イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版 2011年3月1日掲載
イワクラ(磐座)学会 会報21号掲載             

キーワード 高座岩 溝瀧 雨乞い 殺馬 昆陽井     

高座岩の雨乞い
<白馬を犠牲とした昆陽の雨乞いの発生と変遷>

                                                                         イワクラ(磐座)学会  江頭 務

1 はじめに
 兵庫県尼崎市と西宮市の境界を流れる武庫川の川中に高座岩と呼ばれる巨岩があり、『有馬郡誌』@に、次のようにしるされている。

「高座岩は武庫川中に在り。上面七、八間、高さ四、五間、略方形をなせる大岩石にして、凡一萬三千八百二十四才、獨り傑然河中に突出し天然の一奇岩なり。上面水平にして、座敷の如し。
此の岩は近郷の信仰ある岩にして、旱魃にならば雨乞を執行する場所たり。
其の儀式は動物の生血を塗るにあり。然らば天其の汚を厭ひ、洗い去らんが為めに雨を降らすといふ。
其の血は、武庫、川辺両郡は純白色の馬の血を塗るを例とす。」

 高座岩は、全国の磐座の探訪記である『磐座紀行』(藤本浩一1982)に、雨乞いの磐座として掲載されている。「高座」が「神座」を意味するとしたら当然と言える。
高座岩の雨乞いは、基本的に箕面瀧の雨乞い(江頭務2010@)から伝播したものと考えられる。
尚、雨乞いにおける箕面と室生との関係については、論文「古代名山大川祈雨祭祀の考察」(江頭務2010A)を参照願いたい。
本論文は、馬の生血を磐座に塗るような特異な雨乞いが、どのようにして生まれ、育っていったのかを文献資料をもって明らかにすると共に、高座岩の信仰の謎を解くものである。


2 高座岩の雨乞いの概要
 武庫川における雨乞いは、兵庫県伊丹市以外でも近隣の西宮市の生瀬や名塩などでも行われているが、ややくわしい資料が残されているのが伊丹市のみなので、これにて雨乞いの全体像を紹介する。以後、本論文ではこの雨乞いを「高座岩の雨乞い」と呼ぶ。
昆陽の雨乞いは後に述べるように溝瀧から高座岩に移っているので、これらを包括的に以後「昆陽の雨乞い」と称する。
『伊丹市史』には、「堀池の雨ごい」と題して、明治16年の雨乞いに関する次のような記述がある。堀池村は、元昆陽村の枝村で昆陽村の南に位置する。

資料1<高座岩の雨乞い『伊丹市史』第6巻@>明治16年(1883)の雨乞いの記録
「明治十六年に大旱魃があり、雨ごいをしたのが最後(注1)だという。このときのようすをつぎにしるすことにする。
日照りが続いたので各村の庄屋が寄って、雨ごいの相談をし、堀池村に頼みにきた。
まず寺(注2)で香をたき、郷中の者が寄って雨を乞う。この村に博労(馬の売買をする人)がいたので、頼んで伊勢から白馬を買い求めてもらった。
白馬を殺して雨を乞うのだが、かわいそうだというので血を少しだけ取ってみたが、時雨だけだった。そこで旧例に習って行事をすることになった。
白馬を豊中にあった屠殺場につれて行き、血を一滴のこさず、にない桶に取り、首を挟箱に入れて持ち帰った。寺で読経が続くなかで、雨ごいの行列を組む。先頭は掛越家(注3)の次男が勤めることになっていた。彼は白の裃にぞうりをはいた死装束で馬に乗り、雨ごいの巻物一巻(注4)を持つ。若中(注5)が竹槍を持って巻物を護衛する。
しかしこの巻物は偽で、本物は商人の姿に変装した豪傑二人が一足先に持って出る。
次いで若中が馬の首の入った挟箱をかついで行く。若中は藍染めの浴衣を着ていた。
このあとにまず、昆陽村の者が続く。あとは上の村から順に下の村が列に加わる。
途中で昆陽池(注6)を左にまわって(注7)から武庫川の上流に向かう。
生瀬(西宮市)のやや上手にコーライ岩(注8)とよぶ大きな石がある。
一行が着くと、挟箱からまず白馬の首を出して岩に置き、白衣の者が読経する。
終わると、ミソダキ(注9)とよぶコーライ岩の淵に首を落とす。
若中はにない桶の血を岩一面に塗りつける。本来は、白馬を引いていって、ここで白装束の者が首を淵に切り落としたという。
行事が終わると、一行は来たときと同じ順序で村に帰る。途中で昆陽池により、池のまわりを右にまわる。
当時はこのころから風が吹きだし、豆粒ほどの雨が降って、浴衣の藍がおちて晒のようになってしまったという。
一行が帰るまで、寺では読経を続けている。
その後、雨ごいはしていないが、雨を乞う神仏の名を列記した巻物二巻を伝えている。
また村では毎年盆の十七日に、雨ごいで死んだ馬の施餓鬼(供養)を昆陽寺(注10)で行なっている。」

<解説>
(注1)明治16年の旱魃については、豊中市立図書館所蔵の『明治十六年 大旱魃日記 郷土史資料』に詳細な記述がある。
また、神戸における気象観測記録でも「7月10日より8月19日迄41日間に雨天全く無く、旱魃炎暑極めて著し」とある。(『神戸市史 別録二』)
ただ、この雨乞いが最後かどうかについては検討の余地がある。
資料4は、明治16年の後に行われた雨乞いと推定される。
(注2)堀池村の浄土真宗本願寺派の最光寺(さいこうじ)。
最光寺の寺号公称が許されたのは明暦3年(1657)だが、道場の創立としては江戸初期以前と考えられている。
本尊阿弥陀仏立像は、慶安2年(1649)に西本願寺より下付されたといわれている。

    
図1 最光寺

(注3)掛越家 代々堀池村の庄屋を勤め、明治になってからは戸長となった。
豪農といわれるほどの田畑を持つ村有数の旧家であった。(『伊丹被差別部落のあゆみ』@)
(注4)巻物の中身は「大雲輪請雨経」の抄である。巻物の作成年代は、近世末以上にはさかのぼらないと鑑定されている。
これについては、『伊丹被差別部落のあゆみ』Aのなかに詳細な説明がある。
請雨経(せいうきょう)は、東密の雨乞いの経で空海が唐より持ち帰ったとも伝えられる。
『三代実録』貞観17年(875)6月15日の条に、京都の神仙苑で「請雨経法」が修された初見の記録がある。
(注5)若中(わかなか)とは、明治時代の村の13〜25才くらいの若者で構成された団体(青年団)である。(『伊丹市史』第6巻A)
(注6)昆陽池 伊丹台地は、猪名川と武庫川という二つの川に挟まれながら、台地面は河床よりもかなり高く、
水源を河川に求めることができないため、台地上に水源として昆陽池が掘られたと考えられる。
『行基年譜』に引用される『天平十三年記』(741)の「池と溝」の項には摂津国河辺郡山本里(宝塚市・伊丹市)に昆陽上池と昆陽下池が造られたとある。

