イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版 2012年4月17日掲載
イワクラ(磐座)学会会報26号掲載 
                              

下鴨神社 平安時代の御生神事
<御蔭山の磐座祭祀>

1 はじめに
 京都市の叡山電車「八瀬比叡山口駅」南西の高野川の左岸、
樹林に囲まれてひっそりと御蔭神社が佇んでいる。 普段、人影はほとんどない。
しかし葵祭が近づく頃、突如として華やかな行列がここを訪れる。御蔭祭(みかげまつり)である。
御蔭祭は古くは御生(みあれ)神事と称された。
御蔭山は御生山とも呼ばれ、玉依姫が別雷神を生んだところと伝えられる。(文献1①)


図1 御蔭神社の東殿(向かって右)と西殿(向かって左)
    東殿に玉依姫、西殿に賀茂建角身命を祀る。
    現在の社殿は、天保5年(1834)の上棟(文献2①)

 御蔭祭は、葵祭のはじめに下鴨神社で行われる祭である。
古来より御生(みあれ)神事と呼ばれる四月中午日の行事であったが、明治17年(1884)以後、
御蔭祭と改名し新祭式にて新暦5月12日に行われている。
本論文では、これに従って「御生神事」と「御蔭祭」を使い分けている。
 元禄7年(1694)以降の神事次第は、早朝神職らが社頭を神馬とともに出発し、比叡山麓の摂社御蔭神社に向かう。
ここで御蔭山の儀があって、神霊を移した御生木(みあれぎ)を神馬に載せて御錦蓋(ごきんがい)で覆い、
行列は摂社賀茂波爾(かもはに)神社を経て下社に戻る。
糺(ただす)の森において、東游(あずまあそび)と呼ばれる舞楽が奉納される切芝神事の後、
御生木を神馬から本殿に移して、夕刻に終る。


図2 切芝神事 神馬の前で舞われる東游(HP「まさとの写真館」)

 御生神事は平安時代にはじまったとされるが、断片的な記述が残るだけでほとんどわかってないのが実情である。
しかし、幸いにもこれについて言及した下社の宮司である新木直人氏の
『葵祭の始原の祭り 御生神事 御蔭祭を探る』(文献2)に遭遇することができた。
そこに平安時代の御生神事の神事次第を記録した『神事記』が紹介され、その中に湧水の磐座での神事が記載されていた。
本論文は、これをベースとしながら磐座研究の視点から、平安時代の御生神事について考察したものである。

2 平安時代の御蔭山
 平安時代の御蔭山の神地は、現在の御蔭神社の社地とは異なり、
図3の赤丸印(御蔭神社旧社地)に示すように現在の高野川の右岸、叡山電車「八瀬比叡山口駅」南西にあったと推定されている。
また、当時の川筋は、図3の青線で示したように旧社地の北側を流れていたようである。(文献2②)


図3 御蔭山・御蔭神社・御蔭神社旧社地・高野川旧川筋

                  上側:東

                  下側:西
図4 旧地御蔭社図面  宝暦8年(1758)以前の状況を示す(文献3)

図4の掲載されている、『京の葵祭展』京都文化博物館の説明には次のようにある。(文献3)
 宝暦八年(1758)八月二十二日の土砂崩れのため、神社東側が土石流で埋もれたため、
 新たな社殿が必要となり、いくつかの絵図が作られた。
 本図はその一つで、御蔭神社の旧社地の場所を示したものである。
 「大崩」と書かれたところが土砂崩れの現場であり、
 「御蔭社」と書かれたところが土石流で完全に埋もれたところである 
 図の中の大きな建物が拝殿であり、木に囲まれた二棟の建物が本殿に当たる。
 この構造は新社地でも踏襲されている。

 上記説明の「大崩」ついて、『山家要記(さんげようき)浅略目録』(文献4)の中に次のような記述がある。
この書は『山家要略記』の一部を略出し、口伝や私注を加えたもので、法眼春全による応永16年(1409)の作である。
 
  弘仁9年(818)4月21日 西 神聖影山 大崩賀茂神事スル等也 御影山ノ外云也

「神聖影山」の原文にはルビがあり、「神ノ聖(ミ)影(カゲ)山」とある。
「大崩賀茂神事・・・御影山ノ外云也」は春全の加筆である。
上記は、延暦寺の結界について述べたもので、西の結界は神聖影山(神のみかげ山)とある。
「大崩」は神聖影山の一部をなす地名と思われる。崩れやすい山の斜面だったかもしれない。
ここで賀茂の人々が神事を行っていたというのである。
また、その場所は御影山(御蔭山)の外にあるという。
ここで図4を眺めると、図中の「大崩」は宝暦8年(1758)の土砂崩れの現場を示したものでなく、
応永16年(1409)以前に知られていた地名の可能性が浮かぶ。
ならば、神聖影山は御蔭山と川を挟んで対向した山となる。
伴信友は『瀬見小河』(文献5①)で、神聖影山を「大崩賀茂神事スル」から御阿礼の榊を採取した奥山としている。
ただ、文献5①では文献4の「・・・」が「・・・」となっていることに留意したい。

図4の絵図の上方が東である。
図の下の川の流れに「八瀬大河筋」とあるのが現在の高野川である。
この絵図が描かれた時代の御蔭山は全く孤立した山で、
しかも周囲を「谷川」「御生川筋」「八瀬大河筋」の三つの流れに囲われた
いかにも御生の神地に相応しい景観がそなわっている。
鳥居を入ると、やがて参道の両側東西に磐座がある。
西の磐座から湧水の流れが描かれ、その先の流れが「八瀬大河筋」へと合流している様がわかる。
当時人々には、この湧水が「八瀬大河」の源流として信じられていた。
この二つの磐座は、御生綱(あれつな)をつなぐ「船つなぎ」とも呼ばれた。
そこで、御祭神が降臨される神事がおこなわれた。(文献2③)

