イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版 2006年9月8日掲載
イワクラ(磐座)学会 会報8号掲載 
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                    六甲山系ごろごろ岳 漢人の磐座
                      <鏡岩・剣岩の考察と秦氏の三柱鳥居>
 
1 はじめに
 本論文は、荒深道斉氏が六甲山系ごろごろ岳で発見したとされる鏡岩と剣岩について考察し、秦氏の三柱鳥居との類似性から太陽信仰と北辰信仰の習合の象徴としての「漢人の磐座(あやひとのいわくら)」の可能性を示唆するものである。
 ここでは、磐座を人為の有無にかかわらず「祈りの対象となった岩石」と解釈する。古代においては自然そのものが神であり、みだりに聖なる岩を加工したり、組み立てることは神を汚す行為であった。このため、ほとんどの磐座は自然石である。


2 六甲山系ごろごろ岳
 六甲山系は阪神間の市街地の背後、西は塩屋から東は宝塚まで、幅約10km、長さ約30kmに渡って連なる細長い山系である。ごろごろ岳は、六甲山系の東、芦屋市の北方に位置する標高565.6m(最新の測量で565.3mに改訂された)の山である。ごろごろ岳は、昔は剣谷山(けんたにやま)(文献1)と呼ばれていたが、標高が「ごろごろ(5656)」であることから、いつしか「ごろごろ岳」と呼ばれるようになった。
 ごろごろ岳は、荒深道斉氏が昭和6年(1931年)に八咫の鏡岩と叢雲の剣岩の磐座を発見したことでも知られている。ごろごろ岳の近くには、荒深氏探査による剣谷・六麓荘磐座群を始めとして(文献2)、縄文時代前期の朝日ヶ丘遺跡、弥生時代中期の会下山(えげのやま)・城山(しろやま)高地性集落遺跡、古墳時代後期の城山三条古墳群・山芦屋古墳・芦屋神社境内古墳・八十塚(やそづか)古墳群等多数の古代遺蹟が点在している。


3 芦屋の渡来人
 古代の氏族の始祖や系譜を記した「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」によれば、芦屋に渡来人系の豪族である葦屋漢人(あしやのあやひと)の名がある。また、古来、芦屋の浜辺を漢人浜(からひとのはま)と呼んでいることから大陸との深い関わりが伺える。(文献3) 城山三条古墳群からは、渡来人に深くかかわるとされるミニチュアの竃形土器、その隣の山芦屋古墳からは百済系の須恵器壷が多数出土している。(文献4)
表1は、渡来人に焦点をあてて作成した古代史年表である。これによると、古墳時代に多くの渡来人がみられる。

表1 渡来人の古代史年表
日本 中国
紀元前
3世紀〜
弥生時代
(紀元前3〜紀元3世紀)
・稲作の開始
・紀元前2〜3世紀、渡来人が
 日本に定住する。
・倭人、百余国に分かれ、
 その一部は前漢楽浪郡と
 交渉を持つ(漢書地理誌)
−300 戦国時代 秦、楚に大勝する
−221 秦の始皇帝中国を統一
−206 秦滅亡
−202 劉邦前漢を興す
−108 前漢武帝朝鮮に楽浪郡を設置
 AD8 前漢滅び、新興る
  25 新滅び、後漢興る
 220 後漢滅び、三国時代始まる
 265 魏滅び、西晋興る
3世紀後半 大和・古墳時代始まる。前方後円墳の出現
4世紀  316 西晋滅び、五胡十六時代始まる
4世紀後半 応神17年(日本書紀):秦氏(はたうじ)の祖先とされる弓月君(ゆづきのきみ)は、
加羅から127県の3〜4万人の人夫ともに渡来する。
土木・農業・養蚕・織機・酒造り・金工などの生産技術をもたらす。
応神20年(日本書紀):東漢氏(やまとのあやうじ−倭漢氏)の祖先とされる
阿智使主(あちのおみ−阿智王)が百済から17県の民とともに渡来する。
製鉄・織機・須恵器などの生産技術をもたらす。
5世紀  439 五胡十六時代が終わり、南北朝時代始まる
倭の五王、南朝に使節を派遣。この頃、朝鮮からの渡来人多し
462 雄略7年(日本書紀):技術者集団である今来漢人(いまきのあやひと
−新たに来た渡来人の意)が百済から渡来し、東漢氏の配下となる。
5世紀末〜
6世紀前半
西漢氏(かわちのあやうじ)が渡来し、河内古市を本拠とする。すでに大和を
本拠としていた東漢氏と区別するため「西」を冠したといわれる。
応神朝に渡来したとされる王仁の後裔氏族で、西琳寺はその氏寺。
6〜7世紀 任那、百済、高句麗の亡命者らが多く渡来し、学者・技術者として
朝廷に仕える。文字を始め儒学、仏教など高度な精神文化をもたらす。
 581 南北朝時代が終わり、隋興る
593 推古元年(大和・飛鳥時代)始まる。難波津の全盛期を迎え、渡来人多し。
四天王寺の建設が始まる
7世紀  618 隋滅び、唐興る
7世紀初頭 双ヶ丘一号古墳造営(秦河勝の墓との説有)
645 大化の改新 蘇我氏滅亡 律令国家のはじまり
712 古事記完成  712 唐 玄宗皇帝即位



