整理番号
遺蹟名
時代 |
所在地と北緯・東経(世界測地系)
出土地の概要(特に岩との関係)と遺物
主要参考文献・参考サイト(岩の画像のあるもの)
コメント等 |
24三重県 |
24三重県
博物館82?
総覧30
神道考古p298
大石神社
旧社地
古墳時代 |
<所在地と北緯・東経>
阿山郡阿山町一ノ宮大岩(南坂?)
位置 北緯・東経34.785435,136.163875
(詳細は不明であるが、下記文献の引用記事参照)
<出土地の概要と遺物>
山麓傾斜面末端、黒岩あるいは大石明神と称する巨岩の近く。(現在、巨岩は喪失?)
東に円錐形の南宮山あり、その麓に伊賀一ノ宮敢(あえ)国(くに)神社がある。
臼玉・土師器(高坏・盌・坩)・手捏土器
高坏 3個、高さ6~9㎝、手捏製無紋、朱を塗った痕あり
盌 3個、高さ約5㎝弱、手捏製無紋、
坩 2個、高さ9㎝前後、手捏製無紋、朱を塗った痕あり
朱を塗るのは、祭祀遺物の特徴の一つである。
<文献>
1大場磐雄「伊賀国南宮山麓の上代祭祀遺跡」『神道考古学論攷』
p470~480 図版第13 雄山閣 1971年
大場磐雄(文献1)より要約引用
敢国神社の境内に末社大石神社がある。
この大石神社の旧鎮座地は、敢(あえ)国(くに)神社の西南方約三・四町(382m)の小字
大岩の地であって、南宮山の西麓傾斜面の末端に一巨岩が存在し、
里人は大石明神とも黒巌とも俗称した。
『三国地誌』巻六十敢国神社摂社の記事中に
大石明神祠(本社の西南丘陵の上大石あり俗黒巌と称す)
また、『伊賀名所記』に
黒岩(南宮山の西池の上にあり弥勒の像を刻む)とある。
黒岩は大石明神の遷座の時期に、岩石採掘工事の犠牲となった・・・
原始神道期における祭祀遺跡の四条件
①遺跡の所在地に古大社が存在すること
②神奈備山が存在すること
③石神または磐座と認められるものが存在すること
④石神または磐座の付近から祭祀遺物が発見されること
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25滋賀県 |
25滋賀県
博物館72?
総覧26
神道考古-
天神山
古墳時代
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<所在地と北緯・東経>
大津市坂本本町 天神山
位置 北緯・東経35.062179,135.865581
詳細不明であるが、文献1に記述がある。
<出土地の概要と遺物>
丘陵突端部。巨石群、正面の巨石は小石積みの上に据えられている。
円形石材・須恵器片
<文献>
1『新大津市史』別巻p78 1983年
2『滋賀県遺跡目録』
以下、文献1『新大津市史』より転載
図1 天神山祭祀遺趾巨石配置図
図2 天神山祭祀遺趾舟石
『新大津市史』(文献1)より引用
(土地の所有者)の話によると、祭祀趾付近からしばしば須恵器の破片なども発見したことがあったと言う。
遺跡はその台地上の西より、やや一段高い所にある
巨石をめぐって、二十数個の大小の石が図1の如くほぼ円形に並列しており、
正面の巨石(通称舟石)は長径が凡そ三米ほどの巨大なもので、
東南を正面として図2にみる如く小石積みの上に平らに据えられている。
その向って右の岩もいまは傾いているが、巨大な雄牛の伏せたような恰好で横たわっている。
図1は巨石群配置の実測図であるが、
一見してその極めて特殊の構造をもった遺跡、遺構であることがわかる。
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26京都府 |
26京都府
博物館-
総覧-
神道考古-
修学院磐座
江戸時代
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<所在地と北緯・東経>
京都市左京区修学院守禅庵
位置 北緯・東経35.058451,135.803384
赤山禅院の北側に張り出している丘陵に、比叡山への登山道がある。
その登山道口から約200m入った右手斜面。
<出土地の概要と遺物>
岩石の周辺に359点(ほとんどは土師器皿の細片)の遺物
土師器皿群は18世紀前半~後半に渡って岩倉木野で製作された土器群と
推定(下記文献「修学院磐座調査報告」)
修学院磐座(高さ2.2m、横幅2.4m 石質 黒チャート)
