イワクラ(磐座)学会 調査報告電子版  2010年10月20日掲載
イワクラ(磐座)学会 会報20号掲載     

キーワード 雨乞い 箕面瀧 雌瀧 雄瀧 殺馬 白馬

     箕面瀧の雨乞 蛇と龍

1 はじめに
 本調査報告は、前回に発表した論文「イワクラ学で解く室生龍穴の謎 古代名山大川祈雨祭祀の考察」 の続篇で、
大阪府箕面市の紅葉の名所として名高い箕面国定公園にある箕面瀧の雨乞いについて調査したものである。
箕面大瀧の雨乞いについては、江戸安永年間の摂津国地誌である『名葦探杖(めいいたんじょう)』に次のような記述がある。
 「(箕面大瀧は)箕面山にあり 高さ十六丈岩を打ち俵をふらすが如く水煙霧をあざむき誠にものすごき景地なり
  瀧壷は巌(いわお)にしてはなはだ浅し 瀧の肩に龍穴あり その深きこと人これをはかるに知れず 
  土民雨を祈るに白馬の首を切りて龍穴を穢すに忽ち大雨すといへり 日本第二の瀧にして役小角第一の行場なりといへり」

作者の井上元造は、浪華(大阪)に住まいする暁隣軒蟻工と号する俳人である。
蟻工は幼少の頃より病多く、二十歳の時に失明した。その後、鍼術を生業とする傍ら俳諧を学んだ。
『名葦探杖』の書名は、盲人の作者が名所旧跡を求めて、杖をたよりに歩く様を投影したものである。
 しかしながら、『箕面市史』に掲載された『嘉永六年大旱魃記録』を読むと、
白馬の首を投げ入れた場所は箕面大瀧の龍穴ではなく雄瀧であることがわかる。
『摂津名所図会』には箕面大瀧を雌瀧と呼び、雄瀧は雌瀧の六町ばかり上流にある瀧とある。
この瀧は落差3m程度の小瀧で今もある。このような取り違えは、『名葦探杖』を初めとして『摂陽群談』『摂津名所図会』にも共通している。
本調査報告は、雌瀧における僧の雨乞いと雄瀧における村民の雨乞いを分けて調べたものである。
そして、各地誌における雄瀧と雌瀧の取り違えは、各地誌の作者が雌瀧の豪壮さや役行者の一代記に引き寄せられた結果と見る。
また、雨乞いの神は龍神が多いが、村民が主催する雨乞いにおいては蛇神や山ノ神のような日本古来の神々も並存することがわかった。

2 仏教からみた箕面瀧の構図
 箕面瀧を仏教的な立場からどのように見ていたかを示す資料を成立年代順にならべれば次のようになる。
@『伊呂波字類抄』十巻本 鎌倉初期    A『阿娑縛(あさば)抄』正元1年(1259)  
B『真言伝』正中2年(1325)            C『九条家旧蔵 諸寺縁起集』鎌倉時代末
D『箕面寺秘密縁起』江戸時代 明暦2年(1656)頃

@は昔の国語辞典で、箕面寺の概説の中に箕面瀧が初めて登場する。
Aは台密の書物で、箕面寺については@とほとんど同一内容である。
Bは文字通り真言の書物で、役行者の一代記の中に箕面瀧の記述がある。
CはBと同じ役行者の一代記である。
Dは箕面寺(現 瀧安寺)に伝わる絵巻物で、BCと同じ役行者の一代記である。
箕面寺は、中世から近世にかけて火災や震災で度々焼失・倒壊し、慶長元年(1596)の大地震で全壊した。
その後、明暦2年(1656)に後水尾天皇勅願による本堂再建が、瀧の下あたりの旧地から1km下流の現在地(瀧安寺)に移してなされた。
Dは、その頃の勧進制作であるとの説がある。瀧の記述に関していえば、那智の瀧を日本第一の瀧として南瀧と呼び、
箕面の瀧を日本第二の瀧として北瀧と呼ぶことや役行者の龍穴の上での雨乞いの文と絵が追加されていること等、
寺のPR材料を新たに盛り込んでいる。
 @〜Dの内容は、瀧の記述に限ればどれも似たようなものであるので、
その代表として成立の経緯のはっきりした勧修寺慈尊院僧正栄海の編纂による『真言伝』を紹介する。
<箕面瀧『真言伝 役優婆塞』正中2年(1325) 編>
 「三重ノ瀧有リ。最上ノ瀧ハ雄瀧也。高サ一丈余也。枝ヲ立テ腰ヲカケテヨジ登ル。其杖ノ跡ト今ニアリ。
  淵ノ底ニ三丈余ノ黒蛇ワタカマリ臥ス。時ニ出テ人ニ見ユ。
  第二ハ瓔珞ノ瀧也。岸石滴リテ珠ヲツラヌケルガ如シ。
  第三ハ雌瀧也。高サ十五丈余。布ヲサラセルニ似タリ。
  頂上ノ壷ハ龍穴也。其龍ノ色斑ニシテ長三丈余。動スレハ黒雲ヲ吐テ雨ヲ下ス。」(1丈=3m)
  
