イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版 2007年2月23日掲載
イワクラ(磐座)学会 会報10号掲載
三輪山の源流 海を照らしてより来る神
<弥生のメイフラワー号 沖ノ島信仰集団の東遷>
1 はじめに
本論は、前回のイワクラ学会誌第9号に掲載した研究論文「神奈備山イワクラ群の進化論的考察」において提案した、考古学の型式学をイワクラ研究に取り入れた「イワクラ進化論」の展開である。従って、本論の理解にあたっては、上記の論文を参照されるのが望ましい。本論は邪馬台国東遷説に分類されるものである。これに関しては膨大な書物があるため、これらとの重複をさけるため従来とは異なった着眼点のみ絞って論述するものである。即ち、イワクラ学による神武東征説への祭祀的な側面からのアプローチである。
本論は、まず沖ノ島信仰と三輪山信仰の進化論的比較をおこない、沖ノ島におけるヤマト王権による磐座祭祀以前の北九州海人集団による海上祭祀が、三輪山の源流となったことを推定した。同時に、沖ノ島における伊都国の鏡の海底遺物の存在の可能性を示唆した。次に、「3世紀後半に北九州における鬼道との宗教戦争に敗れた沖ノ島信仰集団の三輪山に向けての移動」が神武東征に他ならないことを論述した。
2 沖ノ島信仰と三輪山信仰の進化論的比較
古事記には三輪山にまつわる次のようなくだりがある。
大国主神は少彦名神と共に国造りをしていたが、国造りなかばにして少彦名神は常世に帰ってしまった。大国主神が、「この後どうやって一人で国造りをすれば良いのだ」と言うと、海原を照らして神が出現した。その神は、大国主の幸魂奇魂であり、大和国の東の山の上に祀れば国作りに協力すると言った。その神が、三輪山に鎮座している大物主神である。
「海を光(てら)して依り来る神ありき」とは、大国主神が出雲の岬で見た光景だろうか。もしそうであれば、大物主神は出雲から大和に移動したことになる。
しかし、古事記の神武天皇の東征と重ね合わせるとき、沖ノ島の光景がどうしても思い浮かぶのである。つまり、沖ノ島は三輪山の源流ではないかと考えたのである。
海の正倉院とも言われる沖ノ島への大和朝廷の執心をみれば、あながち無理な空想ではないであろう。そこで私は、沖ノ島信仰と三輪山信仰の進化論的考察をおこなった。
表1 沖ノ島信仰と三輪山信仰の進化論的比較 | |||
沖ノ島信仰 | 三輪山信仰 | ||
神社 | 宗像大社 | 大神神社 | |
神所の名称 | 上の神所 | 沖津宮(おきつみや) | 奥津磐座(おきついわくら) |
中の神所 | 中津宮(なかつみや) | 中津磐座(なかついわくら) | |
下の神所 | 辺津宮(へつみや) | 辺津磐座(へついわくら) | |
立地条件 | 上の神所 | 沖ノ島 (絶海の小さな孤島・無人島) |
三輪山の山頂の岩群れ |
中の神所 | 大島 (陸地に近い、比較的人の多い、 かなり大きな島) |
三輪山の中腹の岩群れ | |
下の神所 | 田島(陸地・人口密集地) | 三輪山の麓の岩群れ | |
祭神 | 分類 | 天津神<宗像三女神> | 国津神<大物主神> |
上の神所 | 田心姫神(たごりひめかみ) | 大物主大神(おおものぬしのおおかみ) | |
中の神所 | 湍津姫神(たぎつひめかみ) | 大己貴神(おおなむちのかみ) | |
下の神所 | 市杵島姫神(いちきしまひめかみ) | 少彦名神(すくなひこなのかみ) |
<宗像三女神>
日本書紀には、アマテラスが国つくりの前に、宗像三神に「宗像地方から朝鮮半島や支那大陸へつながる海の道に降って、歴代の天皇を助けると共に篤い祭りを受けよ」と神託した。このことから、三女神は現在のそれぞれの地に降臨し、祀られるようになった。また、古事記に「この三柱の神は、胸形君等の大神なり」とあり、胸形氏(宗像氏)ら海人集団の祭る神であった。
(1)太陽信仰と鏡
@三輪山
ヤマト王権を築いたとされる天孫族の祖先はアマテラスであり、その御魂は鏡である。古事記の天孫降臨に際し、アマテラスは「この鏡は、専ら我が御魂として、吾が前を拝するがごとき、斎(いつ)き奉れ」と神託した。
初期ヤマト王権の祭祀の頂点たる三輪山が、鏡を祭具とした太陽信仰の場であったことは、先の論文で述べたとおりである。三輪山は禁足地で発掘が許されていないため、奥津磐座付近での鏡の存在については確認されていないが、鏡の存在する可能性は高いと予想される。
A沖ノ島
宗像三神の最重要の祭場である沖ノ島(図1)においては、沖津宮近傍の磐座群が発掘された。そのなかで、最も古いとされる巨岩上の祭祀遺蹟(17号遺蹟)では、21面の鏡、鉄剣、鉄刀、玉類等の装身具が発見された。鏡は、背を裏にして岩裾に置かれていた。鏡の出土数は北九州の前期の古墳出土の鏡と比べて異常に多く、沖ノ島一地方の氏族だけの祭祀とは想定しがたい。遺物は、前期古墳の副葬品と共通することから4世紀後半から5世紀前半(文献2)と見られ、ヤマト王権の強い関与が指摘されている。
図1 沖津宮のある沖ノ島(文献1) |
沖ノ島のヤマト王権以前の遺物としては、磐座祭祀が行われていた4号遺蹟で、縄文時代・弥生時代の土器・石器が出土している。また、社務所前遺跡からは、朝鮮半島系の無紋土器が出土しており、海上交流の歴史の中にあったことは間違いがないであろう。(文献3@)
