イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版 2016年11月6日掲載
イワクラ(磐座)学会会報38号掲載   
   

天文考古学(Skyscape Archaeology

曾候乙墓出土漆箱二十八宿の図像解釈
 曾候乙墓出土漆箱二十八宿的图像解释
                                              イワクラ(磐座)学会  江頭 務

1 はじめに
 曾侯乙墓(そうこういつぼ)は、1977年に中国の湖北省随県擂鼓墩(らいことん)で発見された墓である。
被葬者の身分は曾侯、名は乙、楚の人物で、墓の年代は戦国時代初期の紀元前433年とされている。
出土品は楽器・盾などの漆器や編鍾をはじめとする青銅器、金杯などの金器、玉器、絹・麻織物など
驚くべきものが多数発見されている。
その中に衣類を収納する漆箱があり、その上蓋には下図のような漆画が描かれていた。

 図1 曾侯乙墓出土漆箱(しっそう)の二十八宿(文献1)

これについて、小沢賢二氏は『中国天文学研究』(文献2)のなかで次のように述べている。

この画は外箱の中心に篆書された「斗(北斗)」字があり、その右側(東方を示す)には「龍」、
左側(西方を示す)には「麒麟」が描かれている。
さらに中心の北斗の周囲には、
「角」より「車(軫)」までの都合「二十八宿」に相当する名が時計回りに配列されているが、
起点である「角」の前が空白であることから、その動きは反時計回りであることを明示している。
但し、奇妙なことに「星宿」の筆頭である「角宿」(12時の方角)の位置に「龍」の尾鰭があり、
「龍」の頭部は反対の方向(6時の方角)にある。
そして「龍」の頭部より前に(同じく6時の方角)に「麟麟」の尾があり、
「麒麟」(左側)の頭部は「龍」(右側)の尾鰭と同じ高さ(12時の方角)となっている。
つまりこの画の「龍」や「麟麟」は「北斗七星」をコンパスの中心にして
頭部からではなく最後尾から反時計回りに動いていることを示唆しており、
これによって「角」とは必ずしも「龍」の角(つの)を表したものでないことが理解できる。


次に注目すべきは「麒麟」である。
これまで研究者の多くは、後世の陰陽五行説の四獣に基づく「四方宿」
すなわち「東方宿(蒼龍宮)」・「北方宿(玄武宮)」・西方宿(白虎宮)」・「南方宿(朱雀宮)」の
先入観に強い影響を受けているために、外筐に描かれた「麒麟」を西方を示す「白虎」と思い込んでいるが、
どうみてもこの動物は「白虎」ではない。
結論からいえば、頭部に後ろ向きの角(つの)をもつ角獣であって顔は狼ながら身体は鹿の特徴を持ち、
しかも尾は牛で蹄は馬のようであるのだから、
このような要件を備えている動物は「麒麟」以外にはないと考えられるのである。
当初は春と秋を具象化する動物として「龍」と「麒麟」の二獣が創造されたものの、
後世これが変質して四季を具象化する動物として四獣の概念が芽生え、
この時に「麒麟」は「白虎」に置き換えられたものであろう。
実際、班固の『西都賦』の中に「金華玉堂、白虎麒麟」の文言があり、
また『白虎通』「封禅」に「麒麟臻、白虎到」とあって、「麒麟」と「白虎」とを同一視していることから、
「麒麟」が「白虎」に置き換えられた経緯が汲みとれる。


 もし、青龍と麒麟の回転方向が星座の回転方向と一致していれば何の問題もないであろう。
これが最大の課題である。本稿は、六壬式盤(りくじんしょくばん)の天文学的要素を抽出することにより、
かかる疑問に答える二十八宿の図像解釈を提起するものである。
式盤は「ちょくばん」「しきばん」とも呼ばれるが、ここでは山田慶兒氏の読み方に従った。
尚、小沢賢二氏の麒麟に関する指摘は的を射たものであり、
『礼記』「礼運」にも「麒鳳亀龍、之を四霊と謂う」とあり、
青龍と麒麟の対応は明らかであることから、本稿は氏の見解に従う。
なによりも、麒麟は虎と異なり空を飛べることである。
漢代の石闕(せきけつ)や石棺には翼を持った麒麟が彫られており、
「天鹿」の名前で呼ばれていたとある。(文献3)
キトラ古墳の白虎が翼をもつ(HP1)のも、麒麟が白虎に置き換えられる過程で生じたものと推定される。


2 検討の前提条件
 本稿の検討を進めるにあたっての前提条件を下記に定める。

①検討場所の緯度・経度と年代

 表1 検討項目の所在地(中華人民共和国)・緯度・経度・年代
検討項目   所在地  北緯  東経 年代 
曾侯乙墓(そうこういつぼ)
漆箱出土
湖北省随県
擂鼓墩(らいことん)
31.7°
(31度42分)
113.4°
(113度24分)
BC433
(文献1)
汝陰侯墓(じょいんこうぼ)
六壬式盤(りくじんしょくばん)出土  
安徽(あんき)省阜陽(ふよう)市  32.9°
(32度54分)
  115.8°
(115度49分)
BC169
(文献4) 
『説文解字』成立   河南省洛陽市
漢:洛陽 周:洛邑(らくゆう) 
 34.7°
(34度39分)
112.4°
(112度26分) 
AD100成立 

②星空の年代
 六壬式盤が出土した汝陰侯墓の推定年代BC169年を中心に検討した。
 歳差運動による汝陰侯墓を基準とした天の赤道近傍にある二十八宿の赤経の移動は、
 『説文解字』と曾候乙墓において、共に約±14m(3.5°)であった。
 これは赤経の移動が天の赤道において100年間で1.3°に相当し、
 歳差運動から簡易的に求められる(360°/ 25800年)×cos23.4°×100年=1.28°によく近似している。
 尚、赤緯δへの影響は100年間で±0.6°以下である。(詳細:HP2「歳差による星の位置変化」参照)

③北緯は星空の視界の移動にかかわるが、汝陰侯墓を基準した地平面の移動は赤緯にして
 曾候乙墓-1.2°、『説文解字』+1.8°で実質的な差はほとんどない。

④時刻は、太陽の南中を正午とする地方視太陽時に換算した。

⑤天文現象の検討にあたっては、下記の天文シミュレーションソフトウエアを使用した。
 「ステラナビゲータ10」株式会社アストロアーツ
 ステラナビゲータにおいては、ユリウス暦1582年10月5日をグレゴリオ暦の同年10月15日として切り替えている。
 星座盤のグラフの計算と出力は、マイクロソフトのエクセルを使用した。