これによれば、箕面瀧は三段の瀧から構成されている。
上段の瀧はほとんど知られていないが、雄瀧と呼ばれ雌瀧(箕面大瀧)の上流にある。
箕面川に沿って走る豊中亀岡線(府道43号線)の雄瀧橋の少し下流にある落差3m程度の小さな瀧である。
雌瀧(箕面大瀧)から直線距離にして約300m北北東の位置である。木々に隠れているが、瀧音がしているので見つけるのは容易である。
中段の瀧である瓔珞の瀧は、現在は砂防ダムができたために跡形もないが、大日駐車場の売店裏あたりにあったそうである。(HP「箕面の瀧」)
瀧というよりも段差に近いようなものであろう。尚、瓔珞(ようらく)とは宝石などを連ねて編み、仏像の頭・首・胸等にかけた飾のことである。
下段の瀧である雌瀧は、有名な箕面大瀧である。通常、箕面の瀧と言えばこの瀧を指す。
箕面大瀧は日本の瀧百選にも選定された落差33mの瀧で、古くは修験道の道場であった。
瀧の名は、瀧から落ちる水が蓑を広げたように見えることからといわれる。
本調査報告では、三段の瀧の総称として「箕面瀧」を用いている。

図1 雄瀧 落差3m      図2 雌瀧(箕面大瀧) 落差33m                     
『日本国語大辞典』(小学館2006)には、雄瀧とは雌瀧と対になった二筋の瀧のうち水流が激しく大きい方の瀧とある。
しかしながら図1と2では、落差3mの上流の小瀧が雄瀧、落差33mの下流の大瀧が雌瀧となっていて、
上流を雄瀧、下流を雌瀧とする見方もあるようである。 これは人間の生殖過程を模したものであろうか?

『真言伝』では、雄瀧には長さ三丈の黒蛇が、雌瀧には長さ三丈の黒雲を吐いて雨を降らす龍が棲息しているとされる。
また雄瀧は、『箕面寺秘密縁起』において役行者が錫杖を立てて休んだ所でもある。
古来の水神としての蛇と密教的な龍神とが、対比的に描かれているのが印象的である。
『箕面寺秘密縁起』には、役行者が讒言をした一言主を縛り谷底に投げ入れると、一言主が長さ二丈余りの黒蛇に変じる話がでてくる。
これなども、古くからの蛇に対する龍の優位を強調したものであろう。

図3 『箕面寺秘密縁起』絵巻34(石川知彦2000@)
   行者は、「将来、験力のある慈悲心の聖人が出て縛めを解くことができるまでは縛りおく」と
   言いて、谷底に一言主を投げ入れたり。谷底を見れば、一言主は二丈余りの黒蛇となりてあり。

上図を見れば、黒蛇は龍として描かれていることがわかる。
崖の上の鬼は、図4において水瓶を持っていることから後鬼(青鬼)である。
これらは、仏教者といえども蛇の棲家たる雄瀧に雨乞いの験(げん)を認めていたことの根拠となるであろう。

3 僧の雨乞い(雌瀧)
箕面寺の創建は寺伝では役行者であるが、箕面山の史料上の初見は
『扶桑略記』応和2年(962)4月条「千観内供於攝州蓑尾山観音院。作法華三昧宗相対抄。」とある。
千観(せんかん)(918−983)は、平安時代中期の天台宗の僧である。運昭を師とし顕密を学んだ後、
箕面に隠遁し『法華三昧宗相対抄』『十願発心記』を著した。その後、金龍寺(大阪府高槻市)に移り、民衆の教化に努め66歳で没した。
また、観音院は箕面寺の前身と考えられる。

@千観の雨乞 応和2年(962)
『扶桑略記』永観2年(984)8月27日条には千観が行った雨乞いの様子が故老の話として記述されている。
この雨乞い行われた時期は、鎌倉時代末期に書かれた『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』巻第4の金龍寺千観の項に
同様の記事があることからから応和2年(962)とわかる。
尚、『大日本史料』によれば、この雨乞いは応和3年(963)7月9日に分類されているが大差はない。
これは箕面大瀧での雨乞いの史料上の初見である。
 「故老傳曰。千観内供蟄居攝津國箕面山観音寺。念仏餘暇。撰集法華三宗相対釈文之比。天下旱魃。仍公家為祈雨。
  遣勅使於内供奉十禅師千観之草庵。于時千観與勅使相共登向箕面之瀧。々上有大柳樹。?仆横覆瀧壷。木上三人並居。
  奥坐内供手フ香爐。次居従僧手持水瓶。後侍勅使手執勅祿。千公啓白。致誠請雨。而香爐煙聳。自然満山。従瀧壷内黒雲昇虚。
  導師稱曰。法既成就。出山帰房。途中値雨。自瀧至室。可甘餘町。時人随喜。故傳記也。」