2〜3世紀頃の日本の様子を記述しているとされる魏志倭人伝によれば、現在の福岡県前原市のあたりに大陸への国際貿易港を有する鏡の王国ともいえる伊都国が存在していた。卑弥呼の例にみるごとく、古代国家において祭祀は国の根幹である。にもかかわらず、海洋国家・伊都国に、それにふさわしい祭祀場が沖ノ島以外に見当たらないのである。伊都国の鏡が、海の守護神たる沖ノ島でなぜ出てこないのか不思議である。
その理由として考えられるのは、海人の祭祀方法にあると考えられる。
海人の祭祀方法としては、海中に物を投げ込んで神に捧げる方法(海上祭祀・海中投供)と神を島や岬などの陸地で祭る方法がある。前者の場合、海底遺物となり発見が極めて困難となる。消去法にしたがえば、海中投供こそ3世紀以前の沖ノ島信仰の祭祀方法ではなかったのではないだろうか。島の近くの海域のどこかに、忘れ去られた伊都国の鏡が沈んでいるのではないだろうか。その場所の手がかりとしては、「海を照らしてより来る神」がキーワードになるであろう。
これまでの記述をまとめると表2のようになる。
表2 古代(2〜5世紀)の沖ノ島信仰の時代区分 ・海上祭祀の時代は本論文の推論事項を記載 ・磐座岩上祭祀の時代は考古学的に認められているものを記載 |
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時代区分 | 海上祭祀の時代 | 磐座岩上祭祀の時代 |
2、3世紀頃の 伊都国の時代 |
4、5世紀頃の 初期ヤマト王権の時代 |
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主たる祭主 | 北九州海人集団 伊都国 |
宗像氏 初期ヤマト王権 |
祭神 | 太陽神(海神) | 太陽神 |
主たる祭具 | 鏡 | 鏡 |
主たる鏡の供給者 | 伊都国 | 初期ヤマト王権 |
祭祀方法 | 海上祭祀 鏡等を船から海中に投げ入れる。 (海中投供) |
磐座岩上祭祀 鏡等を磐座に奉納する。 |
祭祀遺蹟 | 未発見 沖ノ島近傍の海底か? 海底遺物?(下注参照) |
沖津宮近傍巨大磐座群 |
(注)海底遺物について
文献3Aには、海底から引き上げられた弥生時代の遺物につき多数の事例が挙げられているが、そのなかで今回のテーマとかかわりが深いと思われるものを抜き出して解説する。
・和歌山市加太町友ヶ島北方のいか場・はぜ場とよばれる漁場の海底約60mのところから土師器・須恵器・瓦器・陶器など各時代にわたるものが、網にかかって採集された。これも、沖ノ島近海が日本有数の漁場であること思うと興味深い。
・岡山市の小串港付近と西大寺大島付近の海底から須恵器が引き上げられた。
これらの近くの児島湾の入口に、祭祀遺蹟が存在する高島と呼ばれる小島があることから、沖ノ島を想起させる。(この島は、政府が調査した報告書『神武天皇聖蹟調査報告書』において、神武東征の高嶋宮とされている)
・福岡市県唐泊落水の玄海灘に面する海岸の水深3〜4mのところから、広形銅鉾1口が発見された。沖ノ島と同一海域である。
また、文献にあらわれるものとしては、「古事記」神功皇后新羅出兵の条、「続日本書紀」聖武天皇天平12年11月の条、「続日本書紀」淳仁天皇天平宝宇7年10月の条などがある。
さらに、「土佐日記」承平5年2月の条には、紀貫之が土佐の国司の任を終えて都に帰る時、大阪住吉の沖で暴風雨に遭い宝物である鏡を海に投げ入れる場面がある。これなどは、鏡の海中投供の代表事例といえるであろう。
(2)進化論的着眼点の検討
@奥津磐座の読み方
電子版「三輪山辞典」(文献4)によると、三輪山の「奥津磐座」は「おきついわくら」と読む。古事記の読み方から言えば、それはもちろん正しい。
でも私は、「奥」をなぜ普通に「おく」と読まないのか不思議に思い辞書にあたってみた。
「奥」は通常、「おく」「おう」である。しかし、人名等に用いられる特別な読み方として、「おき」「すみ」「ふか」もある。(文献5@)
また、語源的には「沖」「遅」などと同語源か?とある。(文献5A)
古事記の解釈では、「奥」は「沖」と同意とする文献もある。(文献6)
これらのことから、奥津磐座(おきついわくら)の「奥」は、沖津宮(おきつみや)の「沖」から来たと考えられる。
A「津」の意味
「津」は、「難波津」のように本来は「港」や「渡し場」を意味し、一般的には山には適さない。但し、「人の多く集まる地域」(文献5B)という意味で、「津」は全国各地にある。(例 岡山県津山市等)
「津」は、天の磐船のように空をゆく船を考えれば山でも不自然ではないが、神の降臨する山頂はよしとしても中腹にある中津磐座の「津」は疑問である。従って、「津」は本来的な意味を失い象徴化しており、イワクラ進化論の見地から三輪山の「津」は沖ノ島から来たものと考えられる。
B中津磐座の存在意義
沖ノ島の場合、沖津宮、中津宮、辺津宮は、沖ノ島、大島、田島(陸地・生活園)であり、その存在意義は生活基盤に立脚しており明瞭である。それに対し、三輪山は、奥津磐座は山頂、辺津磐座は麓(生活園)で対応しているが、中津磐座はその必要性が曖昧である。
