叡山三十番神 Q&A
この「叡山三十番神 Q&A」は、皆様の三十番神についての質問に親しみやすく答えたものです。
詳細については下記の論文を参照ください。
1日吉大社 山王三聖の形成
2創生期における三十番神の役割<叡山三十番神 壱道・良正記の検討 前篇>
3慈覚大師如法経縁起の形成と三十番神の祭祀構造<叡山三十番神 壱道・良正記の検討 後編>
<質問目次> Q1 はじめに 『門葉記』壱道・良正記の紹介
Q2 叡山三十番神と良正三十番神について
Q3 三十番神の並びにはどんな意味が込められているのでしょうか?
Q4 三十番神の各神社の選定理由について教えてください。
Q5 素朴な質問なのですが、「良正記」は十日伊勢から始まり九日貴船で終わっていますが、
なぜ一日熱田から始まらないのでしょうか?
Q6 『叡岳要記』壱道・良正記の紹介
Q7 『叡岳要記』から『門葉記』への改編
Q8 壱道はどんな人物でしょうか?
Q9 良正とはどんな人物でしょうか?
Q10 壱道記と良正記の関係はどのようなものでしょうか?
Q11 壱道の十二番神は良正の三十番神の昔の姿とされていますが、本当でしょうか?
Q12 番神の考え方はどこからきたのでしょうか?
Q13 叡山三十番神はいつ頃始まったのでしょうか?
Q14 壱道・良正記の縁起の成立はいつ頃でしょうか?
Q15 三十番神の本地仏が成立したのはいつ頃でしょうか?
Q1 はじめに 『門葉記』壱道・良正記の紹介
三十番神には様々なものがありますが、古くて代表的なものは『門葉記』という書物にあるものです。
図1にその抜粋を示します。
図1A『門葉記』巻第七十九(如法経一)所収 壱道・良正記
図1B『門葉記』巻第七十九(如法経一)所収 壱道・良正記(続き)
漢字ばかりがならんでいますが、とりあえずざっと眺めるだけにしてください。
ここでは、図1の構成のみ解説しておきます。
ところで良正記の作者の良正ですが、類例から「りょうしょう」と読むことにします。
①良正による三十番神の神名帳
②『門葉記』のコメント(5行)
③良正の慈覚大師如法経縁起(良正記)
④壱道の慈覚大師如法経縁起(壱道記)
⑤壱道による十二番神の神名帳
Q2 叡山三十番神と良正三十番神について
『門葉記』図1①にあるのが、良正阿闍梨が勧請したとされる三十番神の神名帳です。
その神名帳は、不思議なことに十日伊勢からはじまり九日貴船で終わっています。
なぜ、一日熱田からはじまらないのでしょうか?
その疑問には後ほどQ5でお答えするとして、
創生期の三十番神は一日熱田からはじまり三十日吉備で終わっていたと思われます。
私は、これを叡山三十番神と呼んでいます。
始まりの日がかわるだけで、それがどうしたと言う声が挙がりそうですね。
実は、これが重大な意味をもつことになるのですが、それは次のQ3でお答えいたします。
Q3 三十番神の並びにはどんな意味が込められているのでしょうか?
この問題は最後に答えるべき問題かもしれませんが、
三十番神の全体像をつかむためにとりあえず表1を眺めてください。
叡山三十番神は、前部・中央部・後部の三部構成となっています。
中央部は三十番神の核心部をなすもので、10日伊勢から21日八王子までの12社で、
大比叡・小比叡・聖真子・客人・八王子の日吉五社と二十二社から選ばれた七社からなります。
七社の内、伊勢・石清水・賀茂・松尾は別格の神社です。
叡山にとって絶対的存在ともいえる神社でしょう。
大原野・春日は藤原摂関家、平野は桓武天皇にかかわる神社です。
叡山は政治的には、桓武天皇におこり藤原摂関家により発展しました。
つまり三十番神の核心は、朝廷と藤原摂関家の報恩と加護を思想的背景として、
日吉五社と二十二社から選んだ七社を合わせて祀ることにあります。
前部と後部は果実のように中央部を包み込む構造となっています。
一番外側は軍神(いくさがみ)が置かれています。
まるで神名帳を前後から護っているようですね。
軍神の内側には畿外七社の神社、さらにその内側には畿内七社の神社が置かれています。
ある種の美しさが感じ取れますね。
ところが、良正三十番神のように10日伊勢からはじまり9日貴船で終わる神名帳だとどうでしょうか?