⑥図1曾侯乙墓漆画の亢宿の下にある「甲寅(こういん)三日」については、
 興味ある課題ではあるが本稿の主旨に与える影響は少ないと見てここでは検討を保留した。
 星と埋葬者の出生や死去とのかかわりも、可能性の一つとして想像される。


3 曾侯乙墓出土漆画の中央の文字の判読
 最初に、図1曾侯乙墓出土漆画の中央に書かれた文字の判読から始めよう。
これには、「斗」とするものと「斗土」とする二説がある。
「斗」とするものとしては、王健民、梁柱、王胜利氏の「曾侯乙墓出土的二十八宿青龍白虎図像」があり、
表2Ⅱのような字体が示されている。(文献1)
「斗土」とするものとしては、劉信芳氏の「曾侯乙墓衣箱上の宇宙図式」があるが、
具体的な字体は示されていない。(文献5)
しかしながら、「”斗”字之下有―”土”字」の記述から表2Ⅲの解釈が推定できる。

 表2 曾侯乙墓出土漆画の中央の文字の判読(従来)
    Ⅰ 比較のため発掘原図の文字を約60°右回転
    Ⅱ 「曾侯乙墓出土的二十八宿青龍白虎図像」(文献1)
    Ⅲ 「曾侯乙墓衣箱上の宇宙図式」(文献5)
    Ⅳ 発掘原図に記載された二十八宿の斗宿の斗
  
 Ⅰ(発掘原図)  Ⅱ(解釈)  Ⅲ(解釈) Ⅳ(発掘原図)
 

 図2A
 
中央の斗 図2B
 

斗 図2C1
土 図2C2
 
斗宿の斗 図2D

 まずⅡの解釈であるが、これを図2Dの「斗」と比較すると図2Bの鉛直方向に伸びた角は見当たらない。
また、図2Dの下部の「七」が「土」と化すのも気になるところである。
次にⅢの解釈であるが、図2C1と図2Dを比較するとやはり角が見当たらない。
また、図2Dの下部の「七」が消えてしまっている。
つまりⅡとⅢの解釈には、デフォルメを考慮にいれたとしても無理があると言わざるを得ない。
 そこで、次のような判読を提起したい。
まず、図1の全体をながめよう。
青龍の鼻先から左右にも伸びた太い線は、青龍の左右の角の誇張表現であろう。
そのため、図1の青龍の頭の両側にある太い線を除外し、文字を約120°左回転させたものが表3の図3Aである。
そうすると、土は明瞭であるが斗は難解である。
ところが、土匀錍の金文(表4)の中に斗の文字を見つけることができた。(文献6)
画像は不鮮明なので、この文字を改めて抜き出したのが表5の図5Aである。
この文字(図5A)を90°左回転させると表2の図3Cとなる。

  表3 曾侯乙墓出土漆画の中央の文字の判読(新規提示)  
発掘原図(図1)の
文字を約120°左回転
左図の判読
斗の字は図5Aを
90°左回転(図3C) 
新規提示 斗土
左図を120°右回転し、
発掘原図(図1)に戻したもの
 
図3A
 
図3B


図3C

図3D 
 

表3の図3Bを120°右回転させ元に戻した図3Dが、中央の文字の判読の最終結論である。
完全な一致とまでは言えないが、文字の許容範囲内であろう。

 
















 
図4B 土匀錍(土匀瓶)(HP2)
土匀錍は戦国時代の青銅製計量器と推定されている。
土匀錍には左図のような一行六字「土匀容四斗錍」の銘文が刻まれている。
形状は壺の形をしており全高31.5cm口径11.4cm 腹径26cmである。
 
 図4A 土匀錍銘文(文献6)

 表5 土匀錍に刻まれた斗の金文 
 
図5A

右の金文のコの字状のものが変貌したものと想定される。
右の金文は、図11Aの下側左端の「斗」と同じものである。
 
図5B

 <補足>
  図1の麒麟の下側(左側)にあるマークのようなものは、
左図の金文「山」の字を横向きに図案化したものと想像される。
つまり、麒麟が山の上高く飛翔する姿を表現したものであろう。
 
図6 金文 山  


4 二十八宿の天上表現と地上表現の天文学的意義
 図1曾侯乙墓出土漆画において、「斗と土」を中心にして
反時計回りに回転する二十八宿と時計回りに回転する青龍・麒麟がある。
ここでは、この回転について検討を行う。
図7は夜空を見上げた時の二十八宿の天文図で、よく古墳の天井に描かれているものである。(HP1) 
これを二十八宿の回転と方位に関する天上表現と呼ぼう。
これを地上に置いてみると、当然のことながら東西が入れ替わっていること気づく。


図7 二十八宿の天上表現(HP4)

一方、地上の方位に二十八宿を配当したものもある。
これを二十八宿の回転と方位に関する地上表現と呼ぼう。
その一例が、図8に示す漢代の司南と呼ばれる方位磁石である。その名のとおり、常に南を示すようになっている。
スプーンの形をしたものが方位磁石で、柄の先端がS極である。
地盤は内側から、八干(戌・巳を欠く)・八卦、十二支、二十八宿である。
スプーンの柄の下には、八卦の離、十二支の午、二十八宿の星宿が隠れている。
また、スプーンが置かれている東西南北の中央は、五行説の「土」にあたる。

 
  図8A 漢代司南(Wikipedia「式占」)

 
図8B 二十八宿の地上表現
    上図の模写図 漢司南與地盤復原図(文献7)
    方位 東:卯 南:午 西:酉 北:子 中央:土

図7の天上表現と図8の地上表現と比較すると、図7の二十八宿の表記順は右回りに
「角亢氐房心尾箕斗牛女虚危室壁奎婁胃昴畢觜参井鬼柳星張翼軫」であったが、
図8においては、それが左回りに逆転していることがわかる。この回転方向こそが本質的である。
ここで、二十八宿の天上表現と地上表現の天文学的意義を下図の天球説明図を使って解説しよう。


図9 天球説明図 赤道座標系と地平座標系(HP5に追記)
    斗:天の北極 土:方位の基点→天の南極
     (注)方位Aは本図では北を0°として東回りとなっているが、
        ステラナビゲータのように南を0°として西回りとするものもある。

