整理番号
遺蹟名
時代 |
所在地と北緯・東経(世界測地系)・出土品
出土地の概要(特に巨石との関係)
主要参考文献・参考サイト(岩の画像のあるもの)
コメント等 |
1北海道 |
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2青森県 |
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3岩手県 |
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4宮城県 |
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5秋田県 |
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6山形県 |
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7福島県
博物館45
総覧22
神道考古2巻
建鉾山(たてほこやま)
高木地区
建鉾石(たてほこいし)
古墳・前期~中期 |
<所在地と北緯・東経>
白河市表郷高木(西白河郡表郷村大字高木)
北緯・東経37.054860,140.328037
<出土地の概要と出土遺物>
丘陵中腹斜面。丘陵上部に建鉾石(たてほこいし)という巨岩あり。
丘陵中腹より大量の遺物を出土
鏡27・釧1・斧26・鎌11・刀子29・剣形品569・
有孔円板518・勾玉24・臼玉276・不明破片96
<参考文献>
・亀井正道『建鉾山』p7~9 p49~50 p199~213 図版第1,2,8~36 吉川弘文館1966
・吉川宗明『岩石を信仰していた日本人』p144 遊タイム出版 2011
『建鉾山』は全267ページに及ぶ大著であり、磐座の研究書としても参考になるところが多々ある。
『岩石を信仰していた日本人』は、これを岩石祭祀の視点からコンパクトにまとめてある良書である。
<画像引用サイト>「flickr megalith_mury」
https://www.flickr.com/photos/125436967@N05/sets/72157663958592871
建鉾山全景
建鉾山の山頂は殆んど平坦部が認められず、
その一角に高さ約1.4mの建鉾石と称する珪岩の立岩が存在する。
この岩の下部は巨大な母岩に続き、更に山腹までのびて屹立し、
北方及び西方から望むと一つの偉観をなしている。
遺跡はこの巨大な岩石の下方約40m程のところに位置し、微地形的には浅い谷状をなす急斜面が、
僅かにゆるやかになった部分に当り、通常の遺跡の立地し得るような地形ではない。
附近には山頂の母岩が風化剥離した大小の岩場が転石となって散在しており、
周囲は最近の植林による樹令15年前後の杉林である。(『建鉾山』p7~8)
巨岩とトレンチ(A,B,C)・ピット(P1~P9)の位置関係を示す実測図(『建鉾山』p9)
<画像引用サイト>「flickr megalith_mury」
https://www.flickr.com/photos/125436967@N05/sets/72157663958592871
建鉾山山頂の建鉾石と祠
<画像引用サイト>「flickr megalith_mury」
https://www.flickr.com/photos/125436967@N05/sets/72157663958592871
巨岩 『岩石を信仰していた日本人』p149
<コメント>
東日本を代表する祭祀遺跡である。大量の遺物を出土したのは「御宝前」と呼ばれる禁足地である。
吉川宗明氏は『岩石を信仰していた日本人』の中で、「御宝前」から巨岩がほとんど見えないことを強調されているが、これは「御宝前」と祭祀終了後不要になった祭祀用遺物の廃棄場所(『建鉾山』p50)との関連が考えられる。つまり、祭祀の場所(巨岩・建鉾石)と祭祀用遺物の廃棄場所とは異なるのではないだろうか。(次項の亀居山(要石)のコメント参照)
廃棄場所は、御神体である巨岩からやや隔離されたところの神域内に設けられるのが自然である。
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7福島県
博物館68
総覧47 神道考古2巻
亀居山
要石(かなめいし)
