イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版 2007年10月17日掲載 イワクラ(磐座)学会 会報11号掲載 |
三輪山イワクラ群の段階的成立
<沖ノ島と三輪山の時系列比較>
1 はじめに
奥津イワクラ・中津イワクラ・辺津イワクラ、この神秘的な神代の祭祀思想とされるものは、どのような歴史的経過により生まれたのであろうか。これは、イワクラに関心を持つ人にとって大きな疑問であろう。「三つのイワクラからなる祭祀思想」の元祖とされる大神神社の社伝(文献1AB)には次のようにある。
奥津磐座 大物主大神 神代より鎮座
中津磐座 大己貴命 第5代 孝昭天皇(即位:紀元前475年)の御代
辺津磐座 少彦名命 第22代 清寧天皇(即位:480年)の御代
しかし、これらは立証されたものではない。そこで本論文において、これらをイワクラ学と考古学の視点から考察するものである。
本論文は、イワクラ学会誌第10号に掲載した研究論文「三輪山の源流 海を照らしてより来る神」の続編ともいうべきもので、初期ヤマト王権として位置づけられる三輪王朝以後の、王権によるイワクラ祭祀を研究したものである。
本論文は、初期の三輪山と沖ノ島の祭祀を同一祭主(ヤマト王権)よるものと推定し、社殿神道の流れの中でイワクラ祭祀の変遷を考察した。
最初に、ヤマト王権の太陽信仰について論述した。次に、沖ノ島と三輪山のイワクラ群の段階的成立を考古学的データにもとづいて論証した。その中で、王権によるイワクラ祭祀が、三輪王朝の時代に大神族のイワクラ祭祀と太陽信仰を習合する形で生まれ、河内王朝の時代に沖ノ島の岩上イワクラ祭祀に適用されたことを述べた。
最後に、沖ノ島と三輪山の連動した関係から、奥津イワクラ・中津イワクラ・辺津イワクラの「三つのイワクラからなる祭祀思想」が、太古からある祭祀思想ではなく、6世紀後半以降の大神神社形成期に沖ノ島との祭祀的な交流のなかで芽生え、奈良時代末の宗像大社の三神合祀の影響により神社の教義として成立したことを結論した。その象徴が大神神社の「三ツ鳥居」であり、それが、奥津イワクラ・中津イワクラ・辺津イワクラの三つのイワクラを拝するものであることを明らかにした。
また、記紀の大三輪神話が、5世紀後半の伊勢遷宮を契機とした太陽神(アニミズム)から大物主神(人格神)への移行から生まれたことを述べた。
本論文においては、客観的な見方を強調するために原則として「イワクラ」の表記を用いたが、引用文や固有名詞などで「磐座」と記載のあるものはそのままとした。
2 ヤマト王権の太陽祭祀
(1)ヤマト王権の時代
ヤマト王権の時代を、ここでは説明上、祭祀の変遷をもとに在位天皇名で以下に区分する。( )内は、主として政権の中心(宮)があった所である。
@崇神〜仲哀期(纏向) 三輪王朝の時代
A応神〜安康期(河内) 沖ノ島岩上祭祀の時代(河内王朝の前期)
B雄略〜宣化期(河内〜大和) 伊勢遷宮から仏教伝来の前まで
C欽明〜光仁期(大和) 仏教伝来以降(社殿神道の発展)
表1 ヤマト王権の祭祀の変遷区分(在位天皇名) | |||||||||||
3世紀 | 4世紀 | 5世紀 | 6世紀 | 7世紀 | 8世紀 | ||||||
AAAA | AAAA | AAAA | AAAA | AAAA | AAAA | AAAA | AAAA | AAAA | AAAA | AAAA | AAAA |
崇神〜仲哀期 | 応神〜安康期 | 雄略〜宣化期 | 欽明〜光仁期 | ||||||||
弥生 時代 |
古墳時代前期 崇神〜応神〜仁徳 |
古墳時代中期 履中〜武烈 |
古墳時代後期(含む終末期) 継体〜推古〜文武 |
||||||||
飛鳥時代 | 奈良時代 | ||||||||||
注 年代は、おおまかな目安を示すものである。
@崇神〜仲哀期(纏向)
この時期は大和の三輪山の西麓に本拠をおいたとされ、そのため三輪王朝ともよばれている。崇神・垂仁・景行・成務・仲哀天皇の時代である。
大型古墳は、古墳の編年などからその時代の盟主(大王)の墳墓である可能性が高いとされている。古墳時代の前期に三輪山山麓に渋谷向山古墳(景行陵に比定)、箸墓古墳(卑弥呼の墓と推測する研究者もいる)、行燈山古墳(崇神陵に比定)などの墳丘長が200〜300メートルある大古墳が点在することから、この地方(現桜井市や天理市)に王権があったことが推測される。さらに、これらの王たちの宮(都)は『記紀』によれば、先に挙げた大古墳のある地域と重なっていることを考え合わせると、崇神に始まる政権はこの地域を中心に成立した推測できる。(文献2)
A応神〜安康期(河内)
この時期に関しては宋書に倭の五王の記事があり、実在の可能性は高い。また、大阪平野には、河内の誉田御廟山古墳(伝応神陵)や和泉の大仙陵古墳(伝仁徳陵)など巨大な前方後円墳が現存することや、15代応神は難波の大隅宮に、16代仁徳は難波の高津宮に、18代反正は丹比(大阪府羽曳野)の柴垣に都が設置されていることなどから、大阪平野に強大な政治権力の拠点があったことがわかる。河内に本拠地を置き、河内湾に港を築き、水軍を養い、瀬戸内海の制海権を握っていたことは確かである。このため、この時期を河内王朝とも呼ぶこともある。また、たびたび中国の南朝の宋へ遣使を行い、朝鮮半島への外征も行うなど航海術に関しても優れたものを持ち、アジアへとつながる海洋国家であったことがわかる。(文献2)
B雄略〜宣化期(河内〜大和)
5世紀後半の雄略朝の時代は、王権が著しく伸張した時期であり、飛鳥時代へとつながる古代国家の礎ができた時期といえる。
雄略天皇は、いわいる河内王朝の時代の人である。河内王朝は、武烈天皇の時代に皇統が断絶し終焉する。その後、河内・大和以外の地から継体天皇が迎えられる。継体天皇は山城・摂津地域を点々としたのち最後に大和に宮を置いた。これが、飛鳥時代源流の地となった。
三輪山での王権祭祀は、河内・大和を主体とする連合王国の中の有力国としての祭祀であった。雄略朝の時代において、それらの諸国が統合され中央集権が進むにともない、日本国を想定した祭祀の場として伊勢神宮が創設された。
最初それは、近代的な要素を取り入れたイワクラ皇祖祭祀であった。
C欽明〜光仁期(大和)
欽明朝の時代に百済より伝来した仏教は、まさに黒舟であった。その受け入れを巡って激しい争いが起こった。そうした国神祭祀の危機のなかで、今日の神社の原型となる社殿神道は生まれた。それは、イワクラ祭祀にも大きな影響を与えた。
「三輪高宮家系図」によれば、大神祭(四月祭)は欽明朝に始められたとある。これも、排仏派の三輪君氏による仏教への対抗策と思われる。
これ以降、三輪山における従来のイワクラ個別祭祀は、露天祭祀の要素を取り入れた禁足地でのイワクラ一括祭祀の形態に変貌した。そして奈良時代末の光仁朝の時代に、宗像大社にならった三つのイワクラ思想が完成し、三ツ鳥居が創建されたと推定される。
(3)沖ノ島の太陽祭祀
(注)太陽の光を直接意識した古代の太陽光祭祀は、三輪山では倭笠縫邑(元伊勢)の時代、沖ノ島では岩上祭祀の時代をもって終焉したと推定される。
5世紀後半に、それらは皇祖の祭祀として伊勢神宮に新しい形で統合された。
ヤマト王権の初期、三輪山の西麓に展開する纏向遺跡を根拠地とする三輪王朝が三輪山で祭祀を行っていたことが推定されている。また、玄海灘に浮かぶ沖ノ島は、海の正倉院とも呼ばれる豪華な遺物からヤマト王権の祭祀への強い関与が指摘されている。
これらは、イワクラ祭祀であることは明らかであるが、何に対して祈りを捧げたのかは必ずしも明らかではない。しかし、ヤマト王権が共通の祭祀者であることから、三輪山と沖ノ島は同一の神であることが想像される。
ヤマト王権を築いたとされる天孫族の祖先は天照大御神であり、その御魂は鏡である。古事記の天孫降臨に際し、天照大御神は「この鏡は、専ら我が御魂として、吾が前を拝するがごとき、斎き奉れ」と神託したことから、太陽神の可能性が濃厚である。おそらくは太陽に向かい、三輪山では王権の護持を、沖ノ島では航路の護持を祈ったのであろう。
