イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版 2013年10月20日掲載
イワクラ(磐座)学会会報29号掲載     
   
創生期における三十番神の役割
<叡山三十番神 壱道・良正記の検討 前編>


はじめに
 先の論文「日吉大社 山王三聖の形成」(文献1)において、「壱道記」の偽作の可能性を指摘した。
本論文は、「壱道記」とそれに続く「良正記」の検証の前編である。
『神道史大辞典』(文献2)等によれば、「壱道記」は三十番神のルーツと見なされている。
このため、ここではまず先の論文をベースに、創生期における三十番神の役割を検討したものである。
ここで結論を先に述べれば、
元々の三十番神は法華経の守護神ではなく、叡山の守護神としてふさわしい神々を私的に参集させたものであり、
横川法界房で修行に励む僧達の日々の守り神であった。

尚、<叡山三十番神 壱道・良正記の検討>の後編については
慈覚大師如法経縁起の形成と三十番神の祭祀構造を参照願いたい。

1 三十番神の概要
 『望月 仏教大辞典』に、三十番神について次の解説がある。(文献3①)
「三十日番代の神の意。即ち一箇月三十日の間、毎日番代に国家人民を守護すると信ぜられるる三十柱の善神を云う」
そして、その種類は甚だ多いとして、下記の十種類の具体例を挙げている。
 一 天地擁護の三十番神
 二 内侍所の三十番神
 三 王城守護の三十番神
 四 吾が国守護の三十番神
 五 禁闕(宮廷)守護の三十番神
 六 法華守護の三十番神
 七 如法経守護の三十番神
 八 法華経守護の三十番神
 九 仁王経守護の三十番神
 十 如法経守護の三十番神

一から四は吉田神道(卜部神道)の伝であり、東西南北に各八神を配置するものである。
五から十が、神仏習合の影響を受けており本論文の検討対象であるが、諸説紛々できわめてわかりにくい。
これが本論文の執筆理由の一つでもある。
そこで、これらの内容を全面的に見直して年代順にならべたものが、表1の三十番神一覧表である。
尚、一から七は七種番神と呼ばれ『古事類苑』神祇部一にその紹介があり、下記にて確認できる。
 国会図書館 近代デジタルライブラリー 
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897600 コマ番号45/126~50/126

表1 三十番神一覧表
   <三十番神の略称と出典>
     伝教 『番神縁起論』第六 法華守護ノ三十番神(文献4)
     慈覚 『番神縁起論』第七 如法経ノ守護三十番神(文献4)
     壱道 『壱道記』       (『門葉記』巻第七十九如法経一)(文献5①)
     良正 『良正阿闍梨記』   (『門葉記』巻第七十九如法経一)(文献5①)
     内裏 『神祇正宗』     内裏三十番神(文献6)
神名・神社名   伝教 慈覚 壱道 良正 内裏 
 名称 所在国
 熱田(あつた)   尾張     27日    1日   22日
 諏訪(すわ)   信濃     28日  亥日   2日  23日
 広田(ひろた)  摂津     17日     3日   24日
 気比(けひ)   越前     30日     4日  25日
 気多(けた)  能登         5日  26日
 鹿島(かしま)   常陸     20日     6日  27日
 北野(きたの)   山城         7日   28日
 江文(えぶみ)   山城         8日   29日
 貴船(きふね)   山城        9日  30日
 伊勢(いせ)  伊勢     1日  子日   10日  1日
 石清水(いわしみず)   山城     2日  丑日   11日   2日
 賀茂(かも)  山城     3日   寅日  12日   3日
 松尾(まつお)  山城     4日   卯日  13日  4日
 大原野(おおはらの)  山城   13日  辰日   14日   5日
 春日(かすが)  大和    7日  巳日   15日  6日
 平野(ひらの)   山城    5日  午日  16日   7日
 大比叡(おおびえ)   近江   1~6日   8日  未日   17日  8日
 小比叡(おびえ)   近江  7~12日   9日   申日  18日   9日
 聖真子(しょうしんし)  近江   13~18日  10日  酉日  19日   10日
 客人(まろうど)  近江  19~24日   11日     20日   11日
 八王子(はちおうじ)  近江   25~30日  12日    21日   12日
 稲荷(いなり)  山城     6日    22日   13日
 住吉(すみよし)   摂津     19日  戌日  23日   14日
 祇園(ぎおん)  山城         24日  15日
 赤山(せきざん)   山城     21日    25日   16日
 健部(たけべ)   近江     22日    26日   17日
 三上(みかみ)   近江    23日    27日   18日
 兵主(ひょうず)  近江     24日     28日   19日
 苗鹿(のうか、なえか)   近江    25日    29日   20日
 吉備(きび)  備中     26日    30日   21日
 大神(おおみわ)  大和     14日      
 石上(いそのかみ)  大和     15日      
 大倭(おおやまと) 大和    16日      
 竜田(たつた)   大和    18日      
 広瀬(ひろせ)  大和    29日      

(注1)日蓮宗の三十番神の番日のならびは主として二通りあるが、神名は「良正」とまったく同じである。
    一つは、日宣の『番神縁起論』第六によるもので、ならびも「良正」とまったく同じである。
    日蓮宗では、これを法華守護三十番神と呼ぶ。
    もう一つは、一日伊勢ではじまり三十日貴船で終わるもので、『神祇正宗』内裏三十番神と同じである。
    日蓮宗ではこれを日蓮聖人流と呼ぶ。尚、内裏三十番神は良正三十番神のアレンジと思われる。
(注2)三十番神の他の種類については、「称名寺蔵・三十番神像絵図について(一)」(文献7)にその紹介がある。