3 『神事記』の御生神事の次第
 『神事記』は、祝(はふり)光敦(みつあつ)が、
平安時代の下社の年中行事の記録を永享年間(1429~1441)に集成した文書である。
この中に、「船つなぎ」と呼ばれる磐座が登場する最古の御蔭山の神事に関する記述がある。
『神事記』の「四月、御蔭山神事次第」から、抜き出したものを下記に示す。(文献2③)

『神事記』四月、御蔭山神事次第
(下社の舞殿における神事)
次、於舞殿一献、禰宜、祝、三所ノ祝、禰宜ばかり也
  御座はてて、社司各舞殿の南に立、・・・
  ・・・
(御蔭山における神事)
次、神山ノ儀
  先御座あり 禰宜代に御幣を出仕氏人進之
次、神馬、原の座の末まて出御有
次、社司等本の座を立て、末の原の座に各敷皮を敷て着座す
  則(すなわち)神人(じにん)等陪膳(ばいぜん)、神供を社司に進す(しんず) 
  一献有 事訖(ことおわる)、
  遷御有 樂人、馬上にて楽ふく

注解
上記引用の『神事記』の解説は文献2③にもあるが、
それは後に述べるように、磐座から本殿の祭祀に移行する過渡期のものであることから、
元禄7年(1694)の賀茂祭復興直後のものと推定される。
本注解は本殿のなかった平安時代を想定していることから、文献2③とは一部異なった解釈を行っている。

①神山ノ儀
 御蔭山の神地における「御生神事」のことである。
 上賀茂神社の北にも神山(こうやま)がある。

②先御座あり
 「御座(ござ)」とは、賀茂祭復興の元禄7年(1694)以後の解釈では本殿における祭事を指すが、
 本殿のなかった平安時代においてはこれと異なった解釈も考えられる。
 元々の御座がどのようなものかを考えるにあたって、上記の最初の部分「御座はてて」に注目しよう。
 これは「御座が終わって」の意であるが、御座自体の内容は不明である。
 そこで、二番目に古い次第書である『御祭記』の
 「元禄七年四月十二日 御蔭山神事次第」(文献2④)と対比させよう。

 「元禄七年四月十二日 御蔭山神事次第」
 (下社の舞殿における神事)
 次に、歓盃の儀あり 初献 次二献 次三献・・・
 次に、献の間に御神馬を舞殿の南東に引立
 次に、献訖て正官舞殿の北階より降る
 次に、社司等舞殿の南階より降る

 上記の要点は、「舞殿で歓盃→神馬を舞殿に引立→舞殿を降る」となり、
 御座が神馬と対応していることがわかる。

 次に、御蔭山での御座を検討しよう。
 「先に御座あり」とあることから、御座は行粧が御蔭山について
 最初に行われる予備的な神事と考えられる。
 そして、御座は狭義には「神馬を拝殿に引入れ神前に向かわせる」に相当する。
 御蔭山に到着して、まずなすべき最も重要なことは神馬の取扱であろう。
 このことから、平安時代の御座は神馬を神事の場に引入れることと解される。
 神馬は神を乗せるものであり、神馬の鞍を「御座」と見なしたのであろう。
 神馬の取扱が終わってから本格的な祭典が始められるのは現行祭式でも同様であり、
 それが「先御座あり」の表現になったと考えられる。

③禰宜代に御幣を出仕氏人進之
 御生神事は官祭ではなく、氏人の私祭であった。
 当時の御蔭山には下社の宮司・禰宜・祝は赴かなかった。
 これらの神職は正官と呼ばれる官の定める祀官であったためである。
 「禰宜代」は下社の禰宜の代理と思われる。
 「出仕」は「出司」が正式な職名で、氏人が務める神事の補佐役である。
 従って「出仕氏人」とは、「出仕の氏人」と解すべきであろう。
 つまり、禰宜代に出仕の氏人が御幣を差し出すのである。

④神馬、原の座の末まて出御有
 「原の座」は、御蔭山の麓のみあれ野にある磐座のことである。
 これは上社の御囲(御生所)に相当する。
 伴信友の『瀬見の小河』に「みあれ川の東、みあれ野の北に御蔭社とてあり、
 下賀茂の摂社なり」とある。(文献5)
 図4を見ると、みあれ川の東とあるのは、みあれ川の西の誤りであろう。
 そのそば近くまで、神馬を引立てるのである。つまり、前述の御座である。

⑤社司等本の座を立て
 社司(しゃし)とは、宮司・禰宜・祝の神職を指す。
 ここでは、『神事記』の最初の部分にある「三所ノ祝、禰宜」が該当すると思われる。
 「三所」とは、比良木社(出雲井於(いずもいのへ)社)、河合社、貴布禰社で、
 いずれも下社の境内にある摂社である。
 文献2③では、「本の座」は本殿における祭事となっているが、
 本殿のなかった平安時代では別の想定もなりたつ。

 『永久四年百首』の中に、源兼昌(かねまさ)の榊の歌がある。
   いこま山手向はこれか木の本に岩くらうちて榊たてたり
   (注) 『永久四年百首』 永久4年(1116)鳥羽天皇の勅命で藤原仲実らが編集した平安後期の歌集。
      堀河院後度百首、堀河院次郎百首とも称される。
            
 平安末期のこの歌は、岩座(磐座)に榊を立てる神事を彷彿させる。
 「いこま山」は大阪府と奈良県の境にある生駒山、
 「岩くらうちて」とは榊を立てる岩座をしつらえる意である。
 「本の座」は、木の本(もと)を支える座、即ち磐座(いわくら)である。
 「本の座を立て」とは、磐座に榊、御生木(みあれぎ)を立てることと想像される。
 この「立てる」という言葉に隠された意味がある。
 