古墳後期 |
<所在地と北緯・東経>
須賀川市桙衝(ほこつき)(岩瀬郡長沼町大字桙衝字亀居山)
独立丘西側斜面中腹
北緯・東経37.272858,140.259908
要石(桙衝神社裏山頂)
北緯・東経37.271227,140.260595
<出土地の概要と出土遺物>
独立丘中腹より大量の土師器を出土。
式内社桙衝(ほこつき)神社の裏山に要石(かなめいし)という巨石あり、その付近からも少量出土。
石臼・スリ臼・手捏土器・土師器・銅銭・鉄鏃
<参考文献>
・江藤吉雄「長沼町亀井山祭祀遺跡発掘調査報告」(『福島考古』7 p20~27 1967)
・福島県編『福島県史6 考古資料 資料編』p54,162 図録番号930~935(要石の写真あり) 1964
・亀井正道「祭祀遺跡の年代に関する試論」 (『上代文化』27 p13 1957)
遺跡のある台地は東方及び北方から眺めると欝蒼としげる大樹とあいまって、
あたかも亀が伏せた独立丘の如く見える。
神居山と呼ばれたこの台地が、いつの頃からか亀居山と呼ばれるようになったのも、
けだしこのような景観からであろうと思われる。
この独立丘は東西に長く二つの小峰に分れ、東峰東側の中腹に式内社桙衝神社が東面して鎮座し、
その背後の山頂の東の突端が俗称要岩と呼ばれる磐座のある所で、
石英安山岩質の巨大な岩石が露頭し、その上に松・杉の大木が鬱蒼とそびえ、
原始信仰の斎場としては恰好な場所となっている。(『福島考古』7 p20~21)
亀居山全景(写真の白い×印は、中腹の遺跡)(『福島考古』7 p20)
要石 1967年頃の写真(『福島考古』7 p21)
要石の位置しているわずかな平たん部からは、土製模造品の
甑一個、寛永通宝一枚、土師器の破片少量が出土した。
<画像引用サイト>「銀河のめざめ」
http://aprose444.blogspot.jp/2014/05/blog-post.html
要石の近影(上記『福島考古』7の写真と同じものと認定される)
<コメント>
甑(土製模造品)の底にあたる穴のあいた破片が要石の近くと西側斜面中腹から出土している。
このことは磐座付近で祭祀を行い、その終了後祭器をまとめて西側斜面中腹に
まとめて埋置したことを立証するものである。(『福島考古』7 p26) 同様の見解は下記の文献にも記載されている。
辰巳和弘『聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』 p72~74 新泉社 2006
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7福島県
博物館103
総覧37 神道考古2巻
岩谷遺跡
(岩谷観音岩)
奈良時代頃 |
<所在地と北緯・東経>
伊達市保原町上保原(伊達郡保原町上保原字小姓内)
北緯・東経37.809845,140.532445
<出土地の概要と出土遺物>
岩石露出の独立丘北斜面。薬師の小祠あり。
鏡・勾玉・丸玉・刀・鉾・棒状品・その他不明品多数
<参考文献>
・保原町編『保原町史』第2巻 p70 第7~14図 1983
・福島県編『福島県史6 考古資料 資料編』 p208 図録番号938 1964
・椙山林継『神道考古学講座』2巻p267 1982
高子沼の北東約1000mの、阿武隈川沿の沖積地に張り出した舌状の丘陵の東斜面に位置している。
遺跡は現在神社の境内地・果樹園となっており、その付近から遺物が出土している。
遺物は土製品が主で、勾玉状、丸玉状、有孔円板などがあるが、不明のものも多く見られる。
これらは土製模造品と考えられ、祭祀に関連する遺物と思われる。
また、これらとともに奈良時代ごろと考えられる土師器片も採集されており、
本遺跡は奈良時代ごろの祭祀遺跡と考えられ、
この丘陵頂部には大きく岩磐が露出しており、現在も神社が祭られている。
これが磐蔵として信仰の対象となっていたものと考えられる。(『保原町史』第2巻p70)
岩谷遺跡岩蔵(岩谷観音堂境内)(『保原町史』第2巻 第8図)
<コメント>
本遺跡は小姓山と呼ばれる小高い山の上にある。
ふもとに淡島神社があることから神体山と考えられる。
岩谷観音堂や薬師の小祠は後の神仏習合によるものであろう。
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