 箕面に居た千観に、旱天のため請雨の修法を行うベしとの勅命が下る。
彼が勅使と共に大瀧に至り、瀧口を覆う柳樹に登り香炉を捧げて祈ると、
香煙は立ち上って山谷に満ち、黒雲がそれと合して忽ち降雨となったと云う。
千観の雨乞いは、千観と従僧と勅使が瀧の上にある柳の大木に登り、「香爐」「水瓶」「勅祿」をそれぞれ手にして
「千公」に「啓白」(申しあげる)といった道教的な色彩の強いものである。
古代中国では自然を対象に「河伯」「風伯」のように爵位を与えたとされ、「千公」とは自然のあまたの神々と解釈してよいであろう。
そして「勅祿」は「千公」に供える天子よりの祿の目録であろう。
また、香炉の煙は『日本書紀』皇極元年(642) 7月27日条「蘇我大臣手執香鑪。燒香發願。」とあり、
「水瓶(神水)」とともに雨乞いの類感呪術と呼ばれるものである。
柳も、枝の垂れ下がりが雨の降る様を連想させることから同様に考えてよいであろう。
「法既成就」の言葉はその呪術の完了を意味するものである。
重要なことは、ここでは龍神の関与は見られないことである。龍の登場は、役行者の一代記や箕面寺の縁起が揃う鎌倉時代と見られる。
つまり、龍穴信仰は箕面に自然発生したものではなく、
仏教勢力によって室生の模倣として意図的に導入された可能性が強いと考えられる。(江頭務2010)
雌瀧の上には、川の流れから考えて龍が棲むような巨大な龍穴(潭)はなさそうである。

A役行者の龍穴の上での雨乞い
僧による雨乞いの記述として、『箕面寺秘密縁起』の中に役行者の雨乞いがある。
もちろんこれはフィクションであるが、『箕面寺秘密縁起』が創作されたといわれる
明暦2年(1656)頃の雨乞いを考える上でのヒントになるであろう。

図4 『箕面寺秘密縁起』絵巻16(石川知彦2000A)
   行者、不思議なるかな祈念すれば龍穴の口から流水湧出で、神仏の助によりて雨乞いの験あり。

『扶桑略記』に「千観の瀧の上での雨乞い」、『真言伝』に「頂上ノ壷ハ龍穴也」、『箕面寺秘密縁起』に「瀧頂上に御窟あり、即ち龍穴なり」、
これらから僧による雨乞いの場はいかにも龍の住みそうな豪壮な滝壷ではなく、雌瀧の上部であることがわかる。
このことは、仏教の進出してくる以前に、瀧の上方に聖なる場所があったことを思わせる。
仏教者もこのことを無視して勝手な想像力を働かせることを憚ったのであろう。
僧の雨乞いは、当初国家の要請によって行われることが多かった。

4 村民の雨乞い(雄瀧)
歴史的に村民の雨乞いが僧の雨乞いの後であるというわけではない。
むしろ逆であろう。村民の雨乞いは古い文献に記載されることが稀なだけである。
そのため、村民が雨乞いの主催者として文献に登場するのは元禄14年の『摂陽群談』が初見となる。
<『摂陽群談』元禄14年(1701)刊>(村民の雨乞いの初見)
  「箕面瀧 豊島郡平尾村箕面山にあり。高さ十六丈、瀧の頂に龍穴あり。村民雨を祈るに必ず洪水す。」
<『名葦探杖』安永7年(1778)自序>
  「瀧の肩に龍穴あり、その深きこと人これをはかるに知れず。土民雨を祈るに白馬の首を切りて龍穴を穢すに忽ち大雨す。」
<『摂津名所図会』寛政10年(1798)刊>
  「箕面瀧  本社(注1)より十八町奥にあり。巌頭(がんとう)より飛潟して、石面を走り落つることすべて十六丈。
   瀧壷より泡を飛すこと珠(たま)をちらすがごとく、霧を噴(は)くこと雲の如し。
   日光これを燭して??(注2)目を奪ふ。天下賞して瀧の第二とす。
   瀑(たき)の上に碧潭(へきたん)あり、これを龍穴といふ。 村民旱天に遇う時、ここに祷れば忽膏雨(ごうう)降るなりとぞ。」(1町=109m)
    (注1)瀧安寺弁財天社  (注2)さいさん:玉から出るきわめて明るく清らかな光
  「龍穴 岩間方三丈ばかり、深渕にして蒼色なり。その深き事はかりがたし。」
  「奥飛泉(おくのたき)(雄瀧) 大瀧(箕面大瀧)より六町ばかり奥にあり。飛流八丈ばかり。大瀧を雌瀧といひ、これを雄瀧といふ。」