4 鏡岩と剣岩の考察

(1)鏡岩の考察
 荒深道斉氏は鏡岩に関して、「やたのかがみ」紙上(第122号)にて次のように述べている。
『六甲山の東麓の国有林中に、剣谷と称する一渓谷がありその西方は宮川谷といい、両谷の境をなす峰尾の上に、径十三尺厚さ三尺程の巨石があって、その表面を径八尺の円形に削り四囲を小山形に刻んだ一巨石がある。三種の神器の八咫鏡のことを知る者なりせば、一見直ちにその八咫鏡を象る鏡石たることを悟り得るのである。』

 荒深氏の文章は、鏡のおもて面に円形の飾り縁があるかのような表現であるが、そのような鏡はガラス製の鏡であり、少なくとも古代鏡ではない。従って、考古学的には古代鏡の裏(背)がもっぱら研究の対象となっている。
 石で鏡を模した古代遺物の例として石製鏡(せきせいかがみ)がある。
日本考古学用語辞典(斉藤忠著 学生社 1992年刊)によれば、次のような説明がある。
『石製模造品の一。滑石で鏡を模造したもの。鏡形模造品ともいう。鏡を模造したとされる遺物としては、石製円板にも見られるが、円形で、鏡背に当たる部分の中央に鈕がつくりつけられている。また鏡背には、簡素ながらも一種の文様が内外区に分かれてほどこされたものもある。径10〜14cmぐらいで、祭祀遺蹟・古墳のいずれにも発見されている。』

 八咫鏡については、高橋健自氏の「八咫鏡考」と題する優れた考古学的論考がある。
その中で、八咫鏡は円鏡にして白銅鏡(下注参照)との指摘がある。(文献5)
 (注)古事記の天の岩屋戸の条に、「天の金山の鉄を取りて鏡を作らせる」との記載があることから、平田篤胤の「八咫鏡鉄鏡説」がある。
また、現在、八咫鏡に近いとされているものとして、福岡県前原市の平原遺蹟から出土した日本最大の古代銅鏡である「内向花文鏡」(図1)がある。昭和40年に発見された平原遺跡は、その副葬品の豪華さにより倭王の墓という説もあり、日本一の大鏡、太刀、勾玉 の三種の神器が出土している。(文献6)
 大きな鏡の鏡縁は、鋳造時の湯の回りから平縁や三角縁等の単純形状であると考えられる。従って、八咫鏡の鏡縁は単純形状で複雑な形状ではありえない。
 上記と漢代以前の銅鏡の図録の調査から、石製・銅製にかかわらず古代鏡は円鏡である言える。
図1 平原遺蹟の内向花文鏡(文献6) 直径46.5cm
     八咫鏡といわれている伊都国の巨大な鏡
  

ここで、鏡岩の写真、荒深氏の鏡岩のスケッチ、鏡岩の寸法見取り図を図2、3、4に示す。
鏡岩の寸法見取り図は、鏡岩を不等辺六角形に見立てて測定を実施したものである。これを見ると、鏡の外形が円からも正多角形からも大きくはずれていることが分かる。このことから、鏡岩は人が鏡を模して製作したものではなく、花崗岩の風化プロセスにより出現した奇岩であると言える。
 一般的に鏡岩といえば、断層作用により作られた鏡肌を有するチャート等の堅牢緻密な岩をさす。全国の鏡岩を調査したものとして、「鏡岩紀行」林宏著 中日新聞社 
2000年刊があるが、鏡の形状を模した岩は言及されていない。このことは、荒深氏の鏡岩が、全国に類例のない文化財に相当する奇岩であることを示している。

          
図2A 上部に注連縄のかけられた鏡岩の正面 
     前部は欠けているが、外形はいびつな
     不等辺六角形に近い
            図2B 切り落とされたような注連縄の背面
     横方向 約2.9m     


図3 荒深道斉氏の鏡岩のスケッチ(文献2) 
    1尺は約30cm
    径 約3.9m  厚さ 約0.9m
図4 鏡岩を不等辺六角形に見立てた時の寸法見取り図
                       (2006年8月実測)
     面積9.2m2  厚さ(推定)0.9m  体積8.3m3
      重量22ton(花崗岩の比重2.65)

 外形を見る限り荒深氏の鏡岩は古代鏡とは程遠い。ではなぜこれが鏡岩と呼ばれるようになったのか、この謎を解くことが本論文の目的のひとつでもある。それは、鏡岩の外形ではなく、鏡背に心を奪われたからである。このことは、鏡岩を見る人間に豊富な鏡の知識があったことを示している。そのような人々とは、中国大陸の鏡文化の影響を受けた渡来人であることが推定される。そして、岩から受けるイメージから逆に銅鏡を特定することにより、一層具体的な事実が明らかとなる。
 銅鏡の図録の詳細な調査の結果、この鏡は、鏡縁が図5,6に示すような16個の連弧文で形成された前漢中・後期の鏡(草葉文鏡・星雲鏡)であることがわかった。この鏡は、銅鏡全体から見れば少数派に属する鏡である。鏡岩の鏡背の最大の特徴は、荒深氏の記述のように鏡縁が多数の小山によって形成されたフリル状のイメージであり、連弧文の鏡縁が唯一それに該当する。

  
図5 前漢・草葉文鏡(文献7) 直径12.8cm  図6 前漢・星雲鏡(文献7) 直径9.3cm

 
 4世紀後半、応神天皇の時代、葦屋漢人と同族であり阿智王を祖先とする東漢氏(やまとのあやうじ)の一部は吉備の地に定住した。帰化するにあたってその帰属意識を明らかにするため日本古来から伝わる磐座を設けたとされ、その磐座が岡山県倉敷市の阿智神社に残されている(図7)。(文献9) つまり、漢氏は、磐座に深い関心を有していたことがわかる。
 以上のことから、鏡岩は、前漢文化と深いつながりをもつ朝鮮からの渡来人が自然石を新たな磐座とした可能性が高いことが推定できる。鏡岩の近くの朝日ヶ丘には縄文時代前期の集落跡があり、早くから石の文化が花開いていた。磐座は、この石の文化と渡来人の鏡の文化の融合の産物と考えられる。
図7 漢氏が設けたとされる阿智神社(岡山県倉敷市)の磐座(鶴石)(文献8)

