調査報告 2010年12月18日掲載

キーワード 農業用水 昆陽組邑鑑 昆陽井 四つ洽 武庫井 源太郎橋 洽 洽木 井組

        昆陽組邑鑑による四つ洽の考察

1 はじめに
 昆陽組邑鑑(こやぐみむらかがみ)は、兵庫県伊丹市を中心とする近世の忍(おし)藩領昆陽組村々の状況を一冊にまとめたものである。
邑鑑はある一定の数カ村の概況を報告したもので、内容は一カ村の概況を領主に報告した村明細帳と基本的に同じである。
昆陽組邑鑑(以下邑鑑と略称)は、伊丹市中央図書館に所蔵されているので誰でも自由に閲覧できる。(文献1)
その中に、昆陽井(こやゆ)に関する記述がある。
 江戸時代、田に水を引くための井組(ゆぐみ)と呼ばれる水利組合が発達していた。
伊丹市域においても、武庫川から取水し以下の9カ村に水を供給していた。(文献1@)
 池尻村、山田村、野間村、南野(みなみの)村、御願塚(ごがづか)村、昆陽(こや)村、寺本村、千僧(せんぞ)村、堀池村
この井組は昆陽井と呼ばれ、井親は昆陽村が務めていた。

伊丹市西野6丁目付近の西野橋のたもと
武庫川東岸に注ぐ大堀川の河口左岸に
歴史を秘めた昆陽井の取水口が今も残る。
ゲートの上部にある石板には
「昆陽井元樋」の文字が刻まれている。
昆陽井元樋

 当然のことではあるが、昆陽井の水路は時代とともに変化している。
一般に農業用水路は、水害、建物の建設、用水の管理の強化、田畑の増減、新田の開発等の様々な理由により水路を改変することが多々ある。
従って、検討のためにはその年代を規定する必要であり、ここでは邑鑑の書かれた時代を想定している。
邑鑑の書かれた時代は明らかではないが、邑鑑の解説者によれば宝暦(ほうれき、ほうりゃく)5年から天明2年頃(1755〜1782)、
つまり18世紀後半と言ってよいであろう。
昆陽井の水路は今でも比較的よく残っていて、部分的にその跡をたどることができる。
その中に、水を4つに分割する昆陽井の四つ洽と呼ばれる所が、伊丹市寺本東1丁目3-30付近にある。
本報告は、邑鑑とそれと同時代の宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図(付図1)に照らして昆陽井四つ洽の検証を行うと共に、
洽の実態を明らかにするものである。
同図は江戸時代の武庫川東岸のすべでの井組の水路を網羅した貴重な絵図である。
ここですべての井組とは、川面(かわも)井・昆陽井・野間井・生島(いくしま)井・武庫井・水堂(みずどう)井・守部(もりべ)井・大島井の八つの井組を指す。
 また本報告では、合せて昆陽井四つ洽の先駆けともいえる武庫井四つ洽についても言及した。

2 昆陽組邑鑑に記載された洽について
 まずは邑鑑の昆陽村の篇から洽(コウ)に関する記述を原文(文献1A)にて抜書しよう。

昆陽井水筋
・・・・・・・・・
井口門樋より弐つ洽迄
一昆陽井溝 長千五百四拾七間 幅壱間半 但、平均

四寸ほう
一桧伏樋 長五尺 内法四寸四方 板厚弐寸五分
  野間村・山田村江分水伏樋、寺本村領内ニ御座候

弐つかう
一桧洽木壱本 長三間 幅壱尺弐寸 板厚六寸 寺本村領内ニ御座候
  切かた ・六尺 昆陽村分 ・六尺 四つ洽ヘ分ル下村分

四つかう
 一桧洽木壱本 長四間 幅壱尺弐寸 板厚八寸 昆陽村領内ニ御座候
   切かた ・五尺四寸 御願塚村分 ・壱尺八寸 平田溝  ・五尺四寸 南野村分  ・壱尺八寸 熊野溝