 歴史的事実として表1のような祭祀が存在したかを検討するにあたって、注目すべきは聖真子(しょうしんし)の存在である。
先の論文『日吉大社 山王三聖の形成』(文献1)により
貞観九年(867)の壱道記の年代には聖真子は存在していないことがわかったので、
「伝教」「慈覚」「壱道」は後世の偽作であることがわかる。
また、「良正」と「内裏」は、日付がずれているだけなので、三十番神の始まりの検討においては、
「良正記」のみを検討すればよいことになる。
しかし、「良正記」と「壱道記」は同時期に縁起として創作されたと考えられることから、ここでは一括してその検討を行った。
以後、本論文において単に三十番神と云う場合は、「良正記」の三十番神を指すものとする。

2 三十番神の選定根拠
 三十番神の神名の出典は、重なり合うものもあるが下記の五つと推定される。下の(最澄)等は表2の略称である。
①『長講法華経後分略願文巻下(法華長講会式)』(文献8)(
最澄
  (注)福井康順氏によれば、「弘仁三年(812)四月五日 最澄記」の奥書のある
     『長講法華経願文』の後分は偽作とのこと(文献9)であるが、
  ここでは最澄の撰ではないにしても史料として有効であると判断した。
  同書から三十番神に登場する神名を抜き出すと次のようになる。
   普く願わくは畿内道・・・松尾、賀茂、住吉・・・。
   東山道・・・大比叡、小比叡、御上(三上)、苗賀(苗鹿)、諏訪・・・。
   東海道・・・斎宮(伊勢)、熱田、鹿島・・・。南海道・・・。西海道・・・。
   山陽道・・・(中山)・・・。山陰道・・・。北陸道・・・気比、気多・・・。
②天台宗と特にかかわりの深い神社(
天台系
③『日本紀略』寛弘七年(1010)閏二月九日条(
十一社
  奉幣十一社(伊勢、石清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、春日、大原野、住吉、祇園、北野)、祈年穀による奉幣。
④『二十二社註式』長暦三年(1039)八月十一日(文献10)(
二十二社
⑤『延喜式神名帳』延長五年(927)十二月(
名神大社
  近江の名神大社 建部、三上、兵主

これらを勘案し、まとめたものが表2である。

表2 三十番神の神名の典拠
   凡例 下欄の最澄・天台系・十一社・二十二社・名神大社は、上記参照  〇は選定要因、◎は主たる選定要因

 神名・神社    最澄  天台系 十一社   二十二社    名神大社    備 考
上社 中社  下社  畿内 近江   其他
  大比叡                 日吉社    
 2 小比叡          
 3 聖真子            
 4 客人            
  5 八王子            
 6 赤山                 慈覚大師入唐
 7 苗鹿               叡山神木供出
 8 江文                 江文寺地主神
 9 伊勢             二十二社の上七社      
 10 石清水                
 11 賀茂          
 12 松尾            
 13 平野            
 14 稲荷            
 15 春日              
 16 大原野               春日系(京春日)
 17 住吉           渡海神(入唐)
 18 祇園             御霊信仰
 19 北野               御霊信仰
 20 貴船               ◎賀茂摂社(祈雨神)
 21 健部                 ◎近江一宮
 22 三上               ◎三上山磐座
 23 兵主                 ◎大津京坂本遷座
 24 気比                 ◎北陸道海上守護神
 25 気多               ◎北陸道海上守護神
 26 鹿島               ◎東海道軍神
 27 諏訪               ◎東山道軍神
 28 吉備                 ◎山陽道軍神
 29 熱田               ◎天照大神草薙剣
 30 広田                   ◎天照大神荒御魂
  神名・神社   最澄  天台系  十一社  上社  中社 下社  畿内   近江  其他  備 考
  二十二社 名神大社

 以下、表2に基づき、三十番神の選定理由に的を絞って解説する。
尚、一般的な三十番神の解説は、下記のサイトを参照されたい。
 参照サイト「三十番神 - 日蓮宗玉蓮山 真成寺