上記の文献においては、いずれも瀧とは雌瀧(箕面大瀧)を指している。
そして龍穴とは、瀧の頂の潭と想像される。
また『摂津名所図会』の記述から、雄瀧は雌瀧のかなり上流にあることがわかる。
しかしながら、次の資料『嘉永六年大旱魃記録』を読めば、これらが誤りであることがわかる。
何よりも、雨乞いの行われた場所が落差33mの雌瀧ではなく落差3mの雄瀧であることが注目される。
嘉永6年、ペリーが来航した幕末の1853年に、箕面における次のような雨乞いの記録が残されている。

 7月1日に雨乞いの談合を行った。
平尾村の氏神で御籤を引き能勢の妙見か都の東寺か、どちらに験があるかを伺ったところ、
大師と出たので東寺に御火を受けに行き、7月3日より各村の氏神にて7日間祈祷を行った。
しかし何の印もなく、結願(けちがん)の9日の寄合において、萱野郷から葦毛馬が見つかったとの知らせがもたらされた。

<『嘉永六年大旱魃記録』 嘉永6年(1853)の雨乞いの記録>
「萱野郷ノ者ヨリ内々、此節幸イ近辺ニ葦毛馬(注1)見当リ有之由、内談有之ニ付、早速急談致、
 萱野郷惣代芝村庄屋十助方ニテ穢多北村(注2)庄七卜申モノニ、
 当郷(注3)引合人平尾(注4)仲右衛門・義右衛門ヲ以、先方十一ヶ村ト当郷ト入用銀二ツ割ニテ引合相結メ、
 翌十日右穢多仕呂物(注5)買求ニ行候コト、
 同晩両郷村々ヨリ人足一人宛差出シ(注6)、北村ヨリ初夜比(注7)、右ノ馬箕面山エ曳登リ、
 上番家ノ向(注8)高キ岡ニテ首ヲ刎、胴躰ハカヤノ郷山谷ヘケ落隠置、夫ヨリ首ヲ雄滝エツケ侯事、
 当郷村々ヨリ人足平尾ハ市右衛門、西小路ハ武兵衛、牧落ハ加四平忰(せがれ)、桜ハ九平、
 右ノ馬代金六両弐分、仕事雇者賃金二両、外ニ諸入用銭三メ(貫)七百文、右両郷二ッ割、
 右之通格迄致候得共何ノ感応少モ無之、翌十一日唯少レ曇ル、一寸時雨有之カ」

(注1)白い毛の中に、黒色や茶色の毛がまじった馬
(注2)江戸時代、北村は芝村の北東にあった集落で、かわた村として死牛馬の処理をしていた。
  また、龍安寺(箕面寺)の岩本坊とのつながりを示す寛延3年(1750)の文書が残る。
  北村は芝村の枝村として、本村芝村の従属下にあった。(『改訂 箕面市史 部落史』本文編)
  殺馬を伴うような雨乞いもなかば強要された面もあるが、
  北村なしではこのような雨乞いを執り行うことができなかったことも事実であろう。
(注3)当郷とは牧之庄4ヶ村を指す。牧之庄は萱野郷11ヶ村とならび称される郷で、
  本文中に出てくるように箕面川流域の平尾、西小路、牧落、桜の各村で構成されている。
  また、萱野郷は、外院、白島、石丸、東坊島、西坊島、如意谷、東稲、西稲、西宿、芝、今宮の各村で構成され、
  牧之庄の西国街道沿いの東に接する。(『箕面市史』第2巻@)
  尚、この文書の作成者は桜村の庄屋中井保五郎である。
  萱野郷、牧之庄は、水利・入会山・産土神などを共有する中世よりの惣的な農民組織を基盤としたものである。
  従って、このような大掛かりな雨乞いの源は中世に求められるであろう。

図5 近世初期の箕面地方交通路 赤色の村:牧之庄 黄色の村:萱野郷 (『箕面市史』第2巻A) 