三輪山の奥津イワクラ・中津イワクラ・辺津イワクラの成立を考察するためには、三輪山の研究が第一であるが、三輪山は神体山であり宗教的な理由から発掘が全面的に禁止されている。わずかに、民有地から偶然に発見された山ノ神遺跡、奥垣内遺跡等があるのみであり、三輪山全山は神秘のベールに今なお包まれたままである。
しかし、沖ノ島においては、昭和29年から昭和46年にかけて、一次〜三次の学術調査がなされ詳細な報告書が出版されている。本論文は、沖ノ島の祭祀者が三輪山と同じヤマト王権であることに着目し、同時代の沖ノ島のイワクラ祭祀を研究することにより、三輪山のイワクラ祭祀の実態に迫るものである。
(3)沖ノ島の太陽祭祀
沖の島は岩上祭祀に始まり、岩陰祭祀⇒半岩陰・半露天祭祀⇒露天祭祀に変遷したことは良く知られている。なお、各祭祀が行われた実年代については、文献よって若干の相違があるが、本論では下記の通りとした。
・岩上祭祀 4世紀後半から5世紀前半(文献3@)
・岩陰祭祀 5世紀後半から6世紀末(文献4@)
・半岩陰・半露天祭祀 7世紀(文献5@)
・露天祭祀 8〜10世紀(文献5A)
尚、岩上祭祀の前段階としては、旧社務所跡遺跡や4号洞穴遺跡があり、縄文・弥生時代の遺物が出土しているが、祭祀遺跡であるかどうかは定かではない。
はっきりと祭祀遺跡と認められるのは、やはり岩上祭祀遺跡からである。
つまり、沖ノ島のイワクラ祭祀は、弥生時代からの継続性がないことがわかる。
これについては、先の論文(文献6)で海上祭祀の可能性を示唆した。
太陽祭祀の関連において検討すべきは太陽の光を強く意識した岩上祭祀の時代であり、これらの遺物は、鏡・鉄製武器類を中心として河内王朝の時代の朝鮮半島との交流を背景とした畿内系遺物を中心として構成されている。
岩上祭祀については16号、17号、18号、19号、21号の遺跡があるが、その中でも注目すべきは、17号遺跡・18号遺跡・21号遺跡である。
@17号遺跡(図1、2)
遺跡は、I号巨岩の岩裾のきわめて狭い所にあり、そこから鏡・玉・碧玉製品・滑石製品・鉄製製品など約500点の遺物が発見された。
これらの遺物は宗像氏のような一地方の氏族のレベルをはるかに越えるものであり、ヤマト王権の強い関与が指摘されている。
特に注目すべきは鏡で、鏡の集積域から少し離れて出土した人為の介在したと見なされる5号鏡を除いて、20面の鏡が光る面をすべて表にして積み重ねられた状態で奉納されていることである。鏡の下には浜石を敷き、鏡の位置の安定化をはかっている。
沖ノ島調査報告書(文献7)によれば、17号遺跡の鏡は発見当初、積み石で覆われていて、それらを除去したところ最初に7号鏡(鳥文縁方格規矩鏡)が現れたと述べられている。7号鏡は21面の鏡の中で、径27cmを有する最大のもので、仕上がりも良く最高級品と言えるものである。
私の推定では、鏡は長い年月をかけて、下から順次積み上げられて奉納されたものと思える。ただ最も立派な7号鏡のみは、シンボル的な存在として
カバーがわりに常に最上部に置かれたのであろう。
図1 I号巨岩付近の17号遺跡と18号遺跡(文献8@)
上方に光沢面をすべて表にして積み重ねられた状態で出土した20面の鏡。 その中で、ひときわ大きな鏡は7号鏡。 下方にある裏面の鏡(5号鏡)は、人為的な移動によるものと思われる。 |
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図2 17号遺跡で発見された鏡(文献9@) |
積み石は奉納品を隠す意味と、沖ノ島に生息する「オオミズナギドリ」等の鳥類による撹乱を恐れたためと思える。祭の時には、おそらく積み石を除いて鏡を岩上に取り出し祭祀を行ったものと推定される。
また、鏡の種類は8種類あり、この内「変形三角縁神獣鏡」が3面含まれており、下記の畿内の古墳との同范鏡の分有関係がある。(文献4A)
・紫金山古墳(大阪府茨木市)
・御旅山古墳(大阪府羽曳野市)
・百々ヶ池古墳(京都府京都市)
これらからも、河内王朝との関係がうかがわれる。
A18号遺跡(図1)
沖ノ島は「おいわず様(お不言島)」とも呼ばれ、一般人の立ち入りが厳重に制限されている。そのため、著者は18号遺跡の現場を直接見たわけではないので、文献4Bから18号遺跡の概要を要約する。
『I号巨岩上にある遺跡で、沖ノ島古代祭祀の原点ともいえるものである。巨岩上にはいくつかの石組みや遺物のあるところが確認され、岩上全体が遺跡であろうと推定された。遺物は3ヶ所にまとまるが、三角縁神獣鏡4面を発見した場所は、長さ約2mほどの大石と、それを支えるかのような10個ほどの石がある。鏡や石釧の他、玉類が多数発見されている。
巨岩の中央部に近い所では、20個ほどの石で石組みがつくられ、鏡片、玉類、鉄器片が出土している。また、巨岩の西北端は比較的ゆるやかであり、縁辺には流出防止用と考えられる石組みがなされ、鏡片、蕨手刀手、玉類が発見されている。』
イワクラ学の立場から、注目すべきは上記文中の『長さ約2mほどの大石』であろう。これに関して、文献4の原典である文献8Aに下記の記載がある。
この大石は、図1の平面図において黒く塗りつぶして表示している。
『I号巨岩上(図1)の西南隅に、長さ約2m、幅1m弱、厚さ約60cmの大石の長軸を南東に向けて置き、その北側に10個ほどの石が置かれ、または巨岩との間につめ込まれている。』
長さ約2mほどの大石はイワクラ学から言えば、方角を示す方向石であり、次の21号遺跡で述べるように南東の方向には大きな意味があると考えられる。
I号巨岩の岩質は文献4Cから石英斑岩(せきえいはんがん)であり、比重約2.7で大石の重量を計算すると、約3tonとなる。大石は岩上にあり摩擦が少ないことを考慮すると人力での回転移動も十分可能である。このことから、元々岩上にあった大石を意図的に回転させて南東の方向にセットし、小石を巨岩との間に詰め込んで固定したとも考えられる。
尚、当該の石の移動に関しては、文献8Aに下記の記載がある。
『(大石の位置は)、前回調査時点の平面図とすこし異なっている。鏡、石釧などを取り出すときに若干動かされた可能性がある。』
つまり、石は梃子等により人力で比較的容易に動かせるものと推定される。
B21号遺跡
21号遺跡のあるF号巨岩は、18号遺跡のI号巨岩の南の斜面を20m程下ったところにある。18号遺跡と同様に、文献8Bよりの要約を以下に示す。
『21号遺跡のあるF号巨岩南側には視界をさえぎる樹々の茂りが少なく、巨岩上に立つと、小屋島(こやじま)、御門柱(みかどばしら)などが眼下に浮かび、玄界灘を一望のもとにおさめられる絶景が広がる。
21号遺跡はこの巨岩上のほぼ中央部に存在する長方形祭壇であり、長軸を南東にとっている。従って、四隅の角はそれぞれ東・西・南・北に位置する。
南北にゆるやかに傾斜する巨岩上の中央部の平坦な面に祭壇を築いているが、築成時に比べ、発掘時の状態は千数百年の風雪に半露出の状態であったため、かなり乱れている。特に、北端の階段状を呈する低い部分には、10個ほどの石が散乱している。築成時とほぼ変化のないと思われるものは、中央部と西隅の大石であり比較的保存の良好な部分は祭壇北西辺の石組みである。いまこの北西辺と南西辺などに明瞭な岩の削り跡から祭壇を復元すると、長軸を南東
にとる内法2.5m×2.2m、外法2.8m×2.5mの長方形となり、ほぼその中央部に長さ1.1m×幅0.8m×厚さ0.5m前後の大石を置いている。また、西隅には0.7m×0.45m×0.5mの比較的大きな石を置き、その周辺に別区ともいえる部分をつくっている。この大石の内側には長さ45cm、幅20cm、高さ35cmほどの石をほかの石とは対照的に立ててある。北端の階段状を呈する部分に散乱する石は、石組みに使用されている石よりは大形のものであるが、これらが東・南・北の三隅に西隅と同様に立てられていた可能性も考えられる。祭壇内側は、小角礫を敷いて、全体を平坦にならしている。とくにこの作業は、低い面である北西側が入念行われている。