中津磐座は、極めて祭祀的に象徴化されており、中津磐座は中津宮から来たものと考えられる。
C祭神の置かれた順番
宗像三神は古事記の化生順に、田心姫神は沖ノ島、湍津姫神は大島、市杵島姫神は田島に祀られている。
一方、奥津磐座の大物主神は中津磐座の大己貴神の魂(みたま)であり、順番などつけようがないものである。また辺津磐座の少彦名神の登場も、古事記の伝承から見て唐突である。
つまり、三輪山の奥津磐座、中津磐座、辺津磐座の祭祀の順番は宗像三神に比べ極めて混乱しており象徴化している。従って、三輪山は沖ノ島より後のものと考えられる。
D神話の前後関係
古事記においては、宗像三神は大物主神よりも早く登場している。
従って神話的には、大物主神は宗像三神の後になる。
以上のことから、沖ノ島の海上祭祀は三輪山に伝播したと予想される。
3 祭祀文化の伝播
(1)文化の伝播
文化の伝播の仕方には、次の二通りが考えられる。
・自然伝播
地理的条件や人の自然な交流によって伝播するもの。
文化の変遷が自然であり、人の強い意思の介在が認められない。
・人為的伝播
ある強い理念を持った人々の移動によって伝播するもの。
遠征、難民、新天地をめざす人々の移動等があり、移動の過程で様々な文物を吸収する学習型の移動である。文化の変遷に人為的なものが認められる。
<三つの神所の調査結果>
前回の論文においては、三輪山の奥津イワクラ・中津イワクラ・辺津イワクラのように一括して祭祀の対象となった「三つのイワクラ」の意義を強調したが、今回それが全国にどれだけあるのかを調査した。また「三つの宮」についても合わせて調査した。日本全国を対象にネット検索を実施した結果を表3、4に示す。
表3 「三つのイワクラ」の調査結果(全国) (奥津イワクラ・中津イワクラ・辺津イワクラ) |
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神社名 | 山名 | 所在地 |
大神神社 創建年代不詳 古事記・日本書記神話 |
三輪山 三つのイワクラが揃っている。 |
奈良県桜井市三輪 |
岩蔵神社 伝承不明 |
虚空蔵山(注2) 三つのイワクラが揃っている。 |
広島県八本松町字篠 安芸西条盆地、 近くに三ッ城古墳がある。 |
御鴨(みかも)神社 平賀元義氏・山口和利氏の研究がある。 |
宮座山(注2) (みやぐらやま) 三つのイワクラが揃っている。 |
岡山県真庭郡新庄村 中国山地の古代祭祀場との説あり。 |
貴志川八幡宮 創建1063年 神功皇后・八幡伝説 |
鳩羽山 ・山頂に立石(塞の神) ・中腹にイワクラ ・辺津イワクラはなし |
和歌山県紀ノ川市貴志川町 辺津イワクラはなく、 麓に貴志川八幡宮がある。 |
隠津島神社 創建770年 祭神は宗像大社と同じ 元、厳島神社と名乗っていた頃あり。 |
木幡山 ・山頂に立石(奥津) ・中腹の隠津島神社に 岩石群あり ・辺津イワクラはなし |
福島県東和町 中津イワクラは疑問? 辺津イワクラはなく、 麓に治陸寺がある。 |
(注1)各神社の詳細については、末尾の参考文献1参照
(注2)三つの神所イワクラが完全に揃っているのは、三輪山(奈良県)、虚空蔵山(広島県)、宮座山(岡山県)であるが、三輪山以外、はっきりした有力な伝承が残されていない。つまり、虚空蔵山、宮座山は、三輪山信仰が全国に広がる中で、後付で成立した可能性も考えられる。しかし、イワクラ祭祀の存在自体は、信頼性が極めて高い。
また先の論文では、兵庫県西宮市北山と兵庫県宝塚市中山の三つのイワクラについて述べているが、これらは、先の論文により三輪山から派生したものであることが論証されているので、今回のデータから除いた。
表4 「三つの宮」の調査結果(全国) (沖津宮・中津宮・辺津宮) |
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神社名 | 地名 | 所在地 | |
宗像大社 創建年代は不詳 奉斎氏族:宗像氏 |
沖津宮 | 沖ノ島 | 福岡県宗像郡大島村沖ノ島 |
中津宮 | 大島 | 福岡県宗像郡大島村大島 | |
辺津宮 | 田島 | 福岡県宗像郡玄海町田島 | |
志賀海神社 (元の表津宮から移転) 創建年代は不詳 奉斎氏族:阿曇氏 |
沖津宮 | 志賀島の沖津島(小島) | 福岡県志賀島勝馬 北九州沿岸部 |
中津宮 | 志賀島(しかのしま)勝馬海岸 元の表津宮の所在は、勝馬のどこかは不明 |
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表津宮 (うわつみや) |
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志々伎(しじき)神社 創建年代は不詳 5世紀中頃? 奉斎氏族:平戸松浦氏につかえていた 志自伎氏 |
上宮 | 志々伎山山頂 | 長崎県平戸市平戸島 野子町・宮之浦 北九州沿岸部 前原市の西 志々伎山は神体山 |
中宮 | 志々伎山中腹に跡地がある。 | ||
下宮 (邊都宮) (地の宮) |
宮之浦港近傍にある山の麓。 志々伎山からかなり遠い。 |