    
図2 昆陽池

(注7)仏教行事においては右回りが正式とされる。左回りは、民俗的には「魔ばらい」と見る説がある。(松永和人2001)
雨乞いを祓いと考えるならば、十分納得のゆく説明である。
(注8)高座岩は、コウザ岩、コーザ岩、コザ岩、コーライ岩等の様々な呼び方がある。
「高座」の意味からして、上面が畳のように平坦で高くそびえている岩である。
また高座岩は、磐座であるものもあるが、単に形態だけのものもある。
コーライ岩は昆陽の呼び方で、なぜそのように呼ぶのか良くわからないが高麗岩の意味かもしれない。
伊丹は行基や猪名部氏による昆陽池の開削以来、朝鮮半島とのつながりの深い土地柄である。
尚、一般的に朝鮮を指すコーライの呼び方は中世以降で、古くは「コマ」である。
(注9)ここでのミソダキは、文中「ミソダキとよぶコーライ岩の淵に首を落とす」とあることから、コーライ岩(高座岩)の下の渕である。
ところが、高座岩から2km上流に溝瀧(みぞたき)と呼ばれる有名な瀧があることから、
これと混同される傾向にあるので注意が必要である。(図7の地図参照)
(注10)昆陽寺(こんようじ)は、伊丹市寺本にある高野山真言宗の寺院である。
行基が創立した畿内49院のひとつで、西国薬師四十九霊場第十九番札所である。
寺伝によれば、聖武天皇の御代、天平5年(733)に勅願所として建立されたとある。
西国街道(現・国道171号)沿いに位置し、地元では「こやでら」や「行基さん」と呼ばれて親しまれている。

    
図3 昆陽寺

3 雨乞いを行った村々
(1)昆陽井を主体とする12ヶ村
 資料1の雨乞いの記述を読めば、雨乞いが行われた場所が昆陽池と武庫川であることから、
中世末期から近世初期に成立したと推定される水利組合の一つである昆陽井組(こやゆぐみ)に関連する村々であることがわかる。
昆陽組邑鑑(こやぐみむらかがみ)』によれば、昆陽井組は昆陽村を井親として
池尻・山田・寺本・野間・千僧(せんぞ)・南野(みなみの)・御願塚(ごがづか)・堀池の9ヶ村で構成される。
しかしながら、次の資料を読むと雨乞いを行った村々は12ヶ村とある。
この文書は、池田市綾羽町にある伊居太(いけだ)神社につたわる江戸時代の歴代の神官の日記である。
現在の池田市と伊丹市は隣同士であり古くから深い交流があった。

資料2<昆陽の雨乞い『伊居太神社日記』>文政6年(1823)7月23日の条
「廿三日夜鐘太鼓ニ而(テ)雨乞ノ様子ニ相聞夜明ケ迄呼(ヨブ)也、然(シカ)ルニ廿四日承候處小ヤ(昆陽)ノ池掛り十二ケ村とやら池ノ堤へ十五才已上(以上)ノ者出揃雨乞ノよし、其上馬ノ生首を持、生瀬奥ニ瀧(注)有之(コレアル)よし、是へ漬けニ行雨乞と申其験ニてヤ廿五日朝より曇中山辺より山本村丸橋右池掛り方ハ大雨ふル也、池田へハ夕立不来曇斗(バカリ)也、噂ニ馬首七匁貮分相掛り候よし也」
(注)文中「生瀬奥ニ瀧有」とあることから、この瀧は溝瀧(高座岩の2km上流)
 を指すものと推定される。

 文中の3ヶ村については、昭和年代の水利慣行を調査することで推定できる。
古くから農業用水路の下流に位置する位置する村は、上流の村から水をもらうために、田植え前に金品を携えて挨拶にゆく慣わしがあった。
聞き取り調査によれば、西昆陽村は昆陽井の池尻村へ、時友村と友行村は昆陽井の山田村へそれぞれ挨拶に出向いている。(『尼崎の農業を語る』@)
これらから、残りの3ヶ村は、いずれも武庫郡に所属する西昆陽村・時友村・友行村となる。
冒頭の『有馬郡誌』にある武庫・川辺両郡とはこの3ヶ村と昆陽井組9ヶ村を指すものと推定される。
「弘化2年(1845)時友村明細書」には、溝瀧で雨乞いをした次のような記述がある。

資料3<溝瀧の雨乞い「弘化2年(1845)時友村明細書」> 古田嘉章文書
一 長尾山(注1) 乾(注2)ノ方ニ当り凡三里半
   但し旱魃之節山中之溝滝と申渕え雨乞ニ参り申候
一 村方より 東 堀池皮多村(注3)四丁 西 常松村三丁 南 友行村弐丁  北 山田村二丁
(注1)長尾山 伊丹台地北部の猪名川と武庫川の間の東西10km、南北7kmにわたる山々。
延宝6年(1678)の検地では、堀池村を除く11ヶ村は、切畑村を山親とする山子として山手銀(山林使用料)をおさめていた。(『宝塚市史』第2巻)
つまり溝滝や高座岩は、雨乞いの村々にとってなじみの地であったことがわかる。
(注2)乾:北西 おおまかではあるが時友村の北西に溝瀧が位置する。
(注3)皮多村につては、次項(2)参照

 図4は大正12年(1923)の地図の上に上述の関係を示したブロック図である。
昆陽井組には農業用水の供給源として昆陽池と武庫川があり、昆陽の雨乞いは昆陽池の雨乞いと武庫川の雨乞いを統合したものであることがわかる。


図4 昆陽の雨乞いを行った12ヶ村(大正12年(1923)の地図)(『伊丹のくらし』) ( )でくくられた村は武庫郡、その他は川辺郡の所属
    ・緑色の小さな実線の囲み:昆陽・池尻・寺本の池組3ヶ村、
    ・赤色の大きな実線の囲み:池組3ヶ村を含む昆陽井9ヶ村(昆陽・池尻・寺本・山田・野間・千僧・南野・御願塚・堀池)
    ・赤色の点線の囲み:昆陽井から水をもらっている武庫郡の3ヶ村(西昆陽・時友・友行)

(2)雨乞い儀礼における堀池村の役割
 資料1によれば雨乞いの主体は昆陽池と昆陽井を取り仕切る昆陽村であるが、雨乞い儀礼の主役は堀池村である。
雨乞い行列の先頭は堀池村、2番手は昆陽村、3番手以降は上の村からの順とある。
昆陽村の石高は江戸時代末期の状況を反映した旧高旧領取調帳(『兵庫県の地名T』)によれば1370石で、昆陽井組の中でも突出している。
一方の堀池村は、125石である。つまり、堀池村の石高は昆陽村の1/11である。
これは、昆陽井組の中で最小石高の千僧村と比べても半分にも満たない。
このような小村がなぜ儀礼の中心となるのか。それは、堀池村がかわた村であることにある。
「かわた」は、皮革業者という意味の職業名とみるか、のちの「穢多」身分につながる被差別身分の名称とみるか意見が分かれているが、
いずれにせよのちの被差別部落に関係してくることは否定しがたい。
近世の被差別部落が、権力の強制によって死牛馬の処理を課せられていたことから、雨乞いにともなう殺馬の儀礼を依頼されたものと考えられる。
それは押し付けでもあるが、切羽詰った願いでもあったであろう。
文禄3年(1594)の「摂州川辺郡御願塚村検地帳」には「こやかわた 二郎五郎」の名があり、
これが昆陽村に住んだ「かわた」の初見とされる。(『伊丹被差別部落のあゆみ』B)
その後、寛文4年(1664) までに堀池村は昆陽村から独立し、天保5年(1834)の『摂津国郷帳』には堀池村皮多村の名が記載されている。
資料4は昆陽の雨乞いの堀池村サイドからの貴重な記録である。
また堀池村には、先祖が奈良時代の高僧行基が昆陽池を造った時にその工事に従事した人々で、
「堀池」という地名もそれに由来するという伝承が残されている。

