整理番号
遺蹟名
時代 |
所在地と北緯・東経(世界測地系)
出土地の概要(特に岩との関係)と遺物
主要参考文献・参考サイト(岩の画像のあるもの)
コメント等 |
36徳島県 |
37香川県 |
37香川県
博物館1
総覧-
神道考古-
安田牛飼場
弥生
中期末~後期
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<所在地と北緯・東経>
小豆郡内海町安田極ヶ谷(牛飼場)
位置 北緯・東経34.481815,134.332752
<出土地の概要と遺物>
銅鐸は大小の岩が累々とした地帯で庭石を採石中に発見された。
銅鐸は岩によって囲われた細長い箱状の内に置かれていた。
そこから一間ばかり離れたところから銅剣が発見された。
銅鐸(扁平紐式4区袈裟襷文)
全高38cm(身長28cm+紐部10cm) 紐の最大外径17cm
銅剣(平形) 現存長31.5cm 幅4.2cm
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銅鐸が発見された岩陰 |
銅鐸 |
銅剣(基部のみ) |
引用先 文献3 |
銅鐸は地中に埋納されていること多いが、本遺跡の銅鐸は岩に囲われたスペースに置かれていたと推定される。類似のケースとしては兵庫県豊岡市で発見された気比(けい)銅鐸が知られている。
<文献>
1寺田貞次「小豆島の銅鐸」(『考古学雑誌』第25巻3号 1935)
2寺田貞次「銅鐸銅剣を出せる小豆島安田遺跡」(『考古学』第8巻7号 1937)
3松本豊胤ほか「さぬきの遺跡」p113~114 1972
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37香川県
博物館3
総覧-
神道考古-
北山
弥生時代
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<所在地と北緯・東経>
さぬき市津田町北山 北山山頂付近
位置 北緯・東経34.320715,134.262637 (参考)
<出土地の概要と遺物>
北山山頂付近の岩にはさまって発見された。同地区北峰神社後方出土とする説もある。
銅剣(平形II式b類)3本
<文献>
1長町彰「讃岐国銅矛銅剣銅鐸発見地」(『考古学雑誌』第6巻3号 1915)
2「埋蔵文化財研究会」第20回研究集会世話人 1986
<参考サイト>
讃岐の弥生遺跡 (starfree.jp)
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37香川県
博物館21
総覧-
神道考古-
加茂明神原
弥生時代
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<所在地と北緯・東経>
坂出市加茂町北山明神原
位置 北緯・東経 34.316591,133.918433
<出土地の概要と遺物>
1934年畑地開墾の際、巨石(2m余)の地下1尺より出土。
標高140mの五夜ヶ嶽の西麓テラス状平坦地のほぼ中央部
銅鐸出土地の配石状況(文献1参照)
銅鐸出土地の広域地図(文献1参照)
出土地は字を大明神原と称し、現山下に鎮座せる加茂神社は最初この地にあったのを天正年間に今の地に奉遷したと伝わる。
銅鐸(外縁付菱環紐2式・4区袈裟襷文)高さ358mm 1個
銅鐸の見取り図(文献1参照)図中cとあるのはcmの略
銅鐸表面の文様は全体にわたってほとんど見られないが、斜線で示されるように幽かに格子目文が認められる。
<文献>
1寺田貞次「讃岐加茂村発見銅鐸の出土地」
(『古代文化』第12巻10号 1941)
2梅原末治「銅鐸に関する若干の新知見」
(『考古学雑誌』第31巻5号 1945)
<参考サイト>
讃岐の弥生遺跡 (starfree.jp)
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37香川県
博物館59
総覧-
神道考古-
佐岡
弥生時代
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<所在地と北緯・東経>
仲多度郡満濃町長炭東佐岡(まんのう町吉野)
位置 北緯・東経34.179570,133.873228