図9において、赤道座標系は赤経αと赤緯δによって天球全体を表し、
地平座標系は方位Aと高度hによって天球の上半分を表している。
天球の下半分は地下となり、そこには天の北極に対応する天の南極がある。(図17B参照)
今、天の南極から天の北極をながめたとするならば、
星空は天の北極(北極星)を中心に反時計回りに回転していることがわかる。
このとき方位の表記順は地上の回転とは逆になっていることに留意すべきである。
 (注)BC169年においては、北極星の位置はα:23h4m45s δ:78°00′の位置にあり、
    厳密には天の北極とはずれているが、本稿では表現上、天の北極と北極星を同一のものとして取り扱った。
例えば、図7と図8を対比すると、地上においては東南西北の表記順は右回りであるが、
北極星を中心とした星空においては左回りとなる。
つまり、天上表現は天の北極を中心にした表現であり、地上表現は天の南極を中心にした表現である。

ここで二十八宿の天上表現と地上表現を、図9において以下のように定義する。

基準となる二十八宿の文字列
 角亢氐房心尾箕斗牛女虚危室壁奎婁胃昴畢觜参井鬼柳星張翼軫
基準となる方位の文字列
 東南西北

二十八宿の天上表現:回転の中心は天の北極
 北極星をみて回転の中心を天の北極に置いた見方
 基準となる表記順 二十八宿:右回り 方位:左回り

二十八宿の地上表現:回転の中心は天の南極
 天の南極を想定して回転の中心を天の南極に置いた見方
 基準となる表記順 二十八宿:左回り 方位:右回り

・二十八宿の回転運動の方向は表記順の逆である。
・方位は地上の座標系で、天上表現の方位はその照合である。
・天上表現と地上表現は反転関係にある。

 本来、星空の回転に右も左もない。それを決定するのは人間である。
そのためには、共通の視座が必要である。それが回転の中心である。
中心を天の北極に置くか南極に置くかは、人間の二種類の見方にすぎない。
これは根源的には、地球の自転に対する二つの表現方法に帰着する。
地球の自転方向が変わらない限り、星空が東から西に移動する姿は不変である。
図1のような表現は、北極星を中心に星空が回転しているという天文原理の展開によるものである。
現実として、図1の曾侯乙墓出土漆画のように
北極星を見つめながら二十八宿のすべてを見ることはできない。
赤緯がマイナスの星座(氐房心尾箕斗牛女虚危参星張翼軫)は、
図9に示されるように北側半分の空に現れることはないからである。
すべての二十八宿は、太陽と同じように南の子午線を通過する。
方位は座標軸に相当するもので、地上表現においては太陽の運行に従った東南西北となり、
天上表現においてはその逆となる。
また、方位は地上に属するもので、数学的には地球という球体の接平面に存在する。
その接点は「土」であり、これは天文学的には地球の中心に収斂する。(図8,9参照)
即ち、「土」とは地球の中心であり方位を持った点である。
天上の方位は地上の方位の合わせこみであり、そのため方位は反転する。
正距方位図法において、方位を有した地平面は、天上表現においては星空の外側(図10の白い部分)に、
地上表現においては星空の内側(図12C黄色の部分)に存在する。

(注)南半球における天球説明図
図9の天球説明図は北半球を対象としたものであるが、下記の入替にて南半球の説明図としても使える。
 ①方位を180°回転させる。 ②天の北極を天の南極とする。
方位は地上に固定されているので、南半球においても東南西北の表記順:右回りは不動である。
従って、それに対応する天上表現における東南西北の表記順:左回りも不動である。
図9において、上記の入替をおこなうと南に天の南極が位置することになる。
従って、星空は天の南極を中心に右回転し、太陽は北の空を左回転することになる。
いずれにせよ、星や太陽が東から出て西に沈むことに変わりはない。


5 天上表現された星座早見盤
 図1の曾侯乙墓出土漆画は象徴化されており、象徴にはその原型となるものが存在する。
曾侯乙墓出土漆画において、それは星空の回転に関する天文原理であろう。
これを視覚的にわかりやすく表現したものに星座早見盤がある。
ここでは、当時の天文観をイメージ化した説明手段として用いているので、
星座早見盤の考古学上の有無とは無関係であることをお断りしておく。

そのため、まず古代の星座早見盤検討の予備段階として市販の星座早見盤(図10)をとりあげる。
星座早見盤の下の金属の皿を星座盤、上のセルロイドのカバーを時刻盤と呼ぶ。
太陽は黄道を一年で公転するので、黄道の位置は365日に対応する。
星座盤の外周に刻まれた月日は北極星と黄道の各位置を結んだ子午線上に求められ、
目盛は時計回りとなる。
黄道は楕円軌道であるためケプラーの第二法則により太陽の角速度は変化する。
一年365日を春分点と秋分点で二分割すると、近日点のある冬至側は179日、
遠日点のある夏至側は186日となっている。
このため平等目盛として刻まれた月日と、太陽の黄道上の位置とに若干の差異が生じる。
太陽が南中する時刻は視太陽時においては12時であるから、
星座の日周運動は時刻盤をずらすことによって得られる。
均時差は中心差(ケプラー運動によるもの)が最大7分、
赤道引き直し(黄道座標と赤道座標の差分によるもの)が最大10分で、単純合計で17分である。
星座は1時間に15度の割合で反時計回りに回転するから、
13時の星座を見るためには星座盤をさらに1時間分(15度分)反時計回りに回転させる必要がある。
ところが、星座早見盤は時刻盤を回転する構造になっているので時刻盤は時計回りの回転となる。
従って時刻盤の目盛は、反時計回りに増大してゆくことがわかる。
時間軸の目盛は、星座盤の月日が時計回りで、時刻盤は反時計回りである。
この関係が重要である。

ここで時刻盤にある楕円状の窓に注目しよう。(図10参照)
これは地上座標系を赤道座標系に変換して得られるもので、星空の可視範囲と地平線を示している。
図17における上半分の星空が可視範囲である。
星座盤の二十八宿の表記順の回転方向は右回りである。
また、方位の表記順(東南西北)の回転方向は左回りである。
従って、星座早見盤は定義により天上表現である。
このため、星座早見盤は、傘を差すように時刻盤の天頂を頭上に置き、
窓の外周の方位に合わせて星空を観察することがわかる。
傘の石突きにあたる星座盤の回転軸を北極星に向ければ天頂が頭上にくるので、
傘差し型の星座早見盤と呼べる。(図9参照)


図10 天上表現された傘差し型星座早見盤
    (北緯35°・東経135° 兵庫県立西はりま天文台監修)
    春分の日2000年3月20日午前2時25分頃の星空
    子午線上に大角(アルクトゥルス)、西の黄道上に角宿(スピカ)が輝く。
     星座盤:下の金属の皿、外周の月日の目盛は時計回り。
     時刻盤:上のセルロイドのカバー、時刻目盛は反時計回り。
          東南西北の表記順が左回りとなっていることに注目。


