イワクラ(磐座)学会 調査報告電子版 2009年7月6日掲載
イワクラ(磐座)学会会報16号掲載                   

四天王寺「四石」の段階的成立

1 はじめに

 四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区にある寺院で聖徳太子建立七大寺の一つとされている。『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音(ぐぜかんのん)である。
寺の周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。
宗派はもと天台宗に属したが、日本仏教の祖とされる聖徳太子建立の寺であり、「日本仏教の最初の寺」として、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に和宗総本山として独立宣言を出している。
図1 四天王寺の金堂(手前)と五重搭

 この寺の境内に「四石(しせき)」と呼ばれる四つの霊石がある。
四石は、金堂・西門・南門・東門の四箇所に配置され、順に「転法輪石」「引導石」「熊野遥拝石」「伊勢遥拝石」と呼ばれている。
これに関して古代史研究家の薬師寺は次のように述べている。
「四石は聖徳太子が据えられたとの伝承がありますが、一つの仮説ですが、四石はイワクラではないかと思います。四天王寺の境内はそこに寺院(建物)が設けられる以前は、四石をヨリシロとして神祭りが行われていた聖地であった可能性も考えられます」
(薬師寺2006)

私はかって、いくつかの聖石(イワクラ)が群をなして存在している場合において、それらの聖石群は元々すべてセットとしてあったものでなく、歴史的に段階を追って成立したものもあることを述べたことがある。具体的には、沖ノ島や三輪山のイワクラ群の事例が挙げられる。(江頭2007)
イワクラと言えどもすべてが太古から存在するものではなく、その大部分が歴史時代の産物であることに目をそらせてはならない。
このような考え方に基づき、四石の成立してゆく歴史過程を調査したものが、今回の報告である。今後のイワクラ群の研究の参考になれば幸いである。

2 四石の全体配置
 江戸時代元和(げんな)年間(1615〜1624年)における四天王寺の境内を図2に示す。
注目すべきは、「伊勢遥拝石」はこの時点では、現在の境内には存在していなかったことである。尚、地図上の「伊勢遥拝石」の表記は、筆者が現存の「伊勢遥拝石」の位置を参考のために追記したものである。

               図2 元和再建後の四天王寺伽藍図(上が北)(天沼1936)
                    金堂前         「転法輪石」
                    西門 ・石の鳥居横  「引導石」
                    南門          「熊野遥拝石」
                    東門          「伊勢遥拝石」(元和再建後の四天王寺伽藍図には記載なし)


3 転法輪石(てんぽうりんせき)
 四天王寺の境内の中心なす金堂の前に鎮座する。
転法輪とは仏の教法を説くこと。仏法が一切の煩悩を破砕することを転輪王の輪宝が一切の障碍を破砕して進むに比して法輪といい、それを説くことを転という。
<天王寺誌より>(棚橋1993)
転法輪石 石ハ金堂之前ヘニ在リ、本願縁起曰ク、此ノ処ハ昔シ釈迦如来転法輪処ナリト云々、是レ則其ノ印シノ石ナリ也、石ノ文ニ曰ク、東ニハ妙法蓮華経、西ニハ衆生如教行、南ニハ是大摩訶衍、北ニハ自然成仏道、按スルニ慈鎮ノ歌夫木抄曰ク、難波津ヤフルキ昔モアシカキノマチカキモノヲ転法輪処、又タ曰ク、此寺ヲヲカム印ノ石ノウエニカタクチキリヲムスヒツル哉

図3 玉垣に囲まれた転法輪石、後は金堂 図4 車輪の模様が刻まれた現在の転法輪石

<転法輪石の成立>
 実は、図4の転法輪石は見てもわかるように新しく作られたもので、本物の転法輪石はその下に埋まっている。
昭和30年〜31年の発掘調査報告によると、当時の転法輪石は、周囲の側石などを含めた状態で、東西約1.5m、南北約1.2m、高さ約0.55mであったと記されている。(図5)

図5 埋納された転法輪石(側石をとったところ)(文化財保護委員会1967)