(2)剣岩の考察
 荒深道斉氏は剣岩に関して、「やたのかがみ」紙上(第122号)にて次のように述べている。
『鏡岩より峰尾をたどりて頂上に至れば、丁度剣谷の直上約五百メートルの点に、菱形の巨石(長径十一尺)が数十個の巨石を積み上げて作られた台座の上に毅然として立っている。石面には天之勇者と称せられるオリオン星座が刻まれて居るところより見ても、これ明らかに剣石で、剣谷の地名もこれより起りしことは論をまたぬところである。』

剣岩の南に面した岩の面の写真とそれに対応する荒深道斉氏のスケッチ及びオリオン星座を図8〜11に示す。
図9の岩の面には、直線状に並んだ三つの窪み(荒深氏の主張するオリオンの帯 2等星)が確認されるが、星座を構成する一等星ベテルギウスとリゲルの位置が不明であり、これがオリオン星座であると主張する根拠は薄弱である。
また、天体の運行の基準となる北極星は距離的に菱形の岩の面から左下方向に遠くはみだすことになり不自然である。
さらに、荒深氏の磐座探査のバイブルとする古事記においても、オリオン星座と叢雲の剣との関係を説明する明確な記述がない。ただ、大阪の住吉大社の祭神である底筒男命(そこつつをのみこと)、中筒男命(なかつつをのみこと)、表筒男命(うわつつをのみこと)をオリオン星座の「三つ星」に見立てる説があるが異論もある。(文献9)
いずれにせよ、住吉大社の祭神は航海の神であり戦の神ではなく、剣とは結びつかない。また、剣岩は北方にあるが、古事記には「剣」と「北」の関係を示す記載がない。

図8A 南側から見た剣岩の正面 高さ約5m
     (西側に岩がさらに伸びている)
 図8B 剣岩の正面拡大写真 三つ並んだ穴ぼこが認められる。
      注連縄の掛かっている部分は岩が分離しているように
      見えるが一体物である。
      左下に向かって走っている線の連続性からも明らかである。

            

図9 荒深道斉氏の剣岩のスケッチ(文献2)
    星(穴ぼこ)の位置はほぼ正しいが、
    鼓形のオリオン星座は確認できない。
    剣岩の先端の岩は菱形に描かれているが、
    実際には岩は菱形に分離していない。
 図10 オリオン星座(文献10)  
      左下 ベテルギウス 
      右上 リゲル  

 結論的に言えば、重要なことは菱形の岩の面ではなく、菱形の岩の剣先にある。
夜、この岩に対峙し剣先の方向を見れば、北斗七星が輝いているのを知るであろう。
つまり、剣岩は三種の神器の叢雲の剣ではなく言わば北斗の剣であり、渡来人の北辰信仰を象徴するものである。
 この岩は、花崗岩の方形節理の風化によりできた神秘的な自然石である。その形状が剣先に似ているため剣岩と呼ばれ、古代人の戦いの神であったかもしれない。このような形態の岩は全国各地にあり、大多数は単なる剣岩の名でよばれている。
図12は、ごろごろ岳の西隣の荒地山山頂で見つけた剣岩で、花崗岩の風化の一例を示す。また、図13は、大分市の近郊にある西寒多(ささむた)神社の奥の宮にある磐座である。荒深氏の剣岩と酷似していることから、荒深氏の剣岩も古来からの磐座である可能性が高いと思われる。古代人のみならず我々も含め、このような神秘的な岩に対し畏敬の念を抱くのは、東洋人の素直な感情の発露といえよう。 この剣岩が、「叢雲の剣」とか「北斗の剣」等の具体性をより高めるためには、地理、方位、伝承などの新たな条件が加わる必要がある。六甲山と「叢雲の剣」にはこのような関連性が見当たらないのに対し、「北斗の剣」には、後に述べるように剣岩が北方にあり、剣岩全体が東西に細長く展開していること等の条件が整っている。
 すなわち、剣岩を「北斗の剣」と見た人々は、鏡岩を磐座とした鏡・道教などの中国文化の影響を受けた人々であると推定される。

図11 西方より撮影した剣岩の全体写真、奥の黒っぽい達磨のような岩が剣先にあたる岩。
     剣先より西(手前)に岩が細長く展開している。

図12 荒地山の山頂近くの花崗岩の風化の
     一例を示す剣岩(高さ約3m)     
図13 西寒多(ささむた)神社の(大分市)
    奥の宮(本宮山)にある剣岩の磐座(文献11)



5 ごろごろ岳における磐座の三角配置
 方位線は磐座の配置を検討する上で極めて重要である。
今、鏡岩―弁天岩―剣岩を地図上で結ぶとほぼ東西を底辺とした図17のような正三角形になる。ここで、弁天岩は芦屋川上流の芦有ドライブウエー沿いにある古くから良く知られた雨乞い信仰の巨大な岩(図14)で、磐座(文献12)と見なされている。
 この弁天岩を古事記の「天の岩屋戸」と想定すると共に、正三角形の図心に、新たに発見した「漢人岩(あやひといわ)」(仮称 図15)を置いたものが「ごろごろ岳における磐座の三角配置」(図17)である。漢人岩は、江戸幕府(徳川氏)が1620年から10年の歳月をかけて再築した大坂城(現在の大阪城)に伴う東六甲採石場の一つにあり、半ば埋もれてひっそりとある。(図15) 尚、漢人岩と鏡岩を結ぶ線上には四天王寺がある。以下、この配置をベースに論を進める。
 ごろごろ岳における磐座の三角配置とGPS測定結果を表2に示す。
上記の緯度経度を地図上にプロットした結果を図17に示す。
また、その図の説明図、誤差とズレの説明図を図18、19、計算結果を表3に示す。

