第2部 山中に眠る石仏・石神・石碑・遺跡等

 このコーナーでは、山中に眠る石仏・石神・石碑・遺跡等を紹介しています。
皆様の積極的な投稿をお待ちしております。

石仏・石神
石仏の尾 
裏六甲の古寺山に「石仏の尾」と呼ばれる、一列に並んだ石搭がある。このあたりは、多聞寺があったところで、その名残であろう。
誰に省みられることもなく、ひっそりと佇む姿は奥ゆかしい。

場所:古寺山から神鉄六甲駅に下山するルートの頂上近くにある。古びた表示板があり、右手方向に分岐がある(ピストン)。
林の中に並ぶ「石仏の尾」 実に可愛らしい石搭だ。
玉姫大神
稲荷神の系統である
女神で、縁結び・恋愛の神様である。

場所:船坂谷中流
老ヶ石の近く
こうした所には神を祭りたくなる。 霊岩に囲まれた三角形の祠だ。
山の神
これ以上簡素な神はないのが、逆に興味を引いた。何か古い謂れがあるのだろうか、それとも、誰かが作った神であろうか?
いずれにせよ、神の原点を感じさせる。
山の神は、山を守り支配する神で、山仕事をする人々の信仰の対象である。山神は女神で荒ぶる神であるため、怒れる妻をさして山の神と呼ぶのはこのためである。

場所:シュラインロード終点近くの古寺山登山口の右
両側に立てられた白い旗が、わずかに神の石を思わせる。 山の神の標示板。これがないと、神の存在も見落とすところである。
 山の神
阪急岡本駅から八幡谷を登ってゆくと、登山道が左右に分かれる分岐点がある。
そこに二つの石の祠が鎮座している。
おそらく正式な神社名があると思われるが、地図には「山の神」とだけ記されている。

場所:同上
 山の神の全景  二つ並んだ祠(左が古いもの)
八幡谷の石仏
この仏様のお名前を確認しようと前掛けをはずしてみたが、石の磨耗が激しく良くわからない。
八幡谷の入口にある案内板によると、
これが山ノ神にあたるとも思えるが・・・
ともかく、私が六甲山の登り始めた頃からのお付き合いです。

場所:阪急岡本から八幡谷を登り、森林管理歩道(別名:水平道)に出会うすこし前
賽銭箱が置かれている。 前掛けをはずしたところ。(もちろん、前掛けはもとどおりに修復いたしました)

石碑
阿弥陀塚

六甲山の地図をみると、西六甲ドライブウェーが獺池から六甲山牧場に向かう途中に、阿弥陀塚と書かれたポイントがある。
昔、三国岩から石楠花山の間に阿弥陀塚道といわれる道が通じていた。(文献@A)
この塚は、下欄の「一里塚」に関連するもので、文献Cには「西六甲の三国岩から阿弥陀塚ー柿ノ木塚ー小部峠を結ぶ当時の中一里山と奥一里山の境界線上にあたる」とある。
尚、神戸市立森林植物園の話では、現在、柿ノ木塚に塚は見当たらないとのことである。

 私は、西六甲ドライブウェーの曲がり具合と石楠花谷西尾根の位置関係からその地理的なポイントを探り当てた。(文献B)
しかし、肝心の阿弥陀塚は容易に見つけることが出来なかった。どこかに移転したのかもしれない。諦めて帰ろうとした時、自分の座っていた場所の後の笹がこんもりと生い茂っており、いかにも塚のような雰囲気を持っていることに気がついた。私は笹を掻き分けてみた。三角点に置かれているような石柱の頭が見えた。やがて、阿弥陀塚の文字が見えた。
これぞ、御仏のお導きである。
私は、思わず塚に手を合わせ南無阿弥陀仏を唱えた。

 実に私は、阿弥陀塚の前で考えあぐねていたのだった。人生とは、かくなるものかも知れない。

参照 三国岩 三笠岩
阿弥陀塚 阿弥陀塚の裏面 
明治44年10月の彫り込みがある。
阿弥陀塚は笹に埋もれていた。 阿弥陀塚への登り口
六甲山牧場の道路標識が目印。
参考文献
@「六甲ー摩耶ー再度山路図」 直木重一郎著 神戸徒歩会 1934年刊
A「北摂ハイカーの径」 木崎靖一郎著 阪急ワンダーホーゲルの会 
  1937年刊 p194〜195
B「六甲山ハイキング」 大西雄一著 創元社 1975年刊 p169図版
C『徳川道 西国往還付替道』 1978年刊(神戸中央図書館蔵) p40
一里塚
昭文社の「山と高原地図48 六甲・摩耶」
2005年版を見ると、石楠花山から黄蓮谷に下る道の途中に一里塚なる表記がある。
しかし、その場所に塚は見当たらない。
そこで、新穂高の三枚岩でお世話になった「旗振り山」の著者である柴田昭彦氏に問い合わせたところ、塚の位置とその歴史的背景についての情報をいただいた。
まことに、感謝の至りである。
一里塚とは、右の文献『神戸の史跡』にあるように、境界を示すものである。
忘れられつつある歴史遺産といえよう。
後世に残してゆきたいものだ。

場所:石楠花山から黄蓮谷に下る道の途中に送電鉄塔がある。
そこから少し南に下ると、黄蓮谷に下る左の道と南西に向かう右の道の分岐がある。
右の道を進んでほどなく、道の右手に写真のような塚がある。
この位置は、中村地図(文献A)に表記された位置にあり、一里塚の初見の登山地図と思われる直木地図(参考文献@)と合致する。