資料4 高座岩の雨乞い<『伊丹被差別部落のあゆみ』A> 推定 明治25〜35年(1892〜1902)
「80〜90年前(注1)のことでした。水飢きん、旱ばつが続き、雨乞いが必要になりました。近郷近在の村から頼みにきます。
稲野の9ヶ村(注2)も尼崎市の塚口方面(注3)からも参加しました。
 西宮市の生瀬の奥、武庫川の上流に、屏風岩(注4)といって、川岸に有名な大きな岩があります。
そこへ堀池村から白馬一頭をつれ、当時なお未成年であった掛越家の方が白装束で参加しました。
村ではこの巻物を読むと死んでしまうという伝説があり、当人は死を覚悟して生瀬へ行ったものでした。
これには堀池村に納金しなければなりません。
また、生瀬までお供をするといぅことで、この当日は行列を組みました。
目的地に着くと、当人が巻物を読み上げ、白馬を岩のうえで殺し、その岩を血で汚します。
そうすると、天が怒り出し、今まで晴れていた空がにわかにかきくもり、けがれた
岩をきれいに洗い落すために雨が降るといいます。しかも、お供をしなかった村には雨が降らないといわれていました。
子供のころ、この大役を引き受けた掛越由松からよく聞きました。
しかも不思議なことに、雨が降ったのは事実だったとも聞いています。
当日は、村中の女の人が炊き出しをし、握り飯の弁当をこしらえます。
それを男達が長持に入れ行列をし、弁当を運びました。
行事が終わったあと、全員が弁当を食べることで行事は終わりました。」
(注1)この雨乞いの年代については、文中に「80〜90年前」とあることから、
出典の昭和57年(1982) 発行から単純に逆算すれば明治25 〜35年(1892〜1902)となるが、少し前にずれる可能性もある。
明治17〜35年の間において、明治26年、31年、33年、34年に神戸における旱魃の観測記録がある。(『神戸市史 別録二』)
(注2)稲野村は明治22年(1889)の町村制施行により成立し、新田中野、池尻、寺本、昆陽、千僧、堀池、山田、野間、御願塚、南野の10カ村から構成された。
新田中野(しんでんなかの)村は昆陽井筋ではないので、雨乞いからは除外されていると考えられる。
昭和15年(1940)に伊丹町と合併し伊丹市となった。
(注3)川辺郡塚口村と思われる。塚口村は武庫川の野間井組と猪名川の三平井組の井子(『尼崎市史』)であるが、
昆陽井からも水をもらうためか、年1回昆陽村に酒、肴をたずさえて挨拶に出向いている。
このような関係からこの雨乞いに参加したものと推定される。(『尼崎の農業を語る』A)
(注4)高座岩のことと思われる。

 文中「巻物を読むと死んでしまうという伝説」に関して、『西宮市史』の次の記述がある。
資料1で巻物を読む人が掛越家の次男であるのは、家系の存続上、長男の死をさけたものであろう。

資料5<高座岩の雨乞い『西宮市史』>
「生瀬川(注1)の上流、溝滝(注2)の高座岩(こざいわ)での雨乞いは、伊丹の昆陽の大雨乞いとして有名である。
伊丹から乗って行った白馬の首を切り、岩にその血を塗って、行基が書いたという伝来の巻物を読み上げる。
そのときに白馬に一本でも色のついた毛がまじっておれば雨が降らないし、巻物を読んだ人はやがて死ぬと伝えている。
水のない村人にとって雨乞いはそれほどたいせつで厳粛なものであった。
生瀬でも高座岩に白馬の血を塗って雨乞いをしたと伝えている。昔は牛の血であったという。
この岩の下は竜宮に通じていてこの上を血でけがすと乙姫さんがおこって雨を降らせ、たすきをかけて洗うのだという。(注3)」
(注1)生瀬川は、生瀬付近を流れる武庫川の別名。
(注2)溝滝は、ここでは高座岩の下の渕を指すと考えられる。
(注3)付録の民話(2)高座岩の乙姫参照
 渕や瀧が龍宮につながっている話は各地にあり、箕面においても平等院の僧正行尊が夢に龍宮に至り如意宝珠を得た話がある。(『古今著聞集 巻二』)

 穢多と呼ばれる人々がかかわった白馬の首を瀧壷に投げ入れる雨乞いの事例として、
大阪府箕面市の箕面大瀧の上流の雄瀧と京都府亀岡市?田野(ひえだの)町佐伯の不動瀧がある。
詳細については、HP1「箕面瀧の雨乞い 蛇と龍」を参照願いたい。

<箕面の雨乞い事例>

資料6は、ペリーが来航した幕末の嘉永6年(1853)の箕面における雨乞いの記録である。
雨乞いは牧之庄4ヶ村と萱野郷11ヶ村が合同で行ったものである。
牧之庄は、箕面川流域の平尾、西小路、牧落、桜村の各村で構成されている。
また、萱野郷は、外院、白島、石丸、東坊島、西坊島、如意谷、東稲、西稲、西宿、芝、今宮の各村で構成され、牧之庄の西国街道沿いの東に接する。(『箕面市史』第2巻)
萱野郷、牧之庄は、水利・入会山・産土神などを共有する中世よりの惣的な農民組織を基盤としたものである。

資料6<『嘉永六年大旱魃記録』> 嘉永6年(1853)
「萱野郷ノ者ヨリ内々、此節幸イ近辺ニ葦毛馬見当リ有之由、内談有之ニ付、早速急談致、萱野郷惣代芝村庄屋十助方ニテ穢多北村庄七卜申モノニ、当郷引合人平尾仲右衛門・義右衛門ヲ以、先方十一ヶ村ト当郷ト入用銀二ツ割ニテ引合相結メ、翌十日右穢多仕呂物買求ニ行候コト、同晩両郷村々ヨリ人足一人宛差出シ、北村ヨリ初夜比、右ノ馬箕面山エ曳登リ、上番家ノ向高キ岡ニテ首ヲ刎、胴躰ハカヤノ郷山谷ヘケ落隠置、夫ヨリ首ヲ雄滝エツケ侯事、当郷村々ヨリ人足平尾ハ市右衛門、西小路ハ武兵衛、牧落ハ加四平忰(せがれ)、桜ハ九平、右ノ馬代金六両弐分、仕事雇者賃金二両、外ニ諸入用銭三メ(貫)七百文、右両郷二ッ割、右之通格迄致候得共何ノ感応少モ無之、翌十一日唯少レ曇ル、一寸時雨有之カ」
図5 雄瀧(落差 約3m)

資料6から、北村の人達が殺馬の雨乞いを担っていたことがわかる。
北村から白馬を連れて箕面山に登り首を刎ねた後、箕面川を遡り雄瀧に至り、白馬の首を瀧に漬けたとある。
江戸時代、北村は芝村の北東にあった集落で、かわた村として死牛馬の処理をしていた。
また、龍安寺(箕面寺)の岩本坊とのつながりを示す寛延3年(1750)の文書が残る。
北村は芝村の枝村として、本村芝村の従属下にあった。(『改訂 箕面市史 部落史』本文編)
この関係は、伊丹の昆陽村と堀池村に相当することがわかる。
殺馬を伴うような雨乞いもなかば強要された面もあるが、北村なしではこのような雨乞いを執り行うことができなかったことも事実であろう。

<亀岡の雨乞い事例>

不動瀧は神蔵寺の奥之院で、朝日山の南方の犬飼川の支流にある。瀧の石面に不動明王が彫られ、霊験ありと伝えられる。(『丹波誌』『盥魚』)
寺伝によれば、神蔵寺は最澄の創建で、かつては天台宗の一大道場として栄えた。
延宝7年(1679)、臨済宗の寺となり、現在も朝日山の山腹にある。

資料7<不動瀧『丹波志桑田記』> 文政11年(1828)
「不動瀧 上佐伯村ヨリ坤(ひつじさる:南西の方位)ノ山奥ニアリ滝谷ト云所ナリ其傍ニ石佛ノ不動アリ旱魃ノ時佐伯村ノ屠多(えた)此滝ツボヘ白馬ノ首ヲ投入テ雨ヲ祈レバ必ズ霊験アリト云世俗是ヲ滝谷ノ雨乞ト云リ又是滝ヲ神蔵寺ノ滝トモ云」

