2020年6月19日掲載(「縮小して全体を印刷する」にて9ページ構成)
イワクラ(磐座)学会会報50号掲載

渾天説の曙 曾候乙墓出土漆箱二十八宿図の天文学的メカニズム
渾天説的曙 曾候乙墓出土漆箱二十八宿图的天文学的机制
The dawn of the celestial sphere theory in China
 Astronomical mechanism of the twenty-eight lunar mansions
  on the Lacquer Box from Tomb of Marquis Yi of Zeng

                                イワクラ(磐座)学会・日本天文考古学会
                                       江頭 務 Tsutomu Egashira
<要旨>
 渾天説の始まりは明らかでないが、一般的には前漢の武帝の時代、
紀元前104年の太初暦の頃とされている。
本稿はそれよりさらに古い、紀元前433年頃の曾候乙墓(そうこういつぼ)出土漆箱二十八宿図を
渾天説の拠りどころとして提起するものである。
図像は、漆箱中央の文字表現とその外側に広がる絵画表現に分類される。
文字列は天の北極を中心に左回転する二十八宿、
青龍と麒麟の絵は天の南極を中心に右回転する二十八宿を表している。
本稿は、この二つの表現形態を正距方位図法を使った天文学的メカニズムとして再現したものである。
天の北極と天の南極を一体とした認識は渾天説の骨格であり、
このことから戦国時代初期における渾天説の萌芽が認められる。

Abstract
Although it is not clear, but the origin of the celestial sphere theory(渾天説)is generally said to be around
Tài chū lì (104 BCE) in the Emperor Wu of the Former Han Era.
As the materials that clear the celestial sphere theory,
this paper shows the icon of the twenty-eight lunar mansions
on the Lacquer Box from Tomb of Marquis Yi of Zen (433 BCE).
The icon is classified into a character expression
on the Lacquer Box center and the painting expression that spreads outside.
The character expression shows the twenty-eight lunar mansions
that do the left spin of the North Pole in heaven in the center.
And the painting expression (two symbolic animals) shows the twenty-eight lunar mansions
that do the right spin of the South Pole in heaven in the center.
In this paper, we reproduce these two expression forms as an astronomical mechanism using zenithal projection.
The recognition that the North and South Pole in heaven were unified is
the framework of the celestial sphere theory.
The beginning of the celestial sphere theory in an early stage of the Warring States period is admitted.


1 はじめに
 古代中国の代表的な宇宙観として蓋天説と渾天説がある。
蓋天説の起源はきわめて古く周初には存在したと言われている。
能田忠亮の言を借りれば
「渾天の説は前漢の武帝の時、落下(らっかこう)に依って創設されたものであって、
其れ以前における渾天法の存在は、之を天文学的にも文献学的にも証し得ない」とある。
これは蓋天派から渾天派に転向した揚雄(ようゆう)の著『法言(ほうげん)』に
落下(らっかこう)、鮮于妄人(せんうもうじん)、耿寿昌(こうじゅしょう)が、
渾天説にもとづいた儀器を作ったことの記述(文献1)があることを根拠としている。(文献2①)
一方、ニーダムは、渾天説は石申が星表を作成しつつあった
少なくとも紀元前4世紀には存在したと述べている。(文献3)
このことは、最近の中国科学技術史の見解においても
「石申の時代には天文学が数量化され、簡単な渾天儀が存在したことも明らかである」として
追認されている。(文献4)
しかしながら、それを裏付ける資料は『尚書』の「璇璣玉衡(せんきぎょくこう)」や
『慎子』の「天体如弾丸、其勢斜倚」のような断片的なものに留まっていることも事実である。(文献5)
そこで本稿では、戦国時代初期の渾天説の存在を示す資料として、
紀元前433年の墳墓とされる曾候乙墓出土漆箱二十八宿図を提起するものである。
ここではまず仮説を立て、それを天文学を用いて数理的に再現する方法を用いている。
尚、本稿は本学会誌創刊号「前漢の二十八宿天体暦 汝陰侯墓出土円儀の天文学的考察」(文献6)を
理論的な基礎としていることから、その続編として読んでいただければ幸いである。