特筆すべきことは、祭壇中心部の大石上部に幅3cm×長さ15cmの小さなくぼみがあり、そこから滑石製臼玉3個が出土したことである。これは、玉などを懸けた木の枝を大石に立てかけておいたが、祭祀終了後しばらくたってから、玉がこのくぼみに落ち込んだことを示している。祭壇内側のほぼ前面に散布する玉類からも、このことはうかがえる。
いま西隅の大石を中心とする別区ともいえる部分、南隅外側からの遺物の出土などからすると、四隅に比較的大きな石を立て、ここにも中心部と同様、木を立てていた可能性が強い。とするならば、四本柱を立てる祭祀の原初的形態を示すものといえよう。中央に大石を置き、降神の際の依代(磐座)とし、磐境としての長方形祭壇を設けた21号遺跡は、巨岩上の祭祀としてはもっとも完備された形態である。』
図4に、上記報告にもとづいた21号遺跡の復元写真を示す。
尚、図5の上面図は、図4の復元写真と方向をほぼ合わせて掲載している。
図5は、上記報告に添付されたF号岩上の21号遺跡の発掘時の上面図を示す。
図5において方形の二重枠は、前述の方形祭壇を、著者が書き加えたものである。ここでは、南東の方向が長手方向にあたる。また、図中○のエリアは、祭祀者が座る場所(直径1m)を著者が推定して書き加えたものである。
この図面と上記の報告を合わせて考えれば、祭祀者は図5に示された北西側の円内に座って祭りを行っていたものと考えられる。(下注参照)方形祭壇の長軸方向である南東は、前述の18号遺跡の「大石」の方向と同じである。また、考古学的には21号遺跡は18号遺跡よりも新しいとされている。(文献4D)
ならば、方形祭壇も18号遺跡の大石の発展形態であることは明らかであろう。
尚、イワクラ祭祀がI号巨岩からF号巨岩に移動した理由としては、F号巨岩での岩上祭祀が満杯になったからとの説(文献4D)があるが、定かではない。
一般に古代人は、高いところに神が降臨すると考えていた。従って、沖ノ島の巨岩群における最初の祭祀は、より高いところにある祭祀を行うにふさわしい岩が選定された。それがI号巨岩である。このため、何等かの理由で祭場の移転が必要になった時に選定される次の岩は、I号巨岩より低いところにあるのが当然である。それがF号巨岩である。このことは、後世の元宮と里宮の関係につながるものである。
鏡の遺物としては6面あり、その内1面の舶載鏡が含まれている。この舶載鏡は獣帯鏡であり、類似した様式の獣帯鏡が伝仁徳天皇稜、百済武寧王(ぶねいおう)稜などから出土(文献4E)しており、ここでも河内王朝との関係がうかがわれる。また、17、18号遺跡にはなかった雛形鉄製品を多くふくむことから強い祭祀性を持つことが指摘されている。
尚、このような方形祭壇は、伊勢神宮の外宮参道にある「三つ石」(文献10)にも見られる。また、考古学者の大場磐雄氏は、論文の中で伊勢神宮の方形祭壇を磐境の例としてとりあげている。(文献11)
(注)
座って祭りを行っていたことの傍証としては、沖ノ島の岩上祭祀と同時代とされる三輪山の山ノ神祭祀遺跡で発掘された案の存在が挙げられる。
案は、いわゆる机であることから、「つくえ」または「あん」と読まれる。土製模造品において方形板状のものに短い足をつけた感じのもので、似たものは石製模造品にもある。
文献12A@には、次のような記述(要約)がある。 『案は長方形の板に低い脚を四本付けたものであるが、神奈川県下曾我遺跡で奈良時代の実物が発見された。 それは、60cm×40cmの板に20cmの脚をつけたもので、ちょうど比例に於いて山ノ神祭祀遺跡のものと同形である。 これを使用するとすれば、座礼の祭礼を考えることができ、古代祭式研究上、重要な資料である。』 |
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図3 山ノ神祭祀遺跡で発掘された案(文献12B、文献13) ミニチュアの土製の案。右側に短い脚がついている。横の長さ約7cm |
図4 F号巨岩にある21号遺跡の復元写真(文献4F) | 図5 F号巨岩にある21号遺跡の上面図(文献8C) |
さて、人はここで何に対して祈ったのであろうか。
祭壇の長軸を成す南東には、玄界灘が広がり、中津宮のある大島、辺津宮のある宗像本土がある。人はそれらに対し祈りを捧げたのであろうか。
否、イワクラ学の立場から言えば、それはありえない。沖津宮である沖ノ島はそれらから崇められる存在であってもその逆ではない。ならば、宗像の海の上に燦然と輝く太陽しかないであろう。司祭者は、宗像の太陽の霊光を鏡に受け、その霊威を沖津宮から中津宮を経て辺津宮(日本国)に送ったものと思われる。
・福岡(経度:33.6度 緯度130.4度)における 宗像大社「みあれ祭」当日の 南東方位の太陽の時刻と高度の計算値 2007年10月1日 10時4分 高度43度 ・「みあれ祭」は神より新しい霊力を受ける祭で、 沖ノ島の沖津宮と大島の中津宮の御神体を、 年に一度辺津宮(宗像大社)に迎えて 五穀豊穣や豊漁に感謝する神事である。 ・岩上の司祭者は、 大阪府蕃上山(ばんじょうやま)古墳出土の 埴輪の「おかんなぎ」(男性のミコ)を想定。 |
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想像図 <沖ノ島F号巨岩上で宗像の太陽の霊光を鏡に受ける司祭者> |
宗像の太陽<宗像三女神の降臨地> 天照大神と素盞鳴命の誓約により生まれた宗像三女神(宗像大神)は、ある所に降臨したのち現在の地に移ったと伝えられる。 宗像大神の降臨地を具体的に示したものに、西海道風土記逸文(筑前風土記)がある。 同風土記の本文では、その地は崎戸山(さきとやま)となっている。 この比定地としては、大島北西端の神崎、玄海町鐘崎の佐屋形山、鞍手町室木の六ヶ岳等の説がある。 また、同風土記の別の記述では、その地は宗像大社の近くの深田村の高尾山となっている。 これらはいずれも宗像の祖霊の山である。 『宗像神社史』にこれらに関する論考があり、 結論として宗像大社高宮の裏にある宗像山(標高50m)に比定するのが穏当であるとしている。(注) いずれにしても南東方向からずれるほどものではないので、 本論文では一括して降臨地の上にある太陽を「宗像の太陽」と表現した。 (注)『宗像神社史』上巻 p108〜120 宗像神社復興期成会 1961 HP「宗像山」標高50m http://www.umihikoyamahiko.net/fukuoka/fukuoka1/munakatayama.html |
この太陽祭祀を行った者は、時期的に見て河内王朝であることは明らかである。河内王朝は大陸につながる海洋国家であり、朝鮮半島への航路の護持を願って、沖ノ島の祭祀を開始したものと考えられる。
C鏡と太陽祭祀の関係
文献8Dの「沖ノ島祭祀遺跡出土一覧鏡(続)」から、沖ノ島で出土した鏡は総数54面である。その内訳は、岩上祭祀の時代に45面(含む舶載鏡5面)、岩陰祭祀の時代に9面(含む舶載鏡1面)である。そして、半岩陰・半露天祭祀の時代に至り鏡の出土数は皆無となる。沖ノ島出土の鏡は、一言で言って粗悪品である。これに関して、次の示唆的な一文がある。(文献9A)
『沖ノ島に奉納された鏡は財宝、権威の象徴としての鏡ではなく、鋳上げたままの鏡であり、時に型くずれ、傷のあることは、大きな問題ではなかった。
それよりも、鏡を奉納することが重要な祭儀であったのである』
ここで特筆すべきは、鏡の置き方(光沢面を上にするか下にするか)に顕著な差異が見られることである。
表2は、沖ノ島の調査報告書にもとづいて、鏡の置き方に関して明確な記載あるもののみを、岩上祭祀と岩陰祭祀の時代で比較したものである。
表2において、鏡の置き方は、光沢面を上にしたものを表置き、光沢面を下にしたものを裏置きと表記した。
尚、鏡の置かれ方が報告書からは読み取れないものは、―で表現している。読み取れないものは、鏡が細片で出土したものが多い。
また、( )の数字は、置き方等に人為の介在の可能性のある鏡の枚数を示している。