図6 不動瀧(神蔵寺の瀧 落差 約3m)

4 高座岩と溝瀧の位置
 初めに述べておくが、昆陽の雨乞いの始まりは高座岩にあるのではなくて、その2km北方の武庫川の溝瀧(みぞたき)にある。
高座岩は色々な呼び方があるが、本論文では平易にコウザ岩と読むことにする。高座岩は、現在のJR宝塚駅北西の武庫川右岸の川原にある。
高座岩は国土地理院の2万5千分の1地図では左岸の川から少し離れた位置にあるが、これは誤りである。
明治44年に発行された下記の地図では、高座岩と共に溝瀧(みぞたき)の位置が明示されている。



図7 大日本帝国陸地測量部の地図『正式二万分一地形図集成 関西』 (高座岩と溝瀧の直線距離は2km)


5 溝瀧の雨乞い<昆陽の雨乞いの源流>
(1)溝瀧
溝瀧の特徴は、溝のような形にあることは明らかであるが、二段の瀧でもある。
『有馬郡誌』Aには、上未曽有瀧(ミソタキ)10尺、下未曽有瀧30尺とある。
これは、次の資料8の女瀧(上段瀧)、男瀧(下段瀧)に符合している。溝瀧の実際の落差は色々と言われ良く分らないが、一説には女瀧(上段瀧)4m、男瀧(下段瀧)3mとのことである。このため溝瀧はカヌーの川下り愛好家の間で「四・三の瀧」とも呼ばれている。(HP2)
『日本国語大辞典』には、男瀧(雄瀧)とは女瀧(雌瀧)と対になった二筋の瀧のうち水流が激しく大きい方の瀧とある。
しかしながら『摂津名所図会』の箕面における記述では逆になっており、
落差33mの下流の大瀧が雌瀧、落差3mの上流の小瀧が雄瀧となっている。(江頭務2010@)
大坂の著名な狂歌師生白堂行風の書いた有馬案内記『迎湯有馬名所鑑』には次のように記されている。これはおそらく溝瀧の初見であろう。
これから溝瀧が二段の瀧であることがわかる。

資料8<溝瀧『迎湯有馬名所鑑』天和3年(1683)刊> 溝瀧の初見
「溝滝 湯山より二里 塩生野(シリチ)村(注)の内、生瀬の川上也、此所、巌両方よりさし出て川はゝ狭く流るゝ故、溝滝といへり、高さ十間斗、男滝女滝とてふた所あり、鯉鮎のおほくのほる、若鮎の時ハ、里人すくひ取て湯山にひさくとなり」
(注)塩生野(シリチ)は、尻地野(生野の旧名)(『有馬郡誌』B)からの変化と考えられる。従ってシリチは生野村と見なすことができる。
溝瀧が生野村にあると云うは誤りで、鹽田村である。

図8 武庫川の溝瀧(女瀧:上段) 落差 約4m 図9 武庫川の溝瀧(男瀧:下段) 落差 約3m

溝瀧はかなり有名であったらしく、本文に取り上げた以外にも『摂陽群談』、『名葦探杖』、『摂津名所図会』、『有馬郡名塩村地誌』、『有馬郡誌』にもその記事がある。

(2)溝瀧に汚物を投げ入れる
 溝瀧での雨乞いの最も古い記述は、安永4年(1775)の『塩渓風土略記』である。 
作者は、地元名塩の有力な紙製造者である藤田源左衛門で、隠居して俳諧を嗜んでいたらしく、俳号を狂雲舎染風と称している。
ここで初めて、武庫・河辺両郡の村人が瀧に汚物を投げ入れる記述が出てくる。
溝瀧は昆陽井の取水口(伊丹市西野)から武庫川を遡った最初の瀧であり、昆陽井組の雨乞いの場所として最適である。
貴重な白馬の首を汚物とは言い難いので、汚物とは牛馬の臓物であろうか。
臓物の入手先は、おそらく堀池村であろう。
汚物を瀧に投げ込んで水神を怒らせ雨を願う雨乞いは各地に見られる。
また、ここには名塩の黒犬の雨乞いの記述もでてくる。

資料9<溝瀧『塩渓風土略記』安永4年(1775)刊> 溝瀧での雨乞いの初見
「(高坐岩)ノ川上ニ溝滝ノ名所アリ、巌面ノ希有、水勢ノ曲異、両岸ノ山色風景言語ニ伸カタシ、滝淵ノ囲り凡十五六間、淵底千尋計リ難シ、淵窟ニ鯉魚多シ大サ四、五尺ニ及フ中ニモ金鱗ノ中鯉此滝ノ主神タルヨシ、時トシテ此鯉水面ニアラハルル事アレハ大風雨時ヲ移サス遊客帰路ヲ失フコトママアリ、初夏ヨリ中秋ニ至ルマデ里民此滝ニテ飛鮎ヲ汲ム、其風情播пi州)滝野ノ鮎汲(注)ニ勝テ甚雅奥多シ、尤此滝水神ノ遊窟タルニヨツテ 往古ヨリ旱魃ニ雨ヲ乞フニ□(験?)アリ、今モ旱ノ節ハ村民黒犬ヲ殺シテ此滝あたり巌上ニ其ノ腹血ヲ穢シタルニ陰雨忽ニ四方ニ覆テ風雨ヲ催スルコト宛モ神ニ約スルカ如シ、依之(これにより)武庫河辺ノ郷村モ此滝ニ穢物ヲ投シテ雨ヲ祈ルコト前々例也」
(注)兵庫県加東郡滝野町の近くを流れる加古川の鮎漁

 溝瀧での雨乞いは、名塩の黒犬の雨乞いから始まったと考えられる。
文中の「依之武庫河辺ノ郷村・・・」の依之(これにより)は、昆陽の雨乞いが名塩の黒犬の雨乞いの験(げん)にあやかったものであることを示している。
また、武庫河辺ノ郷村とは、図4に示した村々を指すと考えられる。

(3)溝瀧に白馬の首をつける
 安永年間は、汚物を瀧に投げ込んで水神を怒らせ雨を願うものであった。
それが、昆陽井組の発展に従い、雨乞いの儀礼化が進み、瀧に白馬の首を献ずるようになった。
その中で、高座岩が馬の首切り儀式の祭場として登場してきたと考えられる。
それが資料2に示した文政6年(1823)の『伊居太神社日記』に記述された昆陽の雨乞いである。
高谷重夫氏は、その著書『雨乞習俗の研究』のなかで、供犠(くぎ)から不浄化への変遷(高谷重夫@ 1982)を説かれているが、この事例のように逆に不浄化から供犠への変遷もあったと想定される。
雨乞いには自ら払った代価が大きければ大きいほど、天はそれに答えてくれるといった思考が働いている。
これは、賽銭の額が大きければ、それに対応してご利益が得られるといった現代にも生きている思いであろう。
井組の経済力が大きくなるにしたがって、雨乞いの儀式も壮麗なものになってゆくのも自然のなりゆきであろう。
それが、「昆陽の大雨乞い」である。
かくて、汚物の投げ込みは白馬の首の献上へと変遷したのであろう。
その状況を彷彿させる事例が宝塚市川面(かわも)に残されている。
小浜(こはま)村川面部落には、武庫川東岸に川面井がある。(『六樋』)
雨乞いに登場する惣川(図7参照)は、宝塚の生瀬橋附近で合流する武庫川の支流で、水の涸れない川として近在に知られている。
昭和14年8月31日の『大阪朝日新聞』に「牛の首で雨乞ひ」と題する雨乞い道中の写真付きの小さな記事が掲載されている。