叡山三十番神に見られる均整のとれた美しさは崩れてしまいますね。
これが前のQ2で述べた叡山三十番神と良正三十番神の決定的な違いです。
ではなぜ一日熱田はじまりを十日伊勢はじまりにわざわざ変える必要があったのでしょうか?
それはQ5でお答えします。
表1 叡山三十番神の祭祀構造
構成 |
区分 |
三十番神 |
備考 |
前部 |
軍神 |
1日 熱田 |
尾張 |
草薙の剣 |
2日 諏訪 |
信濃 |
建御名方神 |
3日 広田 |
攝津 |
天照大神の荒御魂 |
畿外 |
4日 気比 |
越前 |
|
5日 気多 |
能登 |
|
6日 鹿島 |
常陸 |
藤原氏のゆかりの社 |
畿内 |
7日 北野 |
山城 |
延暦寺配下の社 |
8日 江文 |
山城 |
江文寺の地主神 |
9日 貴船 |
山城 |
賀茂社配下の社 |
中央部 |
10日 伊勢 |
叡山上七社 |
|
11日 石清水 |
叡山上七社 |
叡山の絶対的四社 |
12日 賀茂 |
叡山上七社 |
叡山の絶対的四社 |
13日 松尾 |
叡山上七社 |
叡山の絶対的四社 |
14日 大原野 |
叡山上七社 |
藤原摂関家 |
15日 春日 |
叡山上七社 |
藤原摂関家 |
16日 平野 |
叡山上七社 |
桓武天皇 |
17日 大比叡 |
日吉五社 |
山王三聖 東塔の地主神 |
18日 小比叡 |
日吉五社 |
山王三聖 西塔の地主神 |
19日 聖真子 |
日吉五社 |
山王三聖 横川の地主神 |
20日 客人 |
日吉五社 |
|
21日 八王子 |
日吉五社 |
|
後部 |
畿内 |
22日 稲荷 |
山城 |
二十二社の上七社 |
23日 住吉 |
攝津 |
入唐求法の渡海神 |
24日 祇園 |
山城 |
延暦寺配下の社 |
25日 赤山 |
山城 |
円仁ゆかりの寺 |
畿外 |
26日 健部 |
近江 |
|
27日 三上 |
近江 |
|
28日 兵主 |
近江 |
|
29日 苗鹿 |
近江 |
延暦寺の木材供給地 |
軍神 |
30日 吉備 |
備中 |
吉備津彦神 |
Q4 三十番神の各神社の選定理由について教えてください。
三十番神に登場する神社については、下記のサイトに良くまとめられていますので参照ください。
「三十番神 日蓮宗玉蓮山 真成寺」
三十番神の選定理由は叡山とのかかわりがポイントとなりますので、
ここではそのへんに的を絞って説明いたします。
1日 熱田は天照大神の草薙の剣を祀る。
2日 諏訪は信濃国一ノ宮、祭神の建御名方命は有名な軍神である。
3日 広田は天照大神の荒魂を祀る。
『日本書紀』によれば、荒魂は神宮皇后の三韓征伐の際に軍船を導いたとある。
神宮皇后伝説に象徴されるように、広田と住吉の関係はきわめて深い。
4日 気比は越前国一ノ宮、北陸道総鎮守にして都の日本海側の玄関港である。
『続日本後紀』承和六年(839)八月二十日条に遣唐使船の無事なる帰港を祈って
「奉幣帛於攝津國住吉神。越前國氣比神。並祈船舶帰着。」とある。
『藤氏家伝』にある霊亀元年(715)気比神宮寺にまつわる話は、神宮寺の最も古い記録として知られる。
5日 気多は能登国一ノ宮、新羅・渤海との交流の拠点。
『文徳実録』斉衡二年(855)五月四日条に気多大神宮寺の記述が見える。
6日 鹿島は常陸国一宮、祭神の武甕槌神は有名な軍神である。
しかし、ここでは並びから推定して藤原氏との関係が強調されているものと思われる。
鹿島には藤原氏の前身である中臣氏に関する伝承が多く残るが、
藤原氏の祖先である藤原鎌足もまた常陸との関係が深く、
『常陸国風土記』久慈郡条によると常陸国内には鎌足(藤原内大臣)の封戸が設けられていた。
また『大鏡』を初見として、鎌足の常陸国出生説もある。このため、鹿島は藤原氏から篤く信仰された。
7日 北野は創立当初から延暦寺の配下であった。
延暦寺の僧是算は、菅原氏の故をもって北野社創立の初期に北野別当職に補され、
以後代々の兼務となった。曼珠院の初代門主忠尋は、是算の後継者である。
8日 江文は延暦寺と日吉社のごとく江文寺の地主神社と見なされる。
江文寺はすでに無いが、かつては江文山の中腹にあった。