もともと、発掘調査においてはもっぱら鏡の裏の模様に固執していたため、鏡の置かれ方などに関心がなかったようである。
表2 岩上遺跡と岩陰遺跡における鏡の置かれ方 | ||||||
遺跡 | 鏡の 出土総数 |
鏡の置かれ方 | 備考 | |||
呼び名 | 位置 | 表置き (光沢面上) |
裏置き (光沢面下) |
|||
岩上遺跡 |
16号 | I号巨岩西部 | 4 | 1 | (1) | 備考1 |
17号 | I号巨岩南部 | 21 | 20 | (1) | 備考2 | |
18号 | I号巨岩上部 | 12 | 4 | ― | 備考3 | |
19号 | I号巨岩北部 | 2 | (1) | ― | 備考4 | |
21号 | F号巨岩上部 | 6 | ― | ― | ||
岩陰遺跡 | 8号 | D号巨岩北部 | 3 | ― | 1+(1) | 備考5 |
7号 | D号巨岩南部 | 2 | ― | 1 | 備考6 | |
15号 | I号巨岩東部 | 1 | ― | 1 | 備考7 | |
23号 | I号巨岩西部 | 1 | ― | ― | ||
4号 | B号巨岩下部 | 2 | ― | ― |
凡例 沖ノ島の調査報告書の参照ページの文献の略号
A:「沖ノ島 宗像神社沖津宮祭祀遺跡」 第一次調査報告
宗像神社復興期成会編 吉川弘文館 1958年刊
B:「沖ノ島 宗像神社沖津宮祭祀遺跡 続」 第二次調査報告
宗像神社復興期成会編 吉川弘文館 1961年刊
C:「宗像沖ノ島 T本文」 第三次調査報告
宗像大社復興期成会編 吉川弘文館 1979年刊
備考1 (鏡:表置き)参照ページB:p202
(鏡:裏置き)参照ページA:p40・p41(人為の可能性あり)
備考2 (鏡:表置き)参照ページB:p15(20面の鏡が表向きに集積)
(鏡:裏置き)参照ページB:p15(人為の可能性あり)
備考3 (鏡:表置き)参照ページB:p150(四面の鏡が一列に並ぶ)、
備考4 (鏡:表置き)参照ページB:p172(人為の可能性あり)
備考5 (鏡:裏置き)参照ページA:p48
(鏡:裏置き)参照ページB:p237・p233(人為の可能性)
備考6 (鏡:裏置き)参照ページA:p43
備考7 (鏡:裏置き)参照ページC:p248
表2のデータから( )の鏡を除いて言えることは、岩上祭祀においては、鏡は光沢面を上にして置き、岩陰祭祀においては、鏡は光沢面を下にして置くことである。即ち、岩上祭祀においては太陽の光を、岩陰祭祀においては鏡の模様(鏡の価値)を重視したことが見て取れる。これは、祭祀思想の劇的な転換を象徴するものであり、5世紀中頃に太陽の光を崇める古代太陽光祭祀が終焉したことを意味している。
岩上祭祀から岩陰祭祀への変遷の理由としては、以下のものが考えられる。
@5世紀後半の雄略朝に、太陽信仰が皇祖の祭祀として伊勢神宮に統合された。
それにともない、沖ノ島の祭祀の目的が太陽信仰から大陸との航路の護持に特化された。岩陰祭祀の初期にも鏡は奉納されていたが、もはや太陽の依り代ではなく、鏡の模様(鏡の価値)によって王権を権威づけたものと推定される。
A大陸との交流が盛んになるにつれて、祭祀が大規模化し、国家の祭祀としてふさわしい儀式を行うためのより広い祭場が必要になった。
三輪山においては、伊勢遷宮により古代太陽光祭祀が実質的に終了したと考えられる。これは、太陽の光を直接必要としない岩陰祭祀と連動しており、後世、鏡を社殿に安置させることにつながるものである。
一般的に言って、祭神は進化論的に、生のもの、具体的なものから象徴的なものへと変化する傾向が見受けられる。例えば、古代においては縄文の土器や土偶に見られるごとく、ずばり蛇そのものが祭神であった。これについては、吉野裕子氏の著書「蛇 日本の蛇信仰」にくわしい。同様に、古代太陽祭祀においては、太陽の光そのものを拝んだと想像される。そして鏡は、その光を移す依り代として使われた。
しかし、文明の進歩は、人々をアニミズムから離れさせ、鏡の中に太陽神を閉じ込めるに至った。これが、人格化された太陽神<天照大御神>を祀る社殿神道の源流となった。
(4)三輪山の太陽祭祀
@日本神話 奥津イワクラ
古事記や日本書紀には三輪山にまつわる次のような神話がある。
大国主神は少彦名神と共に国造りをしていたが、国造りなかばにして少彦名神は常世に帰ってしまった。大国主神が、「この後どうやって一人で国造りをすれば良いのだ」と言うと、海原を照らして神が出現した。その神は、大国主の幸魂奇魂であり、大和国の東の山の上に祀れば国作りに協力すると言った。その神が、三輪山に鎮座している大物主神である。
三輪山の山頂にある奥津イワクラに大物主神が祭られているのは、承知の事実である。
A日本書紀 国見の儀礼
日本書紀の崇神紀48年のくだりに、天皇は豊城命(とよきのみこと)と活目尊(いくめのみこと)の二人の皇子に次のように言われたとある。
「お前達2人の子は、どちらも同じように可愛い。どちらを私の跡継ぎにするか迷っている。そこで、それぞれ夢を見なさい、夢で占うことにしよう」
二人の皇子は命をうけて、身を清めてから祈り眠った。
次の日の朝、豊城命は「御諸山(みもろやま)に登って東に向かって八度槍を突きだした後、八度刀を空に向かって振った」夢を、活目尊は「御諸山の頂に登って、縄を四方に張って、粟を食べに来る雀を追い払った」夢を、それぞれ天皇に語った。
これを聞いた天皇は夢占いをして二人の皇子に次のように言われた。
「豊城命はもっぱら東に向かって武器を用いたので東国を治めるのが良いだろう。弟は四方に向かって心を配って、稔りを考えているので、我が位を継ぐのが良いだろう」そして、活目尊を立てて皇太子とした。また豊城命には東国を治めさせた。
この伝承は、三輪山の山頂が皇位継承儀礼、または、ヤマト王権の大王による国見の儀礼に関係するものといわれている。また、豊城命の夢と太陽祭祀の関係を述べた論文(文献14A)もある。
B高宮(日向神社)
三輪山の山頂に、昔、日向(ひむかひ)神社と呼ばれていた高宮(こうのみや)がある。
これに関して、考古学者である奥野正男氏の次の記述がある。(文献15)
『三輪山では一年のなかで太陽の勢いがもっとも弱くなる冬至の日に、司祭者が山頂に登り、磐座に太陽神の依り代としての銅鏡をはじめ玉類・武器類・土器に入れた供物などを供え、東(ひむがし)に昇る太陽に向かって礼拝したと私は推測します。その後、神霊が宿る山頂の聖地には、山宮(上宮)として日向神社が、また山麓には里宮として神体山を拝むための大神神社がつくられました。山頂の神社に「日向(ひむか)」という名前が残ったのは日(太陽)に向く、日に向かうというその意味からして、そこで太陽(日の神)に向かって拝むとか、太陽が昇る東(ひむがし)の方に向いて拝むという太陽祭祀がおこなわれていたためでしょう。』
冬至の日にそのような祭祀があったのかどうか、里宮として大神神社が妥当なのかどうかは別として、私は、「古事記」「日本書紀」の伝承から山頂でこれに近い祭祀があったものと想像している。
また大神神社の説明によれば、元旦の繞道祭(にょうどうさい)にさきがけて大晦日に神職が登拝し、御神火拝戴の儀式がこの高宮で行われるとある。(文献16@) これも今に残る、太陽から火を戴くという太陽祭祀のなごりではないだろうか。
C倭笠縫邑(檜原神社)
倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)については檜原神社の他にも比定地があるが、檜原神社が考古学的に見て最も有力とされている。
私は、倭笠縫邑こそ沖津イワクラの遥拝所的存在であると考えている。後に述べるように、大神神社の成立は、古くとも6世紀後半以降と推定されるからである。
図6A 倭笠縫邑の比定地 檜原神社の三ツ鳥居 |
図6B 檜原神社の三ツ鳥居裏の石の神籬 |
倭笠縫邑に関する大神神社の説明(文献16A)によれば、
『大神神社の摂社である檜原神社は、第10代崇神天皇の御代6年に、はじめて皇祖天照大神(八咫鏡)を、宮中からうつしてまつり、皇女豊鍬入姫命が奉持せられた倭笠縫邑の神蹟である。