図14 弁天岩全景(高さ約14m)とその頂部(GPS測定点)
    岩の頂部(右の写真)には、石切の矢穴が十文字に走っているのが見える。


図15A 西に面した漢人岩(あやひといわ)
  朝日を拝む方向が磐座の正面とすれば
  この写真が正面に相当する。 
  幅 南北に約6m
図15B 左の写真の裏側を北側から撮影したもの
      頂部の岩の前部が切り取られている。
      高さ 約4m 


図16 四天王寺の金堂とその前にある転法輪石(石の枠の中)

表2 ごろごろ岳における磐座の三角配置とGPS測定結果

GPS測定結果(世界測地系)
岩の呼び名 北緯 東経
四天王寺(転法輪石)  34度39分13.6秒   135度30分59.3秒 
鏡岩  34度45分13.8秒  135度18分22.0秒
弁天岩(頂部)  34度45分15.5秒  135度17分25.7秒
剣岩  34度45分54.7秒  135度17分51.7秒
漢人岩  34度45分28.2秒  135度17分52.6秒

   ・GPS測定器:エンペックス気象計株式会社製 ポケナビmini FG−530
          精度は平均15m(衛星の状態により変化する)
          ごろごろ岳山頂の三角点(点名:剣谷)での誤差例 ±0.4秒
   ・日本測地系への変換は、緯度に−11.7秒を加算、経度に+10.0秒を加算する。
    

図17 磐座の三角配置の地図


 図18 磐座の三角配置の説明図        図19 方位誤差とズレの説明
 
   θ:北向き線を0度として、時計回りに測定した方位角
  刄ニ:θと0度、120度、240度の方位角との角度の差
 ズレ:目標の地点を中心として方位線に接する円を描いたときの円の半径r
 方位誤差:目標の地点を中心として方位線に接する円を描いたときの、円の
        半径rと方位線の発する地点Aから目標の地点Bまでの距離dとの
        比 r/d=sin刄ニ

表3 漢人岩から見た磐座の三角配置の計算結果

岩の呼び名 方位角
θ
角度の差
刄ニ
距離
d
ズレ
r
方位誤差
 r/d=sin刄ニ 
四天王寺(転法輪石)  119.99度   −0.01度   23,053m   4.0m −0.02%
鏡岩 120.7度  +0.7度 868m  10.6m  +1.2%
弁天岩(頂部) 240.2度  +0.2度 787m  2.7m +0.3%
剣岩 358.4度 −1.6度 815m  22.8m −2.8%

注1
緯度経度から距離の換算は、国土地理院の2万5千分の1の地図より、北緯30.76m/秒  東経25.38m/秒を実測して適用した。
この方法は、地球が球形のため四天王寺のような距離の長いものには誤差が生じるが、実質的な問題はないと考えた。

注2
θが120度と240度は、冬至(12月22日頃)の日の出、日の入りの方向に一致する。天文学的には、日の出、日の入りの方位は、太陽の上端が水平線に接するときの方位(従ってこの時太陽は隠れて見えない)で、厳密には118度、242度である。山などの障害物がある場合は、日の出の角度は大きくなり、日の入りの角度は小さくなるので、「磐座の方位線の検討」等で一般に用いられている120度と240度を採用した。古代人の認識としては、実用性の見地から厳密性よりもむしろ120度と240度の角度が重要と考えられる。

<計算結果の評価>
 計算結果によると、漢人岩から見た四天王寺と弁天岩の冬至の日の出、日の入りの方位は良く一致していることが分かる。漢人岩は、鏡岩・弁天岩・剣岩の三角配置の構想をかなり満足している。
 
 
6 太陽信仰と北辰信仰

(1)太陽信仰と古事記
 太陽信仰は人類共通の原始的普遍的信仰である。古代の人々は朝日と共に起き、活動し、夕日と共に寝る。光と闇を支配する太陽に対し畏敬の念を覚えるのは古代人にとってごく自然である。しかしながら、文明の発達が太陽に対する畏敬の念を薄れさせるのも自然のなりゆきである。
古来より日本は、日の国であることは論をまたない。高い文明を有した渡来人にとって、古事記に表象される日本の太陽信仰は過度なものに映ったであろう。
 冬至祭祀は中国でもあったが(文献13)、これを古事記的に解釈すれば、弁天岩は「天の岩屋戸」を意味する。「天の岩屋戸」神話は、古くは日蝕を指すものといわれていたが、最近では冬至の時期に弱まる太陽の力の復活・再生を意味し、皇室の鎮魂祭の理念と共通するものと言われるようになった。(文献13) 「漢人の磐座」から弁天岩すなわち天の岩屋戸を望む方向は、天照大御神(太陽)が隠れるところであるから、冬至の日の入り線となる。(図17)この時、前漢鏡は古事記的解釈から八咫鏡となり、漢人岩から鏡岩を望む方向は冬至の日の出線となる。鏡岩が置かれている地域には朝日ヶ丘、日の出橋の地名もあり昔からこの地が朝日の名所であったことをうかがわせる。
このあたりは旧石器時代と前期縄文時代の複合遺跡である朝日ケ丘遺跡の他に、八十塚(やそづか)古墳群のあったところとして知られている。
八十塚古墳群は、6世紀後半から7世紀中頃の古墳時代後期の群集墳で、朝日ヶ丘・岩ヶ平・老松町・苦楽園・剣谷の5支群に区分されている。

