調査報告電子版 2013年3月9日掲載 
イワクラ(磐座)学会会報56号掲載     
   
   六甲石楠花山の一里塚と生田川の立岩について

                                            イワクラ(磐座)学会  江頭 務
1 はじめに
 昭文社の『山と高原地図48 六甲・摩耶』(2017年版)を見ると、石楠花山の南西に一里塚の表記がある。
その場所に行ってみると、写真のような塚がみえる。

 
図1 底面の直径が約3mの小さな塚である。
    一里松と呼ばれる松の木が生えている。
  
  図2 雪をかぶった一里塚 塚の形がよくわかる。

この塚は一体何を意味するものであろうか?
さらに、生田川上流のトェンティクロスの高雄ダムの前方右岸にある巨岩、
通称三笠岩(図3)が石楠花山の一里塚と同類であるといったら驚くであろうか。(文献1)
この岩は、昔、立岩と呼ばれ、村々にとって重要な意味をもつものであった。

     
 図3 トェンティクロスにある立岩(三笠岩)

一里塚の歴史的な背景について知る人はまれであろう。
本報告は、これらを明らかにして、石楠花山の一里塚と生田川の立岩の
史跡としての重要性を喚起するとともに、その保全を要望するものである。


2 一里塚とは何か

(1)山論の歴史
 ここでいう一里塚とはもちろん街道の一里塚ではなく、山の境界を示すものである。
一里塚の起源ははっきりしないが、文禄年間以前に遡るものと思われる。
 
摂津の神戸地方の村々は六甲山系の山々の利害をめぐって果てしなき争いを続けてきた。
それは山論(さんろん)と呼ばれる。
八部郡と菟原郡の郡境となる生田川の東部境界においては、享保十一年(1726)に八部郡福原の庄と菟原郡芦屋の庄との山論、
西部境界においては、寛文年間に福原の庄と小平ノ庄の山論、
北部境界においては、慶長九年(1604)に山田の庄と福原の庄・兵庫上ノ庄の山論が有名である。
そして、慶長以来の山論は明治になって最終章を迎えることとなる。
明治九年(1876)、地券の下付を巡って、
山田庄と神戸側の葺合庄、都賀庄、福原庄、中ノ庄、兵庫津の間の対立が激化し裁判となった。
当時の法規では年貢を納めているものに地券が下付されることになっていたため、
検地帳に山年貢が記載されていることをもって神戸側の勝訴となった。
これにより、山田庄側は広大な山地を失うことになった。(文献2①)
この時の境界を印したと思われるものとして、大蔵省所蔵『中一里山境界図』(文献2②)が残されている。
明治四十四年発行の『正式二万分一地形図集成』の山田村の神戸側境界は、
前記境界図の中一里塚の結ぶ境界とおおむね一致する。

(2)一里塚の由来
 一里塚の名称の由来としては二説ある。
ひとつは距離によるもの、ふたつは条里制を起源とするものである。

距離説
距離説に関して、慶長九年(1604)の村田家文書に次のようにある。(文献3)
山田庄境争論山田庄惣中申上条々 
・・・山田より兵庫迄三里之内、くち一里者兵庫在々の領内、おく二里ハ山田庄領内にて御座候、
  然処中一里之分兵庫其外在々へ山手ニ相定売申候、・・・
                       慶長九年十二月七日 山田庄惣中

上記の文書に基づき、神戸電鉄谷上駅(下谷上村)と兵庫区和田岬(兵庫津)までの直線距離を測ると、
約3里(12㎞)となりそれなりの説得力はある。

条里制説
奈良朝の条里制は条と里を碁盤の目のように区切り、条と条の間、里と里の間を一里(六丁)とした。
さらにその正方形の区画を一丁四方に三十六分割し、その小区画を坪と呼称した。
それは、摂津国八部郡何庄何条何里何坪というように住所としても用いられた。
神戸地方の条里制は、里は北より南へ一里・二里と呼ばれ、各条の一里が横に連なっていた。
これを神戸側から口一里、中一里、奥一里と呼んだ。(文献2③)
そして、口一里の北の境界が山田の庄と神戸側の境界となった。

