イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版 2010年7月9日掲載
イワクラ(磐座)学会 会報19号掲載
キーワード 名山大川 祈雨 供犠 殺馬 室生龍穴 箕面大瀧 北山十二月谷
イワクラ学で解く室生龍穴の謎
古代「名山大川」祈雨祭祀の考察<室生龍穴ニ牲ヲ投ズ>
1 はじめに
私がこの研究を始めたきっかけは、次の一文を目にしたからである。
『日本紀略』延喜10年(910) 7月10日条「日来炎旱。詔諸國神社山川奉幣投牲。」
延喜式祈雨神祭八十五座が確立しつつあり、血穢の観念が世を覆っている時代に、皇極紀の供犠をともなう雨乞いが詔により復活したことは驚きである。
一般的な見解としては、これを例外的なもの見なすものがほとんどであった。
しかし、昭和の戦前まで行われた牛馬を供犠とする雨乞いが各地に残されているのを知るに及んで、これは深い根を持つのではないかと考えたのである。
それにはまず、「山川」の意味を明らかにすることから始める必要があるだろう。
六国史等の祈雨記事には、使者を遣わして「名山大川」に雨を祈らせる祭祀がしばしば登場する。これについて、現在のところ次のように解釈が割れている。
@「名山大川」祈雨祭祀は、実態を持たないとする解釈(否定派)
「名山大川」の語句は、各史書の編者が祈雨記事を構成する際に古代中国の表現を借用した単なる修飾語であり、内容的には神社で祈ることを指すものである。(三宅和朗1995)(古瀬奈津子1999)(籔元晶
2002 @)
A「名山大川」祈雨祭祀は、実態と持つとする解釈(肯定派)
「名山大川」が具体的にどのような山と川をいうかは明らかではないが、大和国の場合は、臨時祭式に祈雨神として記されている諸社のうちの「山口」とする巨勢・賀茂・当麻・大坂・胆駒・石村・耳成・養父・都祁・長谷・忍坂・飛鳥・畝火・吉野などの諸山および「水分(みくまり)」とする葛木・都祁・宇陀・吉野などの水源の可能性が考えられる。(青木和夫 稲岡耕二 笹山晴生 白藤礼幸1989)
B「名山大川」祈雨祭祀は、ある時期まで実態と持つとする解釈(条件付肯定派)
諸国庁の地図において具体的な「名山大川」が存在していたことと、仏教においても具体的な「名山」が尊ばれていたこととを考えれば、9世紀前半までは名山大川の祭紀が修飾語としてのみ存在していたとする指摘には疑問が残る。それ以降は「名山大川=神社」と考えられる。(小林宣彦2005)
「名山大川」の字句を、六国史それぞれの性格を考慮しつつ対比させて見いだされる差異によって分類すると、具体的な祈願対象を意味するのは養老律令が施行される天平宝字元年(757)までである。それ以降は諸社に掛かる代名詞であり尊称として機能するものであることが指摘される。(村瀬友洋2009)
上記の解釈を概括すると、「名山大川」祈雨祭祀が実態を持つとする解釈と持たないとする解釈はほぼ互角である。しかし、実態を持つとする論文においても、文献解釈の域に留まっていて「名山大川」の霊場の実景からのアプローチはなされていない。
本論文は従来の論文のかかる欠落を補正し、律令国家の宗教政策を基底とした出雲・大船山、飛鳥・南淵、飛鳥・酒船石遺跡、室生龍穴の諸事例の文献的、考古的、民俗的な検討から、「名山大川」祈雨祭祀の代表事例が室生龍穴であることを示すことにより肯定派の解釈を明らかにするものである。
2 祈雨祭祀に関する律令国家の宗教政策の流れ
文献記事は「名山大川」が登場する時代を中心にその前後を含めて三期に分けて検討する。ここで取り上げた各時代の特徴を端的に示すと次のようになる。
T期(表1) 推古15年(607)〜持統4年(690) 「名山大川」が登場する前で、自然崇拝の土壌に社寺が創建されてゆく時代
U期(表2) 持統6年(692)〜天平19年(747) 自然崇拝(「名山大川」)と社寺が共存していた時代
V期(表3) 天平宝字7年(763)〜延長5年(927) 神社が延喜式に集約されてゆく中で、「名山大川」の表現が消えてゆく時代
「名山大川」に代わり、「室生龍穴」が自然崇拝の霊地の代表となる時代。
T期 表1は「名山大川」が登場する以前の、推古天皇から始まる祈雨祭祀に関する文献記事の年表である。祈雨記事はできるだけ多く掲載した。
表1 祈雨祭祀に関する文献記事の年表 T期 推古15年(607)〜持統4年(690) | ||
年 月 日 | 記 事 | 出典 |
推古15年(607)2月9日 | (詔)周く山川を祠る。 | 日本書紀 |
推古33年(625) | 天下旱魃。以高麗僧恵灌。令着青衣講読三論。 | 扶桑略記 |
皇極元年(642) 7月25日 | 随村々祝部所教。或殺牛馬祭諸社神。或頻移市。或祷河伯。既無所効。 蘇我大臣報曰。可於寺寺轉讀大乘經典。悔過如佛所訟。敬而祈雨。 |
日本書紀 |
皇極元年(642) 7月27日 | 於大寺南庭嚴佛菩薩像與四天王像。屈請衆僧。讀大雲經等。 蘇我大臣手執香鑪。燒香發願。 |
日本書紀 |
皇極元年(642) 8月1日 | 天皇幸南淵河上。跪拜四方。仰天而祈。即雷大雨。遂雨五日。溥潤天下。 | 日本書紀 |
天武5年(676)6月是夏 | 遣使四方捧幣帛祈諸神祗。諸僧尼祈三宝。 | 日本書紀 |
天武5年(676)8月16日 | (詔)四方に大解除、祓柱は馬1匹。 | 日本書紀 |
天武6年(677)5月是月 | 於京及畿内雨乞之 | 日本書紀 |
天武8年(679)6月23日 | 雨乞 | 日本書紀 |
天武8年(679)7月6日 | 雨乞 | 日本書紀 |
天武9年(680)7月5日 | 是日、雨乞之 | 日本書紀 |
天武10年(681) 6月17日 | 雨乞之 | 日本書紀 |
天武12年(683) 7月15日 | 雨乞之 | 日本書紀 |
天武12年(683) 7〜8月 | 百済僧道蔵、雨乞之得雨。 | 日本書紀 |
天武13年(684)6月4日 | 雨乞之 | 日本書紀 |
朱鳥元年(686)6月12日 | 雨乞之 | 日本書紀 |
持統2年(688)7月11日 | 大雨乞 | 日本書紀 |
持統2年(688)7月20日 | 命百済沙門道蔵請雨 | 日本書紀 |
雨乞いに関して山川に祈る記事は、『日本書紀』持統6年(692)5月条が初見であるが、山川に祈ること自体はさらに古く『日本書紀』推古15年(607)2月条の詔のなかにもある。
「朕聞くむかし我が皇祖(みおやの)天皇等の世を宰(おさ)めたまえること、天に蹄(せぐくま)り地に蹐(ぬきあし)して、敦(あつ)く神祗を禮(うやま)ひ、周(あまね)く山川(やまかわ)を祠(まつ)り、幽(はるか)に乾坤(あめつち)に通はす。」
これを、先に述べた皇極元年(642) 7月条の南渕の雨乞いと対比させれば「山川に祈る」ことが神社に奉幣することの単なる修飾語でないことがわかるであろう。
ただ、表1においては皇極元年の異常に詳しい記述をのぞけば、雨乞いをしたというだけでその詳細な記述はない。
推古から持統天皇の間は、雨乞いの記録自体が少ない上、「名山大川」や社寺の記載がない。当時、おそらく地名もはっきりとわからない自然のふところに抱かれた岩、岩窟、瀧、泉等での祭祀が多かったのであろう。とすれば、「名山大川」の用語がでてこないにしても、内容は「名山大川」そのものと想定される。
雨乞いおける社寺の影響は、都城や郡衙は別として総体としては揺籃期の段階で弱かったと思われる。
U期 表2は「名山大川」の表現が現れてから、実質上消えるまでの祈雨祭祀に関する文献記事の年表である。祈雨記事はできるだけ多く掲載した。
この間に現れる「名山大川」は類似の表現ものも含めて13件である。
表2 祈雨祭祀に関する文献記事の年表 U期 持統6年(692)〜天平19年(747) | ||
年 月 日 | 記 事 | 出典 |
持統6年(692) 5月17日 | 遣大夫謁者、祠名山岳涜請雨(初見) | 日本書紀 |
持統6年(692) 6月9日 | 勅郡國長吏、各祷名山岳涜 | 日本書紀 |
持統6年(692) 6月11日 | 遣大夫謁者、詣四畿内請雨 | 日本書紀 |
持統7年(693) 4月17日 | 遣大夫謁者、詣諸社祈雨 | 日本書紀 |
持統7年(693) 7月14日 | 遣大夫謁者、詣諸社請雨 | 日本書紀 |
持統7年(693) 7月16日 | 遣大夫謁者、詣諸社請雨 | 日本書紀 |
持統9年(695) 6月3日 | 遣大夫謁者、詣京師及四畿内諸社請雨 | 日本書紀 |