七松かう
一桧洽木壱本 長弐間半 幅壱尺弐寸 板厚四寸 昆陽村領内ニ御座候
  切かた ・四尺五寸 昆陽村、御願塚村分 ・壱尺五寸 堀池村分

かまくらがう(ママ)
一桧洽木壱本 長弐間 幅壱尺弐寸 板厚五寸 昆陽村領内ニ御座候
  切かた ・四尺五寸 昆陽村、御願塚村分 ・壱尺五寸 昆陽村、南野村分

富田かう
一桧洽木壱本 長弐間半 幅壱尺弐寸 板厚六寸 昆陽村領内ニ御座候
  切かた ・六尺 御願塚村分 ・弐尺 昆陽村、南野村分

 上記の内容を以下に解説する。
最初に、「洽」は江戸時代では「コウ」と読んでいたと推定される。
漢和辞典によれば、「洽」は水を広く行き渡らせる意で、その一般的な読みは「コウ」で濁らない。
また邑鑑では、「四つかう」と記載されている。「かう」は現代表記では一般的に「こう」となる。
ただ、上記に「かまくらがう」の表記があるが、記述の一連の流れから誤記と考えられる。
また濁点を表記しなかった可能性も考えられるが、邑鑑には平仮名に濁点を打ったものがかなり見受けられることから
素直に清音と考えて良いであろう。
もっとも、地名化しているので「四つごう」と読んでも誤りという訳ではない。
 次にルートであるが、西野村(現 伊丹市西野)にある武庫川の取水口から二つ洽迄、水路の長さは2.8km、幅は平均2.7m。
「四寸ほう」は、内法が四寸角(12cm角)の伏樋が置かれた地点名である。
ここで、昆陽井本流から野間村と山田村に分水している。
二つ洽では、半分は昆陽村(昆陽用水)、半分は四つ洽に分水している。
四つ洽では、水を3:3:1:1の割合で御願塚村(御願塚用水):南野村(南野用水):平田溝:熊野溝に分ける。
御願塚用水は、七松洽、鎌倉洽、富田洽でそれぞれ各村に分水する。
二つ洽と四つ洽は接近した位置にあり、二つ洽は寺本村領、四つ洽は昆陽村領にある。

 次に、文中に出てくる洽木と何かという問題である。
これもコウボクと読みたい、ゴウボク(拷木)では拷問の木となり具合が悪い。
これは辞書にはないが、板の長さと水路の幅の関係、板の長さと板厚の力学的な関係から、
水の流れをせき止めるゲートのようなものと推定される。
この板を所定の幅に切り欠き、各水路に水を配分したものと思われる。

 ここで作成年代は不明であるが、邑鑑の記述内容を的確に表した昆陽井筋絵図と呼ばれる絵図がある。
原図は文字が見にくいので、図1にその解説図を示す。

         図1 昆陽井の洽(弐つ洽⇒四つ洽⇒七松洽⇒鎌倉洽⇒富田洽)(文献2@)

弐つ洽⇒四つ洽⇒七松洽⇒鎌倉洽⇒富田洽に至る切りかた(水の分け方)の寸法も同一で、邑鑑の付図の感がある。
これを見れば、洽木の何であるかを視覚的に理解できるであろう。
なお、図中「小や七ヶ町」とあるのは、東町・中町・大工町・市場町・辻之町・佐藤町・小井之内からなる昆陽村である。
行基とあるのは、昆陽寺。東寺とあるのは、正保国絵図(京都府立総合資料館蔵)に登場する東寺本村のことである。
 
 ここで図2は、邑鑑に記載された四つ洽の洽木の図面である。
寸法はメートル法に換算している。尚、切り口の深さと配置の間隔は記載がないので推定である。
図から分るように、長さが幅に比べ7.3mと長いため柱状である。


         
         図2 四つ洽に使用された洽木の図面

図3は、この洽木を水路に取り付けたは四つ洽の想像図である。


          
              図3 四つ洽の想像図

 洽木の切り口は、図1の橋の表示から類推されるように下向きにして用いられたと考えられる。
これを裏付ける資料として宝永7年(1710)九名井溝幅間数絵図(文献2A)がある。
取水にあたっては、溝が深い方が有利である。
そのため勝手に溝を深くしないように水路の溝底に定石を据え、溝さらえは定石までと取り決めた。
そして、伏樋の水の流れる底面を定石の上端面の高さにセットした。
このことから、四つ洽においても水路に定石が置かれ、開口部を下にして伏樋のようにしたものと想定される。
つまり洽木の目的の一つは、取水口の取り付け状態を揃えることにあったと考えられる。
 このような洽を水路の要所に配置することにより、各地域への水の配分を正確におこなうことができる。
図1は御願塚用水に焦点があてられているが、他の水路においても同様であると想定される。
洽は、井組全体の分水システムを実現するための水利施設である。