<出土地の概要と遺物>
1949年佐岡の岩谷池の堤下、傾斜地の巨石の間より発見
銅剣(平形II式b類)2本
昭和24年9月、長尾の岩谷池余水吐(よすいばけ)下より銅剣2本が出土した。
いずれも突起が棘(とげ)状に発達した典型的な平形Ⅱ式銅剣である。
平形Ⅱ式銅剣を保有する集団の県最奥部にあたる。
青銅器を保有して祭祀を行った集団の広がりが強く推察され、香川県の弥生時代の変遷を考える上で、欠かすことのできない重要な遺物である。
引用サイト まんのう町の指定文化財 | 町内の指定・登録文化財 | くらしの情報 | まんのう町 (manno.lg.jp)
<文献>
1大林英雄ほか『満濃町史』1975
<参考サイト>
讃岐の弥生遺跡 (starfree.jp)
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37香川県
博物館66
総覧-
神道考古-
北条
弥生時代
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<所在地と北緯・東経>
三豊郡高瀬町上高瀬3550-2
位置 北緯・東経34.189333,133.733266
<出土地の概要と遺物>
自然石を数10㎝の高さに盛り上げた中に3口みつかった
銅剣(平形II式b類)3本
写真上から長さ464mm, 448mm, 422mm
百数十年前、高瀬町北条の低丘陵台地を開墾中に自然石をとり除いたところ、その下から平形銅剣3口が一括して発見された。そのそばに火を焚いた跡があったと伝えられている。
(1)1号平形銅剣 全長44.8センチ。2、3か所の刃こぼれがあり、下方3分の2くらいに有機物が付着している。青銅器は布に包んで埋められた例が多いので注意しておきたい。
(2)2号平形銅剣 全長46.4センチ。有機物の付着は少ない。両側にでている棘(トゲ)状突起の片方が補鋳されている。
(3)3号平形銅剣 全長42.2センチ。先端部欠損、有機物の付着は最も多い。片方の棘状突起折損と補鋳がある。3口重なっていたと推定される。
平形銅剣は香川、愛媛の両県を中心に分布し県内では15か所をこえる遺跡から約50口ほど発見されている。平形銅剣の分布は、この地域の弥生文化の特色として知られている。
~ 高松市歴史民俗協会・高松市文化財保護協会1992年 『高松の文化財』より抜粋 ~
<文献>
高橋邦彦・森井正・六車恵一・松本豊胤
『さぬきの遺跡』p96~99 美巧社1972
<参考サイト>
讃岐の弥生遺跡 (starfree.jp)
平形銅剣 高瀬町北条出土|高松市 (city.takamatsu.kagawa.jp)
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7香川県
博物館-
総覧10
神道考古p250
荒神島
旧石器時代
縄文時代草創期
古墳時代
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<所在地と北緯・東経>
香川郡直島町宮ノ浦 荒神島
位置 北緯・東経34.457137,133.961220(詳細文献参照)
荒神島は直島の宮ノ浦港の西約0.6kmにある周囲3.8km標高89.7mの無人島。
西方洋上より荒神島を望む 引用サイト 荒神島遺跡 (coocan.jp)
<出土地の概要と遺物>
島内には古墳時代中期から奈良時代初期にわたる複合遺跡があり、海人族の祭祀遺跡の存在が注目されている。
小島の北岸。巨石(磐座?)引用サイト 荒神島遺跡 (coocan.jp)
有孔円板・勾玉・臼玉・瑪瑙製・蛇紋岩製の小玉・管玉
土師器(高坏・小型丸底壺・他)・須恵器・新羅焼(渡来土器)
鉄片・尖頭器
<文献>
近藤義郎「香川県荒神島の綜合調査」『考古学研究』6-4 p36
菅紀浩「直島諸島採集の旧石器時代から縄文時代草創期の尖頭器」 『半田山地理考古 第8号』p26~30
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37香川県
博物館-
総覧13
総覧-
神道考古-
神足石
弥生中期
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<所在地と北緯・東経>
