第2部 近畿のイワクラ
第8章 特集:飛鳥の石造物
このコーナーでは、奈良県飛鳥の石造物をイワクラも含めて幅広く紹介しています。
飛鳥は石造物の宝庫で、考古学的にも様々な研究がなされています。イワクラは謎に包まれた部分が多くありますが、これらの石造物と何等かの係わりがあることは明らかです。飛鳥の石造物を探査することにより、イワクラの姿も見えてくるのではないでしょうか。
未来に向けて「イワクラの可能性を秘めた研究材料」をできるだけ多く確保する見地から、現段階でイワクラとは一般に認められてないもの多数収録しております。
『Google Maps』にリンクを示す下線のあるものについては、磐座の概略位置をクリックによりGoogle Maps上にて確認することができます。
本ページに掲載された飛鳥の石造物の全体につては『飛鳥石造物総合Google Maps』を参照ください。
Google Maps:01益田岩船 益田岩船 <橿原市教育委員会の説明板より> 岩船は貝吹山(かいぶきやま)の連峯である石船山(いわふねやま)の頂上近くに所在する花崗岩の巨大な石造物で、俗に益田岩船とよばれている。 この石造物は、東西の長さ11m、南北8m、高さ(北側面)4.7mの台形を呈し、頂上部と東西の両側面に幅1.8m、深さ0.4mの浅い溝状の切り込みを設けている。 頂上部ではこの溝内に間隔をおいて東西に二つの方形の孔が穿たれている。孔は東西1.6m、南北1.6m、深さ1.3mと東西ほぼ等しく、孔の底部のまわりには幅6cmの浅い溝をめぐらす。石の加工は上半部が平滑に仕上げられているが、下半部は荒削りのままで格子状の整形痕がみられる。 用途は明らかでないが、上半部平坦面の溝や孔が高麗尺(こまじゃく)で計画され、花崗岩の加工技術が終末期の古墳と共通するなど、すくなくとも七世紀代の特色をもち、飛鳥地方に分布する特異な石造物の中でも最大のものである。 <岩船の用途> 間壁忠彦氏等によれば、岩船を正面を底にして立たせたものが家型の横口式石槨であるとし、これは兵庫県高砂市の石の宝殿と同じコンセプトであると述べている。 私が調査中に出会った現地の古老から聞いた話は、『ウィキペディア』の第一に記載した「巨大な石碑の台石」説であった。他に、物見台とする説もある。 参考文献 『石宝殿 古代史の謎を解く』 間壁忠彦 間壁葭子(よしこ)著 神戸新聞総合出版センター 1996年刊 フリー百科事典『ウィキペディア』 益田岩船 『火の路』 松本清張著 文芸春秋 1983年刊 『ペルセポリスから飛鳥へ』松本清張著 日本放送出版協会 1979年刊 p76〜97、p203〜207 |
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説明板の立つ岩船の北面 水が西側の岩の割れ目から垂れている。 |
斜面山側よりの岩船の南面を見る。 表面は良く仕上げられている。 |
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岩船上部の二つの方形の穴。東側の穴(左側)には、西側(右側)に比べて多くの水が溜まっているのが分る。 | 岩船東側面上部の加工面。 仕上げは素晴らしい。 |
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岩船西側面、格子状の整形痕が下部に見える。 岩船全体は、西側に傾斜しているのが分る。 |
左の写真下部の整形痕の拡大 タイルを剥がす要領で、岩を加工したものと思われる。 |
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岩船の用途は不明であるが、次の諸説がある。 1.益田池の造築を讃えた、弘法大師の書による巨大な石碑の台石 最も古くからある説で、上にのっていた碑は高取城築造のさいに石垣をつくるための用材として破砕されたという伝説がある。 2.占星術のための天体観測台 二つの穴に石柱を建て、その上に横柱を渡して星を観測したという説。 3.火葬墳墓 穴の中に遺骨を入れて石の蓋をするという説。 4.横口式石槨(せっかく)の古墳 横口式石槨の建造途中で石にひびが入っていることが分り放棄されという説。その後別の石を使って完成したものが、岩船から南西へ500メートルほど行ったところにある牽牛子(けんごし)塚古墳であるという。