イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版 2014年1月18日掲載
イワクラ(磐座)学会会報30号掲載      
   
慈覚大師如法経縁起の形成と三十番神の祭祀構造
<叡山三十番神 壱道・良正記の検討 後編>


はじめに

先の論文「創生期における三十番神の役割<叡山三十番神 壱道・良正記の検討 前編」(文献1)(以下、本論文では前編と略称)において、三十番神の元々の姿は如法経の守護神ではなく、叡山の守護神であることを述べた。
本論文はその続編として、それがどのような過程をたどり如法経の守護神となるに至ったか、
そして壱道・良正記の検討から三十番神の核心が、朝廷と藤原摂関家の報恩と加護を思想的背景として、
日吉社と二十二社から選んだ七社を合わせて祀ることにあることを明らかにした。
以下に、前編を踏まえた本論文の検討結果の要点を記す。

<論文の要点>

①三十番神の初見は、左大臣藤原頼長の日記『台記』久安三年(1147)六月二十二日の以下の記述である。
 「次移御法界房、禮慈覚影覧諸番神板、予私見之、今日稲荷神、仍密読心経擧之・・・」
 三十番神の番神板は、かつて慈覚大師の住んでいた法界房に慈覚大師の肖像画ともに掲げられていたと推定される。

②『台記』の三十番神が如法経に取り込まれた初見は、『門葉記』にある弘長元年(1261)五月八日の「教源記」である。
 また三十番神の神名帳が「如法経現修作法」に追加されたのは、文永十一年(1274)九月十八日、圓珠によってである。

③壱道・良正記が書かれたのは「教源記」の前と推定される。
 壱道記と良正記は一連のもので、『慈覚大師伝』と『如法堂霊異記』(五通記)を基礎に
 『台記』(法界房)の三十番神を参照して作成された「慈覚大師如法経縁起」である。
 その後に著された『門葉記』において、三十番神と十二番神の神名帳が付加され、作成日付の追記や修正が行われた。

④良正の神名帳は『台記』の三十番神からの転用と推定される。
 『台記』の頃の神名帳は一日熱田から始まっていたが、良正記において十日伊勢はじまりに変更された。
 これは、一日熱田はじまりから一日伊勢はじまり(日蓮聖人流)に移行する過渡期のものととらえることができる。
 
⑤壱道の十二番神は、『台記』の三十番神の十日伊勢から二十一日八王子の間の十二社から、
 壱道の年代からはずれる客人と八王子を除き、十二支に配当するために住吉と諏訪を追加したものである。
 尚、十二番神は壱道・良正記の縁起に対応していない。

⑥創生期の三十番神の核心部は十日伊勢から二十一日八王子の間にあり、
 日吉五社(大比叡・小比叡・聖真子・客人・八王子)と
 二十二社から選ばれた七社(伊勢・石清水・賀茂・松尾・大原野・春日・平野)である。
 この内、伊勢・石清水・賀茂・松尾は朝廷や叡山にとって別格の神社である。
 大原野・春日は藤原摂関家、平野は桓武天皇にかかわる神社である。
 叡山は、政治的には桓武天皇におこり藤原摂関家により発展した。
 即ち、三十番神の核心は、朝廷と藤原摂関家の報恩と加護を思想的背景として、
 日吉五社と二十二社から選んだ七社を合わせて祀ることにある。

⑦創生期の三十番神の祭祀構造は、果実のように四層よりなる。
 核心部十二社(伊勢・石清水・賀茂・松尾・大原野・春日・平野・大比叡・小比叡・聖真子・客人・八王子)、
 その外側に畿内の神社七社(北野・江文・貴船・稲荷・住吉・祇園・赤山)、
 さらにその外側に畿外の神社七社(気比・気多・鹿島・健部・三上・兵主・苗鹿)、
 最後に軍神四社(熱田・諏訪・広田・吉備)が置かれている。


1 慈覚大師如法経縁起の形成
 最初に三十番神に関する関連事項を、年表形式にまとめた表1を示す。
以下、これに従って慈覚大師如法経縁起の形成についてステップを設け検討する。

表1 三十番神関連年表
   注 文書に記載された年月日で、信頼性が低いと思われるものには末尾に?を付けた
区分  項目  推定年代と解説 
 
9世紀
   
円仁、法華経を書写 天長十年(833)?
円仁入滅 貞観六年(864)正月十四日(『日本三代実録』)
円仁の慈覚大師号 貞観八年(866)七月十四日 円仁、慈覚大師号を贈られる (『慈覚大師伝』)
 「壱道記」
成立日付の表記に二種あり
『叡岳要記』所収 貞観六年(864)正月十四日?(円仁入滅)
『門葉記』所収    貞観九年(867)正月十四日?
 
10世紀
『慈覚大師伝』 寛平入道親王(真寂)とその子源英明(~939)の作とされる
 
11世紀前半
  
覚超の如法経埋納計画  長元四年(1031) 覚超らが円仁の如法経を銅筒に納め直し、
如法堂の北西に埋納を計画する
実際の埋納は、承安年中(1171~1175)とされる
「如法堂霊異記」(五通記) 長元四年(1031) 覚超これを著す
番神による如法堂の守護が記述されているが、三十番神には至らず
二十二社の成立(暫定) 長暦三年(1039) 既定の二十一社に日吉を加えた二十二社が定まる 
 
11世紀後半
  
「良正記」 延久五年(1073)正月十日?
 二十二社の成立(永例) 永保元年(1081) 日吉を加えた二十二社が永例となる
 
12世紀前半
  
 『殿暦』
摂政藤原忠実の日記
日吉五所への奉幣
天仁元年(1108)八月十二日条 日吉五所への奉幣
(五所とは、大比叡・小比叡・聖真子・客人・八王子を指すものと推定される)
『台記』
藤原頼長の日記
三十番神の番板
久安三年(1147)六月二十二日条 
叡山の法界房で諸神の番板を見たところ、
二十二日が稲荷神の番日であったので、般若心経を黙読した
 
12世紀後半
円良の銅筒埋納 承安年中(1171~1175) 楞権院長吏円良が覚超の銅筒を
如法堂の近くに埋納
『玉葉』
九条兼実の日記
(叡山式如法経)
 
養和二年(1182)3月15日 ~4月16日にかけて
叡山の儀礼に基づく如法経会が行われる
経を納めた銅筒は、最勝金剛院の山に埋められる
  Ⅶ
13世紀前半
  
『如法経現修作法』 宗快  嘉禎二年(1236)二月二十六日 宗快、これを六帖にて作る
                   (三十番神の神名帳はなし)
 『叡岳要記』
壱道・良正記掲載
 
鎌倉時代前期 慈覚大師如法経縁起の成立 
  Ⅷ
13世紀後半
    
三十番神の神名帳(初見) 弘長元年(1261)五月八日の教源記
神名帳を伴った如法経の最初と思われる実例
『如法経現修作法』 圓珠 文永十一年(1274)九月十八日 圓珠、一条を加えて七条とし、
三十番神の神名帳を追記する
十二番神(初見?)
弘安四年(1282)七月二十九日 「叡山巡礼記草」
 Ⅸ
14世紀
『門葉記』 尊円親王
壱道・良正記掲載
南北朝時代 青蓮院門跡の尊円親王(1298~1356)が編纂した
青蓮院の寺務記録 三十番神と十二番神の神名帳が追加掲載される

ステップⅠ 円仁 法華経を書写する 9世紀
一般的に円仁は如法経の創始者とされているが、厳密には正しいとはいえない。
如法経とは、仏の教えに従って写経することである。
この時の仏の教えは成文化されておらず、人により解釈が異なるので、要するに謹んで写経する意となろう。
写経の行為は経典が存在するかぎりありえることで、
文献上は、中国では隋の時代(『大唐内典録』)から、日本では奈良時代(『正倉院写経文書』)から確認できる。
尚、経典は法華経に限られたものではなく、華厳経、最勝王経、大般若経などもある。
ここでは後述の『慈覚大師伝』に従って、円仁が四十歳のころに法華経を写経したとのみ述べておこう。
円仁が四十歳のころがいつかは諸説があるが、一応、天長十年(833)としておく。
詳細については、兜木正亨氏の「如法経と経塚」(文献2①)を参照願いたい。

ステップⅡ 『慈覚大師伝』10世紀
『慈覚大師伝』の成立については諸説あるが、
円仁の死後、寛平入道親王(真寂)が遺弟たちの記を集めて執筆することになったが、
果たさずしてその子源英明(ふさあきら)(?~939)に託し一応の完成をみたとされる。

