イワクラウオッチング 第2部2章
近畿のイワクラ 大阪府
このコーナーでは、大阪府のイワクラ(磐座)を霊石も含め幅広く紹介しています。
未来に向けて「イワクラの可能性を秘めた研究材料」をできるだけ多く確保する見地から、現段階でイワクラとは一般に認められてないもの多数収録しております。
『Google Maps』にリンクを示す下線のあるものについては、磐座の概略位置をクリックによりGoogle Maps上にて確認することができます。
Google Maps:01四天王寺の四石 四天王寺 出典: フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』より 四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されている。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音(ぐぜかんのん)である。 当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。宗派はもと天台宗に属したが、日本仏教の祖である聖徳太子建立の寺であり、「日本仏教の最初の寺」として、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に和宗総本山として独立宣言を出している。 「聖なる山とイワクラ・泉」 薬師寺慎一著 吉備人出版 2006年刊 p66~70には、次の内容の記述がある。 『四石(しせき)は、聖徳太子が据えられたとの伝承がありますが、一つの仮説として、四石はイワクラではないかと思います。四天王寺の境内は、そこに寺院(建物)が設けられる以前は、四石をヨリシロとして神祭りが行われていた聖地であった可能性も考えられます。』 四石(しせき) ①転法輪石 (てんぽうりんせき) 四天王寺の境内の中心なす金堂の前に鎮座する。 転法輪とは仏の教法を説くこと。仏法が一切の煩悩を破砕することを転輪王の輪宝が一切の障碍を破砕して進むに比して法輪といい、それを説くことを転という。 ②聖徳太子影向引導石 (ようごういんどうせき) 西門は、昔から極楽への入口と信じられていた。近くには、大きな石の鳥居があり、その中央に掲げられた扁額には「極楽東門」の文字が見える。つまり、この石の鳥居は極楽側から見れば一番東の端にあたり、東門となるわけである。 引導石は、この鳥居のかたわらに『太子の引導鐘』と共にある。古記録によれば、葬送の時、しばらく棺を鳥居の前に置き、太子の引導鐘を三打すれば、太子自らこの引導石の上に影向され極楽浄土に導かれるとある。 影向(ようごう)とは、神仏が一時応現することである。また、引導(いんどう)とは、釈迦が人生無常の迷いの世界より、人々を悟りの世界へと導かれることである。 ③熊野権現礼拝石 南大門の南方にある熊野権現をここより遥拝するものである。 ④伊勢神宮遥拝石 東大門の東方にある伊勢神宮をここより遥拝するものである。 参照論文 「四天王寺 「四石」の段階的成立」 「六甲山系ごろごろ岳 漢人の磐座」 |
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玉垣に囲まれた転法輪石、後は金堂 | 車輪の模様が刻まれた転法輪石 | |
石の鳥居近くにある聖徳太子影向引導石 | 玉砂利の中から石の頭がのぞく | |
熊野権現礼拝石、後は南大門 | 表面は加工された石と思われる。 | |
伊勢神宮遥拝石、後は東大門 | 玉砂利の中から石の頭がのぞく | |
Google Maps:02観音岩 交野山 観音岩 大阪府交野市(かたのし)にある標高343.5mの交野山(こうのさん)は、古くからの信仰の山である。山の読み方は何故か、市の読み方と異なっている。 山頂には、観音岩と呼ばれる巨大な磐座がある。京阪電鉄宮之阪駅の北にある百済寺跡からこの岩を望む方角が冬至の日の出線にあたる。(詳細、下記参考文献参照) この岩の上からは、山城、摂津、河内の国が眺められ、まさに、古代の要衝の地である。 観音岩には、寛文6年(1666年)開元寺中興の祖である実伝(じつでん)によって彫られた「聖観世音菩薩」の主尊種子(しゅそんしゅじ)梵字「サ」がある。 参考文献 「聖なる山とイワクラ・泉」 2006年 薬師寺 慎一著 交野における冬至の太陽祭祀 p56~65 |