2 曾侯乙墓出土漆箱二十八宿図の発見とその後の研究
 曾侯乙墓(そうこういつぼ)は、1977年に中国の湖北省随県擂鼓(らいことん)で発見された墓である。
被葬者の身分は曾侯、名は乙、楚の人物で、墓の年代は戦国時代初期の紀元前433年とされている。
出土品は楽器・盾などの漆器や編鍾をはじめとする青銅器、金杯などの金器、玉器、絹、麻織物など
驚くべきものが多数発見されている。(文献7)
その中に衣類を収納する漆箱(しっそう)があり、その上蓋には下図のような絵が描かれていた。

図1 曾侯乙墓出土漆箱の二十八宿(文献9)

発掘後まもなく、1979年に多種多様な遺物の文字資料の解読がおこなわれ、
漆箱の二十八宿が二十八宿の最古の事例であることが判明した。(文献8)
また、同時期に発表された論文として良く知られているものに
王健民、梁柱、王利の「曾侯乙墓出土的二十八宿青龍白虎図像」(文献9)がある。
ここで漆箱(図1)の中央に記された中心の篆書風の大きな文字が、
北斗七星を意味する「斗」であることが報告された。
その後2006年、劉信芳、大櫛敦弘、遠藤隆俊の論文「曾侯乙墓衣箱上の宇宙図式」(文献10)よって
漆箱(衣箱)の側面の東西南北の四方神が明らかにされた。
また2010年には、図1の白虎に対して「これは麒麟である」とする小沢賢二の新説が現れた。(文献11)
2016年、著者は「曾候乙墓出土漆箱二十八宿の図像解釈」(文献12)を発表した。
その中で、文字列で表現された二十八宿は回転の中心を天の北極とする見方、
青龍と麒麟の絵で表現された二十八宿は回転の中心を天の南極とする見方であり、
それらの同時表現が曾候乙墓出土漆箱二十八宿の図像であることを述べた。
本稿は、これを渾天説の見地から正距方位図を用いて数理的に再構成したものである。


3 曾侯乙墓出土漆箱二十八宿図の疑問
 図1について、小沢賢二は『中国天文学史研究』(文献11)のなかで次のように述べている。
この画は外箱の中心に篆書された「斗(北斗)」字があり、その右側(東方を示す)には「龍」、左側(西方を示す)には「麒麟」が描かれている。
さらに中心の北斗の周囲には、「角」より「車(軫)」までの都合「二十八宿」に相当する名が時計回りに配列されているが、起点である「角」の前が空白であることから、その動きは反時計回りであることを明示している。
但し、奇妙なことに「星宿」の筆頭である「角宿」(12時の方角)の位置に「龍」の尾鰭があり、「龍」の頭部は反対の方向(6時の方角)にある。
そして「龍」の頭部より前に(同じく6時の方角)に「麟麟」の尾があり、「麒麟」(左側)の頭部は「龍」(右側)の尾鰭と同じ高さ(12時の方角)となっている。
つまりこの画の「龍」や「麟麟」は「北斗七星」をコンパスの中心にして頭部からではなく最後尾から反時計回りに動いていることを示唆しており、これによって「角」とは必ずしも「龍」の角(つの)を表したものでないことが理解できる。

次に注目すべきは「麒麟」である。
これまで研究者の多くは、後世の陰陽五行説の四獣に基づく「四方宿」すなわち「東方宿(蒼龍宮)」・「北方宿(玄武宮)」・西方宿(白虎宮)」・「南方宿(朱雀宮)」の先入観に強い影響を受けているために、外筐箱に描かれた「麒麟」を西方を示す「白虎」と思い込んでいるが、どうみてもこの動物は「白虎」ではない。
結論からいえば、頭部に後ろ向きの角(つの)をもつ角獣であって顔は狼ながら身体は鹿の特徴を持ち、しかも尾は牛で蹄は馬のようであるのだから、このような要件を備えている動物は「麒麟」以外にはないと考えられるのである。
当初は春と秋を具象化する動物として「龍」と「麒麟」の二獣が創造されたものの、後世これが変質して四季を具象化する動物として四獣の概念が芽生え、この時に「麒麟」は「白虎」に置き換えられたものであろう。
実際、班固の『西都賦』の中に「金華玉堂、白虎麒麟」の文言があり、また『白虎通』「封禅」に「麒麟臻、白虎到」とあって、「麒麟」と「白虎」とを同一視していることから、「麒麟」が「白虎」に置き換えられた経緯が汲みとれる。