『法華験記』には、叡山の僧釈蓮房の江文山での修行の様子が描かれている。
9日 貴船は祈雨では大和の丹生社と並んで馬が奉納される突出した神社。
賀茂川の上流にある貴船社は江戸時代まで上賀茂神社の摂社であった。
北畠親房は『二十一社記』の中で、同書の書名を『二十一社記』にした理由を
貴船が賀茂の摂社であるからと述べている。
10日 伊勢は皇祖神天照大神を祀る至高の神社。
11日 石清水は日本の総鎮守。『神祇正宗』では伊勢とならんで日本を代表する別格の神社とされる。
八幡神は、住吉とならぶ入唐求法の渡海神でもあった。
12日 賀茂は日吉と一体と見なされる。
『瀬見小河』によれば「日吉の社司は賀茂氏より出たる祝部氏の代々仕奉り、
又祭日も賀茂と同じく、其の祭式も同じさまなる・・・」とある。
日吉山王祭は、東本宮の大山咋神と賀茂玉依姫との結婚を再現する儀式とされる。
13日 松尾は日枝山(八王子山)と同神の大山咋神を祀る。
鏑矢伝承から、賀茂の丹塗矢伝承ともつながる。
14日 大原野は京春日と呼ばれる藤原氏の神社で、平安遷都の時に春日社より勧請された。
15日 春日は藤原氏が鹿島より平城京に勧請した氏神。
鹿島の神は、鹿の背に乗って奈良の御蓋山に降臨したとされる。
16日 平野の創建は延暦十三年(794)。祭神の今木神(いまきのかみ)は、
大和の今木群に住んでいた百済系の渡来人達が祀っていた神である。
これは桓武天皇の生母である高野新笠(たかのにいがさ)の父が百済系渡来人であることによる。
最澄と桓武天皇は密接な関係があり、六所宝塔の一つである比叡山東塔は桓武天皇の御霊所でもある。
17日 大比叡は、山王三聖にして東塔の地主神
18日 小比叡は、山王三聖にして西塔の地主神
19日 聖真子は、山王三聖にして横川の地主神
20日 客人は、聖真子の後に創建された白山信仰の社。
21日 八王子は、客人の後に創建された大山咋神を祀る社。
八王子山の山頂には巨大な磐座があり、八王子社はそのすぐ下に建てられている。
22日 稲荷は松尾を創建した秦氏と同族の公伊呂具(きみいろぐ)の創建。
社地の三が峰は、多数の磐座が鎮座する神体山である。
23日 住吉は、最澄、円仁が入唐求法に際し祈願した神社。
24日 祇園は、元、感神院祇園社と呼ばれ十世紀半ばまでは興福寺末寺であった。
それを天台座主良源が、時の権力者で右大臣の藤原師輔の信任を背に延暦寺の末寺・末社に編入したとも、
興福寺との激しい武力衝突を経て強奪したとも言われている。
祇園が延暦寺の末寺になったのは『日本紀略』によれば天延二年(974)五月七日である。
25日 赤山(せきざん)は円仁が唐にて加護をうけた異国の神である。
赤山禅院は仁和四年(888)に円仁の弟子の安慧(あんね)が創建、方除けの寺として知られる。
26日 健部は近江国一ノ宮。景行天皇の勅により神崎郡建部郷に日本武尊の霊を祀ったのが始まりとされる。
その後天武天皇白鳳四年(675)に近江国府の所在地であった現在の瀬田の地に遷座した。
27日 三上は「近江富士」の別名もある三上山(標高432m)の山麓に鎮座。
三上山は八王子山から良く見える神体山で、山頂には磐座と社があり八王子山に似る。
28日 兵主は大津京の時代に叡山の里坊である坂本の地に鎮座した渡来系の神。
兵主大神は桜井市の穴師坐兵主神社に祀られていたが、
近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、穴太(大津市坂本穴太町)に社地を定め遷座したとある。
その後、再び遷座して現在の野洲市に鎮座したと伝えられる。
29日 苗鹿(のうか)は、現在の那波加(なばか)神社。
天智天皇七年(668)に社殿が造営されたと伝える。
苗鹿の森は、延暦寺の木材の供給地であった。
『山門堂舎記』には仁安四年(1169)二月五日、横川中堂が炎上した際には、
苗鹿の山から内陣柱を奉納したとある。
30日 吉備社は現在の吉備津神社で、延喜式神名帳の備中国賀夜郡に吉備津彦神社とある。
祭神の吉備津彦命は四道将軍の一人として吉備国を平定した山陽道の軍神である。
Q5 素朴な質問なのですが、「良正記」は十日伊勢から始まり九日貴船で終わっていますが、
なぜ一日熱田から始まらないのでしょうか?