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交野山古代岩座(いわくら)址の石碑 | 「聖観世音菩薩」の種子梵字がある。 | |
観音岩上部 | 観音岩上部先端部 | |
交野山 三荒神の磐座 観音岩の南側すぐ下にある。 祠の後の岩には「荒神」の主尊種子(しゅそんしゅじ)梵字「ウン・ウム」が彫られている。 Google Maps:観音岩近傍 |
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注連縄のかけられた磐座 | 鳥居から三荒神を拝する。 | |
Google Maps:03磐船神社 磐船神社 磐船神社は、饒速日命が天照大御神の詔により天孫降臨された地に鎮座している。 磐船神社には、本殿はなく拝殿のみがある。御神体は命の乗ってこられた「天の磐船」といわれる高さ12m、幅12mある船の形をした巨大な磐座である。 天の磐船は、古代の人々にとってまさに天から神様の降臨される乗り物であり、その磐船のある場所は神様の降臨される聖域であった。そしてこの地に出現された饒速日命はまさに天から降臨された神様であり、大和の人々から天神(あまつかみ)として崇敬を集めた。 磐船神社は、大阪府の東北部、交野市私市(かたのし きさいち)にあり、奈良県生駒市に隣接する、生駒山系の北端、まさに河内と大和の境に位置している。 |
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磐船神社の拝殿と御神体の天の磐船 | 天磐船の拡大写真 | |
岩窟めぐり 地底から見上げる空はまぶしい。 | 巨大な岩の建造物を思わせる天岩戸 | |
ほしだ園地 「ほしだ園地」は磐船神社の西側の山地にある自然公園である。地質的に磐船神社と同じで、規模は小さいものの「岩窟めぐり」似た場所が散見された。 Google Maps:磐船神社近傍 |
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岩陰祭祀(磐船神社の西から続く道) | ミニ岩窟めぐり(さえずりの道) | |
Google Maps:04獅子窟寺 獅子窟寺 この寺は真言宗高野山派に属し、開基は役小角と伝えられ本尊薬師如来は弘仁期の榧材の一木造りで国宝である。 聖武天皇の勅願を受けた僧行基(688-749)が堂塔を建て金剛般若窟といった。その後に空海もこの山で修行した。 亀山上皇はこの薬師仏に病気平癒を祈られ全快された喜びに荒廃していた寺を立派に再建された。嘉元三年(1305)上皇崩御の時、その徳をしのんで王の墓が建てられた。 元和元年(1615)兵火のために全山十二院が焼失し中興光影和尚によって再建されたが以前の十分の一にもおよばなかった。現在の寺はその当時のものである。 百重腹の地名が示す地形の優秀さと国宝薬師仏がこの寺のよさを教えている。 獅子窟寺案内板より 獅子の宝窟(獅子窟・金剛般若窟) 獅子の口に似たとして獅子窟と言われ、現在の寺号が出来たと伝えられている。 嵯峨天皇(弘仁年間 810~824年)のころ、弘法大師が交野地方に来られた時に、獅子窟寺吉祥院の獅子の宝窟に入り秘法を唱えると、七曜の星(北斗七星)が降り、三ヶ所に分れて落ちたと言われている。この岩の奥には、弘法大師の小さな石像が安置されている。 |
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獅子窟寺本堂 | 本堂の左手にあるイワクラ群 | |
大日如来のイワクラの前に立つ、宇宙を表す真言「アビラウンケン」の梵字碑(金石文) | 付け根から先端まで4m50cmあると言われる巨大なイワクラ | |
