イワクラ(磐座)学会 調査報告電子版 2007年10月17日掲載
イワクラ(磐座)学会会報7号掲載

六甲山系の岩石にまつわる民話と伝承

1 六甲山系について
 六甲山系は阪神間の市街地の背後、西は塩屋から東は宝塚まで、幅約10km、長さ約30kmにわたって連なる細長い山系である。最高峰は931mで1000mに満たないが、市街地に近いことから市民の憩いの場となっている。
六甲山系には、会下山、城山、保久良、金鳥山、伯母野山、布引丸山等の多数の弥生時代の高地性集落遺跡が点在し、磐座との関連も想定できる。
磐座については、荒深道斉氏が昭和6年(1931年)に実施した探査が有名で、六甲山頂の三国岩・天の穂日命の岩、ごろごろ岳の剣岩・八咫の鏡岩が世に紹介された。また、楢崎皐月氏がタカムナ文献を書写したと言われる金鳥山、大槻正温氏の「巨石を使った古代の天文台」がある北山も六甲山系にある。

2 磐座と民話・伝承の関係
 磐座は、言うまでもなく古代人の祈りの対象となった岩石である。
様々な信仰が時代と共に栄枯盛衰をくりかえしてきたが、信仰の場は過去の霊地を踏襲したものがかなりある。実例として、土着の宗教とみなされる古神道と、外来の宗教である仏教の関係を見れば明らかであろう。寺を建立するには、その寺を建立する土地が霊地であることが重要であり、その証明が何らかの形でなされなければならない。この時、民話・伝承は有力な論拠を提供する。
このことから、民話・伝承が生まれた岩石には霊的な過去が存在し、磐座につながっている可能性があると言える。
本稿ではかかる見地から、それが磐座かどうかは別として、六甲山系の岩石にまつわる民話・伝承を幅広く紹介する。民話と伝承の区別は明確ではないが、ここでは物語性の強いものを民話とし、それ以外を伝承として扱った。
 
3 六甲山系の岩石(磐座)にまつわる民話・伝承

@甲山
 この山は、藤本浩一氏の著書「磐座紀行 1982年刊」に磐座としてとりあげられている。西宮市にある甲山は、昔、神山(かうやま)とも言われ、神奈備山(神の座する山)であり、その麓にある神呪寺の南には、磐座で有名な目神山(女神山)がある。
下記に紹介した民話と伝承の共通点は「甲山の山頂に宝物は埋まっている」点であり、山頂から石鍬、銅矛、弥生式土器等が出土した事実と見事に一致している。


 目神山方面から甲山と神呪寺を望む

<民話>西宮ふるさと民話http://www.nishi.or.jp/~siryo/minwa/より
 寺を建てる場所を探していた淳和天皇の第四妃は、都の西の方の山にあまりにも美しく光る雲がかかっているのを見て甲山までたどりついた。
野にはいろんな花が咲き乱れ、地中からは蒸気が立ちのぼって五色に輝き、空には大きな美しい蛾がこの山を守るかのように黒い息をはきながら空高く舞っていた。妃は不思議に思い頂上に登ってしばらく茫然としていた。すると、紫雲がたなびき峰いっぱいになり、その中から突然、美しい女神が現れて「ここは『魔尼(まに)の峰』と言って、その昔宝をうめた所です。仏様を祀るにはとても良い所です」と告げて姿を消した。
 妃は大変喜んで尼となり、神呪寺を開基した。

<伝承>
@神呪寺の由緒書きによれば、仲哀天皇の時代、神功皇后が国家平安守護のために、山に如意宝珠・金甲冑・弓箭・宝剣・衣服等を埋めたと伝えられ、このことから甲山と名付けられた。
A江戸時代の地誌によれば、行基が伊丹の昆陽池を開削した時、掘った土砂を背後に投げ捨てた。池の完成後振り返って見ると、西方に土砂が積もってきれいな小山ができていた。これが甲山で、そのため甲山は一名を御池山と呼ばれた。