東側の穴と違って、西側の穴には水がたまらない事からも亀裂が入っている事がわかる。現在では最も有力視されている説だが、決定的な証拠は無い。 (注) 2010年9月、発掘調査により、牽牛子塚古墳が斉明天皇の陵墓であることが ほぼ確実となった。とすれば、岩船は斉明天皇の石槨の失敗作ということになる。 5.ゾロアスター教の拝火壇⇒水の女神(アナーヒター)の祭壇 二つの方形穴は、イランのパサルガダエとナクシュ・イ・ルスタムのゾロアスター教遺跡との類似から、拝火壇の火を燃やすのに使われたとする松本清張の説。(『火の路』) しかしその後、サンゲ・アープ(水の岩)との類似から、水を司る女神アナーヒターの祭壇であるとした。 アナーヒターはゾロアスター教の主神アフラ・マズダの太陽神ミトラと並ぶ脇侍である。(『ペルセポリスから飛鳥へ』) |
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Google Maps:02牽牛子塚古墳 牽牛子塚古墳 (けんごし) <明日香村の説明板より> 墓屋は巨大な凝灰岩をくり抜いた横口式石槨で、中央部に間仕切部を削り出すニ室の複室構造をしており、当初から追葬を意識して石槨を製作したものと考えられる。それぞれの石室の床には長さ1.9m、幅0.8m、高さ0.1mの低い棺台を削り出している。 ここを訪問した理由は、石の宝殿、益田岩船と共通する、巨石の加工技術について知りたかったからである。このレベルを見れば、石の宝殿、益田岩船が建造途中の横口式石槨である可能性が高いと思われる。 (注) 2010年9月9日、発掘調査により、この古墳が斉明天皇の八角形墳であることがほぼ確実となったことが新聞で報じられた。 墳丘(高さ約4.5m)のすそは上からみると八角形状に削られており、北西のすそから3辺分の石敷き(長さ約14m)が見つかった。 八角形墳は道教思想に基ずくものであり、斉明天皇の墓としてふさわしい。 |
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牽牛子塚古墳の入口と扉石 | 桜が咲くのどかな古墳 | |
二部屋に分かれた石室の内部、それぞれに棺台が設置されている。 | 右の部屋、左の部屋もまったく同じ。 | |
Google Maps:03鬼の俎板・雪隠 鬼の俎板・雪隠 畑の中を通る遊歩道の脇の高台には「鬼の俎」が、遊歩道を挟んだ高台の麓に「鬼の雪隠」がある。両者は直線距離にして数十メートル離れているが、元は1つの古墳の石室だったものが、盛土が無くなったうえ、二つに分かれてしまったものである。 元々は繰り抜かれた横口式石槨の石室(鬼の雪隠)とその底石(鬼の俎)であった。 |
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底石(俎) 長さ約4.5m、幅約2.7m、厚さ約1m | 石室(雪隠) 内幅約1.5m、高さ約1.3m 端面の加工は見事である。 |
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伝説 言い伝えによると、風の森と呼ばれるこの地方に鬼が棲んでおり、通行人を騙してとらえ食べたと云われている。「俎」で調理し、「雪隠」で用を足したという。 |
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Google Maps:04石舞台古墳 石舞台古墳 飛鳥ではあまりに有名な観光スポットである。被葬者は、古代この地で最大の勢力を誇っていた大豪族の蘇我馬子であるとの説が最も有力視されている。 <奈良県教育委員会説明板より> この古墳は、封土(もりつち)の上部がなくなり、玄室部の天井石と側壁の上方が露出していて、天井石が平たいので、古くから石舞台古墳の名で親しまれている。 玄室の長さは、約7.6m、幅約3.5m、羨道の長さは約11.5m、幅2.2mで、玄室底部から羨道中央部を南に通る排水溝がある。 現在封土基部は方形で、外斜面に自然石の貼石がある。一辺の長さは約55m、その外方のからぼりの幅は底部で約6〜7.6mで、北方の幅は約6.5mである。その外側に上幅約5mの外堤があり、内外斜面にも下方部と同じく貼石をする。封土は、方形・上円下方形とも考えられているが、現在なおはっきりしないが、巨大な石材を架構した雄大さは、日本古墳の中でも群を抜いた後期古墳である。 |