弘法大師がこの岩窟に籠もり修行したと伝えられる獅子の宝窟 | この岩を抱えて願いを唱えると叶うと伝えられる天福岩(大黒岩) | |
Google Maps:05星田妙見宮 星田妙見宮 (小松神社) 星田妙見宮は平安時代の弘仁年間(810~824年)に弘法大師空海上人が私市の獅子窟寺の岩屋で仏眼仏母尊の修法をされたときに当霊山に七曜の星が降臨し大師自ら「三光清岩正身の妙見」と称され北辰妙見大悲菩薩独秀の霊岳、神仏の宣宅諸天善神影向来会の名山、星の霊場としてまつられました。 また当宮を一点として、当村内の光林寺と星の森の三点に一辺を八丁(約900m)として降臨するを以て「八丁見所」と云われ、当村を三宅庄星田村と称されました。 図はホームページhttp://murata35.cool.ne.jp/meisho/ hosidakoen/korinji.htmより掲載 当御祭神は神道にては天御中主大神、仏教にては北辰妙見大菩薩、陰陽道にては太上神仙鎮宅霊符神と申されます。 星田妙見宮案内板より 星田妙見宮は、大神神社と同じように本殿はなくイワクラを拝む拝殿のみがある。(左記の民話参照) このことは、星田妙見宮が古代イワクラ祭祀に起源を持つことを示唆している。 また、北辰信仰は、道教(陰陽道)の影響により平安時代に導入されたものと推定される。 神道・仏教・道教が習合した、特異な神社である。 |
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星田妙見宮 | 正面に天御中主大神のイワクラを奉る。 | |
太上神仙鎮宅霊符神の八角鏡と玄武 | 太上仙の隣に祀られた三宝大荒神 | |
天御中主大神の手前のイワクラ | 天御中主大神の奥のイワクラ | |
星田妙見宮のお社の民話(星田妙見宮・佐々木久裕氏の文を参照) 白河天皇というお方が、寝ている時に、夢の中で、この妙見宮の神様が出てこられました。白河天皇は、ありがたいことだと、このお山に登ってこられ、お祈りをされました。そして、神様のお家が無いというので、そのお社をお建てになりました。ところが、建てたにもかかわらず、その夜に火事で燃えてしまいました。そこで、また、お建になりますと、また、その夜に燃えてしまいました。白河天皇は、これはどうしてであろうかと考えました。神様は、お社を建てるのを嫌われているのに違いない、と思われました。きっと、この岩そのものが、神様のお家であり、いつでも天からこの岩に神様が降りてこられるから、人間の手で、お社を造るのは恐れ多いことだと思われて、造られるのをやめられました。 その後、大膳亮(だいぜんりょう)という人が、神様に、災難から守って頂きたいので、なんとかお礼をしたく思い、神様のお社を造りましたが、その夜にまた燃えてしまいました。不思議なことだと、神様にお祈りをして、そのわけを聞こうとしましたら、17日目の夜、夢の中で、神様が、造ることはならぬとおっしゃるので、造ることをやめ、みんながお参りすることが出来るようにと、お祈りの為の建物を造られました。今も、拝殿だけがあるのはこのためです。これは、今から800年ほど前のお話です。 |
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Google Maps:06光林寺星御前 光林寺星御前 光林寺は、山号は降星山。 最初の頃は念仏の道場で、本山の許可を得て寺号を称したが、降星の森にある道場であったから、始めは降臨寺とし、後、同音の光林寺と変わった。 当寺境内の森は、妙見山、星の森とともに三ヶ所の降星のあった所と伝えられている。 |
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光林寺境内にある「星御前」 | 「星御前」のイワクラ | |
Google Maps:07星の森之宮 星の森之宮 この宮も妙見山、光林寺と同じ七曜星を祀る霊場である。聖地の中央に石塚を築き御神体として崇めし五箇の石の内小さい石四箇を塚の中の納め、大きい石を石塚の上に神の磐座としている。 星の森之宮の案内板より |