<文献>
1京都大学考古学研究会 1994 「修学院磐座調査報告」『第45とれんち』
2「石神・磐座・磐境・奇岩・巨石とよばれるものの研究」
https://www.megalithmury.com/2017/08/blog-post.html
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27大阪府 |
27大阪府
博物館18
総覧1
神道考古
5巻p303
能勢町今西
古墳時代
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<所在地と北緯・東経>
豊能郡能勢町今西
位置 北緯・東経34.968617,135.389264 詳細不明
<出土地の概要と遺物>
山田川の中洲上。小石で囲んだ環状配石3つ。
臼玉・土師器・鉄片
川の祭祀については、関東編11埼玉県・博物館123 のこぶヶ谷戸(やと)遺跡
の「こぶ石」を参照のこと。
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28兵庫県 |
28兵庫県
博物館22
総覧-
神道考古-
保久良神社
遺跡
立岩
神生岩
三交岩
弥生時代
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<所在地と北緯・東経>
神戸市東灘区本山町北畑680
位置 北緯・東経34.735357,135.278067
<出土地の概要と遺物>
六甲山系金鳥山中腹 保久良神社境内
保久良磐座群 立岩 神生岩 三交岩等、
弥生時代の環状列石(ストーンサークル)?
銅戈 石鏃 弥生式土器等
図1 保久良神社遺跡の巨岩と遺物の分布図(文献3)
石鏃・土器片は、ほぼ一様に分布。 活字体の文字は樋口論文を参考に筆者が追記
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図2 出土の銅戈 |
図3 ストーンサークルの中心をなす立岩 |
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図4 神生岩(神鳴岩、雷岩) |
図5 三交岩(三五岩) |
<文献>
1樋口清之「攝津保久良神社遺跡の研究」『史前学雑誌』14巻2・3号合併号 p41~88 史前学会1942年
2大場磐雄「磐座・磐境等の考古学的考察」『考古学雑誌』32巻 p397~398 日本考古学会1942年
3江頭務『六甲岩めぐりハイキング』p112 創元社 2018年
樋口清之(文献1)より
巨石の石質は石英粗面岩と緑泥片岩で、そのほとんどは自然の露出によるものではなく、
他所から運ばれてきた石としている。
巨石は、大小の石を根固めにして、一部に粘土を使用しているとのことである。
有名な銅戈(樋口氏の論文では銅剣となっているが、これは誤り)は、神社の南西の登り口
付近(図1のリ部分)にあった岩のそばから検出されたが、今はその岩はない。
岩は大きさ0.8mほどで、銅戈は岩の東側の地表下1mのところで2個の石鏃と共に大量の
木炭に混じって検出されたという。銅戈・石鏃の他には、4個の磨石斧が出土している。
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28兵庫県
博物館96
総覧-
神道考古-
伊和遺跡
古墳時代
中期
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<所在地と北緯・東経>
宍粟市一宮町須行名
位置 北緯・東経緯・東経35.087353,134.586505
<出土地の概要と遺物>
住居跡とその近くから出土。
北方近くに延喜式伊和神社の鶴之石(磐座)がある。
さらに北東には宮山と呼ぶ神奈備山がある。
滑石製小型勾玉・臼玉・鉄剣・有孔円板・小型丸底壺・小型丸底手捏土器
鶴石(Wikipedia「伊和神社」)より
伝承では、欽明天皇25年、豪族・伊和恒郷に大己貴神から「我を祀れ」との神託があった。
恒郷は、西の野で一夜にして木々が群生し、
大きな白鶴2羽が石(鶴石)の上で北向きに眠っていたのをみて、そこに社殿を北向きに造営したとされる。