皇大神の伊勢御遷幸の後も、その跡を継承して元伊勢の信仰を今日に伝えている。
檜原神社は日原社とも書かれ、一の鳥居、二の鳥居、禁足地神籬、三ツ鳥居、拝殿の制があり、はなはだ重んじられてきた。』とある。
また、倭笠縫邑(檜原神社)と伊勢松坂の斎宮址は「太陽の道」と呼ばれる東西の軸(北緯34度32分)によって驚くほど正確に結ばれているという指摘がされている。(文献17@)その精度は、倭笠縫邑と斎宮址間の東西の距離
70kmに対し、南北のズレは北にわずか125mである。(文献18)
このことは、5世紀後半とされる伊勢遷宮以前の倭笠縫邑(檜原神社)の祭祀が、少なくとも太陽祭祀であったことを明確に物語るものではないだろうか。
D箸墓古墳
箸墓古墳は、纏向遺跡群にある全長272メートルの巨大な前方後円墳であり、7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫の墓とされている。
「日本書紀」はその墓が築かれたときの情景を「昼は人が作り、夜は神が作った。大坂山(二上山)の石を運んで作った。山から墓まで人々が並び、手逓伝(たごし=リレー式)で作った」と記述している。(崇神紀10年9月条)
しかし何ゆえ古墳の石は、遠く離れた二上山の石でなければならなかったのだろうか。
様々な理由が考えられるがその一つ理由として、二上山は三輪山の真西に位置し、檜原神社から二上山に沈む夕日を望むことができる。日の沈むところは、黄泉の国、死者の国である。つまり、墓の石はそのようなものである必要があったのである。このことを裏返して考えるなら、そこに強烈な太陽信仰を見て取れるであろう。
E纏向日代の宮(景行天皇稜)
日代の宮は纏向にある景行天皇の宮である。この宮について古事記雄略天皇条に次の歌謡がある。
『纏向の日代の宮は朝日の日照る宮 夕日の日がける宮・・・』
これは、景行天皇の宮を「朝日夕日の照り輝く宮殿」として賛美したものと解釈されている。これも、当時の太陽信仰を裏付けるものであろう。
F鏡作神社・多神社・神武稜
「太陽の原像」の著者小川光三氏は、その著書の中で石見(いわみ)の鏡作神社、多(おお)神社、神武天皇稜が、図7に示すように三輪山の頂上に登る
<冬至><春分・秋分><夏至>の日の出の観測点であることを指摘した。
一辺8.6kmの巨大な正三角形が、古墳時代の初期か弥生時代に設けられた斎きの場とする氏の主張は十分な説得力を持っている。
図7 三輪山山頂に登る日の出の観測点(文献17A)
上記@〜Fから明らかなように、三輪王朝の時代から伊勢遷宮まで、三輪山で鏡を依り代とした太陽祭祀が行われていたことが想像される。
三輪王朝の時代は、3世紀後半から4世紀前半の間とされているので、沖ノ島の岩上祭祀(4世紀後半から5世紀前半)より、丁度1世紀先行している。
この1世紀は三輪王朝が北九州を影響下において、朝鮮半島への航路を確保するまでの期間と考えられる。
すでに述べたように沖ノ島の岩上祭祀は、強烈な太陽信仰であった。太陽信仰は人類共通の原始信仰であり、信仰の原点である。従って、沖ノ島の太陽信仰の前段階である三輪山も、継続性から考えてまた同じ太陽信仰であろう。
三輪山の山頂から登る太陽を、倭笠縫邑にて拝んでいる様が想像できる。
またそこからは、大和盆地の西にある二上山の夕日も望むことができる。
檜原神社が日原社と呼ばれる理由もそこにあることは明らかであろう。
三輪山の太陽祭祀は、倭笠縫邑から伊勢に移転した雄略朝の5世紀後半に終焉を迎える。(文献3A)この時、八咫の鏡等の祭具(神宝)も伊勢に移されたと思われる。
では、5世紀後半の伊勢神宮の祭祀とはどのようなものであろうか。社殿のはじまりは諸説あるが、6世紀後半の天理市の櫟本(いちのもと)高塚遺跡とする有力な説(文献19@、20)から考えて、伊勢神宮の社は当初なかったと思われる。
ならば、それは5世紀後半の沖ノ島に似たイワクラ祭祀であると想定される。
これに関して、伊勢神宮禰宜の矢野憲一氏は次のように述べている。(文献21)
『あくまでも私の直感ではあるが、式年遷宮の最初の祭りである山口祭の祭場のある岩井田山の巨岩こそ、皇大神宮(内宮)が鎮座する以前からの磐座であろう。いまは木が茂っているので見えないが、冬至の太陽がこの磐座を照らして昇る。おそらくここで縄文時代からの原始の太陽信仰がなされていたのではなかろうか。倭姫命が各地を巡りめぐって「ここにいたい」という大神の声を聞かれたのは、こうした磐座や清流がある聖地が存在し、信仰の基盤があったからに違いない。』
伊勢の古俗として、神島のゲーター祭や、二見ヶ浦の輪じめ縄などのような太陽をシンボライズする儀礼の存在、また太陽に関係する動物として中国、朝鮮、東南アジアなどにも尊ばれ、また天石窟戸神話にも顔を出す鶏の供養、またこの所作をまねたといわれる鳥名子舞(となごまい)、遷宮祭における鶏鳴三声などの呪儀の存在など、この地の太陽崇拝が、伊勢の遷宮以前にすでに根付いていたことを示すものであろう。(文献22)
伊勢への移転理由としては、ヤマト王権が日本国家としての体裁を整える中で、大陸との交易上、日本国の日の出の地に相応しい大和の東方にあたる伊勢を選んだのであろう。そしてその地は、まさに『海を照らしてより来る神』、『日出る国の天子』を象徴する舞台となった。
また、太陽の光を直接拝むアニミズム的な太陽祭祀から人格神(天照大御神)を拝むより進化したとも言える太陽祭祀への脱皮により、国内外の王の権威を高めることを狙ったことも考えられる。新しく皇祖神として創造された天照大御神は、天津神の最高神として、それを祀るための国津神(土地神:大物主神)とは隔絶した新たな聖地が必要とされた。伊勢の地は、太陽信仰の土壌こそあったものの在地勢力は三輪山に比べて格段に弱々しく、ヤマト王権にとって新天地と見なせるものであった。それが、伊勢の地ではないだろうか。
3 沖ノ島の祭祀の変遷
沖ノ島は現在、宗像大社の沖津宮をまつり、神官が交代で勤務する絶海無人の孤島で、まわりを玄界灘の荒波がうちよせる。その位置は、福岡市の北北西77km、宗像氏神湊(こうのみなと)より60km、大島より49km、壱岐島より59km、対馬より75km、唐津より46km、韓国釜山(プサン)より約145kmの位置にある。(図8)
図8 沖ノ島の位置
沖ノ島は神体島として厳重に立ち入りが制限されている。一般の人が沖ノ島にわたる唯一の方法としては、5月27日の沖津宮現地大祭の機会がある。
但し、事前に宗像大社に申し込み、毎年万を数える参加希望者の中から200人の男子が選ばれて参拝が叶うという狭き門である。洋上遥かな孤島に渡って執り行われる祭礼のため、一泊二日の日程となる。
沖ノ島のイワクラは、沖津宮の北側斜面に累々とある巨岩群である。
図9に沖ノ島の地図を示す。図10は、図9に表示された沖津宮の山側の岩石群の模型写真である。(文献4G)実際は樹林に囲まれていて巨岩はこのようにはっきりとは見えない。
図11は、図10に対応した沖ノ島の岩石群の実測配置図である。(文献4G)
この表示の岩は、岩上祭祀の遺跡を含むものであるから 4世紀後半〜5世紀前半に祭祀が開始されたイワクラと見なすことができる。 |
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この表示の岩は、岩上祭祀の遺跡を含まず岩陰祭祀の遺跡を含むものであるから 5世紀後半〜6世紀末に祭祀が開始されたイワクラと見なすことができる。 |
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この表示の岩は、 半岩陰・半露天祭祀の遺跡のみを含むものであるから 7世紀に祭祀が開始されたイワクラと見なすことができる。 |
つまり、沖ノ島のような狭い地域にイワクラが密集しているところでは、すべてのイワクラが同時に祭祀の対象となっていたのではなく、段階的にイワクラが成立したことがわかる。表3に、これらを整理して示す。