2 昆陽井四つ洽の比定地
 図4と5は、昆陽寺の東、伊丹市寺本東1丁目付近にある二つ洽と四つ洽の比定地の写真である。
尚、四つ洽の正確な位置は図8Bの上部右の赤丸で、寺本字高安の下の昆陽字宮ノ前である。
尚水路は簡略化して記載されているので、詳細は図9を参照願いたい。
二つ洽の位置は図8Bの上部左の赤丸で、完全に寺本地区内にある。
図4Aに示す如く、二つ洽は車が通っている橋の下にある。

      図4A 昆陽井二つ洽(入口)                  図4B 昆陽井二つ洽(出口)

昆陽井はここで二つに分かれる。(図9参照)
左は昆陽用水で、右は四つ洽に至る水路で暗渠になっている。
図4Bは、二つ洽から出て平行して走る水路である。ガードレールの左に暗渠から抜け出した水路が見える。
これが四つ洽につながっている。
図5は四つ洽で、左から御願塚用水、南野用水、平田溝、熊野溝である。(図1参照)
 
       
           
                    図5 昆陽井四つ洽(上流より)

3 昆陽井四つ洽の設置の背景
 前述のように洽というものは、単に水路が分岐している地点を指すものではない。
洽とは水分けに関する激しい争論の結果生まれた、水量の正確な分水施設のことである。
従って、邑鑑で見たように取水口の幅は、きっちりと計測され、管理されている。
洽には和合の意味があり、洽を争論の調停結果の反映と見れば奥深いものがある。
 図6は、邑鑑の書かれた年代と重なる宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図である。



               図6 宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図(部分、全体図は付図2参照)(文献2B)

 図6において寺本村に注目し、ここから邑鑑の記述を追ってゆこう。
四寸方昆陽井分水から右をたどると水路が二つに分かれている地点がある。
これが二つ洽で、上の水路は昆陽水路で、下は四つ洽に向かう水路である。
その水路は、少し下流で御願塚水路の本流と寺本水路、堀池水路、南野水路に分流している。
これが四つ洽と考えられるが、良く見ると水路が一点に集中していないことがわかる。
つまり、この絵図は、四つ洽ができる前の自然に近い状態の水路図であることがわかる。
この後、おそらく水の配分を巡り争論が起こったのであろう。
そこで関係者が集まり、水の配分について異論のでないような計量的な施設を設置し、邑鑑にその詳細を記した。
四つ洽はそのような施設の一つであったと想定される。
御願塚水路・南野水路・堀池水路・寺本水路は、図1の御願塚用水、南野用水、平田溝、熊野溝の前身と推定される。

4 昆陽井四つ洽の水路の検討

(1)天保14年(1843)昆陽村絵図

 図7Aの昆陽村絵図は、絵図の左下に「築山茂左衛門別廉當御預所」とあることから、築山茂左衛門がこの地の代官をつとめた天保14年(1843)に作成されたとされている。
この絵図には田字名が詳細に記されており、江戸時代の地名の探索に極めて有効である。
 
 水路の検討の前に、図1における用水と溝の区別を明らかにしておこう。
それは、送水量による区別で、用水は広い田または遠い田を潤すことができる。
これに対して溝は、溝の取水口近傍の狭い田を潤すことになる。
そのため、溝は村絵図から省略されることが多い。
図7Aの左の上部斜め上に走っている道(赤色の太線)は西国街道で、中央の大きな白いエリアは昆陽宿である。
図の左側、街道の上に風船のように張り出しているのは中之宮の境内で、昆陽村の氏神である西天神社である。
小井内のすぐ上を流れているのはA昆陽用水で、すぐ下はB御願塚用水である。
さらにその下はC南野用水である。
四つ洽は、小井内の西にあるがここでは描かれていない。
平田溝と熊野溝は、細い水路のために省略されている。
図7A 天保14年(1843)昆陽村絵図(部分)(文献3)
    水路名:A昆陽用水 B御願塚用水 C南野用水
    分岐点:P1七松 P2富田 P3弐塚(フタツカ)