現在の社殿も北向きで社叢のなかにあり、鶴石は本殿裏に祀られる。
<文献>
1大平茂『祭祀考古学の研究』p232~234 雄山閣 2008年
2伊和遺跡発掘調査団「播磨一宮伊和遺跡」
大平茂(文献1)より引用
伊和遺跡は、姫路市街地から国道29号線を北上すること約40kmの宍粟市一宮町に所在し、
揖保川左岸の標高170mの河岸段丘上に立地する。
昭和49年の県営ほ場整備事業にかかる事前調査により明らかとなった遺跡で、
古墳時代の竪穴住居跡4軒などを検出しているのである。
発見された祭祀遺物は2号住居跡から滑石製小型勾玉2点、臼玉47点、鉄剣1振と
その近辺で有孔円板1点、胴部に穿孔の小型丸底壷がある。
また、3号住居跡では、小型丸底壷、さらにその近くで小型粗製手捏土器4点を確認している。
年代は、共伴の土器からみて5世紀中葉と考えられる遺跡である。
まず、注意深くこの遺跡の周辺を観察すると、この地は延喜式内社である伊和神社の鎮座地であり、
遺物の出土した北近くには鶴之石と伝承される自然石が存在している。
自然石はいわゆる磐座と呼ばれる依代であって、そこに神を招き神まつりを行なったであろう。
さらに、北東には宮山と呼ぶ三角形をした小さな富士山を思わせる山が聾えている。
こういった山は、神奈備山と呼ばれる聖なる山で、原始・古代には神の籠もられる山として
崇拝の対象となったのである。
このような条件からみると、この祭祀跡は、伊和神社の造られる以前より神まつりが行なわれた所であり、
宮山・鶴之石に神を招いて祭祀を執り行ない、まつりの終了後祭祀具を一括埋納もしくは
保管していた所と理解できるのである。
このように、単に祭祀遺物が見つかるだけでなく、厳密な意味での祭祀遺跡と認知するための
要件を挙げれば、以下のようになろう。
① 祭祀遺物が認められること。
② 遺構(巨石・土坑・溝など)が伴うこと。
③ 祭祀の対象物が存在すること。
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28兵庫県
博物館-
総覧-
神道考古-
鹿の子遺跡
弥生時代
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<所在地と北緯・東経>
たつの市新宮町下笹鹿の子/下笹字南山
位置 北緯・東経34.932806,134.559278 詳細不明
参照:遺跡ウォーカーhttp://www.isekiwalker.com/iseki/121793/
<出土地の概要と遺物>
山中の巨石下から弥生土器が出土
<文献>
1大平茂『祭祀考古学の研究』p234 雄山閣 2008年
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28兵庫県
博物館55
総覧-
神道考古-
女淵(にょうがぶち)
遺跡
弥生時代
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<所在地と北緯・東経>
神崎郡神河町根宇野字小枕石
位置 北緯・東経35.080570,134.821411 詳細不明
<出土地の概要と遺物>
峠の入り口にあたる巨石下から磨製石剣が出土
<文献>
1大平茂『祭祀考古学の研究』p235 雄山閣 2008年
2鎌谷木三次「新石器時代の磨製石剣発見」『播磨』第1巻第2号 1932年
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29奈良県 |
29奈良県
博物館195
総覧23
神道考古
5巻p296
都祁山口神社
古墳時代 |
<所在地と北緯・東経>
奈良市都祁小山戸640
位置 北緯・東経34.578458,135.946897
<出土地の概要と遺物>
都祁山口神社は天理市杣之内町東垣内(旧山口村)にも鎮座しており、式内社の論社である。
神社の背後の山の上に御社尾の神石と呼ばれる巨石があり、水分神が降臨した磐座と伝わる。
三輪山型式。周辺から古墳時代の管玉が出土している。
御社尾の磐座(文献2)http://message.ne.jp/iwakura/photo
<文献>
1池田源太「地方に於ける信仰生活の形態」
『奈良県総合文化財調査報告書都介野地区』1952年
2池田清隆『磐座百選』p 260~263 出窓社 2018年