⑥末の原の座に各敷皮を敷て着座す。則神人等陪膳、神供を社司に進す。一献有り。
 この部分については、文献2③に解説があり以下にそのまま引用させていただく。
  原の座(磐座)の社司たちは豹の皮を、氏人は虎の皮を打敷(うちしき)とし、各々が着座する。
  神馬は、参道東西の磐座の間に引立てる。
  東西の磐座に御生綱(あれつな)を懸け、神馬の左右から御鞍に結ぶ。
  磐座に懸けた御生綱の結び目に御生木(みあれぎ)をさし立てる。
  湧水の西の磐座「船つなぎ」と東の磐座には、それぞれ社司が座し、
  とり箸でお給仕しながら御供えをする。
  その御供えは、御供えを調理を司る氏人たちが行う。その間、歌笛を奏する。一献有り。                   
  (注) 
  神人(じにん) 神社の祭礼や供御を通じて奉仕する義務をおびた集団で、
           その奉仕の代償としてさまざまな保護や特権が与えられた。
           ここでは、氏人が務めている。
  陪膳(ばいぜん) 儀式や神事の際に給仕をすること。
  神供(しんく) 御供え。御供えをする時に、風俗歌が唱えられたようである。
           鎌倉時代の権中納言・勘解由小路兼仲(かでのこうじかねなか)の日記
           『勘仲記(かんちゅうき)』弘安七年(1284)四月十三日の条に、
           「社家申状者。午日神事号御荒。社司氏人懸襷襅、唱風俗歌供奉。」とある。
           つまり、午の日の神事は御荒(みあれ)で、
           社司や氏人が斎(いみ)タスキ、斎カズラをかけ、
           風俗歌を唱えながら供奉(くぶ)するとある。(文献2⑤)
           文中、襅(ちはや)は襷(たすき)または巫女の服であるが、
          ここでは葵蘰(かずら)であろう。(文献6)

 ここで「船つなぎ」の磐座について検討しよう。
この磐座がなにゆえ「船つなぎ」と呼ばれているかについては、二つの理由が考えられる。
 
 一つは貴船伝承である。
貴船社の社伝には、玉依姫が黄船に乗って淀川から賀茂川を遡り貴船川畔に上陸し、一宇の祠を立てたとある。
その祠こそ現在の奥宮であり、その下は「吹き井戸」と呼ばれる霊泉になっており、清水が湧き出していると伝えられる。
また、奥宮の境内には、その時の黄船を覆ったとされる「舟形石」と呼ばれる石組が残されている。
これらは上社による貴船社の摂社化と関連する付会と思われるが、御蔭山の湧水の磐座「船繋ぎ」を連想させるものである。

 もう一つは、この時に磐座の神事で歌われたとされる『新古今和歌集』の次の歌である。
上社の最も基本的な由緒記とされる延宝8年(1680)成立の『賀茂注進雑記』(文献7①)に
 「天岩船を漕よせ神の現形ましましける其所を御生所といふ、
 其御生所のわたりをみあれのとも神代の浦ともいひ船差の入江ともいへり
  大和かも海に嵐の西吹かばいづれの浦に御舟つながむ
 といへる歌は、賀茂祭の午の日詠じなへ侍るふ歌也云々」とある。

この歌は、鎌倉時代初期の後鳥羽上皇勅撰『新古今和歌集』巻十九にある神祇歌である。
歌意は、「海にはげしい西風が吹いたなら、大和国(日本)の、どこの岸に舟をつないだらよかろうか。
天の磐舟を漕ぎよせて賀茂神の事を、神の心で詠んだものか。」とある。(文献8)  

また、鎌倉後期成立の『夫木(ふぼく)和歌抄』に
 神山に天の岩漕ぎよせて繋ぎそめしもわが君のため  賀茂氏久         

宝永2年(1705)成立の『山城名勝志』巻第十一「野」に
 神代の浦ハ御生野の惣名也、天孫御舟にめされ降臨の地なり。御生所ノ左ノ方を舟着と云。
  久かたの天の岩漕ぎよせし神代の浦や今のみあれ野  賀茂遠久

賀茂遠久の歌によれば、天の岩舟を漕よせたところが「神代の浦」であり、それが今の「みあれ野」である。
つまり、「船つなぎ」と「船差」「舟着」「神代の浦」「みあれ野」は同類である。
御阿礼神事の行われる丸山の麓にある御生所の西には
「舟着(ふなつき)」(京都市北区上賀茂舟着町)という地名が今も残っている。
これらから、「船つなぎ」という言葉は上社との縁が深く、上社からの影響が大きいと思われる。

⑦事訖、遷御有。
 ⑥の磐座の神事が終わり、神霊が神馬の御鞍に遷(うつ)る。
 
⑧樂人、馬上にて楽ふく。 
 最後に行粧が下社に向かう。
 現行では、陪従(べいじゅう)と呼ばれる楽人が、馬上で道楽(みちがく)を奏する
 陪従の本来の意は、つき従うこと。


4 平安時代の御生神事
(1)御生神事のはじまり
 御蔭山での御生神事の始まる以前に、ここには湧水の磐座(図4)があった。
この磐座は、元、豪族小野氏の水の祭場であったと想像されるが、後から進出してきた山城鴨氏によって引き継がれた。
上賀茂神社の宮司であった座田守氏(さいだもりうじ)氏は、御蔭祭の論文にて次のように述べている。(文献9①)
「出雲高野神社の境内古墳より小野毛人の墓誌が発掘され、それには天武天皇六年(678)丁丑年十二月上旬に葬つたと記してゐる。
かくの如く、この地方は古くは小野氏の有力な根拠地であつて、
なほその当時は小野氏の主力がこの地方に盤居してゐたと見なければならぬ。
されば賀茂氏がこの地方に勢力を扶植したのは、それ以後と見るのが至当であらう。
出雲郷の名称も小野氏の主流が近江に移動した後に付せられたものと考へる。」

 天平勝宝2年(750)頃に分立した下社(文献10)は、別雷神の降臨地を失ったために、
早急に新たな降臨地を求めていた。
そこで、貴船神社になぞらえて高野川上流にある八瀬大河の磐座が選定された。
『鞍馬蓋寺縁起』によれば貴船神社は元々山城鴨氏とは独立した地主神を祀っていたが、
上社の丹塗矢伝承の河上社として摂社化された。(文献11)
その時期は、『日本紀略』寛仁元年(1017)12月1日条に、
賀茂上下社の末社の片岡社、河合社が、貴船社と共に正二位の神階を受けていることから、
それ以前であったことがわかる。(文献1②)