綾歌郡飯山町 飯野山山頂に神足石(扇状鏡岩)
位置 北緯・東経34.274368,133.845881(山頂)
<出土地の概要と遺物>
飯野山は讃岐富士とも呼ばれる標高422mの典型的な神奈備山。
西南麗の飯依比古(いひよりひこ)を主祭神とする式内社飯神社がある。
『古事記』国生みの条に、「次に伊予之二名嶋(いよのふたなのしま)を生みたまいき、この嶋は身一つにして面四つあり。面毎に名あり。かれ、伊予国を愛比売(えひめ)と謂ひ、
讃岐国を飯依比古(いいよりひこ)と謂ひ、粟国を、大宣都比売(おおげつひめ)と謂ひ、土佐国を建依別(たけよりわけ)と謂ふ。」とあるとおり、祭神は四国讃岐の国魂神である。
また、『播磨国風土記』飯盛山の条に、「飯盛山、讃伎の國宇達の郡の飯の神の妾、名は飯盛の大刀自といふ。此の神度り来て、此の山を占めて居りき。故、飯盛山と名づく。」ともある。
社は元は山上にあり、次は中腹に、遂に山下に下ったという。
神足石は飯神社の本宮の磐座と推定される。
<出土地の概要と遺物>
神奈備山 飯ノ山の全景(北面より撮影)
神足石(扇状鏡岩)正面 縦 約2.5m、幅 約5m
飯ノ山の山頂より少し下った東斜面にあり、両翼の岩とともに磐境を形成している。この周辺にも40個に及ぶ大小様々な岩石が点在する。
詳細、下記の桑島氏作成讃岐富士巨石愛護研究会マップ参照。
引用サイト 讃岐富 巨石群 (coocan.jp)
飯ノ山の祭祀的岩石群(讃岐富士巨石愛護研究会)
神足石の近くからは石器と、弥生中期の土器が発掘されているが、縄文期の遺跡は出土していない、また麓には古墳時代前期からの古墳が数十基在る、大束川を2km下った下川津遺跡からは縄文晩期の遺物が発見されているが本格的な調査が行われた訳ではないので縄文期の資料は十分ではない。
<文献>
高橋邦彦『財田町誌』1972
志賀/剛『式内社の研究』第1巻 飯神社 p344~345 臨川書店1960
『飯山町史』
<参考サイト>
讃岐富 巨石群 (coocan.jp)
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37香川県
博物館-
総覧-
総覧-
神道考古-
ほら貝洞穴遺跡
縄文晩期
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<所在地と北緯・東経>
小豆郡島内海町寒霞渓裏八景ほら貝岩
位置 北緯・東経34.508139,134.304333
<出土地の概要と遺物>
ほら貝岩は小豆島の景勝地、寒霞渓(かんかけい)にあり、ほら貝の形をした巨大な岩である。この岩には洞穴があり縄文人の住居であったと推定されている。
シカの骨片、サヌカイト石くず若干、海産貝類のから、弥生式土器片、
須恵器数片、縄文式土器片2個
縄文式土器の一片は磨消文土器で縄文後期、もう一片はミミズのような二条平行隆起文で、高島遺跡出土と同類の瀬戸内地帯で晩期縄文群に属するものである。
洞穴遺跡としては、「神さん山」の磐座として有名な宮崎県延岡市北川町祝子川(ほうりがわ)の巣ノ津屋洞窟遺跡が知られている。ここからも縄文時代のヤジリや土器の破片などが出土したとある。
寒霞渓裏八景ほら貝岩 海抜500m 石門から100m
ほら貝岩の下部にある洞穴(縄文人の住居跡)
自然にできた横穴で、高さは人の高さ以上、奥行きも7m以上ある。
床も平坦で、住居とするにはふさわしい。
<文献>
高橋邦彦・森井正・六車恵一・松本豊胤『さぬきの遺跡』p54~57 美巧社1972
<参考サイト>
写真引用 【小豆島巨石探訪】 ほら貝岩・ほら貝洞窟遺跡【寒霞渓裏8景】
| 山陰百貨店―日常を観光する― (ameblo.jp)
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38愛媛県 |
38愛媛県
博物館7
総覧-
神道考古-
総覧-
立石
弥生時代
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<所在地と北緯・東経>
四国中央市土居町津根西森立石
位置 北緯・東経33.956908,133.452405
<出土地の概要と遺物>
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資材に使う大石を求めていて表土下約1mに約60kgの石を見出し、 その下に平石二枚に挿まれた下部欠失の矛を発見。