6 前漢汝陰侯墓出土六壬式盤
 星座早見盤の要素を濃厚に含んだものとして占いに用いられる六壬式盤(りくじんしょくばん)が挙げられる。
式盤(図11B参照)において、天盤の二十八宿の表記順の回転方向は左回りである。
また、地盤の方位の表記順:卯(東)・午(南)・酉(西)・子(北)の回転方向は右回りである。
従って定義により、式盤は地上表現であり回転軸は天の南極である。
このことから、式盤は地上に置いて使用するものであることがわかる。
地盤の十二支は方位とともに時刻も表していることは式盤の大きな特色である。
もし天盤に星々を正しく配置するならば、据え置き型の星座早見盤を作ることができる。

図11Aは、「土斗戊」の文字がある前漢汝陰侯墓(じょいんこうぼ)出土六壬式盤(りくじんしょくばん)である。
その六壬式盤は円形の天盤(直径9.3cm)と方形の地盤(一辺の長さ13.5cm)から成る。(文献4) 
六壬式盤は占いの器具である。
式盤で占うときには、地盤の鬼門が左手にくるように使うため、午(南)の方位が上になる。(図11B)
『金匱経(きんききょう)』には「式盤を用いるに、常に左手を以って鬼門を執り、右手をもて月将を転ず」とある。(文献9)

  天盤の中央に裏向きに描かれた北斗七星、
周りには左回りに二十八宿が描かれ、
そのうちの十二宿に正から十二までの数字が記されている。
これは後に月将と呼ばれる正月から十二月までの月を表している。
天盤は二十八宿が均等に配置されているが、
もちろん実際とはずれている。(詳細は図12A参照)
地盤は三つの区域に分けられ、
天盤のすぐ外の区域は十干が東の甲乙にはじまって
右回りに丙丁・庚辛・壬発と書きこまれている。
そして、北西には「天豦己」、南東には「土斗戊」、
南西には「入日己」、北東には「鬼月戊」と書かれている。
これはのちの天門・地戸・人門・鬼門にあたる。(文献8)
さらにその外側には、十二支が四方に三つずつ、
北方の亥・子・丑からはじまって右回りに描かれる。
そして、外周には二十八宿が角から左回りに書きこまれている。
 図11A 前漢汝陰侯墓出土六壬式盤(文献8)  


図11B 前漢汝陰侯墓出土六壬式盤(解説図)(文献9)
 使用法 星空は一日に1回転するので、その出現時刻だけが変化する。
      天盤の月日を地盤の時刻(十二支)に合わせると南(午)の空に二十八宿の星空が展開する。
      下半分は地平線の下になる。(詳細 図12C参照)
      例えば、図において天盤の婁宿(春分の日)を酉(18時)の位置に合わせると、
      南(午)の空の中央東(卯)よりに鬼宿が現れる。
      これは、天盤の牛宿(冬至の日)を子(0時)の位置に置いた時とほぼ同一の結果を得る。

ここで注目したいことは、四維(しい)に書き込まれた「天豦己」「土斗戊」「入日己」「鬼月戊」の文字である。
各文字列の最後の「己」「戊」「己」「戊」は、五行十干の土の配当で、
12の区分に割り当てるため「戊」と「己」を二回使用している。
「天(てん)豦(きょ)己(き)」の天は天門であるが、豦(きょ)はわかりにくい。
しかし、他が斗・日・月で天体であることから、漢和辞典(文献10)で調べて行くと
豦(きょ)→豕(し)(豕韋(しい))→營室(えいしつ)とつながり、二十八宿の室であることがわかった。
『春秋左氏伝』昭公十一年春の記述にも「歳在豕韋」とある。(文献11)
図11 の天盤を見ると室は正月とあることから、ステラナビゲータで立春の日を見ると、
「立春(BC169)暦2月7日(旧暦BC170年12月16日)阜陽市」において、
太陽南中時の室宿が時角-2°の位置にあることが判明した。 
これは、太初暦(BC104)が成立する前の顓頊暦(せんぎょくれき)における立春正月の実施例といえる。
尚、室宿が子午線上に正確に南中する年は、暦BC310 年2月8日(旧暦BC311 年12月19日)であった。
これは汝陰侯墓築造の141年前にあたる。
 星宿初度に着目して、年代順に並べると次のようになる。
その星空は、おおまかには図12Aの天盤を使って知ることができる。
 冬至の年代 牛宿初度 BC452年頃 天盤の星だけを時計回りに4°回転
 立春の年代 室宿初度 BC310年頃 天盤の星だけを時計回りに2°回転
 春分の年代 婁宿初度 BC169年頃 天盤通り

天盤上に表記された正月~十二はむろん朔望月ではなく、
『淮南子(えなんじ)』等に見られる歳星紀年法などを参考に配置したものであろう。(文献12) 
1ヶ月を星宿2宿と星宿3宿で構成し、2宿×8ヶ月+3宿×4ヶ月=28宿で一年としたものである。
後に述べるように、占いには対称性が必要とされるため、天盤上の二十八宿は均等配置とならざるを得ず、
ここから天文学的な整合性を求めることは困難である。

「土斗戊」の「土斗」は図1曾侯乙墓出土漆箱に描かれたものと同じ物と推定される。
「土斗」の「斗」は北斗であるが、「土」が問題である。
しかし、他が天門・人門・鬼門にあたることから、土門と推定される。
「入日己」の入は人門で、日は太陽。「鬼月戊」の鬼は鬼門で、月は文字通り月である。
漢四門方鏡では天門・出門・入門・鬼門となっており(文献7)、地戸には出門と土門、
人門には入門の別の表記があったことがわかる。


7 地上表現された据置き型二十八宿早見盤の設計
 式盤は古代の天文観や五行説を融合した占具であるが、
それらは占具しての機能を果たすためにかなり形式化されている。
形式化されたものは、その原像を示すことによって紐解かれる。
つまり、曾候乙墓出土漆箱二十八宿の図像解釈は、
古代の星座早見盤を復元することによって明らかとなる。
図12の二十八宿早見盤は、原理的には図10の星座早見盤の回転軸を、天の南極に切り替えたものである。
その作成要領のポイントを下記に示す。

<作成要領>
年代:紀元前169 年(汝陰侯墓六壬式盤)  地域:北緯32.9°(中国阜陽市)

二十八宿の距星の赤経α,赤緯δ(表7参照)

月日目盛:二十四節気の八節が
汝陰侯墓同時出土の太一九宮(たいいつきゅうきゅう)盤に表示(文献9)されていることから、
太陽暦の月日目盛に相当するものとして八節を採用。
黄道座標から赤道座標へ変換においては、四立(しりゅう)において2.5°の差異が生じる。