(2)『小右記』寛仁2年(1018)11月25日条とその後
 御生神事のはじまりを論ずるにあたり、必ずといってよいほど登場するのが、
以下に示す『小右記』寛仁2年(1018)11月25日条である。
 被奉寄賀茂上下郷、郷事可定申也、栗栖野小野二郷上下社司各申、但昨日下社司久清進解文、
可尋旧記、皇御神初天降給小野郷大原御蔭山也云々、亦栗栖野可為下社之山、有採桂葵山之由
先年給官符、仍小野幷栗栖郷、可為下社領者、
令仰降坐御蔭山之記文可進之由之所、申云、康保二年、禰宜宅焼亡次、焼失者

この記事は、「御蔭山」の初見とされている。
つまり、御蔭山のある小野郷は上社の所領であったが、下社の社司久清が解文を奉って、
旧記には「皇御神」は初め小野郷大原の御蔭山に天降り給うたとあり、
また栗栖野は下社の所領で桂・葵を採る山がそこにあることは、先年官符を下された通りである。
よって小野・栗栖野の二郷は下社の所領たるべきものであると官に願い出た。
それでは皇御神が御蔭山に天降ったという旧記を差出せと言ったところ、
康保2年に祢宜宅が焼亡した時に焼失したと答えたというものである。
 このあと官の裁断(『類聚府宣抄』寛仁2年(1018)11月25日 太政官符)が下り、下社の社司の申し出は却下された。

 以上の解釈をめぐって、御生神事が平安時代にあったとする説となかったとする説がわかれている。
なかったとする説の根拠としては、以下のものがある。
①「御蔭山」の記述があるが、御生神事等の祭そのものの記述がない。
②「旧記」は焼失したと言っているが、もともとなかったのではないか。

上述の『小右記』において、御蔭山を下社の所領とする根拠は二つある。
一つは降臨伝承の存在である。
そもそも御蔭山の名は、何を意味しているのだろうか?
「蔭」は「影」であり姿である。そうすると、御蔭は御影となり、御神影と呼ばれる神の姿を意味する。
即ち、御蔭山とは神の影向(ようごう)する神山で、御蔭山は磐座にちなむものであろう。
降臨伝承は付会と思われるが、そのようなものが生まれるにふさわしい山であることは確かであろう。

あと一つは、御蔭山が栗栖野郷と同じく葵の採集地であることである。
このことは、平安末期から鎌倉時代の次の歌からも確認される。
 
 日影山生ふる葵のうら若みいかなる神のしるしならむ       『堀川院御時百首和歌』
 葵ぐさとるや御蔭の山辺には月の楓もことにみえけり       藤原清輔 『夫木和歌抄』
 そのかみの御蔭の山のもろは草長き世かけて我やたのまむ   中原師光 『為家集』

 やはり提訴におよぶかぎりは、下社側にもそれなりの有力な根拠があったものと思われる。
「旧記」も焼失し、ただ葵を採取するだけとあっては、はじめから話にならない。やはり何らかの祭祀があったとみるべきであろう。
しかし、それは土俗的とも思える磐座の祭祀であったために官の退けるところとなったのであろう。

 磐座祭祀は最古の形態である。従って、『神事記』にあるように御生神事は磐座から始まったといってよいであろう。
磐座は時代とともに神社に変貌してゆく。
その始まりの最も自然な形は、磐座の前に拝殿を建てることである。拝殿の建立は、いわば磐座の本殿化といってもよいであろう。
磐座祭祀で有名な大神神社は、拝殿はあるが本殿がないことは良く知られている。
比叡山の西方近在の京都市左京区の岩倉西河原町の山住神社、松崎林山の岩上神社も磐座と拝殿で構成されている古社である。
このように本殿をもたない神社を原始神社と呼ぼう
原始神社の多くは、磐座と拝殿と鳥居から構成される。
そして、最後に磐座祭祀が衰退し、本殿を核とした我々が一般に目にする神社が登場する。

下社はこの敗訴の後、磐座の神社化を急いだのではないだろうか。
『山槐記(さいかいき)』応保元年(1161)8月6日条に下社の第6回目の仮遷宮の記述があるが、
当時の下社禰宜であった祐直(すけなお)の社殿の記録『神殿舎屋之事等』に御蔭社の名がみえる。(文献2①)
おそらくこれが前述の原始神社であろう。つまり、この時の「神殿舎屋」は拝殿をさすものであろう。
『鴨県纂書(かものあがたさんしょ)』(文献12)に「御蔭宮日枝山ノ西麓ニアリ拝殿鳥居一口 祐直卿記ニ御影社トアリ・・・」とある。
文中、日枝山とは比叡山のことである。
そして、『神事記』の御蔭山の儀は、この原始神社における神事を記述したものと想定される
つまり、平安時代の御生神事は磐座祭祀で、その形態は原始神社であったと想像される

 その後、「元禄7年4月12日 御蔭山神事次第」(文献2④)以降の神事次第は、
御蔭社本殿の祭祀ばかりで磐座祭祀を思わせる記述はない。
磐座祭祀は元禄7年の復興の時点で本殿祭祀に付随するものとして扱われていたのであろう。
文献2③には「湧水の磐座、船つなぎにおける御生神事の祭祀は、
永正14年(1517)に中絶していたのが元禄7年(1694)再顕になって程なく、
宝永元年(1704)のはじめごろ御蔭社本殿の祭事と習合した」とある。
尚、『賀茂史略』永正四年四月二十一日の条に「以無要脚不行御蔭山神事」(文献2④)とあることから、本論文では御生神事の中絶を永正4年(1507)とした。
図4を見ると、磐座が参道の両側に狛犬のようにあることから、図4は磐座祭祀が衰退し、社殿祭祀に移行した状況を示している。