もっともな、疑問ですね。これは、重要な問題を含んでいます。
Q1で取り上げた図1①良正の神名帳の末尾に次の記述があります。
「延久五年歳次癸丑正月朔朝壬戌十日辛未 阿闍梨大法師良正謹記」
阿闍梨良正は延久五年の正月の一日朝から十日にかけて、三十番神を次々と勧請していったのでしょう。
そして三十番神の勧請が達成されると同時に、三十番神による如法経の守護が始まりました。
つまり、延久五年正月十日が如法経守護の開始日となり、その最初が伊勢となります。
もちろんこれは伊勢を最初にもってくるための操作と思われます。
このことは、良正の以前に神名帳がすでにあったことを暗示しています。
その元あった神名帳は一日熱田より始まり三十日吉備で終わるものでした。
これこそQ2で述べた叡山三十番神にほかなりません。
では、なぜそうする必要があったのでしょうか?
これは、良正記の神名帳の作者の考え方もありますのではっきりとは言えませんが、
当時、伊勢を神名帳の最初に置くべきとの神祇上の風潮があったと思われます。
吉田神道の『神祇正宗』の内裏三十番神では、
後に一日伊勢で始まり三十日貴船で終わるように改編されています。
一日伊勢で始まる三十番神は、日蓮聖人流と呼ばれる最新のもので現在でも良く見かけますね。
つまり、良正の十日伊勢始まりは、
一日熱田始まりから一日伊勢始まりに移行する過渡期のものととらえることができます。
Q6 『叡岳要記』壱道・良正記の紹介
壱道・良正記の縁起については『門葉記』(南北朝時代)の前の
『叡岳要記』(鎌倉時代)という書物にも載せられています。
図2はその抜粋です。
Q1と同様にその構成を示しますと次のようになります。
①如法堂の縁起
②慈覚大師如法経事 壱道の慈覚大師如法経縁起(壱道記)
③慈覚大師如法経事 良正の慈覚大師如法経縁起(良正記)
④山中記
図2『新校 群書類従』掲載『叡岳要記』壱道・良正記
Q7 『叡岳要記』から『門葉記』への改編
『叡岳要記』から『門葉記』へ次のような改編が認められます。 「良正記」
・縁起の日付の追加 延久五年癸丑正月十日
・三十番神の神名帳の追加(日付は延久五年歳次癸丑正月朔朝壬戌十日辛未)
「壱道記」
・縁起の日付の変更 貞観六年正月十四日から貞観九年丁亥正月十四日)
・十二番神の神名帳の追加(日付は同上:貞観九年丁亥正月十四日)
文書における日付の追加や変更は通常考えられないことです。
『叡岳要記』の縁起の日付貞観六年正月十四日は円仁が入滅した日です。
この壱道と円仁の出合は、『慈覚大師伝』にも記述されています。(次のQ8参照)
しかしこの時、円仁の大師号はまだありませんでした。
円仁に慈覚大師号を贈られたのは貞観八年(866)七月十四日のことですから、
壱道記に慈覚大師の名があること自体おかしいことがわかります。
『門葉記』では、そのことに気づきあわてて貞観九年に書き換えたのでしょう。
要するに、『門葉記』は『叡岳要記』を改編したものであることは明らかです。
Q8 壱道はどんな人物でしょうか?
