イワクラウオッチング 第1部2章

六甲山系の磐座・霊石 神社系

 このコーナーでは、六甲山系に存在する磐座(いわくら)を霊石も含め幅広く紹介しています。
未来に向けて「磐座の可能性を秘めた研究材料」をできるだけ多く確保する見地から、現段階で磐座とは一般に認められてないもの多数収録しております。 
磐座(いわくら)とは、人により様々な考え方がありますが、私は磐座をできるだけ幅広くとらえる観点から、単に「祈りの対象となった岩石」としています。石に祈りを捧げるとき、いつでもその石は磐座となりうるのです。
聖なる地であるため、後に多くの寺社が創建されました。そのため、本章では寺社単位に霊石も含めて紹介しております。
Google Maps』にリンクを示す下線のあるものについては、磐座の概略位置をクリックによりGoogle Maps上にて確認することができます。

Google Maps:03弁天岩
弁天岩
(磐座・福石)

諸説を総合すると、弁天岩は四つの巨石の総称で次のように分類される。
 1 磐座 最上部の弁才天を祀る岩
 2 福石 上段、中段、下段からなる
   三つの巨石
   上段、下段の岩は中段の
   岩に比べはるかに大きく
   夫婦岩と呼ばれる。(文献B)

参考文献
「磐座紀行」 藤本浩一著 p80
  向陽書房 1982年刊

 弁才天は、もともとインドでは河川の神であったが、日本古来の水神信仰と結びついて水の神となり、水辺にまつられるようになった。
 宝暦10年(1760)の記録に「弁才天芦屋村打出村立会之山内に有り」とある。
このこの弁才天を祀る水神社は、明治41年に麓の芦屋天神社(現芦屋神社)に合祀され、現在も境内の古墳内に祀られている。(文献C)

 この岩は、太古の出雲族が清水のあるこの地に、水の神である美津波女神(みづはのめのかみ)を祀ったところと伝えられる。(文献C)
 また、下記の論文によれば古事記の「天の岩屋戸」とも考えられる。
 参照論文
「六甲山系ごろごろ岳 漢人の磐座」

場所: 芦屋と有馬を結ぶ芦有(ろゆう)ドライブウェー沿いの芦屋ゲート近くにある。



鱶切り岩
(まな板岩)
 まな板岩で鱶を切り刻んで、弁天岩に投げつける役は行者である。
水神社の移転跡にある白山大神、白神大神の石碑は、石宝殿(白山信仰)との関係を示すものである。

場所:弁天滝
弁天岩のすぐ近く
Google Maps:弁天岩の近傍


2階建ての家ぐらいもある下段の福石
下は、芦有ドライブウェーが走る。
白山大神、白神大神の石碑がある磐座
水神社の移転跡が残る
枯れ草の生えているのが鱶切り岩 滝を上から見下ろしたところ
<伝説>
弁天岩は、水神の住処として江戸時代から、山麓の芦屋・打出の村人たちの雨乞いの場であった。
弁天岩の近くにある弁天滝の落ち口にある大石は、鱶切り岩とかまな板岩と呼ばれていた。
旱魃が続くと人々は打出の沖で大きな鱶を捕らえ、その岩の上で鱶を切り刻んで弁天岩に投げつけた。そうすると、住処を汚された水神が怒って血糊を洗い流すため大雨を降らせると信じられた。

<参照文献>
@六甲山博物誌 西宮市立図書館蔵書 N28/397 p197
Aあしや子ども風土記 伝説・物語 芦屋市教育委員会 1992年刊 p20〜24 「水神さんと鱶切岩」
B芦屋の里 島之夫  1929刊 p76〜77 宝盛館
C芦屋郷土誌 p397〜398 細川道草 1963刊 芦屋史談会
D関連リンク先 弁天岩とフカ切り岩
Google Maps:05豊徳大神
石の宝殿系列

豊徳大神
東西の磐座からなる、六甲山有数の貴重なひもろぎである。保存状態も良好であり、実に清々しい。いつまでも守ってゆきたい磐座である。

場所:石の宝殿南
高さ数メートルの西磐座 西磐座から見下ろした東磐座
石の宝殿
この地は芦屋川と住吉川の分水嶺にあたり、水との深い関わりから雨乞いの場所ともなった。
越木岩神社の奥宮とも言われている。
また、西宮神社にも六甲山神社が石の宝殿のという里宮して祀られている。