<三十番神の選定理由>
1~8は、天台宗の地主的な神社。
1~5は日吉社で、二十二社の下社。
 『二十二社註式』によれば、既定の二十一社に日吉が最後に加えられたのは、長暦三年(1039)八月十一日である。(文献10)
 日吉社の社殿は1大比叡→2小比叡→3聖真子→4客人→5八王子の順に創建されたと考えられる。(文献11)
 八王子の創建は三十番神の中で最後と思われるので、三十番神の始まりを推定する手掛かりとなる。
 中納言右大臣藤原宗忠の『中右記』天仁元年(1108)三月二日条に八王子社の名が見えることから、
 八王子社は11世紀後半には創建されていたと推定される。
 八王子山の山頂には巨大な磐座があり、八王子社はそのすぐ下に建てられている。
6赤山は円仁が唐にて加護をうけた異国の神である。
 赤山禅院は仁和四年(888)に円仁の弟子の安慧(あんね)が創建、方除けの寺として知られる。
7苗鹿(のうか)は、現在の那波加(なばか)神社。
 社伝によれば、祭神の天太玉命はこの地に降臨し太古から鎮座したという。老翁となった天太玉命の農事を助けるために、
 鹿が現れて稲の苗を背負って運んだので「苗鹿」という社名・地名になったとされる。
 天智天皇七年(668)に社殿が造営されたと伝える。
 仁安四年(1169)二月五日、横川中堂が炎上した際には、苗鹿の山から内陣柱を奉納した。(文献12)
8江文(えぶみ)神社の社頭の掲示板には
 「江文神社は大原八ヶ町の総氏神で古代より背後にそびえる江文山(今の金比羅山)上の
 朝日の一番早く照るところに御祀りされておりました神々を
 平安時代の後期に此処に住人達が御殿を創建して御鎮座を願ったのであると古代より言い伝えられております・・・」とある。
 かつて江文山の中腹に江文寺があった。
 江文寺の創建の由来は明らかでないが、『後拾遺往生伝』に大治五年(1130)没の
 藤原為隆により四天王が安置されたとあり、これ以前の建立であることがうかがえる。
 また同書には江文上人快賢が延暦寺西塔菩提房より大原江文寺に移住し、寺に草庵を構えたとある。(文献13)
 江文神社は、延暦寺と日吉社のごとく江文寺の地主神社と見なされる。

9~19は『日本紀略』寛弘七年(1010)閏二月九日条の奉幣十一社、
 叡山が二十二社の中でも特に重視する神社群で三十番神の骨格を成す。
9伊勢、10石清水、11賀茂は三社、9~15は二十二社の上七社である。
9伊勢 皇祖神天照大神を祀る至高の神社。
10石清水 日本の総鎮守。『神祇正宗』では伊勢とならんで日本を代表する別格の神社とされる。
 八幡神は、住吉とならぶ入唐求法の渡海神でもあった。
11賀茂 『瀬見小河』によれば「日吉の社司は賀茂氏より出たる祝部氏の代々仕奉り、
 又祭日も賀茂と同じく、其の祭式も同じさまなる・・・」とある。(文献14)
 日吉山王祭は、東本宮の大山咋神と賀茂玉依姫との結婚を再現する儀式とされる。
12松尾は日枝山(八王子山)と同神の大山咋神を祀り、叡山にとって三社にならぶ神社である。
 鏑矢伝承から、賀茂の丹塗矢伝承にもつながっている。
13平野 平野神社の創建は延暦十三年(794)。
 祭神の今木神(いまきのかみ)は、大和の今木群に住んでいた百済系の渡来人達が祀っていた神である。
 これは桓武天皇の生母である高野新笠(たかのにいがさ)の父が百済系渡来人であることによる。
 最澄と桓武天皇は密接な関係があり、六所宝塔の一つである比叡山東塔は桓武天皇の御霊所でもある。(文献15)
14稲荷 松尾を創建した秦氏と同族の公伊呂具(きみいろぐ)の創建。
 社地の三が峰は、多数の磐座が鎮座する神体山である。
15春日 藤原氏が鹿島より平城京に勧請した氏神。賀茂にかわり三社の一つに数えられることもある。
 鹿島の神は、鹿の背に乗って奈良の御蓋山に降臨したとされる。
16大原野は、京春日と呼ばれる藤原氏の神社で、平安遷都の時に春日社より勧請された。
 叡山と藤原氏の親密な関係を重視したものと思われる。
17住吉は、最澄、円仁が入唐求法に際し、祈願した神社。
18祇園は、元、感神院祇園社と呼ばれ十世紀半ばまでは興福寺末寺であった。
 それを天台座主良源が、時の権力者で右大臣の藤原師輔の信任を背に延暦寺の末寺・末社に編入したとも、
 興福寺との激しい武力衝突を経て強奪したとも言われている。
19北野は、延暦寺との関係が深い。天仁年間(1108~1110)の曼珠院門跡の忠尋門主は
 北野天満宮の別当職でもあった。(文献16)
 建久二年(1191)四月二十六日、延暦寺の大衆が近江国守護・佐々木定綱の処罰を求めて
 日吉・祇園・北野の三社の御輿を奉じての強訴は良く知られている。
20貴船は、祈雨では大和の丹生社と並んで馬が奉納される突出した神社。
 賀茂川の上流にある貴船社は江戸時代まで上賀茂神社の摂社であった。
 北畠親房は『二十一社記』(文献17)の中で、同書の書名を『二十一社記』にした理由を
 貴船が賀茂の摂社であるからと述べている。

21~23は、比叡山の御膝元の近江の名神大社。
21健部は、近江一宮。景行天皇の勅により神崎郡建部郷に日本武尊の霊を祀ったのが始まりとされる。
 その後天武天皇白鳳四年(675)に近江国府の所在地であった現在の瀬田の地に遷座した。
22三上は、「近江富士」の別名もある三上山(標高432m)の山麓に鎮座。
 三上山は八王子山から良く見える山で、山頂には磐座と社があり八王子山に似る。
 孝霊天皇の時代、天之御影命が三上山の山頂に降臨し、それを神体山として祀ったのに始まると伝える。
 明治から昭和にかけての発掘調査では三上山ふもとの大岩山から二十四個の銅鐸が発見されており、
 三上山周辺で古来から祭祀が行われていたと考えられている。
23兵主は、大津京の時代に叡山の里坊である坂本の地に鎮座した渡来系の神。
 兵主大神は桜井市の穴師坐兵主神社に祀られていたが近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、
 穴太(大津市坂本穴太町)に社地を定め遷座したとある。その後、再び遷座して現在の野洲市に鎮座したと伝えられる。