図9 沖ノ島の地図 | 図10 沖津宮北側の岩石群の模型写真(左下の建物が沖津宮) |
図11 沖ノ島のイワクラ群の成立年代の区分(方位:上方が北 標高80〜90m)
●:岩上祭祀遺跡のある岩石 4世紀後半〜5世紀前半 |
▲:半岩陰・半露天祭祀の 遺跡のみがある岩石 7世紀 |
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●:岩上祭祀遺跡がなく、 ○:岩陰祭祀遺跡がある岩石 5世紀後半〜6世紀末 |
露天の祭祀遺跡のエリア 8〜10世紀 |
表3 沖ノ島のイワクラの段階的成立 A:祭祀の対象となっていたイワクラの数 B:祭祀の形態に対応する遺跡の数 C:鏡の出土数 |
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年代 | 祭祀の形態 | Aイワクラ座の数 | B遺跡の数 | C鏡の数 |
4世紀後半 〜5世紀前半 |
●:岩上祭祀 | 2 | 5 | 45 |
5世紀後半 〜6世紀末 |
○:岩陰祭祀 (注1)(注2) |
9 | 12 | 9 |
7世紀 | ▲:半岩陰・半露天祭祀 (注3) |
2 | 2 | 0 |
8世紀 〜10世紀 |
露天祭祀 岩とは無関係 |
0 | 3 | 0 |
注1 伊勢遷宮:雄略朝(5世紀後半)(文献3A)
注2 社殿(社殿神道)のはじまり:
天理市櫟本(いちのもと)高塚遺跡(6世紀後半)(文献19@、20)
注3 社殿神道の確立:天武朝官社制度(7世紀末)(文献23)
表3の特徴として、岩陰祭祀の時代に、祭祀遺跡の数と共にイワクラの数が急増していること、奉納された鏡の数が激減していることが挙げられる。
<祭祀形態の変遷理由>
岩上祭祀の時代が、河内王朝の海洋国家を目指す政策に端を発し、三輪山の倭笠縫邑から伊勢への遷宮により終焉したことはすでに述べたとおりである。
続いて祭場の規模の拡大に対応した岩陰祭祀の時代は、社殿神道の影響により終わりを迎え、半岩陰・半露天祭祀の時代へと移って行く。三輪山の近くにある6世紀後半の天理市櫟本(いちのもと)高塚遺跡の社殿跡はその考古学的な傍証である。
7世紀後半の天武朝における官社制度は、社殿神道が国家的規模で広がってよく契機となった。それが、8世紀の露天祭祀に繋がって行く。
つまり、沖ノ島のイワクラ祭祀の変遷は、社殿神道の発展と密接な関係があることがわかる。
4 三輪山周辺の遺跡とイワクラ祭祀の変遷
三輪山には、奥津イワクラ・中津イワクラ・辺津イワクラの三つのイワクラがあると言われる。しかし、三輪山のイワクラの分布図(下注参照)をみると、実に多くのイワクラが点在していることがわかる。そのため、頂上の奥津イワクラはともかく、中津イワクラと辺津イワクラはどれがどれだと特定するのは困難な状況にある。
(注)三輪山のイワクラの分布図は、転載禁止となっているため、残念ながらここでは掲載できない。文献16Bを各自直接参照のこと。
大神神社の説明によれば
『現在、神社では文字に従って中津磐座・辺津磐座は中腹・麓の磐座を指しての名称であると説明しているが、共に一個処にとどまらず、数も多く、これだと断定はできない。やはり諸先輩の説かれるように神体山信仰では、「いわくら」は全山処々に点在するのが当然であるとか、あるいは祭祀の度ごとに磐座が変わったこともあるという説、また頂上の奥津磐座にたいして麓の三ヵ処より祭祀を奉仕したから、その線上はそれぞれに辺津、中津の磐座が存在するという説を考えるべきである。』とある。
いずれにせよ、このように多数のイワクラがある時期に同時に成立したとは考えられず、沖ノ島のイワクラの事例で示したように段階的に成立したものであることは確かであろう。(文献16C)
図12〜図16は、奈良県立橿原考古学研究所「大神神社境内地発掘調査報告書」(文献24)に掲載されている遺跡マップをベースに、「三輪山周辺の遺跡とイワクラ祭祀の変遷」を年代別に編集したものである。
<ステップ0:崇神朝(三輪王朝)が登場する前段階 図12弥生時代>
自然の猛威におののく古代においては、祭祀は生きることと不可分に結びついていた。
3世紀後半以前の三輪王朝が登場する前の弥生時代の纏向の地は過疎地であり、三輪山の山麓と纏向川と初瀬川(大和川本流)に囲まれた水垣郷と呼ばれる三角地帯に、縄文時代から続く三輪・金屋遺跡と芝遺跡があった。
そこにはそれなりの信仰が息づいており、山頂の奥津イワクラに雷神(龍神・蛇神)を、今の大神神社の禁足地(下注参照)に水神(龍神・蛇神)を祀り、五穀豊穣や雨乞いを祈ったと推測される。しかし、それは大神族(出雲系)の主として農耕に係わる地方神であり、王権とはかかわりのないものであった。
(注)三輪町出身の考古学者である樋口清之氏の論文(文献12AA)に禁足地の状況に関し次の記述がある。
『伝聞にするところによると、禁足地は三輪山麓に発達した小渓谷にはさまれた小尾根の末端の低平な地であり、拝殿より数百米にしてその尾根の頂点に自然石の露出するものがあり、それが辺津磐座の一であるらしいのである。禁足地はその尾根の裾にひろがっているわけである・・・禁足地から、弥生式土器の細片とサヌカイトの石屑が発見されたことから・・・禁足地の祭祀の起源は、少なくとも今のところ前期弥生式文化、二千数百年以上に遡って考えられる。』
上記から、弥生時代には、山頂に奥津イワクラ、現在の禁足地に辺津イワクラがあったことが推定される。大神族が出雲系(文献12C)であることを考慮すれば、イワクラ祭祀は自然な祭りと言えよう。尚、禁足地の成立は後に述べるように、6世紀後半以降で弥生時代には存在していないと思われる。
<ステップ1:崇神〜仲哀期(三輪王朝)の時代 図13古墳時代前期相当>
古墳時代の前期、三輪山西麓の纏向の地に忽然と姿を現したのが三輪王朝(崇神〜仲哀期)である。水垣郷にあった三輪・金屋遺跡と芝遺跡は、新勢力である三輪王朝にしだいに吸収されてゆく。
三輪山山頂の奥津イワクラは、三輪王朝の太陽祭祀の場となり、麓には日原の丘に倭笠縫邑(下注参照)が設けられた。この奥津イワクラ―倭笠縫邑―纏向遺跡群は、古代祭祀の聖なるラインと言えるだろう。
(注)倭笠縫邑の比定地とされる檜原神社付近には、祭祀関係の遺物としてイワクラがリストアップされている。(文献24、図6B))
このことから、倭笠縫邑の時代に遥拝所的なイワクラ祭祀が始められた可能性が考えられる。
纏向遺跡を築いたものは、北九州から東遷してきた人々、いわゆる天孫族とみられる。(文献6)近代的な鉄製武器を装備した東遷集団に対して、出雲系の大神族のとる道は二つに一つであった。一つは、大和に侵入してきた東遷集団と戦って追い払うことであり、一つは、この集団と妥協して生き残ることである。戦ってはとてもかなわないと見た大神族は後者の道を選んだ。
イワクラ祭祀は、元々は出雲系の人々の祭祀と言われている。(文献25)
三輪と出雲の並々ならぬ関係は、三輪の地に「出雲」の地名や伝承が多いことからも想像できる。
・三輪山南東、初瀬西方の「出雲」は、垂仁朝に出雲国の土部を招き埴輪を焼いた伝承がある。また、出雲国出身の野見宿禰の伝承もある。
・三輪山の東、檜垣(ひがい)町にあったとされる「出雲荘」は、日本書紀にみえる出雲臣の管理した荘園と推定されている。
・三輪山の狭井神社近くにある「出雲屋敷」は、神武天皇の皇后となった大神の娘、伊須気余理比売(いすけよりひめ)の屋敷があった所とされている。
また、山ノ神祭祀遺跡が発見された所としても知られている。
天孫族は、三輪王朝の時代にイワクラ祭祀を出雲系の大神族より取り込み、自らの太陽信仰と習合させた。
最近の研究によれば、纏向遺跡群の中で最も古いとされる石塚古墳(図13の10)は3世紀初頭に築かれたとされている。三輪王朝の初代の天皇は崇神天皇で3世紀後半の人とされることから、それ以前の纏向の地にかなり大きな集落があったことになる。おそらくこれは東遷集団の先駆けと考えられ、倭国騒乱の時代に北九州から新天地を求めて移住した人々であろう。