参考文献 「神戸の伝説」 田辺眞人著 
神戸新聞総合出版センター 1998年刊によれば
石の宝殿は、白山系の山伏により開かれたと言われ、祭神は菊理媛(きくりひめ)命である。
また石の祠は、中世末、東山麓の社家郷(しゃけごう)の村人がこの霊場を見つけて祠をたてて、自らの氏神・西宮の末社にしたといわれる。
しかしながら、下記の文献もある。
 「西宮神社」 西宮神社編
  学生社 2003年刊 p125より
  西宮図書館蔵411698491
西宮神社境内 六甲山神社 
 祭神 菊理姫命
     (きくりひめのみこと)
慶長以前から六甲山頂に白山権現をまつり、これを石の宝殿と呼んでいた。おそらくその始めは、往古六甲山一帯が広田西宮社領であった頃に祀られたものであろう。山頂の神祠は、現在(広田神社の管轄)するが、何分、遠隔の地であるため、寛政元年(1789年)12月に当社境内にも末社として勧請したものである。現社殿は、昭和8年5月に改築したもので、建坪2合2勺(0.72m)、祭日5月6日。

場所:六甲山頂付近
Google Maps:豊徳大神の近傍
石の宝殿の全景 石の宝殿の御社、 祭神は加賀の白山権現
弁天岩にも「白山大神」の石碑があった。 「白山水天宮」白山もやはり水の神であった。
見にくいが「六甲山大権現」と読める。 石の宝殿 白山の宮社務所
<伝説>
六甲山最高峰の東の独立峰の頂にある石の宝殿には、大昔、神功皇后が韓から持ち帰った神様の石を納めたという。また、この石祠のそばの三つ葉ウツギの根元に神功皇后が黄金の鶏を埋めたとも伝えられる。それで、毎年の正月元日の夜明け前には、埋められた黄金の鶏の鳴き声が六甲の山々に響き渡るのだそうである。

<参照文献>
 @「六甲山」 ヤマケイ関西 2003年刊 p144
 A関連リンク先 http://www.nishi.or.jp/~siryo/minwa/minwa39.html 
Google Maps:08越木岩神社
越木岩神社
参照サイト 
越木岩神社HP
        
 越木岩神社は、巨岩信仰で知られた西宮市の有名な神社である。「六甲岩石大事典」を製作中の私にとって、それはぜひとも取材しなければならない場所の一つであった。
 甑岩は越木岩神社の御神体で、その大きさは周囲約40m、高さ10mである。酒米を蒸す時に使う「甑(こしき)」という道具に似ていることから「甑岩」と名づけられている。また、巨岩の形状が女性自身に似ていることから、女性を守る神として子授かり・安産のご利益があるとされている。

 越木岩神社を訪れた私は、甑岩より少し上にある貴船社の立て札を見て驚いた。
そこには、六甲山の石宝殿が、貴船社の奥宮であると書かれていた。
貴船は水の神であり、雨乞いの神である。
「雨乞い」のキーワードによって貴船社、石宝殿、弁天岩、鱶切り岩が一つに繋がった。
まさしく、今も昔も、水こそが人類生存の源である。

 石宝殿の鶏と甑岩の鶏の声の類似性もおもしろい、また六甲山社と六甲山大権現の石碑との関連も注目すべきである。

 越木岩神社は、北のえびすとも呼ばれる。これは、江戸時代初期1656年、「福神」の総本社西宮神社より蛭子大神を勧進したことに始まる。尚、両社は、石の宝殿を奥宮として持つ。
これに関して西宮神社の下記の文献がある。

 「西宮神社」 西宮神社編
  学生社 2003年刊 p125より
  西宮図書館蔵411698491

西宮神社境内 六甲山神社 
 祭神 菊理姫命
     (くくりひめのみこと)
慶長以前から六甲山頂に白山権現をまつり、これを石の宝殿と呼んでいた。おそらくその始めは、往古六甲山一帯が広田西宮社領であった頃に祀られたものであろう。山頂の神祠は、現在(広田神社の管轄)するが、何分、遠隔の地であるため、寛政元年(1789年)12月に当社境内にも末社として勧請したものである。現社殿は、昭和8年5月に改築したもので、建坪2合2勺(0.72m
祭日5月6日。