尚、中国においては、一般に鏡は悪鬼を退治し災いを回避するための呪術的な道具として使用され、太陽との結びつきは日本ほど強調されなかった。このことから、鏡の古事記的解釈が不可欠であることがわかる。
また、冬至の日の出線上には、見晴らしのきく聖なる地が存在する。(文献13) そしてそれが、四天王寺である。
 薬師寺慎一著 論文「古代日本における冬至の日の出線(その2)」(「東アジアの古代文化」大和書房 第77号1993年秋、第78号1994年冬)掲載には、要旨次の如き記事がある。
『古代にあっては、洋の東西を問わず、月日(暦)を人々に教えることは支配者の重要な役目であり、その資格でもあった。中国でも日本でも、暦は支配者(政府・朝廷)が発行した。古代にあっては、ある国の暦を用いることは、その国の支配に属しているという意味すら持っていたのである。おそらくは農耕が生活の主となった弥生時代における各地の支配者たちは、既に何らかの方法で冬至の日を知ると同時に、太陽復活を願って冬至の日の出を拝んでいたに違いない。』
 また、永田久氏著「暦と占いの科学」(新潮社 1982年刊)には、冬至に関して要旨次の如き記事がある。
 『中国では立春を年初とする考え方は漢の時代に始まる。それ以前は春は冬至からと考えられていた。一日の日照時間を基に考えると、冬至は昼が一年中で最も短く夜が最も長い。陰気が極まって、これから陽気が萌すという、陰から陽への一陽来復の日だというわけで、冬至から春が始まると考えられた。しかし、今度は気温を基に考えると、最も気温の下がる日は立春で、立春からしだいに暖かさが増して春になる。こうして、漢の時代になると、一陽来復の日として立春が年初と定められるようになった。つまり、冬至年初暦と立春年初暦があるわけである。』
 つまり、漢の文化園の人々にとって、太陽信仰の古事記的解釈の受容、立春年初暦から冬至年初暦への転換は、現実的な対応であるとともに、日本への帰属意識の反映でもあった。

(2)北辰信仰


 古代中国では、北極星は、北辰(ほくしん 辰は龍神を意味する)と呼ばれ、あらゆる星が北極星を中心に巡ることから、全宇宙を司る星として崇拝され、天帝の化現した姿だと信じられていた。北辰は、道教の中心的な神である太一神(たいいっしん)と同一視された。また、北辰信仰は、北極星に対するものであるが、広く北斗七星も「辰」と見なされた。
記紀(古事記・日本書紀)などに最初に現れる神である天御中主神は、宇宙の始まりを意味し道教の太一神に重なるが、その活躍が記載されていないことから、日本古来の祭祀・信仰に淵源するものではなく、やはり中国の道教の影響で成立したとする説が有力である。いずれにせよ、記紀は太陽が中心で星の記述がほとんどないのは明らかである。

図20 奈良県明日香村のキトラ古墳の天井に描かれた北斗七星(文献15)

 奈良県明日香村にある7世紀末から8世紀初め頃と推定されるキトラ古墳・高松塚古墳の天井には星座が描かれている。この地は、昔は桧隈(ひのくま)と呼ばれ東漢氏(やまとのあやうじ)の本拠地であった。古墳の被葬者は明らかでないものの、古墳はあまりにも中国的であり、渡来人漢氏の影響を強く感じさせる。そのため、キトラ古墳の天井に描かれた北斗七星は、漢氏の北辰信仰に強い関わり持つものと推定される。

(3)四天王寺
  @四天王寺と天台宗
 四天王寺の宗派は現在和宗であるが、1946年以前は天台宗であった。(文献16)
 天台宗の「台」とは星のことで、上台・中台・下台の三台星(さんたいせい)、三ツ星のことである。天台宗発祥の地である天台山には、古来、仏僧・神仙・道士が多く住んでいた。そして、天帝の居所である紫微星(しびせい)を支える三台星の真下にある山こそが、この天台山であるという伝説があり、地上で最も神聖な場所とされていた。天の紫微星は北極星を中心とした星座、上台・中台・下台の三台星(図21)は大熊座の一部と推測されている。また、「天の三台 地の三公」といって、地上には皇帝を補佐する太尉(軍事)・司徒(教育・文化)・司空(人民・土地)の3宰相がいるのと同様に、天空には天帝を補佐する三台があるといわれている。つまり、天帝は仏陀あるいは真理・悟りそのものであり、三台こそが仏法を守護して、衆生が真理を知り悟りを開くための教えが天台宗である。図22は、菊に星の天台宗の宗章であり、天帝を補佐する三台がデザインされている。天台宗は、仏教が道教と習合した好例といえる。
      

       
図21 三台星(文献17) 図22 天台宗の宗章(文献17)