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29奈良県
博物館-
総覧25
神道考古-
5巻p293
南ノ庄
古墳時代
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<所在地と北緯・東経>
山辺郡都祁村南ノ庄
位置 北緯・東経34.591102,135.954453
<出土地の概要と遺物>
山頂(柏峰)。20個前後の石を環状に並べ、中央に「秋葉大権現」と刻んだ自然石立つ。
ストーンサークル(配石遺構)であろうか?(現状未確認)
山麓の国津神社は神殿を通して奥の相峯を拝する。
臼玉(滑石製)・管玉(碧玉製)
国津神社の裏山(柏峰)の山頂にある秋葉大権現の碑
傍らには四等三角点(標高503m)がある。
http://fuji55.sakura.ne.jp/kansai/yamato/tugefuji/tugefuji.html
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29奈良県
博物館231
総覧74
神道考古
5巻p293
山ノ神
古墳時代 |
<所在地と北緯・東経>
三輪山ノ神桜井市馬場山ノ神
位置 北緯・東経34.531999,135.854977
<出土地の概要と遺物>
山ノ神祭祀遺跡は、狭井神社の東北、狭井川の上流にあたる三輪山麓にある。
組石遺構
有孔円板・剣形品・勾玉・管玉・臼玉・平玉・子持勾玉
臼・杵・箕・瓠(ひさご)・柄杓・案・俎・土師器・須恵器・陶器
素文銅鏡・鉄片・土馬
<文献>
1樋口清之「奈良県三輪町山ノ神遺跡研究」『考古学雑誌』18-10 1928年
2西崎辰之助・高橋健自「三輪町大字馬場山ノ神古墳」『奈良県史蹟勝地調査報告書』7冊 1920年
3江頭務「三輪山イワクラ群の段階的成立」 『イワクラ(磐座)学会会報11号』p41~42 2007年
三輪山の祭祀を知る上で極めて貴重な遺跡であり、
遺物の一部は大神神社の境内にある宝物収蔵庫に展示されている。
尚、山の神祭祀遺跡の磐座は、発掘当時のものとはまったく別物の記念碑的なものであることに
留意したい。
図1 山ノ神祭祀遺跡の磐座を象った記念碑
三輪山は神体山であるため基本的に学術調査ができないことになっているが、
ここはたまたま民有地となっていたため、詳しく調査された。
以下、樋口清之(文献1)より引用
大正7年(1918)、ミカン山開墾のために、露出していた巨石を動かそうとしてその周囲を掘り進んだ結果、
発見された。
巨石組は、約1.8×1.2mの平面長方形の斑礪岩(はんれいがん)を中心にして、
5個の石がこれを取り囲む状態で見つかり、石組の下には割石を敷きつめて地固めをしていた。
遺物は石の周囲より発見され、中には、土師器坩(はじきつぼ)の内に滑石製臼玉が
入れられた状態で出土したものもあるという。
残念ながら、発見から県の調査までの3ケ月間に巨石が動かされ、盗掘を受けてしまつたが、
発掘された遺物を上回る大量の遺物が埋納されていたことが知られる。
図2 大正7年(1918)発掘当時の山ノ神祭祀遺跡の巨石構築状態
長さの単位 尺(1尺:30.3cm)
図3 山ノ神祭祀遺跡の遺物(大神神社宝物収蔵庫パンフレットより)
図3の遺物構成をみると、鏡・剣・玉のセットは明瞭であるが、それ以外の土製品は
、いずれも農耕や食事に関係のあるものであり、
三輪山の神が農耕としての一面をもつ点を考えあわせると興味深い。
本遺跡の時期については、遺物を検討すると、碧玉製勾玉・(剣形)鉄製品・小形素文鏡などの
4世紀後半~5世紀前半代の一群と、
型式的にやや新しいタイプの滑石製模造品(鏡[有孔円板]、玉[勾玉]、剣のセット)・土製模造品などの
5世紀後半~末の一群とに大別できる。
従って、本遺跡の祭祀遺物の埋納は、5世紀後半~6世紀初め頃になされたと考えられるが、
それらは、それ以前に行なわれた数回にわたる神まつりの遺物の集積でもあったといえる。
5世紀中頃を境とした上記の祭祀遺物の変化は、雄略期の伊勢遷宮による
ヤマト王権の太陽神から土着の農耕神への回帰による可能性が考えられる。(文献3)