いずれもなかなかの説であるが、現在のところ結論はでていない。

 口一里山、中一里山の呼び方は、今も健在である。
例えば、再度山には境界が走り、南と北に区分されている。
南の大龍寺は、神戸市中央区神戸港地方口一里山再度山1、
北の再度公園は、神戸市北区山田町下谷上中一里山4-1である。
「神戸港地方」は「こうべこうじかた」と読む。
地方(じかた)とは江戸時代には都市部に対する農村の事を指したが、
明治時代に神戸港周辺部の山間部を指す地名として用いられた。


3 石楠花山の一里塚と生田川の立岩の位置

(1)石楠花山の一里塚の位置
 この一里塚が本格的な地図に登場するのは
六甲登山の草分け的存在である直木重一郎氏の『六甲・摩耶・再度山路図』(以後「直木地図」と略称)(文献4)であろう。
直木地図は昭和九年(1934)の発行のため山路が現在とは大幅に変わっているだけでなく、等高線も描かれていないため、
その正確な位置を知るためには、直木地図と現代の地図との中間的な年代の地形図と照合する必要がある。
なぜならば、前述のように従来の地図においては往々にして記載誤りが見受けられるからである。
それに適合するのが、平成四年(1992)刊行、
中村勲氏の『登山・ハイキング52 六甲摩耶』(以後「中村地図」と略称)(文献5)である。

     
 図4 直木地図 
    長尾谷を登りつめた尾根上に
    一里塚の塚マークがある
   図5 中村地図 
    石楠花山を下った送電線の下あたりに
    一里塚の塚マークがある

<直木地図と中村地図の照合>
直木地図は、等高線が描かれていないために尾根筋と谷筋で判断する。
直木地図の一里塚は、下水谷の上流の二股に分かれた谷筋に挟まれた尾根上にある。
中村地図において、直木地図の下水谷は二ッ下谷にあたる。
中村地図の二ッ下谷は、上流において二股に分かれている。
この右股が直木地図に長尾谷と表記されたところである。
従って、中村地図の一里塚は直木地図のものと同じである。

(2)生田川の立岩の位置
 生田川の立岩は、『再度山史話』の付図である神戸徒歩会会員用地図(図6)に登場する。(文献6)
神戸徒歩会は、明治43年(1910)に結成された日本初の社会人山岳会として知られる。
また、立岩は昭和51年(1976)の『六甲』の付図のなかにもある。(文献7)


図6 高雄山(TKAO HILL)の右上に立岩(Standing Rock)の位置が印されている


4 立岩と長尾谷塚の歴史的背景
 ここでは、石楠花山の一里塚が歴史的にどこまで遡れるかを検討する。
前述の享保十一年(1726)に八部郡福原の庄七ヶ村と菟原郡芦屋の庄三ヶ村との郡境と草山境界における山論において、
奉行所が出した裁許状(村上華岳氏所蔵)の中に次の文言がある。

「・・・文祿年中検地の節の古證文指出候。草山境は立岩より長尾谷塚まで限り、
   地元丹生山田庄へ福原庄六ヶ村より山手米相納め候
・・・
                                 享保十一丙午年十月十九日」(文献2④)

上記古證文は、福原の庄が裁判資料として奉行所に提出したものである。文中の草山とは、中一里山にある入会の山をさす。


図7 新幹線新神戸駅前の生田川右岸に立つ
    「八部兎原両郡界生田川中央之標」

この立岩は大蔵省所蔵『中一里山境界図』(文献2②)にあり、
明治時代の地図(文献8)に山田村の境界線が通っていることからも信頼性は高い。
そして、「長尾谷塚」も、直木地図(図4)に長尾谷の上に一里塚があることから、
石楠花山の一里塚は「長尾谷塚」に他ならないことがわかる。


5 生田川道
 江戸時代、山田庄から再度山に登る本道は、上谷上村を起点としていた。
このことをうかがわせる『山田村郷土誌』(文献9)の再度越道の記述があるので、以下に紹介する。