A石の宝殿
 石の宝殿は、昔六甲山の山頂と考えられていた。また、この地は芦屋川と住吉川の分水嶺にあたり、水との深い関わりから雨乞いの場所でもあった。石の宝殿は、越木岩神社と西宮神社の奥宮とも言われている。磐座は、お宮のある石の宝殿の少し南の蛇谷北山を望む清々しい場所にある。高さ数メートルの二つの磐座が左右対称の形で東西に並んでいる。近くの、おこもり谷には、今なお現役の行場がある。
下記に紹介した民話は、石の宝殿が越木岩神社の奥宮であることを雄弁に物語っている。また紹介した伝承は。六甲山の謂れの一つともなっている神功皇后伝承が石の宝殿にもあることを示している。










 石の宝殿の西側の磐座
  この岩のすぐ東にも同じような磐座がある
石の宝殿

<民話>西宮ふるさと民話http://www.nishi.or.jp/~siryo/minwa/ 『39 石の宝殿』より
 雨乞いのために六甲山の上に「石の宝殿」を建てることになった越木岩の上新田(かみしんでん)と下新田の二つ村は、屋根の部分は上新田で受け持ち、下の方は下新田で受け持つことになった。山の上に運び上げて据え付ける約束の日が来て、上新田の村人は屋根をかつぎ上げたが、下新田の村人はなかなか登ってこなかった。待ちきれなくなった上新田の人たちは、屋根を置いて山をおりてしまった。後から来た下新田の村人は、しかたなく大岩の上の重い屋根をのけて下の部分を組み立て、もう一度屋根をかぶせ疲れきって山を降りた。
この時の「石の宝殿」建設をめぐるごたごたはその後も尾をひいた。
 とにかく石の宝殿はできあがったが、雨はいっこうに降るけはいがなかった。
「村の者たちが仲たがえをしているから、神さまもそっぽを向いておられるのじゃ」 やっと自分たちの誤りに気づいた両方の村人たちは一緒になって越木岩神社の前に集まって護摩をたき、「雨を降らせてくださいますように」と心の底から祈った。護摩の煙が空高くのぼり、石の宝殿までなびいていった。それに合わせ、松明に火をともした村人たちは石の宝殿に登り、天にこだまするような大きな声で祈った。すると、大きな黒雲がわき出たかと思うとあたり一面をおおい、やがて、大粒の雨が滝のように降り始めた。
 それ以後、越木岩の人たちは日照りが続き水不足になると、石の宝殿まで登って雨乞いの祈りをささげるようになった。

<伝承>
@「六甲山」 ヤマケイ関西 2003年刊 p144より
六甲山最高峰の東の独立峰の頂にある石の宝殿には、大昔、神功皇后が三韓から持ち帰った神様の石を納めたという。また、この石祠のそばの三つ葉ウツギの根元に神功皇后が黄金の鶏を埋めたとも伝えられる。それで、毎年の正月元日の夜明け前には、埋められた黄金の鶏の鳴き声が六甲の山々に響き渡るのだそうである。
A 参考文献 「神戸の伝説」 田辺眞人著 神戸新聞総合出版センター 1998年刊 p124、125
一説に、石の宝殿は神功皇后の廟だといわれる。 かって、六甲山中には八十八の社があり、神々がその中心である石の宝殿から四方の高山に修行に出かけた。それで、ずっと昔は六甲山は霊場で、女性の登山は禁じられていた。もし女性が山に登ったら、大きな声で「昼三度、夜三度、詫びせ!」という叫び声が聞こえたという。

B荒地山の弁天岩と鱶切り岩
 弁天岩は、鱶切り岩とならんで雨乞いの岩である。弁才天は、もともとインドでは河川の神であったが、日本古来の水神信仰と結びついて水の神となり、水辺に祀られるようになった。麓の芦屋神社にも雨乞いのための水神社があり、立て札によれば弁天岩から移転したとある。また、白山大神・白神大神の石碑が建っていることから、白山権現を祭る石宝殿との強い関係がある。
場所は、芦屋と有馬を結ぶ芦有(ろゆう)ドライブウェー沿いの芦屋ゲート近くにある。すぐ近くに芦屋川が流れ、弁天滝の上に鱶切り岩がある。
「磐座紀行」によれば、弁天岩も磐座とのことである。