古社 稚日女尊宮
 甑岩の裏にあたる北側には稚日女尊(わかひるめのみこと)を祀る北磐座がある。
この磐座は、甑岩を女神と見て男神ともいわれる。しかし、北磐座が男根に似ているから男神というのは分かるが、祭神稚日女は当然女性であるから整合性がとれない。(神社に問い合わせたが、神社側もわからないとのことであった)
 稚日女尊宮(わかひるめのみこと)は、
天照皇大神の妹神で、神代に紀伊国伊都郡(かつらぎ町)奄田(三谷)に降臨し、御子の高野大神とともに大和・紀伊を巡った後、天野原に鎮まったとされる。また、一説には天照皇大神の幼名であるとも言われている。

参照論文
神奈備山イワクラ群の進化論的考察
参照調査報告
古代北山・太陽観測施設説の調査報告
甑岩正面 甑岩側面
六甲山社(六甲山の守り神) 大地主大神(この後に磐座が広がっているといわれている)
越木岩神社の本殿 古社 稚日女尊宮
(わかひるめのみこと)
岩石の前に鎮座する貴船社 貴船社の奥宮は六甲山石宝殿とある
甑岩に刻印された池田備中守長幸の家紋 甑岩と刻印石の説明板
<伝説> 越木岩神社の案内板より要約
甑岩(こしきいわ)とは、高さ10m、周囲40mの花崗岩の岩で、その形状が酒を作る時の甑
に似ていることから名づけられた。古代信仰の霊岩とされ、今を去る約1100年前には、この岩より煙が立ちのぼり、海上を行く船からも見えたと伝承されている。
この神の鎮まる霊岩を大阪城築城のために切り出そうと、村人達の制止の懇願を振り切って、豊臣秀吉が石工に命じて割らせたところ、今にも割れんとする岩の間より、鶏鳴し、真っ白な煙が立ち昇り、その霊気に石工達は、岩もろとも転げ落ち倒れ臥し、如何にしても運び出せなかったと伝えられる。
 (注)実際には石の切出しは豊臣秀吉ではなく、徳川氏の大阪城修築(1620年〜1628年)によるものである。甑岩の側面には、池田備中守長幸(備中松山城主)の家紋が刻まれている。 
Google Maps:09保久良神社
保久良神社
保久良神社は、弥生後期の銅戈などが出土しており、遺物の存在する岩石信仰の場として有名である。
樋口清之氏は、保久良神社周辺の岩石の分布を二重または三重のストーンサークルと推定しているが、大場磐雄はこれに否定的な見方をしている。
二重のストーンサークルと仮定した場合には、立岩がその中心となる。
銅戈(樋口氏の論文では銅剣となっているが、これは誤り)は、神社の南西の登り口付近にあった岩のそばから検出されたが、今はその岩はない。
境内には立岩、神生岩、三交岩等の岩が多数ある。

遺物:銅戈 石鏃 磨製石斧 曲玉
    弥生式土器 土師器等

概要・伝承
・弥生時代の二重または三重の環状列石
遺跡に於ける磐境の上限は少なくとも、1,600年以前頃よりも古い頃より始まり、金石併用の文化、弥生式土器文化の中に開始せられ、以後鉄器使用の上代文化の中を経過し、奈良朝・平安朝を経て今日及んだと推定される。(文献1)

・カタカムナ文献の伝承地
1949年、楢崎皐月(ならさきこうげつ)が六甲山系の金鳥山で地質調査を行っていたところ、平十字(ひらとうじ)と名乗る猟師に出合い巻物を見せてもらった。
そこには先史時代に解明されたとする
宇宙と生命の驚くべき真相が円と十字を基本とする神代(じんだい)文字で渦巻き状に描かれていた。(文献5)