   表6 紀元前169年 八節の暦・太陽黄経・赤経対応表    
八節  太陽黄経   赤経
春分   3月24日    
立夏    5月10日   45°    42.5° 
夏至    6月26日   90°  90° 
立秋    8月12日  135°    137.5° 
秋分   9月26日 180° 180°
立冬  11月10日 225°  222.5°
冬至 12月24日 270° 270°
立春 2月7日 315°   317.5°

(注)暦はステラナビゲータによる。
   太陽黄経と赤経の換算式 tanα=cos23.4°・tanλ(α:赤経 λ:太陽黄経)

星座盤 
天の南極を中心とした正距方位図法で表現 対蹠地(たいせきち)は天の北極
天の赤道の半径を球面三角法により90°と定める。
春分点を基点にして、二十八宿の表記順を左回りとする。
 星の座標(赤経α,赤緯δ)の表示
   x= (90+δ) ・ sinα    y=- (90+δ) ・cosα

地盤
地平線・方位線・等高線を下式 より求める。(図9参照)
時角Hは、天の北極と天頂を結ぶ線を基準にして時計回りとする。(図9参照)
  sinδ= sinφ・sinh+ cosφ・cosh・cosA  
  cosH=( cosφ・sinh- sinφ・cosh・cosA) / cosδ
      x= (90+δ) ・ sinH    y= (90+δ) ・cosH
  地平線(h=0) tanδ=-cosH / tanφ  子午線上(A=180°) y=φ+h

   表7 紀元前169年の二十八宿の赤経と赤緯(ステラナビゲータ)    
  星宿名    距星    赤経α   赤緯δ
 h  m  α°      δ°
  1 角(かく)  αVir  11  34   173.50  00   46   0.77
  2 亢(こう)  κVir   12   21   185.25   01  04   1.07
  3 氐(てい)  αLib  12  56   194.00  -05   26   -5.43
  4 房(ぼう)  πSco   13   55   208.75   -17   28  -17.47
  5 心(しん)  σSco  14   16   214.00  -17   47   -17.78
  6 尾(び)  μSco   14  34   218.50  -31   14   -31.23
  7 箕(き)    γSgr  15   50   237.50   -27   04   -27.08
  8 斗(と)  φSgr   16   31   247.75  -25   50   -25.83
  9 牛(ぎゅう)  βCap  18   16  274.00  -18   50  -18.83
 10 女(じょ)  εAqr  18   48  282.00  -14   55  -14.90
 11 虚(きょ)  βAqr   19  35  293.75   -13   01  -13.00
 12 危(き)  αAqr   20  12   303.00  -09   08  -9.13
 13 室(しつ)   αPeg   21   18   319.50   04   33   4.55
 14 壁(へき)  γPeg   22   24   336.00   03   23   3.38
 15 奎(けい)  ηAnd   23   06   346.50   11   25   11.42
 16 婁(ろう)  βAri   00   00   0.00   09  14   9.23
 17 胃(い)   35Ari   00   44   11.00   16   54   16.90
 18 昴(ぼう)   17Tau   01   43   25.75   15   03   15.05
 19 畢(ひつ)  εTau   02   27   36.75   11   46   11.77
 20 觜(し)  λOri   03   38  54.50   05   38   5.63
 21 参(しん)  δOri   03   43   55.75  -04   33 -4.55
 22 井(せい)  μGem   04  13   63.25   20   23   20.38
 23 鬼(き)  θCnc   06   24   96.00   22   36   22.60
 24 柳(りゅう)  δHya   06   41   100.25  10   44   10.73
 25 星(せい)  αHya  07   40   115.00   -1   12  -1.20
 26 張(ちょう)  υHya   08  07   121.75   -6   23   -6.38
 27 翼(よく)  αCrt   09  14  138.50  -7  43  -7.72
 28 軫(しん)  γCrv   10  27   156.75  -5   43  -5.72

(注)二十八宿の詳細については「古代中国の星座たち」(HP6)がわかりやすい。


図12A 天盤の設計 中央の円は天の赤道 赤緯はプラスが外側、マイナスが内側
               八節と暦の対応については表6参照

図12Bには二つの天頂がある。
一つは地面の上(頭上)にあり、もう一つは地面の下(足下)にある。
二つの天頂を結ぶ線は星座盤の回転軸(地軸)と交わり、
東西は天の赤道と交わる。(図17B参照)
図12Cの二十八宿早見盤と図10の星座早見盤を比較すると、
地平線を境界として天地が反転していることがわかる。
地平面は二つの天頂を両極とする天球を二分する。
南側の子午線上の地平線の位置は緯度φに等しく、
地平面の南北間の距離は180°である。
等高線は、h<φの時は地平面を囲い、h>φの時は天頂を囲う。


  図12B 地盤の設計 地平線・方位線・等高線・天の赤道の概念図

これを図10の傘差し型星座早見盤と比較すると以下のような相違点が挙げられる。
 ①天盤(星座盤)の回転の中心が天の南極
 ②星座早見盤座は、据え置き型
 ③二十八宿(角~軫)の表記順は左回り
 ④月日目盛は左回りで、時刻目盛(子~亥)は右回り
 ⑤地平線の図形が回転の中心において点対称
   (注)天球を二つに分割する地平線は、
      天の南極と天の北極と中心とする正距方位図において、点対称の図形となる。(図9参照)
 ⑥傘差し型星座早見盤においては、北の空の表現は良好であるが、南の空は方位線が著しく変形しているために違和感がある。
  一方、据置き型二十八宿早見盤においては、南の空の表現は良好であるが、北の空は
  対蹠地(たいせきち)が存在するため表現ができない。
 ⑦傘差し型星座早見盤においては、北の空における天の北極を中心とする星空の左回転運動がリアルに表現できるが、
  南の空はリアルに表現できない。
  これに対し、据置き型二十八宿早見盤においては、南の空における二十八宿の右回転運動がリアルに表現できる。

 基本的に北の空と南の空を一枚の星座早見盤で表現するのは無理があり、
星空の観望は、傘差し型は北の空、据え置き型は南の空に分けて運用するのが望ましい。

 
図12C 地上表現された据置き型二十八宿早見盤(図12Aと図12Bを組み合わせたもの)
     紀元前169年 春分の日の午前0時の星空(星宿の詳細は図12A参照)