持統11年(697) 5月8日 | 遣大夫謁者、詣諸社請雨 | 日本書紀 |
持統11年(697) 6月癸卯 | 遣大夫謁者、詣諸社請雨 | 日本書紀 |
文武2年(698) 4月29日 | 奉馬于芳野水分峰神。祈雨也。(馬を神社?に奉献した初見) | 続日本紀 |
文武2年(698) 5月1日 | 奉幣帛于諸社 | 続日本紀 |
文武2年(698) 5月5日 | 遣使于京畿、祈雨於名山大川 | 続日本紀 |
文武2年(698) 6月28日 | 奉馬于諸社、祈雨也。 | 続日本紀 |
大宝元年(701)4月15日 | 奉幣帛于諸社、祈雨于名山大川(諸社・名山大川コンビの初見) | 続日本紀 |
大宝元年(701)6月25日 | 令四畿内祈雨 | 続日本紀 |
大宝2年(702)7月8日 | 在山背国乙訓郡火雷神。毎旱祈雨。 | 続日本紀 |
大宝3年(703)7月17日 | 遣使祈雨于名山大川 | 続日本紀 |
慶雲元年(704)6月22日 | 奉幣祈雨于諸社 | 続日本紀 |
慶雲元年(704)7月9日 | 遣使祈雨於諸社 | 続日本紀 |
慶雲2年(705)6月27日 | 奉幣帛于諸社 | 続日本紀 |
慶雲2年(705)6月28日 | 遣京畿内浄行僧等祈雨、及罷出市廛、閉塞南門。 (皇極期 頻移市と同様) |
続日本紀 |
慶雲3年(706)6月4日 | 令京畿祈雨于名山大川 | 続日本紀 |
和銅2年(709)6月17日 | 遣使雨乞于畿内 | 続日本紀 |
和銅3年(710)4月22日 | 奉幣帛于諸社、祈雨于名山大川 | 続日本紀 |
和銅7年(714)6月23日 | 幣帛奉諸社、祈雨于名山大川 | 続日本紀 |
霊亀元年(715)6月13日 | 遣使奉幣帛于諸社、祈雨于名山大川 | 続日本紀 |
養老元年(717)4月17日 | 祈雨于畿内 | 続日本紀 |
養老2年(718) | 養老律令 制定 | 類聚三代格 |
養老6年(722)7月7日 | 奉幣名山、奠祭(てんさい)神祗 | 続日本紀 |
天平4年(732)5月23日 | 遣使者于五畿内祈雨 | 続日本紀 |
天平4年(732)6月28日 | 雖数雨乞祭。遂不得雨。 | 続日本紀 |
天平4年(732)7月5日 | 令両京・四畿内及二監、依内典法、以請雨。令京及諸国、 天神地祗名山大川、自致幣帛 |
続日本紀 |
天平9年(737)5月19日 | 祈祷山川、奠祭神祗 | 続日本紀 |
天平15年(743)5月3日 | 奉幣帛于畿内諸神社祈雨 | 続日本紀 |
天平17年(745)5月8日 | 奉幣諸国神社祈雨 | 続日本紀 |
天平17年(745)7月5日 | 遣使祈雨 | 続日本紀 |
天平18年(746)7月1日 | 遣使於畿内祈雨 | 続日本紀 |
天平19年(747) 6月15日 | 於羅城門雨乞 | 続日本紀 |
天平19年(747) 7月7日 | 奉幣帛名山、祈雨諸社 | 続日本紀 |
(この後、次の「名山大川」祈雨祭祀の記事の登場は、90年後となる) |
持統から聖武天皇の間は、「名山大川」祈雨祭祀が、歴代の天皇により途切れることなく実施されている。「名山大川」の記事は13件に対し、諸社(神社)の文字がはいった記事は18件である。「名山大川」は、自然崇拝を基調とした神々と勃興しつつある社寺が並存した時代において、神社や寺院の外にある畿内を中心とした自然崇拝の霊地を示すものとして用いられた。
ここでの特徴は諸社とあるだけで神社の具体名が一切記述されていないことである。このことは、祈雨に際して突出した神社がなく、序列化が進んでないことを示している。ただ神名は、文武2年(698) 4月条 芳野水分峰神、大宝2年(702)7月条 火雷神の2例のみがある。
これと同様に、諸社と対比される「名山大川」においても具体的な地名が一切記述されていない。
また、養老律令の制定(718)の前後において「名山大川」に掛かる字句が「祈」から「奉幣」に変わっていることから、祈願方法が変化したとの説(村瀬2009)があるが、天平9年(737)5月条に「祈祷山川」の例もあり疑問が残る。単に表記上の変化ととらえた方が自然である。
V期 表3は「名山大川」の表現が実質上消えてから延喜式が成立するまでの祈雨祭祀に関する文献記事の年表である。なお祈雨記事は多数あるためポイントのみ掲載した。
淳仁から醍醐天皇の間は、「名山大川」の記事は163年間にわずか5件で散発的に登場する。実質的には、「名山大川」の表現は消えたといっても良いであろう。
10世紀の祈雨祭祀の記事をまとめた史料(三宅和朗1987)においては、「名山大川」にかかわる記事は延喜10年(910) 7月10日条が唯一のものであった。
表3 祈雨祭祀に関する文献記事の年表 V期 天平宝字7年(763)〜延長5年(927) | ||
年 月 日 | 記 事 | 出典 |
天平宝字元年(757) 5月 | 養老律令 施行 | 続日本紀 |
天平宝字7年(763)5月28日 | 雨乞いのため丹生河上神社に黒毛馬を奉献 (延喜式では、止雨の時は白毛馬を奉献) |
続日本紀 |
宝亀7年(776) 6月18日 | 大祓京師及畿内諸国。奉黒毛馬丹生川上神。 | 続日本紀 |
宝亀年間 [続日本紀宝亀9年(778) 3月?] |
東宮聖躰不予之時。請浄行僧五人。 於彼山中。令修延寿法。(室生山初見?) |
室生山 年分度者奏状 |
天応元年(781) | 室生龍穴(初見? 日本紀略より37年早い) | |
延暦7年(788)4月16日 | 桓武天皇「出庭親祈、天闇雲合、雨降滂沱」 | 続日本紀 |
延暦7年(788)5月2日 | 伊勢神宮及七道名神(伊勢神宮初見) | 続日本紀 |
大同4年(809)5月25日 | 雨を止めるため松尾、鴨御祖、鴨別雷等社 にて祈る(神社の集団記載の初見) |
日本紀略 |
大同4年(809)7月3日 | 遣使於吉野山陵。掃除併読経。(山陵の初見) | 日本紀略 |
弘仁8年(817)6月2日 | 遣律帥傳燈大法師修圓於室生山祈雨。 | 日本紀略 |
弘仁9年(818)4月22日 | 奉幣伊勢大神宮、又令下諸大寺及畿内諸寺山林禅場、転経礼仏。(諸大寺の初見) | 日本紀略 |
弘仁9年(818)7月14日 | 遣使山城貴布祢神社。大和國室生山上龍穴等処。 祈雨也。(日本紀略での龍穴の初見) |
日本紀略 |
弘仁10年(819) 6月9日 | 貴布祢神社に霖雨を止めるために白馬を奉献 (貴布祢神社の初見) |
日本紀略 |
天長4年(827)5月21日 | 於大極殿転読大般若経(大極殿の初見) | 日本紀略 |
承和4年(837)6月28日 | 遣使山城大和等、奉幣名山以祈甘雨 | 続日本後紀 |
承和6年(839)6月16日 | 宣請七大寺僧於東大寺。令称讃龍自在王如来名号。 (東大寺の初見) |
続日本後紀 |
承和7年(840)6月9日 | 奉幣於貴布祢丹生川上雨師諸社、 祈霈沢(はいたく)於名山大川 |
続日本後紀 |
(この後、次の「名山大川」祈雨祭祀の記事の登場は、31年後となる) | ||
貞観元年(859)9月4日 | 祈雨神祭八十五座の前身山城国6神社 | 三代実録 |
分頭遣使。奉幣賀茂御祖。別雷。松尾。貴布祢。乙訓。稲荷等神社。祈止霖雨也。 | ||
貞観元年(859)9月8日 | 祈雨神祭八十五座の前身45神社 | 三代実録 |
山城国 月読神。木島神。羽束志神。水主神。樺井神。和岐神。大和国 大和神。石上神。 大神神。一言主神。片岡神。広瀬神。竜田神。巨勢山口神。葛木水分神。賀茂山口神。 当麻山口神。大坂山口神。胆駒山口神。石村山口神。耳成山口神。養父山口神。 都祁山口神。都祁水分神。長谷山口神。忍坂山口神。宇陀水分神。飛鳥神。飛鳥山口神。 畝火山口神。吉野山口神。吉野水分神。丹生川上神。河内国 枚岡神。恩智神。 和泉国 大鳥神。摂津国 住吉神。大依羅神。難波大社神。広田神。生田神。長田神。 新屋神。垂水神。名次神等遣使奉幣。為風雨祈焉。 |
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貞観9年(867)8月16日 | 大和國従五位下室生龍穴神正五位下 | 三代実録 |
貞観13年(871)6月13日 | 班幣境内名山大沢諸神 | 三代実録 |
貞観17年(875)6月15日 | 十五僧於神泉苑。修大雲輪請雨経法。 (東密による修法)(神泉苑の初見) |
三代実録 |
元慶2年(878)6月3日 | 名山大川、賀茂御祖、別雷、松尾・・・ | 三代実録 |