資料10<川面の雨乞い『大阪朝日新聞』昭和14年(1939)8月31日の記事>
「少女歌劇の宝塚にほど近い兵庫県川辺郡小濱村川面部落では旱魃のとき武庫川の支流惣川の上流に牛の首を投げ入れて雨乞ひをすれば雨が降るとの言い伝えがあり、大正十二年の旱魃にもこの方法で雨を得たといわれているが、このごろの日照りつづきにしびれを切らしたお百姓たちは三十日この雨乞ひを行った。豊中市の屠殺場から牛の生首と生血を取り寄せて「雨請」と書いた長旗を先頭にお百姓たちは牛の生首と生血を入れたブリキ缶を担ぎ、半鐘、太鼓を鳴らし、法螺貝を吹く山伏も加わって二百人がモダン歌劇の都とはおよそ不釣合ひなグロテスクな行列をつくり武庫川べりを練り上がり惣川から隘路二十五町の道を馬淵にいたりグロな雨乞ひを行った」

 また、『雨乞習俗の研究』には、高谷重夫氏が昭和48年の調査において川面の古老から聞き取った次のような話が紹介されている。(高谷重夫1982A) 

資料11<川面の雨乞い『川面の古老の話』昭和48年(1973)聞き取り調査>
「川面の古老の話によれば、この雨乞は長尾山字檜王山の奥の谷の山の神を怒らせて雨を降らせるのだそうである。村人が檜王山麓の御坊に集り、寺の鐘、村の半鐘で出発、幟を押し立て、鐘・太鼓で武庫川上流の馬滝の谷に行き、そこの机岩の上に牛の首を祭ると牛の生血を一斗ばかり岩の上に流す。それがすむと一行はさらに谷を遡り馬滝に到り、滝壷の前の石に牛の首を据えて帰った。明治の初年頃までは牛三頭を現場まで連れて行ってそこで首を切ったという。またこの雨乞で降り出した雨が七日間も続く大雨となり、流れて来た牛の首を山中に埋めたらやっと止んだという話もある。」

 文中、古老の話に登場する御坊・馬滝・机岩等の所在は不明である。
たださらなる調査が必要であるが、御坊の候補として川面村の宝泉庵が挙げられる。
ここで、明治8年9月に安場村の雨乞が行われている。(『宝塚市史』第3巻)
『名塩史』には、宝塚の小浜においても高座岩に関する伝承が残されているとある。
『大阪朝日新聞』の記事には、小濱村川面部落とあることから、川面の雨乞いは伊丹の雨乞に関連していると考えられる。
前後の関係は不明であるが、武庫川の支流の惣川で行われた雨乞いは伊丹の雨乞いを馬から牛に変えたものであり、高座岩は机岩に、溝瀧は馬瀧(馬淵)に置き換えられていることがわかる。
白馬のかわりに牛が用いられたのは、当時の農耕の主力が牛で白馬に比べて入手が容易であったためと思われる。川面村単独では、牛が精一杯のところであろう。白馬は貴重な存在である。明治16年の雨乞いにおいては白馬をわざわざ伊勢から買い求めている。
溝瀧での雨乞いは、資料2の『伊居太神社日記』に昆陽の村人が馬の生首を瀧に漬けに行ったとあることから、文政6年(1823)までは続いていたと言える。
江戸文政年間、昆陽から小浜を通り木元(このもと)までは街道が通じていた。
木元から高座岩までは、川筋の山道を白馬を引いて進んだ。
当初、馬は高座岩で首を刎ねたものと想定される。その理由は、高座岩までは馬は連れてゆけるが、そこから溝瀧に至る道が険しく、馬をそれ以上連れて行けなかったことによるものと思われる。
また高座岩が選ばれたのは、岩の上が平坦で首を刎ねる儀式にふさわしい祭場であったからと想像される。
 資料6で取り上げた箕面の雨乞いにおいても、雄瀧に至る道中に唐人戻り岩と呼ばれる巨岩が張り出している。この岩には、昔、唐人が瀧見物に来たものの、山道のあまりの険しさにここで引き返したという伝説が残されている。箕面においても同様に唐人戻り岩までは馬を連れてゆけたが、それから先は険路のため箕面山に登り馬の首を刎ねたものと想定される。唐人戻り岩の手前から箕面山に登る道が今もある。(瀧道から山頂まで25分)つまり、高座岩は箕面山と同様に溝瀧に至る中間ポイントである。
箕面における雨乞いの歴史は古く、鎌倉時代末期に書かれた『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』には応和2年(962)に天台の僧千観が朝廷の求めに応じて雨乞いを行ったとある。 箕面の村民の雨乞いは、元禄14年(1701)の『摂陽群談』に登場する。(江頭務2010@) 
一方、昆陽の雨乞いの初見は、安永4年(1775)の『塩渓風土略記』(資料9)である。
また箕面における馬の首を瀧に漬ける雨乞いの初見は、『塩渓風土略記』と同年代の安永7年(1778)の『名葦探杖』に登場する。(江頭務2010@)
これに対し、溝瀧に馬の首をに漬ける話は、45年後の文政6年(1823)の『伊居太神社日記』(資料2)である。
箕面瀧のある箕面川は伊丹市で猪名川に合流している。そこから5km西には武庫川が流れており、その中間に昆陽池がある。また、伊丹(昆陽)と箕面(瀬川・半町)は、西国街道の隣同士の宿駅である。箕面は雨乞いの先進地域であり、箕面の雨乞いのやり方が伊丹に伝えられた可能性が高い。


6 高座岩の雨乞い<溝瀧から高座岩への祭場の移転> 

(1)高座岩

   
 図10A 武庫川下流から見た高座岩  図10B 武庫川下流から見た高座岩

溝瀧は摂津全域を取り扱った名所案内記『摂陽群談』『名葦探杖』『摂津名所図会』に登場しているのに対し、高座岩は名塩村や有馬郡の地誌に登場するにすぎない。つまり、高座岩は名塩近在の人々のみに知られた極めてローカルな存在であった。

高座岩の初見は次の安永4年(1775)の『塩渓風土略記』であるが、ここには雨乞いに関する記述は見当たらない。

資料12<高座岩『塩渓風土略記』安永4年(1775)刊> 高座岩の初見
「土橋(注)ヨリ上ニ高坐岩アリ奇ナル哉。其岩川中ニ横テ石面凡方十間余平均□(削?)磨コレカタメ砥□(石?)ヲ用ヒタルカコトシ」
(注)『塩渓風土略記』に「木ノ下(このもと)ノ長橋、土橋ニシテ四十余間ヲ渡ス寒暑往来ノ水難苦寒ヲ助、通歩自由ヲ得タリ田城君主勤代上下ノ本道往古ヨリ世々例格也。」とあり、九鬼三田藩主が参勤交代に通った青野道(あおのみち)の武庫川にかかる橋である。
土橋は、木などを組んでつくった上に土を覆いかけた橋のことである。

『塩渓風土略記』以後、高座岩についての記事はなく、明治の中頃に書かれた名塩村の地誌(資料13)にようやく登場する。

資料13<高座岩『有馬郡名塩村地誌』明治17年(1884)刊>
「高坐岩(カウザイハ 加宇坐以波)本村中央ヨリ東南東方武庫川ノ上流ニアル一ノ巨石ナリ。高サ四間。周囲拾八間。面積十六坪(今之ヲ推思スルニ、凡ソ壱万三千八百二拾四才ニシテ、量目、弐拾弐万壱千百八拾四貫目ナリ)。独リ傑然、河中二突兀ス。石面平ニシテ宛モ削成ノ如シ。然レトモ人造二非ス。天然ノ一奇石ナリ。」