もし、青龍と麒麟の回転方向が星座の回転方向と一致していれば何の問題もないであろう。
これが最大の課題である。
尚、小沢賢二の麒麟に関する指摘は的を射たものであり、
『礼記』「礼運第九」にも「麒(りん)鳳(ぽう)亀(き)龍(りょう)、之を四霊と謂う」(文献13)とあり、
青龍と麒麟の対応は明らかであることから、本稿は氏の見解に従う。
なによりも、麒麟は虎と異なり空を飛べることである。
漢代の石闕(せきけつ)や石棺には翼を持った麒麟が彫られており、
「天鹿」の名前で呼ばれていたとある。(文献14)
キトラ古墳の白虎の肩に翼をもつ(HP1)のも、
麒麟が白虎に置き換えられる過程で生じたものと推定される。


4 漆箱の方位
 「曾侯乙墓衣箱上の宇宙図式」(文献10)によれば、衣箱の四面に描かれた四方神を、
東方の神は「芒(ぼう)」、南方の神は「且(しゃ)」、西方の神は「弇(えん)」、
北方の神は「玄冥(げんめい)」としている。
北方の神「玄冥」は黒一色に塗りつぶされているとのことである。
方位は一般の地図の方位と同じである。























西



































図2 曾侯乙墓出土漆箱の方位(HP2)
   東西南北の方位は「曾侯乙墓衣箱上の宇宙図式」(文献10)に基づいて筆者が記入


5 漆箱における北と南の空の配置
 未知の図像解釈においては、何らかの仮想的な設定が必要である。
今、青龍を角宿から壁宿、麒麟を奎宿から軫宿の二十八宿を表現していると仮定しよう。
そうすると漆箱の二十八宿は二つの回転体に分類される。
一つは文字列で表現された左回転する二十八宿であり、
一つは青龍・麒麟の絵画で表現された右回転する二十八宿である。
これを天文学的に解釈すれば、文字表現の二十八宿は北の空の二十八宿であり、
絵画表現の二十八宿は南の空の二十八宿となる。
また、回転の中心は天の北極と天の南極となる。
これを漆箱の東西南北の方位に配置したものが、図3の北と南の空の配置コンセプトである。
そして、表1は図3を天文学的知見に基づいて具現化したものである。
表1のAとCをvirtualとrealの鏡像になぞらえるならば、歳星紀年法における太陰と歳星の関係にあたる。

図3 曾侯乙墓出土漆箱における北と南の空の配置コンセプト




6 漆箱二十八宿の天文学的メカニズム
ここでは、前述の北の空と南の空の配置コンセプトを、
正距方位図法を基礎とした星座早見盤の技法を用いて明らかにする。
尚、星座早見盤の作成方法についての詳細は文献15を参照願いたい。

(1)計算式の導出
 初めに、図3の配置コンセプトを実現するための計算式を導出する。
手順として本誌創刊号「前漢の二十八宿天体暦 汝陰侯墓出土円儀の天文学的考察」掲載の
南天用の計算式を北天用に変換する。
渾天説の宇宙構造は、図5のようなよく知られた天球の概念に置き換えられる。


図5 渾天説の宇宙構造を示す天球の概念

図5において方位の中心を通る東西線を回転軸として天の北極と天の南極は点対称であることに着目とすると、
表2のような対応関係が明らかとなる


表2 天の北極と天の南極の正距方位図法における対応関係
  天の北極を原点にした時  天の南極を原点にした時 
地平線(閉曲線)の内部は空となり、
外部は地平面となる
地平線(閉曲線)の内部は地平面となり、
外部は空となる
天の北極は空にある 天の南極は地下(地平面)にある
子午線(y軸)と地平線の二つの交点の内、
天の北極との距離が短い方が地平面の北となる
子午線(y軸)と地平線の二つの交点の内、
天の南極との距離が短い方が地平面の南となる