(3)まとめ
 表1に御蔭祭の歴史を示す。
御生神事の原点は、豪族小野氏の水の斎場であった湧水の磐座である。
その後、磐座は賀茂氏に引き継がれた。
天平勝宝2年(750)頃に分立した下社は、別雷神の降臨地を失ったために、新たな降臨地を求めていた。
その結果、湧水の磐座が選定され、下社はこれを賀茂降臨伝承に基づいた神事に作り替えることを意図するようになった。
これが、『小右記』寛仁2年(1018) の提訴である。
敗訴の後、下社はここに磐座と拝殿からなる原始的な神社を創設し、賀茂降臨伝承に基づく神事を斎行した。
これが、御生神事の原形となった。
応保元年(1161) の下社禰宜 祐直『神殿舎屋之事』下社古文書に御蔭社の名が見える。
原始神社の磐座での御生神事は、永正4年(1507)まで続いた後断絶した。
そして、元禄7年(1694)に御生神事が復興してから後は、良く知られているとおりである。 

表1 御蔭祭の歴史
     磐座          原始神社          中断            神社    
年代(目安)
 
   ~寛仁2年  ~  応保元年 ~ 永正4年  ~  元禄7年
   (1018)         (1161)     (1507)       (1694)
 祭祀形態           磐座祭祀       ―      本殿祭祀
  ※磐座から本殿祭祀への移行期 元禄7年(1694)~宝永元年(1704)
   元禄7年の復興時には磐座と本殿の双方で祭祀が行われていたが、
   宝永元年に本殿の祭祀に統合された。
 
 記事 天平勝宝2年(750)  『カモ県主の研究』下社分立
弘仁10年(819)    『類聚国史』賀茂御祖并別雷二神之祭宜准中祀
寛仁2年(1018)    『小右記』御蔭山の初出
応保元年(1161)   下社禰宜 祐直『神殿舎屋之事』に御蔭社
正慶2年(1333)   『下鴨家古文書』御蔭山御行
永正4年(1507)   『賀茂史略』御生神事断絶 以無要脚不行御蔭山神事
元禄7年(1694    『御祭記』御生神事復興
宝暦8年(1758)   長雨により高野川氾濫。社殿流損、社地埋没。
文政13年(1830)  大地震により比叡山の西峰が崩壊、社殿流損。
天保5年(1834)   新社地(現在地)に社殿上棟、再建なる。
明治17年(1884)  御生神事から御蔭祭(新祭式)に移行



5 御生の祭祀構造

(1)御旅所
 私は先の論文「上賀茂神社嘉元年中行事 御阿礼の祭祀構造の諸問題」(文献13)で、
上社の御阿礼神事における御囲(御生所)と神館の関係を検討し、
神館は御旅所であるとした。
下社は上社の影響を強く受けているので、数々の類似点がある。
ここでは、『源氏物語』に登場する「御生詣」を手がかりに検討してゆこう。
ここで取り上げる注釈書の記述は、『源氏物語』の下記の文面を対象にしたものである。

『源氏物語』 藤裏葉
対のうへ、みあれに詣で給ふとて、例の、御かたがた、いざなひきこへ給へど、
なかなか、さしもひき続きて、こころやましきをおぼして、たれもたれも、
とまり給ひて、ことごとしきほどにもあらず、御車廿ばかりして、御前なども、
くだくだしき人数、多くもあらず、事そぎたるしも、けはひ殊なり。(文献14①)

 『河海抄』は室町時代初期に成立した『源氏物語』の古注である。
これが、「みあれ」に関して言及した最古の注釈書とみられる。

『河海抄』巻第十二 1360年代初頭 四辻善成(文献15)
<たいのうへみあれにまうて給ふ>
 賀茂祭前日於垂跡石上有神事、号御形、御阿礼者御生也(見古語拾遺)。
 日本紀云、神聖生其中者或御禊(ミアレ)。
 祭の前の一日を御禊日といふ也、御生所は神館にありと云々、祭時御旅所也
                              (句読点、段落は筆者による)

筆者訳
『古語拾遺』には、賀茂祭の前に「垂跡石」と呼ばれる石の上で神事が有ると書かれている。
これを御形(みあれ)と称す。
みあれ(御阿礼)とは、神が姿を現すこと(御生)である。
『日本書紀』には、神が御生神事や禊(みそぎ)で御生まれになったことが書かれている。
賀茂祭の前の一日を御禊日(御生神事の日)と呼ぶ。
御生所は神館にありなどと言われる。祭の時の御旅所である。

(注1)「賀茂祭前日於垂跡石上有神事」の「前日」は賀茂祭の一日前ではなくて、
    ある程度幅をもった過去と考えられる。賀茂祭は酉の日で、御生神事は午の日である。
(注2)「号御形御阿礼者御生也」は言葉の重複あるためわかりにくいが、
    要するに「御阿礼者御生也」は、御形を説明したものであろう。「者」は「~とは」と解釈した。
(注3)「神聖生其中者或御禊(ミアレ)」の、「聖生」は「御生(おうまれ、みあれ)」、
    「其中(そのなか)」は「御生神事の中で」、「者」は「事(こと)」と解釈した。
    「御禊(ごけい)」は、一般には、賀茂祭の前の午の日に、斎王が穢を祓うために鴨川に向かい、
    禊(みそぎ)をすることである。
    『源氏物語』葵の巻の車争いの場面は、この斎王御禊が舞台となっている。
    しかしながら、本文では「御禊(ミアレ)」とあり、御禊の説明としてミアレとあることから、
    斎王御禊とは別物と考えられる。文脈から「神が禊(みそぎ)で生まれた」と解すべきであろう。
    これは、伊弉諾尊のあわき原における禊による神産みのイメージである。
    尚、『日本書紀(日本紀)』には御生神事を思わせる記述はない。
(注4)(見古語拾遺)とあるが、『古語拾遺』にはかかる記述は見当たらない。
(注5)「祭の前の一日を御禊日といふ也」の「御禊」は、
    前に「御禊(ミアレ)」とあることから「みあれ」そのものであろう。
    禊とは、それを行うことにより、穢をもった人間から、清らかな人間にかわることである。
    これを神にあてはめた場合、神の再生、荒御魂(あらみたま)の生成ととらえることができる。
    即ち、「御禊(ミアレ)」となる。当時は、御阿礼神事の日を御禊日と呼んでいたかもしれない。

