流れた。早速大蛇の首を切り、九頭の明神とあがめ祀った。大蛇の血水の引いた所が多くの田のようになっていたので、所の名を多田と名付けた。また矢を問いながら来た所から、矢問という地名もつけられた。

J富松の夜泣き石

 閑静な住宅街の中にある富松橋の東側。
そこに、「夜泣き石」と呼ばれる大きな石がある。
昔、大水で上流から流され、夜になると「元の場所に帰りたい」と泣いていたため、
地元の人が川から引き上げ供養したところ、泣きやんだと伝えられる。
現在も、お花が供えられ大切に祭られている。

富松橋(とまつばし) 
富菖松町1・2丁目と塚口町5丁目の境にある東富松川に架かる橋。

                     市報あまがさき 平成21年3月号より転載

注 神戸市の長田神社にも「夜泣き石」がある。
   本ページのK長田の夜泣き石参照
橋のたもとに祭られる伝説の「夜泣き石」

K福石
 阪急六甲駅の北、篠原北町の篠原厳島神社の境内にある。
篠原厳島神社は篠原地域の氏神で、2月の節分に針供養祭が行われるほか、5月の春祭りでは猿田彦神役を先頭に子供神輿・稚児行列が、篠原の氏子区域を巡行する。

<伝承>
@篠原厳島神社の説明板より
 平清盛が安徳天皇を奉じて神戸の福原に都を遷した頃、毎夜のように東北の方に怪光を発する岩がある夢を見た。清盛は不審を懐き、家臣越中次郎兵衛盛純を遣わし探させたところ、この岩が見つかったといわれる。清盛は、この霊地に尊崇する市杵島姫命を祀り、この石を福石と称した。
Ahttp://www.city.kobe.jp/cityoffice/82/100sen/nada100
                     /contents/05/frame.htmより
 神社の縁起となっている「福石」は、平清盛が平盛継に命じて討ち取った、頭に珠を担ぐ大蛇の首を埋めた上に置いた大きな石といわれている。
福石 岩は割れており鉄のベルトを巻いて保護している。

L蛙岩(鵯越墓園)
神戸電鉄鵯越駅の北東、鵯越墓園新芝地区西方(道路の西側に道がある)にある。
このあたりは、源平合戦一ノ谷の戦の「鵯越の坂落し」で有名な場所である。

<伝承>http://www14.plala.or.jp/niu_yamada/simotani.htmより
 蛙岩は、複雑な形に風化した大岩盤が数匹の大蛙と多くの子蛙に見える奇勝で、夜になると巨大な蛙が旅人を襲ったとも、毎日1匹の蛙が生まれ出たとも言われている。写真の左側の平家陣地方面を見ている蛙の頭のような岩が一番代表的な蛙岩である。山道の途中にあり、義経の騎馬隊にとっては進軍しにくい場所だったのではないかと思われる。
蛙岩の奇勝

M長田の夜泣き石
 長田神社は、神功皇后が新羅より帰還の途中、武庫の水門に於て「吾 (あ)を御心(みこころ)長田の国 に祠(まつ)れ」とのお告げを受けて、山背根子の女・長媛(ながひめ)を奉仕者として創祀された全国有数の大社である。延喜式の制では名神大社、祈雨八十五座に列し、神戸(かんべ)41戸もって奉祀護持され、今日の神戸発展の守護神と仰がれている。神戸の地名はこの神戸(かんべ)に由来する。

<民話>長田神社http://www1.neweb.ne.jp/wb/jinja/html/yonakiishi.htm 「ながたの民話」より 転載  
      注 夜泣き石は社務所の庭にあるらしく非公開とのことである。
 長田から苅藻川をさかのぼって明泉寺の谷を北に進み、白川に通じる長坂越えと呼ばれる山道があった。 この長坂の道端に円錐形の富士山のような姿をした石があった。 「この石を、長田神社の庭石にしよう。」 と長田の村人は、苦心してその石を運びおろし、神社に納めた。
贈られた長田神社の当時の神主は、 「神社にはたくさんの庭石があるから、この見事な石はわが家にもらって帰ることにしよう。」 と、平野の自宅に持ち帰った。

