イワクラウオッチング 第1部3章
六甲山系の磐座・霊石 寺院系
このコーナーでは、六甲山系に存在する磐座(いわくら)を霊石も含め幅広く紹介しています。
未来に向けて「磐座の可能性を秘めた研究材料」をできるだけ多く確保する見地から、現段階で磐座とは一般に認められてないもの多数収録しております。
磐座(いわくら)とは、人により様々な考え方がありますが、私は磐座をできるだけ幅広くとらえる観点から、単に「祈りの対象となった岩石」としています。石に祈りを捧げるとき、いつでもその石は磐座となりうるのです。
聖なる地であるため、後に多くの寺社が創建されました。そのため、本章では寺社単位に霊石も含めて紹介しております。
『Google Maps』にリンクを示す下線のあるものについては、磐座の概略位置をクリックによりGoogle Maps上にて確認することができます。
Google Maps:06雲ヶ岩 多聞寺系列 雲ヶ岩 (蜘蛛の岩) 法道仙人がこの地で修行中、紫の雲に乗った毘沙門天がいの岩の上に現われたと伝えられる霊験あらたかな岩である。 場所:六甲山頂、六甲山人工スキー場近く 熊野大権現の近く 「蜘蛛の岩」の名前は、昔、大きな蜘蛛が住んでいたからとの話もある。 「六甲山の地理ーその自然と暮らしー」 田中 真吾編 p162 神戸新聞出版センター 1988年刊 |
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全景 | 岩は真っ二つに割れている。 | |
<伝説> 参照文献 「六甲山の昔と今」 六甲会 1969年刊より この雲が岩は、有野町唐櫃にある多聞寺の奥の院として、今より千二百年前(大化九年)孝徳天皇の御代に、インドより渡った法道仙人がこの地で修行中、紫の雲に乗った毘沙門天がこの岩の上に現れたといわれ、紫雲賀岩と呼ばれていたが、略して雲が岩となったようだ。現在は、多聞寺より、春秋二回、お参りがある。 |
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Google Maps:07甲山 甲山 甲山は、神山(かうやま)とも言われ、神奈備山(神の座する山)である。神呪寺は、その麓にある名刹である。神呪寺の南には、磐座で有名な目神山(女神山)がある。 甲山の山頂からは石鍬、銅矛、弥生式土器等が出土している。 場所:甲山 参照サイト 神呪寺HP 神呪寺 |
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甲山と神呪寺 | 神呪寺の本堂 | |
Google Maps:14鳥の岩 神呪寺系列 鳥の岩(仏頭石) 甲山八十八ヶ所に仏頭石の立て札のある人の形をした岩がある。磐座としては、鳥の岩といわれ、鳥の横顔がリアルである。 南米のサイウイテ遺跡も同様の岩があり、古代人共通の考え方が伺われる。 甲山には、弘法大師と鷲の伝説が残されている。 場所:甲山八十八ヶ所 参考文献 中島和子「南米ペルーと日本にみる 太陽崇拝の古代遺跡について」 (『古代遺跡 いわくら<磐座>』1号 NPO古代遺跡研究所 2000) |
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鳥の側面、後は甲山 | 頭部が鷲の頭にそっくりである。 | |
神呪寺系列 卵石 鳥の岩の近くにある卵形状の石。おもしろいのでここでは卵石と呼ぶことにする。(正式名があるなら教えてください) それにしても大きい。恐竜の卵というところか・・・ 場所:Google Maps:鳥の岩の近く |
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卵石の西面 | 卵石の東面 | |
Google Maps:23仏座巖 仏座巖 岩は地中に埋もれ、上面だけが露出している。 説明板がなければ、これを巨岩の上部とは思うまい。 『岩の上に菜畠を作り、なお、数十人を容れる余地がある』と言う表現を信じるなら、この露出している岩はその百分の一にすぎないかも知れない。ならば、磐座として十分の資質を備えていると言えよう。 発掘してみるのも、磐座の研究・有馬の観光資源の開拓等の見地から有益ではないだろうか。 場所:有馬温泉太閤橋 袂石の隣 |
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地面のような巨岩の上部 | 後方に見える注連縄のかかった岩は袂石 | |