比年及四十。身羸眼暗。知命不久。
於是。尋此山北洞幽閑之處。結艸為菴。絶跡待終。
今之首楞厳院是也。俗曰横河矣。
蟄居三年。錬行彌新。
夜夢。従天得薬。其形似瓜。喫之半片。其味如蜜。
傍有人語曰。此是三十三天不死妙薬也。喫畢夢覚。
口有余気。大師心怪。自特焉。
其後疲身更健。暗眼還明。
於是。以石墨艸筆。手自書寫法華経一部。修行四種三昧。
即以彼経。納於小塔。安置堂中。
後号此堂。曰如法堂。(文献3①)

年四十に及ぶ比、身は疲れ眼は暗く、命久し和らざるを知る。
是に於て此の山の北の洞、幽閑の処を尋ね、草を結んで庵となし、跡を絶ちて終を待つ。
今の首楞厳院是なり。俗に横川という。
蟄居三年、練行いよいよ新たなり。
夜夢に天より薬を得たり。其の形瓜に似る。之を喫すること半片、其の味蜜の如し。
傍に人ありて語りて日く、此は是三十三天不死の妙薬なりと。喫し畢りて夢覚む。
口に余気あり。大師心に怪しみ自ら持す。
其の後身の疲れ更に健やかなり。暗き眼は還って明なり。
是に於て、石墨草筆を以て、手づから法華経-部を書写し、四種三味を修行し、
即ち彼の経を以て小塔に納め、堂中に安置す。
後に此の堂を号して、如法堂と云う。

ここでの注目点は、番神の記述がまったくないことである。
また、文中の「如法堂」は奈良時代に東大寺や摂津の勝尾寺にあり、
叡山固有のものではないことに留意すべきである。(文献2②)


図1 現在の如法堂(比叡山 横川)(google画像検索「如法堂 画像」

ステップⅢ 覚超の如法経埋納計画と番神による如法堂の守護 11世紀前半
如法経については、濱田謙次氏の論文がわかりやすい。(文献4①)
円仁が書写した法華経は小塔に収められ如法堂内に二百年の間安置されてきたが、
長元四年 (1031)に至って、源信の弟子覚超が一山の僧侶と協議の上、
将来起こるかも知れぬ不祥事を考えより安全な保存方法として銅筒を作り、
その中に経を納めて如法堂の西北に埋めようとした。
しかし、『叡岳要記』(文献5①)によれば、
覚超の銅筒が実際に埋められたのは承安年中(1171~1175)の頃とされている。
これは、末法の後の弥勒菩薩の出世に備えるものであった。

大正十二年(1923)夏、横川如法堂再建工事の時、銅筒が発掘された。(図2)
発掘された銅筒は青銅の鋳物で全面青緑色、花崗岩の台石に嵌め込まれていた。
筒は胴と頭部の二個より成り、高さは167㎝、底部の胴径は75㎝であった。(文献6)
それは『門葉記』の「如法堂銅筒記」の挿絵(図3)にかなり似ているといえる。

   
 図2 横川銅筒の写真(文献7)  図3 『門葉記』の挿絵(文献8①)

また、覚超は『如法堂霊異記』(五通記)を著し、
浄蔵法師にまつわる番神の如法堂守護について述べている。(文献8②)
浄蔵(891~964) は比叡山の僧で、祈祷に験があり平将門の調伏を行ったことで知られる。

如法堂霊異記云
浄蔵法師・・・昔日慈覚大師。為救六道群類。数年練行。手自書寫之。恭敬抽出慇勤。
奉納此伽藍。依之比叡山王赤山明神。番々守護晝夜無懈
・・・
大師以此経付属国内有威徳神明令守護之。今日賀茂之守護也。・・・
       長元四年歳次辛未十二月二十三日 前権少僧都覚超記

覚超の番神は、はじめは比叡山王と赤山明神の二番神であった。
山王は比叡山の東麓(東坂本)を護り、赤山明神は比叡山の西麓(西坂本)を護るといわれている。
後に
「大師以此経付属国内有威徳神明令守護之。今日賀茂之守護也。」とあることから、
漠然と三十番神らしきものをイメージしていたことが窺える

似た文言は壱道・良正記にもあり、おそらく『如法堂霊異記』が壱道・良正記のルーツになったと思われる。

江戸時代に成立した『天台霞標(てんだいかひょう)』(文献9)は、
『如法堂霊異記』を少し脚色した『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』巻第十「雲居寺浄蔵」の記述と
『捨芥抄(しゅうがいしょう)』の三十番神を結びつけている。
尚、『捨芥抄』の三十番神名は良正の三十番神と同じである。(文献10)
『天台霞標』は、『如法堂霊異記』から生まれた壱道・良正記と軌を一にするものである。

しかしながら、番神の考え方自体は特別なものではない。
それはむしろ、日常生活における当番制のようなものから自然と生まれることも考えられる。
これはおそらく『台記』の三十番神に相当するケースであろう。

『慈覚大師伝』と『如法堂霊異記』を合わせて作られたと思われる説話が、
平安時代末期成立の『今昔物語集』巻十一の第二十七話に載せられている。

「慈覚大師、始建楞厳院語」
大師、此ノ山ニ大ナル椙有り。其木ノ空ニ住シテ、如法ニ精進シテ、法花経ヲ書給フ。
既ニ書畢テ後、堂ヲ起テ、此ノ経ヲ安置シ給。如法経、是ニ始ル。
其時ニ、此ノ朝ノ諸ノ止事无キ(モロモロノヤムゴトナキ)神、皆、誓ヲ発テ、
「番ヲ結テ、此ノ経ヲ守り奉ラム」ト誓ヘリ。

 長暦三年(1039)八月十八日、 既定の二十一社に日吉社を加えた二十二社が暫定的に定められた。
                                         (『二十二社註式』)(文献11,12)
これには、朝廷に対する延暦寺の強い働きかけがあったとされる。(文献12)

ステップⅣ 二十二社の成立 11世紀後半
日吉社の発展は、11世紀の後半に頂点に達する。
 延久三年(1071)十一月二十九日、後三条天皇が初めて日吉社に行幸。(『百錬抄』)
 延久四年(1072)四月二十三日、日吉社が公祭となる。(『師光年中行事』)(文献13,14)
 永保元年(1081)十一月十八日、日吉を加えた二十二社が永例となる。(『百錬抄』)

ステップⅤ 三十番神の始まり 12世紀前半
左大臣藤原頼長の日記『台記』久安三年(1147)六月二十二日には次の記述がある。
・・・次移御
法界房、禮慈覚影覧諸番神板、予私見之、今日稲荷神、仍密読心経擧之・・・(文献15)
叡山の法界房で諸神の番板を見たところ、二十二日が稲荷神の番日であったので、般若心経を黙読したとある。
二十二日稲荷は、良正の神名帳と一致する。
文中「諸番神板」とあるのが板に書かれた三十番神の神名帳であると想像される。
番神板が如法堂ではなく住坊に置かれていることから、
三十番神が如法堂を守護するものでないことは前編で述べたとおりである。
注目されるのは先に挙げた『如法堂霊異記』の中に、「往年於法界坊修法事有」の文言が見られることである。
法界坊は、『山門堂舎由緒記』(文献16①)の横川に「法界坊 慈覚大師本坊也 旧跡 慈覚大師真影。相応和尚筆」と
あることから『台記』の法界房のことである。
比叡山諸堂の歴史については、武覚超氏の実に詳細な研究がある。(文献17)
慈覚大師の肖像画と三十番神の番神板がある法界坊で法華経の書写(如法経)が行われていたと想定するならば、
このことが、三十番神が如法経の守護神へとかわる一つの契機を与えたようにも思われる。
というのは、法界坊は『門葉記』の如法経とかかわりの深い青蓮院の管領であったからである。(文献17①)

ここで『台記』久安三年(1147)の妥当性を検証しておこう。
三十番神の内で、最も新しい思われる神名は八王子と江文である。
八王子については、『後二条師通記』寛治三年(1089)二月十二日条に社殿の初見が見られる。(文献18)
続いて、『台記』を著した頼長の父にあたる摂政藤原忠実の日記『殿暦(でんりゃく)』天仁元年(1108)八月十二日に
日吉五所への奉幣記事が登場する。(文献19)
この五所とは、大比叡・小比叡・聖真子・客人・八王子の日吉五社を指すものであろう。(文献20)
私は、日吉五社が摂政の奉幣という画期を迎えたこの頃に三十番神が生まれたのではないかと想像している
つまり、五社が日吉の代表であった頃である

江文は江文寺の地主神と考えられるので、江文寺の創建が問題となる。
江文寺の創建の由来は明らかでないが、『後拾遺往生伝』(文献21)に大治五年(1130)没の藤原為隆により
四天王が安置されたとあり、これ以前の建立であることがうかがえる。(文献22)
これらから、八王子と江文寺は『台記』久安三年(1147)以前には、社殿や伽藍が整っていたことがわかる。