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星の森之宮の石塚 | 石塚台上のイワクラ | |
Google Maps:08医王岩 医王岩 箕面市萱野の地域は、すぐ北の山中にある巨岩医王岩への信仰に始まり、平安時代に、大婦天王寺社(為那都比売神社)跡や同社の神宮寺であった医王山大宮寺跡等、古い時代の歴史を物語る史跡がある。 医王岩は、「摂津名所図絵」に「又の名薬師ともいう、摂州静ヵ窟、石の宝殿の類也、この所、大己貴・少彦名の二神生まれた地か」と紹介され、古い時代から農耕神の誕生の地として広く知られている。 箕面市教育委員会の説明板等より 祭神から言えば、三輪山と同じである。近くに鍋田川が流れていることから、農業神であると同時に病気平癒の神であったと考えられる。 |
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医王岩(高さ約20m) | 医王岩の前を流れる鍋田川 | |
Google Maps: 09天照大神高座神社・岩戸神社 あまてらすおおみかみたかくら 天照大神高座神社 天照大神高座神社境内の鳥居脇の石柱には「式内 高御座神社」と記されている。天照大神高座神社は八尾市の南東部・高安山の中腹に位置する。 創祀年代は不明とされているが、雄略天皇23年(479年)に伊勢国宇治山田から当地に遷座したという説がある。山の谷間の岩盤の上に本殿が鎮座している様相から見ても、原始信仰を起源とするもっと古い時代にさかのぼると考えられている。 境内には、どのような旱天でも水が絶えることがないと言われる白飯之滝がある。水とイワクラはセットのケースが多い。 また境内には、道教と神道が習合したような珍しい北斗七星の石碑があった。中央に北斗七星とあり、その右側に山神大神、左側に白蛇大神の名が記載されていた。建立されたのはそんなに古くはないと思われるが、祭祀思想の伝承と見れば興味深いものがある。 尚、後述の岩戸神社は、 今より約1100年前、空海が高座神社参詣中に、天照大神の御託宣により創建されとあるので、高座神社の分祀と見て良いであろう。 HP神奈備には、以下の示唆深い記述があるので紹介しておく。 高座神社は、式内社で天照大神高座神社二座元を春日戸神と号すとある。大和岩雄氏は『日本の神々3』の中で、当地の高安郡に春日戸村主広田の名などが見えることと、「戸」が岸俊男氏によると朝鮮半島からの渡来人の集合を称したものと紹介している。このことから渡来系の氏族が太陽と祖先を神として祀った可能性が考えられる。 神宮寺の教興寺は秦川勝の建立と伝わる。大和岩雄氏は、当神社を比売許曽神社や赤留比売神社などと同じ性格と見ておられるが、渡来系太陽神もしくは巫女神を祀るとみておられるのであろうか。 神社の立地は難波宮からは冬至の日の出の方向に当たる。また、住吉大社東西線上にある。 |
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式内高御座神社と彫られた石柱 | 拝殿 左上方に本殿の屋根が見える。 | |
左の本殿の御簾の裏側は磐座である。 岩盤には穴があり、その扉が見える。 おそらく、天の岩戸を模したものであろう。 |
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天照大神高座神社の本殿。 | ||
かなり人手が加わっている白飯の滝 | 道教的な北斗七星の石碑 | |
道教と神道が習合した渡来系氏族の太陽信仰としては、六甲山系の芦屋川に、芦屋漢人(あしやのあやひと)の弁天岩と呼ばれる天の岩戸のイワクラがある。
そこにも、弁天滝と呼ばれる滝があり、水神が祀られている。 参照論文「六甲山系ごろごろ岳 漢人の磐座」 |
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Google Maps: 09天照大神高座神社・岩戸神社 いわと 岩戸神社 岩戸神社は、天照大神高座神社のすぐ西の脇にあり、本殿も同様に岩盤上に鎮座している。祭神は『市杵島姫命』。俗に『岩屋弁財天』『岩谷弁財天』と呼ばれ、日本最古の岩窟弁財天とされる。 |