24気比、25気多は、北陸道にある日本海側の海上守護神で、瀬戸内海側の住吉、広田に対応する。
24気比 北陸道総鎮守。越前国一ノ宮にして都の日本海側の玄関港である。
 『続日本後紀』承和六年(839)八月二十日条に遣唐使船の無事なる帰港を祈って
 「奉幣帛於攝津國住吉神。越前國氣比神。並祈船舶帰着。」とある。
 祭神の伊奢沙別命 (いざさわけのみこと)は御食津大神とも呼ばれ、
 もとは海人族によって信仰されていた食物霊の神と思われる。
 『藤氏家伝』には霊亀元年(715)の気比神宮寺にまつわる話(後述)があり、神宮寺の最も古い記録として知られる。
25気多 能登国一ノ宮で新羅・渤海との交流の拠点。
 祭神は大己貴命で、出雲より来航し、人々を苦しめる大毒蛇を退治し能登国を平定したと伝えられる。
 平国祭はこれにちなむもので、軍神的な側面もうかがえる。
 『文徳実録』斉衡二年(855)五月四日条に気多大神宮寺の記述が見える。

26~28は、都の東西の軍神である。
26鹿島は古代日本で最初に太陽が登る日立(常陸)の国の一宮、祭神の武甕槌神は有名な東海道の軍神である。
 『古事記』では、天照大神の孫・瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、
 武甕槌命(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りするように迫ったとされる。
 これに対して、大国主命の次男である建御名方命(たけみなかたのみこと)が国譲りに反対し、
 武甕槌命に戦いを挑むが敗れ諏訪にのがれ降伏した。
 中臣氏が下総国の出であったという関係で、中臣氏出身の藤原氏に篤く信仰された。
27諏訪は信濃国の一宮、祭神の建御名方命は有名な東山道の軍神である。
28吉備 『長講法華経願文』に吉備の名はないが、「美作六箇郡 中山大神等」とある。
 これは美作国の一宮である中山神社である。
 三十番神では、これを勢力のある吉備社に置き換えたものであろう。
 吉備社は現在の吉備津神社で、延喜式神名帳の備中国賀夜郡に吉備津彦神社とある。
 祭神の吉備津彦命は四道将軍の一人として吉備国を平定した山陽道の軍神である。

29、30は都の東西の天照大神を祀る神社。
29熱田は、天照大神の草薙神剣を依代とする。
 天照大神の荒魂を祀る広田と対応する。
30広田 天照大神の荒魂を祀る。
 神宮皇后伝説に象徴されるように、広田と住吉の関係はきわめて深い。(文献18)

<まとめ>
表2の1~8までは天台宗の地主神的な神社、
9~19までは寛弘七年の十一社、20貴船は賀茂の摂社である。
21~23は近江の名神大社、24気比と25気多は北陸道の津にある名神大社である。
26鹿島と27諏訪は、東海道と東山道を守る軍神である。
28吉備は、山陽道を守る軍神である。
29熱田は、草薙の剣を天照大神の依代として祀る。
30広田は、熱田に対応して西に天照大神の荒御魂を祀る。
これらから、
三十番神は叡山が必要とする神社で構成されており、全体として叡山を守護するものである。


3 三十番神の役割
(1)三十番神の役割についての現状の説
 三十番神の役割は現状の説では、大別して仁王経守護と如法経守護とされる。

<仁王経守護>
『望月 仏教大辞典』によれば、良正の三十番神の役割は仁王経守護とある。(文献3)
これは、明応六年(1497)二月、吉田兼倶(かねとも)が、日蓮宗各寺院内に鎮守として三十番神が奉祀されていることに関して
「安国論師門弟諸流派御中」として京都の妙蓮寺、本国寺、妙本寺の三山に発した質問書(『番神問答記』)に依拠している。
『番神問答記』の趣旨は、次の通りである。
最近、三十番神と称し有名な神社の名を連ねているが、
これは、去る延久年中に比叡山横川南楽坊の阿闍梨良正が法界坊において、仁王講を修している時に感得したものであろう。
この後、日蓮宗の三十番神が良正の勧請によるものであれば、宗祖日蓮の宗義にそむくものではないか。
これを日蓮宗ではどう考えているのかといった内容である。
文中の仁王講(にんのうこう)とは、「仁王般若経」を講じ読誦する法会(ほうえ)で、護国・万民豊楽を祈願して行うものである。
ここで留意すべきは、三十番神は仁王講を修している時に感得されたものではあるが、
それがただちに仁王経守護につながるとは限らないことである。

質問書の冒頭には次の文言がある。
凡近来
称番神列其名有三拾社。勘件来歴、去延久年中叡山横川南楽阿闍梨良正於法界坊
長日
仁王講修之刻感得。化現之霊瑞。連日終夜所註記之神名也(文献19)

管見ではあるが、良正が法界坊において仁王経を修したとする記録は叡山側には見当たらないことから、
兼倶の言は伝聞であったと思われる。
ただ、藤原頼長の日記『台記』久安三年(1147)六月二十二日に次のようにある。
・・・次移御
法界房禮慈覚影覧諸番神板、予私見之、今日稲荷神、仍密読心経擧之・・・(文献20)
三十番神の役割は不明であるが、これは三十番神の初見とされる。(文献21)