白山大神・白神大神が祀られた弁天岩      弁天滝にある鱶切り岩(まないた岩)

<伝承>あしや子ども風土記 伝説・物語 芦屋市教育委員会 1992年刊 p20〜24 「水神さんと鱶切岩」より
弁天岩は、水神の住処として江戸時代から、山麓の芦屋・打出の村人たちの雨乞いの場であった。弁天岩の近くにある弁天滝の落ち口にある大石は、鱶切り岩とかまな板岩と呼ばれていた。旱魃が続くと人々は打出の沖で大きな鱶を捕らえ、その岩の上で鱶を切り刻んで弁天岩に投げつけた。そうすると、住処を汚された水神が怒って血糊を洗い流すため大雨を降らせると信じられた。

C荒地山の七衛門穴
 昔、荒地山への登り道に七右衛門穴と呼ばれる人一人がやっと通り抜けられる岩穴が立ち塞がっていた。登山者は、その穴をくぐって荒地山の山頂に向かった。その岩穴は1995年の阪神大震災でつぶされたが、最近になって昔の七衛門穴が復旧されつつある。まだ穴は開通していないが、この穴を再び通ることができるのも近いかもしれない。岩の間から漏れる日の光は神々しく、ここが磐座である可能性を感じさせるに十分である。
七右衛門穴の前はちょいとした岩の広場になっており、またここから半時間ほど歩いて下ったところに城山の高地集落があったことから、古代の祭場であった可能性も考えられる。
 整備中の七右衛門穴

<民話>「六甲山」 ヤマケイ関西 2003年刊 p145他より
備考 この話は、六甲山にも残る民話としてはかなり有名で、出典は多数ある。しかし、詳細に読むと微細な点でそれぞれに異なっている。民話とは、もともとそのようなものであろう。ここでは、整合性を勘案して話をまとめ上げたる。ので、引用文献とも微妙に異なる点もある。

荒地山は、六甲の山の神である石の宝殿の権現の住処と言われており山中で悪事を働くと、この荒地山に迷い込んで神罰を受けるのだと信じられていた。
昔、麓の芦屋村に七右衛門という身寄りのない若者がいた。もともと正直な働き者で村人にも愛されていたが、兄のように慕う友人に裏切られた後は、絶望からすさんだ生活を送るようになり、村人からもしだいに疎んじられるようになった。ある日、六甲山を越える旅人が山中で追いはぎに出会った。村人はその話を聞き、村から姿をくらましている七右衛門だと思った。
「山中で悪事を働いたから、きっと荒地山だ」言い伝えを信じて荒地山に登った村人は、この岩穴で頭を砕かれて絶命している七右衛門を発見した。

D摩耶山頂の天狗岩
 六甲山にはやたらと天狗の名を冠した岩が多い。昔、岩の上に座す山伏の修行者を村人が天狗に見たてたものである。摩耶山に至る登山路の天狗道は、ここを目指す道であったことがわかる。摩耶ロープウェイの広場の賑わいをよそに、林に囲まれて薄暗い秘めやかな場所である。
尚、天狗岩には猿田彦大神の碑が建てられていた。猿田彦大神の碑は、一般には神道系の「庚申塔」と見なされるが、ここでは猿田彦が鼻の高い大男で天狗のモデルであったことの意味が強いと思われる。猿田彦は天孫降臨の際、地上で道案内をしたと伝えられる地神で、道祖神にもなっている。
 猿田彦大神の碑が立つ摩耶山頂の天狗岩