 四天王寺の創建者・聖徳太子(574〜622年)の著作である『法華義疏』は、中国の梁の光宅寺法雲(467〜529年)の『法華義記』をテキストとした注釈書である。
 この中で述べられている聖徳太子の法華経観は、「世界の宗教と経典・総解説」p109 自由国民社 1979年刊 によれば次のように要約される。
 『どのような善を行っても、そのすべてが悟りに至る種となるものであるという、仏教は一つという考え方(一乗)にのっとり、この結果、すべての人が永遠なる心の悟りを得ることができるのであり、釈迦がこの世に生まれた目的はこの経典を説くことにあった、と述べて法華経を最高の経典と規定している。』
 歴史的には法華経は釈迦入滅後に成立したものであるが、仏教学が今日ほど発達していなかった当時の中国の仏教者達は、「仏教経典はすべて釈迦が悟りをひらいてから入滅までの説法の記録である」と考えた。この見地から、中国天台宗の開祖智(538〜597年)は、各経典を釈迦の説法の年代別に分類して、法華経を釈迦が晩年に説いた最高の経典と位置づけた。この解釈は聖徳太子の解釈と軌を一にしており、智の天台教学を参考にしたことがうかがえる。このことから、四天王寺(創建593年)は、当時の天台教学の影響を受けた可能性がおおいに考えられる。
 誤解のないように言っておくが、当時の寺には宗派なるものはまだなく、四天王寺が宗派としての天台宗になったのは、最澄(767〜822年)の開宗後、825年の太政官符によってである。(文献18) 
 
 A聖徳太子と道教
 四天王寺には、その創建者である聖徳太子が佩用していたとされる七星剣が奉納されている。七星剣は古代の中国において、国家鎮護・破邪滅敵を目的として造られ、その剣に刻まれた北斗七星は、宇宙の中心である北極星(天帝)を守ることを表していた。中でも北斗七星の柄杓の柄の先端に位置する星「搖光」は「破軍星」とも呼ばれ、この星に向かって戦いを挑めば負け、この星を背にして戦えば必ず勝利すると言われた。(文献19) 
古事記 神武天皇東征の条にも、「我は日の神の御子として、日に向かいて戦うこと良からず。故に、賎しき奴のために痛手を負いぬ。今より行きめぐりて、背に日を負いて撃たむ。」の記述があり、ここにも北辰信仰の影響がうかがえる。

図23 四天王寺 聖徳太子佩用の七星剣(文献20)
    全長62.1cm 中央に北斗七星の星座が刻まれている。
図24 北斗七星の「破軍星」(文献21)

厩戸皇子(聖徳太子)の師である高句麗僧の恵便と慧慈は、厩戸皇子に仏教のみならず、一般的な学問、朝鮮半島・中国の国家体制や政治など、ありとあらゆるものを教えた。とくに仏教については、仏教であり道教であるという、いわば道仏混合の思想を教えたといわれる。(文献22) つまり、四天王寺は仏教寺であると同時に道教寺でもあった。
587年の蘇我馬子と物部守屋の合戦の時、白膠木(ぬりで)で四天王の像を造り戦いの勝利を祈願した厩戸皇子についての日本書紀の記述は別として、厩戸皇子が形勢の不利を打開するために秘かに祈ったのは北斗七星の「破軍星」ではないだろうか。だから、戦いの勝利後、報恩のために創建された四天王寺に七星剣が奉納されたのではないだろうか。
 
 B四天王寺と難波津
   飛鳥時代、大阪湾の海岸線は現在よりも大きく内陸に食い込んでいたことが知られている。四天王寺は上町(うえまち)台地と呼ばれる半島状の小高い丘の上の難波の宮の一角にあり、「戌」の方位、約700mに難波津を望む位置にある。(図25)
 
難波津は当時の大陸を結ぶ国際貿易港であった。外来文化の精華ともいえる四天王寺は、渡来人にとって故郷を偲ぶ新たな聖地となった。そしてこのことが、後に述べるように聖なる三角配置の構想を導き出す契機となった。
 実は、難波津の位置は現在でも定説がなく、諸説を見ると「三津寺町付近」、「天満橋・天神橋付近」、「高麗橋付近」、「上町台地の東方」の四つに分かれる。図25は、千田稔氏の著書(文献23)からの引用であるので、氏の主張する三津寺町説である。
 難波津は、河内湖の治水と海上交通の改善を目的とした難波堀江の掘削より誕生したと言われる。堀江は、現在の大川(天満川)とされ、その完成は500年前後とする考え方が有力である。つまり、四天王寺が建てられる100年前である。ちなみに「大阪」とは四天王寺の西大門から難波津へ下る坂の名称で、後に町全体を指すようになったものである。(文献24)

図25 四天王寺と難波津(文献23) 
  
 尚、図25記載の難波宮は前期難波宮と呼ばれ、645年の大化改新による難波遷都の後、652年に完成されたとされる難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)である。
 
7 漢人の磐座と秦氏の三柱鳥居
 漢人岩は、冬至の日の出線と日の入り線の交点にあり、かつ北に北斗の剣岩を望む位置にあることから太陽信仰と北辰信仰の習合の象徴としての磐座の可能性が高いといえる。鏡岩・弁天岩・剣岩のような三角配置は、漢人と並んで有力な渡来氏族である秦氏にも見られる。
 秦氏の根拠地である京都太秦に木島(このしま)神社がある。この神社には三柱(みはしら)鳥居と呼ばれる三方から拝むことのできる奇妙な鳥居(図26)がある。鳥居の中心には磐座が設けられている。三柱(みはしら)鳥居に関して、「秦氏の研究」大和岩雄著 大和書房 1993年刊 p312〜324に詳細な記述があり、図27Aの方位の説明図が掲載されている。
 