仏座巖 現地の説明板より 昔、「仏座巖」は、その形が仏座に似た巨岩であり、寛文の時代(1660年代)に洛(京都)の東南・霞谷の竹葉庵に隠棲し、徳が高く博学の当代一流の詩人・文人である日蓮宗の高僧・元政上人が命名したとされる。 元政上人は、寛文5年秋と、寛文7年春の二度、有馬を訪れ、その滞在記「温泉遊草」中の「仏座巖記」では『その上に菜畠を作り、なお、数十人を容れる余地がある』と巨岩の様を表現している。 このように一代の大徳に命名され、賛美された「仏座巌」は、早々に有馬の名物となり、諸記にその名を残すこととなる。 賎の女やつみたすからん仏座巖 上に菜まいたまいた 「迎湯有馬名所鑑」重香 後の文化9年(1812年)6月25日、大洪水により埋没し、遂にその巨大な偉容は消え、現在の姿になったと言われている。 |
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神呪寺系列 九想の滝 (くそうのたき) 弘法大師の九想の詩とゆかりの深い霊場である。 この石組が磐座かどうかは不明であるが、磐座のあとに御堂が建てられた可能性もある。 地形は細く長い谷あいで、磐座が多く残っている地形である。 九想(九相):人間の死骸が土灰に帰するまでの九段階の変相である。肉体や外界の不浄な様相を観じて、煩悩・欲望を取り除く観法がある。 |
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多聞寺 寺の説明版によると、多聞寺は孝徳天皇の頃(645〜654年)、古寺山に創建されたといわれている。平清盛の福原遷都の際(1177〜1180年)、古寺山が鬼門の方角にあたるので、新都の守護寺とされ大いに栄えたが、一の谷の合戦以後衰え、寛正3年(1462年)に現在の地に移された。 |
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多聞寺山門 | 多聞寺本堂 | |
多聞寺系列 心経岩(雲の岩) 昔、法道仙人の時に、彫られたと伝えられる般若心経。現在あるのは、大正5年の再建らしい。雲の岩は荒深道斉氏の呼び方である。 「六甲山神代遺蹟保存会主意書」に曰く 『高十五尺巾十八尺の巨岩にて近時俗僧により心経を刻したり共早朝石面の湿りたる時眺むれば竜の日に参するの形は刻字を超越して現出す・・・』 場所:六甲山頂、六甲山人工スキー場近く 六甲比命大善神のすぐ下 |
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全景 | 般若心経 | |
多聞寺系列 仙人窟 仙人窟は古くから知られおり、昭和9年(1934年)発行の有名な地図「六甲ー摩耶ー再度山路図」にもその記載がある。また、同地図には摩耶山の行者尾根東方にも、仙人窟が記載されている。 場所:六甲山頂。六甲山人工スキー場の駐車場の道を奥に進むと、右手に右の写真の案内板がある。 |
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仙人窟跡。このあたりは法道仙人をはじめとして仙人にゆかりの多い土地柄である。 | 六甲山人工スキー場の駐車場の道の奥にある兵庫登山会の案内板 | |
多聞寺系列 修行岩 (清盛の涼み岩) シュラインロードを下りきった北側に古寺山と言ういかにも何かありそうな山がある。 それで、今日も色々な調査で忙しい行程であったが、どうしても寄り道したくなり、その山に登った。 道はややこしく、所々に「本堂跡」、「護摩堂跡」の表示板がかかっている。 昔ここに多聞寺という寺があり、平清盛が福原に都を移したときに都の鬼門(北東)護る寺として大切にした。その後、源平合戦で源義経が一の谷を攻める時に、その道案内を断ったために焼き払われそうである。 頂上には、写真のような岩が鎮座していた。 場所:古寺山山頂 道に迷いやすいので注意のこと。 |
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修行岩 | 岩の近くには修行岩(清盛の涼み岩)の表示板が落葉に埋もれていた。 | |
上の写真の向かって左の岩の上部 | 上の写真の向かって右の岩の右側面 | |
大龍寺 768年和気清麻呂が、蛇ヶ谷(高雄山の西方の谷)で道鏡の刺客に襲われし時、龍(大蛇)に姿を変えた菩薩に命を救われたことにより開かれた寺である。 弘法大師が唐に渡る前に修行した寺としても有名で、境内には四国八十八ヶ所がある。大師が唐から帰ってから、再びこの地を訪れたことから再度山の名がついた。 参照サイト 大龍寺HP 大龍寺 場所:再度山の南山麓 |
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弘法大師像と大師堂 | 四国八十八ヶ所 第一番 霊山寺 | |