出土地は古子川の支流桧川の右側の緩傾斜地(海抜約70m)の
段畑で、海を約3km北方に控え眺望よき所。
銅矛(中広形)1本(左図参照)
先端部の長さ 約35cm 幅 約4㎝
引用 『愛媛県史』
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<文献>
長井数秋「農耕文化の形成と発展」(『愛媛県史』原始・古代Ⅰ p342銅矛実測図 1982)
<参考サイト>
伊予・土佐・讃岐の銅矛・銅剣出土遺跡 (starfree.jp)
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38愛媛県
博物館30
総覧-
神道考古-
生名島
立石山
弥生から
古墳時代
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<所在地と北緯・東経>
越智郡上島町生名(いきな) 生名島 立石山
位置 北緯・東経34.280898,133.172815
<出土地の概要と遺物>
138.6mの山頂に構築された高さ2mの立石と、これに接する4枚の巨岩を組み合わせた磐座
生名(いきな)島全景 正面は立石山
生名島山頂部の磐座
現地説明板より(要旨)
この頂上部全体が祭祀の場(磐座)であり、陽石・陰石があります。
昭和50年(1975)秋の文部省による弥生系高地性集落総合研究では、
石器類と弥生式土器が多量にみつかりました。
弥生式中期の「倭国大乱」と関連づけられて考えられており、祭祀と軍事的防塞との複合遺跡として極めて重量な文化財です。
生名村教育委員会、生名村文化財専門委員会
小型円筒形の磨き石・弥生土器・
石斧・石鏃・貝殻類アイホ・石包丁・
土師器・須恵器・ナイフ形石器
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1盃状穴(文化財指定)
2陽石
3陰石
4ナイフ型石器
5剥片(2点)
6石鏃(せきぞく) (やじり)
7大型蛤刃(はまぐりば)
石斧(せきふ)
8磨石(すりいし)
9石包丁
10石包丁
11河原石
12河原石
昭和61年(1986)11月
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立石山遺跡の出土遺物と岩の分布(現地説明板) |
<文献>
長井数秋「弥生時代における高地性遺跡に関する先史地理学的研究」
(『ソーシァルリサーチ』創刊号1972)
長井数秋「立石山遺跡発掘調査報告書」(『愛媛の文化』13号 1975)
『愛媛県史』原始・古代Ⅰ 1982 p21~23,27
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38愛媛県
博物館34
総覧-
神道考古-
入日滝
奈良から
平安時代
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<所在地と北緯・東経>
越智郡大三島町台入日滝
位置 北緯・東経34.238338,133.012527
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『入日の滝』は滝山寺の境内にある滝で落差が
約15mあり、夕暮れ時に夕日が当たり滝を照らす
事から名づけられた。
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入日滝(いりひのたき) |
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<出土地の概要と遺物>
大山祇神社南の安神山(360m)の南麓の台川上流にある入日滝にあり、
牛石と呼ばれている巨石の中から集中して出土。
牛石については所在不明。
手づくね土器20 土師器1000(所蔵・保管 大三島町教育委員会)
<参考サイト>
しまなみ海道、大三島の『入日の滝』と『台ダム』 | あんきにしとるかの? (nakaeno.com)
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39高知県 |