今、天の北極から見下ろした天の南極を原点とする座標を表3の図6Aのように設定する。
x,yの矢印は、xy座標の正方向の単位ベクトルをあらわす。
そして図6Aを180°回転させると、天の南極から天の北極を見上げた座標は図6Bのようになる。
つまり、xy座標の単位ベクトルも点対称の関係にあることがわかる。


表3 天の南極と天の北極の対称性
   点対称  
 図6A 天の北極から天の南極を
     
見下ろした座標
   図6B 天の南極から天の北極を
     
見上げた座標
わかりにくければ、図5に従ってサラダボールの内側に図6Aの図を描きそれを180°回転させて
天地を入れ替えて覗くと図6Bがすぐに確認できる。

従って、空を上にした北天用の星座早見盤を描くには
南天用のx軸とy軸の符号を反転させるだけでよいことがわかる。
 図3、図5を見ると、北の空と南の空は、天頂を通る東西線と地平線に囲まれる領域であることがわかる。
それらは、創刊号で述べたように下式で示される。
 φ:観測地の緯度 H:時角 δ:赤緯(図5参照) 
 曾候乙墓の所在地と緯度経度:中国湖北省随県擂鼓(らいことん) 北緯31.7° 東経113.4°
  ・地平線                 tanδ=-cos H / tanφ   (1)
  ・天頂・天底を通る東西の方位線  tanδ=cos H・tanφ      (2)


これを、空を地平線の上に描かせるx,y座標は、上記の検討にから下式となる。
 ・北の空 x= -(90+δ)・sin H   y=-(90+δ)・cos H   (3)
 ・南の空 x= (90+δ)・sin H    y= (90+δ)・cos H    (4)


表4にその計算結果を示す。
黄色で示した部分が空で、赤のダイヤのマークは二十八宿(詳細は表5、表6参照)を示す。

表4 北の空と南の空 茶線:地平線 赤線:天の赤道 青線:東西線
   
 図7A 正距方位図法による北の空  図7B 正距方位図法による南の空

表4において、天の赤道・地平線・南北の空を二分する天頂を通る方位線は、東西の点で交わる。
また、北の空では赤緯δ<0°の二十八宿は見えないが、
南の空ではすべての二十八宿を見ることができる。(図5参照)



(2)星空
表5に図1の青龍と麒麟に分類した曾侯乙墓の年代の二十八宿の赤経と赤緯を示す。


表5 紀元前433年の二十八宿の赤経と赤緯(ステラナビゲータ)

 

星宿名

距星

赤経α

赤緯δ

hms

°)

度分秒

°)

 

 

 


青龍

1 角(かく)

αVir

11h20m37.7s

170.2

+02゚14'05"

2.2

2 亢(こう)

κVir

12h07m32.2s

181.9

+02゚32'59"

2.5

3 氐(てい)

αLib

12h42m38.0s

190.7

-03゚58'24"

-4.0

4 房(ぼう)

πSco

13h40m33.4s

205.1

-16゚08'32"

-16.1

5 心(しん)

σSco

14h01m32.9s

210.4

-16゚31'22"

-16.5

6 尾(び)

μSco

14h18m12.3s

214.6

-30゚02'10"

-30.0

7 箕(き)

γSgr

15h33m59.2s

233.5

-26゚13'16"

-26.2

8 斗(と)

φSgr

16h14m58.9s

243.7

-25゚13'39"

-25.2

9 牛(ぎゅう)

βCap

18h01m00.8s

270.3

-18゚53'38"

-18.9

10 女(じょ)

εAqr

18h32m36.4s

278.2

-15゚10'14"

-15.2

11 虚(きょ)

βAqr

19h19m52.6s

290.0

-13゚33'49"

-13.6

12 危(き)

αAqr

19h58m03.0s

299.5

-09゚54'41"

-9.9

13 室(しつ)

αPeg

21h04m35.6s

316.1

+03゚27'02"

3.5

14 壁(へき)

γPeg

22h10m37.9s

332.7

+02゚02'20"

2.0

 

 

 
 

麒麟

15 奎(けい)