(注4)平尾村は牧之庄に属する村で、村域に箕面大瀧と雄瀧を有する。
  同村の仲右衛門と義右衛門が牧之庄の代理として、萱野郷の北村の庄七との取引にあたった。
(注5)仕呂物(しろもの)、代物の意か。ここでは馬を指すものと考えられ、北村の人が馬を買い求めたのであろう。
(注6)これから雨乞いの人員構成は、北村に加え牧之庄4人、萱野郷11人となる。
(注7)初夜比(しょやごろ)、初夜とは戌の刻(午後7〜9時頃)である。
  7月10日午後8時頃に北村を、馬を引いて出発したという意味である。
  比は頃と同義である。とすれば、雨乞いは夜に行われた可能性がある。
  夜の雨乞いは、特に珍しいものではなくむしろ神秘性を高めるものであろう。
(注8)上番家、上番(じょうばん)は当番の意。
  定かではないが、その年の水利に関係する当番を務める家と想像される。
  その家の方向に馬の首を向かせたのであろう。

<村民による白馬の雨乞いの類似事例>
@伊丹の白馬の雨乞い

 岩の上で白馬の首を切り、その血を岩に塗りつける特異な事例が
兵庫県宝塚市近くの武庫川にある。
雨乞いを行ったのは
兵庫県伊丹市域の水利組合である昆陽井(こやゆ)組に属する村々である。
昆陽井組の水利は、
武庫川からの水路と奈良時代の僧行基が開削したとされる昆陽池に依存している。
明治16年に行われた雨乞いの記録が『伊丹市史』に掲載されている。

 伊丹の雨乞い『西宮市史』
 「生瀬川(武庫川)の上流、溝滝の高座岩での雨乞いは、
  伊丹の昆陽(こや)の大雨乞いとして有名である。
  伊丹から乗って行った白馬の首を切り、岩にその血を塗って、
  行基が書いたという伝来の巻物を読み上げる。
  そのときに白馬に一本でも色のついた毛がまじっておれば雨が降らないし、
  巻物を読んだ人はやがて死ぬと伝えている。
  この岩の下は竜宮に通じていてこの上を血でけがすと
  乙姫さんがおこって雨を降らせ、たすきをかけて洗うのだという。」
     図6 武庫川の高座岩

A亀岡の白馬の雨乞い

 白馬の首を瀧壷に投げ入れる雨乞いとして、
京都府亀岡市稗田野(ひえだの)町佐伯の不動滝がある。
その滝は神蔵(じんぞう)寺の滝とも呼ばれ、神蔵寺の奥ノ院である。
瀧の石面に不動明王が彫られ、霊験ありと伝えられる。(『丹波誌』『盥魚』)
寺伝によれば、神蔵寺は最澄の創建で、かつては天台宗の一大道場として栄えた。
延宝7年(1679)、臨済宗の寺となり、現在も朝日山の山腹にある。
(注)不動滝は神蔵寺の傍を流れる菰(こも)川ではなく、朝日山の南方の犬飼川の支流にある。
   瀧は木々に覆われて見えないが、林道の下から瀧音が聞こえるのでそれとわかる。

 不動滝『丹波志桑田記』
 「不動滝 上佐伯村ヨリ坤(ひつじさる:南西の方位)ノ山奥ニアリ滝谷ト云所ナリ
  其傍ニ石佛ノ不動アリ
  旱魃ノ時佐伯村ノ屠多(えた)此滝ツボヘ白馬ノ首ヲ投入テ
  雨ヲ祈レバ必ズ霊験アリト云
  世俗是ヲ滝谷ノ雨乞ト云リ又是滝ヲ神蔵寺ノ滝トモ云」

(注)『丹波志桑田記』は、関正周(まさひろ)が享和2年(1802)にまとめた草稿を、
  享和3年(1803)に堀正綱が増補、
  文政11年(1828)に長沢氏重(うじしげ)が清書して完成させたものである。(『新修 亀岡市史』)
図7 不動滝(神蔵寺の滝) 
落差 約3m