参考文献
1「摂津保久良神社遺跡の研究」
             樋口清之
 『史前学雑誌』14巻2・3合併号 1942

2「磐座・磐境等の考古学的考察」
              大場磐雄
 『考古学雑誌』32巻(1−12) p397
         日本考古学会 1942

3「保久良神社遺跡」 石野博信
 『兵庫県史 考古資料編』p197 1992

4「神戸市金鳥山遺跡」 石野博信
 『古代学研究』第48号 p8 1967

5『超科学書「カタカムナ」の謎』
            深野一幸
        廣済堂出版、1993


参考サイト
保久良神社

保久良神社とカタカムナ

wikipediaカタカムナ文明

場所:阪急岡本駅の北側、金鳥山中腹
保久良聖石群の中心をなす立岩 右の立岩の裏側
神生岩(神鳴岩、雷岩) 右の神生岩の左側面
社殿側から見下ろした三交岩(三五岩)
ここから多数の石鏃が出土した。
右の三交岩の左側面
本殿裏の玉垣に囲まれた聖石群 灘の一つ火。灘の市街が一望できる。
保久良神社の鳥居 保久良神社の社殿
Google Maps:10摩耶天狗岩
天狗岩大神
天狗岩(行者岩)
 
 摩耶山の三角点を探している時に見つけた天狗岩。六甲山にはやたらと天狗の名を冠した岩が多い。昔、岩の上に座す山伏の修行者を村人が天狗に見たてたものである。説明板には、摩耶山の僧が山中に出没する天狗をこの岩に封じ込めたとある。
 神として祭られているのは私の知る限り六甲山系ではここだけである。摩耶山に至る登山路の天狗道は、ここを目指す道であったことがわかる。摩耶ロープウェイの広場の賑わいをよそに、林に囲まれて薄暗い秘めやかな場所である。

猿田彦大神の碑は、一般には神道系の「庚申塔」と見なされるが、ここでは猿田彦が鼻の高い大男で天狗のモデルであったことの意味が強いと思われる。
猿田彦は天孫降臨の際、地上で道案内をしたと伝えられる地神で、道祖神にもなっている。

参照サイト 猿田彦大神

場所 摩耶山山頂
NHK中継所の裏手にある小高い山の頂上にある。
天狗岩正面、石丸猿田彦大神の碑が立っている。
二つに割れた陰陽石タイプの磐座である。
天狗岩背面
天狗岩大神の石碑。最近立てられたものか真新しい 天狗岩の説明板
Google Maps:19七右衛門嵒
石の宝殿系列
七右衛門嵒(穴)
岩梯子
昔、荒地山の岩梯子の上の登り道に七右衛門嵒(ぐら)と呼ばれる人一人がやっと通り抜けられる岩穴が立ち塞がっていた。
登山者は、その穴をくぐって荒地山の山頂に向かった。
その岩穴が、1995年の阪神大震災でつぶされ左側に新道ができた。

しかし、最近になって昔の七衛門穴が復旧されつつある。まだ穴は開通していないが、この穴を再び通ることができるのも近いかもしれない。
岩の間から漏れる日の光は神々しく、ここが磐座である可能性を感じさせるに十分である。

場所:荒地山
登り口から見た七右衛門穴(震災後の新道) 白い表札のかかる岩梯子
復旧されつつある昔の七右衛門穴 七右衛門穴の内部
七右衛門穴の外壁の石組み 昔の登山路を示す矢印
<伝説>
荒地山は、六甲の山の神である石の宝殿の権現の住処と言われており山中で悪事を働くと、この荒地山に迷い込んで神罰を受けるのだと信じられていた。
 昔、麓の芦屋村に七右衛門という身寄りのない若者がいた。
もともと正直な働き者で村人にも愛されていたが、兄のように慕う友人に裏切られた後は、絶望からすさんだ生活を送るようになり、村人からもしだいに疎んじられるようになった。
ある日、六甲山を越える旅人が山中で追いはぎに出会った。
村人はその話を聞き、村から姿をくらましている七右衛門だと思った。
「山中で悪事を働いたから、きっと荒地山だ」言い伝えを信じて荒地山に登った村人は、この岩穴で頭を砕かれて絶命している七右衛門を発見した。
 備考 この話は、六甲山にも残る伝説としてはかなり有名で、出典は多数ある。
     しかし、詳細に読むと微細な点でそれぞれに異なっている。
     伝説とは、もともとそのようなものであろう。
     ここでは、それらを勘案して単に話としてまとめ上げた。
Google Maps:23袂石
袂石(礫石)
袂石は「たもといし」、礫石は「つぶていし」と読む。
高さ約5m、周囲約19m、
重さ約130トンの巨石で、古代の巨岩信仰の遺跡ではないかといわれている。
なお、この隣には仏座巖(第1部3章に掲載)があり、袂石とセットで考察すべきと考えられる。