自去月至此。亢陽不雨。名山大川能興雲致雨。並班幣祈雨。賀茂御祖。別雷。松尾。 稲荷。貴布祢。丹生川上。乙訓。水主八社是也。丹生川上加奉黒馬一疋。 (この後、次の「名山大川」祈雨祭祀の記事の登場は、32年後となる) |
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昌泰元年(898)5月1日 | 祈甘雨。於七社。以名僧令読金剛般若経 (神社で読経の初見) |
扶桑略記 |
延喜2年(902) 6月17日 | 祈雨山陵使。五龍祭。於十社読経。 於十五大寺。延暦寺読経。(五龍祭の初見) |
日本紀略 |
祈雨・・山陵使。陰陽寮・・・五龍祭・・・ 其地鳴瀧北十二月谷口。(五龍祭の初見) |
扶桑略記 | |
延喜10年(910) 7月10日 | 日来炎旱。詔諸國神社山川奉幣投牲。 「名山大川」に関する最後の記述? |
日本紀略 |
延喜10年(910) 7月12日 | 神竜徳蓄吐雲之勢・・・伏願、不嫌精誠降雨一天下之間、旱畝更蘖、枯薗再茂、 | 室生山 年分度者奏状 |
延喜10年(910) 7月16日 | 雨快降。依雨乞於龍穴也。 | 日本紀略 |
延喜10年(910) 8月23日 | 授大和國龍穴神従四位下 | 日本紀略 |
延喜17年(917)7月12日 | 奉幣龍穴。御読経。雨降。 | 扶桑略記 |
延喜17年(917)12月26日 | 召祭主大中臣安則於神祗官 令祈申伊勢以下諸社(神祗官[官庁]の初見) |
日本紀略 |
延喜19年(919)6月28日 | 祈雨奉幣龍穴社。神泉苑修請雨経法 | 扶桑略記 |
延長5年(927)12月26日 | 祈雨神祭八十五座の成立 | 延喜式 |
天暦2年(948)5月11日 | 遣使於五陵。祈雨。并律師空晴率十口僧。 於龍穴。修読経。 |
日本紀略 |
天暦2年(948)6月3日 | 定十一社併龍穴神等遣僧綱以下 | 日本紀略 |
天暦2年(948)6月5日 | 於諸社龍穴東大寺。転読仁王経祈甘雨也。 | 日本紀略 |
天徳4年(960)7月19日 | 祈雨龍穴読経 | 日本紀略 |
応和元年(961)6月17日 | 龍穴御読経 | 祈雨日記 |
応和元年(961)8月14日 | 授大和國坐従四位下室生龍穴神正四位下 | 日本紀略 |
表3の特徴的な傾向として、表2では諸社とのみ表記のあったものが、丹生川上社、貴布祢社を初めとして、神社名が続々と登場することである。
この中には「名山大川」の霊地から神社化したものも多数含まれていると考えられる。貴布祢神社の原初といわれる貴船山中腹の水神が降臨したとされる鏡岩(磐座)などもその一例と考えられる。おそらく、地方的な祈雨の霊場が平安遷都によって神社化されたのであろう。また一部は寺院に取り込まれたものもあるだろう。
そして、神社名がグループとして現れる。
これらは、延喜式 祈雨神祭八十五座に向けた流れと見なすことができる。
表3の貞観元年(859)9月4日条は神社名であり、9月8日条の神名も神社名と見なせるので、神社数は計51社となる。延喜式 祈雨神祭八十五座の神社数は52社である。
両者を比較すると、貞観元年の神社リストで祈雨神祭八十五座の神社に入ってないものは、月読社のみである。そして貞観元年の神社リストから月読社を除き、太社と胆駒社を加えたものが祈雨神祭八十五座の神社リストとなる。
つまり、貞観元年に祈雨神祭八十五座が実質的に成立していたと見なすことができる。
これと同様に、「名山大川」においても具体的な地名が登場する。
その一つが、後に詳述する五龍祭の行われた北山十二月谷口である。
そして、次に挙げられるのが代表事例としてのが室生龍穴である。室生龍穴は仏教の影響を強く受けながらも、古来の霊地の面目を保ち得た好事例と言えよう。
『室生寺史の研究』の中で、逵日出典(ツジヒデノリ)氏は次のように推論している。
「古く水神信仰を中心に、室生は古代信仰の聖域として重要な位置にあったことだけは確かであろう。『日本書紀』の各所に散見する「名山大川」に雨乞うたというのは、まさにこのような所であっただろう」(逵日出典1979@)
室生龍穴のある室生山は、『日本紀略』弘仁8年(817)6月2日条に「遣律帥傳燈大法師修圓於室生山祈雨」とある。この中に登場する修円は大僧都にまで昇進した興福寺の僧であるが、当時の仏教界にあっては空海・最澄にも並ぶ人物であった。 室生山が選ばれた理由は、おそらく以前からの「岩穴」を中心する祈雨の霊場としての室生の位置が広く認められていたためと思われる。ただし、国史に登場するのはこの時が初めてであるので、それについては修円による朝廷への何らかのアピールがあったのかもしれない。(籔元晶
2002A)
これに関して鎌倉時代初期に書かれた『古事談』巻5の24には興味深い話が載せられている。(川端善明、荒木治2005) 「室生の龍穴にすむ善達龍王は、元々、興福寺の猿沢池にいたが、釆女の入水自殺を嫌って春日山の南にある香山(こうぜん)の地に移り住んだ。そこにも死体が捨てられるようになって、室生の龍穴に移った…」というものである。 私は、これをより強力な龍王を求めるための興福寺系祈雨祭場の移転を示唆するものと見たい。 天平勝宝8年(756)に東大寺の寺域を定めた「東大寺山堺四至図」(図1)には、東の春日山中に「香山堂」と記入された堂があり、そのすぐ東南に四角の図形が描かれ「井」とある。そしてこの「井」から能登川に向かって水が流れ出している様が描かれている。 その「井」のある場所が、延喜式内社の鳴雷(なるいかずち)神社の龍王池に相当するため、『古事談』で龍が移り住んだ「香山の地」とされている。(大東延和1982) |
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図1 「東大寺山堺四至図」(部分)(吉川真治司1996) |
龍王池は、山蛭の生息する林に囲まれた直径8.5mの円形の池である。(図2) 古代の霊地は地理的な要素によって決まっている場合が多い。 この地点は、平城京の田畑を潤す佐保川、能登川の水源にあたる山の頂であり、そこにある神秘的な池は天水分神(あめのみくまりのかみ)の鎮座するところである。 池はその後、仏教の進出に伴って「香山堂」の閼伽井(あかい)となり、『三代実録』貞観元年(859)7月5日条にて官社となる。貞観元年は延喜式祈雨神祭八十五座に向けて祈雨社の組織化が急速に進んだ時期である。(表3参照) この神社成立前の、いや仏教進出前の祈雨の祭場となった池こそ、名山大川の事例ではないだろうか。 |
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図2 鳴雷神社の龍王池(HP1) |
このような視点から見れば、多くの水分神や山口神を祀っている神社の前身がその範疇に入るであろう。
祈雨が盛んになるに従って、修円は国家的祈雨にふさわしい祭場として香山のかわりに室生の地を求めたと考えられる。つまり室生の龍は都よりもたらされたものである。
以後、室生龍穴は「名山大川」のグループの代名詞として使われるようになる。
この理由としては、「名山大川」が中国の巨大な山河(注1)を対象としたものであり、我が国の実情に合わないことを見直す傾向があったのではないだろうか。
(注1)「名山大川」(五岳四涜) 魏書禮志、唐祠令等に記載された古代祭祀の対象となった山や川
・五岳 (ごがく) 東岳 泰山、西岳 華山、南岳 衡山、北岳 恒山、中岳 嵩山の五つの山を言う。
・四涜(しとく) 淮水(東)・河水(西)・江水(南)・済水(北)の四つの川を言う。なお、江水は今日の長江(揚子江)、河水は黄河、淮水は淮河。
済水は王屋山(河南省済源県)に発して、昔は黄河と平行して東流していた川。今は黄河の一支流となっている。
また、「名山大川」の具体的な地名として室生龍穴以外出てこないのは、寺院における祈雨において、東大寺以外の寺院名がほとんど出てこないのと同じ理由と考えられる。
延暦寺、興福寺、七大寺、十三大寺、十五大寺の記述はあるが、具体的な寺院名の記述の頻度は神社名と比較して圧倒的に少ない。これは、延喜式祈雨神祭八十五座の成立過程を記述することに力点を置いた国史の編纂によるものと考えられる。
例えば、後にのべる酒船石(さかふねいし)遺跡は、『日本書紀』の斉明天皇の時代に作られた祭祀遺跡で、その後平安時代(10世紀初頭)まで約250年間使用されたと推測されているが、これが国史に登場したことはない。