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岩戸神社の拝殿 | 岩盤上にある本殿 | |
Google Maps:10磐船神社 磐船神社 磐船神社は、交野にもあるが、河南町平石(ひらいわ)にもある。 参照 Google Maps:磐船神社 神社の説明看板より 磐船神社は、神木「栂(とが)」にちなんで栂の宮とも呼ばれ、祭神は饒速日命(にぎはやひのみこと)という。 神話によると、饒速日命は天磐船(あまのいわふね)に乗って、河内国河上の哮峰(たけるがみね)に下られたとあることから、後の山を昔から「たけるが峰」と呼んでいる。 境内には船の形をした岩が48個あるといわれる。古い時代には山を御神体として崇めていたが、江戸時代の中期頃、高貴寺の慈雲が葛城神道を広めるにあたり、この宮を道場として社殿を建立した。 『大阪府全誌』第4巻p151より要約 哮ケ峯といへるは、舊事紀天孫本紀に「天祖以天璽瑞寶十種、授饒速日尊、則此尊稟天神御祖詔、乗天磐船而天降、坐於河内國河上哮峰」と見ゆる哮ケ峰なりと傳へ、其の乗り給ひし天磐船なりといへるは社辺の所々にあり。 石形船の如く艫艗(ろげき)を備へて、其の大なるものは長さ約七間にも及べり。 又其の西方一町許にして浪石といへるありて、石頂に浪の吹きよせたる形あり、石は何れも其の形に依りて名づけられしものならん。 哮ケ峰といへるは、北河内郡星田村大字星田にもあれば、その何れが饒速日尊の天降りありし哮ケ峰なるかは明ならざりき。 (注)文中の「浪石」の所在は不明である。ご存知に方あれば教えてください。 |
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上下に二つ並んだ磐船 | 玉垣に囲まれた岩群と樹木 | |
磐船(下) | 磐船(下)の平坦な上部 | |
磐船(下)の前の小さな磐座 | 柵に囲まれた磐船(上) | |
磐船神社の社殿 | 平石側から見た哮ケ峰(左上の山) | |
Google Maps:11久米の岩橋 久米の岩橋 久米の岩橋は、葛城山系の岩橋山(659m)の山頂付近の平石側にある。山頂南200mの岩橋峠は、河内と大和の国境で街道が通っている。ここに挙げた岩は名石コースとして一応整備されているが、平石側からの道は迷いやすい。とにかく分りやすい道をたどり岩橋山山頂に到達した後に、名石コースに入るのがお勧めである。 行小角ゆかりの岩橋は『河内名所図絵』や『日本霊異記』上巻にその記載が見られる。 石橋 (いわはし) 『河内名所図絵』より 当郡、石川郡平石村の上方にあり。平石より阪路を東にとる事十八町にして、葛城の山頂少し東の方にあり。河内、大和の国境は、石橋より東五町計下りて、伏越峠を限る。 しかはあれと、いにしへより和歌の名所に大和にあれば(大和名所図会)にも出せり。 此石橋の形を見れば、巨巌にして面に橋板の段ある事四ツ、両端、稍隆(ややたか)うして欄檻に似たり。幅三尺余、長八尺許。西南の方、些(すこ)し欠たり。形勢、将に南峰に逮(およば)んと欲す。実に、人力の到る所にあらす。 伝云、むかし、役優婆塞、葛城の峰より金御嶽へ通ひ給はんとて、石橋をかけなんとす。これを諸々の神に命じ給ふ。葛城一言主神、容貌いと醜ければ、昼の役をはゞかりて、夜をまち給ひしより、橋をわたし得給はず、行者いかりて、一言主神を呪縛して、深谷に押籠置たまへり云云。 <さ月の頃石橋にのほりて> いは橋によるばかり出る螢かな 湘夕 なを、此ほとりにか奇石多し。石不動は石橋の上五間許にあり。鉾立石は高サ弐丈はかり。其形をもって名とす。石橋より山下四町にあり。鍋釜岩、弐ツとも形をもつて名とせり。これも石橋より西の方五町にあり。胎内潜は、巨巌、左右より頭を傾け、中間、虚にして、人これをくゞるに身を縮めて通る故に、名によぶ。大峯にひとしく、其外、奇岩多し。 地勢勝れて、南に金剛山の巓近く見へ、東は、大和の畝火山、三輪杜、纒向の檜原、天香具山など、遥に見えわたり、西の方には、河内の国中、摂陽の村邑、難波江、珍努海、北には、浦の初嶌、芦屋里、鳴尾崎、灘の浦まで鮮にして、風色いちじるく、一国の勝景なるべし。 磐船神社は、交野にもあるが、河南町平石(ひらいわ)にもある。 |