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沖津宮 (沖都宮) |
宮之浦港の沖ノ島 (十城別王の陵墓) |
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厳島神社 創建593年 奉斎氏族:佐伯氏 |
三つの宮はないが、宗像三神を祀る。 | 厳島(宮島) | 広島県廿日市市 瀬戸内海沿岸 |
住吉大社 古事記伝承 奉斎氏族:津守氏 |
住吉三神 | 神社境内に壮麗な三つの社が直線状に配置されている。 | 大阪市住吉区 |
元住吉神社 古事記伝承 |
住吉三神 | 合祀 | 神戸市東灘区 住吉大社の元の神社? |
江島神社 創建552年 |
本宮 | 御窟(おんいわや) | 神奈川県藤沢市江ノ島 |
本宮御旅所 | 奥津宮 | ||
中津宮 | 上の宮 | ||
辺津宮 | 下の宮 |
(注)各神社の詳細については、末尾の参考文献1参照
表3、4からわかるように、「三つの神所」は、ネット検索にかからないものがかなりあるにせよ全国的にみても事例が極めて少ないことが分かる。このことは、「三つの神所」の原初的なイワクラや宮が一般的なものではなかったことを示している。
表4の調査結果において、三つの宮がすべて海岸部にあることから「三つの宮」の思想が海人のものであることがわかる。また、事例が宗像・志賀・志々伎と北九州沿岸部に集まっていること、創建年代がいずれも不詳であるほど古いことから北九州沿岸部がそのルーツである可能性が極めて高い。特徴としては、これらの宮はすべて島に関係していることである。即ち、宗像は沖ノ島・大島、志賀は沖津島・志賀島、志々伎は沖ノ島・平戸島が挙げられる。この島こそが海人思想の実態である。
志々伎神社の事例は、上宮と中宮が山にも設けられることを示しており、三輪山のイワクラの配列を思わせる。宮之浦港の前の、その名も沖ノ島と呼ばれる小島には沖津宮があり、神功皇后に従い三韓征伐に赴いた十城別王の陵墓と伝えられる。また、志々伎神社の邊都宮跡からは環頭の太刀・神鏡・朝鮮古代焼の瓶・三刀鉾などの朝鮮とのル−トを伺わせるものが多数発見されている。
昔、女人禁制であった志々岐山は、独特な山容から古代より現在にいたるまで航路の主要な目印であった。(文献1)
志々伎の事例は、神功皇后伝承であるので三輪山の大物主神話より新しく、三輪山の反映であると考えられる。このことは、初期ヤマト王権が三輪山をどのようにとらえていたかを示しており、海人思想との深いかかわりがわかる。
江島神社の事例は、「沖津宮」にかわって、「奥津宮」の用語が初めて登場しており、宮の位置付けも他と異なっているのが興味深い。(文献1)
図2 志々岐湾から望む志々岐山(文献1)
<神話における三神の祀られ方>
神話をみれば、「三つの宮」には三神が祀られる。前述したように三神思想は海人の思想である。以下に、古事記からの具体例を示す。
「阿曇三神・住吉三神の古事記神話」
黄泉の国から脱出した伊耶那岐の神は、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原にて禊をおこなった
禊のため川の水底で体を洗い清めた時に成れる神は、底津綿津見(そこつわたつみ)の神。次に、底筒之男(そこつつのを)の命。水の中で洗ったときに成れる神は、中津綿津見(なかつわたつみ)の神。次に、中筒之男(なかつつのを)の命。水面で洗ったときに成れる神は、上津綿津見(うはつわたつみ)の神、次に、上筒之男(うはつつのを)の命。
この三柱の綿津見の神は、阿曇の連が祖神として祀る神。故に、阿曇の連等は、その綿津見の神の子の宇都志日金析(うつしひかなさく)の命の子孫である。
また、底筒之男の命、中筒之男の命、上筒之男の命の三柱の神は、住吉神社の三前(みまえ)の大神である。
「宗像三神の古事記神話」
天の安の河の誓約において、天照大御神は須佐之男の命の佩いている十拳の剣を貰い受けた。それを三片に打ち折って噛みに噛んで吹きすてる息の霧に成れる神の名は、多紀理毘売(たきりびめ)の命。またの名は奥津嶋比売(おきつしまひめ)の命。次に市寸嶋比売(いちきしまひめ)の命、またの名は狭依毘売(さよりびめ)の命。次には、多岐都比売(たきつひめ)の命。
故に、生まれし神、多紀理毘売の命は宗像の沖津宮に座す。次に市寸嶋比売の命は宗像の中津宮に、田寸津比売の命は宗像の辺津宮に座す。この三柱の女神は、宗像の君達の祀る三前(みまえ)の大神である。
これらを読むと、実にリズミカルに三神が化生していることがわかる。しかし、三神が実際にどのような祀られ方を調べると大きな違いがある。
宗像三神は、いかにも海神らしい豪快な祀られ方である。
志賀島は、後漢の光武帝から授かった「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」と彫られた金印が発見されたことで良く知られている。その志賀島の勝馬にある阿曇三神は、沖津宮、中津宮は現存するが、古代の表津宮は跡形も残っていない。
でも、懐かしい磯のかおりが漂っている。(図3)
古代の表津宮は、2世紀(遅くとも4世紀)に同じ島の勝山の志賀海神社に遷座したとのことである。(文献1)
図3 志賀島にある阿曇三神の沖津宮と中津宮(文献1)
