イワクラウオッチング 第2部5章
近畿のイワクラ 滋賀県
このコーナーでは、滋賀県のイワクラ(磐座)を霊石も含め幅広く紹介しています。
未来に向けて「イワクラの可能性を秘めた研究材料」をできるだけ多く確保する見地から、現段階でイワクラとは一般に認められてないもの多数収録しております。
『Google Maps』にリンクを示す下線のあるものについては、磐座の概略位置をクリックによりGoogle Maps上にて確認することができます。
Google Maps:01三上山 三上山 三上山は滋賀県野洲市近郊にある高さ432mの山で、「近江富士」の名で知られる神奈備山である。三上山は俵藤太の百足退治の伝説の舞台になったことから、百足山とも呼ばれている。この山は、麓の御上神社の神体山であり、頂上には奥宮と奥津磐座が鎮座している。 御上神社の本殿の裏には扉があり、祭りの時に扉を開け、神体山を拝している。これは、大神神社の拝殿と同一の祭祀思想と考えられる。 割岩(われいわ) 三上山の表参道中腹にある高さ数メートルのメンヒル状の岩である。二つ割れた巨大な岩で、その割れ目を人が通過することができる。(但し、太った人には無理である) 姥(うば)の懐(ふところ) 割岩の少し上にある岩の群れである。これをなぜ「姥の懐」と呼ぶのか不明である。このあたりは、三輪山と類似していることから中津磐座群と想定される。 奥津磐座 この磐座は弥生時代以前にさかのぼる古代祭祀遺跡と推定される。三上山の東北にある大岩地区からは多数の銅鐸が出土しており、野洲市は銅鐸の町としても有名である。この磐座は天照大神の孫にあたる天御影神(あめのみかげのかみ)が降臨したところと伝えられる。 岩神 妙光寺山の麓近くにある岩屋である。そばに建てられている石柱には「岩神大龍神様 1500年前」とある。これは六甲山にもある山岳宗教の仙人窟に相当するものと推定されるが、詳細は不明である。かなり、補修が加えられている模様であることから、原形はかなり異なるものと想定される。 妙光寺山磨崖仏 岩神のすぐ近くにある磨崖仏で地蔵菩薩(高さ160cm)が刻まれている。説明板によれば、鎌倉時代の作とある。お地蔵様の柔和なお顔が印象的である。彫られた岩は、もと磐座であった可能性も考えられる。 |
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割岩(われいわ) | 姥(うば)の懐(ふところ) | |
三上山の奥津磐座 | 御上神社の奥宮 | |
妙光寺方面から望む三上山、神奈備の姿にふさわしい。 | 石のトンネル (観光用に造られたものと思われる) |
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岩神 | 妙光寺山磨崖仏(地蔵) | |
日吉大社 日吉大社(ひよしたいしゃ)は、滋賀県大津市坂本にある神社。俗に山王権現とも。日本全国に約2000社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮である。西本宮と東本宮を中心に、400,000m2の境内を持つ。 猿を神の使いとして崇拝することで知られている。 Google Maps:02日吉大社 西本宮 西本宮 大巳貴神(おおなむちのかみ)を祀る。天智天皇七年(668年)大津京遷都にあたって、大和国三輪山(大神神社)より御神霊を御迎えし、大津京を始め国家鎮護の神として祀られた。この神は、国土を開拓・統治を行った神である。 Google Maps:03日吉大社 東本宮 東本宮 大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀る。古事記上巻に「此の神は近淡海国(ちかつおうみのくに)の日枝山(ひえのやま)に坐(ましま)す。」と記載されているように、神代の昔より比叡山に鎮座する地主神である。 神名の「クイ」というのは、山の樹木やその麓の田畑の五穀をグイグイと伸ばし育てる神徳を指したものである。 