(2)高座岩に白馬の血を塗りつける
 次の『有馬郡誌』の記述は、資料13の『有馬郡名塩村地誌』をベースに、資料1の明治16年の雨乞いを付加したものであることがわかる。
尚、資料9によると黒犬の血はもと溝瀧の近くの岩に塗りつけていた。それがその後、高座岩に移転した可能性が考えられる。

資料14<高座岩の雨乞い『有馬郡誌』@ 昭和4年(1929)刊>
「高座岩は武庫川中、木の元部落の少し上に在り。上面七、八間、高さ四、五間、略方形をなせる大岩石にして、凡一萬三千八百二十四才、獨り傑然河中に突出し天然の一奇岩なり。上面水平にして、座敷の如し。
此の岩は近郷の信仰ある岩にして、旱魃にならば雨乞を執行する場所たり。
是れ如何なる理由なるか。傳へ言ふが如きは、迷信に近ければ之を略せんも、其の儀式は動物の生血を塗るにあり。然らば天其の汚を厭ひ、洗い去らんが為めに雨を降らすといふ。其の血は名塩ならば純黒色の犬の血を塗り、武庫、川辺両郡は純白色の馬の血を塗るを例とす。」

雨乞いは元は白馬の首を溝瀧に漬けていたが、時によって、馬がかわいそうというので馬を殺さないケースもあった。これには馬への憐憫の情もあるが、馬の首を刎ねたからといって必ずしも雨が約束されるものでないことを暗に知っていたことも背景にあろう。

資料15<高座岩の雨乞い『内外珍談集』大正4年(1915)刊>
「摂津川辺郡稲野村の雨乞は、生瀬川の水源なる溝瀧(注1)に馬の首を切って投げ込む。此馬は白に黒の班点あるものに限る。(注2) 
その儀式は村に伝わる雨乞の一巻を読み終るや、馬の首を切りて投じ後を見ずに村民一同帰る。馬の首切役は裃を着し、岩の上で之を行ふ。年により首を切る真似をして、首に少し傷をつけて血を絞り、その血を岩へ塗って帰る事もある。明治十六年に首切を行った(注3)が帰路には大雨があつた。」
(注1)この溝瀧(ミソダキ)も、文中「明治十六年に首切を行った」とあることから、資料1と同様に高座岩(コーライ岩)の下の渕と解釈できる。
(注2)黒の斑点とは、雨をもたらす黒雲に発展する種のようなものを仮想したのであろう。名塩の黒犬同様、雨乞いの類感呪術のひとつである。
これに対し、資料5に出てくるような純白の馬は神への捧げものの要素が強い。
(注3)資料1によれば、明治16年に馬の首は屠殺場で切ったとある。

 資料15の『内外珍談集』には「年により首を切る真似をして、首に少し傷をつけて血を絞り、その血を岩へ塗って帰る事もある」とある。つまり、瀧には行かずに帰ったということである。
馬の首がないのだから溝瀧に行かないのは当然である。
血を岩に塗りつけたのは、馬の首を刎ねたという架空の儀式の証しであろう。
それがいつしか、雨乞いの祭場が溝瀧から高座岩に移転する結果を招いたのであろう。
それは、奥宮(溝瀧)から里宮(高座岩)への移転にも似ている。
そして、いつのまにか血を岩に塗りつけることが重要な儀式となり、儀式の最後に首を落とす高座岩の下の渕をミソダキと呼ぶようになった。
 資料1の明治16年の雨乞いでは、高座岩の雨乞いはさらに合理化されたものになる。
それは、白馬を豊中市にあった屠殺場につれて行き、首と血だけを高座岩に持参し雨乞いを行ったのである。川面の雨乞い(資料10)も、豊中の屠殺場から牛の首と血を入手している。しかしながら、白馬の首はすべて屠殺場で切り落としたのではなく、資料4の雨乞いのように、時には高座岩の上にて切り落とすこともあったようである。馬の処置のやり方は、年により様々であったことがわかる。
馬の毛色についても、資料15のように必ずしも純白というわけではなかった。
 次に村民が何に対して祈っていたかであるが、これも水神(鯉)、龍王、乙姫、天の神・・・など多様である。延喜式のような官製の雨乞いとは異なり、村民の雨乞いは画一的なものでないことがわかる。状況に応じて、雨乞いのやり方も幅広いバリエーションをもっていたのである。
 そうした中で確実に言えることは、昆陽の雨乞いが溝瀧に白馬の首を漬けることから、高座岩に白馬の血を塗りつけることに変化したことである。
『有馬郡誌』(資料14)は、雨乞いの儀式は動物の生血を塗るにありと述べている。
高座岩の雨乞いに使われた請雨経の巻物は、近世末期を遡らないと鑑定されているので、雨乞い儀礼が高座岩に完全に移転したのは、文政6年(1823)『伊居太神社日記』より後の幕末の頃と推定される。


7 まとめ
 これまでの検討から高座岩の雨乞いの発生と変遷を、いささか物語り風に述べれば次のようになる。
江戸安永年間、伊丹昆陽井の農民は例年にない旱に困り果てていた。寺社への度重なる祈願も効を奏しなかった。そこで、瀧に汚物を投げ込み神を怒らせて雨を得る非常手段がとられることになった。
昆陽井の農業用水は、昆陽池の他に武庫川から取水していることから、当然、武庫川の上流にその瀧を求めることになった。
その瀧こそ溝瀧であった。
溝瀧は名塩村の枝村である木元の先にあり、そこではすでに黒犬を犠牲とする雨乞いが行われていた。
村人達は、牛馬の臓物を瀧に投げ込んだ。
しかしながら、それでも雨が降らない時があった。そんな時、以前からうわさに聞いていた白馬の首を瀧に漬ける箕面の雨乞いが話題に登った。より盛大で儀礼化した雨乞いが求められた。
江戸文政年間、昆陽から小浜を通り木元までは街道が通じていた。
木元から高座岩までは、川筋の山道を白馬を引いて進んだ。しかし、そこから溝瀧に至る道は険路であった。そこでやむなく、高座岩の上で馬の首を刎ねることにした。
首を刎ねる役は、堀池村の人達であった。彼等は牛馬の処理をまかされた「かわた」であった。
高座岩が選ばれたのは、岩の上が平坦で首を刎ねる儀式にふさわしい祭場であったからである。
そこから、首は人にかつがれて溝瀧まで運ばれた。人々はそこで馬の首を瀧に漬けて雨乞いを行った。
 しかし年によっては馬を殺すにしのびなく、高座岩の上で馬の首を切る真似をして少しだけ血をとり、その血を岩に塗りつけて帰ることがあった。
明治にはいると、高座岩の上で馬を殺すことはしだいになくなり、あらかじめ屠殺場にて馬の首と血液を入手し、
高座岩に血を塗りつける儀礼が行われるようになった。
馬の首は岩の上に供えられ、儀式の終りに高座岩の下の渕に落とされた。
その渕はいつしかミソダキと呼ばれるようになった。

表1 昆陽の雨乞いの変遷
ステップ(雨乞の内容) 祭場 雨乞いの記載文献(年代)
T期 溝瀧に汚物を投げ込む 溝瀧 『塩渓風土略記』 安永4年(1775)
U期 高座岩の上で白馬の首を刎ね
    溝瀧にその首を漬ける
高座岩
溝瀧
『伊居太神社日記』 文政6年(1823)
V期 高座岩に白馬の血を塗りつける 高座岩 『伊丹市史』第6巻 明治16年(1883)