その夜のことであった。夜も更けた頃、神主の家では、どこからともなく、すすり泣くような声がしたのである。 「庭で誰かが泣いているような声がするが・・・・・。」 「シクシク、長田へ帰りたい。シクシク、長田へ・・・・・。」 庭を見ても、誰もいない。いく夜もそんなことが続いた。ついに神主は夜通し庭で見張りをすることにした。 そしてその夜も、泣き声が聞こえた。「シクシク。シクシク、長田へ帰ろう・・・・・。」どこから聞こえてくるのか調べてみると、庭に置いた富士山の形の石から聞こえてくるようであった。見ると、石の表面がじっとりとぬれていた。
翌朝、さっそく神主は村人に頼んで石を長田へ運んだ。これを夜泣き石と呼んで、神社の境内に安置した。 
長田の夜泣き石

N和田の三石(みついし)
 三石神社は、和田泊として知られる神戸市兵庫区の和田岬にある。
この地域は、全国有数の重工業地帯として知られる。

三石之遺跡の碑 碑の後に鎮座する三石

<伝承>「神戸の伝説」 田辺眞人著 神戸新聞総合出版センター 1998年刊  『和田の三石』p157より要約
@和田岬の田んぼの中に、三つの石が転がっていた。三韓に出兵の際、神功皇后は懐妊していたので、出産を遅らせるためこの三つの石を腰の周りに挟んで腹を冷やした。戦いの後、九州に立ち寄りこの石をとり、安産を祈ったところ皇子(後の応神天皇)が生まれた。神功皇后は、さらに和田岬に立ち寄り、この三つの石を置いて帰った。後に、三石神社ができて、妊婦は神社の境内にある小石を三つ拾って帰り、安産のお守りとした。
A三石は、神功皇后が広田神社・生田神社・長田神社の神々を初めに祭ったところとも言われている。
B推古天皇が服従しない辺境の民の鎮圧を願って和田の浦まで来て禊をした時、天皇が座った石が三石なので、三石神社のことを祓殿塚(はらいどのづか)とも呼んだ。
C「三石神社」の由来http://www.mitsuishi.or.jp/main/history.htmlより
 天平年間(730年頃)僧行基が務古の水門なる和田泊を興した時、神功皇后の神霊が現れ船の往来を守るといわれたので、祓殿の旧跡に祠を立て大輸田泊の鎮護とし、神号を往来神・雪気神(ゆきけのかみ)とした。(『西摂大観』)  後の文禄2年(1593年)、雪気神を三石大神と改称した。

<注> 信憑性はともかく、三石神社の立て札によると、神功皇后が和田岬に立ち寄ったのは西暦200年とされる。また、推古天皇の三石での禊は西暦602年とある。さらに三石は、広田神社・生田神社・長田神社に加えて住吉神社(大阪の住吉神社でなく、神戸の本住吉神社と思われる)の神々を初めに祭ったとある。

O白川の夫婦岩(高座岩)
 「高座」と名がつく地名は各地にある。六甲山系だけでも、武庫川渓谷の高座岩・名塩の高座山・芦屋の高座の滝がある。
「高座」の名前の意味するところは、これから紹介する白川の高座岩の伝承から明らかであろう。
即ち「高座」とは、神の座する岩のことであり、磐座そのものを意味する。そのせいか、岩は座りやすいようにまな板のように平坦だ。
 西神電鉄「名谷駅」からバスで東白川台に降りた北東の方向に高御座山(たかみくらやま)と呼ばれる山がある。
その山の頂上に、高座(こうざ)の岩という上が平らになった大きな岩が二つあり、夫婦岩ともいわれている。
東側にあるのが雄高座(おこうざ)で広さは畳四十畳敷ぐらい、西側にあるのが雌高座(めこうざ)で畳三十畳敷ぐらいある。

     
雄高座(おこうざ)、樹木に包まれ展望はまったくない。   雄高座の岩のうえある「寿命水」
かなり汚く、霊水とは認めがたい。
 
雌高座(めこうざ) 雌高座から、赤い屋根の「幸せの村」と
高尾山の電波搭を望む

<伝承>「神戸の伝説」 田辺眞人著 神戸新聞総合出版センター 1998年刊 『高座岩の寿命水』p211から要約
 古事記にでてくるイザナギノミコト・イザナミノミコトが国作りのあと、それぞれ雄高座・雌高座の岩の上で休んだと言われる。
景色がよいところで、神功皇后、安徳天皇、建礼門院もこの土地にきたと伝えられている。
 雄高座の岩の上に縦30cm、横10cmほどの窪みがあり、水が湧き出ている。この水は「寿命水」といわれ、子供のない夫婦がこの岩の上に十七日間お参りし、一生懸命に北斗七星に祈ると立派な子供に恵まれると伝えられる。また、薬水として疱瘡(天然痘)にかかっている人がそこを洗うと、跡も残さずきれいに治るといわれている。