転法輪石に関して、鎌倉時代の僧慈円の次の歌が残されている。(奥田1961@)
 難波津(なにはづ)やふるき昔のあしかきもまちかきものを転法輪所
 この寺をおかむしるしの石の上にかたく契をむすびけるかな
また、聖徳太子がこの荒陵山(こうりょうざん)の地に大伽藍を建てんと定めて転法輪石を据えたとされる伝承(佐藤1923@)が残ることから、転法輪石は飛鳥時代から鎌倉時代の間に成立したことが推定される。
(注)慈円(諡 慈鎮1155〜1225年)平安末期〜鎌倉時代初期の天台宗の僧。
四天王寺52代、54代別当。(棚橋利光1989)
関白藤原忠通の子、九条兼実の弟。「愚管抄」の著者、歌集に「拾玉集」がある。

4 熊野権現礼拝石
 南大門の南方にある熊野権現をここより遥拝するものである。
<天王寺誌より>(棚橋1993)
礼拝石 石ハ南大門ノ之内ニ在リ、是則熊野権現影向ノ之石也

図6 熊野権現礼拝石、後は南大門 図7 表面は加工された石と思われる
     東西約1m 南北約2m 高さ約0.15m

<熊野権現礼拝石の成立>
昔、南門の南阿部野には熊野街道が通っていたため、熊野権現の礼拝石を据えたといわれる。(佐藤1923A)
熊野信仰の全盛時代は平安末期の院政時代で、道沿いには多数の熊野王子社が祀られた。
礼拝石もその頃に成立した可能性が高い。(上方史蹟散策の会1995,大阪府教育委員会1987)

5 引導石
 西門は、昔から極楽への入口と信じられていた。近くには、大きな石の鳥居があり、その中央に掲げられた扁額には「釈迦如来転法輪処当極楽土東門中心」とある。
つまり、この石の鳥居は極楽側から見れば一番東の端にあたり、東門となるわけである。

図8 四天王寺の石の鳥居、向こうに見えるのは極楽門
    鳥居の右内側に引導石そばの石塔が見える

引導石は、この鳥居のかたわらに『太子の引導鐘』と共にある。古記録によれば、葬送の時、しばらく棺を鳥居の前に置き、太子の引導鐘を三打すれば、太子自らこの引導石の上に影向され極楽浄土に導かれるとある。
影向(ようごう)とは、神仏が一時応現することである。また、引導(いんどう)とは、釈迦が人生無常の迷いの世界より、人々を悟りの世界へと導かれることである。

<天王寺誌より>(棚橋1993)
引導石 石ハ石ノ鳥居ノ之内ニ在リ、旧録ヲ按スルニ曰ク、当寺役人送葬ノ之時キ太子自ラ此石上ニ影向シタマフ、安養ノ浄界ニ導ヒク、故ニ役人葬之時キ、暫ラク棺ヲ於鳥居ノ前ニ置キ、太子ノ引導鐘ヲ其数三撞ク、之ヲ自行ト号ス、誠トニ故ヘ有ル哉

図9 石の鳥居近くにある引導石 図10 玉砂利の中から石の頭がのぞく

 石の鳥居をくぐるとすぐ右側に玉垣で囲まれた「引導石」と呼ばれる聖石がある。
その傍に、立派な説明板が立っており、大略次のような説明がなされている。
<聖徳太子影向引導石御縁起より>
古記録によれば葬送の時、しばらく棺を鳥居の前に置き、聖徳太子の引導鐘を三つ打てば、聖徳太子自らこの引導石の上に影向され安養の浄土にお導き下さると伝えられている。
 引導とは釈尊が「生者必滅・会者定離」の人生無常の迷いの世界より人々を究極の悟りの世界へと導かれたことに始まる。その引導の教えは四天王寺西門から始まった彼岸信仰と彼岸中日に夕陽を拝する日想観によって興隆した浄土信仰の中に結実し、臨終に際して諸仏諸菩薩が極楽浄土にお導き下さるとの信仰を生んだのであり、聖徳太子信仰と西門信仰を結ぶ重要な霊跡となっている。
 四天王寺に納骨の参詣者は、六時堂参詣の前にこの引導石に詣でて、御遺骨を聖徳太子影向引導五輪宝塔の内に安置し、傍らにある鐘を三打撞き、霊位の往生極楽を祈り六時堂にて納骨法要を営めば、太子の引導に預かり給うこと疑いない。経木にて先祖回向の場合も同様に、まずこの引導石に詣でて、各お堂にて回向を受け、亀井堂の霊水(白石玉出の水)に経木を流せばその功徳は広大のものとなる。

