研究論文電子版 2013年3月9日掲載 |
慶長十年中一里山裁許絵図の一里塚について 1 はじめに 六甲山系の山論に関し、『神戸古今の姿』(文献1)に次のような記載がある。 市背連山に口、中、奥一里山の称あり。古来之を使用すれど初めて記録に現はれたるは慶長年中片桐且元の山論裁許状にあり。 此山論は神戸側の五十数箇村と山田村の権利争ひなりしが爾後二百五十年間に亘り解決を見ず。 日本に於ても稀有の山論たりしが、明治九年に至り遂に決定し、 一件始めて神戸側の勝利に帰し、中一里山は部落有財産となるに至れり。 口中一里山の境界は、東は六甲山の三郡境界たる半国岩、今の三石岩を東端とし、 西へ摩耶再度の頂上を経、有馬道の高坐、烏原谷の一ッ橋、鵯越の一里松、車村の善福寺峯に来り、 車村の大池、白川村の法眼堀切を経て播州堺に達する一線にして、中一里の奥に奥一里山あり、武庫郡山田村に属す。 (筆者注) 六甲山の三石岩は、今の三国岩。 車村の善福寺(原文は禅福寺とあるが誤りであろう)は、今の慶雲寺。 法眼の堀切は、白川村の摂津と播磨の国境を指す。辞典によれば、法眼(ほうげん)は僧の位とある。 尚、上記の境界は大蔵省所蔵『中一里山境界図』(文献2①)(以下「大蔵省境界図」と略称)によるものである。 「大蔵省境界図」の解説としては、奥中喜代一氏の『国際港都の生いたち その二』(文献20)がある。 中一里山の境界には一里塚と呼ばれる塚が点々と築かれた。その塚のあるものは慶長年中に遡るものがある。 本論文は、慶長十年中一里山裁許絵図に現れた塚の概略位置を推定したものである。 2 一里塚の由来 一里塚の名称の由来としては二説ある。 ひとつは距離によるもの、ふたつは条里制を起源とするものである。 距離説 距離説に関して、慶長九年(1604)の村田家文書に次のようにある。(文献3) 山田庄境争論山田庄惣中申上条々 ・・・山田より兵庫迄三里之内、くち一里者兵庫在々の領内、おく二里ハ山田庄領内にて御座候、 然処中一里之分兵庫其外在々へ山手ニ相定売申候、・・・ 慶長九年十二月七日 山田庄惣中 上記の文書に基づき、神戸電鉄谷上駅(下谷上村)と兵庫区和田岬(兵庫津)までの直線距離を測ると、 約3里(12㎞)となりそれなりの説得力はある。 条里制説 奈良朝の条里制は条と里を碁盤の目のように区切り、条と条の間、里と里の間を一里(六丁)とした。 さらにその正方形の区画を一丁四方に三十六分割し、その小区画を坪と呼称した。 それは、摂津国八部郡何庄何条何里何坪というように住所としても用いられた。 神戸地方の条里制は、里は北より南へ一里・二里と呼ばれ、各条の一里が横に連なっていた。 これを神戸側から口一里、中一里、奥一里と呼んだ。(文献2②) そして、口一里の北の境界が山田の庄と神戸側の境界となった。 いずれもなかなかの説であるが、現在のところ結論はでていない。 口一里山、中一里山の呼び方は、今も健在である。 例えば、再度山には境界が走り、南と北に区分されている。 南の大龍寺は、神戸市中央区神戸港地方口一里山再度山1、 北の再度公園は、神戸市北区山田町下谷上中一里山4-1である。 「神戸港地方」は「こうべこうじかた」と読む。 地方(じかた)とは江戸時代には都市部に対する農村の事を指したが、 明治時代に神戸港周辺部の山間部を指す地名として用いられた。 3 慶長九年の中一里山山論 慶長九年の中一里山山論ついて、『神戸市史』(文献4)よりその概要を紹介する。 近世の農民にとって、山野もまた堆肥を作るための下草を刈り、牛馬を養い、薪を拾い、木の実や山草を採取する場として、 農業生産のみならず農民の生活そのものを支える上で、重要な意味をもっていた。 そのため、山野の権益をめぐる村と村との争いは、近世を通じて頻発し、 とりわけ近世初頭には、農民間の激しい実力行使を伴うことさえあった。 慶長九年に起こった山田庄と兵庫・神戸近在村々との庄境入山をめぐる争論は、 十一月十七日山で柴を採取していた兵庫近在の者に対し、山田庄側が庄境を越えて入山しているとして、 鎌鉈を奪い、鞍を抑え、刈柴を焼き捨て、追い返したことに端を発している。 