ηAnd

22h53m15.3s

343.3

+09゚58'33"

10.0

16 婁(ろう)

βAri

23h47m03.6s

356.8

+07゚45'32"

7.8

17 胃(い)

35Ari

00h30m24.0s

7.6

+15゚25'50"

15.4

18 昴(ぼう)

17Tau

01h28m49.3s

22.2

+13゚41'44"

13.7

19 畢(ひつ)

εTau

02h13m00.6s

33.3

+10゚33'28"

10.6

20 觜(し)

λOri

03h24m25.2s

51.1

+04゚44'43"

4.7

21 参(しん)

δOri

03h30m12.1s

52.6

-05゚25'05"

-5.4

22 井(せい)

μGem

03h58m07.1s

59.5

+19゚40'33"

19.7

23 鬼(き)

θCnc

06h08m25.5s

92.1

+22゚42'11"

22.7

24 柳(りゅう)

δHya

06h26m05.3s

96.5

+10゚57'27"

11.0

25 星(せい)

αHya

07h26m52.1s

111.7

-00゚36'55"

-0.6

26 張(ちょう)

υHya

07h54m19.2s

118.6

-05゚37'44"

-5.6

27 翼(よく)

αCrt

09h01m27.5s

135.4

-06゚38'03"

-6.6

28 軫(しん)

γCrv

10h14m01.1s

153.5

-04゚22'26"

-4.4

表6は表5のデーターを使って、紀元前433年の北の空と南の空を再現したしたものである。
北の空と南の空においては、星空の回転方向と赤緯δの正負は反転関係にある。
星空は極を中心とした正距方位図法で表現。
天の赤道の半径を球面三角法により90°と定める。
青龍と麒麟が東西に2分割されるように、
赤経αの基点0°は座標(0,-90) に設定し数式において表5の赤経に21°(⊿α)を加算した。
これは紀元前433年の春分の日の地方平時3月26日22時45分(均時差-8分)頃の星空に相当する。
『説文解字』に「龍は鱗ある生き物の長、春分の日に天に昇り、秋分の日に淵に潜る」とある。(文献16)


表6 北の空と南の空 紀元前433年の春分の日の22時45分頃の星空

北の空  
図8A 北の空 図4Aの二十八宿 
回転の中心は天の北極
対蹠地(たいせきち)は天の南極
二十八宿は左回転
二十八宿の表記順は右回り
赤緯δのプラスが
天の赤道の内側


星の座標表示⊿α=21
x=-(90-δ)・sin(α+⊿α)

y=-(90-δ)・cos(α+⊿α)
南の空
図8B 南の空 図4Bの二十八宿
回転の中心は天の南極
対蹠地(たいせきち)は天の北極
二十八宿は右回転
二十八宿の表記順は左回り
赤緯δのマイナスが
天の赤道の内側


星の座標表示⊿α=21
x= (90+δ)・sin(α+⊿α)
y=-(90+δ) ・cos(α+⊿α


(3)天文学的メカニズム
図8Aに図8Bを逆向きにして張り付けたものが図3に対応する表1のDとなる。
これを改めて対比的に示したものが次の表7である。
黄色の部分が北と南の空である。南の空には多数の二十八宿が展開しているが、
北の空においては井宿と鬼宿のみが見えている。
西北西の地平線のすぐ上にあるのが井宿、その上にあるのが鬼宿である。
















表7 天の北極と南極の二重表現

   
図9A 天の北極を原点に置いた表示 図9B 天の南極を原点に置いた表示

(注)「曾侯乙墓衣箱上の宇宙図式」(文献10)においては、図1の漆箱中央の文字は
   「斗」ではなくて、「斗土」(”斗”字之下有―”土”字)とされている。
   これが事実とすれば、「斗」は天の北極を「土」は天の南極を表象するものとして本稿の有力な証左と成りうる。

表7の原点を天の北極と見た場合には漆箱の北側に北の空が現れ、
原点を天の南極と見た場合には漆箱の南側に南の空が現れる仕掛けになっている。
それは、北と南の星空をスイッチのように切り替える天文学的メカニズムである。
このような天の北極と南極の統合的把握は渾天説の基盤をなすものであり、
曾候乙墓出土漆箱二十八宿図は戦国時代初期の渾天説の存在を示すものと言ってよいであろう。