つまり、「名山大川」の細かな霊地などは、国史に記載する必要性を感じなかったのであろう。そして、「名山大川」の代表として「室生龍穴等」のような表現のみを残したのであろう。
延喜式成立後の『日本紀略』天暦2年(948)6月3日条には祈雨の場所として「十一社ならびに龍穴神等」、続く6月5日条には「於諸社龍穴東大寺」の表現がある。
最初の龍穴神等は、十一社とは別のグループの存在を示唆している。
つまり、室生龍穴は、神社ではなく、もちろん寺でもなく、第3のグループ、即ち「名山大川」に属する霊地の代表であったことが推定される。
即ち、祈雨祭祀は次の3グループに分類される。
・神社(含む山陵)を中心とするグループ
・寺院(含む大極殿、神泉苑)を中心とするグループ
・自然崇拝の霊地(室生龍穴、北山十二月谷口等)を中心とする「名山大川」のグループ
この時期の「名山大川」が、神社奉幣の修飾語にすぎないとする根拠として『三代実録』元慶2年(878)6月3日条の「自去月至此。亢陽不雨。名山大川能興雲致雨。並班幣祈雨。賀茂御祖。別雷。松尾。稲荷。貴布祢。丹生川上。乙訓。水主八社是也。」がしばしば取り上げられる。「名山大川のよく雲をおこし雨を致すものに並びて幣をわかち雨を祈る。賀茂御祖・・・水主の八社これなり。」
しかし、「名山大川」と「賀茂御祖。・・・水主。」は、「並班幣」とあることから、並記の関係であり相互に独立しているとも解釈できる。
この時代は、律令政府の宗教政策により、自然崇拝は社寺に取り込まれてゆくが、すべて消え去ることはなかった。それらは民衆の信仰の対象であり続けたし、官においても社寺の祈雨で験なき時の頼みの綱であった。
3「名山大川」祈雨祭祀の存在の可能性
「名山大川」が、神社や寺院以外の霊地を指すものとすれば、そこがどこかが問題となる。考古学的な祭祀遺物がある場合は比較的簡単であるが、無い場合は文献考証と民俗伝承により推量するしかない。
『続日本紀』天平17年(745)9月19日条に「令京師畿内諸寺及諸名山浄処行薬師悔過(けか)之法。奉幣祈祷賀茂松尾等神社。」、また『日本紀略』弘仁9年(818)4月22日条に「奉幣伊勢大神宮。又令諸大寺及畿内諸寺山林禅場等転経礼仏。祈雨也。」とある。
また、『続日本紀』大宝元年(701)4月15日条に「奉幣帛于諸社。祈雨于名山大川。」とある。ここで于(ウ)は、『続日本紀』文武2年(698)5月5日条に「遣使于京畿。祈雨於名山大川。」とあることから、「於(おいて)」と同義であり場所を示すものである。
(小林宣彦2005)は、次のように述べている。
日本の仏教では、中国仏教における歴山の影響を受けて山林修行が重視されており、修行の場としての名山を歴択することが行なわれ、「名山記」(注2)なるものが存在していた。山林での修行の場として、僧たちは諸国の名山を巡っていたのであり、山林修行の場としての名山は当然具体的な山を指していた。
(注2)『続日本後紀』承和13年(846)8月17日条「名山記」
さらに『三代実録』元慶2年(878)2月13日条には「脚歴名山」や「七高山」の表記も見える。「七高山」とは比叡山・比良山・伊吹山・愛宕山・神峰山・葛城山・金峰山のことである。神峰山(かぶさん)は、大阪府高槻市にある山である。
いずれも畿内を中心とした古くからの信仰の山である。
「諸名山浄処」や「山林禅場」は、「薬師悔過」や「転経礼仏」とあることから、仏教的な霊地と考えられる。これに対して、「名山大川」は、『続日本紀』養老6年(722)7月7日条に「奉幣名山。奠祭(てんさい)神祗」とあることから、一応神祗的な霊地と考えられるが元々は土俗的なものである。律令政府は、こうしたものも自らの祭祀体系に組み入れて行ったのである。『続日本紀』天平元年(729)8月5日条「諸国天神地祗者、宜令長官致祭、若有限外応祭山川者、聴祭」とある。
仏教的な霊地のほとんどは、古くからの霊地に仏教が後から進出してきたものであることから、「名山大川」は仏教的な霊地も包含するものと考えられる。
具体的には岩(磐座)、岩窟、瀧、泉等の自然の懐に抱かれた場所であろう。
以下にその候補事例を挙げる。
(1)出雲 大船山(島根県平田市多久町)
『出雲国風土記』楯縫郡には、雨を神名樋山の石神に祈る次の記述がある。
神名樋山。郡家の東北六里一百六十歩、高さ一百二十丈五尺、周り二十一里一百八十歩あり。蒐(いただき)の西に石神あり。高さ一丈、周り一丈、径の側に小石神百余許あり。古老の伝へに云へらく、阿遅須枳高日子命の后、天御梶日女命、多宮村に来坐して、多伎都比古命を産み給ひき。その時、教し詔りたまひしく、「汝が命の御祖の向位に生まむと欲りするに、此処ぞ宜き」とのりたまひき。謂はゆる石神は、即ち是れ多伎都比古命の御魂なり。旱に当ひて雨を乞ふ時は、必ず零らしめたまふ。(加藤義成1987)
図3 大船山の烏帽子岩(HP2) | 図4 ながなめらの瀧(HP3) |
(注)長滑ら(ながなめら)の瀧
滑瀧(なめたき)は、水流が流れる岩盤を登山用語で滑(なめ)、あるいは滑床(なめとこ)と呼ぶ。
滑瀧はこの「なめ」が瀧のような傾斜を持ったものをいう。
従って、「ながなめら」とは、図4に示すように長い岩の傾斜を持った瀧を指すものであろう。
〔参究〕
石神は石に神霊を止めている神。自然石や人工を加えた石棒を神として祀ったもので、シャクジンともいい、飯石郡琴引山の条にも見えて、諸国にも多かった。
この石神は、その位置大きさからみて、大船山の西斜面の小支峰の九合目辺りに、石碑のように直立している烏帽子岩(図3)がそれであると考えられる。
石英粗面岩で高さ3m余、周8m余、その周囲登山路の左右40m余の一帯に径1〜2mの百余の大小岩塊がある。ただ石の周囲の尺度は「三丈」の誤写と思われる。
多伎都比古命の多伎は瀧に通じて水のたぎる意。都はのに通ずる助詞であるから、水のたぎり流れる瀧や早瀬の神で、古事記に見える宗像三神中の多伎津比売命と同格神である。水の神であるから旱天に雨を降らせる神として祀ったのである。
この烏帽子岩の下方には「長滑ら(ながなめら)の瀧」(図4)という瀧があって旱天にも涸れたことがなく、この谷を長滑らの谷、麓近くを水谷尻といっているのは、いかにもこの伝承にふさわしい。(加藤義成1987)
考古学的には、これまでに大船山の三カ所で古墳時代の土器が採集されている。
第一地点は、大船山西側斜面、多久川支流の小渓流の中ほど標高約100mのところにある急斜面にある小さな瀧とその周辺である。瀧は落差2.5mほどの小規模なもので前面に祭壇のような遺構は認められないが、土師器の破片が瀧壷からややはずれた小さな崖下で採集されている。古墳時代中期後半から後期初頭と考えられている。
第二地点は、大船山北西側の中腹で通称「岩船」と呼ばれる巨岩の周辺である。第一地点同様に祭壇のような遺構は認められていない。高さ3.5mほどの岩がつくる岩蔭の三カ所で古墳時代前期と推定される土器が採集されている。
第三地点は、多久川の最上流部にある「烏帽子岩」の直下の10mほどのそそり立つ崖面の下で、近くには第一地点同様に小さな瀧がある。手の加わった遺構らしきものは全く見当らない自然地形とみられる場所で、土師器の小片が採集されている。古墳時代後期のものと考えられている。
鎮座する「多伎都比古命」が瀧に関係する神であるとすれば、第一地点・第三地点のように瀧の周辺で見つかったこれらの遺跡は、水に関わる祭祀を行っていたと考えら
れよう。これらから、神奈備山にまつわる水霊信仰の始源が古墳時代前期にほすでに存在していたことがうかがえる。(宮澤明久1995)
現在も島根県平田市多久谷町の宿努(すくぬ)社寺の裏にある通称「虹の瀧」には多伎都比古命が祀られている。宿努社は、『出雲国風土記』楯縫郡に登場する神社である。
尚、楯縫郡の神名樋山として大船山(321m)の他にその東方の大渋山(別名:一畑山327m)とする説がある。(平泉澄1953)
また、出雲市多久町にある式内多久神社は北東に大船山を望み、明治までは大船大明神と呼ばれていた。阿遅須枳高日子命の后である天御梶姫命が、多伎都彦命を産んだところとして知られている。
いずれにせよ、ここではかかる伝承が残り、考古学な裏づけのある石神祭祀が存在したことが重要である。
(2)飛鳥 南淵(奈良県明日香村稲淵)
日本書紀の皇極元年8月条には、天皇が南淵の河上にて雨を祈った様が記されている。南淵とは、現在の奈良県明日香村稲淵の地とされており、その河上とは、飛鳥川の上流にある式内社飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社とする説がある。(小島憲之