Google Maps:04日吉大社 八王子山 八王子山 円錐形をした遠望の美しい八王子山は、神代の昔より比叡山の神(大山咋神)が降り立つ神体山として崇められ、以後歴史の変遷の中で社殿が築かれ、神輿が奉納され、更には神仏習合といった様々な信仰形態が取り込まれた。 八王子山の山頂近くには日吉大社の原初である金大巌(こがねのおおいわ)と呼ばれる磐座がある。この磐座の両側には、牛尾宮と三宮宮が左右対称の形で立っている。ここからは三上山が望める。また、里宮と考えられる東本宮の近くには、厳滝社の磐座や舟形の磐座があり、三輪山の辺津磐座に相当するものと考えられる。 牛尾宮 大山咋神の荒魂(あらみたま)を祀る。荒魂とは神の積極的な性格のことで、対する和魂と同一の神であっても、別に分けられる事が多い。また、神は元来荒魂であり、荒魂が鎮められて和魂(にぎみたま)になるともいわれる。 三宮宮 鴨玉依姫神(かもたまよりひめ)の荒魂を祀る。荒魂は新魂ともされ、新たなモノを生み出すエネルギーを秘めるとも言われる。山王祭では姫の荒魂は夜に八王子山頂付近の社から里まで下ろされた後に夫である大山咋神荒魂との婚儀、翌日には若宮出産という、生命の流れを感じさせる神である。 参考文献 日吉大社HP 「神体山」 影山春樹著 学生社 2001年刊 参照論文 日吉大社 山王三聖の形成 <最澄・円澄・円珍・良源の山王観> 創生期における三十番神の役割 <叡山三十番神 壱道・良正記の検討 前篇> |
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有名な山王鳥居 | 大巳貴神を祀る西本宮 | |
牛頭天王の宿る祗園石(西本宮前) | 山王霊石 大威徳石(西本宮前) | |
大山咋神を祀る東本宮 | 神猿の霊石(猿の側面、右が顔か?) | |
厳滝社の辺津磐座(東本宮前) | 舟形の辺津磐座(東本宮前) | |
金大巌(こがねのおおいわ) | 八王子山の黄金色の紅葉 | |
牛尾宮(前方)と三宮宮(手前) | 牛尾宮から三上山を望む | |
Google Maps:05杉坂の御神木 杉坂峠の御神木 杉坂の御神木(県指定木) 昔、伊邪那岐(いざなぎ)の神様がこの地に降り立ち、この峠を下って、芹川の上流、栗栖の里に鎮まられました。道中、村人に柏の葉に盛られた栗飯を出されたいそう喜んで召し上がられたそうです。その時に地面にさされたお箸がやがて芽吹き、現在の御神木になったといわれています。 滋賀県指定自然記念物 名称:多賀町栗栖の杉(杉坂峠のスギ) 所在地:犬上郡多賀町大字栗栖字杉ノ下 指定理由 この樹木は多賀大社の御神木で、昔は13本あったが現在は4本となっている。 この内、一番太いものは、県内最大の巨木であり、 幹周 11.9m 樹高37m 樹齢 推定400年である。 指定年月日:平成3年3月1日 滋賀県(表示看板より要約) 杉坂山の頂上は、杉坂峠の「多賀の御神木」の石柱のあるところから、右手(南方)を数分、ピークを目指して登ったところにある。 |
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一番太い御神木(峠側より) | 一番太い御神木(杉坂の谷側より) | |
杉坂山山頂(標高649m)のプレート | 杉坂山山頂付近の磐境 | |
Google Maps:06調宮神社 調宮神社(ととのみや) 多賀大社の境外末社である。 祭神は伊邪那岐命と伊邪那美命 多賀大社の社殿によれば、神代の昔、伊邪那岐大神は本社東方の杉坂山に降臨され、麓の栗栖(くるす)の里でお休みの後、多賀にお鎮まりになったと伝えられる。 のちに多賀の宮に鎮まった大神は毎年4月の多賀大社古例大祭に先ず調宮神社へ渡御し、神輿鳳輦に境内の富の木(神が宿るとされる桂の木)を飾り大社に還幸する。これは、鎮座の歴史を再現する神事である。 また、11月15日の大宮祭においても大社より神幸がある。 栗栖の里人から聞いた話では、 右手の写真の岩は、かって信仰の対象であった。 (今は放置された状態である) 「磐座紀行」のリストにも記載されている。 参照文献 「磐座紀行」p278 藤本浩一著 向陽書房 1982年刊 |