壱道はもちろん壱道記とは無関係ですが、
壱道は『三代実録』『九院仏閣抄』『叡岳要記』にも登場する実在の人物です。
『慈覚大師伝』には、貞観六年正月十四日円仁入滅の日に
壱道(一道)と円仁が出会ったことが以下のように述べられています。
貞観六年正月十三日。・・・今日黄昏。忽有流星。落文殊樓東北角。須曳而散。皆謂。
此是大師精神遷化之徴也。十四日晩景。弟子一道来曰。在戒壇前。忽聞音楽。漸尋其聲。
起従中堂。至常行堂。音聲所発。在大師房。驚求坊中。其聲不聞。大師辨諸事。
述遣誠巳了。
壱道記はこれをベースに作成されたと考えられます。
Q9 良正とはどんな人物でしょうか?
良正は『叡岳要記』によると楞厳院(りょうごんいん)の長吏(長老)とあります。
また、『新校 群書類従』の校注には寂場坊座主ともあります。
寂場坊は横川解脱谷にあった慈恵大師(良源)の御坊跡です。
ここでQ1の図1②の良正記のすぐ後のコメントを見てください。
文中の「大師入滅後。有高僧番定」の高僧が良正であるとするならば、
叡山側の史料にあるはずですがさっぱりわかりません。
実は、良正記は鎌倉時代に書かれた偽書で、良正は架空の人物です。
それにしても、コメントにもあるように大師入滅後200年以上もたってから、
ようやく大師の遺言である三十番神の番定が実現するなんて気の長い話ですね。
Q10 壱道記と良正記の関係はどのようなものでしょうか?
壱道記は、如法経は円仁に始まるとしています。
良正記は延久五年(1073)に書かれたことになっているのですが、
円仁の天長十年(833)頃の法華経書写から240年ものブランクがあります。
そのため、繋ぎの文書として円仁入滅の貞観六年(864)の壱道記が必要になったと思われます。
『叡岳要記』には、良正記と壱道記がセットとして掲載されています。
壱道記において、慈覚大師は三十番神の結番を自分の死後に現れる高僧に託しました。
この高僧が良正に他なりません。(Q1図1②『門葉記』のコメント参照)
壱道記と良正記は緊密に繋がっていることがわかります。
このことから良正記と壱道記は同時期に書かれたものと推定されます。
Q11 壱道の十二番神は良正の三十番神の昔の姿とされていますが、本当でしょうか?
壱道の十二番神(Q1図1⑤)は、『門葉記』の良正記と同じところに掲載されています。
十二番神は、慈覚大師の頃の勧請とされ十二支に対応しています。
十二番神を三十番神の前段階をする考え方は、
一般的な解説書『神道史大辞典』(p438吉川弘文館)などを初めとして広くあります。
しかし、それは逆です。ここで表1叡山三十番神の祭祀構造の中央部を見てください。
十二番神は、中央部から壱道記の年代からずっと後の客人と八王子を除き、
そのかわりに住吉と諏訪を入れたものです。
もし十二番神を踏襲するならば、中央部のならびは十二番神そのものとなりますね。
それと、壱道記には十二番神に関する記述はまったくなく、三十番神の記述
「以国内有勢有徳神明三十箇處為守護神結番定日。大師入滅之後。有高僧可番定云々」のみがあります。
つまり、壱道記と十二番神は無関係といって良いでしょう。
十二番神に良く似たものに、
伝教大師勧請とされる五番神(大比叡・小比叡・聖真子・客人・八王子)なるものがあります。
30日を5分割して、大比叡1~6日、小比叡7~12日・・・というぐあいに、各神が6日ずつ守護を勤めます。
もちろん、これも十二番神と同様に後世の作り物です。
Q12 番神の考え方はどこからきたのでしょうか?