(2)昆陽の旧地名と天保14年(1843)昆陽村絵図の田字との比較
 通常、字といえば古い地名に冠せられるが、江戸時代においては田にも字名が付けられていた。
この田の字名と旧地名には深いつながりが認められる。
図8Aは、昆陽地区南部で使われていた旧地名(字)である。


               
                  図8A 昆陽の旧地名(字名)(部分)(昆陽2丁目の伊丹市説明板より)

 図8Aにおいて、左下のカン仏の中にある白いエリアは、寺本字野末(飛び地)である。
また、その上の平田の右横にある白いエリアは、堀池字ミヨト(飛び地)である。
右下の県道米谷(まいたに)昆陽尼崎線の東が大道堀、道ノ辺で、白いエリアが昆陽泉町である。

 図7Bは図7Aの南部の田字名の解説図である。図の下側を流れるのは図7AのC南野用水(青線)である。
図において緑色で囲んだエリアは、図8Aの旧地名と関係していると見られる田字である。
昆陽村の絵図の中に堀池村のものと見られる字明とう田、字みよとう田、字本堀池田、字堀池田、
字大道堀池田の田字があるのは、飛び地と見てよいであろう。
図8A昆陽の旧地名は、図7Bの天保14年(1843)昆陽村絵図の田字を反映していることが一目でわかる。


              
                 図7B 天保14年(1843)昆陽村絵図解説図(部分)(文献2C)

(3)平田溝の推定
 図9は、昭和44年(1969)発刊の伊丹市史に掲載されている昆陽井の水路図である。
ここには、市史の発刊時点で確認できた水路が描かれている。



                        図9 昭和44年(1969) 昆陽井の水路図(部分)(文献4)

 昆陽用水と御願塚用水が交わる点(二つ洽)に、真南に下る水路があるが、これは昆陽池からの水路である。
その右に御願塚用水・南野用水・寺本用水が一点で交わっているところが四つ洽である。
寺本用水が図1の熊野溝に相当することは明らかであろう。
しかしながら、これでは三つ洽である。ここで平田溝の解明が重要な課題となる。

平田溝の推定にあたっては、次の三点がポイントとなる。
  @平田溝は、溝であるため四つ洽近傍の狭い田を潤す。(図1)
  A平田溝の前身は堀池村領掛リのため堀池村の田を潤す。(図6)
  B平田溝の行き先は、南野用水の南部にある。(図6)

図8Bは図8Aの四つ洽から堀池にかけての拡大図である。
平田溝は、この地図の中に含まれると想定される。


        
          図8B 寺本東・昆陽南5丁目の旧地名(字名)(昆陽南公園前伊丹市説明板より)

ここで図7B天保14年(1843)昆陽村絵図解説図を眺めると、図の左に緑色で塗りつぶしたエリアの中に字平田の田字が見える。
その上には字明とう田がある。
これを図8Bと比較すれば、この地が堀池字ミヨトの前身であることがわかる。
また図7Bの字明とう田の右上に字みよとう田の田字があることから、堀池の旧地名ミヨトがここから生まれたものであることがわかる。

 つまり平田溝は、元堀池村の字明とう田を潤していたが、後に水路が延長され昆陽村の字平田を潤すことになり、
平田溝と呼ばれるようになったものと推定される。
現在、平田溝は南野用水に沿って約240m下流までたどることができる。
尚、図6によれば、堀池村は南野用水の他、昆陽用水の大トウホリケ、御願塚の七松洽からも水の供給を受けている。

(4)四つ洽の水路の実測

   図10 四つ洽の水路の上面写真
    左側から熊野溝、平田溝、南野用水、
    御願塚用水
    熊野溝は内側に出っ張りがある。
    図11 四つ洽の水路の実測結果
    単位cm ( )は推定値         
    熊野溝は両側から20cmの出っ張りがある。    