その報復に今度は福原庄側が主唱して、兵庫津へ通じる各道を抑え、 山田庄から運ばれる米・柴を阻止する実力行使に及んだため双方の衝突となり、重傷者を出す大事件となった。 山田庄側は奉行片桐且元(注)に出訴し、且元は十二月十四日、 制札を以て、中一里山への立入りを禁じ往来は通ずるよう命ずるとともに、 翌年一月より審理にかかるよう相手方福原庄関係者に手配した。 ところが、兵庫津と上庄ではそれぞれの代官の許可を得て入山したことから、再び山田庄側と衝突し、 十二月二十五日兵庫側は山田からの荷物を止め、 翌十年一月十一日山田側も兵庫から有馬への継立てを、箕谷の茶屋で妨害する事件が起こった。 そして同二十日、大坂へ双方の関係者が事情を上申し、取調べのうえ、 二月二日対決があって、紛争の当事者は入牢、十三日には検使が実地を検分し、二月二十七日且元による裁決が下されている。 その内容は、庄境の山地に境の塚を定めて、麓から口一里、中一里、奥一里の三地帯に分け、 麓の口一里に当たる山は福原庄に付し、中一里の山からは山田庄域と確認したが、 福原庄から山手を出して入会う慣行を認め、奥一里の山は山田庄単独の山とするというものであった。 ただ、制札以後の入山による紛争は、掟に背く行為として、入山を認めた代官は罷免のうえ知行地は没収、 双方の首謀者は梟首(きょうしゅ:さらし首)という厳しい刑が行われた。 この中一里山への山手(入会料)を出して入会うという慣行は、山田庄の南に接する福原庄以外の庄園村々にも同様に行われたが、 その後延宝の検地によって、この山手は検地帳に記載され、幕府の収納するところとなっている。 (注)片桐 且元(かたぎり かつもと)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、奉行、大名。賤ヶ岳の七本槍の1人。 豊臣家より豊臣姓を許される。関ヶ原の戦い以降、徳川家康に協力的な立場で豊臣秀頼に仕えていた。(Wikipedia) 4 慶長十年中一里山裁許絵図 筆者の知るところでは、慶長十年に作成されたとされる原図は不明であるが、その写しはすくなくとも三枚はある。 一枚目(図1A)は、『神戸市史』(文献4)に掲載されたもので、 原図は神戸市文書館に『山田出張所旧蔵文書』(文献5)として保管されている。 二枚目は一枚目と同時保管されているもので、内容は一枚目とほとんど同じものであるが、 一枚目に比べて一切の符箋がないのが特徴的である。 三枚目(図1B)は、『補修 神戸区有財産沿革史』(文献2①)に掲載されているものである。 一枚目と二枚目の絵図は、神戸市文書館にて一般の人の閲覧が可能である。 図1Cは、三枚の絵図の内容を筆者が解読して活字体の文字で追記したものである。 図1Aと図1Bはほとんど同じものであるが、図1Aでなければ得られない情報もある。 例えば、図1Bでは菊水山(図1C参照)の名は記載されていないが、図1A には記載がある、 塚の説明の表記も一部異なる(表1参照)等である。 図1A 慶長十年中一里山裁許絵図(写)横145㎝×縦160㎝(文献4) 図1B 慶長十年中一里山裁許絵図(写)(文献2①) 図1C 慶長十年中一里山裁許絵図(筆者解読図) 図1の絵図に描かれた4本の道は、左から鵯越道、烏原道、天王谷道、再度道となる。 絵図の中央の二股に分かれた川は、湊川である。また、その二股の川に挟まれたひときわ高い山は菊水山である。 その右手、絵図の右端にある山は再度山である。 摩耶山は絵図には描かれていない。湊川の右隣は生田川である。 図1Aの絵図では、塚のある場所に符箋が張られていることがわかる。 図1Cでは、塚を黄色の〇印で表示している。 上側の「奥一里塚」をA1~F1、下側の「中一里塚」をA2~F2として話を進める。 アルファベットの後ろの数字、1は「奥一里塚」、2は「中一里塚」を示す。 図1C上側のC1とF1及び下側のA2の塚は図1Aの絵図にはなく、A2の塚は図1Bにもないが、 慶長十年に作成された絵図にはあったものと想定される。