 続いて、文明四年(1472)には『花鳥余情』が成立する。
『花鳥余情』は、その序文に『河海抄』の跡を巡り、残るをひろひ、あやまりをあらたむるとあるように、
『河海抄』の増補改訂版というべきもので、両書を合わせ読むことにより広範な知見を得ることができる。

『花鳥余情』第十八 文明四年(1472) 一条兼良(文献15)
<たいのうへみあれにまうて給とて>
 御あれは玉依姫の別雷神をうみ給し所をいふにや、
 さて御生ともかく、すなはちかたちをあらはし給へる故に御形ともかけり。
 神館はただすと御おやとのあひだおきみちといふ所にありといへり。
                                      (句読点、段落は筆者による)
筆者訳
「みあれ」は玉依姫が別雷神をうみ給し所である。
御生とも書く。即ち、形を現し給へる故に御形とも書く。
神館は糺の森と下鴨神社との間の興路(おきみち)という所にあると言われる。

『河海抄』『花鳥余情』の記述から判明することは、以下の事柄である。
 ①「御生詣」と興路(おきみち)の神館との関連は強い。
 ②御生所は御旅所である。
 ③御生所は神館にある。
 ④御あれは玉依姫の別雷神をうみ給し所である。
 ⑤垂跡石と呼ばれる石の上で神事がある。
  (注)後に明らかになるように、上記②③の御生所は切芝を指す。また④⑤ は御蔭山である。

<神館(かんだち)>
 『源氏物語』では、「対のうへ、みあれに詣で給ふ」とあることから、
紫の上(対の上)が単に御生神事の行粧を見物に行ったのではなく、神社のような祭祀施設にお参りに行ったと考えられる。
従って『河海抄』『花鳥余情』は、そのことを注釈しているのであるから、
『源氏物語辞典』(文献16)のように、紫の上が御蔭神社に擬した興路の神館に詣でたとする解釈も当然うまれる。
 神館については、新木直人氏の論文「鴨社神館の所在」(文献17)がある。
鴨社神館御所は、『太政官符』寛仁2年(1018)11月25日条が初見である。
興路の神館の位置は、図5に示す①のエリアで、河合神社横の下鴨本通のあたりにあった。
『山城名勝志』巻第十一の「神館」の項にも「興路在河合社西北是神館旧跡」とある。


図5 鴨社神館御所の所在位置(文献17①)
   ①神館御所旧跡(黄色エリア) ②解除御所旧跡 ③古切芝旧跡(赤色エリア)
   ④鴨社公文所旧跡、馬場殿旧跡 ⑤鴨社斎院御所旧跡 ⑥古馬場(茶色の道)
   ⑦鴨社神宮寺旧跡 ⑧鴨社西塔旧跡

文献17②には、神館の殿舎を示す資料として
『建治元年(1275)四月二十六日、御参篭御幸之時御所差図』との識語のある
『鴨社神館御所絵図』が掲載されており、以下の説明がある。
尚、本稿に転載した図6は、新木氏が作成された『鴨社神館御所絵図』の解説図である。
「御所内の東向きの向拝のある殿舎は板塀と桧垣に囲われ『御塗篭(五間×六間)。方庇(三間×五間)。
下北面(六間×四間)。宿所(三間×四間)。板屋(三間×二間)。御馬御輿』の棟のほか
名称は付されてはいないが御在所とみられるかなり大きな主要棟(四間×七間)などがあり、
毬の庭二面、弓庭一面と長期滞在されるために必要な設備をととのえた宮域を示している。
 御所の東側には、河合社社域西側を元とする馬場が所在した。」(文献17①)

文中の御輿(みこし)は、神ではなく貴人の輿(こし)であろう。つまり、貴人訪問時の輿の置き場と思われる。
図6の左端の丸いものは弓の的である。



 図6 『鴨社神館御所絵図』建治元年(1275)四月二十六日、御参篭御幸之時御所差図(文献17②)

ここで神館の使用目的を考えると次のようになる。
 ①貴人の参篭のための宿泊
 ②貴人の下社参詣のための休息所
  賀茂祭の時に、斎王が神事用装束に着替えるため等に利用。
 ③野外で行われる神事(切芝・馬場・蹴鞠等)の待機所
  弓庭は、騎射神事のためにあると思われる。
 ④御馬を留めておく所
  御生神事は神馬が核となる。図6には「御馬」の棟がみられる。
  神館に住まいする御馬とは、神馬のことではないだろうか?
  それはともかく、神館と切芝は馬場に接しており、馬との密接な関係は明らかだろう。
  上社では、馬場殿が神館と呼ばれたこともある。(文献17③)

これらから紫の上一行が詣でたところは、神館ではないことがわかる。では、どこであろうか?

<切芝(きりしば)>
 図5には神館に関連する場所として、古切芝・古馬場の位置が示されているが、
③古切芝、⑥古馬場の位置は、現在の切芝、馬場とは異なっている。
また、文献17①には次のような記述がある。
「御所の東側には、河合社社域西側を元とする馬場が所在した。
馬場末には、御生神事の行なわれる切芝が所在する。その旧跡は、現在、河崎口(こうさきぐち)と称している。」
文中「御生神事の行なわれる切芝」は、注目すべきである。
つまり、切芝神事は御生神事の一環であり、切芝を御生所と称しても何の不思議もない。
従って広義には、御生所は御蔭山と切芝を指すことがわかる。
平安時代、切芝は糺の森の中心にあったとされる。
当時の森は広大で、現在(12万4千平方メートル)の40倍もあった。
切芝は、古代における森の中の斎場のことである。
芝とは、山野にはえる小さな雑木で、たきぎや垣にしたりするものである。
このことから、切芝とは、芝を切ってこしらえた垣でもって囲われた清浄地であると考えられる。
垣を意味する芝挿(しばさし)と同じものである。
これは神祇的には磐境(いわさか)と見なしてもよいであろう。