大集団が移動する場合、目的地に関する何等の情報もなしに動くことはないであろう。従って東遷集団は、そうした先行移民の情報を得て大和に進軍したものと考えられる。
<ステップ2:応神〜安康期(河内王朝)の時代 図14古墳時代中期相当(図13古墳時代前期相当)>
(注)この時代は、古墳時代前期にも関係しているので、表1と共に図13も合せ参照願いたい。
この時代になると、三輪王朝は河内に移り、河内王朝(応神〜安康期)の時代となる。河内王朝は、海洋国家をめざした時代であり、この時期に沖ノ島において大陸との航路の護持を願ってイワクラ祭祀が開始される。このイワクラ祭祀の原型は、三輪王朝の時代に三輪山で行われていたイワクラ祭祀であることが推定される。
三輪山では、倭笠縫邑の王権祭祀を引き継ぐ形で、三輪王朝移転後の大神族を主とする残存勢力による辺津イワクラ群が形成される。奥津イワクラの遥拝所としての辺津イワクラは、王権が移動したことにより、大神色を強めながらしだいに大神族の各集落の祭祀対象に分割され、三輪山山麓に拡大してゆく。山ノ神祭祀遺跡は、この拡大した辺津イワクラ群の一部と考えられる。
<ステップ3:雄略〜宣化期(河内〜大和)の時代 図15古墳時代後期相当(図14古墳時代中期相当)>
(注)この時代は、古墳時代中期にも関係しているので、表1と共に図14も合せ参照願いたい。
雄略朝の5世紀後半に、王権による太陽祭祀が三輪山の倭笠縫邑から伊勢に移転した。(文献3A)このことにより、三輪山の祭祀権は大神族に返還された。大神族は、自らの神を求め始めた。そして、祭祀の中心はかっての聖地である水垣郷に向かい、彼らの祖先神たる大物主神の神話が生み出された。
5世紀に沖ノ島と三輪山で起こったこの祭祀上の大きな変化を表4にまとめる。三輪山の山ノ神祭祀遺跡の遺物は、王権の祭祀を象徴する本物の鏡・剣・玉からその模造量産品に変化している。(図17)さらに、それまでなかった土製摸造品の壷・瓢・杵・臼・案・柄杓等が登場している。(図18)
王権の象徴である鏡・剣・玉は、滑石製模造品に簡略化・形式化された。
また、土製摸造品の壷・瓢・杵・臼・案・柄杓は大神族の農耕神である大物主神の復活を意味するものである。5世紀後半から6世紀初頭の遺物は、王権の経済的バックアップが弱くなったこと、イワクラの数が急増したことなどから、安価な量産品となっている。
三輪山の祭祀遺跡としては、山ノ神遺跡の出土品ほどの多彩さはないが、奥垣内(おくがいと)遺跡がある。この遺跡は5世紀後半〜6世紀初頭のもの(文献27A)で、山ノ神遺跡の後期に相当する。遺物は、多数の滑石製摸造品の他、土製摸造品、須恵器が含まれている。 尚、一部、4世紀末〜5世紀前半の土師器や新羅製陶質土器の混入がみられるが、これらは伝世品と推定される。
奥垣内遺跡は、鏡・剣・玉等の王権にかかわる遺物がないことから、山ノ神遺跡とは異なり大神氏専有のイワクラ祭祀であることが推定される。
伊勢遷宮の後、大神族の占有となった三輪山は、イワクラの最盛期を迎える。
イワクラの増加に従い、奥津イワクラへの登拝道(イワクラ線)の周辺を中心として新たなイワクラが続々と生まれる。これが、中津イワクラの実態であって、位置とは無関係な増大したイワクラである。従って、本論文では中津イワクラを、5世紀後半〜6世紀前半に生まれた大神族占有のイワクラと定める。このことから、奥垣内遺跡のイワクラは中津イワクラに分類されるべきもの考えられる。
ヤマト王権が三輪山において奉斎した太陽神は光であった。光は空を飛ぶものであり、中津イワクラは無用であることは祭祀的に明らかである。中津イワクラは人格神のような光以外の神に適用されるものである。
イワクラの増加の理由としては、各集落ごとにイワクラを設けたとか、祈る内容がイワクラごとに異なっていたとか、イワクラを年毎に更新したとか様々のことが考えられる。いわば一種のイワクラブームであろう。この時期、沖ノ島においてもイワクラが急増していることがわかる。
後世に中津イワクラと呼ばれるのは、後に述べるように禁足地の祭祀が確立した6世紀後半以降に、三輪山全体のイワクラを頂上部、中腹部、周辺部に分類・整理したものである。当時の人々にとって中津イワクラの意識がなかったことは、三輪山のイワクラの分布図(文献16B)を見ても、明らかである。
表4 5世紀の中頃(中津イワクラ発生時)に沖ノ島と三輪山で起こった祭祀上の変化 | ||||
5世紀前半以前 | 5世紀後半以後 | |||
沖ノ島 | 遺跡の存在する イワクラの数 |
岩上祭祀遺跡 2個 |
岩陰祭祀遺跡 9個 |
|
祭祀遺跡の数 | 岩上祭祀遺跡 5ヶ所 |
岩陰祭祀遺跡 12ヶ所 |
||
三輪山 | 山ノ神 祭祀遺跡 下注参照 |
遺物 | 小形素文鏡 剣形鉄製品 碧玉製勾玉 |
・滑石模造品の 鏡(双孔円板) 剣・玉(勾玉) ・土製模造品の壷・瓢・杵・臼・案・柄杓等 |
特徴 | 本物志向(高級品) | 模造品(簡素・安物) 量産品 |
||
祭祀の性向 | 倭笠縫邑(元伊勢) 太陽神 ヤマト王権の祭祀 |
伊勢への遷宮 大物主神(農耕神) 大神族の氏神祭祀 |
4世紀後半〜5世紀前半 | 5世紀後半〜6世紀初頭 |
上 鉄片(剣) 中 銅鏡 下 碧玉製勾玉 |
左側より3列 滑石製摸造品の勾玉 右側1列 滑石製摸造品の有孔円板(鏡の代用品) |
図17 山ノ神遺跡出土品(文献26A)
図18 山ノ神遺跡出土品(土製摸造品)(文献13) 5世紀後半〜6世紀初頭の遺物(文献27@)
<ステップ4:欽明〜光仁期(禁足地での一括祭祀)の時代 図16飛鳥時代・奈良時代(図15古墳時代後期相当)>
(注)この時代は、古墳時代後期にも関係しているので、表1と共に図15も合せ参照願いたい。
6世紀後半になるとイワクラ祭祀は衰退期を迎える。
この頃、三輪王朝の残存勢力の水垣郷への帰還は最終段階を迎え、祭祀の中心は大神神社の禁足地に集約される。このことは、7世紀段階の須恵器の出土が禁足地と若宮社のみに限られ、その数も激減すること、滑石製模造品を利用したイワクラ祭祀が6世紀末に消滅することからもいえる。(文献28)
そして、その結果として図16の31のイワクラ群が重視されるようになる。これまで、イワクラはマグマのように流動的であった。新しく生まれるイワクラもあれば、死んでゆくイワクラもあった。しかし、それらのイワクラが動きを失って固定化した時、イワクラの生成は終わりを告げた。
イワクラは元々、祭祀者が岩に対座して行うものであった。しかし、禁足地での祭祀は、三輪山に無数にあるとされるイワクラを、禁足地を通して神体山として一括して拝むものとした。この方式は、合理的であるが、反面、イワクラと人との生の関係が絶たれたよそよそしいものでもある。ここに、人の血であり肉であったイワクラ祭祀、即ち古代イワクラ祭祀は終わりを告げた。
そして、沖ノ島において、半岩陰・半露天祭祀が始まる。この「半露天」の
「露」の一字こそ、人が岩から離れ、社殿神道へと向かう端緒となるものである。これは、思想的には、文明の進歩によるアニミズムからの離脱と解釈される。この社殿神道の流れこそ、イワクラの変遷をもたらした原動力に他ならない。
この時期は、仏教の導入を巡って物部・蘇我両氏が激しく争っていた頃である。排仏派の敏達天皇は、崇仏派を抑圧するとともに太陽祭祀を司る日祀部(ひまつりべ)を各地に設置した。(文献19A)これは仏教に対抗した国神祭祀の近代化であり、社殿神道につながるものである。
社殿神道は、伽藍を持つ仏教への対抗策として始まり、全国のイワクラ祭祀に大きな影響を与えた。大神神社は、社殿を持たないことで有名であるが、別の形で社殿神道の影響を強く受けていたものと考えられる。
「三輪高宮家系図」によれば、大神祭(四月祭)は欽明朝に始められたとある。これも、排仏派の三輪君氏による仏教への対抗策と思われる。(文献19B)
これ以降、三輪山における従来のイワクラ個別祭祀は、露天祭祀の要素を取り入れた禁足地でのイワクラ一括祭祀の形態に変貌した。