1994)
他には、「南淵山」とする説(『大和名所記』)もあるが、神社の近傍でありあまり問題とはならないであろう。
神社は、飛鳥川の上流右岸の東方より西方に突出した丘陵の中腹に鎮座する。 御神体は拝殿奥の神山であって、三輪山の大神神社と同様に、原始の山岳崇拝の姿を今に伝えている。(秋山日出雄1982) 拝殿奥の神山に、大船山の烏帽子岩のような磐座があるのかも知れない。 この神社は『類聚三代格』貞観16年(874)6月28日の太政官付には「臼瀧」と記されている。(黒板勝美1965) 「臼」は、「宇須(うす)」であり、『古事記』「仲哀天皇の酒楽の歌」の中にもその用例がある。三輪山の山の神祭祀遺跡の磐座から土製模造品の臼と杵が発掘されたことから、農耕神の性格を有するものであろう。 また、「瀧」は多伎比売の「多伎」であり、前述の通りである。 このように出雲と大和で同名の神が、水神として祀られていることは驚きである。 |
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図5 式内社 飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社 |
(3)飛鳥 酒船石遺跡(奈良県明日香村岡)
酒船石(さかふねいし)遺跡は、『日本書紀』の斉明天皇の時代に記述された工事に該当する遺跡と推測されている。平成4年(1992年)に酒船石の北の斜面で石垣が発見され、「宮の東の山に石を累ねて垣とす。」の「宮」が酒船石の南西にある伝飛鳥板蓋宮跡であり「東の山」が酒船石のある丘にあたるとされる。
その後平成12年(2000年)に大規模な発掘が行われ、砂岩でできた湧水設備とそれに続く形で小判形石造物と亀形石造物が発見された。これら2つは水槽になっており水を溜めたと推定される。さらにそれに続いて石を並べた溝や石段があり、全体を囲むように石垣や石敷がある。
亀形石造物は花崗岩で作られており全長約2.4m、幅約2mで頭や尻尾、足が造形されている。甲羅部分が直径1.25m、深さ20cmでくりぬかれ鉢状になっている。頭の部分の穴から水が流れ込み尻尾の穴から流れ出したと見られる。尻尾に栓をすることで水を溜めることもできる。小判形石造物は長さ1.65m、幅1mで、深さ20cmで同じく水が貯められるようになっており、排水口は亀の頭に繋がっている。南北溝の延長線上の南75mの丘陵上に「岡の酒船石」がある。 斉明期に最初に造られその後平安時代(10世紀初頭)まで約250年間使用された形跡がある。しかしながら、これが国史に登場したことはない。 亀形は道教の神仙世界で蓬莱山を支える大亀を現しており、「岡の酒船石」を蓬莱山の頂に見立てればこの構図に合致するともいわれる。 ここでの祭祀は水に係わるものであり、道教系の雨乞いも行われたと考えられる。 この場所は、東西に張り出した尾根に挟まれた閉鎖的な所であることから「名山大川」のスポットとして相応しい。 |
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図6 小判形(左)と亀形(右)の石造物(天武期) |
(4)鳴滝 北山十二月谷口(京都市右京区鳴滝)
五龍祭の行われた北山十二月谷口は、『西宮記(さいきゅうき)』巻13の祈雨の項には神泉苑とならび五龍祭の祭場に規定されている。(五龍祭の初期は北山十二月谷口で行われたが、後には神泉苑に移行した)
北山十二月谷口おける祈雨は、『扶桑略記』(裏書)延喜2年(902)6月17日条「陰陽寮・・・五龍祭・・・其地鳴瀧北十二月谷口」を初見として、以下の通りである。
・『扶桑略記』(裏書)延喜4年(904)7月8日条 「旱気尤熾。仍仰陰陽寮。於北山十二月谷口。五龍祭」
・『祈雨日記』延喜15年(915)5(6)月24日条 「令陰陽寮於十二月谷祀五龍」
・『日本紀略』安和2年(969)6月24日条 「令陰陽博士道光於北山修五龍祭」
ここで問題となるのは、「北山十二月谷口」なるものが具体的にどこを指すかということである。
北山は、船岡山、衣笠山、鷹ヶ峰より岩倉山に及ぶ広い地域に及ぶためあまりにも漠然としている。
吉川弘文堂の『国史大辞典』によれば、北山は京都市北方の諸山の汎称であり、西山に対してこの名が起こったとある。(黒川直則1996)
ここで基準となる西山は、善峰寺のある良峰(よしみね)のことと思われる。
『大日本地名辞書』には、「桓武皇子安世(やすお)は良峯朝臣の姓を賜はる、此地に因む所あるべし、後世専西山と呼ぶ」とある。(吉田東伍1972)
不思議なことに、この西山は長岡京の真西あたりに位置する。
一方、向井毬夫氏は、長岡京の北の聖山を、朝堂院の真北に位置する標高268mの白砂山ではないかと述べている。(向井毬夫1929)
これを確認するためには「バーチャル長岡京3Dマップ」が有効である。
それによると朱雀大路から北に見た朱雀門の奥に沢山(さわやま)の頂を見ることができる。(河角龍典2009)沢山は朱雀門から12km真北にある標高512mの山であるが、実はその2km手前に白砂山がある。
ならば、北山とは長岡京の北を守護する白砂山であろう。つまり、「北山十二月谷口」は白砂山山麓の川筋ということになり、現在の京都市右京区鳴滝般若寺町の御室川(おむろがわ)と三宝寺川(井出口川)の出会いあたりと想定される。
さらに、『日本歴史地名体系27』によれば、三宝寺川の別名として「仙行谷川」の名があり陰陽道との関連を思わせる。
御室川は鳴滝川(西河)とも呼ばれ、鴨川(東河)と並んで流域には平安京の祓の場が点在していた。
鳴滝や西の河瀬に御禊せむ岩こす波も秋や近きと 藤原俊成
陰陽五行説の玄武にあたるこの地は、陰陽寮による五龍祭の祭場としてふさわしいものである。
白砂山の対岸には御堂ヶ池(おんどがいけ)古墳群が広がっており、外縁付鈕の銅鐸4個も出土している。
注目すべきは、白砂山の南西900mの距離にある標高135mの丘陵上の御堂ヶ池古墳群と重なる梅ヶ畑祭祀遺跡である。
この遺跡においては、奈良時代中頃から平安時代前期にわたり断続的に何らか祭祀が行われていたと推定されている。
尾根の上には東西1.5m、南北1.3m、高さ0.5mの磐座とおぼしき岩(高橋潔1998)があり、これを介して白砂山を拝んでいたことも想像される。
尚、ここからは前述の沢山の頂は前方の山にさえぎられて眺めることはできない。
これらから白砂山は神奈備山であって、その谷筋では水の祭祀が奈良時代から行われていた可能性が考えられる。
これなども、古くからの霊地に陰陽寮が進出してきた事例といえるだろう。
4 室生龍穴
(1)「山川」に祈る
『日本紀略』弘仁9年(818)7月14日条には「遣使山城貴布祢神社。大和國室生山上龍穴等処。祈雨也。」とある。「貴布祢神社」に対し、単に「室生山上龍穴」とのみ記述されていることを見ると、「龍穴」は「神社」とは異なったものであることがわかる。
また、「龍穴」の後に「等処」が付いていることから、他にもこのような場所があることが伺える。
室生山は奈良県宇陀市室生村にある山で、麓には女人高野で知られた室生寺がある。
(『奈良県史』第5巻)には、室生龍穴神社について次のような説明がある。 室生寺の東方約1km、杉・桧の巨樹が林立する森の中に鎮座の社が、式内室生竜穴神社に比定されている。社前の室生川は、宇陀川・名張川・木津川となって大阪湾へ注ぐが、当社はこれらの川の水源に鎮座する祈雨・止雨神として、古来国家的にも崇敬の篤い神社であった。祭神は、高?神(たかおかみのかみ)で、龍神または龍王と称する司雨神である。 当社の背後の山中の、室生川に注ぐ渓流沿いに約700m登ると、岩窟があり、龍王の籠る洞窟として龍穴と呼ばれて古くから請雨祭祀の行われた所である。承平七年(937)4月の『室生山年分度者奏状』(『室生村史』1966)に、室生寺と当社のことを記し、「件の龍王を以って伽藍の護法神となせ、旱災ある毎に、龍王の穴地に臨み、甘雨を祈るに、祝言未だ訖らざるに、霖雨いよいよ降り、五穀忽ちに茂る」とある。 |
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図7 式内室生龍穴神社(龍穴は背後の山中にある) |