図9,17を見れば、天の北極と天の南極を結ぶ軸(地軸)が、「土」を貫いていることがわかる。
図1の曾侯乙墓出土漆画おいては、天の北極は「斗」、天の南極は「土」して表現されている。
天の南極が「土」となるのは、図9,17にみられるように天の南極が「土」の下にあるからである。
また「曾侯乙墓衣箱上の宇宙図式」(文献5)によれば、衣箱の四面に描かれた四方神を、
東方の神は「芒(ぼう)」、南方の神は「且(しゃ)」、西方の神は「弇(えん)」、北方の神は「玄冥(げんめい)」としている。
ここで注目したいのは、北方の神が黒一色に塗りつぶされていることである。
このことは、図12Cの星座早見盤において「子(北)」の部分が地下にあることと符合している。

図13 は図12Cの据置き型二十八宿早見盤を、ステラナビゲータで検証したものである。


図13 据置き型二十八宿早見盤(図12C)のステラナビゲータによる検証結果
    春分 暦BC169年3月24日(旧暦2月3日)阜陽市 午前0時の星空
     赤線:赤道座標の経線・緯線(赤経の目盛は1h単位、赤緯の目盛は10°単位)
     青線:地平座標の高度・方位線(目盛は共に10°単位)、
     東西を結ぶ太い円弧は赤道、黄色い曲線は黄道、中央南の縦の太い線は子午線
     秋分点と子午線のズレは、恒星時(赤経)と視太陽時の差によるもので、春分の日0時においては4分以内である。
     角宿と亢宿が子午線の両側にあり、東南東の地平線から箕宿と斗宿が上がり始めている。
     (注)西暦100年(『説文解字』成立)の春分の日の星空は、約1/4目盛(15m・4°)左(東)側に移動。
        阜陽市と洛陽市の緯度の影響は微少。


8 曾候乙墓出土漆画に見られる二十八宿の表現
 図1の青龍と麒麟の回転方向は星宿とは逆である。
ここで図1の青龍と麒麟に一年を配当しよう。
図1を見れば、角宿を先頭に車宿(軫宿)までが連なって描かれており、
角宿と車宿の間にかなりのスペースがあることから、
角宿から東縈(壁宿)、圭宿(奎宿)から車宿(軫宿)に二分割されることがわかる。
ここで図1の青龍と麒麟をそのまま図11Bの六壬式盤に方位(卯は東、酉は西)に合わせて貼り付けてみよう。
そうすると、青龍の頭に角、尾に壁、麒麟の頭に奎、尾に軫がくることがわかる。(図14参照)

図14 東(卯)に青龍、西(酉)に麒麟を配置した六壬式盤
    青龍(頭→尾)角亢氐房心尾箕斗牛女虚危室壁
    麒麟(頭→尾)奎婁胃昴畢觜参井鬼柳星張翼軫

特に、二十八宿の第一宿の角宿は東方を守る青龍の角と言われてきた。
これによって、角が与えられたのである。
今ここで、北極星の輝く方向に向けて図14の式盤の子(北)を合わせ、
そのまま北の子午線に沿って上空の北極星に中心軸を重ねれば、
図1の曾侯乙墓出土漆箱の二十八宿図と同じものになることがわかる。
天上表現の「斗」と地上表現の「土」がここに合体したのである。
天上表現は『天官書』の示すごとく支配者の世界であり、地上表現はその外縁に広がる民衆の世界である。

五行説によれば、北は「水」で「伏す」「地下」の意がある。(『漢書律暦志』)(文献13)
水は壬(水の兄)であり、六壬の名は六十干支に六つの壬が含まれていることに由来する。(文献8)
また「水」は、渾天説の宇宙構造にも如実に示されている。(図17A参照)
ここで想起されるのは『説文解字』の次の文言である。
「龍は鱗ある生き物の長、春分の日に天に昇り、秋分の日に淵に潜る」
曾侯乙墓出土漆画においては青龍・麒麟の二神であるが、後世には青龍・玄武・白虎・朱雀の四神が定着した。(図7参照)
つまり、『説文解字』の青龍は「角亢氐房心尾箕」であり、図14の青龍の上半身に該当する。
古くから角宿は青龍の角、亢宿は青龍の首とされている。(文献14)
図12Cから婁宿が南中する春分の日の午前0時には、
子午線は角宿と亢宿の中間、即ち龍の頭にあることがわかる。
つまり、春分の日の午前0時に青龍が南から南東にかけて完全な形で展開していることがわかる。
これが「春分の日に天に昇る」の意味であろう。(図13参照)
また、「秋分の日に淵に潜る」とは、その時に青龍が地の底(北・淵)に伏すことを意味しているのであろう。
これらは、青龍の上半身(角~箕)に着目して
図12Cの二十八宿早見盤を回転することによって視覚的に確認される。
ここで、『説文解字』における歳差運動の影響を検討しよう。
年代が新しくなるにつれて午前0時における青龍の位置は北の大地に沈み込むようになる。
そのため、青龍の尾にあたる箕宿の位置が重要となる。
そこで、『説文解字』が成立した西暦100年の星空をステラナビゲータで求めると、
春分(AD100)暦3月22日(旧暦2月24日)洛陽 午前0時における箕宿は
南東の方向、高度4.7°の位置にあることがわかる。(図13(注)参照)
これは、図12Cの二十八宿早見盤を4°左に回転させることに相当する。
このことから、『説文解字』の春分の日の午前0時の星空は、青龍の頭部が南中し、
亢から氐房心尾箕の星宿が南東にかけて広がっていたものと想像される。


9 六壬式盤の祖型
 六壬式盤は、天文学的な知見をベースとしていることから、
その祖型として星座早見盤のようなものが想定される。
それが前漢汝陰侯墓出土六壬式盤と同時に出土した円儀である。(図15)
これは、二十八宿の配置が実際に近いことから、式盤でなく天文観測機器と考えられている。
度数は『大唐開元占経』みえる劉向『洪範論』の古度にほぼ一致する。(文献9)
注目すべきは、天盤の中央に北斗七星が裏向けに描かれ、地盤の二十八宿の表記順が左回りとなっていることである。
これは、天球の外側から北斗七星を通して南極を見た図であり、地上表現の典型と言って良いであろう。
これらから、六壬式盤の地上表現は南の空の天文観測から生まれたものと推定される。


図15 前漢汝陰侯墓出土六壬式盤と同時に出土した円儀(文献4)
   1 下盤(左)外径25.6cm 分かりづらいが、外周には二十八宿が左回りに記載されている。
   2 上盤(右)外径23.0cm 中央には、北斗七星が裏向けに描かれている。
 