  実測結果を見ると、熊野溝と平田溝の溝幅は、正確に南野用水の1/3にはなっていないが許容範囲と見て良いであろう。
結論として、昆陽井四つ洽は水路の改変が認められるものの宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図にほぼ対応しており、
昆陽組邑鑑の面影を色濃く残していると言える。

(5)熊野溝
 田字名と水路名の結びつきはきわめて強い。
例えば、弐塚田はフタツカ水路、堤ヶ内田はツツミカ内水路、大道堀池田は大トウホリケ水路の如くである。
そのため、熊野は寺本地区の田字であった可能性が強いが、確たる資料は見つかっていない。
ただ、このあたりは平安末期に小屋荘(昆陽荘)と呼ばれる後白河院支配下の新(いま)熊野社領であった。(伊丹市史 第1巻 p436)
 最後に、平田溝も熊野溝も同じ溝なのに、熊野溝(寺本水路)だけが図9に何故記載されているのかという疑問が起こる。
前に掲げた図10、11は、その疑問を解消するものである。
熊野溝(寺本水路)は、昭和44年(1969)の尼崎市史の発刊以前に、溝幅が何等かの理由で拡張され、溝から用水に格上げされたと考えられる。
図9を見れば、おそらく熊野溝の拡張は寺本地区よりも山田用水により多くの水を供給するために行われたと思われる。
その後、水田の宅地化等が進んだことにより水の需要が減り水路の入口を狭めたのであろう。
いずれにせよ江戸時代まで遡る話ではないと思われる。
従って、四つ洽を強調したいのであれば、図9において平田溝を南野用水の脇に細線にて付加すればわかりやすい。

5 洽の設置に伴う水路の改変統合
 洽の設置は用水の分配を数量化し、客観化することにある。
そのため、洽の設置においては水路の付け替え、新設、整理等の改変統合を伴うことが多い。
これについて例を挙げて説明する。

(1)フタツカ水路
 図6 宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図において、
御願塚水路のカマクラ(鎌倉)とトミタ(富田)の分岐点の間にフタツカ掛リと書かれた水路がある。
一方、図1を見ると、鎌倉洽と富田洽の間にしっかりとした堤が築かれており、フタツカ水路が消えていることがわかる。
しかし良く見ると、富田洽から南に流れる水路(小や・南野分)の先に東に向かって流れる水路が分岐していることがわかる。
つまり、これが改変されたフタツカ水路である。
つまり、カマクラ(鎌倉)とトミタ(富田)の分岐点の間からの取水を廃し、富田洽から南に流れる水路に新たな取水口を設け、
残りのフタツカ水路に接続したことがわかる。
このことは天保14年(1843)昆陽村絵図(図7A)においても確認することができる。
図7Bの右側の緑のエリアは字弐塚(フタツカ)田(字弐塚田、字二塚田、字東弐塚田)の六つの区画の田字を示す。
この地は現在、図8Aの右手の弐タ塚、南弐タ塚と推定される。弐タ塚は、現在ニタツカと呼ばれているが古くはフタツカであったと考えられる。
これらの田字名を参考に図6を見れば、図7A において水路のつながりから分岐点P1が七松洽、P2が富田洽であることがわかる。
P2から南流する水路はP3で二つに別れ、その東の水路がフタツカ水路となり字弐塚の田を潤している。
現存する水路を示した図9においては堤ヶ内の右の分岐が富田洽で、そこから南流する二つの水路を確認することができる。

(2)武庫井四つ洽
 宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図の解説図の中に「武庫井四ツ合分水」と書かれた地点がある。
図12Bはその部分のみをピックアップしたものである。



図12A 貞享5年絵図 図12B 宝暦8年絵図 図12C 昭和3年六樋水路図
図12A 貞享(じょうきょう)5年(1688)生島井・野間井の争論裁許絵図(部分)(文献5)
      A生島井路  B武庫井路  C水堂井路  図の左の太い線が武庫川堤防で、C水堂井路の取水口が見える。
      上側:常松(つねまつ)村 右側:常吉(つねよし)村(図12 Bと対応)

図12B 宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図の解説図(部分、全体図は付図2参照)(文献2B)

図12C 昭和3年(1928)六樋水路図(部分)(文献6A)      