おそらく、符箋がはがれたものと思われる。 尚、図1Bの〇印は、実際の塚の位置というよりは符箋のあった位置を示したものと思われる。 (実際の塚の位置は、そこからかなりずれる場合も考えられる) 絵図から判明することは、つぎの諸点である。 ①奥一里塚B1~E1と中一里塚B2~E2の間に線が走っており、この間が中一里山の明瞭な裁許範囲であろう。 ②絵図の中一里山に村落は含まれておらず、小部村と藍那村は、絵図においては奥一里山に含まれる。 ③菊水山は絵図においては中一里山に含まれ、再度山は口一里山に含まれているように見える。 ④すべての一里塚は、道の上下の傍らに設けられていたと思われる。 一里塚A1~A2(藍那~白川道)、一里塚F1~F2(上谷上~生田道)については論証が必要なため、 項を改めて詳述する。 5 中央部境界の一里塚(塚B~E) 「慶長十年中一里山裁許絵図(写)」の塚の位置を推定するためには、何よりも絵図に書かれた地名情報が重要である。 表1は、三種類の「慶長十年中一里山裁許絵図(写)」(以後「絵図」と略称)から 塚の近傍に書かれた地名情報を読み取ったものである。 第1種、第2種の絵図は神戸文書館の原図(文献5) から、 第3種絵図は文献2の初版本(1919年)である文献6の折込絵図から読み取った。 <三種類の「慶長十年中一里山裁許絵図(写)」の地名情報> 表1 三種類の「慶長十年中一里山裁許絵図(写)」の地名情報一覧 第1種絵図 神戸文書館蔵 『神戸市史』掲載のもの(図1A) 第2種絵図 神戸文書館蔵 上記と一緒に保管されているもの 第3種絵図 『神戸区有財産沿革史』に掲載のもの(図1B)
・「志」と「於」は、「し」と「お」の変体がな ・「うつぼ志いの木」の「ぼ」は、原図では変体がな「ほ(本)」に濁点の表記である。 ・「こう志ん堂」の「こ」は、原図では変体がな「こ(古)」の表記である。 ・第3種絵図の中一里塚の一里松のところには、松の木の絵がある。 <推定根拠> 推定にあたっては、第一に表1の絵図の情報、第二に現在の中一里山の境界、 第三に大蔵省境界図(文献2①)、第四に山論にかかわる事件や伝承を勘案した。 中一里山の境界については、ネット地図Mapionを使用し、 境界と鵯越道、烏原道、天王谷道、再度道との交点を参考地として求めた。 塚B1 絵図に「うつぼ志いの木(うつぼ椎の木)」とある。 「うつぼ」は空洞、空洞のある椎の巨木と想像される。 Mapion地図から得られた境界で、星和台の南あたり。 塚B2 絵図に「一里松」とある。塚に植えられた松であろう。(図2) Mapion地図から得られた境界で、神戸電鉄鵯越駅のある里山町あたり。 里山町周辺には中一里山があるため、これが町名になったといわれている。(文献7) 図2 「ひよ鳥こゑ」の一里松(鵯越道 中一里塚B2)(文献5) 「中壱里塚」の符箋が貼られている。 塚C1 絵図に高い松と御堂が描かれ、「おふ志り堂(小部尻堂)」とある。(図3) 別の絵図(図1B)から、この御堂が庚申堂であることがわかる。(表1参照) Mapion地図から得られた境界で、小部尻にある一本松であろう。 大蔵省境界図に「一本松塚」がある。 一本松は烏原街道にあって、日本三大松と呼ばれた。(文献8①) 絵図には塚が描かれていないことから、この一本松自身が塚としての役割をはたしていたと思われる。 まさにランドマークである。 図3 松の木がある小部尻堂(烏原道 奥一里塚C1)(文献5) 塚C2 絵図に「一つ橋」とある。烏原谷の入口あたりと思われるが詳細位置は不明。 Mapion地図から得られた境界で、烏原町の北あたり。 『神戸歴史物語』(文献8②)には、慶長九年十二月一日に、この下の住蓮坂で起こった山論がらみの事件の記述がある。 塚D1 絵図に「杦ノ木(杉ノ木)」とある。 Mapion地図から得られた境界の北、二軒茶屋の南に字杉ノ木(文献9①)がある。 絵図の塚D1と塚E1を結ぶ境界が、天王谷川とクロスする地点としても妥当である。(図1C) 大蔵省境界図にも「杦木塚」がある。 