『日本紀略』の弘仁9年(818)7月14日条に山城国貴布祢神社と大和国室生龍穴等の処に雨を祈るとあり、『三代実録』貞観9年(867)8月16日条に従五位下より正五位下に昇叙とある。さらに『日本紀略』によれば、延喜10年(910)8月23日条に祈雨の験あるによって従四位下に、応和元年(961)8月14日条には正四位下に叙せられている。当社の神への雨乞いが盛んであったことは、『日本紀略』『室生山年分度者奏状』や『類聚符宜抄』『御堂関白記』『扶桑略記』などに頻出する記事で明らかである。『室生山年分度者奏状』によると、天応元年(781)から承平7年(937)までに29度を数え、その都度感応があったと記されている。(注3)
(注3)室生龍穴の祈雨祭祀は、承平7年(937)の後も続いており、天慶2年(939)から養和元年(1181)までに27回を数える。(逵日出典1979A)
図8 室生吉祥龍穴 | 図9 室生招雨瀑 |
室生の「室」は、一般的には神の鎮まるところとされるが、「室」には「穴」の意味もあり、これらを重ね合わせた解釈が自然であると思われる。
龍穴のある場所は切り立った渓谷で、龍穴のすぐ上には招雨瀑と呼ばれる大船山の「ながなめらの」瀧に似た滑瀧がある。瀧の左岸の尾根には「天の岩戸」の磐座(図9)が鎮座しており、「九穴八海」と呼ばれる一大霊場である。 | |
図10 瀧の左岸の尾根にある「天の岩戸」の磐座 |
(注4)
・『続日本紀』宝亀9年(778) 3月24日条 「頃者。皇太子沈病不安。稍経数月。雖加医療。猶未平復。
如聞。救病之方。実由徳政。延命之術。莫如慈令。・・・」
・『続日本紀』宝亀9年(778) 3月27日条 「大祓。遣使奉幣於伊勢大神宮及天下諸神。以皇太子不平也。又於畿内諸界祭疫神。」
室生龍穴における祈雨の方法は、939年以前は奉幣と読経の両者があったが、天暦2年(948)以降は室生寺の影響により読経のみの仏式に統一された。(籔元晶
2002A)この事実は日本古来の神祗的な霊地に仏教が進出したことの痕跡を示している。
(2)牲を投ず
『日本紀略』延喜10年(910)条の中に注目すべき祈雨記事がある。
・1月1日 拝天地四方。停朝賀事。依去八年旱。九年疫災也。
・7月10日 日来炎旱。詔諸國神社山川奉幣投牲。
・7月16日 先是。三箇日。雨快降。人庶以為(思えらく)。依?於龍穴也。
・8月23日 授大和國龍穴神従四位下。
7月10日、旱に際して、諸国神社山川に「幣」を奉じるとともに「牲」を投じている。
ここでは、「神社」に対し「奉幣」が、「山川」に対し「投牲」が対応しているものと考えられる。5世紀の馬導入時期にあたる北魏の『魏書』志十 禮志五には「祭皆用牲王畿内諸山川皆列祀次祭各有水旱則祷之」とある。
7月16日には、「龍穴」における雨乞いによって、16日より3日間に渡り雨が降ったとある。続いて、8月23日「授大和國龍穴神従四位下」とある。
『室生山年分度者奏状』の中に上記に該当するものとして次の記事がある。
「延喜十年七月十二日詔文云、近日旱殃盛起、時雨難降、百姓之業、難催豊祥、五穀之畝、難期秋獲、伏惟、神竜徳蓄吐雲之勢、力擅致水之威、伏願、不嫌精誠、降雨一天下之間、旱畝更蘖、枯薗再茂、祈而有感、不敢忘徳者、而晴天靄雲、乾地洽雨、被叙竜王四位、賜度者一人、其名曰春泰」(西田長男1967)
ここで、「牲」が投じられた場所を推定すると、神社に「牲」を投じるとは考えにくく、文脈から「室生龍穴」がその有力な候補として浮かび上がる。
雨乞いに「牲」を用いた有名な事例としては、『日本書紀』の皇極元年(642)条がある。
ここには、大陸系のものといわれる祈雨祭祀が記述されている。
・7月25日 随村々祝部所教。或殺牛馬祭諸社神。或頻移市。或祷河伯。既無所効。
・8月1日 天皇幸南淵河上。跪拜四方。仰天而祈。即雷大雨。
これから63年後に大陸系の祈雨祭祀が復活している。
『続日本紀』慶雲2年(705)6月28日条「罷出市廛、閉塞南門」、さらに83年後、『続日本紀』延暦7年(788)4月16日条 桓武天皇「出庭親祈、天闇雲合、雨降滂沱」、さらに22年後、『日本紀略』延喜10年(910) 7月10日条「詔諸國神社山川奉幣投牲」
このように、皇極期の大陸系祈雨祭祀は滅びることなく伏流し、時として出現していることがわかる。
注目すべきは、皇極天皇が南淵の河上で跪いて四方を拝んでいることである。
「跪拜四方」については、『公事根源(くじこんげん)』などは、元旦の四方拝の初めとすることから、延喜10年正月の「拝天地四方」と同一のものと推定できる。
天皇自身が祈雨祭祀を行う事例は、皇極天皇の他には桓武天皇がある。
つまり延喜10年(910)の国家による雨乞い行事は、皇極元年(642)条の再現であり、道教的祈雨祭祀の復活といえるであろう。
皇極元年から延喜10年までは268年間の実に長いインターバルがあるので、かかる復活を不思議に思うかも知れないが、これは記録に残すかどうかの問題である。
そして何よりも人々の死活にかかわる重要にして緊急な雨乞いの特殊性にある。
雨乞いは通常、社寺での祈祷で始まるが、験なき場合は雨が降るまで次第にエスカレートしてゆく。
祈雨神祭八十五座は政府の表の顔にすぎない。雨が降らなくては、気取ってなどおれないのである。あらゆるものが動員される。それが雨乞いの世界である。
事例として、『日本紀略』正暦2年(991) 6月条の一連の雨乞いを紹介しよう。
6月3日「神泉苑修請雨経法」、13日「奉幣丹貴二社。於東大寺転読大般若経」、14日「陰陽博士安部吉平奉仕?祭」、
18日「於室生龍穴転読仁王経」、24日「祈雨奉幣伊勢以下十九社」、27日「祈雨発遣山陵使。於大極殿転読大般若経」、
30日「於朱雀門大祓」
平安時代の祈雨は、神道・仏教・道教・陰陽道・卜占等、なりふりかまわずの何でもありの世界であり実に多様である。皇極紀以来の犠牲を伴う祈雨もこのような多様化のうねりの中で復活を遂げたと想定される。
室生龍穴神社は式内社である。しかしながら、祈雨にあれだけ活躍しながら祈雨神祭八十五座からは漏れている。なぜであろうか。
一説には、龍の信仰は7世紀末に大陸からもたらされたものであり、我が国古来の神祗とは相容れないとある。
室生龍穴に代表される「名山大川」の源は、土俗的な雨乞いである。そうした土壌に国家的祈雨として神祗的、仏教的さらには道教的な祭祀が進出してきたのである。
馬の首を龍穴に投げ入れるといった行為も、験なき時の非常手段として道教的な雨乞いを取り入れたものであろう。つまり、室生龍穴においては、神祗的、仏教的、道教的な雨乞いが共存していることがうかがえる。
そして、牲を投ずることはあまりに呪術的で延喜式の祈雨儀礼にそぐわないことから、道教的・土俗的な雨乞いは国史に取り上げられなかったと考えられる。
祈雨神祭八十五座での祈雨祭祀は、延喜式に定められた神祗のあるべき姿を天下に示すものでなければならないのである。さりながら、室生龍穴のこれまでの霊験は否定しがたく、祈雨神祭八十五座からはずした上で、形式的に龍穴の麓に室生龍穴神社として祀ったものではないだろうか。つまり、室生龍穴は室生龍穴神社となった後も、神社としての取り扱いを受けていないのである。
『神祗志料附考』に「室生龍穴神社は僧徒の龍穴にして読経して祈りつるに、しばしば感応あるをもて、朝廷に奏請したるより終に式帳に載られしなるべければ、正しき神社とは云うべからず」とある。
室生龍穴での祈雨はその後も延々と近代まで続くが、延喜式以降、「名山大川」の表現は、公的歴史文献の舞台からは去ったと考えられる。
しかし、「日来炎旱。詔諸國神社山川奉幣投牲。」のような牛馬の供犠を伴った雨乞いは、民間においては旱魃の危機に乗じて復活を繰り返し昭和の戦前まで生き残った。
(3)考古的事例<都城の供犠>から連想される牲の種類
「名山大川」における供犠に関する考古資料は現在のところない。
その理由としては、祭祀の行われた場所が集落から離れた山や川であるため、発掘対象にすらならないことにある。また発掘しても、遺骨が発見される可能性はその環境や祭祀から推定してきわめてすくないと言える。そのため考古資料として都城(郡衙)における供犠を傍証として取り上げる。
都城・郡衙(ぐんが)に関連して、公的性格を有し且つ供犠を伴った祭祀を行った可能性のある遺跡として次のような事例が挙げられる。
供犠の種類はすべて馬であった。皇極紀には牛の供犠も登場するが、発掘事例としては神奈川県横須賀市鉈切遺跡などがあるだけできわめて少ない。しかも発掘場所は畿内からはるかに離れた地方である。