ステップⅥ 叡山式如法経の本格的な始まり 12世紀後半
一口に如法経と言っても、その形態は様々である。
単なる写経を如法経と称する場合も多い。
問題となるのは『門葉記』に掲載されているような儀礼を伴った如法経である。
ここでは、これを叡山式如法経として、他と区別しておこう。
ここで叡山式如法経の式次第を簡単に説明しておく。
如法経については、兜木正亨(かぶとぎしょうこう)氏の『新版 仏教考古学講座』(文献2)があるが、
さらに詳しくは同氏の驚くべき労作『法華写経の研究』(文献23)があるのでそれを参照されたい。

・1日目から7日目(1週間)  前方便(正懺悔にはいるための予備的な修養)
  7日目に道場荘厳(
神名帳貼付け
・8日目から28日目(3週間) 正懺悔
  14日目に写経の料紙迎
  21日目に硯の水迎
・29日目~?日目(日数は1日から数日、写経の分量により変化) 筆立(写経)
・その後 筒奉納・十種供養・奉納(埋納)が行われる

写経に重きが置かれるように思われるが、写経は日数も様々でなにかと自由である。
それよりも、7日間の前方便と21日間の正懺悔が厳格に規定されていることが注目される。

『叡岳要記』によれば覚超の銅筒が楞権院長吏円良によって実際に埋められたのは
承安年中(1171~1175)の頃とある。(文献5①)
私はこれを叡山式如法経の実質的な始まりとみたい。
というのは、その後『玉葉』養和二年(1182)三月十五日から四月十六日にかけて
上記の式次第に従った如法経が登場するからである。
銅筒に納められた経文は最勝金剛院の山に埋められたとある。
『玉葉(ぎょくよう)』は、1164~1203に渡って書かれた九条兼実(かねざね)の日記である。
上記の如法経の記述は『玉葉』における初見である。
つまり、叡山式如法経は『台記』の三十番神より遅れて始まったと・・・

ステップⅦ 『叡岳要記』13世紀前半
『叡岳要記』において、壱道・良正記の縁起がはじめて公表される。
これについては、次項にて『門葉記』と共に取り扱う。

ステップⅧ 神名帳の登場 13世紀後半
三十番神の神名帳が明確に登場するのは、弘長元年(1261)の教源記である。
その後、神名帳は如法経の儀礼作法書にも取り込まれた。

<文永十一年(1274)『如法経現修作法』圓珠による神名帳> 
まとまった記述のある如法経の儀礼作法書のなかで、
最も古いものとして嘉禎二年(1236)宗快の『如法経現修作法』がある。(文献24)
その『如法経現修作法』の末尾に、良正記の三十番神が神名帳として掲載されており、次の注記が見られる。
一 六帖式宗快作也。圓珠註一帖作七帖成之。
其後淵擧口筆委記之。総当流大原如法経式十四帖有之。

つまり、最初宗快が六帖で『如法経現修作法』を作成したが、後に圓珠が註を加筆して七帖としたとある。
さらに、淵擧がさらに加筆して大原如法経式十四帖になったとある。
問題の神名帳は、『如法経現修作法』の末尾の「已上六帖畢(以上六帖終る)」の後に記載されていることから、
神名帳は圓珠によって追加されたものと思われる。
その時期は、末尾に次のようにある。
 嘉禎二年丙申二月二十六日 宗快記之
 文永十一年甲戌九月十八日。於八幡寫之畢 圓珠

次に、『門葉記』からその具体的事例を紹介しよう。
『門葉記』如法経四から十には、
文治四年(1188)から応永八年(1401)に至る三十四通に及ぶ歴代青蓮院門主の如法経会の記録がある。(付録1参照)
最初の記録は文治四年(1188)八月十四日から始まる後白河法皇の如法経会で、
『玉葉』にも八月十四日から九月十六日にかけて詳細な記述がある。
そして、十六通目の弘長元年(1261)五月八日の教源記に、
良正記の十日伊勢はじまりの番神名を紙に連ねた神名帳が登場する。

<弘長元年(1261)五月八日の教源記 如法経の道場に張られた神名帳>(文献8③)
教源記は、如法経において初めて神名帳が用いられた例と推測される。
それは、如法経の道場に隣接した部屋(門前)の長押(なげし)に取り付けられる。(図4参照)
長押(なげし)は、和風建築で、鴨居(かもい)の上などに取り付けた柱と柱の間をつなぐ横材のことである。
昔は、建物の補強材であった。
教源記には「長押以竹釘打付之」、つまり竹の釘にて長押に之(神名帳)を打ちつけるとある。


       図4 『門葉記』如法経の道場図(文献8③)

これを初めとして、その後、神名帳なるものがしばしば『門葉記』の如法経の記録に登場する。
<『門葉記』の正應三年(1290)六月十五日 番神所作>(文献8④)
「此門前ノ上ノナケシ(長押)ニ三十番神ヲ杉原ニ書テヲス。麗水ノ後此三十番神相当其日神ヲ念シテ。
心経一巻ヲ讀テ令法樂。即入道場行道三匝 無言也」
つまり、当日の三十番神に般若心経を読み、無言で道場を三回まわるのである。

番神作法は、『門葉記』如法経十の最後の記録にもある。
<『門葉記』 応永八年(1401)五月二十一日 番神所作>(文献8⑤)
「道場北西六箇間為門前敷満靜筵。懸神名帳。前立机居閼伽。火舎等備之。灑水器置之。加散杖。
机下置香象。番神机傍机二三脚立之。手爐盛香並置之。花筥盛葩同置之。」
 神名帳を懸け、その前に机を置き、閼伽(あか)、香炉、灑水器、散杖を備える。
 机の下に香象。番神机の傍らに机二三脚を設置し、香を盛った手炉、花篭等を並べて置く

「先公方番神机際御進御。塗香神名御所作。此時上乗院取御花筥御香爐被進之。
次次第御入堂。次一品親王。次・・・淳慶阿闍梨等。各番神所作畢。」
 参列者一人ひとりが番神名に香を塗る所作をおこない、花篭と香炉を捧げる

これらから、如法経における三十番神の所作は、弘長元年(1261)以来、
室町時代に至るまで続けられていたことがわかる。

ステップⅨ 『門葉記』14世紀
『門葉記』において、良正の三十番神、壱道の十二番神の神名帳がはじめて公表される。
これについては、次項にて『叡岳要記』と共に取り扱う。


2 『叡岳要記』と『門葉記』の比較検討

(1)『叡岳要記』鎌倉時代前期
 延暦寺の寺誌である『叡岳要記』の成立は定かではなく
平安時代末期から鎌倉時代後期にわたる諸説(文献25)があるが、
私の見解では、『叡岳要記』に神名帳の掲載がないことから、
弘長元年(1261)の教源記の以前の成立ではないかと思われる。(付録1参照)
つまり、『叡岳要記』は、良正の神名帳(十日伊勢はじまり)が登場する前、
鎌倉時代前期には成立していたのではないかと・・・
図5は『新校 群書類従19』に掲載された『叡岳要記』からの抜粋に
説明のための番号①~④を追記したものである。(文献5②)
以下にその構成を示す。
 ①如法堂の縁起
 ②慈覚大師如法経事 壱道の慈覚大師如法経縁起(壱道記)
 ③慈覚大師如法経事 良正の慈覚大師如法経縁起(良正記)
 ④山中記


図5 『新校 群書類従』掲載『叡岳要記』「如法堂」「慈覚大師如法経事」(文献5②)

<壱道・良正記の作成>
壱道・良正記は、13世紀前半の如法経の盛行(付録1参照)を背景に作成されたものと思われる。
この時期には、宗快による『如法経現修作法』(表1Ⅶ参照)も成立している。
壱道・良正記は、『慈覚大師伝』と『如法堂霊異記』(五通記)を基礎に、
『台記』(法界房)の三十番神を参照して作成された「慈覚大師如法経縁起」である。
 ところで、良正記を読めば、これだけで縁起としては十分のように思える。
では、なぜ壱道記は作成されたのであろうか。
それは、円仁の天長十年(833)頃の法華経書写から、延久五年(1073)の良正記の間が240年のブランクがあり、
余りにも唐突の感を拭えないからであろう。
そのため、繋ぎの資料として貞観六年(864)の壱道記が作成されたと思われる。
年代順から言えば、壱道記は『門葉記』如法経一の最初、五通記の前に置かれるべきであろう。
それが、壱道記・良正記のセットとして載せられているということは、
壱道記・良正記が13世紀前半の同時期に作成された可能性が高いと言える。
内容的に見ても両者は連続している。
壱道記において、慈覚大師は三十番神の結番を自分の死後に現れる高僧に託した。
この高僧が良正に他ならない。(図6A②参照)
壱道記と良正記は緊密に繋がっており、これが本論文で「壱道・良正記」として一括して取り扱う由縁である。
ここで注目すべきは、神名帳が添付されていない点である。
つまり、『叡岳要記』の成立した時点では、
『門葉記』に見られるような神名帳(十日伊勢はじまり)は存在していなかったと推定される。