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調宮神社の正面鳥居 | 杉坂峠の御神木(中央のV字の底にある突起) | |
調宮神社の本殿 | 本殿左手の林の中にある磐座 | |
Google Maps:07多賀大社 多賀大社 多賀大社は「寿命長久」「縁むすび」のご利益で知られ、古くから「お多賀さん」と呼び親しまれた淡海国(近江国)第一の大社である。 「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」と里歌に歌われている多賀大社の祭神は、天照大神の両親である伊邪那岐(いざなぎ)伊邪那美(いざなみ)の二神である。 多賀大社が文献にみえるのは、和銅5年(712年)に撰上された“古事記”で、「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐す」とある。 古くから広く民衆の信仰をあつめ、ことに奈良・平安時代には公家の信仰篤く、鎌倉〜江戸時代には武家からの信仰も集めた。 寿命石 寿命石には、俊乗坊重源上人の次のような長寿祈願の言い伝えが残されている。 平重衡が奈良の東大寺を焼き討ちにしたので、その復興のため、後白河法皇の院宣を蒙って、大勧進の大役を務めることになりました。 上人は齢六十歳を過ぎていて、到底大業の成就は覚束ないと当社に十七か日参籠して寿命を祈ったところ、満願の暁に、「神殿より一葉風に吹かれて上人の前に来る。 取って見給うに”莚”という文字虫食いにありけり。莚という文字は二十廷と書く。さては我六旬(60歳)に及ぶといえども、自今以後二十年の寿命をあたえ給うよと、歓喜の思いをなし」 ついに建久六年(1195)三月、大仏殿造立の大事をなしとげ、重ねて報恩謝徳の参詣をした、と 『多賀大社儀軌』 は記しています。 「寿命石」は、上人が笈(”きゆう”背に負う荷物)をおろされたところと伝え、東大寺には今も上人の木像を安置したお堂があり、年々供養されているそうです。(説明板より) さざれ石 古今集に「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌と成りて 苔のむすまで」と歌われ,後に日本国家にもなったさざれ石。 学名は石灰質角礫(れき)岩で,長い年月の間に溶解した石灰石が,多くの小石を集結して次第に大きくなったものである。 |
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多賀大社の本殿 | 豊臣秀吉が寄進した「太閤橋」 | |
玉垣に囲まれた寿命石 | 寿命石 | |
さざれ石(正面) | さざれ石(側面) | |
Google Maps:08胡宮神社(青龍山) 胡宮神社(青龍山) 胡宮神社は、青龍山の巨石信仰が起源といわれ、祭神は多賀大社と同じ伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)である。寿福・延命に御利益があると伝えられる境内には重源にまつわる寿命石があり、これも多賀大社と同じである。このため多賀大社の奥の宮、別宮とも呼ばれる。 もとは敏満寺(びんまんじ)の鎮守社であり、聖徳太子開基の天台宗の寺院で、湖東三山と並ぶほどであったが、戦国時代に兵火により焼失してしまい廃寺となり、神社だけが再建された。 青龍山の磐座 青龍山は双耳峰で、高いほうの峰は 標高333mである。磐座は低いほう峰の頂上に位置している。磐座に龍宮を祭り、長寿・豊作・雨乞の祈願をしたと伝えられる。 後年、麓から遥拝するための社殿が建てられ胡宮神社となった。いわいる奥宮に対する里宮の誕生である。 頂上付近の神聖な場所を境界(いわき)と呼び一般の人は立ち入れなかった。「お池」で身を清め、供物を洗い、祭典の広場で春秋の式典を行った旧跡もある。 青龍山は社殿信仰以前の原始信仰の姿を今にとどめる神体山である。 参照 胡宮神社の碑文 |