 尚、参考までに牛馬を犠牲とした全国の雨乞いの調査結果を付録として末尾に添付しておく。

5 まとめ
@村民が祈りを捧げた神とは
 雄瀧に佇んでいると、このような小さな瀧に龍が住むとも思えないのである。
 とすれば、村民が祈りを捧げたものは何であろうか。
 おそらくそれは、仏教者が龍の下に格付けした蛇神や山ノ神等の往古の水神であろう。
 それらの水神は、大きな瀧でなく源流に近い小さな瀧に棲むことが多かった。
Aなぜ白馬を犠牲にするのか
 これについては2つの理由が考えられる。
 嘉永6年(1853)の雨乞いで主導権を持っていたのは、箕面川流域の牧之庄である。
 牧之庄は、その名が示すように律令時代の豊島牧があったところ(『箕面市史』第1巻)とされ、
 西国街道の宿駅である瀬川・半町にも近く馬とは縁が深い。
 また、馬は古代から雨乞いに用いられ、白馬は馬の中で最高の供犠である。
 尚、室生龍穴との密接な関係については、前回の論文(江頭務2010)を参照願いたい。
Bなぜ馬の首を途中の箕面山で切るのか
 箕面大瀧に至る瀧道に、唐人戻り岩と呼ばれる巨岩が張り出している。
 この岩には、昔、唐人が瀧見物に来たものの、山道のあまりの険しさにここで引き返したという伝説が残されている。
 つまり唐人戻り岩までは馬を連れて行けたが、それから先は 険路のため箕面山に登り馬の首をはねたものと想定される。
 唐人戻り岩の手前から箕面山に登る道が今もある。(瀧道から山頂まで25分)
C雨乞いの開始時期
 雨乞いの始原は、箕面寺の縁起等において箕面大瀧の上流に意識が置かれていることから、
箕面に仏教が進出する以前と思われるが定かではない。
 ただ、このような大規模な雨乞いを主催する牧之庄や萱野郷の来歴をたどるならば、惣が登場する中世以降と考えられる。
D『摂陽群談』『名葦探杖』『摂津名所図会』等における誤解がなぜおこったのか
 これらの江戸時代の書物は、地誌(名所案内記)であり本格的な研究書ではない。
 おそらく箕面寺の縁起に出てくる龍穴と雨乞いを安易に結びつけたものと思われる。
 観光的には箕面大瀧は突出しており、雄瀧の存在など気に止めなかった違いない。
 雨乞いに関して、こうした尾鰭がつくのは良くあることである。

謝辞
 本調査報告をまとめるにあたって、高谷重夫氏の著された『雨乞習俗の研究』より多くの示唆を受けた。
ここに紙上をかりて御礼申し上げます。

お願い
 現在、雄瀧は府道43号線の脇に、木々に埋もれて放置された状態にあります。
仏教的・民俗的に貴重な意義をもつ瀧として、雄瀧の整備を関係各位にお願いいたします。

参考文献(書名五十音順)
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 (大日本仏教全書 第41巻 p2804〜2805 名著普及会 1978 所収)
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『西宮市史』第2巻 p909 1960 西宮市
『扶桑略記』皇円阿闍梨(コウエンアジヤリ) 12世紀後半成立?
 (『新訂増補國史大系 第12巻』「扶桑略記」p255 1965 吉川弘文館 所収)
『箕面市史』第1巻本編 p87 1964 箕面市
『箕面市史』第2巻本編 @p2〜4 Ap274 1966 箕面市
『箕面寺秘密縁起』
 (@『役行者』p86〜98石川知彦・小澤弘 河出書房新社 2000 所収)
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 (B『箕面市史』第1巻本編 p102〜107 1964 箕面市)
 (C『修験道史料集U』p275〜286 p781〜786 鈴木昭栄 名著河出版 1984)
『名葦探杖』(めいいたんじょう)巻六 豊嶋郡 井上元造(俳号 暁隣軒蟻工)安永七年(1778)自序 大阪府立中之島図書館蔵

参考文献(著者五十音順)
石川知彦2000  『図説役行者 修験道と役行者絵巻』@p96画34 Ap93画16 河出書房新社
江頭務2010 「イワクラ学で解く室生龍穴の謎 古代名山大川祈雨祭祀の考察」 『イワクラ(磐座)学会会報19号』p14〜36
高谷重夫1982 『雨乞習俗の研究』p400〜401法政大学出版局

HPホームページ
HP「瀧紀行 箕面の瀧」http://www.geocities.jp/kurumilk_web/hyogo/takikikou/minoonotaki.htm