<伝承>天狗岩大神の説明板より
『摩耶山の僧が山中に出没する天狗をこの岩に封じ込めた』

E雲ヶ岩
 雲が岩、蜘蛛の岩、紫雲賀岩とも呼ばれることがある。
「雲が岩」と「雲ヶ岩」は単なる表記上の差異と考えられる。「蜘蛛の岩」の名前は、「雲の岩」の言い換えと推測されるがなかなか面白い。(文献参照)
紫雲賀岩は、雲ヶ岩の元々の正式名である。
場所は、六甲山人工スキー場の西にあり、すぐ近くには磐座といわれている熊野大権現、六甲比命大善神、心経岩がある。
<参照文献>
「六甲山の地理−その自然と暮らし−」田中真吾編 
   神戸新聞出版センター 1988年刊 p162
 二つに割れた陰陽形の雲ヶ岩

<伝承>
@「六甲山の昔と今」 六甲会 1969年刊より
『この雲が岩は、有野町唐櫃にある多聞寺の奥の院として、今より千二百年前(大化九年)孝徳天皇の御代に、インドより渡った法道仙人がこの地で修行中、紫の雲に乗った毘沙門天がこの岩の上に現れたといわれ、紫雲賀岩と呼ばれていたが、略して雲が岩となったようだ。現在は、多聞寺より、春秋二回、お参りがある』
A「神戸の伝説」 田辺眞人著 神戸新聞総合出版センター 1998年刊 p182
法道仙人は紫の雲に乗って自由に飛び回ることができた。あるとき六甲山の雲が岩で、同じように紫の雲に乗った多聞天にであった。多聞天は「仙人よ、この霊地に留まり仏法を広めるように」と言って去っていった。法道仙人が、寺を立てる場所を思案しながら見わたすと、山中にすばらしく薫り高い白檀の木が一本たっていた。「おお、この地に違いない。それでは、さきほどの多聞天の像を彫ってここに寺を立てることにしよう」 それが、裏六甲の多門寺の起こりといわれる。

F会下山の蛙岩
 古書によれば蛇巻岩(じゃまきいわ)とも呼ばれていたそうである。(文献@A参照)そう言われれば、岩の上部が蛇の頭、下部がとぐろを巻いているように見えてくる。正反対の見方が面白い。さらに古い昔の絵図をみると「狼岩」と記されているそうである。(文献B参照)蛙岩は、阪急芦屋川駅から登るハイキングコースの魚屋道にあり、歩いてすぐのところに、弥生時代の高地集落である会下山(えげのやま)遺跡がある。古代人もこの蛙岩を見ていたことを想像すると興味はつきない。
<参照文献>
@「新しい六甲山」 山下道雄著 山渓文庫12 1962年刊 p151
A「六甲ー摩耶ー再度山路図」 直木重一郎著 関西徒歩会 1934年刊
Bあしや子ども風土記 伝説・物語 芦屋市教育委員会 1992年刊
 p53 「かえる岩の伝説」の末尾
 蛙の後姿にそっくりの蛙岩

<民話>芦屋の民話 三好美佐子著 1999年刊 p70〜75より要約
昔、六甲山に驚くほど大きな蛙が住んでいた。飛ぶと地響きがし、泣くと木の葉がふるえた。気のいい大蛙は、何も恐れることなく毎日のんびりと暮らしていた。
 ある日のこと、大蛙は大蛇が自分の命を狙っていることを耳にした。それからは、少しのことでも怖がり、びくびくして暮らすようになった。その大蛇が六甲山の梅谷にやってきた。するすると地面に体をすべらし、鎌首をもたげて大蛙を飲み込もうとした。大蛙はもう逃げられないと、死を覚悟して目をつぶった。ところがその一瞬、大蛙は岩になった。六甲の山の神は、日頃おとなしい大蛙を哀れに思い、そのままの姿で岩にされた。大蛇は、岩になった大蛙に歯も立たず、くやしがってここに住むことにした。
 それからしばらくして、村人がたきぎを取りに山に来た。蛙岩のところで一休みしたが、ついうとうとと昼寝をしてしまった。ふと目をさますと、大蛇が蛙岩に巻きつき上からこちらをうかがっている。村人は、命からがら逃げ帰った。このことが村中に広まり、若い衆が蛇退治に出かけた。梅谷に着いて大蛇を探したが、どこにもいない。ふと蛙岩を見ると、大蛇が蛙岩に巻きついたままで岩になっていた。
 それからは、蛙岩は蛇巻岩とも言われるようになった。山の神は、大蛙だけでなく、大蛇も分け隔てなく岩にしてしまわれた。梅谷の蛙も蛇も仲良く岩となった身では、争うすべもなく平和な日々を送った。