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青龍山の磐座 | 身を清めるための「お池」 | |
玉垣に囲まれた寿命石・枕石 | 玉垣の中、名前の書かれた小石が積まれている | |
胡宮神社の本殿 | 青龍山山頂(333m)からの琵琶湖側の眺め | |
Google Maps:09沙沙貴神社 沙沙貴神社 沙沙貴神社は古代の「沙沙貴山君」が崇敬した「延喜式」式内社である。 近江国の蒲生野にあり、古くから沙沙貴郷あるいは佐々木庄と称されたこの地は、宇多源氏佐々木発祥地であり近江守護である佐々木一族、沙沙貴郷33村を始めとする人々の信仰を集めた。 少彦名神の磐座 少彦名神の磐座は、あまりに整備?されすぎていて太古からのものかどうかよくわからないが、この聖石は「磐座紀行」のリストにも記載されている。 参照文献 「磐座紀行」p278 藤本浩一著 向陽書房 1982年刊 男石と女石 神社の説明看板によると、男は女石まで、女は男石まで、目を閉じて歩めとある。 首尾よく目的の石にたどり着けたら、縁結びがかなうのであろう。 よくある話であるが、陰陽石信仰のなごりと考えれば、磐座信仰とみなすことができる。 京都の縁結びで知られる地主神社にも縄文時代の遺物とされる一対の「恋占いの石」がある。 参照サイト 「沙沙貴神社」 http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/sasaki.html |
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少彦名神の磐座 | 少彦名神の磐座の木の茂る背面 | |
沙沙貴神社の本殿 | 男石(手前)と女石(前方の看板の前) | |
Google Maps:10観音正寺奥院 観音正寺奥院 観音正寺は、繖山(きぬがさやま)の山頂付近にある寺院で、西国三十二番札所である。 開基については人魚の伝説があり、聖徳太子が人魚に哀願されて建立したといわれている。 観音正寺の上方、佐々木城跡には累々たる巨石が連なり、古代にはこの山に対する原始信仰があったと考えられる。このため寺の創建後には奥院は聖地として崇められた。 奥院の社殿の内部は岩窟状であり、沖ノ島の岩陰祭祀を思わせる。また、奥院直下あるメンヒル状の巨岩は、古代の鳥居の役割を持つ岩門(いわと)とみなすことができる。 奥院の入口の鳥居の近くの道路脇にある「ねずみ岩」も、磐座群のひとつでなんらかの祭祀的な意味を持っていた岩であると想像される。 観音正寺奥院は古代の磐座祭祀の実態を示す好例である。 |
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奥院直下にあるメンヒル状の巨岩 | 巨岩の窪みなある奥院の社殿 | |
奥院の入口の鳥居 | 道路脇にある「ねずみ岩」 | |
Google Maps:11雨宮龍神社 雨宮龍神社 雨宮龍神社は、JR能登川駅から歩いて1持間半の繖山縦走路にある。名前の通り、雨乞いの神社である。 社殿の前に玉垣で囲まれた磐座と樹木がある。もちろん、樹木も磐座同様、祭祀の対象である。高名な三輪山においても、山頂に神杉があったとされる。 「三輪山のいただきなる高ノ宮(こうのみや)は神殿なく神杉あり、大国主神、その杉に降り給ひ、その杉を神体とする」 『大神神社御由来略記』より |
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玉垣で囲まれた磐座と樹木 | 磐座の拡大写真 | |
雨宮瀧神社の社殿 | 社殿裏の神木 | |
Google Maps:12北向十一面観音 北向十一面観音 猪子山(268m)山頂の堂の奥に岩屋があり、その中の像高55cmほどの石造の観音が、北向十一面観音である。 奈良時代に安置されたものといわれ、平安時代には、坂上田村麻呂が鈴鹿の鬼賊(きぞく)退治のため、岩屋にこもり、この観音に武運を祈願したとも伝えられる。 |