 『旗振り山』の著者である柴田昭彦氏から以下のような指摘がありましたので、それに従って本文を訂正いたしました。
『摂陽奇観』は浜松歌国(1776年〜1827年)の著したもので、明治42年に知られるようになったが、その中に、白川の夫婦岩(雄石・雌石)の挿絵による紹介がある。
尚、『摂陽奇観』には本文がなく、『西摂大観』に載せられているような伝承は見当たらない。
『浪速叢書 第一 摂陽奇観一』(名著出版、昭和52年)の111ページに挿絵があり、田辺真人『改訂版 須磨の歴史散歩』(須磨区役所、平成10年)の18ページに転載されて解説されている。

 @ 東〜雄石〜六十畳〜図には寿命水とおぼしきところに覆い舎が描かれている。
 A 西〜雌石〜四十畳
『西摂大観 郡部』(明治44年)の19ページには、高御座山の雄石・雌石の伝承が挿絵つきで紹介されている。
この記述が、今日の高座岩の紹介の直接の出典である。(注)
@ 東〜雄石〜六十畳〜図には寿命水とおぼしきところに覆い舎が描かれている。
A 西〜雌石〜四十畳
 以上のことから次のように整理することができる。(高座岩の広さと寿命水の穴の大きさは実測による)
@ 北北東〜雄高座〜四十畳(約70u)〜寿命水(長さ約170cm、横幅50〜70cm)
A 南南西〜雌高座〜三十畳(約50u)

参照サイト 「ものがたり通信」の「六甲山の話」に詳細な検討がある。

(注)山魚のコメント:『西摂大観』の文中「雌石すこし淡路島へかたむきし・・・」の「雌石」は、
             挿絵と文脈から判断して「雄石」の誤記と思われる。

N雄岡山と雌岡山(神奈備山)
 神戸電鉄の緑が丘の南に、雄岡山(おっこさん)と雌岡山(めっこさん)と呼ばれる大きさも形もそっくりな一対の神奈備山がある。
この地は、神出(かんで)の名のとおり神代の地で、民話・伝承の宝庫である。
参考文献 「神戸の伝説」 田辺眞人著 神戸新聞総合出版センター 1998年刊

<伝承> 雄岡山と雌岡山
その1 近畿自然歩道の説明板『雄岡山と雌岡山』から
 その昔、雄岡山と雌岡山は、遠くから眺めると子牛の角のように見えたことから、男牛(おご)、女牛(めご)と言われていた。それが、雄子尾、雌子尾となり、やがて雄岡(おっこ)と雌岡(めっこ)になったといわれる。神話によると、雄岡と雌岡は夫婦の神で、男神の雄岡が小豆島の美人神に惚れたことから、妻が止めるのもきかず鹿に乗り会いに行った。その途中、淡路の漁師に弓を撃たれ、男神と鹿は共に海に沈んでしまった。すると、鹿はたちまち赤い石になり、それが明石の名称の起こりとも言われている。昔は、雌岡山の神出神社から小豆島が見わたせたといわれる。

(注)上記の神話に極めて類似した明石市の民話が、「神戸の伝説」p10に紹介されている。
 神出に猟師の夫婦がいて、その夫が大鹿の背に乗ってしばしば小豆島にある恋人に会いに行った。ある日、明石の松江の浜から海に入り、小豆島に渡ろうとした猟師を乗せた鹿は、別の狩人に見つけられ射殺され海底に沈んだ。この時、鹿の体から出た血が固まって赤い石ができた。この大石から赤石(明石)の地名が生まれた。今も、山陽林崎駅の南西1kmの海岸から、海底の赤石が眺められるといわれている。また、西明石沖から小豆島に向かって播磨灘の沖合いに浅瀬があり、「鹿瀬(しかのせ)」と呼ばれている。古語では漁師のことを「シカ」と呼び、それに「鹿」の字が当てられたと説があり、兵庫県内の「飾磨」「妻鹿」などはその例と考えられている。