ここで、六壬式盤の占い方について触れておこう。
六壬式盤の占い方の本質については文献9の解説が明快であるが、
具体的には「大六壬と四柱推命のページ」(HP7)がわかりやすい。
六壬式盤の占い方は、日の干支を恒星と太陽の位置関係から導かれる引数で処理したもので、
二十八宿のかかわりは薄くかなり形骸化している。
占いにあたっても、必ずしも式盤を必要としない。例をあげて、少し説明しよう。
図16は漢代の朝鮮楽浪郡王盱墓(おうくぼ)内北室(石巌里(せきがんり)205号墳)で発見された式盤の復元図である。
中央には北斗七星が描かれている。
その外側には正月から十二月に対応する十二月将の名が書かれている。
さらにその外側の十二支は十二月将を示すもので月将支と呼ばれる。
十二支の間には、五行説に従い十干が配当されている。(戊と己は四維に重複使用)
その外側の二つの円帯には何の記載もないが、
発掘者の所見によれば「墨書の痕跡はあるが磨滅甚だしく判読不能」とある。(文献15)


図16 占具としての様式化の進んだ六壬式盤(文献15)
    天盤 径9㎝(円形) 地盤 13.7cm(正方形)

ここで、図11の汝陰侯墓出土六壬式盤と図17の王盱墓出土六壬式盤を比較すると、
かつては単なる正月から十二月であったものが、十二支・十二月将に置き換えられており、
占具としての様式化が進展していることがわかる。
さらに、十二月将の配置が30°間隔の均等配置になっていることがわかる。
実は、この均等配置こそが式盤が備えるべき条件であることは、次の占い方を見ればわかる。
また占いにあたって式盤の子を下にするのは、はっきりした天文学的理由がある。
図12Cの二十八宿早見盤は、子の方位に大地、午の方位に星空がある。
これからも、式盤のルーツが星座早見盤にあることがわかる。

<占い方>
ここでは、六壬式盤の動作原理のみに着目したい。
まず、占う時刻(占時)からスタートする。
次に、該当する月の月将支を選定し、天盤にあるその月将支を地盤の時刻にあわせる。
図16天盤の十二神古名と二十四節気の対応関係を、
『漢書』律暦志と『晋書』天文志より求めた結果を下表に示す。(HP8)

     表8 六壬天盤(図16)の十二神・月将支と二十四節気の関係
 十二神古名
『唐六典』巻十四
月将支
十二辰
  十二次   二十四節気  2017年暦
月の開始日
 
節月   節気・中気
 神後(后)(しんこう) 玄枵(げんきょう) 十二月   小寒・大寒   1月5日
 大吉(だいきち) 丑(醜) 星紀(せいき) 十一月   大雪・冬至   12月7日
 功曹(こうそう) 析木(せきぼく) 十月   立冬・小雪   11月7日
 太衝(たいしょう) 大火(たいか) 九月   寒露・霜降   10月8日
 天閏(てんじゅん) 寿星(じゅせい) 八月   白露・秋分    9月7日
 太卜(たいぼく) 鶉尾(じゅんび) 七月   立秋・処暑    8月7日
 勝光(しょうこう) 鶉火(じゅんか) 六月   小暑・大暑    7月7日
 小吉(しょうきち) 鶉首(じゅんしゅ) 五月   芒種・夏至    6月5日
 傳送(でんそう)   実沈(じっちん) 四月   立夏・小満   5月5日
 従魁(じゅかい) 大梁(たいりょう) 三月   清明・穀雨    4月4日
 天魁(てんかい) 降婁(こうろう) 二月   啓蟄・春分    3月5日
 登明(とうめい) 娵訾(しゅし) 正月   立春・雨水   2月4日

(注)『漢書』では雨水と啓蟄、清明と穀雨が入れ替わっているが、現在のものとした。

初期条件を図16(天盤と地盤の十二支にずれのない状態)として、
ここから天盤の動いた左回りの角度を30°で除した0~11の整数が引数となる。(十二支は30°ステップ)
例えば、12月酉の刻であれば、天盤の子を地盤の酉にあわせればよい。
この時の移動角度は左回りに90°であるから、引数は3となる。
引数0は天盤の移動のない時で、天盤と地盤の支が同一である「伏吟」として占う。
それに日の干支をからめて、四課三伝(しかさんでん)の演算を行う。
占い方を見れば、二十八宿の存在意義はあまりなく、式盤を必ずしも必要としない。
このため「袖占一課」と呼ばれる
手の指の部位を十二支に置き換えて占いを行う手算式のものがある。(文献8)
以上のことから、占具として月将支は30°間隔に正しく配置されなければならない。
尚、図11の六壬式盤については、月は不均等配置であるが、
二十八宿が均等配置なので占い方は不明であるが占具としては成立する。
つまり、天文儀器が占い用に様式化していったものが六壬式盤であり、
曾侯乙墓出土漆画は天文儀器に表象される当時の天文学的・宗教的な思想の発露であったと思われる。

 一方、図15の前漢汝陰侯墓出土の円儀は、
さらに発展して後漢には張衡(ちょうこう)の渾象(こんしょう)に至る。
それは、内外規・南北極・赤道・黄道をそなえ、
二十四節気と二十八宿を中心とする星々や諸惑星を配列したもので、
漏刻の水によって回転させるものであった。
これに関して、『晋書 天文志』に王蕃(おうばん)による渾天説の詳しい解説がある。(文献13)(HP8) 
それを長々と引用するよりも、次の図解を見れば一目瞭然である。(文献16)

 
 図17A 渾天説の宇宙構造  図17B 渾天説による天体の運行図

 図17Aは渾天説の宇宙構造を示している。
天の下には水があり、球状の殻が水に浮かんでいる。殻の中の下半分はやはり水で満たされていて、方形の大地が水の上に浮いている。
そして、殻が北極を中心にして大地の周りを回転している。
図17Bは渾天説による天体の運行図である。
これを図9の現代の天球説明図と比較すると、それがまったく同じものであることがわかる。
ここには、北極と南極を中心とする星座早見盤の作成にあたって必要な要素がすべてそろっている。
このことを逆に考えれば、渾象の源流にそれらが存在していたことが予想される。
 その後、渾象はたびたび製作され、北宋に至り水運儀象台に結実する。(1092年完成)
これについては、蘇頌(そしょう)の『新儀象法要』に詳細な記述があるが、
その中に渾象に描いた星を平面図に展開した挿図がある。(HP9)
図18,19はその一部で、図18は天の北極、図19は天の南極を中心とした星図である。
これを図10の傘差し型星座早見盤と図12Cの据置き型二十八宿早見盤に対比させると味わい深いものがある。
図18,19の外周には、角から軫の二十八宿が記載されていて、その表記順は北極図が右回りで南極図が左回りとなっている。
そして、南極図の中央の白い円は、図12Cの地平面の下に隠れた図17Bの南極の外規を表現している。