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社殿の背後に聳える岩屋 | 注連縄の張られた磐座 | |
Google Maps:13岩船神社 岩船神社 猪子山公園にある岩船神社。 祭神は津速霊大神で、神亀5年(728)高島比良の山より湖上をこの地に渡りたもうた比良大神(白鬚明神)が御乗船されたものと伝えられている。 注:白鬚明神は対岸の高島の白髭神社の 祭神Google Maps:20白鬚神社参照 神社の説明板に「磐座」と題してこうある。 社殿古文書に天慶年間(938〜946年)菅原道真公の御神霊、比良より繖山の勝菅の岩屋に鎮まり給うとあるが、この磐座をさすものと思われる。 磐座は古代における巨岩崇拝時代の遺品で社殿のつくられる以前の風習で岩石の上面または巨岩を御神体もしくは神の出でます座所とみなされていた。 誠に正しい見解と言えよう。 磐座と天、磐座と水の関係も濃密であり、この神社はその双方を体現している貴重な古代祭祀遺跡である。 |
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岩船神社の鳥居と修理中の社殿 | 社殿の裏にある舟形石(天の岩舟) | |
岩船神社の上にある磐座 | 水のしたたる磐座の右部 | |
Google Maps:14太郎坊宮 太郎坊宮 (たろうぼうのみや) 太郎坊宮は、東近江市にある神社で、正式名は阿賀神社である。 祭神は正哉吾勝勝速日天忍穂耳命を祀る。 「まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと」と読まれる。舌をかみそうな名前である。 天照大御神の第一皇子神で、勝運の神、どんな事にでも勝つと云うことで、商売繁昌・必勝祈願・合格祈願・病気平癒にご利益があるとされる。 欽明天皇の時代、聖徳太子が箕作山に瓦屋寺を創建したときに霊験があって約1400年前に創建されたと伝える。後に最澄が参篭し、社殿・社坊を献じたという。山岳信仰の霊地として多くの修験者が参篭した。その修験者の守護神とされたのが「太郎坊の天狗」で、現在も神社の守護神とされる。 明治の神仏分離令が発せられるまで、神道・ 修験道・天台宗が相混ざった形態で信仰されてきた。 本殿前の夫婦岩は神の神通力により開かれたという言い伝えがあり、古来より悪しき心の持ち主や、嘘をついた者が通れば挟まれると伝えられる。又、夫婦岩の名前の如く夫婦和合や縁結びのご利益もあるといわれている。 |
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夫婦岩の入口 | 太郎坊山(赤神山)の全景 | |
夫婦岩の本殿に通じる狭い通路 | 本殿側から見上げた夫婦岩 | |
Google Maps:15阿賀神社 阿賀神社 京都紫野にある船岡山は有名であるが、この山も船岡山と呼ばれ磐座が鎮座する。 「太郎坊宮前」駅より一つ西の「市辺」駅の北側の「万葉の森公園」にある。 太郎坊宮を奥宮とすれば、市辺にあるこの神社は里宮にあたる。ここにも、夫婦岩に似たイワクラがある。 |
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阿賀神社の正面鳥居 | 夫婦岩に似たイワクラ | |
Google Maps:16岩戸山十三仏 岩戸山十三仏 (じゅうさんぶつ) 「岩戸山十三仏」の由緒書き 飛鳥時代、聖徳太子がこの山の南裏に瓦屋寺を建てられた時、同じ山並みの向こうの岩戸山に金色の光りを発する不思議な岩を見つけられた。太子は、これは仏のお導きと思われて、この岩まで辿り着かれ、仏像を彫ろうとされたが道具を持って来なかった。そこで自らの爪で十三体の仏を刻まれた。(説明看板より) 調査の結果、磨崖仏である十三仏は、右の写真の「岩戸山十三仏(正面)」に刻まれていることがわかった。しかし、その輪郭は風化のためか不明である。 