付録 日本に残る牛馬犠牲祭祀の調査

表1 牛馬犠牲祭祀の事例(日本全国)
犠牲の種類 祭場名(場所) 祭を行った人々の生活地域・祭の内容等
東 北 地 方(事例数4)
馬や鶏の首 田代潟 秋田県山本郡二ツ井町(旧田響村)小掛 出典1
伝承 最初は潟に米や金を投げ入れて雨を祈るが、験なき時は馬や鶏の頭を投げ入れると大雨になる。
牛[牛沈め] 最上川上流の
碁石淵
山形県山形市楯岡の本覚寺に、天正元年(1573)の雨乞で川に沈められた牛の墓がある 出典1
藁の牛[牛沈め] 雷神社の鳴神沼 宮城県桃生郡桃生町給人 出典1 藁の牛を沼に沈める「牛沈め」の行事がある。
牛の首 小野嶽中腹の池
(沼尾沼)
・福島県南会津郡下郷町長江村小沼崎 出典1,2,9
・福島県南会津郡下郷町小野(旧大内村)出典1 近年、牛の首は本物から模型に変わった
・福島県会津若松市(旧大戸村)出典1,2,9
中 部 地 方(事例数8内伝承のみ3件)
屠った牛 高田の四尾連湖 山梨県西八代郡市川大門町(旧高田村・旧山保村) 牛一頭を屠って湖に投げ入れる。 出典1
藁の牛の首 古閑川の雨乞淵 山梨県西八代郡下部町常葉 出典1
藁(生)の牛
赤牛[牛沈め]
平野の山中湖 山梨県南都留郡山中湖村平野  藁の牛は、赤牛を模してベンガラを塗った。
出典1では藁、出典2では本物の牛
藁(生)の牛
[牛沈め]
両国橋の牛淵 山梨県南都留郡道志村月夜野 出典1では藁、出典2では本物の牛
牛の首 竜爪山の
薬師神社
静岡県庵原郡清水市清水町(旧西奈村)出典1
夜、薬師神社の境内に牛の首を置いて逃げると大雨になる。
牛の首
(伝承のみ)
浅畑村の池 静岡県安倍郡浅畑村 出典1
ニセ(本物)の牛
[牛沈め]
(伝承のみ)
鮎沢川の牛淵 静岡県駿東郡御殿場市(旧御殿場町)出典1
元、ニセの牛は本物の牛の可能性あり。
藁(生)の牛
[牛沈め]
ナメダラ(牛の名前)の青池 静岡県志太郡藤枝市(旧西益津村)
出典1では藁、出典2,9では藁の牛は、元は本物の牛であった。
近 畿 地 方(事例数17内伝承のみ9件)
白馬の首 武庫川上流の
生瀬川(西宮市)の
高座岩と溝滝
兵庫県(北摂地域)
・伊丹市の昆陽、池尻、山田、寺本、野間、千僧、南野、御願塚、堀池の水利組合  出典1,3,4,9
・西宮市生瀬 出典5
・宝塚市小浜(こはま)出典11
白馬の首 箕面大滝
(箕面川は猪名川支流)
大阪府(北摂地域)箕面市牧之庄・萱野郷
箕面山の上で馬の首を切り、首を滝に漬ける。出典1
白馬の首
(伝承のみ)
滝谷の不動滝
(神蔵寺の滝)
京都府亀岡市稗田野(ひえだの)町佐伯の滝谷の不動滝の滝壷に
「白馬ノ首ヲ投テ雨ヲ祈レバ」必ず霊験あり。 『丹波志桑田記』 出典10
不動滝は、神蔵寺の西にある朝日山の南を流れる犬飼川の支流にある落差約3mの滝である。
尚、不動滝のある場所は、地元では滝の方(かた)とも呼ばれている。
牛の首 武庫川支流の惣川の
机岩と馬滝
兵庫県(北摂地域)宝塚市(旧川辺郡小浜村)川面
山伏の参加する雨乞 出典1
牛の首
馬の首
(伝承のみ)
最明寺滝
(最明寺川は猪名川支流)
兵庫県(北摂地域)宝塚市山本 最明寺滝の名は北条時頼(出家名「鎌倉最明寺時頼入道」)の
歴訪に由来(『摂津名所図会』豊嶋郡に最明寺滝と龍女洞の記事あり)
・最明寺滝の滝壺に牛の首を投げ込む  出典6
・滝のそばの龍女洞に馬の首を投げ込む 出典7
牛の首 武庫川上流にあるヒトモシ山 兵庫県(北摂地域)三田市下田中 出典1  牛の首をヒトモシ山の頂上で焼く
牛の首 武庫川上流にある権現山 兵庫県(北摂地域)三田市下青野 出典1 権現山の頂上にある御堂に牛の血を塗りつける。
牛の首
(伝承のみ)
箕面平尾の前池 大阪府(北摂地域)箕面市牧落・西小路・半町等 出典1 
牛の首
(伝承のみ)
豊中の神社にある岩 大阪府(北摂地域)豊中市長興寺 出典1 牛の首を切り、その血を神社の境内の岩に塗る。
牛の首
(伝承のみ)
千里南公園 牛ヶ首池 大阪府(北摂地域)吹田市津雲台1丁目 出典8
牛の首 夢前川上流にある
カメガツボの洞穴
兵庫県飾磨郡夢前町 出典1,2
赤牛の首 兵庫県加東郡の村々 出典2,9
牛(伝承のみ) 田村東の投牛山 奈良県添上郡 出典1,2 『大和志』添上郡の条に記載あり
牛(伝承のみ) 雨乞? 牛松山