 図12Bにおいて、その原因が原絵図にあるか解説図にあるかは別として以下の誤解を指摘することができる。
一つは、生島井路から常吉村に水が供給されていることである。
常吉村は武庫井組の井親(文献6@)であることから、水は当然少なくとも1カ所は武庫井路から受けるはずである。
時代はかなり遡るが貞享5年(1688)生島井・野間井の争論裁許絵図(図12A)においては、
武庫井路から常吉村に生島井路の下を通って水路がつながっているのが確認できる。
しかもこの水路は、武庫井路から常吉村に向かう唯一の水路である。
また昭和43年(1968)刊行の尼崎市史に掲載された六樋水路図(図12C)においても同様のことがらが確認できる。
武庫川の東岸には、昆陽井の他に、
野間井・生島(いくしま)井・武庫井・水堂(みずどう)井・守部(もりべ)井・大島井の六つの井組(六樋)があった。
これらは、中世末期か近世初期の創設と見られるが、
武庫川大改修を契機として、昭和3年(1928)兵庫県武庫川大樋合併普通水組合が発足した。(文献7)
現在、六樋共同取水口は、武庫川東岸、天王寺川左岸、尼崎市西昆陽3丁目37にある。
図12Cは六樋合併前の水路図を示すものである。
従って図12Bの武庫井の分岐は合計4本となり、これで四ッ合(ママ)となる。
絵図に「武庫井四ツ合分水」と記載があるのは、水路が込み入っているゆえに起こるこのような錯覚を避けるための注記であろう。

 次に「合」の字であるが、これは「洽」であるべきである。
なぜなら、「合」は合わさることに重点が置かれているのに対し、
「洽」は分配に重点が置かれており「分水」の目的を的確に表現しているからである。
すなわち、意味の取り違え又はさんずい偏の抜け落ちと思われる。
尚、参考までに図中「論外常吉村」とあるのを説明しておく。
宝暦7年(1757)、武庫川西岸の伊孑志井( いそしゆ )3カ村が上流に樋を築いたために、武庫川東岸の村々が用水に困り、
昆陽村、野間村を初めとする28カ村が訴え出た。
この絵図はその時の争論のために作成されたもので、常吉村は水にあまり困ってなかったために訴訟に加わらなかった。
そのため水の争論の外にあるという意味である。

さて貞享5年(1688)の絵図(図12A)を見ると、四つ洽が存在していないことがわかる。
そしてその後の宝暦8年(1758)絵図(図12B)には、四つ洽が設けられていることがわかる。
つまり、この間に水路の改変と統合がなされたということである。
これは、前述の如く昆陽井四つ洽のできる前の事柄である。

      
    
              図13 武庫井四つ洽の雰囲気を保つ源太郎橋

尼崎市常吉2丁目の公園の中にある源太郎橋の下に、武庫井の水路が四つに分割されるところがある。(図13)
図14は、前述の図12Bの広域図である。実はこの地図の方位は上が北ではない。
この地図の原図(付図1)は、幅103.4cm高さ194.0cmの巨大なもので、
その上端の左角のところに「西」右角のところに「北」の文字が記載されている。
また、絵図の高さの約半分の位置の左端に「南」右端に「東」の文字が記載されている。
これから推定すると、北の方位は約50度東にずれていることが判明する。
方位はおおまかなものであるが、水路の接続については信頼がおける貴重な資料である。
農村にとっては、水路の位置よりも水分けこそが最大の関心事であろう。
図14に守部井の取水口を基点にして、方位を追記した。
これにより、常松村と常吉村の位置関係が図12Aに近づくことがわかる。
守部井は、尼崎市武庫豊町3丁目付近、県立西武庫公園の北の武庫川堤防の下にあり、現地にはあずま屋や案内板もある。(図15)
図14の守部井を基点とした方位から、武庫井四つ洽は守部井のやや北の東方に位置することがわかる。
また図において、武庫井路と並んで南東に流れていた生島井路は、武庫井四つ洽を出た後東に向かい、
武庫井路から急速に離れてゆく。これらは、現地の状況と一致する。


    
   図14 宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図の解説図(部分、全体図は付図2参照)(文献2B)
       北の方位は約50度東にずれていることに注意