都城における馬の圧倒的優位は、『日本書紀』天武5年(676)8月16日条の詔「祓はは馬」に象徴されている。
@奈良県 平城京左京七条一坊遺跡 A京都府 長岡京左京二条二坊遺跡 B京都府 長岡京左京五条二坊遺跡
C大阪府 茨木市郡(こおり)遺跡 D大阪府 藤井寺市国府(こう)遺跡 E大阪府 大阪市前期難波宮遺跡
F千葉県 市川市総合運動場内遺跡 G神奈川県 平塚市四ノ宮遺跡 H福岡県 南区柏原遺跡
<引用文献> @A:(金子裕之1999) B:(『長岡京市史』1996) C:(水野正好1979) E:(『大阪の部落史』2009)
DFG:(笹生衛1988)
このうち年代順に、茨木市郡遺跡、前期難波宮遺跡、平城京遺跡、長岡京遺跡について以下に紹介する。
これらは人面土器やミニチュア竈の出土等から道教系の祓と思われるが、その中には雨乞いも含まれると考えられる。(守屋美都雄1981)
実際、『続日本紀』宝亀7年(776) 6月18日条「大祓京師及畿内諸国。奉黒毛馬丹生川上神。旱也」とあるように、雨乞いが臨時の大祓において執り行われている。馬の供犠を伴った祓は国史には記されていないが、場所的に公的な性格を有することから政府の認可のもとに実施されたと想定される。
殺馬の原点として古墳における馬の殉殺があげられる。(松井章、神谷正弘1994)
古墳の主の葬礼として、その愛馬の殉殺は自然の感情の発露であろう。
そうした土壌に、馬導入に伴って伝わったと想定される馬を供犠とする北魏の道教的祭祀の諸要素も受用されたのであろう。
かくして、馬は支配層の供犠として、旧来の鹿・猪・鶏を凌駕する地位を得たのである。(牛は馬より1世紀遅れて導入されたことに注意)
茨木市郡遺跡
摂津(大阪府)の三嶋下郷の郡衙のあった茨木市郡(こおり)の地で、興味ある遺構が発見されている。
それは、長さ1.9m、幅0.9mほどの浅い穴(6世紀?)である。 |
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図11 馬の首が収められた遺構の模式図 |
天武天皇が「祓柱は馬」の詔を出すはるか前に、馬の供犠が行われていた可能性がうかがえる。これを逆に考えれば、「祓柱は馬」の詔は、『日本書紀』の素盞鳴命の伝承や馬の供犠の伝統を追認したものと想定される。
前期難波宮
白雉3年(652)完成の前期難波宮の建設に際しては、水源となる泉の湧く場所で木製祭祀具である人形、馬形、舟形や土馬などとともに馬1頭分の下顎骨が出土している。
土馬や木製祭祀具の多くは実物をまねた「形代(かたしろ)」であり、奈良・平安時代に流行する律令的祭祀の道具である。その祭祀具の大半が出土したことから、難波宮で律令的祭祀の成立にむけた重要な一歩が印されたことがわかる。(『大阪の部落史』2009)
平城京遺跡
平城京左京七条一坊の調査では、16坪全体と東二坊大路の側溝、15、16坪の境の小路(七条条間北小路)を検出した。生贄の馬は東北隅に近い坪境の小路側溝から見つかった。この路は幅員が6m。両側に幅1〜1.5m前後の側溝があり、南溝の中に東西釣6.4m、南北1m、深さ0.5mの楕円形の穴があり、馬の頭骨3頭分と下肢骨を埋めており、顎骨(がっこつ)の上には割れた人面墨書土器と拳大より大きめの石があった。土器の年代は730年頃(平城宮土器編年のU期)。
ここは南北道路との交差点付近にあたる。ここに祭壇を設けて、生贅の馬を祭り、残った頭骨と下肢骨などを土坑に投げ込み、人面土器を埋めたらしい。人面土器は、土師器の甕などの外面に髭面の顔などを墨書し、穢や疫などを込めて流す祭具の可能性が高い。災いの元になる疫を土器に封じ、石で塞いだのだろう。(金子裕之1999)
長岡京遺跡
長岡京左京二条二坊の二条大路南側溝では、溝底を0.4mほど浅く掘り窪めた土坑の底に馬1頭を横たえ、周囲に平城京同様に人面土器3個体と模型竈と鍋、土馬、鉄鏃(てつじり)、木製鳴り鏑(かぶら)を配置していた。解体はしていないが、頭が胴の上にあり首は切ったらしい。馬の周囲においた人面土器などからみて、やはり生賛の一種と思う。(金子裕之1999)
さらに、左京五条二坊でも同様の祭祀が行われたことが推定されている。(『長岡京市史』)
一方土馬に関して言えば、その筆頭に長岡京西山田遺跡(長岡京市下海印寺西山田)が挙げられる。
この遺跡は、長岡京右京の西端の小泉川と菩提寺川の合流地点右岸に存在する小泉川の旧河道で、いわゆる川の「瀬」の部分に位置している。
河道から出土した土馬は、確認されただけで93個体、おそらく実数は200個体を上回ると考えられる。通常京内から出土する土馬の点数は、多くても10点を越える例はなく、調査面積の差を考慮してもこの数は尋常ではない。他には、ミニチュア竈100点以上、人面土器30点以上が出土している。(木村泰彦1986)
このような大規模な祭祀が公認のもとに実施されたのは明らかである。
ここで注目したいことは、長岡京で殺馬の祭祀と土馬の祭祀が同時に行われていることである。大阪市四条畷市の奈良井遺跡では、本物の馬と土馬が同一箇所から出土したという報告(6世紀初頭)もある。つまり、殺馬と形代馬が重層的に存在したことがわかる。
(4)民俗的事例<箕面の龍穴>から連想される牲の種類
龍穴に牲を投じる民俗的事例として、箕面大瀧の雨乞いがある。
箕面大瀧は、大阪府箕面市にある日本の瀧百選に選定された落差33mの瀧で、古くは修験道の道場であった。
『摂津名所図会』(巻六 豊嶋郡)寛政十年(1798) には、次のような紹介がある。 「巌頭より飛潟して石面を走り落つる事凡(すべ)て十六丈。 瀧壷より泡を飛す事珠(たま)をちらすがごとく、霧を噴く事雲の如し。日光これを燭してさいさん目を奪ふ。 天下賞して瀧の第二(注4)とす。瀧の上に碧潭あり。これを龍穴といふ。 村民旱天に遇う時。ここに祷れば忽膏雨(ごうう)降るなりとぞ。」 (注4)瀧の第一は和歌山県の那智の瀧 上記の雨乞いについて、江戸時代の安永7年(1778)に出版された紀行文集『名葦探杖(めいいたんじょう)』に次の一文がある。 「瀧の肩に龍穴あり。その深きこと人是を計るに知れず、土民雨を祈るに白馬の首を切りて龍穴を穢すに忽ち大雨すといえり。」 この聖地を穢して神の怒りを招くことにより雨を促す方法は、元々は神への供犠が血の穢れを忌む日本民族の禁忌の観念と抵触して、これを汚穢不浄としたものであり、各地に広く分布する。(高谷重夫1982) このことを考慮すれば、安永7年(1778)の雨乞いはさらに時代を遡ることが予想される。 このような雨乞いは実際に行われ、「嘉永六年(1853)大旱魃記録」の中に詳細な報告がある。(『箕面市史』史料編6) |
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図12 箕面大瀧 |
問題はこのような馬の首を瀧に投げ込むような江戸時代の雨乞いが、延喜10年(910)の投牲とかかわりをもつかどうかであろう。
室生龍穴を祀るために室生寺が創建されたように、箕面大瀧を祀るために箕面寺が創建された。
箕面寺の創建は寺伝では役小角であるが、箕面山の史料上の初見は『扶桑略記』応和2年(962)4月条「千観内供於攝州蓑尾山観音院。作法華三昧宗相対抄。」とある。
これは室生寺創建の少なくとも1世紀以上も後のことである。
また『扶桑略記』永観2年(984)8月27日条には千観(せんかん)が行った雨乞いの様子が記述されている。これは箕面大瀧での雨乞いの史料上の初見である。
「故老傳曰。千観内供蟄居攝津國箕面山観音寺。念仏餘暇。撰集法華三宗相対釈文之比。天下旱魃。仍公家為祈雨。遣勅使於内供奉十禅師千観之草庵。于時千観與勅使相共登向箕面之瀧。々上有大柳樹。?仆横覆瀧壷。木上三人並居。奥坐内供手フ香爐。次居従僧手持水瓶。後侍勅使手執勅祿。千公啓白。致誠請雨。而香爐煙聳。自然満山。従瀧壷内黒雲昇虚。導師稱曰。法既成就。出山帰房。途中値雨。自瀧至室。可甘餘町。時人随喜。故傳記也。」
千観の雨乞いは、千観と従僧と勅使が瀧の上にある柳の大木に登り、「香爐」「水瓶」「勅祿」をそれぞれ手にして「千公」に「啓白」(申しあげる)といった道教的な色彩の強いものである。古代中国では自然を対象に「河伯」「風伯」のように爵位を与えたとされ、「千公」とは自然のあまたの神々と解釈してよいであろう。そして「勅祿」は「千公」に供える天子よりの祿の目録であろう。
また、香炉の煙は『日本書紀』皇極元年(642) 7月27日条「蘇我大臣手執香鑪。燒香發願。」とあり、「水瓶(神水)」とともに雨乞いの類感呪術と呼ばれるものである。