お願い
 武庫川の溝瀧と高座岩は、民俗学上重要な史跡であり、環境の整備を関係各位にお願いいたします。

参考文献(書名五十音順)
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『塩渓風土略記ならびに八景発句』狂雲舎染風(藤田源左衛門) 安永4年(1775) (『名塩史』p8、p576〜579 財団法人名塩会1990河北印刷 所収)
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『嘉永六年大旱魃記録』嘉永6年(1853)の雨乞いの記録 (『箕面市史』史料編六 p431〜432 1975 箕面市 所収)
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『古今著聞集 巻二』橘成季(なりすえ) 建長6年(1254) (『日本古典文学大系84』p88 永積安明・島田勇雄 1966 岩波書店 所収)
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参考文献(著者五十音順)
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江頭務 2010A 「イワクラ学で解く室生龍穴の謎 古代名山大川祈雨祭祀の考察」 『イワクラ(磐座)学会会報19号』p14〜36
高谷重夫 1982 『雨乞習俗の研究』@p416〜417 Ap402  法政大学出版局
藤本浩一 1982 『磐座紀行』p280 向陽書房 文中「降座岩」は「高座岩」の誤りと思われる
松永和人 2001 『新版 左手のシンボリズム』p127〜149 九州大学出版会

HPホームページ
HP1「箕面瀧の雨乞い 蛇と龍
HP2「わんことカヌー」http://lana07.a-thera.jp/article/972517.html



付録 武庫川にまつわる民話・伝承の調査
 民話・伝承は長い時間をかけて成立するものであり、それゆえ、それらは時として古の歴史を物語るものである。そこで、武庫川にまつわる雨乞い関連の民話・伝承を紹介する。

(1)高座岩と溝瀧(昆陽の大雨乞の起こり)(辰井隆1941)
 コーザ岩の上の山百合咲く谷あいに、生瀬には次のような瀧にまつわる話が語り伝えられている。                               
むかし、伊丹の昆陽の田舎に、百姓の夫婦者がいたという。
ところが子がないので、氏神さんへ「どうぞ子を授けてください」といって願をこめていた。
すると、その甲斐があって、申し子がコロット宿って、男の子が生まれた。
その子は七つになるまで家にいたが、七つになると、毎晩遊びに出て、親が目を覚ますとうちにいない。
どうも合点がいかんというので、ある晩、親が寝たふりをして考えていると、真夜中になると、その子が父母の寝顔をソット眺めて−よう寝たかどうか−それが、ソーット寝間を出て、後の戸を開けて外へ出て行った。
父が何じゃ外へ出て行きよる、コイツはおかしいとますます変に思って、こらひとつ見とどけようと思って、子のあとをつけて家を出た。
ところが、武庫川の川筋に出ると、子がトントンと上がって行って、生瀬の浄橋寺橋(今の生瀬橋、むかしはただ大橋ともいった)の下まで行ったら、親がびっくりして、もう怖くなって、そこから後戻りをして、昆陽の家へ帰ってしまった・・・真夜中の出来事・・・
そうして、母親にその話をすると、親が互いに怖がって知らん顔をして寝ていると、夜が明けて、フイと目を覚ますと、コロット寝間に寝ているので、コリャどもならんと思って、親があやかして尋ねてみた。
「お前は毎晩夜遊びをするが、何処へゆくのか、実は昨夜、浄橋寺橋の下まで、お前の後をつけて行ったが、俺は怖いので戻ってきた」と明かし、「こうして七つまで大きくしたが、一体お前は何の生まれかわりか聞かしてくれ」と言った。
そうすると、子が言うには、「つまり、お前達に子が無いので、神様に祈って、母が断食して、人間に産んで貰ったが、俺はどうしてもミソ瀧の水を毎晩一杯飲まぬと生きてゆくことが出来ない。からだが焼けて辛抱が出来ない。
そのかわり、百姓やから、若しヒヤケ(日照り)した折には、白い馬の首を切って、その血潮を二十四畳敷けるコーザ岩へ塗って、あとのヌリガラ(滓)を、どうぞ瀧へほって呉れ。それが俺の好物やから、そうしたら、雨を十分降らす」と言って、そのことを書いた巻物を父母に渡して、そのまま瀧へ帰ってしまったという。(昆陽の大雨乞の起こり)
 その巻物は、長らく昆陽の夫婦者の家にあったが、何時の頃かホリケ(堀池―新伊丹の西の村)の者の手に渡り、雨乞の時、コーザ岩の上で読み上げられていた。(注1)
これがすむと、馬の首を切り、その血を箒やササラでペンキのように塗った。そうして、すぐにミソ瀧へ馬の首をほりこんで駆け戻ると、黒雲がグワアーと出て来て、大雨がザアーと降って来て、オタタ橋のあたりまで行くと、目が開けられぬ程降って、濡れ鼠になって帰るに帰られなかったという・・・が、今は○○○○が家の宝物にしているそうである。それを見ると三年目に死ぬと言われている。

 また類似の話として、著者が生瀬の古老から聞いた次の話が紹介されている。

むかし、昆陽の里に夫婦者がいて子が無いので神さんに願をかけていた。
その甲斐があって子が生まれ大切に育てていた。ところが、その子が七つになったある日、行方不明になってしまった。あちこち捜して、ようやく山あいの瀧のところでその子をみつけた。
その子は「俺はこの瀧の主で、神様のために人間に生まれかわったが、俺は毎年一匹づつ白馬の首を食べないと生きていられない。
長いことあなたに育ててもらった御礼に、今後、日照りで困った時には、白馬の首を切って血をそこの岩に塗って、その滓をこの滝壺に放り込んでくれ。それを俺が食べるから。」と言って、そのことを書いた書物を残して鯉(注2)になって渦巻く水の中に消えた。

(注1)文禄3年(1594)の検地帳には「ほりけ与四郎」の名が見える。
口伝によれば、与四郎はかつて昆陽村の山陽道の馬場口付近(現伊丹市昆陽7丁目)に居住していたが、南側の現在地に移転したといわれる。(『兵庫県の地名T』) 
馬場口は、昆陽宿の馬をつないでいた所と思われる。
また、堀池村は昭和の戦前まではホリケと呼ばれていたこともある。
(注2)鯉は中国の俗信では、古くから魚族の王者として龍王の使者となり、また龍王と同格されている。この民話は『塩渓風土略記』の金鱗の鯉をベースとしている。
またこの地域には行基にまつわる鯉の伝承が多くあり、行基が書いたといわれる巻物と対になっていることも考えられる。

(2)高座岩(辰井隆1941)
 生瀬の奥の木の元の、福知山線第三トンネルの手前の川の中に、高座岩というのがある。
車窓から見ると、造り物のように大きな岩で、村人の話では、岩の上に二十四畳敷け、
岩の下は龍宮に通じているといって、岩の上に乙姫さんが遊んで居られたといっていた。
そうして、ここをけがすと、乙姫さんが怒って雨を降らせて、タスキをかけて洗われるというので、
むかしからこの岩の上に、白馬の血―大むかしは牛の血であったという―を塗る雨乞いが行われていた。