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29奈良県
博物館233
総覧77
神道考古
5巻p294
大神神社禁足地内
古墳時代
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<所在地と北緯・東経>
桜井市三輪町 大神神社禁足地内(茶臼谷)
位置 北緯・東経34.528579,135.853377 (詳細不明)
<出土地の概要と遺物>
山麓。辺津磐座。
有孔円板・勾玉・管玉・臼玉・大型臼玉・子持勾玉・土師器
<文献>
樋口清之『大三輪史 古代編』1959年
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30和歌山県 |
30和歌山県
博物館3
総覧10
神道考古
5巻p304
鳩羽山
平安時代から
室町時代
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<所在地と北緯・東経>
那賀郡貴志川町岸宮
位置 北緯・東経 34.227200,135.294853
<出土地の概要と遺物>
鳩羽山(はとばやま)の中腹南斜面。岸宮八幡宮から北西約280m離れた乾(北西)の方向にあたり、
岩群れ「磐座」を中心とした約290㎡の地域で、「紀伊続風土記」にも載せられている。
山麓に岸宮八幡神社あり、遺跡はその中宮推定地。
大小の岩石群・敷石・環状配石
手捏土器・土師器・須恵器
和鏡(瑞花双島鏡・銅製小型鐸)
<文献>
1金谷克己「紀伊岸宮祭祀遺跡の第一期調査」『若木考古』53 1959
図1 岸宮(きしみや)中宮(なかみや)祭祀遺跡推定地(紀ノ川市指定文化財10号)
古宮祭祀遺跡
紀ノ川市教育委員会の説明板より
古代祭祀のシンボルとして、この岩の頂上に神が宿るとされた磐座である。
現在もなお地元の人々は神籠石(こうごいし)として注連縄を張り、尊崇している岩である。
この山の中腹に中宮遺跡があり、麓の岸宮八幡宮の社殿の前庭には石組みがみられる。
いずれも磐座と考えられ、信仰の場が時代によって麓の方へ変遷していったものと思われる。
また、この近くには具足壷古墳群、七つ塚古墳群、上端(じょうずい)古墳がある。
この磐座は通称たてり岩と呼ばれる。メンヒルの意と思われる。
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30和歌山県
博物館-
総覧15
神道考古p305
坂田山
(阪田山)
古墳時代
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<所在地と北緯・東経>
西牟婁郡白浜町阪田1-1 阪田神社(歓喜神社)
位置 北緯・東経33.694783,135.355451
<出土地の概要と遺物>
丘陵部傾斜地。不正円形の組石遺構、上方に彫刻のある岩盤
有孔円板・剣形品・臼玉15・管玉・勾玉等2000個
土師器・須恵器・製塩土器・土馬・土錘
阪田神社(歓喜神社)の御神体(陰石)
「ノリの地元探索日記」
https://plaza.rakuten.co.jp/arida4425nt/diary/201401120000/
<文献>
1伊勢田進「南紀串本の祭祀遺跡」『上代文化』23 1952年
2巽三郎・大原満「江津良遺跡とその周辺調査概報」1972年
3参考サイト「石神・磐座・磐境・奇岩・巨石とよばれるものの研究」
https://www.megalithmury.com/2017/09/blog-post.html
「石神・磐座・磐境・奇岩・巨石とよばれるものの研究」(文献3)より
阪田山遺跡は、阪田山の斜面に自然露出の岩盤が広がり、
その下方に岩盤を囲うかのごとく並ぶ弧状列石、そして焚火址2ヶ所、
環状列石などの遺構が昭和30~31年にかけて見つかった祭祀遺跡である。
焚火址からは古墳時代の須恵器・土師器・石製品・土錘が出土した。
環状列石の内部の土砂からは滑石製模造品のほとんどが出土した。
また内部の土砂は外部の漆黒褐色灰土とは明らかに区別でき、
細礫が混ざった漆黒褐色土が充填されていた。
遺跡地の最上部には上の写真のような岩盤が露出している。
それは現在の阪田神社(歓喜神社)の御神体となっている。