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久米の岩橋(正面) | 久米の岩橋(側面) | |
胎内くぐり 回りにお札や仏像が置かれている | 胎内くぐりの岩穴 普通の人ならくぐり抜けられる | |
二つの巨岩がならぶ鉾立石 | 苔むした牛の背石 | |
鍋・釜石 左が鍋、右が釜石 | 石橋の上にある水仙の花に囲まれた不動明王 | |
Google Maps: 12鐸比古鐸比賣神社高尾山 鐸比古鐸比賣神社 高尾山 鐸比古鐸比賣神社 (ぬでひこ ぬでひめじんじゃ) 大阪府柏原市大県にある式内社である。河内国大県郡の氏神であり、背後にそびえる高尾山を神体山としている。 神社縁起によると創建は成務天皇21年(151年)とされるが、実際の年代は不明。 祭神は「鐸比古命」「鐸比売命」。 鐸比古命は垂仁天皇の子であり、「沼滞別命」「鐸石別命」と同人で、和気清麻呂の遠祖とされる。 もともとは鐸比古神社と鐸比賣神社は別々の神社であり、鐸比古神社は高尾山の山頂に祀られていたが、中世には現在の地に遷されたといわれている。しかし厳密には、『式内社調査報告』を読むとはっきりしないところが多い。 高尾山(たかおやま) 生駒山地の最南端付近に位置する低い岩山(標高:278m)である。 三等三角点がある頂上付近は岩盤が露出している。岩場には鐸比古鐸比賣神社奥社の祠が祀られている。昔、旱の時、村人が毎夜松明を数百本持って登り、雨乞いを行った。 また、この一帯では渡来系文化を示す遺構や出土品が多数見つかっている。大正14年(1925年)に弥生時代のものとされる『多紐細文鏡』が山頂南のぶどう畑の開墾中に見つかっている。朝鮮半島の青銅器時代に盛んに製作された鏡で、日本では8面しか発見されていない貴重なものとされる。 現在の高尾山は、地元住民と大阪府、柏原市により「高尾山創造の森」として整備されている。 「みはらしの道」は、その散策路の一つである。また、高尾山には70数基の古墳があり、その一部の石室内部を見学することができる。 参照文献 フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』 『式内社調査報告 第4巻』 p93~100 式内社研究会編 皇學館大學出版部 |
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鐸比古神社の奥之院 | 三角点のある頂上の磐座 | |
奥之院の西下にある磐座 | 頂上の南にある磐座 | |
みはらしの道にある祀られている磐座 | 頂上の西にある磐座とおぼしき巨岩 | |
Google Maps:13瀧安寺 神石 瀧安寺 神石 瀧安寺は大阪府箕面市にある古刹である。瀧安寺の呼び名は現在は通称「りゅうあんじ」となっているが、古くは「ろうあんじ」と呼ばれていた。さらにその前は、箕面寺であった。 本尊の弁財天は竹生島・江ノ島・厳島と並ぶ四ヶ所弁財天の一つである。 現在、弁財天堂の前には石の鳥居が立っており、その脇に神石と呼ばれる霊石が鎮座している。 ここに取り上げた理由は、その神石が『摂津名所図会』に描かれていることによる。 神石の位置は、『摂津名所図会』では弁財天堂に向かって左であるが、おそらくなにかの理由で現在地に移動させたものと思われる。神石が江戸時代から、信仰の対象となっていたことがわかる。 参照文献 『日本歴史地名体系28 大阪府の地名Ⅰ』 p292 1986 平凡社 『摂津名所図会』二 豊嶋郡 p330 秋里籬島 1984 新興社 |
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鳥居の立つ弁財天堂(神仏習合の典型) | 瀧安寺 弁財天堂 | |
鳥居の脇に鎮座する神石 | 『摂津名所図会』に描かれた神石 |