<如法経守護>
『門葉記』掲載の「良正阿闍梨記」(文献5①)は、言うまでもなく如法経の守護である。
如法(にょほう)とは仏の教えの如くに行うことである。
つまり、如法経(にょうほうぎょう)とは、仏の教えの如く教典を書写することである。
また教典は決まったものではなかったが、法華経が圧倒的に多いため、如法経と言えば法華経の書写を意味するようになった。
こちらの方は、確実な記録があり、初見として『門葉記』の弘長元年(1261)五月八日の教源記(文献5②)に
良正記の番神名を紙に連ねた神名帳が登場する。
その後、神名帳は『門葉記』の如法経にたびたび登場している。

ならば、三十番神の役割は如法経の守護ということになるが、
弘長元年(1261)の『門葉記』は久安三年(1147)の『台記』から114年後であり、それは三十番神の原初の姿とは思えない。

(2)経典守護の事例 
 経典の世界を視覚化したものに曼荼羅がある。

<仁王経曼荼羅>
東寺講堂には絵画曼荼羅をより体感できるよう立体表現した羯磨(かつま)曼荼羅がある。
これは、空海の指導のもと、『仁王経』『仁王経儀軌』『金剛頂経』に基づき二十一体の仏像を配置したものとされている。
二十一体の仏像は、如来、菩薩、明王、天部の区画に以下のように配置されている。
 如来部(五智如来) 大日如来、阿閦如来、 阿弥陀如来、宝生如来、不空成就如来
 菩薩部(五菩薩)   金剛波羅密多菩薩、金剛薩埵菩薩、金剛法菩薩、金剛宝菩薩、金剛業菩薩
 明王部(五大明王) 不動明王、降三世明王、大威徳明王、軍荼利明王、金剛夜叉明王
 天部          梵天、帝釈天、持国天、広目天、増長天、多聞天
   参照サイト「羯磨曼荼羅

 仁王曼荼羅に描かれる五大力尊(五大力菩薩)は、鳩摩羅什訳と不空訳の『仁王経』より異なる所説がある。
鳩摩羅什訳は無量力吼菩薩、雷電吼菩薩、無量十力吼菩薩、龍王吼菩薩、金剛吼菩薩で、
不空訳は五方菩薩と呼ばれる東方金剛手菩薩、南方金剛宝菩薩、西方金剛利菩薩、北方金剛薬叉菩薩、
中方金剛波羅密多菩薩である。
金剛波羅密多菩薩を除く、それらの容貌は髪の毛の逆立った怒りの形相で、菩薩というより明王に近いものである。
後世には、五大力尊の教令輪身(きょうりょうりんしん)として五大明王が描かれるようになった。
例えば、中方金剛波羅密多菩薩の教令輪身は不動明王となる。
現在、天台宗の三井寺は五方菩薩(通称 五大力吼明王)、
真言宗の醍醐寺は五大明王(通称 五大力尊)を本尊として仁王会が行われている。
尚、詳細な解説につては『望月佛教大辭典』(文献3②)を参照願いたい。
仁王曼荼羅は経典守護というよりは、仁王経法における呪術的要素が強い。
 参照サイト「仁王曼荼羅の画像

<法華経曼荼羅>
法華曼荼羅とは、法華経に説かれた宝塔涌出品にちなんだ世界を図、梵字、漢字などで表した曼荼羅で、
その典拠となった経典は『成就妙法蓮華王比喩伽観智儀軌』『法華曼荼羅威儀形色法経』である。
我が国に伝えられたのは、円仁の『日本国承和五年入唐求法目録』(文献22)に「法華曼荼羅様一張」とあり
、円仁が唐より請来したものと思われる。
法華曼荼羅の代表例を図1に示す。
曼荼羅の構成は、中央の八葉蓮華の上に多宝塔が描かれ、その塔中の右に釈迦牟尼佛、左に多宝如来が並んでいる。
その周囲、八葉蓮華の花弁に弥勒菩薩、文殊菩薩、薬王菩薩、妙音菩薩、常精進菩薩、無尽意菩薩、観音菩薩、普賢菩薩の
八尊の菩薩が配置されている。
さらにその八葉蓮華の周囲に迦葉、須菩提、舎利弗、木連の四人の声聞が配され、
一番外側に外四供養菩薩、四摂菩薩、諸天、四大明王などが描かれている。
 参照サイト「法華曼荼羅の画像


図1 法華曼荼羅 (恵什・永厳 著 『図像抄』) 参照サイト「法華曼荼羅wikipedia

 以上の事例でもわかるように、当然のことながらここには日本の神は一切登場していない。
本来、経典の守護は、経典に現れる神によって守護されるものであることから、インドの神々である天部の役割となる。
天部の例として、梵天 帝釈天 日天 月天 四天王 八大龍王 十六善神 十二神将
・・・が挙げられる。
十六善神は般若経守護、十二神将は薬師経守護として有名である。
十六善神は『陀羅尼集経 巻第三』『般若守護十六善神王形体』、
十二神将は『薬師瑠璃光如来本願功徳経』『薬師瑠璃光王七仏本願功徳経念誦儀軌供養法』『浄瑠璃浄土標』に基づく。
 今日に見られる三十番神像は、そのほとんどが日像(にちぞう)以降の日蓮宗系のものである。
日像が日蓮の遺命を奉じて布教のため上洛したのは、永仁二年(1294)のことである。
三十番神はこの布教のために用いられたとされる。
尚、平安時代に遡ることのできる三十番神像があるかどうかは不明である。
 とにかく現状の三十番神の神像の並びはカレンダーに似て、
図1のような
多宝塔、釈迦牟尼佛、多宝如来のような経典を象徴するものがほとんど描かれていないことがわかる。
これらから、
叡山の三十番神は、経典守護の具体例から乖離したものと考えられる
 参照サイト「三十番神の画像