図26 中央に磐座の鎮座する三柱(みはしら)鳥居 図27 冬至の日の出・日の入り線と北方線  

 図27において、三角配置の中央が三柱鳥居であり、それから稲荷山方向が冬至の日の出線、松尾山方向が冬至の日の入り線である。そして、北方に秦氏の古墳とされる双ヶ丘(ならびがおか)がある。稲荷山には秦伊呂具(はたのいろぐ)創建の伏見稲荷大社(図28)、松尾山には秦忌寸都理(はたのいみきとり)創建の松尾大社(図29)がある。
稲荷山と松尾山は磐座で知られた山である。稲荷山には、劒石を初めとして多数の磐座が散在している。また、松尾山の禁足地には弁天岩と同様に巨大な磐座があり、松尾大社に申し込めば参拝することができる。
 双ヶ丘は秦氏の祖霊の眠る聖地であり、6世紀末から7世紀初頭に築かれたと推定される首長級の大規模な古墳(1号墳)がある。(図30) 昭和55年の発掘調査では金環、須恵器、土師器などが出土している。(文献25)

図28 伏見稲荷大社 一ノ峰(文献26) 図29 松尾大社 本殿(文献27) 図30 双ヶ丘の一の丘にある
     1号古墳の入口の巨岩

 この墓が誰のものか不明であるが、廣隆寺の創建者で聖徳太子の舎人の長(文献28)でもあった秦河勝(はたのかわかつ)との説(文献25)もある。古墳の石室は荒らされていたため詳細な原形は不明であるが、おそらく古墳の天井にはキトラ古墳と同じような北斗七星が描かれていたと思われる。つまり三柱鳥居は、秦氏の太陽信仰と北辰信仰の習合を表すものである。
 漢人岩は秦氏の三柱鳥居に相当するもので、聖なる三角配置は鏡岩が前漢鏡であることから、過去に前漢文化とかかわりもつ大陸系渡来人によるものと推定される。
 表4に聖なる三角配置の成立過程を示す。

表4 聖なる三角配置の成立過程
縄文時代以前  弥生時代/古墳時代     飛鳥時代                      現代

             森北町遺跡(注1a)
             会下山遺跡(注1b)
             前漢楽浪郡(注2)       四天王寺創建(593年)
奇岩(磐座?)------------○--------------○---------------------------------八咫の鏡岩(磐座)
             鏡岩(前漢鏡)        八咫の鏡岩
             この頃朝鮮半島からの渡来人多し

巨岩(磐座)-----------------------------------○----------------------------弁天岩(磐座)
                                  天の岩屋戸                  雨乞い信仰・白山信仰

平凡な岩------------------------------------------○-----------------------平凡な岩
                                      漢人岩                江戸時代の石切り場

剣岩(磐座)--------------------------------------------○-------------------叢雲の剣岩(磐座)
                                         北斗の剣岩
                                            聖なる三角配置の完成(7世紀初頭)

 (注1a)森北町遺跡
 1989年、神戸市東灘区森北町6丁目の高橋川右岸の弥生時代後期末葉の竪穴式住居跡を覆う遺物包含層の上面において、銅鏡片が出土した。この地は大宝律令により、摂津国菟原郡葦原郷ないし葦屋郷と呼ばれる郷に属した。(Wikipedia「本山(神戸市)」)
鏡片は現存長4.2cm、同幅2.8cm、最大厚(突帯部)3.65mm、最小厚1.6mmをはかり、鏡背文の構成は、内側より銘帯−突帯−櫛歯文帯−銘帯となり、中央突帯をはさんで内側に2か所、外側に1か所の陽鋳された文字が認められ、中国前漢時代後半の重圏銘帯鏡(じゅうけんめいたいきょう)の一部と考えられる。
重圏銘帯鏡片の出土は、近畿での確実な出土例としては、大阪市平野区の瓜裂北(うりわりきた)遺跡についで2例目である。
また、朝鮮系の土器についても限定された調査において、舶載品が約10個体分も確認されており大陸とのかかわりがうかがえる。(『兵庫県史 考古資料編』 1992 p190〜193)

前漢鏡 重圏銘帯鏡の解説
太い界圏(かいけん)帯で区切られた環状のスペースに内外二重の銘帯を入れた鏡。銘は、過去に異体字銘(いたいじめい)鏡な どと呼ばれたほどの独自の篆書(てんしょ)体で書かれている。省略された文字が極めて多く、これのみでは文意が通じないが、鏡の銘から補うことができる。
長い中国の鏡の歴史の中でも、銘文を主文様とする鏡は極めて少なく、唐以前では連弧文(れんこもん)銘帯鏡や小型の単圏(たんけん)銘帯鏡などの前1世紀の銘帯鏡群のみと言える。
銘内容は、汨羅(べきら)に身を投じた屈原(くつげん)の故事で著名な「楚辞(そじ)」の内容に大変近縁のもので、君主に用い られない失意の心境をうたっている。この種の鏡の製作工人が保持していた思想背景が、「楚辞」を 伝承したグループと大変近いことは興味深い。
日本では、弥生中期の前原(まえばら)市三雲南小路、飯塚市立岩(たていわ)堀田、春日市須玖岡本などの著名遺跡や神戸市森北町遺跡などからも出土している。
 
出典 村上開明堂 中国古鏡展 http://www.murakami-kaimeido.co.jp/kokyo/kan/kan_04.html
図31a 重圏銘帯鏡 前漢中期〜後期(前2世紀〜1世紀) 直径18.2cm  重さ850.2g