岩戸山山麓から十三仏の参拝道には、紅白の帯が巻かれた無数の岩石と樹木がある。 紅白の帯がどのような意味を持っているのかはよくわからないが、いずれにせよ岩戸山が飛鳥時代以前のイワクラ信仰の地であったことは明白であり、貴重な祭祀遺跡といえよう。 (注)十三仏信仰 十王信仰に基づき日本で創作された閻魔王を初めとする冥途の裁判官である十王及びその後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官の本地とされる仏に対する信仰である。 冥途の裁判官に対応する十三仏は次の通りである。 不動明王(秦広王) 釈迦如来(初江王) 文殊菩薩(宋帝王) 普賢菩薩(五官王) 地蔵菩薩(閻魔王) 弥勒菩薩(変成王) 薬師如来(泰山王) 観世音菩薩(平等王) 勢至菩薩(都市王) 阿弥陀如来(五道転輪王) アシュク如来(蓮華王) 大日如来(祇園王) 虚空蔵菩薩(法界王) |
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岩戸山十三仏(正面) | 岩戸山十三仏(右側面) | |
岩戸山十三仏(正面)の「岩戸山神明(しんみょう)」 白く見えるのは盛り塩 | 岩戸山十三仏(左側面)の階段の上部にある胎内くぐりと思われる岩穴 | |
紅白の帯が巻かれた岩戸山不動明王 | 岩(ガン)取大神 | |
Google Maps:17もたれ石 もたれ石 (三尾神社旧跡) 継体天皇の母に当たる振媛(ふりひめ)がお産の時にもたれかかったのがこの「もたれ石」といわれ、このことから、妊婦がこの石をさすった後に自分のお腹をさすると安産になると信じられている。 現在の三尾神社は、この近くにある田中神社に摂社として遷されている。 |
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もたれ石のある三尾神社旧跡 | 三尾神社旧跡の石碑ともたれ石 | |
Google Maps:18神代文字碑 神代文字碑 (安閑神社) 安閑神社は、継体天皇の第一皇子、安閑天皇(在位531〜535年)を祀っているといわれていますが、定かなことは不明な古い神社である。 境内には、不思議な絵文字が刻まれた石がある。これは、漢字が渡来する前に日本にあった「神代文字(じんだいもじ)」とも考えられている。 力石の伝説 ここがまだ石橋村と呼ばれていた頃(鎌倉時代頃)、大井子という名のすごく力持ちの娘がいた。ある日、田んぼに引く水を巡って村で争いが起こった時、大井子が田んぼの水口に一人では抱えきれないほどの大きな石を置いて、水を塞いだ。これに度肝を抜かれた村人たちは、争いをやめたという。 |
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小さな安閑神社 | 神代文字碑(左)と力石(右) | |
神代文字碑の説明板より | 神代文字碑 | |
Google Maps:19水尾神社 水尾神社 昔、水尾神社の祭神である磐衝別王は猿田彦命の天成神道を学ぶため猿田彦を祀る当地に来住され、朝夕猿田彦命を祀る三尾大明神(今の永田村の永田神社)を遥拝されたので、この地を拝戸と称し、その御住居を土地の人は拝戸御所と云っていた。 磐衝別王は当地で亡くなったので、その御子の磐城別王は背後の三尾山の中腹杣山に葬り、父君を奉斎する水尾神社を当地に創建された。現在の水尾神社の日本庭園は、6世紀に築造された拝戸古墳群の跡である。 それから約百年後に、人皇十五代応神天皇の第十一皇子速総別王も天成神道を学ぶため拝戸に来住されて、その四世の孫彦主人王は磐城別王の五世の孫振姫を迎えて妃とし、振姫は当社の拝殿を産所として天迹部王、男迹部王、太迹部王の三児を同時に安産された。 太迹部王は後の人皇二十六代継体天皇である。 |
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水尾神社本殿 | 日本庭園の前に鎮座する巨大な磐座 | |