報告書(文献1)によれば、当時の大阪学芸大学の鳥越憲三郎助教授はこの岩盤を、
祭祀遺跡の中で「神の依り代」として機能していただろうと推測している。
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30和歌山県
博物館-
総覧21
神道考古p306
阿須賀神社
弥生時代から
歴史時代
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<所在地と北緯・東経>
新宮市熊野地 阿須賀神社境内
位置 北緯・東経 33.728492,135.997288
<出土地の概要と遺物>
熊野川口の蓬莱山麓。(磐座)矩形の石組
子安石 引用「半坪ビオトープの日記」https://hantubojinusi.hatenablog.com/entry/20160523/1464004301
子安石は第二次世界大戦の空襲で破壊したので、後に本社造営の際に別なものを作って
今はそれより約10mばかり北方、蓬莱山側に立っている。
子安石より更に奥に登った巨石付近から、多数の銅板御正体が発見された。
銅板御正体の製作年代は鎌倉時代初期と推定される。(文献1)
管玉・臼玉・経石
手捏土器・土師器・須恵器・灰釉陶器
銅板御正体・銅板吊金具
<文献>
1大場磐雄・佐野大和「阿須賀神社祭祀遺跡」 『国学院雑誌』65-10 1954年
2伊勢田進「南紀串本の祭祀遺跡」『上代文化』23 1952年
3矢島恭介「熊野阿須賀神社境内に於ける御正躰埋納遺跡の調査」 『考古学雑誌』46-1 1960年
大場磐雄・佐野大和(文献1)より引用
量は少ないが古代祭祀遺物が出土していることから、
この地で古くから神祭りが行われたことが知られると共に、
阿須賀神社境内で発見された古代住居跡とも無関係ではなく、ここに住居した古代人が、
恐らくは蓬莱山を対象としてその霊をまつったと考えるべきであって、
子安岩はその際の磐座に相当すると言ってよいであろう。
蓬莱山は、熊野川右岸にある高さ約40mのお椀を伏せたような小山で、
秦の徐福が始皇帝の命により神薬を求めて漂着したところとさわれている。
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30和歌山県
博物館51
総覧-
神道考古-
神倉神社
ゴトビキ岩
弥生時代から
平安時代 |
<所在地と北緯・東経>
新宮市神倉1-13-8 神倉神社
位置 緯度・経度33.72225,135.98283
<出土地の概要と遺物>
神倉神社の創建年代は128年頃といわれているが、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。
『古事記』『日本書紀』によれば、神倉山は、
神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山であるという。
このとき、天照大神の子孫の高倉下命が神武に神剣を奉げ、
これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、
熊野・大和を制圧したとされている。(Wikipedia「神倉神社」)
ゴトビキ岩から銅鐸の断片が出土。 再埋納の見解もある。(文献4)
滑石製模造品、平安時代の経筒 多数
ゴトビキ岩 Wikipedia「神倉神社」
ゴトビキとはヒキガエルをあらわす新宮の方言で、琴引岩とも呼ばれる。
この岩の根元を支える袈裟岩と言われる岩の周辺には経塚が発見されており、
平安時代の経筒が多数発掘され、そのさらに下層からは銅鐸片や滑石製模造品が出土していることから、
神倉神社の起源は磐座信仰から発したと考えられている。
<文献>
1『角川日本地名大辞典』和歌山県30 p293~294 角川書店 1985
2『寺院神社大事典』大和・紀伊 p191~193 平凡社1997
3横田健一「新宮市神倉神社ゴトビキ岩下出土の銅鐸」 『関西大学考古学等資料室紀要1』1984
4大野勝美『銅鐸の谷』1994
5『和歌山県史』考古資料 1983
6『新宮市史』1972
7巽三郎・上野元『熊野新宮経塚の研究』熊野神宝館 1963
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