柳も、枝の垂れ下がりが雨の降る様を連想させることから同様に考えてよいであろう。「法既成就」の言葉はその呪術の完了を意味するものである。
重要なことは、ここでは龍神の関与は見られないことである。加えて「潭」を「穴」と見なすことにも無理が感じられる。
つまり、龍穴信仰は箕面に自然発生したものではなく、外部(室生龍穴?)から意図的に導入された可能性が強いと考えられる。
箕面大瀧に龍が登場する資料としては『箕面寺秘密縁起』、『箕面寺縁起』、『真言伝』がある。箕面寺に伝わる『箕面寺秘密縁起』はかなり脚色されており成立年代は比較的新しいものとされる。(『箕面市史』本編第1巻
史料編3)
九条家に伝わる『箕面寺縁起』は鎌倉時代の写本で書き誤りと思われる箇所がある。
三者とも、箕面大瀧に関する記述はほぼ同じであるが、このうち成立の経緯がはっきりしているものは勧修寺慈尊院僧正栄海が正中2年(1325) 編纂した『真言伝』である。
『真言伝』には、下の瀧に長さ三丈の黒雲を吐いて雨を降らす龍が登場するが、同時に上の瀧に長さ三丈の黒蛇が居るのが印象的である。古来の水神としての蛇から密教的な龍神への、上の瀧から下の瀧への移行が象徴的に語られている。
<箕面大瀧『真言伝 役優婆塞』正中2年(1325) >
「三重ノ瀧有リ。最上ノ瀧ハ雄瀧也。高サ一丈余也。枝ヲ立テ腰ヲカケテヨジ登ル。其杖ノ跡ト今ニアリ。淵ノ底ニ三丈余ノ黒蛇ワタカマリ臥ス。時ニ出テ人ニ見ユ。第二ハ瓔珞(注)ノ瀧也。岸石滴リテ珠ヲツラヌケルガ如シ。第三ハ雌瀧也。高サ十五丈余。布ヲサラセルニ似タリ。頂上ノ壷ハ龍穴也。其龍ノ色斑ニシテ長三丈余。動スレハ黒雲ヲ吐テ雨ヲ下ス。」
(注)瓔珞(ようらく):宝石などを連ねて編み、仏像の頭・首・胸等にかけた飾
箕面と室生を比較すると次の共通点が挙げられる。
@瀧と龍穴
A箕面寺と室生寺
B箕面山と室生山
C伝承:龍穴で仏との遭遇
<箕面龍穴の伝承>『箕面寺秘密縁起』には、役行者が伝法灌頂を受けるため、龍穴の深淵に入り龍樹菩薩に会う話がある。
<室生龍穴の伝承>『古事談』には、日対上人が龍穴の中で善達龍王に合う話がある。
D修験道(山林修行)との係わり
真偽はともかくとして、箕面寺と室生寺にはそれぞれの役行者を開創とする寺伝(注5)があり、修験道(山林修行)とのかかわりが深い。
室生寺の奥院御影堂の傍らには「つくね岩」という溶岩の塊があって、護摩の岩屋、
さらに奥に西の覗・東の覗などという修験者の行場もある。(『奈良県史』第6巻)
また、箕面寺は天台系山伏の総本山である聖護院の末寺として、修験道を今日に受け継いでいる。
(注5)役行者開創の寺伝の信憑性は、両寺とも疑わしいとされている。
箕面寺は現在の龍安寺(ろうあんじ)である。本尊は『箕面寺秘密縁起』で役行者の自作とされる弁財天を安置する。
E叡山との係わり
箕面寺は、その開祖とも言える千観が天台僧であり叡山との係わりが深い。
一方、賢mと共に室生寺の創建者とされる修円は台密にも通じた僧であり、
円澄と天台座主を争って叡山を離れた円修とその弟子堅恵を室生に迎え入れている。
またその頃、空海の高弟であった新泰が高野山から移ってきたことから東密の流入も考えられるが、
真言密教の影響が決定的になったのは鎌倉時代の住持・忍空の時期とされる。
雨乞いに馬の首を瀧に投げ入れる我が国の民俗事例としては、箕面瀧のほか次のものがある。事例が近畿圏に集中しているのが特徴的である。犠牲ついては、雨乞いのたびに行われるのではなく、雨が降らなくてどうしょうもない時にかぎり、やむなく実施したと考えられる。最初は、読経あたりから始めたと推定される。
・兵庫県西宮市生瀬 伊丹市昆陽の雨乞いは、武庫川の岸にある巨岩(高座岩)の上で白馬の首を切り落とし、その首を溝瀧(ミソダキ)に投げ込む。(『伊丹市史』第6巻)
・兵庫県宝塚市切畑字長尾山 農家が旱魃の時、馬の首を切り最明寺瀧(西明寺の瀧)の龍女洞に投じて降雨を祈祷したという箕面瀧に似た古事が伝えられている。まるで室生龍穴を彷彿させる。西明寺の瀧とそのほとりにある龍女洞は、『摂津名所図会』巻6にも記載がある。(川端道春1994)
・京都府亀岡市稗田野町 『丹波志桑田記』に、佐伯の瀧谷という瀧の壷に「白馬ノ首ヲ投テ雨ヲ祈レバ」必ず霊験ありという古習が伝えられている。(『亀岡市史』資料編 第4巻1995)
また、同町と曽我部町穴太との境にある滝の方(かた)に馬の首を投げ込む雨乞いの伝承も伝えられている。(上田正昭 1993)
<牛と馬の供犠について>
因みに、牛馬を犠牲にする民間の雨乞いは牛が圧倒的に多い。
『魏志倭人伝』が倭の地には牛馬なしと伝えているように、弥生時代から古墳時代初めの日本列島には牛も馬もいなかったが、五世紀になって大和政権が朝鮮半島から軍事用に馬を導入した。その後、労働の担い手として1世紀遅れて大和政権や地方首長に招かれた渡来氏族により牛が導入された。この結果、馬は官の祭祀に使われ、牛は民の祭祀に使われるようになった。
5世紀の馬導入時期にあたる北魏の『魏書』志十 禮志三には「神尊者以馬次以牛小以羊」とある。唐祠令においては牛が最高の供犠であるが、遊牧民族国家である北魏としては自然の習いであろう。牛に比べて馬を尊ぶ官の祭祀はこんなところにもその遠因があるのかも知れない。いずれにせよ、馬は貴人の乗り物、神の乗り物であることには変わりない。
考古学的な遺物の量としては、馬が牛を圧倒している。これは発掘の主要な対象が都城のような政府関連に集中するため当然と言える。
牛は民衆のものであり、全国の山野にその膨大な遺骨が眠っているのであろう。それは、桓武期の殺牛祭神禁止令を見ても想像できる。
尚、禁止令の出された背景としては次のようなものが考えられる。
@宗教の統制(漢神・淫祠の禁止) A仏教思想の影響(殺生禁止・生類愛護) B信仰にて結束した民衆の反抗に対する怖れ
C桓武天皇が丑年による殺牛への嫌悪 D過激な呪術・呪詛の排除
憶測にすぎないかも知れないが、箕面の龍穴は天台系の修験者を媒介とした室生龍穴の模倣である可能性が高く、馬の首を投げ入れることも室生の延喜10年の古事によるとも思われる。
5 まとめ
推古の時代、神々は時として人の前に現れ、消え去る存在であった。
神が顕現するところは自然のふところに抱かれた依り代と呼ばれる岩であり、岩窟であり、瀧であり、泉であり、・・・であった。神は山川に周く満ちていたのである。
『出雲国風土記』の大船山、『日本書紀』の飛鳥南渕や酒船石遺跡、『扶桑略記』の北山十二月谷口はそのような場所のひとつと推測される。
仏教の伝来を契機に、人は神社や寺院などの建物の中に神仏を安置しはじめた。
持統から聖武の時代(692〜747年)は、自然崇拝と勃興しつつある社寺が並存した時代であり、社寺に対する畿内を中心とした自然崇拝の霊場として「名山大川」が用いられた。そこでは、官による土俗と習合した神祗系・仏教系・道教系の雨乞いが行われていたと思われる。
律令政府の宗教政策により、自然崇拝は社寺に取り込まれてゆくが、すべて消え去ることはなかった。それらは民衆の信仰であり続けたし、官においても社寺の祈雨で験なき時の頼みの綱であった。
『続日本紀』等の文献に登場する「名山大川」の代表事例として「室生龍穴」が挙げられる。室生龍穴は、古来から水神の霊地であり、室生寺の創建によって脚光を浴びるようになったと考えられる。『日本紀略』弘仁9年(818)7月条には「遣使山城貴布祢神社。大和國室生山上龍穴等処。祈雨也。」とある。
時には、『日本紀略』延喜十年(910) 7月条「日来炎旱。詔諸國神社山川奉幣投牲。」のように、牲を龍穴に投じたとも想定される。
これは皇極紀に見られるような道教系の雨乞いであり、牲は、都城における馬の供犠の考古学的事例、箕面瀧の民俗事例などから馬の首と推定される。
5世紀の馬導入時期にあたる北魏の『魏書』志十には「祭皆用牲王畿内諸山川皆列祀次祭各有水旱則祷之」「神尊者以馬次以牛小以羊」とある。
「名山大川」の表現は延喜10年(910)が最後となるが、それは自然崇拝を基調とする祈雨祭祀の消滅を意味するものでない。自然の中での雨乞いは民間を中心として近世まで存続した。また「名山大川」は元々中国の表現で、日本の実情とかけ離れたものであることから、その使用は廃れていったものと思われる。
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(C100709)