大龍寺 大師梵字岩 下の役小角の祠の右側面の岩に弘法大師が刻んだとされる梵字が残されている。 梵字は定かではないが、私には主尊種子のマンのように見える。このマンは文殊菩薩を表す。唐に渡る前この地で修行した弘法大師にとってもっとも欲しかったものは、密教を習得する文殊の知恵ではなかっただろうか。 大龍寺に問い合わせたところ次のような回答を戴いた。 梵字岩には、月輪中央にマン字、その下に小さくア字(大日如来を表す)が刻まれているが、この様な形式または文殊菩薩と大龍寺との関連性は不明である。 場所:大竜寺奥の院の 上役小角の祠の右側の岩 |
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大師梵字岩 | 円に囲まれた梵字 | |
大龍寺 役小角像 役小角と弘法大師。山岳宗教と密教。 この組み合わせは、各所に見られる。 場所:大竜寺奥の院の上 |
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岩をくりぬいて作られた祠 | 中央の像が役小角 | |
大龍寺 弘法大師自作亀石 弘法大師が岩に刻んだとされる亀の像。 岩のてっぺんにある。 亀の首の下には梵字らしきものが刻まれているが、大龍寺に問い合わせたところ次ような回答を戴いた。 亀の石の下の梵字は、主尊種字の聖観世音菩薩を表すところのサだと思われる。 大龍寺の本尊は如意輪観音と伝えられているが、尊容が聖観音に似ているため江戸時代の人が聖観音と勘違いされたか、または如意輪観音などのすべての変化観音の根本は聖観音であり、このことから聖観音の梵字を刻んだものと推測される。 亀の石は、一説には大師が刻まれたとされているが、いつの頃か不明であるが、風化によりこの様になった奇岩ではないかという説もある。大師が刻まれたとしても、入唐前に渡海の安全を祈られてのことと推測される。 場所:大竜寺奥の院の上、再度山山頂近く。大杉大天狗の横 付記 聖観世音菩薩の観音経には「念彼観音力波浪不能没(ねんぴかんのんりきはろうふのうもつ) かの念力を念ずれば波に没むこと能わず)」という観音力の功徳をたたえたところがあり、弘法大師がこれに着目し、入唐前に渡海の安全を祈るために大龍寺を訪れた可能性も考えられる。 |
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亀石上面 | 亀石側面 | |
亀の首、なにやら梵字らしきものが下に刻まれている。 | 亀石はこの岩の上にある。 | |
天上寺 摩耶山・天上寺は観音霊場、安産祈願の寺として信仰を集めたお寺で、646年(大化2年)孝徳天皇の勅願を受けたインドの高僧法道仙人が開創したことに始まる。この法道仙人は、多聞寺とも縁が深く、前に掲載してある雲ヶ岩・心経岩にも登場している。また、法道仙人は神戸市西区の西明寺・近江寺、宝塚市長谷の普光寺、淡河(おうご)の石峰寺(しゃくぶじ)、南僧尾の慶福寺・極楽寺、行ノ原の仙養寺、播磨の一乗寺などを開いたことでも知られている。 その後、弘法大師が入唐の際に、当時中国で女人守護の御仏として崇拝されていた梁の武帝作の摩耶夫人尊を日本に請来され、天上寺に泰安した。この女尊はお釈迦様の聖母で、それ以来、天上寺のある御山を女人高野・仏母摩耶山と呼ぶようになった。 注 元々、摩耶山山頂南の中腹にあった天上寺は、昭和51年(1976年)1月に焼失し、開祖の地と伝えられる現在の摩耶別山に移った。そのため、寺は近代の建築物である。旧天上寺跡は史跡公園として整備され、現在は六甲山・摩耶山のハイキングコースの一部になっている。 参照サイト 天上寺HP 天上寺 |
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道路に面したモダンな山門 | コンクリート製の本堂 | |
開祖 インドの高僧 法道仙人 | リアルな面容の不動明王 | |
弘法大師の活眼石。昔、弘法大師がこの石の脇で、眼病平癒の加持を行ったとされる。 | 仏足石。お釈迦様の足型である。 | |
鷲林寺 この寺の山号は六甲山である。そのためか、寺の境内には石の宝殿と同じ神々が祀られていた。寺の由緒でも明らかなように、弘法大師が寺を開く前は、山岳宗教の霊地であった。 近くには、カトリック系のトラピスチヌ修道院があり、豊かな水が流れている。 参照サイト 鷲林寺HP 鷲林寺 |
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新しく建て直された六甲大神の石碑 | 見にくいが白山大権現と読める。 |