<壱道記の典拠>
壱道記の典拠のひとつとして『慈覚大師伝』の二つの記述がある。
円仁が病を克服して法華経の写経に至るまでの経過と
貞観六年正月十四日の円仁入滅時における壱道との出会いを描いたものである。

①比年及四十。身羸眼暗。知命不久。於是。尋此山北洞幽閑之處。結艸為菴。絶跡待終。
今之首楞厳院是也。俗曰横河矣。
蟄居三年。錬行彌新。夜夢。従天得薬。其形似瓜。喫之半片。其味如蜜。
傍有人語曰。此是三十三天不死妙薬也。喫畢夢覚。口有余気。大師心怪。自特焉。
其後疲身更健。暗眼還明。於是。以石墨艸筆。手自書寫法華経一部。修行四種三昧。
即以彼経。納於小塔。安置堂中。後号此堂。曰如法堂。(文献3①)
 
貞観六年正月十三日。
・・・今日黄昏。忽有流星。落文殊樓東北角。須曳而散。皆謂。此是大師精神遷化之徴也。
十四日晩景弟子一道来曰。在戒壇前。忽聞音楽。漸尋其聲。起従中堂。至常行堂。音聲所発。在大師房。
驚求坊中。其聲不聞。大師辨諸事。述遣誠巳了。(文献3②)
 この正月十四日の円仁と一道の出合は『日本往生極楽記』(文献26)や
『大日本国法華経験記』(文献27①)にも描かれている。

壱道記(図5②)には十二番神に関する記述はまったくなく、
あるのは三十番神の記述「以国内有勢有徳神明三十箇處為守護神結番定日。大師入滅之後・・・」である。
これは前述の覚超の『如法堂霊異記』(五通記)の文言
「大師以此経付属国内有威徳神明令守護之。今日賀茂之守護也。」を展開したものと推定される。

『叡岳要記』の壱道記には貞観六年(864)正月十四日の日付(円仁入滅の日)があるが、
円仁に大師号が贈られたのは貞観八年(866)七月十四日であるから、
「壱道記」に「慈覚大師」が登場するのはおかしいことがわかる。
従って、これからだけでも壱道記が後世の偽作であることがわかる。
これは、濱田謙次氏の論文「如法経」(文献4②)でも指摘するところである。

<壱道(一道)について>
壱道記は壱道の作でないことは明らかであるが、壱道(一道)については、
田島徳音氏の論文「山王神道と一實神道」(文献28)に次のような記述がある。
 一道は此年代に山門に住せし僧なりき。『九院仏閣抄』(文献29)、『叡岳要記』(文献5③)の定心院供養の条には
「承和十年(843)八月十日 左方梵音壱道(一道)。山 右方梵音常済。山」とあり、常済よりも先輩たり。
『三代実録』仁和二年(886)五月十二日庚寅条に、
「延暦寺僧一道。右京人正六位上藤原朝臣豊基戸口俗名数直。与安道同謀。還俗当徒一年・・・」
これによると、一道は仁和二年に石見国に住し、伊福部直安道等と共謀し、百姓二百十七人を発し、
兵仗を帯して石見国主従五位下上毛野朝臣氏永を囲み、印匙駅鈴を奪取せり、
これによって同年五月十二日、刑部省の断罪に服せり。
一道は延暦寺の僧。右京の人。正六位上藤原朝臣豊基の戸口なり。俗名は数直といふ。
安道と謀計を同じくせり。故に還俗せしめ、徒一年に当つと。

さらに、『叡岳要記』首楞厳院供養の条にも、「嘉祥元年(848)九月三日 左方梵音一道。山」とみえる。(文献5④)

<良正記の典拠>
良正記は壱道記を引き継いで、勧請の様子を具体的に述べている。
大原野・北野・苗鹿の神々が登場するが、これらは『台記』の三十番神を参照したものと思われる。
良正記には、大原野と北野の両神が三十番神への参入を願って良正を訪ねる場面があるが、
これは覚超の「如法堂霊異記」にある浄蔵法師の賀茂神の来訪と重なるものであろう。
また、苗鹿神が慈覚大師に番神への参入を願い出る場面も、下記の歴史的事実とからめて注目される。
苗鹿神のエピソードは、大永四年(1524)の青蓮院尊鎮の奥書を有する『真如堂縁起絵巻』(文献30)の
素材の一つと考えられる。

仁安四年(1169)二月五日に横川中堂が炎上し、再建のために苗鹿社の森より木材を切り出すことになった。
苗鹿の森は、最澄以来の木材の供給地であった。
『山門堂舎記』には、木材を切り出す前の法要の様子が次のようにある。(文献31)
中堂炎上悲嘆無限・・・
(仁安四年二月)十六日。
横川学徒五十人参詣苗鹿社。百座仁王講修之。伐料木行法施有饗膳。
十七日甲辰。同社修八講有饗膳。寺家沙汰也。
顯意擬講。一巻講師。南樂坊・・・
八講畢。即杣工等共
柱二本撰出切之。栢木(かしわぎ)也。・・・

文中の顯意擬講は、『元亨釈書』伝智二「建仁寺栄西」に栄西禅師が顯意より灌頂を受ける記述があるが、
これと同一人物と考えられる。
尚、擬講(ぎこう)とは三会(さんえ)の講師に任じられる僧のことである。
三会は、天台宗においては円宗寺の法華会と最勝会、法勝寺の大乗会を指す。
顯意のいた南楽坊とは、『山門堂舎由緒記』にある横川解脱谷の南楽坊のことであろうか。(文献16②)
南楽坊は今も横川にあるが、信長の元亀二年(1571)比叡山焼き討ち前の状況は不明である。
ただ、寛政十年(1798)の奥書のある『横川堂舎並各坊世譜』には
「南楽坊 古為青蓮院出世室。故住持或補検校。又一流名室也」とある。(文献17②)

私には、これが良正記の「苗鹿大明神成悦喜。手被奉柱二本」や前編で取り上げた
『番神問答記』の「凡近来称番神列其名有三拾社。勘件来歴、
去延久年中叡山横川南楽阿闍梨良正於法界坊、長日仁王講修之刻感得。
化現之霊瑞。連日終夜所註記之神名也」(文献32)の共通の源流となった素材ではないかと思われる。

<良正について>
良正は京都の知恩院の黒門下に良正院があることから、「りょうしょう」と読むべきであろうか。
一般的に良正は、『叡岳要記』の記述から楞厳院の長吏(ちょうり)とされる。
楞厳院(りょうごんいん)は、現在では延暦寺横川中堂の異称とされているが、
元々は『門葉記』に「即以彼経納小塔安置堂中。号首楞厳院。後人此堂曰如法堂矣」とあるように
如法堂を指すものであった。(文献8⑥)
天台宗の長吏は、有力寺院の長老で寺務を統轄する僧侶をさす。
しかし、管見ではあるが良正の名は叡山側の史料に見当たらない。
『新校 群書類従』では、良正は良心か?と校注がある。校訂者も困りはてたのであろう。
確かに良心の名は、『平安遺文』承保二年(1075)五月十二日の文書に登場する。
それによると、良心は平正衡(まさひら)と結託し、
東寺の末寺であった伊勢の多度神宮寺を天台の別院と称してその所領荘園を押妨したとある。(文献33)
また、『新校 群書類従』の校注にある異本では、良正は寂場坊座主とある。
『山門堂社由緒記』によれば、寂場坊(寂靜坊)は横川解脱谷にあった慈恵大師(良源)の御坊跡とある。(文献16③,17③)
さらに前述の『番神問答記』によれば、良正は横川南楽坊の阿闍梨とある。
しかしながら、良正記が鎌倉時代に書かれた偽書であることがわかれば、架空の人物であることがわかる。
壱道記に「大師入滅後。有高僧番定」とあるが、良く知られた実在の高僧と偽書を結びつけるのは、
やはり気が咎めたものと見える。

(2)『門葉記』 南北朝時代
 『門葉記』は、12世紀前半から15世紀前半に至る約300年間の
延暦寺青蓮院(しようれんいん)の記録を集大成したもので、
原型となるものは南北朝期の尊円法親王(1298~1356)の編とされる。
図6は『大正新修 大蔵経』図像第11巻に掲載された『門葉記』からの抜粋に
説明のための番号①~⑤を追記したものである。(文献8⑦)
以下にその構成を示す。
 ①良正による三十番神の神名帳
 ②『門葉記』の注記(5行)
 ③良正の慈覚大師如法経縁起(良正記)
 ④壱道の慈覚大師如法経縁起(壱道記)
 ⑤壱道による十二番神の神名帳