住吉三神は大阪市の住吉大社に祀られている。神社の境内に三つの壮麗な社が直線状に並んで建てられ、さすが大社である。(図4)しかし、三つの宮は守られているが、島とのかかわりがなく潮の香りが失われている。実態がないのである。
また一説には、大阪の住吉大社は、『西摂大観』(1911年)に「旧地なるを以て本住吉と称す」とあり、仁徳天皇のころ、神戸市の本住吉(もとすみよし)神社から大阪に移されと伝えられる。(文献1)しかし、本住吉神社は現存するが、島とのかかわりがなく、住吉三神は一つの神殿に合祀の状態であった。
図4 住吉大社の住吉三神を祀る三つの宮(文献1)
第一本宮:底筒男命 第二本宮:中筒男命 第三本宮:表筒男命
第四本宮は神功皇后を祀る。
私の考えでは、神話や伝承はまったくの空想の産物ではなく、ある実態をベースにして創作されている。
この観点から、宗像・阿曇・住吉の三神を比較すると、その実態が宗像三神にあることがわかるであろう。
この考え方を三輪山に適用すれば、三輪山の「三つのイワクラ」にも実態のあるルーツが見つかるはずである。しかし、先に述べたように、全国の山にはそれらしき迫力のある事例が見当たらない。ならばそれは、三輪山と強い相似性を持つ「沖ノ島」に求められるのではないだろうか。
三輪山と沖ノ島は遠く離れている、そしてその間に有力な「三つのイワクラ」と「三つの宮」が存在しないとすれば、沖ノ島と三輪山を繋ぐものは自然の伝播ではなく、強固な人間の意志の継続であり、人の移動よって実現されるものである。
(2)沖ノ島の海上祭祀を担った人々
海上祭祀(ヤマト王権以前、宗像三神以前)を執り行った人々の具備すべき条件として以下が挙げられる。
@沖ノ島は朝鮮を結ぶ航海の守護神であることから、この海域の宗像系、安曇系等の海人集団である。
A太陽信仰の象徴として鏡を奉祭する信仰集団である。
B年代的には、ヤマト王権が確立するまでの3世紀以前である。
以上のことから、有力な候補として鏡の王国といわれる伊都国を中心とした沖ノ島信仰集団が思い浮かぶであろう。
文献7によれば、伊都国は、図5に示されるように現在の福岡県前原市を中心に近隣の二丈町、志摩町、福岡市西区の一部まで含む糸島地方に存在したと考えられている。伊都国の領土に関してはよくわかっていない部分もあるが、本論では一応、図5を伊都国の勢力範囲と考えて論述を進める。ここで留意すべきは、この集団は信仰集団であるため、現在のキリスト教のように多数の国にまたがって複雑に分布していることである。多数の分派があり、互いに争った可能性も考えられる。 | |
図5 伊都国の勢力範囲(文献7) |
図6は、邪馬台国東遷説を唱える安本美典氏の講演資料(文献8)からの引用である。沖ノ島信仰集団の分布を考える場合、伊都国の時代と同時代の邪馬台国時代の鏡の分布が参考になると考えられる。もちろん、鏡があるから沖ノ島信仰とはいえないが、これと海人の分布を重ねあわせると古代の港を有する前原市と福岡市の地域(図5の伊都国の勢力範囲)が沖ノ島信仰の密度が高いところとして挙げられるであろう。もちろん、祭祀の総社がある宗像地方も含まれるが、人口が少ないためその絶対数は少ないだろう。弥生時代の宗像地方の海人集団は、宗像地方から西へ、大陸との交流により適した良港を求めて奴国から伊都国に広がったと思われる。
また信仰は膨張する志向性を有することから、筑紫野市を通り、甘木市、筑後川を下り佐賀市、武雄市と広がっていた可能性も考えられる。
ここまでくると、邪馬台国論争を避けてはとおれない。
安本氏は甘木地域説をとるが、私は魏志倭人伝の「女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。」という記述から、伊都国の南にある吉野ヶ里遺跡を邪馬台国に比定したい。図6をみれば、伊都国の南にある遺物の集積地はそこにしかないからである。尚、吉野ヶ里邪馬台国説は奥野正男氏によって提唱されているので詳細は文献9を参照願いたい。
文献9によると、邪馬台国の領土は佐賀市から甘木市にかけて筑後川沿いの東西に細長く広がっており、図6に示されるように二つの遺跡の集中する地域を有している。一つは、邪馬台国の首都とされる吉野ヶ里であり、もう一つは甘木地域である。私は、これは元々二つの王国ではなかったかと考えている。
甘木地域は、おそらく倭国大乱によって邪馬台国に併合された王国の首都であった可能性が高いと思われる。そこには、征服された人々の恨みが渦巻いていたと想像され、卑弥呼死去後の騒乱を考える場合には吉野ヶ里とは別の取り扱いが必要である。
従って今後の論述は、邪馬台国本国は吉野ヶ里地域、属領は甘木地域であることを前提に進める。
図6 邪馬台国時代の遺物の出土状況(文献8)
図7 宗像地方の遺物の出土状況(文献8)
図7は、図6と同じ安本氏の講演資料からの引用で、ほぼ伊都国と同時代と見なされる宗像地方の遺物の出土状況である。
鏡の量はそんなに多くなく、沖ノ島の鏡の主要な供給元ではないことがわかる。
しかし、祭祀上の中心地ではある。宗教は伝統を重んじ、古きを尊ぶのである。
注目すべきは、神武東征の岡田の宮が宗像神社の近くにあることである。神話においてもっとも重視するのは、故郷・源流の祭祀の地であろう。