<引導石の成立>
これに関して、鎌倉時代の西の鳥居の付近を最もよく写し取っているものに一遍上人絵伝(下注参照)がある。図11はその絵伝で、鳥居の付近には引導石が見当たらないことがわかる。さらに現在の石の鳥居は、当時は木の鳥居であったこともわかる。

図11 一遍上人絵伝 第二巻第三段(四天王寺 西の鳥居の付近)
                       (大谷女子大学資料館1982)

この木の鳥居は鎌倉時代永仁2年(1294年)に石の鳥居に改められたものである。
一方、図2の元和再建後の四天王寺伽藍図には、引導石が記載されていることから、引導石は鎌倉時代末から江戸時代の間に設置されたことがわかる。

(注)一遍上人絵伝
時宗の開祖、一遍上人の行状を描いた絵巻。奥書により、1299年(正安元年)一遍の高弟聖戒(しょうかい)が詞(ことば)を起草し、法眼(ほうげん)円伊(えんい)が絵を描いたことがわかる。
一遍は伊予国(愛媛県)の生まれ。初め浄土宗を修めるが、のち独自の宗旨を打ち立てて時宗を興す。とくに踊念仏という独得の信仰形式を生み出し、全国を遊行(ゆぎょう)して貴賤の間に念仏を勧め、民衆の教化に努めた。
絵巻は上人の行状を忠実に記述し、布教の模様とともに各地の名所や社寺の景観を多分に取り入れる点に特色がある。全体に人物を小さく扱い、むしろ背景の自然描写に深い関心が注がれ、四季おりおりの風景を美しくとらえて歌絵、名所絵的な趣を伝える。人物や建築の的確な描写には鎌倉時代の写実主義の傾向が強くうかがえ、また山水の構成には中国宋の山水画の影響が指摘できる。(HP Yahoo!百科事典)

6 伊勢神宮遥拝石
 東大門の東方にある伊勢神宮をここより遥拝するもので、影向(ようごう)石とも呼ばれる。

<天王寺誌より>(棚橋1993)
影向石 処ハ東門ノ前ニ在リ、按スルニ是天照太神影向ノ之処ナリ也

図12 伊勢神宮遥拝石、後は東大門 図13 玉砂利の中から石の頭がのぞく

<伊勢神宮遥拝石の成立>
 この石はもと東門外(門の階段のすぐ下)にあったものを、明治年間に門内に移したとある。(奥田1961A,生田1910)

7 まとめ
  これまでの検討から四石の成立は、遡れる年代順に考えて次のように推定される。
   @転法輪石    飛鳥時代(四天王寺創建)〜鎌倉時代(慈円の歌)
   A熊野遥拝石  平安時代以降(熊野王子社の成立)
   B引導石     鎌倉時代(一遍上人絵伝)〜江戸時代(元和年間の四天王寺伽藍図)
   C伊勢遥拝石  明治時代(奥田1961A,佐藤1923B)


参考文献
天沼俊一編1936『四天王寺図録伽藍編』p7 四天王寺
生田南水1910『四天王寺と大阪』p18 大阪六葉会
江頭務2007「三輪山イワクラ群の段階的成立」p19〜52 イワクラ(磐座)学会会報11号
大阪府教育委員会1987『歴史の道調査報告書 第1集論考篇 熊野・紀州街道』p141
大谷女子大学資料館1982 『大谷女子大学資料館報告書 第8冊 四天王寺』p78
奥田慈応1961『四天王寺誌 改訂増補』@p66〜67 Ap81 四天王寺
上方史蹟散策の会1995『熊野古道』p46〜49 向陽書房
佐藤佐(タスク)1923『大阪四天王寺案内誌』@p18〜19 Ap12 田中久榮堂書店
棚橋俊一編1993「天王寺誌 第二巻地理志」『四天王寺史料』p32 清文堂出版
棚橋利光編1989『四天王寺年表』p270〜271 清文堂出版
文化財保護委員会1967『四天王寺 埋蔵文化財発掘調査報告 第六』図版第八五, p141

(C20111011
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