内容的には、③と④の縁起は『叡岳要記』と同じものである。


図6A 『門葉記巻第七十九如法経一』所収「良正阿闍梨記」「沙門壱道記」(その1)


図6B 『門葉記巻第七十九如法経一』所収「沙門壱道記」(その2)

<『叡岳要記』から『門葉記』への改編>
ここで『叡岳要記』(図5)から『門葉記』(図6)の改編内容を整理すると次のようになる。
「良正記」
 ・縁起の日付の追加 延久五年癸丑正月十日(図6③末尾)
 ・三十番神の神名帳の追加(日付は延久五年歳次癸丑正月朔朝壬戌十日辛未)(図6①末尾)
「壱道記」
 ・縁起の日付の変更 貞観六年正月十四日から貞観九年丁亥正月十四日(図6④末尾)
 ・十二番神の神名帳の追加(日付は同上:貞観九年丁亥正月十四日)(図6⑤末尾)

慈覚大師如法経縁起は、二つの段階を得ているものと思われる。
最初は『叡岳要記』で、ここでは縁起のみが作成された。
次は『門葉記』で、『叡岳要記』の縁起の見直しと神名帳の追加が行われた。
神名帳は、13世紀後半に成立した三十番神と十二番神の神名帳をそのまま収録したものであろう。(表1Ⅷ参照)
壱道記の貞観六年から貞観九年の変更は、前述の慈覚大師号の矛盾に気づいたので訂正したのだろう。
良正記の縁起の延久五年癸丑正月十日の日付の追加も唐突である。
『叡岳要記』が参照した文書には日付がなかったのだろうか?
文書にとって極めて重要な日付を見落とすとは考えられないことである。
とにかく、『門葉記』の内容は明らかに『叡岳要記』を照査した人物が改訂・増補したものと想像される。


3 三十番神と十二番神の祭祀構造

(1)三十番神の祭祀構造
 これについては本論文の前編「創生期における三十番神の役割」(文献1)を合わせて参照願いたい。
創生期の三十番神の神名帳は、良正記の三十番神とは異なり一日熱田からはじまり三十日吉備で終わるものであった。
私はこれを叡山三十番神と呼んでいる。
叡山三十番神は、表2に示すような前部・中央部・後部の三部構成となっている。

              表2 叡山三十番神の構成

前部 九社         中央部 十二社    後部 九社 
 1日 熱田    10日 伊勢    22日 稲荷
 2日 諏訪    11日 石清水     23日 住吉
 3日 広田     12日 賀茂     24日 祇園
 4日 気比    13日 松尾     25日 赤山
5日 気多     14日 大原野 ⇒稲荷 (二十二社上七社)     26日 健部
 6日 鹿島    15日 春日    27日 三上
 7日 北野     16日 平野     28日 兵主
 8日 江文     17日 大比叡     29日 苗鹿
 9日 貴船     18日 小比叡     30日 吉備
     19日 聖真子    
     20日 客人 ⇒住吉 (壱道十二番神)  
     21日 八王子  ⇒諏訪(壱道十二番神)  

10日伊勢から21日八王子までが、三十番神の核心となる中央部である。
中央部は大比叡・小比叡・聖真子・客人・八王子の日吉五社と二十二社から選ばれた七社からなる。
前部と後部は、中央部を包こむ果実のように下記の畿内、畿外、軍神に三区分される。
 ・
畿内七社 前部:北野・江文・貴船  後部:稲荷・住吉・祇園・赤山
 ・
畿外七社 前部:気比・気多・鹿島  後部:健部・三上・兵主・苗鹿
 ・
軍神四社 前部:熱田・諏訪・広田  後部:吉備

軍神(いくさがみ)については、後白河上皇(1127~1192)の撰である歌謡集『梁塵秘抄』に以下のようにある。
 関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮、又比良の明神、安房の洲瀧の口や小野(の宮)、
  熱田
に八劔伊勢には多度の宮、
 関より西なる軍神、一品中山、安芸なる嚴島、備中なる吉備津宮、播磨に廣峰惣三所、
  淡路の石屋には住吉西の宮(文献34①)

文中、吉備津宮は吉備社、西の宮は広田社を指す。(文献34②)
当時は、「西宮社参」と言えば広田社を指すものであった。(文献35)
軍神(熱田・諏訪・広田・吉備)の内、広田のみが摂津で他は遠くにあるのは、
入唐求法の住吉との関係を重視したのであろう。

二十二社の並びには伊勢を筆頭とする序列があることは良く知られている。
そこで、表3のように二十二社と叡山における七社の並びを比較してみよう。

    表3 二十二社と叡山三十番神における七社の並びの比較

序列  二十二社   叡山三十番神の七社  
 1位   伊勢  上七社   10日 伊勢 叡山の絶対的四社
 2位   石清水  上七社   11日 石清水 叡山の絶対的四社
 3位   賀茂  上七社   12日 賀茂 叡山の絶対的四社
 4位   松尾  上七社   13日 松尾 叡山の絶対的四社
 5位  平野  上七社   14日 大原野 藤原摂関家
 6位   稲荷  上七社   15日 春日 藤原摂関家
 7位   春日  上七社   16日 平野 桓武天皇
 8位  大原野  中七社    

叡山の七社において伊勢・石清水・賀茂・松尾の並びは、二十二社とまったく同じである。
これらの神社は叡山にとって別格の神社である。よって、これを叡山の絶対的四社と呼びたい。
問題は叡山の5位大原野から7位平野である。
5位の大原野は二十二社の序列8位の中七社からの躍進である。
これは、京春日とも呼ばれる都における藤原摂関家ゆかりの神社を特に重視する叡山側の配慮であろう。
6位春日も同様な意味でそれに続く。
最後に7位平野は桓武天皇ゆかりの神社である。
結果として、二十二社の上七社序列6位の稲荷は選に漏れることになる。
叡山の七社は叡山が二十二社から選択した「叡山の叡山による叡山のための上七社」である。
よって、これを叡山上七社と呼びたい。
叡山は、政治的には桓武天皇におこり藤原摂関家により発展した。
即ち、
叡山三十番神の核心は、朝廷と藤原摂関家の報恩と加護を思想的背景として、
日吉五社と二十二社から選んだ七社を合わせて祀ることにある

表4に叡山三十番神の祭祀構造についてまとめた結果を示す。

           表4 叡山三十番神の祭祀構造

構成  区分   三十番神  備考
  前部          軍神  1日 熱田 尾張  草薙の剣 
 2日 諏訪 信濃 建御名方神
 3日 広田 攝津 天照大神の荒御魂
畿外  4日 気比 越前  
 5日 気多 能登  
 6日 鹿島 常陸 藤原氏のゆかりの社
畿内   7日 北野 山城 延暦寺配下の社
8日 江文 山城 江文寺の地主神
 9日 貴船 山城 賀茂社配下の社
  中央部                         10日 伊勢  叡山上七社 叡山の絶対的四社
 11日 石清水  叡山上七社 叡山の絶対的四社
 12日 賀茂  叡山上七社 叡山の絶対的四社
 13日 松尾  叡山上七社 叡山の絶対的四社
 14日 大原野  叡山上七社 藤原摂関家
 15日 春日  叡山上七社 藤原摂関家
 16日 平野  叡山上七社 桓武天皇
 17日 大比叡  日吉五社 山王三聖 東塔の地主神
 18日 小比叡  日吉五社 山王三聖 西塔の地主神
 19日 聖真子  日吉五社 山王三聖 横川の地主神
 20日 客人  日吉五社  
 21日 八王子  日吉五社  
畿内 22日 稲荷 山城 二十二社の上七社
 23日 住吉 攝津 入唐求法の渡海神
 24日 祇園 山城 延暦寺配下の社
 25日 赤山 山城 円仁ゆかりの寺
 畿外  26日 健部 近江  
27日 三上 近江  
 28日 兵主 近江  
 29日 苗鹿 近江 延暦寺の木材供給地
  軍神 30日 吉備 備中 吉備津彦神

三十番神に登場する神社については、下記のサイトに良くまとめられているので参照願いたい。
 「三十番神 日蓮宗玉蓮山 真成寺」http://gyokurenzan.shinjoji.nichiren-shu.jp/introduction/sanjuban.htm