 上記の伝承をベースに創作したと思われる民話が西宮市のホームページに掲載されている。
岩の下に龍宮が通じている話は各地にある。

高座岩と白馬(西宮ふるさと民話http://www.nishi.or.jp/~siryo/minwa/より)
  生瀬(なまぜ)から武庫川を少しさかのぼった所に、高座岩(こうざいわ)という大きな平べったい岩が川の流れにつき出ています。
この岩にはふしぎな言い伝えがありました。岩の下には龍宮城まで行ける道がついていると言うのです。
お城を出てきた乙姫さまは、家来といっしょに高座岩の上で遊ぶことがあります。
乙姫さまは岩をよごされるのをたいへんきらい、岩が少しでもよごれると、天の神さまにたのんで雨を降らせてもらいます。
そして、乙姫さまも美しい着物の裾をからげて、襷がけで、家来といっしょに掃除をするというのです。
そういうわけで、雨が降り出すと、「また、乙姫さまが高座岩を洗っていなさる。」と、村人たちは話していました。
ある年のこと、田植えを無事にすませ、村では田植えのあとのお祝いの支度をしていました。
だれ言うとなく、「雨がふらんのう。」と、田の水不足の話になりました。
なにしろ、田植えが終わってからというものは、来る日も来る日もかんかん照りで、田の水が干上がった所も出てきました。
「神さまにお願いするしかない。」「氏神さまにお願いしよう。」田植えのあとのお祝いの相談が、雨乞の相談に変わってしまいました。 
村人全員で、氏神さまにおたのみすることになりました。
翌朝、暗いうちに、村のあちこちから家族そろってやってきました。
そして、朝の野道を、「氏神さま、雨を降らせてください。」と、口々に言いながら氏神さまの森へ向かいました。
朝まいりが、何日もつづきましたが、いつもの年とはちがい、雨はいっこうに降りません。
村長さんの家に集まった村人たちは、「こまったな。何かいい考えはないかのう。」「何とか雨を降らせるよい考えはないかのう。」と、腕組みをして考えこんでしまいました。
「乙姫さまもどうしたのかのう。高座岩を洗ってくれたらいいのにのう・・・。」と、だれかがため息まじりに言った時です。
「そうや!」日焼けした顔に深いしわをきざんだ老人が、ひざをたたいて言いました。
「むかしから、天の神さまは白馬がお好きと聞いとる。白馬を生贄として高座岩の上にお供えしてはどうじゃろう。
それに、乙姫さまも岩の上がよごされたら、天の神さまに、雨を降らせてくれるようにたのんでくれるかもしれん。」
車座にすわった村人たちの間から、「うーん」「うーん」と考えこむ声がしました。
しばらくして、「白馬がかわいそうじゃ。」「いや、そんなことは言っておれん。今にも枯れそうな稲じゃ。
早く水を入れないと、わしらの米はどうなるんじゃ。」「そうじゃ。」「そうじゃ。」自分に言い聞かせるように、村人たちは頷きました。
 やがて、毛並みの美しい白馬が、村の若い衆に引かれてきました。
「この白馬を殺すのか。」「かわいそうじゃのう。」「村じゃ今、水がなければ、みんなが飢え死にするのじゃ。」
「白馬にはかわいそうじゃが、村に雨を降らせてほしいのじゃ。」
村人たちは、口々に言いながら、白馬を東山の猪切谷(いのきりだに)へ連れて行きました。
すぐさま、白馬の首がばっさりと切り落とされました。首は生木の棒に藤蔓でつるされ、ふたりの若い衆にかつがれました。
そして、村長さんを先頭に村人の行列が始まりました。行列は、山道をおり、ひび割れた田の中の道を通り、高座岩までやってきました。
岩のまん中につくられた祭壇に白馬の首が供えられました。
祭壇から落ちる真赤な血は、みるみるうちに高座岩を血の色でぬりつぶしていきました。
村長さんが、まず、「天の神さま、白馬の首をお供えします。どうか、一日も早く雨を降らせてください。」と祈りました。
村人たちも村長さんといっしょにお祈りをしました。
 今まで一点の雲もなかった空に、六甲山の向こうから真黒な雨雲が現れました。
村人たちはぬれるのも忘れて、ひび割れた田に雨水がしみわたっていくのをいつまでも見つめていました。
村人の願いはかなえられ、田の稲はすくわれました。けれども、みんなの心の底には白馬への悲しい思いがいつまでも残っていました。

 この民話はかなりの脚色が加えられると見なければないが、民話や伝承が歴史的にどのように変遷してゆくのかを考える上で興味深い。
(1)の民話の雨乞いが高座岩と溝瀧(高座岩上流の溝瀧と高座岩の下の渕が混同して用いられているが、とにかく瀧が登場する)で構成されているのに対し、(2)の民話は高座岩のみで構成されていることがわかる。

(3)武庫川の小話
 武庫川の生瀬附近は渕が多数あり、数々の民話や伝承が残されている。
河伯のなれのはてとされる河童伝説は、穴渕(アナゴシ)、ウルシナ渕、蚊帳釣岩に、川の主(ぬし)伝説は、十次郎渕、高座岩、溝滝に、龍女伝説は龍女ヶ渕に残されている。
鳩ヶ淵には、神功皇后との戦い破れた?坂(かごさか)皇子の霊が鳩になって岩倉山の砂山権現から舞い上がり、この淵に消えたという伝説がある。
武庫川の両岸には、聖徳太子の創建とされる中山寺と塩尾寺があり、?坂(かごさか)皇子の磐座、古墳、祠などがある。
これらは、武庫川と水神達との古くからの深い関係を物語るものであろう。

・雨乞い 十次郎淵(十ロヨモン淵)(辰井隆1941)
 昔、木ノ元の奥の名塩の村に十次郎という百姓が住んでおった。
ある日、村人が流していた殿様の材木が、十次郎淵で底に飲み込まれてしまった。
そこに十次郎が現れ、日照りの時、俺の田地へ先に水を入れてくれたら取ってやる」と言って淵に飛び込んだ。
材木はすぐに浮いてきたが十次郎はそれっきり浮いてこなかった。
また類似の話が道場にもある。
昔、村人が流している木が、岩にひっかかり困っているところへ、十ロヨモンという者が現れ、
「旱のとき、俺の田地へ先に水を入れてくれたら取ってやる」と言って、川に入っていった。
木は岩から離れ川下に流れたが、十ロヨモンはそれっきり浮いてこなかった。
それで、十次郎淵から高座岩の間に川主(かわぬし)がいるに違いないといわれている。

・龍 龍女ヶ淵(辰井隆1941)
 ミソ瀧の川上に龍女ヶ淵という所がある。昔、この淵へ、龍女というものが入ったというので、この名がある。ここに三、四尺の鯰がいるといわれている。

・河童 穴淵(アナゴシ)(辰井隆1941)
 ここに河童(ガタロ)が腰掛けていた岩があるといわれる。

・河童 ウルシナ淵(和田寛2005)
 昔、武庫川は木元の辺りで急に折れ曲がって深い淵になっていた。淵の崖に漆の木が茂っていたことから、村人たちはそこを「ウルシナ淵」と呼んでいた。
近くに住む子供たちは、夏になると、この淵の近くで水遊びをしていたが、時には、危険を承知の上でこの淵に来て泳ぐことがあつた。   そんな時、この淵に住んでいるガタロが、子供を淵に底に引きずり込んで尻の穴から生き血を吸い取ったという。
ガタロは胡瓜が大好きだから、胡瓜を食べてすぐに水浴びに来た子供は特によく引き込まれたといわれている。

・河童 蚊帳釣岩(『名塩史』1990)
 高座岩の傍にあり、数箇の岩の上に載る大岩。その下に十数人が坐ることができるといわれており、その形からこの名がある。どんな洪水の場合も崩れることなく河童の昼寝場所と伝えられている。

参照文献
『たからづかの民話と伝説(その1)』1973 宝塚文化財研究会 吉川宝文堂
『名塩史』p387 財団法人名塩会1990河北印刷
『兵庫県の地名T日本歴史地名体系29T』p418 1999 平凡社
辰井隆1941『武庫川・六甲山附近口碑伝説集』@p37 Ap35~50 民俗研究所
和田寛(ヒロシ) 2005『河童伝承大事典』p344 岩田書店

高座岩近傍にある武庫川の淵(●表記は、民話・伝承の残る淵) 『たからづかの民話と伝説(その1)』1973より転載

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