<日蓮の法華曼荼羅>
 最後に、時代は少し下るが日蓮の法華曼荼羅を見てみよう。
ここには経典の守護とはいかなるものかが仏教の立場から明らかにされており、
叡山の原初の三十番神の姿を垣間見ることができる。
図2は、日蓮が弘安三年(1280)三月に書き顕した「臨滅度時本尊、蛇形本尊」と呼ばれる法華曼荼羅で、
日蓮入滅の時にあたりその床頭に掲げられたと伝えられる。
それは日蓮が末法の時代に対応するべく、法華経後半十四品(本門)に登場する
如来、菩薩、明王、天などを漢字や梵字で書き表した文字曼荼羅である。
図3は図2の説明図である。
十界の諸仏・諸神を配置していることから十界曼荼羅(注)などとも称される。

(注)十界(じっかい)
 迷いと悟りの境地を十種類として、中国天台宗の祖智顗(ちぎ)が教義としてまとめた。
 十法界ともいう。迷いの生存は地獄界、餓鬼界、畜生界、阿修羅界、人間界、天上界の六種で、
 ここの生存はその行為の業によってそれぞれの世界に転生するので六道輪廻という。
 悟りの境界は声聞(しょうもん)界、縁覚(えんがく)界、菩薩界、仏界の四界で、あわせて六凡四聖(ろくぼんししょう)ともいう。
 これらの世界や境地はインドの仏典ですでに説かれているが、
 
天台智顗は、すべての生存を十界で代表させ、仏界以外は迷いと苦しみの世界や不完全の悟りであるとした
  参照サイト『日本大百科全書』小学館

 信じられないことかもしれないが、天台智顗の十界論からいえば、
日本の神々は天界の迷いと苦しみの世界にいることになっている。
『藤氏家伝』には霊亀元年(715)、藤原武智麻呂が夢告によって気比神宮寺を建立した次のような話が載せられている。
この年、左京の人、瑞龜を得て、改め和銅八年を靈龜元年と爲す。 
公、嘗(かつ)て夢に一奇人に遇う。容貌、常に非ず。
語りて曰く、「公の仏法を愛慕するは人・神共に知る。幸に吾が爲に寺を造り、吾が願いを助け濟(すく)うべし。
吾、宿業に因りて神と爲りて固(まこと)に久し。
今、仏道に歸依し、福業を修行せんと欲すれども因縁を得ず。故、來たりて告げたり」と。
公、これ氣比神なるかと疑い、答えんと欲すれども能(あたわ)ずして覚めたり。
乃ち祈りて曰く、「神・人の道は別にして、隠・顕同じからず。未だ昨夜の夢の中の奇人、これ誰かを知らず。
神、若し驗(しるし)を示したまわば、必ず爲に寺を樹(た)てん」と。
ここに、神、優婆塞(うばそく)久米勝足(くめのかつたり)を取りて、高き木末(こずえ)に置き、因りてその驗と稱(い)いたまう。
公、乃ち實(まこと)を知り、遂に一寺を樹(た)てたり。
今、越前國に在る神宮寺これなり。
 参照サイト「古代史獺祭 藤氏家伝 巻下 読み下し


   
図2 臨滅度時本尊 鎌倉 妙本寺蔵
     弘安三年(1280)  寸法161.5×102.7㎝
     参照サイト「法華曼荼羅wikipedia」より
    図3 臨滅度時本尊(図1)の記載内容の説明図
     左側の梵字は愛染明王を、
     右側の梵字は不動明王を表す
     参照サイト「日蓮聖人大漫荼羅一覧」No.081より

<臨滅度時本尊の解説>
弘安五年(1282)、日蓮聖人は病のために身延山を離れ故郷に向かわれていましたが、
十月十三日の朝に武蔵国の池上(東京都重出区)にて入滅されました。
「入滅(にゅうめつ)」という言葉は、聖者や高僧が亡くなることを言い、「滅度(めつど)」と同じ意味です。
ですから、日蓮聖人のように希代の高僧が亡くなることを「滅度」とか「入滅」といい、
その時を「滅度に臨む時」という意味で、「臨滅度時(りんめつどじ)」といいます。
日蓮聖人が入滅されるその時、かつて日朗上人が身延山で授けられた弘安三年三月の曼荼羅本尊が、
急きょ鎌倉の法華堂から池上に運ばれてきて、死の床にある聖人の枕頭に掲げられたのです。
このいわれによって、『臨滅度時の御本尊』と呼ばれるようになり、
現在は日蓮宗の「宗定本尊」として奉安されています。(文献23)