また安本氏によれば、ヤリガンナ(木材を加工するため、棒の先に刃物を取り付けた槍のような古代の鉋)が宗像地方から多数出土しており、その理由の一つとして、遠賀川河口付近にあった神武天皇が出発した岡田の宮との関係が挙げられている。
つまり、宮田町、若宮町からは簡単に遠賀川河口付近に出られるような川のルートがあり、ここでヤリガンナを使って船などを大量に造ったとのことである。
私の主張したいのは次の通りである。
安本氏の邪馬台国東遷説には十分な根拠ある。しかし、東遷したのは各国にまたがった沖ノ島信仰集団であった。また、邪馬台国は吉野ヶ里説である。
つまり、卑弥呼死亡後の戦乱は北九州の鏡文化園における宗教戦争ではないだろうか。だとすれば、沖ノ島信仰集団の東遷は弥生のメイフラワー号に例えられるであろう。
安本氏の主張する大和と甘木地域の驚くべき地名の一致は、この地域の人々が大和に移動したことを証明している。その理由として、甘木と大和が盆地状で地形的に良く似ていることが指摘されている。このことを逆に言えば、玄界灘沿岸部の地名の移動はほとんどないことがわかる。
尚、甘木地域には三輪という地名があり、そこには昔「大神神社」と名乗っていた大己貴神社がある。(文献1)安本氏は卑弥呼と大己貴神社に祀られている天照大神が同じであるとしているが、もしそうであるとしたら、ヤマト王権の取り扱いは貧弱と言わざるをえないだろう。また、延喜式神名帳には「於保奈牟智神社」と記載されており、「大神神社分祀一覧」にもその名があるいることから、大神神社は後の改名であることがわかる。三輪という地名はおそらく大神神社から派生したと考えられるので、三輪の地名は大和から移転したものと見なすことができるだろう。このように、地名の一致については、ヤマト王権確立後に大和から移転したものあることも考慮すべきであるが、安本氏の主張は全体として揺るがない。
甘木地域は邪馬台国(吉野ヶ里)と伊都国に根拠を有する鬼道対沖ノ島信仰集団の激突の場となったであろう。戦いに敗れ甘木地域から撤退した人々は、各国に散在する沖ノ島信仰集団の一部であり、東遷の過程で指導的な地位についたものと考えられる。困難のなかでものをいうのは、いつの時代でも集団を率いる真の力量であって、多数派とか出身階層ではない。あるいは古事記の、神武天皇につながる山幸彦の物語に象徴されるような、甘木盆地族と北九州海人族の縁戚関係があったかもしれない。
(3)卑弥呼死去と宗教戦争
魏志倭人伝には卑弥呼について
『その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。』とある。
これを読むと、卑弥呼は「共に一女子を立てて王となす」とあり、政治的・軍事的実権を持った女性でなく、豪族達が合議して祭り上げた象徴的存在であることがわかる。
では、何の象徴であろうか。
「鬼道に事え、能く衆を惑わす」の文面を読めば、それが鬼道であることがわかる。長く続いた戦乱は、武力による決着でなく、豪族達が民を治める思想として利用したであろう鬼道により収束したのである。
邪馬台国は、鬼道を指導理念とした連合国家であった。
では、卑弥呼の鬼道とは何であろうか。
後漢末から三国魏の時代にかけて、四川、?西両省にまたがる一大宗教王国を築いた五斗米道教団の張魯は、呪術的方法にて病人の治療を行いその勢力を拡大したと言われる。当時の史書がこれを鬼道と呼んでいることから、卑弥呼の鬼道はこれに類するもの思われる。おそらく、卑弥呼が鏡を好んだと魏志倭人伝にあることから、鏡を呪具とする道教系シャーマニズムであろう。
道教は、多様な信仰、思想、学問の集積であり、北辰信仰が天帝思想・方位学が都市建設等、支配者層に歓迎されやすい面も有している。卑弥呼は、これを政治的な判断から取捨選択して巧に取り入れ、祭祀の頂点に立ったのであろう。
卑弥呼の鬼道は五斗米道教団のように民衆を救済するよりも、支配者層を束ねるものであった。伊都国の平原1号墓からは神仙的な呪詞が刻まれた30面の鏡が出土している。このことからでも、支配者層への鬼道の浸透ぶりがうかがえる。
しかし、このことと民衆の祭祀は別である。不老長生は王族にはふさわしいが、厳しい生活を強いられる名もなき人々にとっては遠い話であろう。
卑弥呼の思想は外来思想である。しかし北九州には、王が出現する以前のアニミズム的な思想も当然あるはずである。それが、沖ノ島信仰である。
表5にその比較を示す。信仰というものは生きものであって、この表のように単純に割り切れるものでないが、理解を深めるためにはそのイメージをつかむことが必要であろう。
表5 卑弥呼の鬼道と沖ノ島信仰の比較 | ||
卑弥呼の鬼道 | 沖ノ島信仰 | |
宗教 | 道教 シャーマニズム |
自然神道 アニミズム |
祭具 | 鏡(呪具・魔よけ) | 鏡(依り代) |
祭神 | 北極星 | 太陽 |
内容 | 呪術的治療・不老長生 占星術・易学・陰陽五行説 |
太陽の運行(暦・冬至) 農耕・漁業(生産活動) |
時代区分 | 新しく渡来した宗教 (当時の新興宗教) |
昔からある宗教 (太陽信仰) |
地理的条件 | 山(内陸部) | 海(海岸部) |
信者の多いところ | 邪馬台国 | 伊都国(北九州沿岸部) |