場所:有馬温泉 太閤橋

参考文献 西摂大観 
       有馬郡史
袂石の正面 袂石の側面
袂石の由来(有馬温泉観光協会の説明板より)
あるとき熊野久須美命(湯泉神社の祭神)が、狩場を通られたときに、松永たんぽぽ城主が葦毛の馬に乗り、重藤の弓と白羽の矢を持って鷹狩をしていました。松永城主はあやしく思って熊野久須美命を射ようとしました。熊野久須美命は袂から松永城主に向かって小石を投げられました。この小石が年月を経て大きくなり、袂から投げられたので袂石とか礫石といわれるようになりました。その後、有馬では葦毛の馬や重藤の弓、白羽の矢を持って入ることが禁じられ、もし持って入れば晴天が急に曇り風雨がはげしくなると伝えられています。                                             
Google Maps:24有馬天狗岩
天狗岩

説明の看板等はなにもないが、「天狗岩」の名を掘り込んだ立派な石柱が立てられている。
岩と岩の間に「愛宕大神」の碑があることから摩耶山の天狗岩と同じく神道系の磐座であることがわかる。

場所:有馬温泉 愛宕山公園
「天狗岩」の石柱と天狗岩 天狗岩にある「愛宕大神」の碑
芦屋神社
六甲山カンツリーハウスの天穂日命(あめのほひのみこと)の磐座と同じ神を祭る神社である。
芦屋神社に問い合わせたところ、六甲山カンツリーハウスの磐座が芦屋神社の奥宮というような関係はないようである。(神聖な磐座が阪神電鉄に売り渡されるわけがない!)
また、芦屋神社は芦屋川の弁天岩ともかかわりが深い。

場所:阪急芦屋川駅の東北

参照サイト
芦屋神社
芦屋の歴史・伝説
芦屋神社と彫られた石柱の裏に祭神 天穂日命とある。 芦屋川の弁天岩から移されてきた水神社。1300年ほど昔の古墳の中に祀られている。
六甲比命大善神
弁天様をお祭りした御社で、巨大な岩石(磐座)の上にある。

場所:六甲山頂、六甲山人工スキー場近く雲ヶ岩のすぐ下
Google Maps:雲ヶ岩の近傍
御社 御神体
御社の基部、石組みが見事だ この巨大な岩が磐座?
仰臥岩
(熊野大権現の磐座)
六甲山頂の観光化した賑わいのなかでここは取り残されたような心霊ゾーンである。熊野大権現の前部の石組みは、仰臥岩と呼ばれる磐座である。

場所:六甲山頂、六甲山人工スキー場近く
Google Maps:雲ヶ岩の近傍
熊野大権現の前部の磐座 熊野大権現の御神体
六甲川の蛙岩

蛙岩を取材中、偶然にも大土(おおつち)神社の神主さんに出会った。蛙岩はもともと神社のずっと下の方にあり鉄の柵で囲われていたが、道路建設のため神社の境内に移されたそうである。
今は、駐車場で車と同居する肩身の狭い身の上である。
蛙の目の掘り込みは昔からあるとのこと。
目を黒く塗ったのは神主さんのサービス。
尚、お玉杓子については良く知らないとのことであったが、大土神社の左側を流れる六甲川にはお玉杓子に似た石が五つあった。
ここは公園として整備されていて、蛍が生息しているそうである。