図18 蘇頌の星図 渾象北極図 二十八宿(角~軫)の表記順は右回り(文献17)



図19 蘇頌の星図 渾象南極図 二十八宿(角~軫)の表記順は左回り(文献17)


10 起宿 角
 角宿は、なにゆえ起宿となりえたのか。
角宿の距星は、おとめ座α星(スピカ)である。
スピカが秋分点に近い一等星であるなど様々な理由が考えられるが、
私はこれらに加えて大角(たいかく)に着目したい。


図20 春の宵の空で東の空にのぼりはじめた春の大曲線(文献18)

中国では大角は星一つからなる星座で、うしかい座α星(アルクトゥルス)に該当し、
これも龍の角とされている。(文献14)
大角は、『史記 天官書』や『漢書 天文志』にも記載のある古くから知られた星である。
図1曾侯乙墓出土漆画を見ると、角宿が二十八宿の先頭に描かれている。
北斗の柄は北極星を中心に日に1回転し、季節や月を示す天の大時計の指針(斗建)として知られている。
そして、角宿はその指針(揺光)の方角にあることから、角宿が起宿となるのは自然である。
北斗七星の柄のカーブを延長すると、大角(アルクトゥルス)から角宿(スピカ)へとどく大きなカーブが描ける。(図20参照)
これが一般に春の大曲線と呼ばれているもので、北斗七星が大角を介して角宿を牽引しているように見える。
我が国でも、大角と角宿は夫婦星として親しまれている。
春の宵の空で東の空にのぼりはじめた大角と角宿こそ、
春秋戦国時代の人々が思い描いた龍の登ってゆく姿なのではないだろうか。


11 まとめ
①曾候乙墓出土漆画は、二十八宿の回転に関する天文原理を二種類の方法で
 同時に象徴的に表現したものである。
 二種類の方法とは、二十八宿の回転の中心を天の北極においた見方(天上表現)と
 天の南極においた見方(地上表現)である。
②二十八宿の天上表現と地上表現は以下のように定義される。
 基準となる二十八宿と方位の文字列を、二十八宿:角~軫、方位:東南西北とすると時、
 基準となる文字列の表記順は、天上表現の二十八宿は右回り・方位は左回り、
 地上表現の二十八宿は左回り・方位は右回りとなる。
③曾候乙墓出土漆画において、「斗」は天の北極を表象し、
 二十八宿(角~軫)の表記順は、右回りであるため天上表現である。
 一方、「土」は天の南極を表象し、青龍の頭から尾は角~壁、麒麟の頭から尾は奎~軫を象徴するため、
 二十八宿の表記順は左回りとなり、地上表現となる。
 曾候乙墓出土漆画の地上表現は、青龍を東に麒麟を西に配置し、
 二十八宿が右に回る様子を描いたものである。
④六壬式盤は、二十八宿の星座早見盤が占い用に変化したものであり、
 回転軸は天の北極ではなく天の南極である。
 また「曾侯乙墓衣箱上の宇宙図式」によれば、衣箱の四面に描かれた四方神を、
 東方の神は「芒(ぼう)」、南方の神は「且(しゃ)」、西方の神は「弇(えん)」、
 北方の神は「玄冥(げんめい)」としている。
 北方の神は黒一色に塗りつぶされていて、
 星座早見盤の「子(北)」の部分が地下にあることと符合している。
⑤『説文解字』に「龍は春分の日に天に昇り、秋分の日に淵に潜る」とは、春分の日の
 午前0時に青龍の頭部が南中し、亢から氐房心尾箕の星宿が南東にかけて
 広がっている星空であると想像される。
 淵とは五行説や渾天説の水を意味する。


参考文献
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9『制作する行為としての技術』p190~193,p196~201,p205~212 山田慶兒 朝日新聞社 1991
10『大漢和辞典』10巻p664,654 7巻p542 諸橋徹次 大修館書店 1985
  『廣雅疎證』巻九上「營室謂之豕韋」p1093 台湾商務印書館 1968
11『春秋左氏伝』三 新釈漢文大系32 p1362 鎌田正 明治書院 1994
12『淮南子(えなんじ)』中 新釈漢文大系55 p137~141 楠山春樹 明治書院 1996
13『世界の名著 続1 中国の科学』p179,p236~240 藪内清編 中央公論社 1975
14『中国の星座の歴史』大崎正次 p145,152,168,186 雄山閣1987
15『日本陰陽道史総説』村山修一 p117~118 塙書房 1981
  『楽浪』p60~62 図版112,32 東京帝国大学文学部 刀江書院 1930
16『日本人の宇宙観』p22~24 荒川紘 紀伊國屋書店 2001
17『新天文学講座1 星座』 p133~137 野尻抱影 恒星社厚生閣 1964
18『全天星座百科』p218 藤井旭 河出書房新社 2013


参考サイト
HP1「キトラ古墳壁画「四神図」古代絵師の力量」http://s.webry.info/sp/yoi-art.at.webry.info/201405/article_1.html
   「キトラ天文図」http://blogs.yahoo.co.jp/nagurikann05/63254028.html
HP2「歳差による星の位置変化」http://fnorio.com/0100precession0/precession0.html
HP3「土匀瓶 百度百科」http://baike.baidu.com/view/6679754.htm
   「太原检选到土匀錍」http://www.nssd.org/articles/article_detail.aspx?id=1002404604
   「释“錍”字」http://www.nssd.org/articles/article_detail.aspx?id=1002786968
HP4「中国滇南派风水的博客」http://blog.sina.com.cn/s/blog_b2f2b15c010153th.html
HP5「恒星時について - 国立天文台暦計算室」http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/topics/html/topics2015.html
HP6「古代中国の星座たち」http://www.ne.jp/asahi/stellar/scenes/china28/index.html#list
HP7「大六壬と四柱推命のページ」http://www.t3.rim.or.jp/~hiroto/ftnmain.html
HP8「漢書: 志: 律曆志- 中國哲學書電子化計劃」律曆志下126-138 http://ctext.org/han-shu/lv-li-zhi/zh
   「晋書- 维基文库,自由的图书馆」志1巻 天文上 儀象 十二次度数
   https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7011
HP9「中國哲學書電子化計劃」『新儀象法要』 http://ctext.org/library.pl?if=gb&file=86840&page=68


付録 卓上型星座早見盤
    臺北版 六壬式二十八宿看星盤
    香港版 六壬式二十八宿看星盤

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