また、『山田村郷土誌』(文献10①)には、「一本松から二軒茶屋へ見通す線が小部と下谷上字中一里山との境界線」とある。 塚D2 絵図に「かうざ(高座)」とある。 「かうざ」は天王谷道(有馬街道)にある兵庫区平野町の高座にあたる。 大蔵省境界図にも「高座塚」がある。 塚E1 絵図に「柿の木畠」と記載がある。(図4) 「柿の木畠」は、北区下谷上の字柿木畑(カキノキバタ)(文献9②)にあたる。 現在の神戸市立森林植物園の園内北部が柿木畑である。 この地は、柿木塚と呼ばれ一般の地図にも掲載されているが、塚の有無や慶長の絵図とのかわわりについては別途検討を要する。 図4 柿の木畠(再度道 奥一里塚E1)(文献5) 「奥壱里塚」の符箋がはられている。 塚E2 絵図に「よこ於(横尾)」とある。 この横尾については、神戸市文書館蔵「中山境堺字野香半国岩より大津木ノ山迄(間数覚)」(明治時代)(文献5)の中に、 「再度山ウラノ横尾」とある。表題の「大津木ノ山」は、菊水山の古名である。 これらから、Mapion地図から得られた境界で、再度山の裏手にあたる再度越の北あたりとなる。 大蔵省境界図にも、「口横尾塚」が再度山の西にある。「口」は口一里山を意味する。 これらから慶長絵図の塚の位置は多少のズレはあるものの、現在の中一里山の境界に合致しているといえる。 また、奥一里塚において鵯越道が椎、烏原道が松、天王谷道が杉、再度道が柿というようにそれぞれ樹木であることも興味深い。 6 東部境界の一里塚(塚F1~F2) 第3種絵図(図1C)には塚F1、F2両者の記載があるが、 第1種絵図(図1A)は塚F1の記載がなく、第2種絵図は塚F1、F2両者の記載がない。 塚F1とF2については、絵図に何の地名情報もなく、おまけに道も描かれていない。 従って、これまでとは別のアプローチが必要である。 享保十一年(1726)に八部郡福原の庄七ヶ村と菟原郡芦屋の庄三ヶ村との生田川の郡境と草山境界における山論において、 奉行所が出した裁許状(村上華岳氏所蔵)の中に次の文言がある。 「・・・文祿年中検地の節の古證文指出候。草山境は立岩より長尾谷塚まで限り、 地元丹生山田庄へ福原庄六ヶ村より山手米相納め候・・・ 享保十一丙午年十月十九日」(文献2③) 上記古證文は、福原の庄が裁判資料として奉行所に提出したものである。文中の草山とは、中一里山にある入会の山をさす。 この文中の「立岩」と「長尾塚」が鍵となる。 詳細については 関連調査報告 石楠花山の一里塚と生田川の立岩 を参照。 (1)生田川の立岩 立岩は、生田川上流のトェンティクロス高雄山ダムの右岸にある巨岩である。 生田川の立岩は、『再度山史話』の付図である神戸徒歩会会員用地図(図10)に登場する。(文献11) 神戸徒歩会は、明治43年(1910)に結成された日本初の社会人山岳会として知られる。 また、立岩は昭和51年(1976)の『六甲』の付図のなかにもある。(文献12) 最近の地図には掲載されていないが、この岩は昭和四十三年頃まで三笠岩と呼ばれていた。(文献13) 図5 トェンティクロスにある立岩(三笠岩) 図1Cの絵図をよく見ると、F2の塚は再度山の裏手の奥に描かれているように見える。 つまり、F2の塚は立岩であることがわかる。 この立岩は大蔵省境界図にあり、明治時代の地図(文献14)に山田村の境界線が通っていることからも信頼性は高い。 (2)石楠花山の一里塚 昭文社2013年版の『山と高原地図18 六甲・摩耶』を見ると、石楠花山の南西に一里塚の表記がある。 その場所に行ってみると、写真のような塚がみえる。 底面の直径が約3mの小さな塚である。一里松と呼ばれる松の木が生えている。 図6 雪をかぶった一里塚 塚の形がよくわかる。 この一里塚が本格的な地図に登場するのは 六甲登山の草分け的存在である直木重一郎氏の昭和九年(1934)刊『六甲・摩耶・再度山路図』(文献15)であろう。 直木地図(図7)を見ると、長尾谷の上に一里塚があることから、石楠花山の一里塚は「長尾谷塚」に他ならないことがわかる。 