信者の階層 | 支配者層 | 被支配者層 |
また、魏志倭人伝には
『その8年、太守王頑官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹幢史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。』
『卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。』とある。
邪馬台国と狗奴国との戦争が始まった頃、鬼道をもって邪馬台国の女王として君臨していた卑弥呼が亡くなった。(247年頃)
卑弥呼が偉大なシャーマンであればあるほど、その後を継ぐのは難しい。
シャーマンは育成自体が困難なものである。当然、国は乱れた。「國中服せず」とあることから、連合国家は解体し、内乱も起こったであろう。
待っていたかのように、それまで邪馬台国に服属していた伊都国の民衆が反旗を翻した。奴国を初めとする北九州沿岸・邪馬台国の圧迫を受けていた甘木地区の民衆もそれに応えて立ち上がった。(図8) それはやがて、北九州のすべての諸国を巻き込んだ「鬼道」対「沖ノ島信仰集団」の宗教戦争に発展した。
図8 魏志倭人伝に描かれた北九州沿岸の諸国(文献7)
注 邪馬台国は伊都国の南の吉野ヶ里遺跡付近と想定
しかし戦いは、魏志倭人伝に
『更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。』とあることから、鬼道派の勝利に終わったのであろう。(266年頃)
ここでも、戦乱を収束させたのは武力鎮圧ではなく、「卑弥呼の13才の宗女」即ち「鬼道」であった。卑弥呼共立のパターンが再び繰り返されたのである。
その結果、伊都国を中心とした沖ノ島信仰集団は難民となった。人々は、故郷の宗像地方に落ち延び、そこから船で新天地を目指した。
その時、人々は大和を目指す東遷派と日向を目指す南遷派に分かれた。
船出の時期は、卑弥呼死亡から壱与即位の間を含んだ3世紀中頃と推定される。
いままでのことをまとめると、「3世紀後半に伊都国を中心とした鏡を奉祭する沖ノ島信仰集団が三輪山に向けて移動した」といえるだろう。
尚、鬼道(道教)の影響は東遷派の人々にも深く残された。これは、皇室の行事等を見れば明らかであろう。(文献10)しかし道教は、邪馬台国の祭祀であるがために国家の表向きの公式な祭祀とはなりえなかった。神社のご神体の鏡をみれば、表は神道であるが裏は道教であることがわかるであろう。
伊都国東遷説を主張する文献11によれば、伊都国の人口は、「魏志倭人伝」以前に書かれた「魏略」では『戸万余』、「魏志倭人伝」では『千余戸』とある。
つまり、ある時期に伊都国の人口が1/10に激減している。これが、伊都国の東遷(集団移住)であるとしている。「魏志倭人伝」は、266年の壱与の朝貢までを書いているので東遷の時期はそれ以前で、卑弥呼の死去以後であろうとしている。
4 沖ノ島信仰集団が東遷過程で受けた祭祀的影響
(1)東遷経路
東遷経路として、本論は基本的に図9の神武天皇の東征路を採用する。
但し、神武天皇の東征路が日向を出発し宗像地方(筑紫)の岡田の宮に着いてから大和を目指すのに対し、先に述べたように、岡田の宮が出発点となる点がおおいに異なる。つまり、岡田の宮から大和に向かう東遷派と岡田の宮から日向に向かう南遷派があったことである。
神武天皇の東征路は、後世に神話を編纂する際に、万世一系に見られるような一貫性を重視したものと思われる。
図9 古事記による神武天皇の東征路(文献12)
東遷経路のなかで、着目すべきは東遷集団が長期にわたり留まった所、宮が設けられた所であろう。そこでは、地元の氏族との様々な交流が考えられるからである。東遷集団の主体は海人集団であるため、先に述べたようにイワクラ祭祀を実施していなかった。イワクラ祭祀は東遷の過程で吸収したものと考えられる。
以下に、東遷集団が宮の置かれた安芸と吉備において受けた祭祀的影響を述べる。
(2)虚空蔵山(安芸西条)のイワクラ
安岐(広島県)の多祁理(たけり)の宮<古事記:7年滞在>
多祁理の宮は広島市に近い安芸郡府中町であろうといわれている。
そこから、少し西に安芸西条盆地がある。この西条盆地の南縁の丘陵端部に三ツ城(みつじょう)古墳と呼ばれる安芸国最大の規模の前方後円墳があり、安芸国を統一した首長のものと考えられている。古墳は5世紀のものであるが、付近に弥生時代の遺蹟が多数存在することから、弥生時代中期以降に急激な人口の増加があったことが指摘されている。(文献13)
その北に、西条盆地の守り神(神奈備山)である標高666mの虚空蔵山がある。虚空蔵山には、その山頂に高さ40mの奥津イワクラ、中腹に中津イワクラ、山麗に高さ3mの辺津イワクラといわれる巨岩がある。そして、拝殿の位置に岩蔵神社がある。(文献1)まさしく、三輪山の状況そっくりの山である。
おそらく、東遷集団もこの山に登りイワクラを見たのではないだろうか。
図10 並滝寺池から望む神秘的な虚空蔵山(文献1)
(3)吉備中山(吉備津彦神社)のイワクラ
吉備(岡山県)の高島の宮<古事記:8年滞在>
高島の宮は岡山県児玉郡(児玉湾の高島)であろうといわれている。