三十番神の選定理由は叡山とのかかわりがポイントとなるので、ここではそのへんに的を絞って説明する。

<叡山三十番神の選定理由>
1日 熱田は天照大神の草薙の剣を祀る。
2日 諏訪は信濃国一ノ宮、祭神の建御名方命は有名な軍神である。
3日 広田は天照大神の荒御魂を祀る。
    『日本書紀』によれば、荒御魂は神宮皇后の三韓征伐の際に軍船を導いたとある。(文献36)
   神宮皇后伝説に象徴されるように、広田と住吉の関係はきわめて深い。(文献37)

4日 気比は越前国一ノ宮、北陸道総鎮守にして都の日本海側の玄関港である。
   『続日本後紀』承和六年(839)八月二十日条に遣唐使船の無事なる帰港を祈って
   「奉幣帛於攝津國住吉神。越前國氣比神。並祈船舶帰着。」とある。
   『藤氏家伝』にある霊亀元年(715)気比神宮寺にまつわる話は、神宮寺の最も古い記録として知られる。(文献38)
5日 気多は能登国一ノ宮、新羅・渤海との交流の拠点。
   『文徳実録』斉衡二年(855)五月四日条に気多大神宮寺の記述が見える。
6日 鹿島は常陸国一宮、祭神の武甕槌神は有名な軍神である。
   しかし、ここでは並びから推定して藤原氏との関係が強調されているものと思われる。
   鹿島には藤原氏の前身である中臣氏に関する伝承が多く残るが、
   藤原氏の祖先である藤原鎌足もまた常陸との関係が深く、
   『常陸国風土記』久慈郡条(文献39)によると常陸国内には鎌足(藤原内大臣)の封戸が設けられていた。
   また『大鏡』(文献40)を初見として、鎌足の常陸国出生説もある。このため、鹿島は藤原氏から篤く信仰された。

7日 北野は創立当初から延暦寺の配下であった。
   延暦寺の僧是算は、菅原氏の故をもって北野社創立の初期に北野別当職に補され、以後代々の兼務となった。
   曼珠院の初代門主忠尋は、是算の後継者である。(文献41)
8日 江文は延暦寺と日吉社のごとく江文寺の地主神社と見なされる。
   江文寺はすでに無いが、かつては江文山の中腹にあった。
   『法華験記』には、叡山の僧釈蓮房の江文山での修行の様子が描かれている。(文献27②)
9日 貴船は祈雨では大和の丹生社と並んで馬が奉納される突出した神社。
   賀茂川の上流にある貴船社は江戸時代まで上賀茂神社の摂社であった。
   北畠親房は『二十一社記』の中で、同書の書名を『二十一社記』にした理由を
   貴船が賀茂の摂社であるからと述べている。(文献42)

10日 伊勢は皇祖神天照大神を祀る至高の神社。
11日 石清水は日本の総鎮守。『神祇正宗』では伊勢とならんで日本を代表する別格の神社とされる。(文献43)
    八幡神は、住吉とならぶ入唐求法の渡海神でもあった。
12日 賀茂は日吉と一体と見なされる。
    『瀬見小河』によれば「日吉の社司は賀茂氏より出たる祝部氏の代々仕奉り、
    又祭日も賀茂と同じく、其の祭式も同じさまなる・・・」とある。(文献44)
    日吉山王祭は、東本宮の大山咋神と賀茂玉依姫との結婚を再現する儀式とされる。
13日 松尾は日枝山(八王子山)と同神の大山咋神を祀る。
    鏑矢伝承から、賀茂の丹塗矢伝承ともつながる。
14日 大原野は京春日と呼ばれる藤原氏の神社で、平安遷都の時に春日社より勧請された。
15日 春日は藤原氏が鹿島より平城京に勧請した氏神。
    鹿島の神は、鹿の背に乗って奈良の御蓋山に降臨したとされる。
16日 平野の創建は延暦十三年(794)である。 
    祭神の今木神(いまきのかみ)は、大和の今木群に住んでいた百済系の渡来人達が祀っていた神である。
    これは桓武天皇の生母である高野新笠(たかのにいがさ)の父が百済系渡来人であることによる。
    最澄と桓武天皇は密接な関係があり、
    六所宝塔の一つである比叡山東塔は桓武天皇の御霊所でもある。(文献5⑤)

17日 大比叡は、山王三聖にして東塔の地主神。
18日 小比叡は、山王三聖にして西塔の地主神。
19日 聖真子は、山王三聖にして横川の地主神。
20日 客人は、聖真子の後に創建された白山信仰の社。
21日 八王子は、客人の後に創建された大山咋神を祀る社。
    八王子山の山頂には巨大な磐座があり、八王子社はそのすぐ下に建てられている。

22日 稲荷は松尾を創建した秦氏と同族の公伊呂具(きみいろぐ)の創建で、二十二社の上七社である。
    社地の三が峰は、多数の磐座が鎮座する神体山である。
23日 住吉は、最澄、円仁が入唐求法に際し祈願した神社。
24日 祇園は、元、感神院祇園社と呼ばれ十世紀半ばまでは興福寺末寺であった。
    それを天台座主良源が、時の権力者で右大臣の藤原師輔の信任を背に延暦寺の末寺・末社に編入したとも、
    興福寺との激しい武力衝突を経て強奪したとも言われている。
    祇園が延暦寺の末寺になったのは『日本紀略』によれば天延二年(974)五月七日条である。
25日 赤山(せきざん)は円仁が唐にて加護をうけた異国の神である。
    赤山禅院は仁和四年(888)に円仁の弟子の安慧(あんね)が創建、方除けの寺として知られる。

26日 健部は近江国一ノ宮。景行天皇の勅により神崎郡建部郷に日本武尊の霊を祀ったのが始まりとされる。
    その後天武天皇白鳳四年(675)に近江国府の所在地であった現在の瀬田の地に遷座した。
27日 三上は「近江富士」の別名もある三上山(標高432m)の山麓に鎮座。
    三上山は八王子山から良く見える神体山で、山頂には磐座と社があり八王子山に似る。
28日 兵主は大津京の時代に叡山の里坊である坂本の地に鎮座した渡来系の神。
    兵主大神は桜井市の穴師坐兵主神社に祀られていたが、
    近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、穴太(大津市坂本穴太町)に社地を定め遷座したとある。
    その後、再び遷座して現在の野洲市に鎮座したと伝えられる。
29日 苗鹿(のうか)は、現在の那波加(なばか)神社で、天智天皇七年(668)に社殿が造営されたと伝えられる。
    苗鹿の森は、延暦寺の木材の供給地であった。
    『山門堂舎記』には仁安四年(1169)二月五日に横川中堂が炎上した際には、
    苗鹿の山から内陣柱を奉納したとある。(文献31)

30日 吉備社は現在の吉備津神社で、延喜式神名帳の備中国賀夜郡に吉備津彦神社とある。
    祭神の吉備津彦命は四道将軍の一人として吉備国を平定した山陽道の軍神である。

ところで、良正の神名帳の書き出しは、一日熱田からではなく十日伊勢から始まっている。
なぜ十日から始まるのか誰しも疑問に感じるであろう。
これは、良正の神名帳(図6①)末尾にある次の文言から判明する。
「延久五年歳次癸丑正月朔朝壬戌十日辛未 阿闍梨大法師良正謹記」
つまり、阿闍梨良正は延久五年の正月の一日朝から十日にかけて、三十番神を勧請したとある。
そして三十番神の勧請が達成されると同時に、三十番神による如法経の守護が始まったということである。
即ち、延久五年正月十日が如法経守護の開始日となり、その最初が伊勢である。
もちろんこれは伊勢を最初にもってくるための操作であろう。
ここで上記文言の誤りを指摘しておく。
延久五年正月一日の干支は壬戌(みずのえいぬ)ではなく乙巳(きのとのみ)、
正月十日は辛未(かのとのひつじ)ではなく甲寅(きのえとら)である。
延久五年に良正記が書かれたとしたら、犯しようのない誤りであろう。

法界房の番神板は、平凡に一日熱田から始まり三十日吉備で終わっていたと見られる。
しかし、三十番神が如法経に転用された鎌倉時代中期に、十日伊勢から始まるようにしたと思われる。
このことは、三十番神の均整のとれた祭祀構造を破壊し、三十番神を混沌の世界に導いた。
良正の神名帳には、宗教的な美学が欠落している。
日蓮聖人流とも呼ばれる吉田神道の『神祇正宗』の内裏三十番神(文献43)は、これをさらに徹底し、
一日伊勢で始まり三十日貴船で終わるように改めたものである。
つまり、
良正の神名帳の十日伊勢始まりは、
一日熱田始まりから一日伊勢始まりに移行する過渡期のものととらえることができる


(2)十二番神の祭祀構造
 表4の叡山三十番神の祭祀構造に従って説明すると、
中央部において客人と八王子は明らかに壱道記の年代からずれているので除くと十神になるが、
これを十二支に配当するために畿内から住吉と軍神から諏訪を追加したことになる。
もし逆に、十二支を踏襲するならば、中央部のならびは十二番神そのものとなるであろう。
つまり、
壱道の十二番神は『台記』の三十番神から作成されたものである
今後、十二番神を三十番神の前段階とする認識は改める必要があろう。