「如法堂銅筒記」で知られる覚超が著した『如法堂霊異記』(五通記)に、
番神による如法堂の守護についての以下の記述があります。
・・・昔日慈覚大師。為救六道群類。数年練行。手自書寫之。恭敬抽出慇勤。
奉納此伽藍。依之比叡山王赤山明神。番々守護晝夜無懈。
・・・大師以此経付属国内有威徳神明令守護之。今日賀茂之守護也。・・・
長元四年(1031)歳次辛未十二月二十三日 前権少僧都覚超記
覚超の番神は、はじめは比叡山王と赤山明神の二番神でした。
山王は比叡山の東麓(東坂本)を護り、赤山明神は比叡山の西麓(西坂本)を護るといわれています。
後に「大師以此経付属国内有威徳神明令守護之。今日賀茂之守護也。」とあることから、
漠然と三十番神らしきものをイメージしていたことが窺えます。
おそらくこれが、壱道・良正記のルーツになったものと思われます。
しかしながら、順番に何かを担当する。これは、日常生活で誰もが経験することですね。
人を神に置き換えれば番神となりますので、そんなに難しく考える必要がないかもしれませんね。
『台記』の三十番神はこれに相当するのかもしれません。
Q13 叡山三十番神はいつ頃始まったのでしょうか?
これは、Q3に関連した質問です。
叡山三十番神は二十二社と深くかかわっていることは明らかですね。
三十番神の初見として、左大臣藤原頼長の日記『台記』久安三年(1147)6月22日に次の記述があります。
・・・次移御法界房、禮慈覚影覧諸番神板、予私見之、今日稲荷神、仍密読心経擧之・・・
文中「諸番神板」とあるのが板に書かれた三十番神の神名帳です。
そして22日今日は稲荷とあります。これは叡山三十番神と一致します。
また「慈覚影」は『山門堂舎由緒記』に相応和尚筆とあることから肖像画であることがわかります。
頼長は法界房に安置されていた慈覚大師の肖像画に礼をし、板に書かれた神名帳を見て、
今日が22日稲荷神であることを知り、般若心経を黙って唱えたのです。
『百錬抄』によれば、日吉社が最後に加列して二十二社が永例となったのは永保元年(1081)十一月十八日です。
続いて、摂政藤原忠実の日記『殿暦(でんりゃく)』天仁元年(1108)八月十二日には
日吉五所への奉幣記事が登場します。忠実は、『台記』を書いた頼長のお父さんです。
日記に出てくる五所とは、大比叡・小比叡・聖真子・客人・八王子を指すものと考えられますから、
ここに至って叡山上七社と日吉五社が揃ったわけです。
私は、この頃に三十番神が生まれたのではないかと思い描いています。
Q14 壱道・良正記の縁起の成立はいつ頃でしょうか? 縁起はそれを必要とするところに生まれるものです。
従ってその背景には如法経の盛行があるはずです。
『門葉記』如法経四から十には、文治四年(1188)から応永八年(1401)に至る
34通に及ぶ歴代青蓮院門主の如法経会の記録があります。
表2はそれを神名帳に焦点をあてて整理したものです。
その16通目の弘長元年(1261)五月八日の教源記に、
十日伊勢からはじまる良正の三十番神を紙に書き連ねた神名帳が登場します。
尚、15通目の隆瑜(りゅうゆ)記は、16通目の教源記の如法経を隆瑜が記録したものです。
神名帳の記述は、極めて簡略なものです。
『叡岳要記』には神名帳が掲載されていません。
そのため表1のNo.1~14の時代を反映しているのではないかと予想されます。
もし神名帳があるなら、当然、縁起とセットで掲載されるべきだと思うのです。
つまり、壱道・良正記の縁起の成立は教源記の前、
宗快による『如法経現修作法』が著された13世紀前半あたりではないでしょうか。
表2 『門葉記』(『大正新修 大蔵経』図像第11巻)如法経記録一覧
No |
表題の年月日 |
西暦年 |
掲載
ページ |
文の
長さ |
神名帳に関する記事 |
1 |
文治四年8月14日 |
1188 |
p646 |
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|
2 |
建久六年8月23日 |
1195 |
|
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3 |
建久八年7月16日 |
1197 |
|
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4 |
元久元年5月7日 |
1204 |
p647 |
|
|
5 |
承元二年7月23日 |
1208 |
|
|
6 |
建保二年5月8日 |
1214 |
長文 |
|
7 |
貞応元年7月晦日 |
1222 |
p649 |
長文 |
|
8 |
寛元二年7月29日 |