その2 近畿自然歩道の説明板『金棒池ができるまで』から
 その昔、雄岡山と雌岡山が、金棒を芯にして土を盛って高さ比べをしていたところ雄岡山の金棒が折れて、二つの山の間にささり、その跡が金棒池になった。そのため、雄岡山(標高241m)の方が雌岡山(標高249m)より8m低くなった。(「神戸の伝説」『雌岡山』p11,12にも同様の話がある)

その3 「神戸の伝説」 『弁慶と金棒池』p230から要約
 雄岡山と雌岡山を庭の築山にしようと考えた弁慶は、二つの山の間に立ち、持っていた金棒の両端を雄岡山と雌岡山に突き刺して持ち上げようとした。金棒は、弁慶の肩の上でしなり、ついに折れてしまった。この時、金棒の落ちた跡に水がたまったのが金棒池である。池の中には小さな二つの古墳があるが、これは弁慶の足跡だといわれている。

金棒池と雄岡山(遠景) 雌岡山と金棒池


雄岡山頂上にある帝釈天を祀る祠
近くには、一等三角点がある。
祠のそばに置いてある卵形の黒っぽい雨乞い岩、
両手ですっぽりと包めるほどの大きさである。

<民話・伝承> 雌岡山 神出神社・裸石神社・にい塚・姫石神社
「神戸の伝説」 『弁慶と金棒池』p230、231から要約

その1
 神代の頃、大己貴命(おおなむちのみこと=オオクニヌシノミコト)が、雌岡山上に天降りして、ここで百八十一柱の神々を生んだ。それから、雌岡山を神出山(かんでやま)、あたりを神出と呼ぶようになった。後に、山上にスサノオノミコトと稲田姫が祀られて神出神社となった。

その2
 景行天皇の頃、九州の熊襲を討伐しょうと、大和を出発した日本武尊がこのあたりに来た時、雌岡山に立ち寄った。山上で勝利を祈り、「スサノオノ神よ。無事に熊襲を討ち取ることができるなら、この石を羽根のように軽く飛ばせて下さい」と、一つの石を蹴った。すると、大きな石が羽根のように高々と舞い上がり、落ちてくるときはガラガラッと雷鳴のような響きをあげた。そこで人々は、それを雷鳴石と呼んでいたが、いつしかライ石(裸石)と呼ぶようになった。これが、裸石(らいせき)神社の始まりである。この神社は雌岡山の中腹にあり、縁結びの神様として親しまれている。

その3 神功伝説
 神功皇后が朝鮮半島に向かう途中、妻鹿の港に立ち寄って麻生山の頂上で神々に勝利を祈った。そのとき、皇后に答えて神々の集まったところから神出(かんで)の地名が起こったと伝えられる。

神出神社の説明板より
その1 神出神社
 神出神社の祭神はスサノオノミコトとその妻クシナダ姫。二神の孫にあたるオオクニヌシノミコトから、八百余の神々が生まれ各地に散ったので「神出」の名がついたともいわれる。雌岡山は昔から牛頭天王を祀っていたため、麓の氏子達は「天王山」(てんのはん)と親しみを込めて呼ぶ。インドで生まれた牛頭天王は日本にくるとスサノオノミコトと同一の神となる。

その2 姫石神社
 天王山の神話に出てくる「方丈盤石」というおおきな岩が御神体、見ようによっては女性自身にみえるので「姫石」という。
 
神戸市西区ホームページ 海を眺めて日溜りハイク〜雄岡山と雌岡山 『にい塚』
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/89/marugoto/shigen/kande02.html
 にい塚は古墳で、神出の集落が危急存亡の時、ここを掘れば黄金の鶏が現れるという伝承がのこる。

 (注)黄金の鶏の話は、六甲山の石の宝殿にもあり興味深い。また石の宝殿には神功伝説もあり、同系の文化園の可能性が考えられる。

神出(かんで)神社 裸石(らいせき)神社
にい塚(神出神社御旅処:古墳)の磐座 姫石神社の磐座


関連資料 六甲山系の岩石にまつわる民話と伝承

(C20111011)
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