     
       図15 守部井の涌水池

このことから、図13が宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図の四つ洽を反映するかどうかはさらなる検証が必要としても、
位置的には妥当と思われる。
また図14において、水堂井路は守部井から水の供給を受けていることがわかる。
このことは享保2年(1717)水堂村・七ツ松村双方相絵図(文献8)とは相違しているが、
これも宝暦8年(1758)までの間に、水堂井路を守部井に接続する水路の改変がなされたものと推定される。
宝暦年代における守部井と水堂井のこのような関係の成立は注目すべきものであろう。
ところで図12C昭和3年(1928)六樋水路図における常吉村周辺の水路の状況を見ると、
図14宝暦8年(1758)絵図よりも図12A貞享5年(1688)絵図に似ていることがわかる。
このため、間を繋ぐ江戸時代末期の水利絵図の出現が待たれる。
 このように水路は時と共に変化していることに留意すべきである。
従って、現存の水路が歴史的な意義を持つためには、成立年代のはっきりした古絵図との対応関係が求められなければならない。
また当該の絵図の後に作成された別の絵図がある場合には、それとの比較検討も必要である。

6 まとめ
@江戸時代、洽はゴウでなくコウと呼ばれていた可能性が高い。
  また、洽と合の混同は文字が似ていることから生じた誤解であると予想される。
A洽(コウ)とは、洽木(コウボク)を水路に渡して正確に水を分配する施設であり、
  水の分配を公平にするために生みだされたものである。
  洽の適正な配置によって、井組全体の分水システムが実現される。
B洽の多くは、自然発生的な水路を改変統合したものである。
C昆陽組邑鑑の昆陽村の記述は、洽の設置の観点から宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図のより少し後のものであると推測される。
D昆陽井四つ洽は、水路の改変が認められるものの宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図にほぼ対応しており、
  昆陽組邑鑑の面影を色濃く残していることが判明した。
  これまで流路が不明であった平田溝は、天保14年(1843)昆陽村絵図の田字と現在の昆陽地区の旧地名を照合し、
  昆陽組邑鑑と同年代の宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図の検討から推定した。
  その結果、平田溝は始めは南野用水に沿って流れ、その後南に向かい
  堀池村字ミヨト地区から昆陽村字平田地区の田を潤していたと考えられる。
E宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図に記載された武庫井四つ洽の位置を、尼崎市常吉2丁目の公園の中にある源太郎橋周辺と推定した。
F水路は時とともに変化しているので、現存の水路が歴史的な意義を持つためには、
  成立年代のはっきりした古絵図との対応関係が求められなければならない。
  また当該の絵図の後に作成された別の絵図がある場合には、それとの比較検討も必要である。

このように昆陽井四つ洽は江戸時代の水利の象徴的な史跡であり、説明板の設置等の整備を関係各位にお願いいたします。

参考文献
 1 『昆陽組邑鑑』伊丹市立博物館史料集1 @p28 Ap27 1997
 2 『伊丹古絵図集成 本編 伊丹資料叢書6』 @p174 Ap156 Bp168〜170 Cp118〜120 八木哲治 1982 伊丹市
 3 『伊丹古絵図集成 絵図集 伊丹資料叢書6』@p58 Ap83 八木哲治 1982 伊丹市
 4 『伊丹市史 第2巻』 p320 1969 伊丹市
 5 『図説 尼崎の歴史 上巻』p178尼崎市立地域研究史料館 2007 尼崎市
 6 『尼崎市史 第2巻』 @p583 図13, p598 Ap584 図14 1968 尼崎市
 7 『六樋』池田徳誠 1978 尼崎市武庫川六樋水利運営協議会
 8 『享保2年(1717)水堂村・七ツ松村双方相絵図』 尼崎市立地域研究史資料館所蔵 常吉村文書
   (『尼崎の農業を語る』p149 尼崎市立地域研究史料館 2006 尼崎市 所収)
 9 『水路の用と美 農業用水路の多面的機能』 渡部一二(わたべかづじ) 2002 山海堂

付図1 宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図
         昆陽農業協同組合所蔵(194.0×103.4cm) 『伊丹古絵図集成 絵図集 伊丹資料叢書6』所収




付図2 宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図の解説図
                                   『伊丹古絵図集成 本編 伊丹資料叢書6』所収



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