図7 直木地図 長尾谷を登りつめた尾根上に一里塚の塚マークがある(文献15) (3)生田川道 江戸時代、山田庄から再度山に登る本道は、上谷上村を起点としていた。 図1AとCを見ると、太い道が上谷上村から再度山に走っているのがわかる。 そして、図1Aには下谷上村から細い道が、上谷上村からの本道に合しているのがわかる。 このことをうかがわせる『山田村郷土誌』(文献10②)の再度越道の記述があるので、以下に紹介する。 神戸電鉄谷上駅から有馬街道沿いに200m余東の上谷上字坂口を起点とする。 そこから自然石の道標に従って南方の福浄寺山(福正地山)を経て、下谷上中一里山との境界に接した上谷上字丸石に至る。 ここで道は左右に分岐するが、左方へとって一度東丸山の尾根へ上ってから二ツ下谷へ下り、 谷をつめて六甲山の主稜線に達して、それから黄蓮谷西方の尾根を下って行けば布引川沿いに神戸へ出ることができる。 分岐点で右方へとると、ささぶ(佐々武)峠を経て五辻で狼谷道と合する。 左右どちらの道も上谷上から神戸方面へ抜ける主要道路でこそのため往時としては道幅も広かった。 しかし、現在では完全に山道となってしまった所が多い。 下谷上からの再度越もあった。 下谷上字中上から丸山川に沿って登り、丸山堰堤上流500mの地点で前記の上谷上からの道に合する。 上記の上谷上字丸石の左右の分岐点には、現在も写真のような自然石の道標(図8)がある。 道標の表には、「右再度山神戸 左山道」とあり、裏には「御大典記念 昭和三年十一月 上谷上青年支部」とある。 右は石楠花山に向かう道であり、左は下谷上に下る道である。 (引用文の登りの場合、向かって左が道標の「右再度山神戸」にあたる) 当時、下谷上に向かう道は江戸時代とかわらぬ細々とした山道であったことがわかる。 尚現在、福浄寺山ルートは廃道化、左の山道は谷上駅から森林植物園に向かう広々とした道(山田道)につながっている。 図8 上谷上字丸石の道標(山道側から撮影) さて引用文は、古い記述なので細かいルートは把握できないが、 布引川(生田川)沿いに神戸へ出るには黄連谷を通る必要のあることから、 石楠花山の一里塚を通過する可能性が高いことがわかるであろう。 もちろん、このルートがそのまま慶長年間に存在したかどうかは確実ではないが、 すくなくとも下谷上村からい生田村に通じる主要な道があったことは、 『慶長十年摂津国絵図』(文献16)、『天保七年摂津国名所大絵図』(文献17)からも確認することができる。 つまり、石楠花山から生田川を下る道に奥一里塚(長尾谷塚)と中一里塚(立岩)が置かれていたことがわかる。 上谷上村にとって石楠花山は奥一里山として何としてでも確保したい山であろう。 塚の設置位置は、各村の生存権をかけた主張が強く働いていたと見られる。 7 西部境界の一里塚(塚A1~A2) 第3種絵図(図1B)と第1種絵図(図1A)は塚A2の記載がなく、第2種絵図は塚A1、A2両者の記載がない。 塚A1とA2については、西部境界と同様に、絵図に何の地名情報もなく、道も描かれていない。 そこで、絵図と同一年代の『慶長十年摂津国絵図』(文献16)を見ると、 絵図の(塚A1~A2)のあたりに藍那村から白川村に向かう道がある。 また大蔵省境界図の白川のあたりにも「奥一里塚 横尾塚」の名がみえる。 『徳川道 西国往還付替道』(文献18)には「字横尾塚」の地点があり、 「太陽と綠の道 神鉄藍那~白川台ハイキングコース」の横尾辻(白川道と木見峠の分岐点)の北にある小高い峠との説明がある。 まさにこの地点(図9 A1赤丸印)こそ、『慶長十年中一里山裁許絵図』の奥一里塚A1が置かれていた地点と想定される。 従って白川の境界(図9 A2赤丸印)には、中一里塚A2が置かれていたものと推定される。 図9の黄色のエリアが、現代に残る藍那と白川間に横たわる中一里山である。 図9 現代に残る藍那~白川間の中一里山の事例(Mapion地図) 薄緑色のエリア:藍那 黄色のエリア:中一里山 薄桃色のエリア:白川 右手の綠色の広大なエリア:しあわせの村(神戸市の総合福祉ゾーン) 住所 神戸市北区山田町下谷上字中一里山14-1 <古地図との比較> 図10 正徳四年六月白川村所有絵図(部分)(文献19) 白枠の文字は、筆者が追記 図10は、図9のエリアを正徳四年(1714)の白川村所有の絵図から抜き出したものである。 