G老ヶ石
 裏六甲は遺跡も少ないせいか、民話・伝承にまつわる岩石もすくない。
老ヶ石は、その数少ない一つである。場所は、船坂橋から船坂谷を2kmほど登った上流にあるこの大石は、地上に出ているだけでも高さ7m、横幅15mの大石で、近くには玉姫大神をまつる岩の祠がある。
これについて、柴田昭彦氏の綿密な研究報告がある。
「ものがたり通信 」老ヶ石の伝説








 鯰のような老ヶ石 石に触れると老けるといわれる老ヶ石  

<民話>西宮ふるさと民話http://www.nishi.or.jp/~siryo/minwa/より
 全国を巡って石を探し歩いている石職人が、老ヶ石の素晴らしさに感嘆し、石を切り出そうとしたところ、息せききって村人たちがかけつけてきた。
村人は石職人に、酒に酔った勢いで石を切ろうとした男が石の中に吸い込まれるように消えてしまったことなど、この石に刃物をあてた者には恐ろしい祟りがあることを話して石切を思いとどまらせようとしたが、石職人は迷信として聞き入れなかった。
 石職人は石を切り始めた。静かな谷間に石を切る音がこだまし、村人たちはおそれおののきながら、石職人の一挙一動を遠巻きに見守っていた。突然、石を切るその手が止まった。石職人は棒立ちになったまま、打ちこまれた鑿のあとを見つめていた。何ごとが起こったのかとかけ寄ってきた村人の目に、鑿を打ちこんだ穴からまっ赤な血がほとばしって出ているのが映った。「これは大変なことになった。村の言い伝えを破ったからじゃ」村人たちは、後ろも振り返らず、村へ逃げ帰った。その後、石職人は原因不明の高熱が出て、そのあげく気が狂ってしまった。
 
<伝承>山と高原地図48 六甲・摩耶 昭文社 p21より
 石に触れると老けるという言い伝えがある。

H清盛の涼み岩(修行岩)

 シュラインロードを下りきった北側に古寺山と言ういかにも何かありそうな山がある。
昔ここに法道仙人の開いた多聞寺という寺があり、平清盛が福原に都を移したときに都の鬼門(北東)を護る寺として大切にした。その後、源平合戦で源義経が一の谷を攻める時に、その道案内を断ったために焼き払われたそうである。頂上には、「清盛の涼み岩」と呼ばれる大きな岩がある。この岩はまた、修行岩とも呼ばれている。

<伝承>
@「神戸の伝説」 田辺眞人著 神戸新聞総合出版センター 1998年刊 p183より
平清盛がこの岩の上で涼んだといわれる。古寺山の僧がこの岩の上で修行したとも伝えられる。
古寺山には膨大な宝物が埋められていて、村が衰えたら掘り起こせとの言い伝えがある。
里謡にも『三尺三寸雪降れば 古寺山は消えている 三つ葉おとぎ(ウツギ)の木のもとに 九億九万の金がある』と歌われている。

A「武庫川・六甲山附近口碑伝説集」辰井隆著 民俗研究所 1941年刊 p32より
山の上に硯石―涼み石といふ硯のような石があって(蓋は大阪へ行っているといふ)、
この硯石で墨をすってハンコ押したら、二十枚一ペンとほりよったといはれてゐる。
(原文のママ転載)
  清盛の涼み岩(修行岩)の上部