ここで世界最初の水力式渾天儀(AD117年)を制作した後漢の張衡の『霊憲』の一節を紹介しておこう。
これは図5の渾天説の宇宙構造を説明したものである。
 「天有両儀、以儛道中。其可覩、枢星是也。謂之北極。在南者不著。故聖人弗型之名焉」
 (天に両儀有り、似て道中に儛う。其の覩るべきは、枢星是れなり。之を北極と謂う。
  南に在る者は著らわれず。故に聖人之に名づけず。)
この記述については様々な説があるが、
つまるところ天の北極を回転軸として天が回転するさまを述べていると考えられる。
そして回転軸の反対側である天の南極は常に地の下に隠れており、地上に現われないということであろう。
つまり両儀とは、天の北極と南極を指しているといえる。(文献17)

7 まとめ
①曾候乙墓出土漆箱二十八宿の図像は戦国時代初期における渾天説の存在を示すものである。
②青龍は角宿から壁宿、麒麟は奎宿から軫宿を表現する。
 それは、南の空で天の南極を中心として右回転する二十八宿である。
③文字列で表現された角宿から軫宿は北の空で左回転する二十八宿である。
 それは、南の空で回転する二十八宿の鏡像である。
④図像は天の北極と天の南極で回転する二十八宿を同時に表現したものである。
 天の北極と天の南極を一体とした認識は、渾天説の骨格である。





参考文献
1『法言 もうひとつの論語』 p227~228 田中麻紗巳 講談社 1988
2『東洋天文学史論叢』 ①p321~322,p288~289  ②p216~218 能田忠亮 恒星社 1943
3『中国の科学と文明 第5巻 天の科学』 p47 ジョセフ・ニーダム 思索社 1976
4『中国科学技術史 上』 p117 杜石然ほか編著 東京大学出版会 1997
5『全釈漢文大系11 尚書』 p67~68  池田末利 集英社 1980
 『科学の名著2 中国天文学・数学集』 「渾天説の起源と発達」 p276~279 橋本敬造 朝日出版 1980
6「前漢の二十八宿天体暦 汝陰侯墓出土円儀の天文学的考察」 江頭務
 (日本天文考古学会 学会誌 創刊号 『J-AASJ』vol.1 p50~67 2019)
7「湖北省随県曾侯乙墓発掘簡報」 随県擂鼓(らいことん)一号墓考古発掘隊 (『文物』 1979年第7期 p1~24)
8「談談随県曾侯乙墓的文字資料」 裘錫圭 (『文物』1979年第7期 p25~31)
9「曾侯乙墓出土的二十八宿青龍白虎図像」 王健民、梁柱、王利 (『文物』1979年7期 p40~45)
10「曾侯乙墓衣箱上の宇宙図式」 劉信芳、大櫛敦弘、遠藤隆俊
  (高知大学学術研究報告 第55巻 p71~81 人文科学編 2006)
11『中国天文学史研究』 小沢賢二 p82~83 汲古書院 2010
12「曾候乙墓出土漆箱二十八宿の図像解釈」 江頭務 (『イワクラ学会会報』第38号 p39~62 2016)
13『礼記』上 新釈漢文大系27 竹内照夫 p345~346 明治書店 1996
14『天翔るシンボルたち』 張競 p37 経葉社 2002
15「南天用二十八宿早見盤の作り方」 江頭務 (『天界』2019年10月号、12月号 東亜天文学会)
16『説文新義』 巻11 p161~170 白川静 白鶴美術館 1987
17『張衡の天文学思想』 p87~88 高橋あやの 汲古書院 2018
  『科学の名著2 中国天文学・数学集』 「霊憲」 p354,360 橋本敬造 朝日出版 1980

参考サイト
HP1「キトラ古墳壁画「四神図」古代絵師の力量」http://s.webry.info/sp/yoi-art.at.webry.info/201405/article_1.html
HP2「曾侯乙墓二十八宿漆箱五面圖像新發現」https://bbs.mychat.to/sindex.php?t865211.html


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