神社の社殿建築が一般化する時期については、飛鳥時代末、律令制下の官社制度が成立した天武朝(7世紀末)であるとの有力な説がある。(文献23)
奈良時代になり、712年古事記、720年日本書紀が編纂され、日本の古代史がまとめられる。しかし、その中には奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の用例が見当たらないことから、三つのイワクラ思想は確立されていなかったと思われる。
その後、奈良時代末期の宗像大社において、宗像三神の一括祭祀(合祀)が始まったことが「筑前国続風土記 巻之十六」(文献29)に次のように記されている。この合祀は、祭祀の省力化、神々の序列化を進めたものであり後世的な考え方と思われる。
『田島、大島、奥津島、三所ともに、何れも三神を一社に合わせ祭りて、各其社の主とする所を中座に崇め奉る、社家には、光仁天皇天應元年(781年)に神託有て、邉津宮の社内に、奥津島、中津島の両神を勧請して、一所に崇め奉ると云傳へ侍る』
文中、田島は辺津宮、大島は中津宮、奥津島は沖津宮が鎮座するところである。尚、奥津島は、沖ノ島のことで、「筑前国続風土記」に下記の注釈がある。
『奥津島 俗に此島をおきの島と云、神をおきの御神と云、』
この一事からでも、三輪山の奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の呼び方が、沖ノ島からの転用であることは明らかであろう。詳細については、先の論文(文献6)を参照願いたい。
中座に沖津神が鎮座する奥津島での神座の配置は、「筑前国続風土記」によれば次のようになっている。
左第三 市杵島姫神(いちきしまひめかみ) 辺津宮
中第一 田心姫神(たごりひめかみ) 沖津宮
右第二 湍津姫神(たぎつひめかみ) 中津宮
(注)「筑前国続風土記」によれば、沖津宮の祭神を市杵島姫神、辺津宮の祭神を田心姫神とする説もある。しかし、その場合でも中津宮の配置右第二は不動である。
沖ノ島での神座の配置、下記の大三輪鎮座次第(文献1AB)を見れば、当然三輪山の三ツ鳥居に反映されていると思われる。先の論文(文献6)で述べたように、三神思想は海人のものであり、三輪山は、イワクラをもって山に展開された海人思想であるとも言える。
『大物主大神は奥津磐座、大己貴神は中津磐座、少彦名神は辺津磐座に鎮座します由云へり。今も鳥居を三個に造りて。三柱を斎き奉る由云傳へたり。』
かくして、「古来、一社の神秘なり」とされた大神神社の三ツ鳥居の神座の配置は次のようになることがわかる。
左第三 少彦名神(配祀) 辺津磐座
中第一 大物主大神(御祭神) 奥津磐座
右第二 大己貴神(配祀) 中津磐座
図19 一社の神秘とされる大神神社の三ツ鳥居(文献30)
神体山(中央:奥津磐座 右:中津磐座 左:辺津磐座)を奉る。
このようにして、神体山としての三輪山全体は三ツ鳥居を透して拝されるこことなり、三つのイワクラの一括祭祀は社殿を持たない社殿神道として完成したのである。
尚、三ツ鳥居は檜原神社にもある。(図6参照)それは、すでに述べたように檜原神社が、元伊勢であると共に元大神でもあることによる。
ここに、奈良時代末に建立されたと推定される大神神社の三ツ鳥居は、三輪山の社殿を持たない社殿神道の教義としての三つのイワクラ思想の確立を象徴するものであると結論される。
3世紀前半以前 崇神朝(三輪王朝)が登場する前段階 ・黄色の縦縞のエリア: 本論文が独自に推定した時代区分 21奥津磐座、 30大神神社禁足地(辺津磐座)に、 大神族が農耕に係わる 地方神(雷神・水神)を 祭っていたと推測される。 ・赤色の横縞のエリア: 橿原考古学研究所が記載している時代区分 17芝遺跡(縄文後期〜) 32三輪・金屋遺跡(縄文前期〜) |
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図12 ステップ0 三輪山周辺の遺跡とイワクラ祭祀の変遷(弥生時代 表1参照) |
3世紀後半〜4世紀前半 崇神〜仲哀期(三輪王朝)の時代にほぼ相当 ・黄色の縦縞のエリア: 本論文が独自に推定した時代区分 21奥津磐座 24倭笠縫邑(元伊勢) ・赤色の横縞のエリア: 橿原考古学研究所が記載している時代区分 1渋谷向山古墳(伝景行天皇稜) 2赤坂古墳 3シウロウ塚古墳 5柳本大塚古墳 6檜垣遺跡 17芝遺跡 20車谷遺跡 纏向遺跡群(赤色の横縞の大きなエリア) 8勝山古墳 9矢塚古墳 10石塚古墳 11東田大塚古墳 12箸墓古墳 13ホノケ古墳 |
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図13 ステップ1 三輪山周辺の遺跡とイワクラ祭祀の変遷(古墳前期 表1参照) |
4世紀後半〜5世紀前半 応神〜安康期(河内王朝)の時代にほぼ相当 ・黄色の縦縞のエリア: 本論文が独自に推定した時代区分 21奥津磐座 23辺津磐座 24倭笠縫邑(元伊勢) ・赤色の横縞のエリア: 橿原考古学研究所が記載している時代区分 16茅原大墓古墳 25山ノ神祭祀遺跡(辺津磐座) 27奥垣内(おくがいと)祭祀遺跡 (中津磐座 山ノ神より後に成立) |
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図14 ステップ2 三輪山周辺の遺跡とイワクラ祭祀の変遷(古墳中期 表1参照) |
5世紀後半〜6世紀前半 雄略〜宣化期(伊勢遷宮以降)の時代にほぼ相当 ・黄色の縦縞のエリア: 本論文が独自に推定した時代区分 21奥津磐座 22中津磐座 23辺津磐座 ・赤色の横縞のエリア: 橿原考古学研究所が記載している時代区分 4珠城山古墳群 15馬塚古墳 18狐塚古墳 19弁天社古墳 27奥垣内(おくがいと)祭祀遺跡(中津磐座) |
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図15 ステップ3 三輪山周辺の遺跡とイワクラ祭祀の変遷(古墳中期 表1参照) |
6世紀後半〜8世紀末 欽明〜光仁期(仏教伝来以降)の時代にほぼ相当 ・黄色の縦縞のエリア: 本論文が独自に推定した時代区分 21奥津磐座 31中津磐座 30大神神社禁足地(辺津磐座) 33海柘榴市推定地 |
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図16 ステップ4 三輪山周辺の遺跡とイワクラ祭祀の変遷(飛鳥時代・奈良時代 表1参照) |
5 まとめ
奥津・中津・辺津イワクラの成立過程を、まとめとして表5の沖ノ島と三輪山の時系列比較によって示す。
奥津イワクラ・中津イワクラ・辺津イワクラの「三つのイワクラからなる祭祀思想」は、太古からある祭祀思想ではなく、6世紀後半以降の大神神社形成期に沖ノ島との祭祀的な交流のなかで成立したものである。また、三輪山のイワクラマップで示されているように、それは必ずしも直線的に行儀良く並んだものでもない。
イワクラの研究は、考古学・歴史学からは、その論証の困難さから長い間傍流に置かれてきた。しかし、イワクラが厳然と存在する事実は何人も否定しがたいであろう。私は、未知の領域を多く含んだイワクラの研究が、古代の解明に有益であることを信じるものである。
参考文献
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10 「お伊勢まいり」口絵 矢野憲一・他著 新潮社 1993年刊
11 「磐座・磐境等の考古学的考察」大場磐雄著
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12 「大神神社史料 第3巻」大神神社史料編集委員会 1971年刊
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30 「大神神社 三輪明神縁起 パンフレット」
(C071017)
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