その北は岡山市で、その西に吉備中山と呼ばれる低い山がある。この山頂には元宮と呼ばれるイワクラがあり、麓の吉備津彦神社と夏至の太陽線を形成している。吉備の中山の重要性については、薬師寺氏の次の言葉を紹介すれば足りるであろう。(文献14)
『吉備の中山には考古学上のすごい遺跡が集中しています。例えば、矢藤治山古墳・吉備中山茶臼山古墳・車山古墳などで、これらは極めて古い時期に造られた前方後円墳です。中でも矢藤治山古墳は、あまり知られていませんが、大和の箸墓古墳に負けないほどの古い前方後円墳です。換言すれば、吉備の中山は発生期の古代吉備文化の中心であったということです。』
古代の吉備中山は、北九州に匹敵するほどの文化を誇る吉備王国の祭祀の中心であり、元宮イワクラ、奥宮イワクラ、鏡岩、天柱石、ストーンサークル、古墳、寺社等が集まっている。当然、8年もこの地に滞在した東遷集団と吉備王国との交流があったことは自然のなりゆきであろう。
図11 中山山頂の元宮イワクラ(文献15)
5 初期ヤマト王権による沖ノ島と三輪山のイワクラ祭祀
(1)初期ヤマト王権(三輪王朝)の根拠地 纏向遺跡
沖ノ島信仰集団の三輪山における根拠地としては、初期ヤマト王権発祥の地とされる三輪山山麓の纏向(まきむく)遺跡が挙げられるであろう。
崇神天皇を始祖とする三輪王朝説も含めて総合的に判断すれば、纏向古墳群の年代は3世紀後半から4世紀前半と想定される。
纏向遺跡の特徴として下記が挙げられる。(文献16)
@前段階までほとんど集落も無い、未開の地に形成されていること。
A集落の規模が国府に匹敵するほどずばぬけて広大なこと。
B箸墓古墳を初めとして規模が比類のないほど大きな、しかもそれまで大和では見たことのない前方後円墳(初期の前方後円墳)が忽然と現れたこと。
C吉備に淵源をもつ弧帯文と呼ばれる文様をもつ木製の円板や埴輪が出土して
いること。出土した土器全体の15%を越える土器が、大和以外から運ばれたものであること。
これらは、すべて大集団移民説の傍証と言えるであろう。
(2)三輪山祭祀の源流 沖ノ島
三輪山は神体山であるため、宗教上の理由から発掘は全面的に禁止されている。ここに、東遷によって運ばれた伊都国の鏡が眠っている可能性も考えられる。
山ノ神遺跡が三輪山のすべてを語っているわけではないが、沖ノ島と山ノ神遺跡の奉納品を比べると、沖ノ島は圧倒的に豪華である。
このことから、ヤマト王権が沖ノ島を三輪山と同等以上に重要視していたことがわかる。大和から遠く離れた絶海の孤島・沖ノ島に思いをはせるのは、単にそれが大陸との航路の守護神からではなく、自己の祭祀上の原点であるからではないだろうか。
「海を照らしてより来る神」とは、
カムヤマトイワレビコが東遷の啓示を受けた沖ノ島の太陽であった。
6 むすび
本論文は今のところ仮説であるが、沖ノ島近海の海底において伊都国の鏡が発見されれば現実のものとなる。海底遺物の存在の可能性は、伊都国と沖ノ島の関係を考えると十分にあると予測されるので、福岡県教育委員会の適切な調査をお願いいたします。またこの調査は、ユネスコへの沖ノ島世界遺産登録申請のためにも有用なものと思われます。
参考文献
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2 「宇宙への祈り」金関恕責任編集 p191 集英社 1986年刊
3 「沖ノ島と古代遺跡」小田富士夫編 吉川弘文堂 1988年刊
@沖ノ島祭祀の変遷 佐田茂 p73〜74
A海と川の祭り 亀井正道 p130〜135
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B「日本国語大辞典」金田一京助他著 小学館 2001年刊
6 「日本思想体系1 古事記」p39注釈 青木和夫他著 岩波書店 1982年刊
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8 「邪馬台国の会 邪馬台国東遷説 安本美典」http://yamatai.cside.com/index.htm
9 「邪馬台国はやはりここだった」奥野正男著 毎日新聞社 1989年刊
10 「道教と日本文化」福永光司著 人文書院 1982年刊 日本の古代史と中国の道教 p7〜18
11 「神武・崇神と初期ヤマト王権」 佃收著 星雲社 1999年刊
「邪馬台国の東遷」 奥野正男著 毎日新聞社 1982年刊
12 「神武東征」http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/jinmu.htm
13 「日本の古代遺跡26 広島」脇坂光彦・小都隆共著 賀茂台地の遺蹟 p152〜163 保育社 1986年刊
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15 「我が故郷は吉備の国 吉備中山」 http://www.kct.ne.jp/~mandai/kibinonakayama/nakayama_map/index.htm
(20071021)
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