1244 |
p651 |
|
覚源記 |
9 |
寛元三年7月30日 |
1245 |
|
|
10 |
寛元四年4月― |
1246 |
p652 |
|
|
11 |
寛元三年4月15日 |
1245 |
|
|
12 |
建長元年4月15日 |
1249 |
p653 |
|
|
13 |
建長三年4月8日 |
1251 |
|
|
14 |
建長六年7月27日 |
1254 |
|
|
15 |
弘長元年4月30日 |
1261 |
p654 |
|
隆瑜記 神名帳p662中段 初見 |
16 |
弘長元年5月8日 |
1261 |
p663 |
|
教源記 詳細な神名帳p664 初見 |
17 |
文永二年5月14日 |
1265 |
p670 |
|
|
18 |
文永四年4月28日 |
1267 |
|
|
19 |
弘安四年7月6日 |
1281 |
|
|
20 |
正応三年6月15日 |
1290 |
長文 |
神名帳p671中段 |
21 |
文永四年4月22日 |
1267 |
p672 |
|
覚源記 |
22 |
健治二年6月23日 |
1276 |
p673 |
|
|
23 |
文永八年8月29日 |
1271 |
長文 |
神名帳p674上中段 |
24 |
文永九年8月15日 |
1272 |
p677 |
長文 |
神名帳p678上段 |
25 |
健治二年6月29日 |
1276 |
p680 |
長文 |
神名帳p681上段 |
26 |
文永九年8月8日 |
1272 |
p684 |
|
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27 |
健治二年6月29日 |
1276 |
|
|
28 |
元応二年8月19日 |
1320 |
|
|
29 |
元徳二年7月27日 |
1330 |
p685 |
|
|
30 |
貞治六年3月6日 |
1362 |
p686 |
長文 |
長文だが神名帳の記述なし |
31 |
応安三年4月16日 |
1370 |
p692 |
|
|
32 |
応安六年4月― |
1373 |
長文 |
七日今日番神北野也p702下段 |
33 |
応安五年4月23日 |
1372 |
p706 |
長文 |
神名帳p707上、中段 |
34 |
応永八年5月21日 |
1401 |
p709 |
長文 |
神名帳p709中段、番神所作p710上段、三十番神p715上段 |
Q15 三十番神の本地仏が成立したのはいつ頃でしょうか?
三十番神の本地仏の最も一般的なものとして、元禄三年(1960)成立の『仏像図彙』によるものを表3に示します。
表3 三十番神の本地仏一覧
日 |
神社 |
本地仏 |
|
日 |
神社 |
本地仏 |
|
日 |
神社 |
本地仏 |
1 |
熱田 |
大日如来 |
|
11 |
石清水 |
阿弥陀如来 |
|
21 |
八王子 |
千手観音 |
2 |
諏訪 |
普賢菩薩 |
|
12 |
賀茂 |
聖観音 |
|
22 |
稲荷 |
如意輪観音 |
3 |
広田 |
勢至菩薩 |
|
13 |
松尾 |
毘婆尸仏 |
|
23 |
住吉 |
聖観音 |
4 |
気比 |
大日如来 |
|
14 |
大原野 |
薬師如来 |
|
24 |
祇園 |
薬師如来 |
5 |
気多 |
阿弥陀如来 |
|
15 |
春日 |
釈迦如来 |
|
25 |
赤山 |
地蔵菩薩 |
6 |
鹿島 |
十一面観音 |
|
16 |
平野 |
聖観音 |
|
26 |
建部 |
阿弥陀如来 |
7 |
北野 |
十一面観音 |
|
17 |
大比叡 |
釈迦如来 |
|
27 |
三上 |
千手観音 |
8 |
江文 |
弁才天 |
|
18 |
小比叡 |
薬師如来 |
|
28 |
兵主 |
不動明王 |
9 |
貴船 |
不動明王 |
|
19 |
聖真子 |
阿弥陀如来 |
|
29 |
苗鹿 |
阿弥陀如来 |
10 |
伊勢 |
大日如来 |
|
20 |
客人 |
十一面観音 |
|
30 |
吉備 |
虚空蔵菩薩 |
鎌倉時代の初期に編纂された『諸社禁忌』に有名な神社への本地仏に関するアンケート結果がまとめられていますが、
各神社の回答は様々で、言葉を濁したものや無回答のものもあり、本地仏の成立は過渡期にあったといえます。
三十番神の完全な本地仏が成立するようになるのは、
鎌倉時代末期の吉田家『二十二社并本地』の頃ではないでしょうか。
(C20140120)
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