 十二番神の一番伊勢から七番平野までは、前述のとおりである。
八番大比叡、九番小比叡、十番聖真子は、東塔、西塔、横川の地主神であり、叡山の本体である。
十一番住吉は、最澄・円仁・円珍の入唐求法の渡海神である。
十二番諏訪は、叡山の所在する東山道最強の軍神である。
十二番神の作者は、叡山を護るために東山道の守護神が不可欠と考えたのであろう。
最澄の撰とされる『長講法華経後分略願文巻下(法華長講会式)』(文献45)には、
東山道の神々として大比叡、小比叡、三上、苗鹿、諏訪・・・が挙げられている。
このなかで、伊勢・石清水・賀茂・松尾・大原野・春日・平野・住吉と肩を並べる格式を有するものは諏訪以外にない。
十二番神を眺めると、諏訪だけが叡山からあまりに遠くにあるので違和感を覚えるであろう。
それは、以上のような事情によるものと想像される。
 これについては、十二番神の神名帳(図6B参照)の末尾にも次のようにある。
  「亥日 熱田鹿島気比三尾等大明神合番守護之矣」
十二番亥日の諏訪は、十二番神の神名帳を収録するものにとっても戸惑いがあったのだろう。
尚、三尾大明神の候補としては、高島郡の水尾神社と園城寺(三井寺)に隣接する三尾神社が考えられるが、
古代・中世の史料にみえる三尾がどちらを指すのか明確ではない。(文献46)
しかし、園城寺の地主神である三尾神社は、三十番神が山門派の所産であることから考えにくい。
そのため、この場合は、三尾は高島郡の延喜式内社である水尾神社を指すものと考えられる。
これは、諏訪・熱田・鹿島・気比が叡山から遠く離れていることとも共通している。

 管見ではあるが十二番神の初見として、九条家旧蔵の諸寺縁起集のなかに弘安四年(1281)に書かれた
「叡山巡礼記草」と称する短い見聞録があり、以下のような興味深い一文がある。
「弘安四年七月二十九日・・・如法堂ニ指連シテ
法界院有之、
彼堂ニ
如法経三十神被押之、慈覚大師杉洞ニテ被行時ハ、被奉請十二神云々」(文献47)
 文中、法界院とあるのは法界房のことであろう。如法堂のすぐ近くに法界房があったことがわかる。

 ところで、壱道・良正記の慈覚大師如法経縁起と十二番神の神名帳とは対応していないことがわかる。
良正記において、良正の夢の中で大原野・北野両神が三十番神への参入を願う場面があるが、
大原野は十二番神の神名帳の中にすでにある。
また、苗鹿神が慈覚大師に如法経の番神を願い出て了承される場面があるが、
苗鹿は十二番神の神名帳には見当たらない。
元々、壱道・良正記は十二番神とはかかわりのないものであるから、当然といえば当然のことであろう。
これを『門葉記』において、壱道による十二番神としたためにかかる問題が生じたと思われる。
十二番神は、前編でとりあげた『番神縁起論』第六、第七の番神(文献48)と同じく後世の作りものと考えられる。


参照論文
 日吉大社 山王三聖の形成<最澄・円澄・円珍・良源の山王観の変遷>
 創生期における三十番神の役割<叡山三十番神 壱道・良正記の検討 前篇>
 叡山三十番神 Q&A

参考文献
1「創生期における三十番神の役割<叡山三十番神 壱道・良正記の検討 前編>」
 江頭務(『イワクラ学会会報』29号 2013)
2『新版 仏教考古学講座』第6巻 p194~211 兜木正亨(かぶとぎしょうこう)
 ①p196~197 ②p207~208  雄山閣出版 1977
3『慈覚大師伝』(『続群書類従』第8輯下 ①p685 ②p695 1983)
4「如法経」濱田謙次(『歴史考古学』第55号 ①p54~57 ②p59 歴史考古学研究会 2004)
5『叡岳要記』(『新校 群書類従』第19輯 ①p218 ②p215~216 ③p194 ④p221 ⑤p195 1977)
6『考古学雑誌』第14巻第5号p245~261「横川経塚」廣瀬都巽 1924
7『比叡山と天台仏教の研究』口絵写真 景山春樹 名著出版 1779
8『門葉記』(『大正新修 大蔵経』図像第11巻)
 ①p627 ②p628~629 ③p664 ④p671 ⑤p709~710  ⑥p626 ⑦p630~631
9『天台霞標』四編巻之二(『大日本仏教全書』125冊 p417~418 1981)
10『拾芥抄』下巻「諸社部第一」 
  国立国会図書館デジタルコレクション 下巻 コマ番7/64 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2543901
11『二十二社註式』(『群書類従』第2輯 p209 1959)
12「摂関家時代における神社行政 二十二社の成立を主題として」二宮正彦
  (『摂関時代史の研究』p602 吉川弘文館 1965)
12『百練抄』(『国史大系』第11巻 ①p33 ②p37 吉川弘文館1965)
13『師光年中行事』(『続群書類従』第10輯上 p349~350 1974)
14『平安時代の国家と祭祀』p348~350 岡田荘司 続群書類従完成会 1994
15『台記』(『増補史料大成 台記一』p217 臨川書店 1965)
16『山門堂舎由緒記』(『天台全書』第24巻 ①p276 ②p284 ③p283 1975)
17『比叡山諸堂史の研究』①p14 p62 ②p68 p285 ③p68 p272 武覚超 法蔵館 2008
  『山門記』覚恩 正中年中(1324~1326)(『天台全書』第24巻 ①p209 1975)
  『横川堂舎並各坊世譜』寛政十年(1798) (『天台全書』第24巻 ①p182 1975)
18『後二條師通記』(『大日本古記録』後二條師通記 上 p257 岩波書店 1956)
19『殿暦』(『大日本古記録』殿暦二 p303 岩波書店 1963)
20「再び山王七社の成立について」佐藤眞人(『大倉山論集』第23輯p165~168 1988)
21『後拾遺往生伝』(『続群書類従』第8輯上 p317 1957) 
22『京都市の地名』日本歴史地名大系27 p91~92 平凡社 1979
23『法華写経の研究』兜木正亨 大東出版社 1983
24『如法経現修作法』(『大正新修 大蔵経』第84巻p890~898)
25『国書総目録』第1巻 p415平安時代末期 岩波書店 1963
  『日本仏教史辞典』p55 鎌倉時代中期 吉川弘文館 1999
  『日本仏教典籍大事典』p68鎌倉時代後期 雄山閣 1986
26『日本往生極楽記』(『日本思想体系7』p20 岩波書店 1974)
27『大日本国法華経験記』(『日本思想体系7』①p58  ②p79 岩波書店 1974)
28「山王神道と一實神道」田島徳音 (『大正大学々報』25号 p56~57 大正大学出版部 1937)
29『九院仏閣抄』(『群書類従』第24輯 p576 1960)
30『清水寺縁起 真如堂縁起』p64~65 p177~178 小松茂美 榊原悟 松原茂 中央公論社 1994
31『山門堂舎記』(『群書類従』第24輯 p482 p484 1960)
32『番神問答記』(『日蓮教学全書』第10巻 p273 法華ジャーナル 1977)
33『平安遺文』古文書編 第3巻 p1127 竹内理三編 東京堂 1963
34『梁塵秘抄』(『日本古典文学大系73』①p388 ②p513 志田延義校注 岩波書店 1965)
35『広田神社史を中心として 西宮郷土誌』p147 奥村孝雄 1981
36『日本書紀』(『新編日本古典文学全集2』p427 小学館 1994)
37『西宮市史』第1巻 p386~388 1959
38『藤氏家伝』p350~354 沖森卓也 佐藤信 矢嶋泉 吉川弘文館 1999
39『常陸国風土記』(『日本古典文学大系2』p81岩波書店 1978)
40『大鏡』(『新編日本古典文学全集34』p331 p341~342 小学館 1998)
41『古寺巡礼 京都22 曼殊院』p85 p96~97 p148  淡交社 1978
42『二十一社記』(『神道大系』北畠親房(上) p329 1991)
43『神祇正宗』(『続群書類従』第3輯上 p61~66 1974)
44『瀬見小河』伴信友 安永2年(1773)~弘化3年(1846)  (神道体系 神社編 賀茂 p155 1984 所収)
45『長講法華経後分略願文巻下(法華長講会式)』(『伝教大師全集』巻四 p252~257 1926)
  「近代デジタルライブラリー 」コマ番145~147 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020663
46『滋賀県の地名 日本歴史地名大系25』p1116 平凡社 1991
47「叡山巡礼記草」(『伏見宮家九条家旧蔵諸寺縁起集』 p37 p182 宮内庁書陵部編 明治書院 1970)
48『番神縁起論』日宣(1760~1822) 「国文学研究資料館公開サイト」コマ番9/198~10/198
  http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-20802