 図3に図2の記載内容を示す。
この中で経典以外からの守護神は、
図3下部赤枠の(龍樹菩薩・妙楽大師)、(天台大師・傳教大師)、(天照大神・八幡大菩薩)の三組である。
龍樹菩薩、龍樹はインドの大乗仏教中観派の祖である。真言宗では真言八祖の一人、浄土真宗では七高僧の第一祖とされる。
妙楽大師、湛然(たんねん)は唐の天台宗の第六祖である。
門弟子の道邃(どうすい)と行満の二人は、最澄に天台法門を伝えたことで知られる。
また天台大師は智顗、傳教大師は最澄の称号である。
日本の神は天照大神と八幡大菩薩の二神のみである。
これからも、日本の神々は経典の守護神としては末席に位置することが読み取れる。
日本の神々と天部の神々の関係について佐藤弘夫氏は次のように述べている。
「日本の神は梵天・帝釈などに比べれば、仏法の守護神としても非力な「小神」にすぎなかった。
身分や階層をとわず、すべての中世人にとって、人間界を超えた冥界の存在は疑うことのできないものだった。
その世界は、仏界を頂点とする十界からなる仏教的コスモロジーを骨格としていた。
そのうちの天界の最下位が、日本の神々の定位置だったのである。」(文献24)

 日蓮直筆の現存する法華曼荼羅は、約123幅あるとされている。
  参照サイト「日蓮聖人大漫荼羅一覧
ここで問題となるのは、図1の天照大神と八幡大菩薩が、
日蓮宗の法華守護三十番神を代表するものとして書かれているのか否かということであるが、
やはり、天照大神と八幡大菩薩は『神祇正宗』(文献6)にあるとおり日本の神の代表であって、
法華守護の三十番神の代表ではないと考えられる。
日蓮筆 文永十一年(1274)七月二十五日の法華曼荼羅(藻原寺蔵)には
「大日本国天照太神八幡大菩薩等」とある。(上記参考サイト「日蓮聖人大漫荼羅一覧」No.13
三十番神を代表するものは、何と言っても日吉社であろう。
そしてその対になるものは、おそらく山王祭からみて賀茂社であろう。
『渓嵐拾葉集』に「日本国地主有二神 一假神住山城国乙訓郡賀茂村 一假神住近江国滋賀郡」とある。(文献25)
 また、上記サイトにおいて、天台大師・伝教大師の名があるにもかかわらず、
天照大神と八幡大菩薩の名が見当たらない法華曼荼羅として、
文永十二年(1275)四月の鎌倉妙本寺、佐渡妙宣寺、湖西市妙立寺、建治二年(1276)二月の尼崎本興寺、
弘安元年(1278)三月十六日の中山法宣院の所蔵のものがある。
  (参照サイト「日蓮聖人大漫荼羅一覧」No.21No.22No.23No24No31No.32-1No47
つまり、天照大神と八幡大菩薩は、法華曼荼羅において必須のものではない。

以上から、
日蓮の法華曼荼羅には、三十番神による法華経守護の思想が含まれていないことがわかる。
三十番神は『台記』久安三年(1147)六月二十二日にその存在が確認できるので、
このことは、寛元元年(1243)から延長五年(1253)にわたり比叡山横川定光院に住まいした日蓮において、
三十番神による法華守護が認識されていなかったことを意味する。
やはり、日蓮宗の三十番神の信仰は、日像のころ、京都に始まったとするのが妥当であろう。(文献26)

(3)三十日番神の発想
 三十日番神の発想はどこからきたのか? これには、仏典から来たとするものがある。

宮川了篤氏の論文「日蓮宗における三十番神信仰の受容」には次のようにある。
「三十番神信仰の根源は、支那の五大の頃(907~959)、
五祖山の戒禅師が諸仏・諸菩薩の中より三十尊を択び一ケ月三十日に配し行法をはじめたことによる。
これを三十日仏名または三十仏名、三十日秘仏と称している。
この三十番神信仰を最はやく取り入れたのは天台宗である。」(文献27)
これはまた『新編 仏像図鑑』に「三十日秘仏」として次の説明がある。
「三十日秘仏は一か月三十日に三十仏名を配し礼拝するものにして、
この説は経論に典拠なく
支那五代のころ五祖山の師戒禅師によってとなえられしものと伝う。・・・
これが我が国に伝わり行われしは・・・
虎関禅師録および瑞渓の臥雲日件録に記録あるをもって、
はじめは禅家の間におこなわれしものならん。・・・」(文献28)
 文中の虎関禅師は(1278~1346)、瑞渓は(1394~1473)の禅僧である。
叡山の三十番神信仰は『台記』久安三年(1147)に確認されることから、三十日秘仏の方がかなり後になる。

また、『望月 仏教大辞典』に「三十番神の思想は、灌頂経第一に
三十六善神は、凡て萬億恆河沙の鬼神あり、以て眷属となし、
陰に
相番して以て男子女人等の輩の三帰を受くるものを護る」(文献3)とある。
(注)恆河(恒河 ごうが)はガンジス川、沙(しゃ)は砂で、恆河沙で無数の比喩。三帰は仏・法・僧の三宝に帰依すること。
 灌頂経の「相番して」は「交代して」の意であり、日と結びついたものではない。(文献29)
管見ではあるが、灌頂経の全巻またそれ以外の経典にもさまざまな善神が登場するものの、
一ヶ月三十日と直接結びついた番神の記述は認められない。
これらから、
番神の発想は仏典にはなく、叡山独自のものであることが予想される。