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石舞台全景 右に羨道がある | 復元された石棺 | |
中央に排水溝が通る南部の羨道 | 玄室内部 | |
Google Maps:05酒船石 酒船石 (さかふねいし) <明日香村飛鳥保存財団の 説明板より> この石造物は、現状では長さ5.5m、幅2.3m、厚さ約1mで花崗岩で出来ている。北側及び南側の一部は欠損しており、近世にどこかへ運び出されたものと考えられ、石割りの工具跡がのこっている。石の上面に、円や楕円の浅いくぼみを造って、これを細い溝で結んでいる。酒をしぼる槽とも、あるいは油や薬を作るための道具ともいわれている。しかし、この石の東40mのやや高いところ、ここへ水を引くための土管や石樋(せきひ)がみつかっていることから庭園の施設だという説もある。 この近くには、7世紀中頃の水の祭祀施設といわれる酒船石遺跡がある。 |
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酒船石の左右対称の掘り込み図形 | 一部持ち去られたといわれる鑿の跡 | |
亀形石造物(酒船石遺跡) | 亀の拡大写真(左が頭、右が尻尾) | |
Google Maps:06亀石 亀石 <明日香村飛鳥保存財団の説明板より> 亀石と呼ばれる石造物は、いつ何の目的で作られたかは明らかでないが、川原寺の四至(しし:所領の四方の境界)を示す標石ではないかという説がある。 亀石の伝説の中で、大和盆地が、昔、湖であったという話は、地理学や考古学の見地から事実と推定されている。 |
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サイクリングロードの傍にある亀石 | 南西に向くユーモラスな亀の顔 | |
亀石の伝説<明日香村飛鳥保存財団の説明板より> むかし、大和が湖であったころ、湖の対岸の当麻と、ここ川原の間にけんかが起こった。長いけんかのすえ、湖の水を当麻にとられてしまった。湖に住んでいたたくさんの亀は死んでしまった。何年か後に亀をあわれに思った村人達は、亀の形を石に刻んで供養したそうである。 今、亀は南西を向いているが、もし西に向き当麻をにらみつけたとき、大和盆地は泥沼になるという。 |
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Google Maps:07猿石 猿石 欽明天皇陵の側にある吉備姫王墓(きびひめのみこのはか)の墓域にある。江戸時代に欽明天皇陵の南側の字イケダの水田から掘り出された高さ1mの4体の石造物である。 それぞれ、「女」、「山王権現」、「僧」、「男」の名前が付けられている。 |
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右:女 左:山王権現 | 右:僧 左:男 | |
Google Maps:08二面石 二面石 橘寺の境内の本堂左手にある。 石の両側面に人の顔を掘ったもので、右善面、左悪面と呼ばれ、人の心の持ち方を現したものといわれている。飛鳥時代の石造物の一つとされる。 橘寺 太子建立の7寺の一つで、正式には仏頭山上宮皇院菩提寺といい、橘樹寺、橘尼寺とも称する。現在の寺地には、東面する四天王寺式伽藍配置の跡が残っている。しかし、橘寺の存在を示す最も古い文献は『日本書紀』で、680年(天武9)に橘尼寺で出火し10坊を失ったことが記録されている。この寺から出土する瓦は7世紀後半のものが多いが、7世紀前半に使われたとされる素弁蓮華門軒丸瓦も発見されていて、創建はその頃まで遡ると考えられている。 聖徳太子出生の地 寺伝では、橘寺は聖徳太子(=厩戸皇子)出生の地と伝える。出生地とされる伝承では、この地に欽明天皇の別宮があり、太子は574年(敏達3)にここで誕生したと言われている。 |
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二面石正面 | 平坦に仕上げられた二面石の背面 | |
右善面 | 左悪面 | |
Google Maps:09マラ石 マラ石 マラ石は、地表から斜めに突き出した男性の陰茎に似た石である。仏教考古学者の石田茂作によりマラ石と命名された。宮域を示すための標石、橋脚として利用されたなどの説が出されているが確かな用途は不明である。 |