場所:六甲ケーブル下近くの大土神社の駐車場
江戸時代の六甲川には、たくさんの水車がかけられ、この一帯は水車新田と呼ばれた。

<民話> 「六甲山」 ヤマケイ関西 2003年刊 p146より
むかしこの岩は、夜ごとに大きな蛙の姿になって山道の真ん中まで出てきて、人々を驚かせた。そこで村人は出られぬように、岩の回りに鉄の柵を作り、蛙まつりと称して岩を祀った。この岩の後には、お玉杓子の形をした岩がいくつかあって、毎年少しずつ大きくなっていたともいう。


また、この岩に腰かけると腹痛を起こすという話もある。
無事帰る。駐車場の守り神?でもある蛙岩。
道路に向いてがんばっている姿は、なんとなく頼もしい。
この方向から見ると蛙そっくり
大土神社、この左側に六甲川が流れている。 六甲川のお玉杓子の群れ
お玉杓子にそっくり お玉杓子2
宝塚神社
あまり有名な神社ではないが、六甲山の磐座の研究において重要な意味を持つ神社である。磐座があるとされる東六甲縦走路の岩倉山は宝塚神社の奥の院である。

参考サイト 宝塚神社
宝塚神社 本殿 由緒書きには、岩倉山は神のまします処とある。

西宮神社
えべっさんであまりにも有名な神社であるが、六甲山上の石の宝殿とのつながりを知る人は少ない。
菊理姫命(くくりひめのみこと)は白山権現ともいわれる山の守り神である。その祭日である5月6日を、六甲山の日としようではありませんか。

参考サイト 西宮えびす神社HP
        西宮神社
六甲山神社 石の宝殿は奥宮であるとの記載がある。
名次神社
(広田神社)

名次神社は、広田神社の摂社である。しかし、重要なことは、明治末まで広田神社がこの名次山の位置にあったことである。甲山ー目神山ー名次神社(広田神社)−西宮神社は、南北の方位線上に並んでおり、これを聖なるラインと呼ぶ人もある。

参照サイト 広田神社HP
        広田神社
名次神社の本殿 由緒書き、この地は名勝「名次山」である。
広田の神影向岩
(ひろたのかみようごいわ)
影向(ようご)は、広辞苑によると影向(ようごう)と読むが、方言的な言い方も考慮して藤本浩一著 磐座紀行 p78の読み方を、そのまま正とした。
影向岩とは、神仏が来現せられた事跡のある岩である。私見であるが、位置的には門のようなものではないかと推測される。

確信はないが、最も藤本氏の記述に近い岩を提示する。

文献「六甲山の地理ーその自然と暮らしー」
田中 真吾編 p166
神戸新聞出版センター 1988年刊には次の記載がある。
『日本書紀にも登場する古社、広田神社は、享保9年(1724年)現在地に遷座する以前には甲山山麓にあり、甲山を神体としていた』

これらのことから、甲山からこの岩に降臨された神は、ここから広田神社の祭場へと向ったのではないかと推測される。
中央に裂け目が2m立方くらいの岩 これが割れ目に生えた小松
藤本浩一著 磐座紀行 p78には次の記述がある。
甲山の真南、神呪寺から300m南の小山に、誰がいつ言いはじめたのか「広田の神影向岩」という岩がある。2m立方くらいの岩で、中央に裂け目があり小松が一本生えている。松の木の生長で割れたのか、割れ目があるから松が生えたのかはわからないが、概して水を請う民が信仰する女性神であることが多いことを考えると、古代からのものかも知れない。
生田神社
生田神社の祭神は、越木岩神社と同じ稚日女尊宮(わかひるめのみこと)である。生田神社は元、新神戸駅の北にある砂山(いさごやま)にあった。私は、藤本浩一氏の「磐座紀行」で、そこに磐座があると知り訪れたが、その地は現在個人の住宅になっており、残念ながら見ることができなかった。

参照サイト 生田神社
樹木におおわれた砂山(いさごやま) いさご橋の袂にある歌碑の説明
文献「六甲山の地理ーその自然と暮らしー」 田中 真吾編 p166
神戸新聞出版センター 1988年刊 には次の記載がある。
『神戸市灘区の布引滝に近い砂山(丸山ともいう、130m)は、高さはさほどでもないが、神体山であったと思われ、付近からは多数の弥生式土器が発見されている。またこの山は、「よたて山」とも呼ばれた生田神社の旧鎮座地との伝承をもっている』

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