(4)三十番神の真の役割
 では、原初の三十番神の真の役割とは何であろうか?
それには、三十番神の祀られ方がポイントとなる。
三十番神の祀られ方の具体例として、『台記』には次のようにある。
 久安三年(1147)六月二十二日甲寅晴・・・次移
御法界房
 
禮慈覚影覧諸番神板、予私見之、今日稲荷神、仍密読心経擧之・・・(文献20)
表1の三十番神一覧表の「良正」によれば、二十二日はまさしく稲荷の日である。
そして法界房は、前述の兼倶の質問状に登場する場所である。
法界房の名は、三十番神社と一緒に一二七五年頃の『三院記』に掲載されている。(文献30)
諸番神板とあることから、三十番神の神名がわかるような板が慈覚大師の肖像画または彫像にそえて
法界房に掲げられていたものと想像される。
それは日付と神名だけを列記した簡素なものであっただろう。
『叡岳要記』に「法界坊。覚大師御在生之御房也。影像相応和尚御作也。」とある。(文献31①)
文中の相応和尚は円仁について得度受戒した僧で、無動寺を建立し、回峰行の創始者として知られる。
法界房は、元は円仁の住房であるから、慈覚大師の遺影が祀られているのは自然としても、
それと同時に祀られている三十番神は何のためにあるのだろう。
法華経の守護ならば、如法堂に安置すべきであろう。
『叡岳要記』の如法堂の項にも、三十番神は如法堂の守護神とある。(文献31②)
天台智顗の十界論からは、三十番神が経典の守護神であることを導き出せないので、
三十番神は仏教以外から導入されたものと予想される

藤原頼長が番神稲荷にたむける般若心経の神前読経は、今日一日の安寧を祈り感謝するものであろう。
これは本質的に神社の参拝と何ら変わることがない。
法界房は僧たちが日々暮らす住房であり、三十番神は私的な祀られ方と言える。
三十番神は叡山を中心に配されており、リンカーンの名言を借りれば「叡山の叡山による叡山のための三十番神」である。
つまり、叡山守護の三十番神である。
三十番神の始まりは叡山の守護神としてふさわしい神々を私的に参集させたものであり、
横川法界房で修行に励む僧達の日々の守り神であったと想像される。

参照論文
 日吉大社 山王三聖の形成<最澄・円澄・円珍・良源の山王観の変遷>
 慈覚大師如法経縁起の形成と三十番神の祭祀構造<叡山三十番神 壱道・良正記の検討 後編>
 叡山三十番神 Q&A

参考文献
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2『神道史大辞典』p438 吉川弘文館 1980
3『望月佛教大辭典』望月信亨編 世界聖典刊行協会 1960 
  ①第2巻 p1560~1566 ②第2巻 p1244~1246、第5巻 p4104~4105
4『番神縁起論』日宣(1760~1822)  「国文学研究資料館公開サイト」コマ番9/198~10/198
 http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-20802
5『門葉記』①「良正阿闍梨記」「沙門壱道記」②「如法経」(大正新修大蔵経 図像第11巻 ①p631 ②p664 1977)
6『神祇正宗』(『続群書類従』第3輯上 p61~66 1974)
7「称名寺蔵・三十番神像絵図について(一)」草場晁(あきら) (『金沢文庫研究』第11巻5号1965)
8『伝教大師全集』巻四 p252~257 1926  「近代デジタルライブラリー 」コマ番145~147
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020663
9『福井康順著作集』第5巻 p160 法蔵館 1990
10『二十二社註式』(『群書類従』第2輯 p209~240 1959)
11「山王七社の形成」菅原信海(『東洋の思想と宗教』第4号 p1~19 1987)
12『山門堂舎記』(『群書類従』第24輯 p482~484 1960)
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14『瀬見小河』伴信友 安永2年(1773)~弘化3年(1846) (神道体系 神社編 賀茂 p155 1984 所収)
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16『比叡山史』p163 村山修一 東京美術 1994
17『二十一社記』(『神道大系』北畠親房(上) p329 1991)
18『西宮市史』第1巻 p386~388 1959
19『番神問答記』(『日蓮教学全書』第10巻 p273 法華ジャーナル 1977)
20『台記』(『増補史料大成 台記一』p217 臨川書店 1965)
21『神道大辞典』p125 臨川書店 1977
22『日本国承和五年入唐求法目録』(『大日本仏教全書』第2巻 p50 1980)
23『日蓮聖人の法華曼荼羅』p44~45 中尾堯(たかし)臨川書店 2004
24『アマテラスの変貌』p148~149 佐藤弘夫 法蔵館 2000
25『渓嵐拾葉集』(大正新修大蔵経76巻 p529 1968)
26『日蓮宗における三十番神信仰について』坂輪宣敬 (『日本仏教学会年報』52号 p293 1987)
27『日蓮宗における三十番神信仰の受容』宮川了篤 (『日本仏教学会年報』52号 p263 1987)
28『新編 仏像図鑑』p392 国書刊行会 2001
29『大蔵経』第21冊 密教部 p502中段 台北新文豊出版 1973
30『比叡山諸堂史の研究』p62 武覚超 法蔵館 2008
31『叡岳要記』(『新校 群書類従』19巻 ①p220 ②p215~216 1977)

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