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祝戸のフグリ山を指すマラ石 | マラ石の頭部、リアルである。 | |
Google Maps:10飛鳥坐神社 飛鳥坐神社 (あすかにいます) この神社の元の鎮座地の候補が、前述のマラ石のある祝戸のフグリ山一帯であることは興味深い。境内は、数え切れないほどのリンガとヨナで一杯である。 お田植神事「お田植祭(おんだまつり)」には夫婦和合の所作があり、奇祭として知られている。 <http://www.7kamado.net/ asukani.htmlより> 飛鳥坐神社は式内社で、平安時代、甘南備山から鳥形山に移座されたことになっているが、従来甘南備山(飛鳥神奈備)がどこにあったのかは不明である。一説に飛鳥の神奈備は豊浦山一帯(現甘樫丘)、雷丘、あるいは橘寺南方のフグリ山一帯と見る説や、また現飛鳥坐神社のある場所が飛鳥神奈備であり鳥形山であって、移座ではないとする説なとがある。 祭神は天之事代主命、高皇産霊命、飛鳥甘南備三日女神、大物主命の四柱の神であるが、古くは賀夜奈留美命が祭祀されていたとも言われる。 その後、多くの社が摂せられた。 |
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この巨大なリンガは高皇産霊神とされる。造化三神の一つである。 | 人の顔のようにも見える。夫婦和合像? | |
ヨナとリンガ | ヨナとリンガ | |
Google Maps:11弥勒石 弥勒石 飛鳥寺の南西の飛鳥川の東岸にあり、地蔵菩薩を思わせる形状をしている。高さ約2メートル、幅約1メートル。条里制の標石とも言われるが確かな用途は不明である。この石を拝むと下半身の病気が治るという伝説があり、現在は石を被う祠が建てられ信仰の対象となっている。 顔の様子は定かではないが、猿石と共通したものを感じさせる。 |
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祠のなかの弥勒石 | 口元がぼんやりと判別できる。 | |
Google Maps:12上居の立石 上居の立石 (あげいのたていし) この立石は、長方形の花崗岩で、南を正面としている。 高さ1.9m、幅1.7m、奥行きは下が1m、上は0.3mほどで、加工痕跡はない。 飛鳥京城の結界石とする見方もあるが定かではない。 場所:石舞台からから多武峯に向かう広い車道(155号線)を少し進むと、左手に山に登る細い道がある。その道を登れば、すぐに立石が見つかる。表示板もある。 |
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長方形の立石正面 | 立石の側面 | |
Google Maps:13豊浦の立石 豊浦の立石 (とようらのたていし) この立石は、高さ2.9m長方形で、東を正面としている。 我が国初の女帝第33代推古天皇らを祀っている甘樫坐(あまかしにいます)神社の境内にある。 この立石の前で4月に豊浦、雷大字の氏子により、嘘、偽りを正す「盟神探湯(くがたち)神事」が行われる。 「日本書紀」によると、415年(第19代允恭天皇4年)氏姓制度の混乱を正すために、甘橿の神の前に諸氏が会して、煮え湯の入った釜に手を入れ、その中の小石を探らせて、「正しき者にはヤケドなし、偽りし者はヤケドあり」と云って、正邪真偽を決める古代の神明裁判「盟神探湯」が、この地で行われたと伝えられる。 |
立石の正面、前に盟神探湯神事の円形の炉が設けられている。 |
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立石の板状の側面 | ||
Google Maps:14岡の立石 岡の立石 (おかのたていし) この立石は、高さ約3m棒状の岩である。 岡寺仁王門の北側の山道を200m登った左手の茂みの中にある。茂みに隠れているので登山路からは見つけにくいが、道標があるので問題はない。 これも飛鳥京城の結界石とする見方があるが定かではない。 |
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岡の立石 | 岡の立石(登山道側) | |