雨乞かどうかは不明 京都府亀岡市の牛松山は、上代に牛を生贄とした祭を行っていたので
牛祭ヶ岳と呼ばれていたが、いつしか下が消えて牛松となった。出典12

牛(伝承のみ) 池ノ谷の洞穴 滋賀県伊香郡余吾町中之郷 人身御供の伝説があり 出典1
牛の首 庄川の牛尾谷
(牛鬼谷・牛屋谷)の滝
和歌山県西牟婁(にしむろ)郡白浜町(旧北富田村) 
牛の首を滝壺の棚の上に置く、別の伝承では滝壺に首を投げ込む。出典1,2,9
中 国 地 方(事例数2)
仔牛の首 矢淵の滝 広島県双三(ふたみ)郡八幡村 出典1,2,9
牛の首 上の滝 島根県邑智郡市山村小田 出典1
四 国 地 方(事例数3内伝承のみ2件)
牛の首
(伝承のみ)
牛首淵 徳島県三好郡池田町(旧大利村) 出典1 山伏の参加する雨乞の可能性あり
牛[牛沈め]
(伝承のみ)
牛鬼ヶ淵 高知県土佐郡土佐山村平石 出典1 伝承 投げ込んだ牛が竜の頭に当たり、竜が怒って雨を降らす。
牛の首 宇和町にある
神社の境内
愛媛県東宇和郡宇和町(旧東多田町) 出典1 神社の境内で牛を殺し、その血で境内を穢す。

出典
1『雨乞習俗の研究』 p400〜409 高谷重夫 法政大学出版局 1982年
2『牛と古代人の生活』p137〜139 佐伯有清 至文堂    1967年
3『伊丹市史』第6巻 p326     八木哲浩編 河北印刷    1970年
4『有馬郡誌』上巻 p573      山脇延吉編 中央印刷出版部 1974年
5『西宮市史』第2巻 p909     魚澄惣五郎編 内外印刷   1960年
6『伊丹台地の史話と昔ばなし 第2集』p215 阪上太三 あさひ高速印刷 2000年
7『郷土を知る 宝塚・史跡伝承の寺々』p87 川端道春 あさひ高速印刷 1994年
8インターネット「千里の水・牛ヶ首池」http://homepage.mac.com/ryomasuda/Saigoku/history/water/reservoir/Ushigakubi.html
9『増補 日本民俗学辞典』p67〜68 中山太郎 パルトス社 1998年
10『丹波志 桑田記』瀧・川の部 京都府立総合資料館蔵
  『新修 亀岡市史』資料編 第4巻 p613,p632『丹波志桑田記』亀岡市 1995年 
11『名塩史』p386 財団法人名塩会1990河北印刷
12『新修 亀岡市史』資料編 第4巻 p654『桑下漫録』 亀岡市 1995年

<表1の分析結果>
@牛馬犠牲の目的
 文献等から調査した牛馬の犠牲に関する事例は、亀岡市の牛松山を除いてすべて雨乞に関するものであった。
 祭祀の場所の件数の合計は33件で、内、実際に雨乞が確認できたものは21件であった。
A牛馬の犠牲の分布
 地域的には、北摂地方(武庫川および猪名川流域)に牛馬の供犠の集中が見られる。
 関東、北陸、九州地方はデータがなかったというより、調査が十分でない可能性が大きい。
 生きた牛馬を沈める事例としては、「牛沈め」として東北2件、中部4件、四国1件があった。生きた馬を沈める事例はなかった。
B牛馬の犠牲における牛と馬の比較
 雨乞の動物犠牲に関しては、牛が圧倒的に多く29件(内伝承のみ11件)、馬は少なく5件(内伝承のみ2件)である。
 馬5件の内、雨乞が実際に行われたと判断できるものは下記の3件であった。
  高座岩(兵庫県) 箕面滝(大阪府) 田代潟(秋田県)
 尚、田代潟(秋田県)の場合は、「馬や鶏の首」とあることから、馬が祭祀上不可欠なものではないと考えられる。
 江戸時代、この地域には羽州街道の駅馬がおかれ千頭の馬がいた記録がある。
 村民の雨乞いは牛が一般的であるが、馬が入手しやすいところでは馬も使われることがわかる。
 白馬の首の雨乞は高座岩と箕面滝にあり、伝承として亀岡市稗田野町佐伯の不動の滝がある。

表2 牛馬犠牲祭祀の分布表(参考:未調査の部分あり)
    場所の件数
( )は伝承のみ
牛の件数
( )は伝承のみ
馬の件数
( )は伝承のみ
東北地方  4 3  
中部地方 8(2) 8(2)
近畿地方 16(8) 13(7) 4(2)
中国地方
四国地方 3(2) 3(2)
合計 33(12) 29(11) 5(2)


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