付録1『門葉記』(『大正新修 大蔵経』図像第11巻)如法経記録一覧
 『門葉記』如法経四から十(p646~715)には、文治四年(1188)から応永八年(1401)に至る
三十四通に及ぶ歴代青蓮院門主の如法経会の記録がある。
下表は、『大正新修 大蔵経』図像第11巻に収録された
『門葉記』の如法経記録を神名帳に焦点をあてて整理したものである。
『大正新修 大蔵経』図像第11巻の1ページ分は上中下の三段構成で、一段は縦16文字、横29行のスペースである。
  凡例
  No:記録の掲載順(一部、年代が逆転するものもある)
  年月日:記録に記載された年月日(一部、不明のものもある)
  ページ:記録の始まる部分の掲載ページ
  文の長さ:記録の短いものは神名帳があっても省略される可能性が高いため、文の長さをチェックした。
        ここでは、1ページ分のスペースを超えるものを長文として扱った。
 (表1注)
  ・No.1は、『玉葉』養和二年(1182)三月十五日から四月十六日にかけて詳細な記述がある。
  ・No.15とNo.16は、同一の如法経会を二人の僧:隆瑜(りゅうゆ)と教源が記録したものである。
   前方便は四月三十日から五月七日。

         表1 『門葉記』(『大正新修 大蔵経』図像第11巻)如法経記録一覧

No  表題の年月日  西暦年 掲載
ページ
文の
長さ
神名帳に関する記事 
 1 文治四年8月14日 1188 p646   後白河法皇の如法経 『玉葉』8月14日~9月16
 2 建久六年8月23日 1195    
 3 建久八年7月16日  1197    
 4 元久元年5月7日 1204 p647    
 5 承元二年7月23日 1208    
 6  建保二年5月8日  1214 長文  
 7 貞応元年7月晦日 1222 p649 長文  
 8 寛元二年7月29日 1244 p651    覚源記
 9 寛元三年7月30日 1245    
 10 寛元四年4月― 1246  p652      
 11 寛元三年4月15日 1245    
 12 建長元年4月15日  1249   p653      
 13 建長三年4月8日  1251    
 14 建長六年7月27日 1254    
 15 弘長元年4月30日 1261  p654   隆瑜記 神名帳p662中段  初見
 16 弘長元年5月8日  1261  p663   教源記 詳細な神名帳p664 初見
 17 文永二年5月14日  1265 p670    
 18 文永四年4月28日 1267    
 19 弘安四年7月6日 1281    
 20 正応三年6月15日  1290  長文 神名帳p671中段
 21 文永四年4月22日 1267 p672   覚源記 
 22 健治二年6月23日 1276 p673    
 23 文永八年8月29日  1271  長文 神名帳p674上中段
24 文永九年8月15日 1272 p677  長文 神名帳p678上段
 25 健治二年6月29日 1276 p680  長文 神名帳p681上段
 26 文永九年8月8日  1272 p684    
 27 健治二年6月29日  1276    
 28 元応二年8月19日  1320    
 29 元徳二年7月27日  1330 p685    
 30 貞治六年3月6日  1362 p686  長文 長文だが神名帳の記述なし
 31 応安三年4月16日  1370 p692    
 32 応安六年4月―  1373  長文 七日今日番神北野也p702下段
 33 応安五年4月23日  1372 p706  長文 神名帳p707上、中段
 34 応永八年5月21日  1401 p709  長文 神名帳p709中段、番神所作p710上段、三十番神p715上段



付録2 三十番神の本地仏


 元禄三年(1960)成立の『仏像図彙』(文献1)によれば、三十番神には以下のような本地仏が定められている。
尚、同書はなぜか熱田、稲荷、祇園の本地がはっきりしない。
このため下記のサイトを参照して補完した。実に充実したサイトである。
「本地垂迹資料便覧」www.lares.dti.ne.jp/hisadome/honji/

                      表1 三十番神の本地仏一覧

神社    本地仏    神社  本地仏     神社   本地仏
 1   熱田   大日如来   11   石清水   阿弥陀如来    21  八王子  千手観音
 2   諏訪  普賢菩薩   12  賀茂  聖観音    22   稲荷  如意輪観音
 3  広田  勢至菩薩   13  松尾  毘婆尸仏    23  住吉  聖観音
4  気比  大日如来   14  大原野   薬師如来   24  祇園  薬師如来
 5   気多   阿弥陀如来   15  春日   釈迦如来   25   赤山  地蔵菩薩
 6   鹿島  十一面観音   16  平野   聖観音   26   建部   阿弥陀如来
7   北野   十一面観音   17  大比叡   釈迦如来    27  三上  千手観音
 8  江文   弁才天    18  小比叡   薬師如来     28  兵主  不動明王
 9  貴船  不動明王   19  聖真子  阿弥陀如来   29   苗鹿   阿弥陀如来
 10  伊勢   大日如来   20   客人   十一面観音   30   吉備  虚空蔵菩薩

この中で、史料によって裏付けられる古くからの本地仏がいくつかある。
 八幡神の本地は、元々は釈迦如来であった。
応和二年(962)の奥書をもつ「大安寺塔中院建立縁起」によると、
大安寺の僧行教が宇佐におもむき参籠している時、衣の袖の上に釈迦三尊が顕現したとある。(文献2)

本地が釈迦如来から阿弥陀如来に変わったのは、
大江匡房(まさふさ)(1041~1111)の『続本朝往生伝』の頃とされる。
同書には、愛宕山の月輪寺(つきのわでら)(天台宗)の僧真縁が、
常々、法華経をとなえ生身の仏との出会いを願っていたところ、
石清水八幡宮に僧形の阿弥陀如来が顕現した話がある。(文献3)
 また、大江匡房の『江談抄』によれば、天照大神は救世観音の変身とされている。(文献4)
これが『太神官参詣記』とも呼ばれる『通海参詣記』に次のようにある。
「神宮ノ御事ハ。釈尊法花ヲ説給ヘル有様ニタカハス侍ル上。
 御本地大日如来ニテ御坐ストセハ。秘密ト一乗ト也。
 教主トシテ。殊ニ真言ヲ納受シ給フ也。理ニ侍リ。
 天照太神ハ。神道ノ主。大日如来法花ハ。仏法ノ王也。
 垂跡ト云。本地卜云无上无比モ也。」(文献5)

『通海参詣記』は、弘安九年(1287)頃、通海によって著されたものである。
尚、伊勢神宮の本地については久保田収氏の論文(文献6)にくわしい。
さらに、大比叡の釈迦如来、小比叡の薬師如来については、
鎌倉時代初期の『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』に確認できる。(文献7)

三十番神が創祀された藤原頼長の時代には、一覧表のような整備された本地仏はなかったことは明らかである。
鎌倉時代の初期に編纂された『諸社禁忌』(文献8)には、
伊勢を筆頭とする有名な神社二十一社に出されたアンケートの結果がまとめられている。
その中に本地仏の項目があるが、各神社の回答は様々で、言葉を濁したものや無回答のものもあり、
本地仏の成立は過渡期にあったといえる。
表1のような三十番神の本地仏一覧が完成するのは、
鎌倉末期の吉田神道おける二十二社の本地を記した『二十二社并本地』の影響によるものであろうか。(文献9)
同書の本地仏は表1とはかなり異なっていて、例えば、伊勢・広田が聖観音、石清水・賀茂・松尾が釈迦となっている。
これらから、表1のように
完全に揃った状態で本地仏が成立するようになるのは、
日吉山王曼荼羅図が描かれるようになった鎌倉中期以降と推定される。



参考文献
1『仏像図彙』土佐秀信 近代デジタルライブラリーhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818766
2「大安寺塔中院建立縁起」(『石清水八幡宮叢書』二 p12 1976)
3『続本朝往生伝』(『群書類従』第5輯 p421 1960)久保田収氏
4『江談抄(ごうだんしょう)』(『群書類従』第27輯 p556 1960)
5『通海参詣記』(『続群書類従』第3輯下 p804 1957)
6「伊勢神宮の本地」久保田 収 (『日本歴史』第293号 p1~8 日本歴史学会 吉川弘文館 1972)
7『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』(『日本歌学大系』別巻二 p147 風間書房 1977)
8『諸社禁忌』(『続群書類従』第3輯下 p711~720 1957)
9『二十二社并本地』(『続群書類従』第3輯上 p47 1974)

(C20140118
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