Google Maps:15飛鳥資料館 飛鳥資料館 飛鳥の石造物のまとめとして、飛鳥資料館の展示物(屋外のレプリカ)を紹介する必要があるだろう。 須弥山石 高さ2.3m、3段積の円錐状をした噴水の機能を持つ鑑賞用の装飾品である。石の全面に浮き彫りをし、上段に仏教世界の中心となる須弥山を表現し、中段にこれを取り巻く山脈、下段には水波紋を現している。 出水の酒船石 二個の石を東西に配列した流水施設である。東側の石は高所にあり、水は東から西に流れるようになっている。 東の石は、長辺2.5m、短辺1.8mの西洋梨を半分にした形をしている。西の石は、長さ3.2m、幅0.5mと細長く、すべり台のような傾斜のある石に、幅10cm、深さ20cmの溝を通している。 石人像 高さ1,7m、幅70cmの石に、等身大の老人男性が衣服を着て、岩に腰掛け、その横に老女がそっと手をよせている。スカートをはき筒袖の上着を着用している。像の内部に管状の穴があり、須弥山石と同様に噴水の機能を持つ鑑賞用の装飾品と考えられる。 高取の猿石 高さ85cm、幅73cm、厚さ68cm。顔の造作はメガネ猿に似ており、目と鼻を各々円形にとり、口元の両端をあげ、耳を顔全体に取っている。 人頭石(顔石) 高さ103cm、幅80cm、厚さ110cm、高さ103cm。角張った顔は大きな縦長の耳と鷲鼻、さらに額の生え際にメリハリを入れ、目元は写実的で正倉院の伎楽面を連想させる。この人頭石は、江戸時代には、手洗鉢の顔石として知られていた。 参考文献 あすかの石造物 飛鳥資料館 2001年刊 |
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須弥山石 | 出水の酒船石(水は東から西に流れている) | |
石人像(老人 男側) | 石人像(老人 女側) | |
高取の猿石(レプリカ:本物は下欄参照) | 人頭石 上部は手洗鉢となっている | |
Google Maps:16猿石(高取城跡) 猿石 高取城二ノ門外、城下町に下る大手筋(近鉄壷阪山駅方面)と岡口門(飛鳥方面)の分岐点にある。制作は、飛鳥時代の斉明朝あたりと推定される。高取城築城の際、石垣に転用するために明日香村から運ばれたと言われている。 明日香村檜隈(ひのくま)の吉備姫王(きびのひめみこ)の墓の域内にある石仏像と同類のものである。 郭内と城内の境目を示す「結界石」とした説もある。 |
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案内板の立つ猿石 | 猿石の拡大写真 | |
Google Maps:17福石 福石 綱掛神事は、栢森(かやのもり)と稲渕両大字に伝わる神事で、カンジョ掛神事ともいう。 子孫繁栄と五穀豊穣を祈るとともに、悪疫などこの道と川を通って侵入するものを押し止め、住民を守護するための神事といわれている。 栢森の神事は、福石(陰物ともいう)と呼ばれる石の上に祭壇を設け、僧侶の法要の後、飛鳥川の上に陰物を形どった「女綱」を掛け渡す。 |
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綱掛神事の福石 | 「女綱」の中央にぶら下がる陰物 | |
Google Maps:18くつな石 くつな石 石舞台の近くにある都塚古墳の前の道に、くつな石の道標が立っていた。くねくねとした細い道を1kmほど行き、川沿いの山道を少しはいったところに、この石はあった。 杉林の暗がりの中で、鳥居の奥に鎮座する岩は、まさにイワクラである。 石にのみを入れると血が吹き出したという伝承は、各地に残っている。 これも、触れてはならない石の神聖さを物語るものであろう。 |
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鳥居の奥に鎮座するくつな石 (高さ2m弱) |
玉垣に囲まれたくつな石の左側面 | |
民話<大字阪田の説明板「くつな石の由来」より> 昔、この巨石に目を付けた石屋が石を切り出そうと、のみで「コン!」と一打ち・・・すると石の割れ目から、赤い血が流れ出し、傷ついた蛇が現れた。驚いた石屋はそのまま逃げ帰ったそうな。ところがその夜から、ひどい熱と激しい腹痛におそわれ、とうとう亡くなってしもうた。村人たちは、これを「祟り」と恐れ、敬い、この石を「神の宿る石」として祀った。それがくつな石である。 |