北部の境界は、現代の図9と驚くほど似ていることがわかる。 薄緑色のエリアが中一里山を示している。奥一里塚A1の黒丸印は絵図の凡例によれば「●此色塚境」とある。 摂津と播磨の国境に点々と連なる黒丸印も塚を示している。 今から三百年前、字横尾塚に中一里山の境界塚があったことが確認できる。 <奥一里塚と中一里塚> 図10には中一里塚A2の塚マークが記載されていない。これはなぜだろうか? 図10の絵図は、白川村の権利が及ぶ最大領域を示したものであり、塚はその外周に置かれる。 立場をかえて山田側から見ると、中一里塚を結ぶ線が最大領域となり、塚が置かれることになる。 つまり、奥一里塚は山田側へできるだけ食い込もうとする神戸側の境界点であり、 中一里塚は神戸側へできるだけ食い込もうとする山田側の境界点である。 図10の絵図からは、この重なりあった部分こそが中一里山山論の源であることが読み取れる。 8 慶長十年中一里山裁許絵図における一里塚の概略推定位置 最後に、これまでの検討結果から慶長十年中一里山裁許絵図(図1C)の一里塚の概略推定位置を表2、図11に示す。 表2 慶長十年中一里山裁許絵図における一里塚の概略推定位置
図11 慶長十年中一里山裁許絵図における一里塚の概略推定位置(google) まとめ 慶長十年(1604)の中一里山裁許絵図の検討において、 四百年前の中一里山の領域が現在の神戸市北区下谷上の領域とかなり一致していることを確認した。 謝辞 『旗振り山』の著者である柴田昭彦氏からは、資料の所在についての情報をいただきました。 また、神戸市文書館には慶長十年中一里山裁許絵図の閲覧でお世話になりました。 ここにあらためて感謝申し上げます。 関連調査報告 石楠花山の一里塚と生田川の立岩 参考文献 1『神戸古今の姿』 p101 岡久殻三郎(オカヒサコウザブロウ )、福原潜次郎 歴史図書社 1977 2『補修 神戸区有財産沿革史』(神戸中央図書館蔵) ①口絵写真 ②p122~127 ③p176 神戸市神戸財産区 1941 3『神戸市文献史料 第二十二巻 古文書調査報告』 村田家文書 p17 神戸市教育委員会編 2003 4『新修神戸市史 歴史編Ⅲ』 p143~145 新修神戸市史編集委員会 1992 5『山田出張所旧蔵文書』神戸市文書館蔵 文書番号51「慶長十年中一里山裁許絵図(写)」横145㎝×縦160㎝(『神戸市史』掲載のもの) 文書番号52「慶長十年中一里山裁許絵図(写)」横145㎝×縦160㎝ 文書番号44「中山境堺字野香半国岩より大津木ノ山迄(間数覚)」(明治時代) 6『神戸区有財産沿革史』(兵庫県立図書館蔵) p29折込絵図 神戸市神戸財産区 1919 7『由緒あるまち兵庫』 p44 神戸市兵庫区役所 1984 8『神戸歴史物語』 ①p32~34 ②p119~120 小部史研究同好会 1989 9『神戸市小字名集』 ①p61 ②p56 落合長雄 神戸史学会 1981 10『山田村郷土誌(第二篇)』 ①p396 ②p159~160 1979 11『再度山史話』 付図 神戸徒歩会 12『六甲』付図 竹中靖一 中央出版社 1976 13『六甲山ハイキング』 p139 大西雄一 創元社 1968 14『正式二万分一地形図集成 関西』 p132神戸 柏書房 2001 15『六甲・摩耶・再度・山路図』 直木重一郎 関西徒歩会 1934 16『兵庫県史 史料編 近世一』 慶長十年摂津国絵図 p510, p518~519, p521~523 17『摂津国名所大絵図 天保七年(1836)』 復刻古地図 人文社 18『徳川道 西国往還付替道』 p44~45 19『白川台のあゆみ』(神戸中央図書館蔵) p24 1971 20『国際港都の生いたち その二』(神戸中央図書館蔵) 奥中喜代一 p107~110 建設工学研究所 1964 (C20130309) トップページに戻る |