I紋左衛門岩

 古地図を見ていると、甲山の西北にある樫ヶ峰の麓を通るドライブウエー沿いの仁川上流に紋左衛門岩と呼ばれるおもしろい名前のついた岩があった。さっそく行ってみると、それはすぐに判明した。崩落防止用の金網に覆われ見る影もないが、昔はかなり立派な岩であったことが偲ばれる。この岩には、紋左衛門が天狗に化けて水争いの村人を諭したとされる民話が残されている。
金網に覆われた紋左衛門岩

<民話>西宮ふるさと民話http://www.nishi.or.jp/~siryo/minwa/『41 六甲山の天狗』より
 江戸時代の初め、大社(たいしゃ)村は、大日照りに襲われた。井戸堀りをしても水は出ず、雨ごいをしても雨は降らず、村人たちはどうしてよいのか分からなくなった。その時、中村の紋左衛門が、「わが社家郷山(しゃけごうやま)に降った雨が仁川(にがわ)に流れこんでいる。社家郷山の水は大社村の水だ。仁川の上で水を引こう。」と、村人たちに訴えた。
 話は一気にまとまり、工事がはじまった。ところが、取水口の近くは岩や崖で、トンネルを五十メートルも掘らないと水が通らなかった。村人たちはこの岩山にそって、竹をくりぬいた仮樋(かりどゆ)をつけて村に水を送るかたわら、この岩山に穴をあける難工事に取り組んだ。
ところが、仁川の川下の村々では、 「仁川の水を大社村がとっているぞ。」 「くわを持って一本松にあつまれ。」と、大さわぎになった。夜になり、一本松に集まった青年たちは、くわやすきを持って、取水口にやってきて、大社村への水の流れを止めた。
大社村では、すぐに修理をして水を引いたが、川下からは、毎日のように工事の妨害をしてきた。大社村の人々は、いきりたった。
 これを見た紋左衛門は、「みんなの言うとおりだが、今は争ってはいけない。わしによい考えがある。ここはわしにまかせてくれ。」と、大社村の青年たちをなだめた。今日もあたりが暗くなると、いつものように川下の青年たちがやって来て水路をめちゃめちゃに壊した。その時、 「ギャー。」と大声を上げたかと思うと、川下の青年たちはその場にすわりこんでしまった。見ると大岩の上に、まっ白い着物をきてうちわを手にした赤黒い顔の大天狗が、青白い月の光をうけて立っていた。大天狗は大きな目玉を光らせながら、「わしは六甲の天狗じゃ。この山から流れ出る水はみなのものじゃ。この水は仲良く使え。」と、山すその村々にまで聞こえるような大声で叫んだ。川下の青年たちは、おそろしさのあまり、われ先にと逃げ帰っていった。
 このことがあってから川下の村では、 「六甲の神さまにもらう仁川の水じゃ。神さまのお告げにしたがわねばなるまい。」とささやくようになり、大社村の水路工事の邪魔をする者もなくなった。実は、大天狗になって岩の上に現れたのは中村の紋左衛門であった。そして、その岩は、いつしか紋左衛門岩と呼ばれるようになった。

<参照文献>
地図『六甲山登路図』 木藤精一郎著『六甲ー北摂ハイカーの径』付録 1937年刊
(注)紋左衛門岩が、鷲林寺下の道路の真ん中にある「磐座と言われている夫婦岩(弁天岩)」であるという説があるが、明らかに誤りである。社家郷用水の取水口は、甲山高校の横にある盤滝の交差点(夙川から鷲林寺を経て三田に至る道と阪急逆瀬川から川沿いに上がる道が交わる交差点)から上流(西)へ200〜300m行ったところに今もある。
 詳細参照サイト:西宮の新田開発と用水の歴史  兜麓底績碑(とろくていせきひ)

関連資料 六甲山系周辺の岩石にまつわる民話と伝承

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