参考文献
@「六甲ー摩耶ー再度山路図」 
  直木重一郎 神戸徒歩会 1934年刊
A登山ハイキング地図「六甲・摩耶」
  中村勲 日地出版 1992年刊
        (1967年増補新版)
底面の直径が約3mの小さな塚である。
松の木がはえている。
頂部に立つコンクリート製の標柱
これは、後世のものと見られる。
『神戸の史跡』 神戸市教育委員会編 1981年刊 p212〜213より一部引用
口・中・奥一里山
 神戸には市街地の北方に、古くから口一里山、中一里山、奥一里山と呼ばれるところがあり、今もこの名は使われている。
口と中一里山は旧兵庫と神戸の村々が入会権(いりあいけん)をもっていて、山かせぎ場つまりマグサや柴を刈りに行くところであった。
さらに北の奥一里山は山田村(北区山田町)の所属になっていて、互いに他を侵せないキメであった。
 こうした名の起こりは、町方、特に兵庫から一里のところがロー里山で、その北方を中、奥と順によんだと距離で説明しているのもあるが、確かな証拠とするものがない。
これらの名は慶長九年(1604)に有名な山論があって記録が残っているが、そのなかに初めて「口、中、奥一里山」の名がみえるから、それより以前からの名であることが分かる。
 後世の境界図をみると、六甲山の三国岩を基点として、摩耶山、再度山の背後から有馬道の高座を経て、白川の堀切への線が、口一里と中一里との境界となり、中と奥との境界もまた塚を点々とつくって、それをつなぐ一線で画している。(参照 三国岩
 慶長以来の山論は明治九年になっていよいよ大きな論争となり、結局神戸側は、中一里山に入るため、山田村へ毎年年貢を支払って来ていたので、当時の法規では年貢を納めているものに、地券を下付することになっていたために、広大な面積の山地が神戸側に下付せられて勝訴となった。この土地を分割したのが、後に部落財産となったのである。
 入会権:一定地域の住民がその地方の慣例、または法規により、
      一定の山林・原野・池沼などで共同に収益し得る権利。

参照:「石楠花山の一里塚と生田川の立岩」

村内安全の碑
東六甲の岩倉山の西、赤子谷右俣に下る尾根上にひっそりとある。
完全に忘れさられた石の祠である。
これがまたいい。
祠の中には「村内安全」と書かれた石碑が納めれている。神様でないところが、かえっておもしろい。この道が、東六甲縦走路から生瀬に下る道の取り付きにあることから、村とは宝塚か生瀬の昔の村を指すものと思われる。


正面の写真
中央の四角い石には、「村内安全」と書いてある。
祠は東向きである。
正面の左側面
龍白龍神
このような石神は、滝の近くに
建てられるのが相場である。
なぜ、奥高座の滝でなくて
ここなのか。
一般道からはずれた、
寂しいところに
こんな立派な碑が
ぽっんとあるなんて、謎である。
石碑の裏にも何も書かれていない。
どなたかいきさつをご存知の方、
教えてください。

場所:奥高座の滝と
    キャッスルウォール下部
    との中間点
「龍白龍神」と読める
この左手より、
ニセアカシヤの尾根(中間尾根)のコルを越えて
高座谷左俣を渡り風吹岩に至る道が通じている。
奥高座の滝
白天大権現
場所:高座谷中ノ滝
白天大権現の石碑 不動明王の鎮座する高座谷中ノ滝
鎌倉時代、このあたりは行場であった。
猩猩池の碑
猩猩とは中国の伝説上の獣で、形は人に似、人語を解し、酒好きといわれる。
一方、猩猩はオランウータンを指す場合もある。

場所:再度山大師道の猩猩池
猩猩池の碑の説明板 猩猩池の碑、漢文である。

遺跡他
徳川道石積み
徳川道は、幕府の命により兵庫開港の年慶応4年(1868年)に完工した。居留地での外国人との衝突を避けるため海沿いの西国街道を大きく迂回した道であった。

場所:徳川道 新穂高登り口近く
徳川道石積みのなごり 徳川道石積みの説明板
参照文献
「六甲山ハイキング」 大西雄一著 創元社 1975年刊 p248〜250に徳川道の詳細な記述がある。
天狗の鼻
天狗の鼻にある「関西テレビ放送 六甲山の家」の管理人の話では、天狗の鼻とはここら一帯の地形を指すとのこと。堡塁岩のような岩頭を想像していた私には、少しがっかりであった。
しかし、その地形をじっくり眺めると、六甲山上から麓に向かって長く突き出した形は、まさに天狗の鼻であり、なかなかのネーミングであることが分かった。

場所:記念碑台より南に伸びた別荘地帯の道を進む。「関西テレビ放送 六甲山の家」あたりが天狗の鼻。
六甲山上郵便局近くから天狗の鼻を望む 天狗の鼻から堡塁岩を望む
岩ヶ鼻
北山公園の南にある甲陽学院高校の前あたりの山には、岩が累々と重なっている。北山のボルダーに飽きれば、このあたりのボルダーにトライするのも一興だろう。ただ、すぐ下の道路を車が頻繁に通過するのが難点ではあるが・・・。
参考文献
「六甲ー摩耶ー再度山路図」 直木重一郎著 神戸徒歩会 1934年刊

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