 神館・古切芝・古馬場の一体感を示すものとして、新木氏の興味深い一文がある。(文献18①)
「もともと切芝は、かつての神館御所への御幸道である古馬場(後の河崎道)にあった。
当時は、馬場が参道であり、参道が馬場であった。古切芝は古代より永正14年(1517)4月まで用いられた。
現在の切芝は、元禄7年(1694)に葵祭の行粧が再興された折に、表参道馬場が造成され、その中ほどに設けられたものである。
切芝が七不思議に数えられているのは、切芝そのものが不思議というのではなく、切芝の場所のことであろう。
古切芝といい、新切芝といい、糺の森の中心に位置していることが不思議なのである。」


   図7 大木のある古切芝の推定地

古切芝は、神館の葵の群生地、古馬場に面するところにあった。(文献18①)
古馬場は、奈良時代から平安時代に用いられた。(文献18②)
 ここで、図5を再び眺めると、神館のエリア①の右上の角の部分が、古切芝③であることがわかる。
つまり、古切芝は神館の管理域にある斎庭(ゆにわ)と見なすことができる
前述のように切芝は御生神事が行われるところで、この意味で御生所である。
『河海抄』において「御生所は神館にあり」とはこのことを指していると思われる。
切芝神事こそ、紫の上が牛車二十台ばかりを従えて詣でるにふさわしい場であろう。
 切芝は社殿のできる以前から糺の森の斎場であり、現在の御祖の社殿は切芝の横に建てられたのである。
切芝の神は、糺の森の神であり、元々は地主神と考えられる。
それが、御祖の社殿の進出により、別雷神の御旅所になったと想像される。

(2)神幸と還幸
 御蔭山の磐座のある「原の座」は、祭祀構造からいえば上社の御囲(御生所)に相当するものである。(文献13)
『雍州府志』二 神社門上(愛宕郡)に、「御蔭社 在高野、下賀茂神始来現処、而猶上賀茂称御生所」とある。
元禄7年4月12日 御蔭山神事次第(文献2④)の行粧に捧持される二本の御迎賢木(おむかえ榊)は、
御囲の二本の御休間木の先端の榊に対応する。(文献19)
このことから、二本の御迎え榊は、別雷神の御祖である玉依姫と賀茂建角身命を表象する神宝の一種である。
そのことは、御蔭祭の最後に、御迎え榊が下社東西両本殿の扉の御鎖に差し立てられることからも明らかであろう。(文献9②)
御迎えの榊、船つなぎの榊、御囲の榊は、すべて二本であり共通の祭祀思想を有している。
 「船つなぎの磐座」の神事は、御祖が別雷神を迎える神事として構成されていることがわかる。
これらは、賀茂伝承にもとづいて人為的に形成されたものであることは明らかであろう。
下社は上社に対抗して、別雷神の独自の降臨地を御蔭山に求めたのである。
『小右記』の「皇御神初天降給小野郷大原御蔭山也」は、こうした事情を反映するものであろう。
『河海抄』の「賀茂祭前日於垂跡石上有神事」は、
伴信友の『瀬見小河』などによると、上社の北にある神山の巨大な磐座の記述とされてきた。(文献5②)
しかしながらここに至って、それは御蔭山の磐座での神事であることが判明した。

 ところで、迎えられた別雷神は最終的にどこに向かうのであろうか?
『神事記』の次第には、下社本宮の幣殿における神事が見える。(文献2③)
しかしながら下社の東西両本殿は、御祖の本殿であって、別雷神のものではない。
即ち、別雷神は上社と同じように本殿には向かわなかったと推定される。(文献13)
これは、上社よりも明瞭である。
別雷神は、御旅所である切芝に留まるものと思われる。
切芝は糺の森の「へそ」であり、象徴である。
別雷神は御錦蓋を出られて、目に見えぬ雲のように広がって糺の森全域を覆われる。

 いかにしていかに知らまし偽りを空に糺の神なかりせば  中宮定子  『枕草子』

御祖神の本殿を包み込んだ糺の森全域が別雷神の鎮座地である。
そして賀茂祭が終わり最初に雷が鳴った時、神は帰るとされる。(文献14②)
 切芝は、祭祀構造からいえば上社の神館(御旅所)に相当する。(文献13)
逆に言えば、かつては上社の神館の斎庭においても、切芝神事のような華麗な祭典があったことが推察される。

 御蔭祭の趣旨について、よく議論されることがある。
現行では、御蔭祭は神霊が御蔭山より下社に神幸される儀として行われている。
これに対して、座田氏の「下社の神霊が御蔭山に神幸して即日還幸されるのが本義」とする説がある。
座田氏は論文の中で次のような疑問を提起している。(文献9③)
「この祭儀は相反した二の儀式が矛盾を示したまま綴り合わされてゐるといふ外ない。
 即ち一方では本宮の神霊が御蔭山に神幸になり、即日還幸になるといふ儀式が編成され、
 他方には御蔭社の神霊が本宮へ神幸になるといふ形が表されてゐるのである。」

これは、先の論文「上賀茂神社嘉元年中行事 御阿礼の祭祀構造の諸問題」(文献13)で明らかにしたように、
「みあれ」神事が御祖神(氏神)と別雷神(天神)の重層的祭祀構造であることに起因している。
御祖神は本宮→御蔭山→本宮で、神幸と還幸である。
別雷神は御蔭山→御旅所(切芝)で神幸である。
別雷神と御祖神は御蔭山の磐座で再会し、そこから帰りの神馬には別雷神と御祖神が同乗されるのである。
このことは、行粧が、本宮から御蔭山までが「御幸(みゆき)行粧」、御蔭山から切芝までが「切芝行粧」、
切芝から本宮までを「還立(かんだち)行粧」に区分されていることからも類推できる。(文献20)
そして、切芝の儀は別雷神、本宮の儀は御祖神を奉斎するものである。
 御生神事とは、「賀茂旧記」にのっとり御祖が別雷神を迎える神事であり、上社の御阿礼神事と趣旨は同じである
両者の差は、元々別雷神と御祖神の一体の祭が上社と下社の分離により、祭神の分離がなされたため、
上社においては御祖神が、下社においては別雷神が隠されているだけである