恋と子宝を成就する陰陽石と霊水 | 昔、古いお札などを納めた祓岩 | |
Google Maps:20白鬚神社 白鬚神社 白鬚神社は、猿田彦命を祭神とする近江の古社である。神社の略記では、祭祀は古代から始まり、垂仁天皇25年皇女倭姫命が社殿を再建、天武天皇白鳳2年(674)比良明神の号を賜ったとある。 湖中の鳥居はもともと陸地にあったものが、寛文元年(1662)に高島郡を中心に起きた大地震によって水中に陥没したものである。現在の鳥居は昭和56年に再建されたもので、高さ12m、本柱の間隔 は7.8mである。 国内にある白鬚神社の総社でもあり、謡曲『白鬚』の舞台としても有名である。 磐座のある岩戸社(境内社)は、神社の山側の最奥にある。磐座はナイフで切り出したような多角形の形をしている。 岩戸社は古墳跡に祠を建てたようで、内部に石室らしき石組みが見られる。また、祠の背後は玉垣の囲われた岩群れがあり、神聖視されていることがわかる。 岩船神社の磐船 琵琶湖対岸にある安土の岩船神社には、この神社の比良明神が磐船に乗り渡って来たとの伝承が残る。 Google Maps:岩船神社参照 謡曲『白鬚』 帝の勅使が仏法流布の地を譲り受けるために白鬚神社に参拝します。 すると、土地の神である白鬚明神が老翁の姿で釣り糸をたれて現われ、「釣りの場がなくなる」と、一度は申し出を断ります。 その後、薬師如来も現われ、翁を説得。 白鬚大明神が、比叡山を仏法結界の地として釈尊に譲った、という伝説を語って社殿に入ります。やがて老人は白鬚明神となって天女と龍神を伴って勅使の前に現われ、共に舞い踊ります。 |
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厳島神社を思わせる湖に立つ鳥居 | 岩戸社とその右に見える磐座 | |
岩戸社の右にある磐座(正面) | 磐座の右側面 | |
岩戸社の背後の岩群れ | 岩群れの中の神々しい磐座 | |
Google Maps:21長命寺 長命寺 琵琶湖畔にそびえる長命寺山の山腹に位置し、麓から本堂に至る800段余の長い階段で知られる。かつての巡礼者は、船で長命寺に参詣した。 伝承によれば、第12代景行天皇の時代に、武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸元成就」と彫り長寿を祈願した。このため宿禰は300歳の長命を保ったと伝えられる。 その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている。 長命寺の説明板より 修多羅岩(すたらいわ) 修多羅(すたら)とは、仏教用語で天地開闢(かいびゃく)、天下太平、子孫繁栄を言う。 封じて当山開闢長寿大臣、竹内宿禰大将軍の御神体とする。 六処権現影向石 (ろくしょごんげんようごうせき) 天地四方を照らす岩である。 当山開闢長寿大臣 此の聖地に於いて祈願し、三百歳以上の長寿を全うす。 |
長命寺は、神仏習合の典型的な寺である。 元、磐座信仰の地に寺が創建されたことがわかる。 この磐座のすぐ隣には、巨岩で囲われた太郎坊大権現がある。また、長命寺山の麓の登り口には日吉神社が鎮座している。 太郎坊も日吉社も近江の磐座信仰を代表するものである。 |
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長命寺護法権現社の拝殿と背後の修多羅岩 拝殿と長命寺・三仏堂(右)は渡廊下で 結ばれている。 |
竹内宿禰の御神体とされる修多羅岩 | |
本殿裏にある六処権現影向石(右) | 六処権現影向石の威容 | |
Google Maps:笹間ヶ岳 笹間ヶ岳 関津の神奈備山である笹間ヶ岳の山頂には、八畳岩と呼ばれる巨大な磐座が鎮座する。 磐座の前には白山権現の小祠がある。 磐座には梯子がかけてあって、誰でも岩の頂に昇ることができる。 ここから眺める湖南の景色は素晴らしい。 |
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磐座の前にある白山権現の祠 | 八畳岩の上にて | |