 神戸電鉄谷上駅から有馬街道沿いに200m余東の上谷上字坂口を起点とする。
そこから自然石の道標に従って南方の福浄寺山(福正地山)を経て、下谷上中一里山との境界に接した上谷上字丸石に至る
ここで道は左右に分岐する
が、左方へとって一度東丸山の尾根へ上ってから二ツ下谷へ下り、
谷をつめて六甲山の主稜線に達して、それから黄蓮谷西方の尾根を下って行けば布引川沿いに神戸へ出ることができる

分岐点で右方へとると、ささぶ(佐々武)峠を経て五辻で狼谷道と合する。
左右どちらの道も上谷上から神戸方面へ抜ける主要道路でこそのため往時としては道幅も広かった。
しかし、現在では完全に山道となってしまった所が多い。
 下谷上からの再度越もあった。
下谷上字中上から丸山川に沿って登り、丸山堰堤上流500mの地点で前記の上谷上からの道に合する


 上記の上谷上字丸石の左右の分岐点には、現在も写真のような自然石の道標(図8)がある。
道標の表には、「右再度山神戸 左山道」とあり、裏には「御大典記念 昭和三年十一月 上谷上青年支部」とある。
右は石楠花山に向かう道であり、左は下谷上に下る道である。
(引用文の登りの場合、向かって左が道標の「右再度山神戸」にあたる)
当時、下谷上に向かう道は江戸時代とかわらぬ細々とした山道であったことがわかる。
尚現在、福浄寺山ルートは廃道化、左の山道は谷上駅から森林植物園に向かう広々とした道(山田道)につながっている。


図8 上谷上字丸石の道標(山道側から撮影)

さて引用文は、古い記述なので細かいルートは把握できないが、
布引川(生田川)沿いに神戸へ出るには黄連谷を通る必要のあることから、
図5の中村地図から石楠花山の一里塚を通過する可能性が高いことがわかるであろう。                                                             
もちろん、このルートがそのまま慶長年間に存在したかどうかは確実ではないが、
すくなくとも下谷上村からい生田村に通じる主要な道があったことは、
『慶長十年摂津国絵図』(文献10)、『天保七年摂津国名所大絵図』(文献11)からも確認することができる。
つまり、石楠花山から生田川を下る道に奥一里塚(長尾谷塚)と中一里塚(立岩)が置かれていたことがわかる。
上谷上村にとって石楠花山は奥一里山として何としてでも確保したい山であろう。
塚の設置位置は、各村の生存権をかけた主張が強く働いていたと見られる。

6 まとめ
 石楠花山の一里塚は長尾谷塚、生田川の三笠岩は立岩と呼ばれる文禄年間に遡る境界塚である。
完全な形で残されている古い一里塚は、今の所これ以外になく貴重な史跡である。
また、立岩は地図に表記されてしかるべきものである。
損壊することのなきよう関係各位に適切な保護をお願いします。

謝辞
『旗振り山』の著者である柴田昭彦氏からは、資料の所在についての情報をいただきました。
ここにあらためて感謝申し上げます。

関連論文 慶長十年中一里山裁許絵図の一里塚について

参考文献
1『六甲山ハイキング』 p139 大西雄一 創元社 1968
2『補修 神戸区有財産沿革史』(神戸中央図書館蔵) 
  ①p129~189 ②口絵 ③p122~127 ④p176 神戸市神戸区 1941
3『神戸市文献史料 第二十二巻 古文書調査報告』 村田家文書p17 神戸市教育委員会編 2003
4『六甲・摩耶・再度・山路図』 直木重一郎 関西徒歩会 1934
5『登山・ハイキング52 六甲摩耶』 中村勲 日地出版 1992
6『再度山史話』 付図 神戸徒歩会
7『六甲』 付図 竹中靖一 中央出版社 1976
8『正式二万分一地形図集成 関西』 p132神戸 柏書房 2001
9『山田村郷土誌(第二篇)』 p159~160 1979
10『兵庫県史 史料編 近世一』 慶長十年摂津国絵図 p510, p518~519, p521~523
11『摂津国名所大絵図 天保七年(1836)』 復刻古地図 人文社

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