これについては、次の論文「下鴨神社の上賀茂神社からの分社 引き裂かれた神々」(文献21)を参照願いたい。


6 まとめ

(1)御蔭祭の源流は、御蔭山の「船つなぎ」と呼ばれる湧水の磐座である。
   はじめは小野氏の水の祭祀場であったと想像されるが、やがて賀茂氏の支配するところとなり、
   下社の分立後、別雷神の新たな降臨地となった。

(2)現行の御蔭祭の原形は、応保元年(1161) 下社禰宜 祐直の社殿の記録『神殿舎屋之事等』に
  御蔭社とあることから、これ以前に出来上がったものと思われる。
  当時の御蔭社は、『鴨県纂書(かものあがたさんしょ)』に「拝殿鳥居一口 祐直卿記ニ御影社トアリ」とあるように
  磐座と拝殿によって構成された原始的な神社で、磐座祭祀であった。
  このことは、平安時代の御生神事の次第を記述した下社祝 光敦の『神事記』の分析から推定される。

(3)『神事記』の「御座する」は、神馬を神事の場に引き出すことである。
  「御座」は神馬の鞍から生まれた神道用語である。
  また「本の座を立て」とは、磐座に榊、御生木(みあれぎ)を立てることである。
  

(4)御生神事は、御祖神と別雷神の重層的祭祀である。
  御祖神は、本宮から御蔭山(神幸)、御蔭山から本宮(還幸)へと移られる。
  別雷神は、御蔭山で降臨の後、御旅所(切芝)に神幸される。
  別雷神は、本宮ではなく糺の森に鎮座される。
 
(5)『河海抄』の「賀茂祭前日於垂跡石上有神事 号御形御阿礼者御生也」は、
  御蔭山の磐座での神事を述べたものである。

(6)御生神事とは、「賀茂旧記」にのっとり御祖が別雷神を迎える神事であり、
  上社の御阿礼神事と趣旨は同じである。
  両者の差は、元々別雷神と御祖神の一体の祭が上社と下社の分離により、
  祭神の分離がなされたため、
  上社においては御祖神が、下社においては別雷神が隠されているだけである。

関連論文
上賀茂神社細殿 立砂の謎
上賀茂神社御生所 御休間木の謎
上賀茂神社嘉元年中行事 御阿礼の祭祀構造の諸問題<斎院制の時代の御阿礼祭祀の復元>
下鴨神社の上賀茂神社からの分社<引き裂かれた神々>
『河海抄』から読み解く 源氏物語の「みあれ詣」


参考文献
1『京都市の地名』 日本歴史地名大系27 ①p114~115 ②p103 平凡社 1979
2『葵祭の始原の祭り 御生神事 御蔭祭を探る』 新木直人 ナカニシヤ出版 2008
  ①p37 ②表紙裏の地図 ③p42~49 ④p50~67 ⑤p38 
3『京の葵祭展』 p67 京都文化博物館 2003   
4『山家要記(さんげようき)浅略目録』 春全 応永16年(1409) 
  (神道体系 論説編 天台神道(下) p368 1993 所収)
5『瀬見小河』 伴信友 安永2年(1773)~弘化3年(1846) 
  (神道体系 神社編 賀茂 ①p100~103 ②p78 1984 所収)
6「御阿礼考」 真弓常忠 (『皇學館大學紀要』第14号 p37 1976 所収)
7『賀茂注進雑記』 (『続々群書類聚』第1 神祇部 ①p588 ②p621 1978 所収)
8『日本古典文学大系28 新古今和歌集』巻十九神祇歌 p378 岩波書店 1964
9「御蔭祭について」 座田守氏
  (『神道史研究』第8巻5号 ①p279~280 ②p294 ③p284~289 1960 所収)
10「カモ県主の研究」 井上光貞(『日本古代史論集』p80所収)
11『鞍馬蓋寺縁起』 (『大日本仏教全書』第119冊 p101 所収)
12『鴨県纂書(かものあがたさんしょ)』 東京大学 史料編纂所蔵 コマ番0181.tiff
  『賀茂社関係古伝集成』 大間茂 所功(ところいさお)
  (『京都産業大学日本文化研究所紀要』第6号 別冊付録 p183 2001)
13「上賀茂神社嘉元年中行事 御阿礼の祭祀構造の諸問題」 江頭務
  (『イワクラ学会会報』25号 2012 所収)
14『日本古典文学大系16 源氏物語』三 ①p195~196 ②p445~446 山岸徳平 岩波書店 1964
15『河海抄(かかいしょう)』『花鳥余情(かちょうよせい、かちょうよじょう)』 
  (『国文注釈全書』 室松岩雄編 国学院大学出版部 1908 所収)
16『源氏物語事典』 p476 池田亀鑑編 東京堂出版 1989
17「鴨社神館の所在」 新木直人 (『古代文化』43-7 ①p32~33 ②p35 ③p37  1991 所収)
18『下鴨神社 糺の森』 ①p83~85 ②p101~104 新木直人 ナカニシヤ出版 1993
19「上賀茂神社御生所 御休間木の謎」 江頭務 (『イワクラ学会会報』24号 2012 所収)
20『鴨社の絵図』 p19~22 鈴木義一 糺の森顕彰会 1993
21「下鴨神社の上賀茂神社からの分社 引き裂かれた神々」 江頭務 
  (『イワクラ学会会報』27号 2013 所収)

ホームページ
HP「まさとの写真館」 http://blogs.yahoo.co.jp/masato5827/32163290.html


(C20120417アクセスカウンター)

トップページに戻る