Google Maps:太神山 太神山 (たなかみやま) 標高600mの太神山山頂には、天台寺門宗の不動寺がある。山頂付近には、磐座とおぼしき巨岩があちこちに点在する。 寺伝によると、平安時代の貞観元年(859年)に三井寺(園城寺)を造るために山に登ってこられた智証大師円珍が、峰に紫雲がたなびき、夜ごと金色の光を放っているのを見て山頂に至り、霊木で彫った不動明王の像を岩窟に安置して寺を建立したのが始まりとされる。 大きな岩に寄りかかるように建つ舞台作りの本堂は、桁行三間、梁間三間、一重寄棟造り檜皮葺の室町時代前期の建物である。本堂の裏には巨大な磐座(胎内くぐり)があり、日吉大社の牛尾宮を思わせる。 |
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樹木で隠れた不動寺本堂 | 本堂のうえにある胎内くぐり | |
Google Maps:護法石 護法石 比叡山延暦寺横川中堂の正面脇にある霊石である。案内板には、天台宗の守護神である鹿島明神、赤山(せきざん)明神の影向の霊跡とある。 赤山明神は円仁が入唐中冥加を得た中国山東省の赤山の神である。近くには赤山明神社が祀られている。 |
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横川中堂の向かって右にある護法石 | 玉垣内の護法石 | |
Google Maps:釣垂岩 釣垂岩 (つりたれいわ) 横高山から横川に向かうトンネルの出口にある。トンネルの上は奥比叡ドライブウェイである。 説明板には 地主(じしゅ)権現釣垂(つりたれ)岩とある。地主神の磐座で、回峰行の参拝対象である。 この岩は延暦寺西塔に属し、二宮釣垂岩、通称 鯛釣(たいつり)岩とも呼ばれる。 ドライブウェイをはさんだところに地主権現の社殿の跡がある。 地主権現とは、日吉大社の東本宮(二宮)のことで、古くは小比叡明神社と呼ばれた。 小比叡とは横高山のことである。 参照:Google Maps:日吉大社 東本宮 参照論文 日吉大社 山王三聖の形成 <最澄・円澄・円珍・良源の山王観> |
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地主権現釣垂岩 | 地主権現の神社跡に立つ石碑 | |
磐座の写真の左端の杉の木の取付けられた説明板には次の記載がある。 地主権現釣垂岩 大山咋神亦の名は山末之大主神 上つ代、この岩より近江の海に釣糸垂れておはしましき ここに、大己貴神参到りまして歌以ちて問ひたまひていはく 何事かおはしますらむ瑞垣の久しくなりぬ見たてまつらで 即ち答へて歌よみたまひて曰く 波母山や小比叡の杉の独居はあらしもさむしとふ人もなし |
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Google Maps:山之大神 山之大神 四ッ谷川の下流、平子谷林道の入口を過ぎて 10分余り歩くと、北側から谷川が合流している。 その右岸に山之大神と呼ばれる巨大な磐座がある。(Google Mapsに「山之天神」とあるのは「大神」の誤記) 近くには、穴太(あのう)野添古墳群がある。 「山之大神」とは山の神であり、山は地形的に見て比叡山であろう。 つまり比叡山の地主神である。 磐座は八王子山の南にあたり、『比叡山寺僧院記』に記された結界の東限を示す恰好の目標と思われる。四ッ谷川は南限の登美渓であろう。 現段階では想像にすぎないが、最澄の時代に比叡社であった可能性も考えられる。 比叡社に関する情報をお寄せください。 参照論文 日吉大社 山王三聖の形成 <最澄・円澄・円珍・良源の山王観> |
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山之大神の鳥居と拝殿 | 山之大神の巨大な磐座 | |
山之大神(右)と不動明王(左)の石碑 | 穴太(あのう)野添古墳群 |