 (注1b)会下山遺跡
 1956年、森北町遺跡の北方約1kmの芦屋市の山手にあたる会下山で、前漢の頃(紀元前1〜2世紀)に製作されたものと推定される漢式三翼鏃(かんしきさんよくぞく)が発見された。(図31b) 鏃(ぞく)とは「矢じり」のことであり、中国の戦国・秦・漢代に盛んに用いられた武器である。出土品は、長さ4.4cm、幅1.2cmの断面が正三角形の流線型をした青銅製の矢じりで、頂点の三方に鋭利な翼をもっている。(文献3) 会下山の遺跡は土器の年代鑑定から、弥生時代後期あたる紀元1世紀頃とされている。(文献29)
 
 図31b 漢式三翼鏃(かんしきさんよくぞく)(文献27)

(注2)前漢楽浪郡
 紀元前2世紀の終わり頃、武帝の時代、前漢の勢力は最盛期を迎え朝鮮半島の楽浪郡に進出した。(図32) それにともない、日本列島に漢鏡を中心とする漢式青銅器の出土が増加しはじめたことが知られている。(文献3) 渡来人とともに、前漢の鏡が朝鮮→北九州→瀬戸内海のルートを通って日本に流入した可能性が考えられる。
 

図32 紀元前1世紀頃の前漢時代の東アジア(文献26)

 空気の澄み切っていた古代、ごろごろ岳の尾根上にある鏡岩からは難波津の港が望め、その上の台地に四天王寺の伽藍が見えたであろう。冬至の日には、朝日が四天王寺を影絵のように浮かび上がらせたことだろう。そして、そのことが弁天岩の冬至の日の入り線を喚起し、漢人岩の発見へと導く。漢人岩が磐座と成った時、剣岩は「北斗の剣」に転化し、ここに聖なる三角配置が完成する。そして漢人岩は、太陽信仰(日本の信仰)と北辰信仰(中国の信仰)を習合し、新天地に生きんとする決意を象徴する帰化人の氏神となった。
 聖なる三角配置の完成時期は四天王寺の創建593年から推定して、7世紀初頭と思われる。これは秦氏の1号墳の古墳の建設時期(文献25)に一致する。


図33 漢人の磐座(漢人岩)からの展望(左方に甲山が見える)
     木の影で見えないが、写真のもっと右手が四天王寺の方向にあたる。


8 むすび
 磐座は古代史を研究する上で貴重な古代遺跡であり、文化財の規定に照らし現在放置状態にある鏡岩・剣岩・弁天岩・漢人岩の適切な調査・保護を芦屋市教育委員会にお願いいたします。


<参考文献>
文献1 「六甲」       竹内靖一著  朋文堂 1933年刊
文献2 「天孫古跡探査要訣」 荒深道斉著 道ひらき本部 1980年刊 
文献3 ホームページ「芦屋の生活文化史」第6章 芦屋の史跡
     ・竃形土器と外来系氏族 ・漢式三翼鏃
     http://www.ashiya-city-library.jp/bunkasi-mokuji.html
文献4 ひょうご自治 2006年5月号 「歴史街道をゆく」
文献5 「鏡と剣と玉」高橋健自著  富山房 1937年刊
文献6 ホームページ「前原の史跡」平原遺蹟の内行花文鏡
     http://www.itokoku.com/maebaru/maebaru/m01s02.html
文献7 ホームページ「前漢鏡」
     http://www.yamatobunko.co.jp/kagami/kankyou/list1/list1.htm
文献8 ホームページ「渡来人」
     http://www.asuka-tobira.com/toraijin/toraijin.htm
文献9 「古事記」  倉橋憲司校注  岩波文庫 p30脚注 1963年刊
文献10 ホームページ「インターネットで見る宇宙」
      http://www.edugeo.miyazaki-u.ac.jp/earth/edu/seiza/orion.html
文献11 ホームページ「気ままに山登り」本宮山
      http://rainy25.exblog.jp/tags/山登り/#3835005
      ホームページ「巨石ネットワーク日向」
      http://blogs.yahoo.co.jp/kyoseki_hyuga/5646679.html
文献12 「磐座紀行」 藤本浩一著 向陽書房 1982年刊 
文献13 「聖なる山とイワクラ・泉」 薬師寺慎一著 吉備人出版 2006年刊
文献14 「古事記がわかる事典」 青木周平編  日本実業出版 2005年刊
文献15 ホームページ「飛鳥資料館 キトラ古墳」
      http://www.asukanet.gr.jp/kitora/
文献16 ホームページ「Wikipedia 四天王寺」
      http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA
文献17 ホームページ「仏教の教え・天台の教え」
      http://www.tendai-yba.com/b-t/tendai01.html
文献18 澪標(みおつくし)
      http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi/2005/04/miotukusi050415.html
文献19 ホームページ「七星剣」
      http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/ta77sitiseiken.htm
文献20 ホームページ「聖徳太子展」
      http://osaka-art.info-museum.net/special003/special03/spe_tai_list.html
文献21 ホームページ「破軍星」
      http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/afchnhagunsei.htm
文献22 「仏教伝来」p44 黒岩重吾著 プレシデント社 1992年刊
文献23 「埋もれた港」 千田稔著 小学館 2001年刊
文献24 ホームページ「Wikipedia 上町台地」
       http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%BA%E5%8F%B0%E5%9C%B0
文献25 ホームページ「双ヶ丘」
      http://www.omuro-e.net/topics/narabi/
文献26 ホームページ「伏見稲荷大社」
      http://inari.jp/e_taishamp/index.html
文献27 ホームページ「松尾大社」
      http://www.y-morimoto.com/jinja22/matsuo.html
文献28 聖徳太子 黒岩重吾著 文春文庫 1990年刊
文献29 「会下山から邪馬台国へ」 芦屋市・芦屋市教育委員会 2006年刊

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