六甲岩石大事典 第1部3章 六甲西部・摩耶以西

 このコーナーでは、過去を含め、地図、文献等にその名が確認される岩や石を紹介しています。
3章は、「阪急六甲駅ー杣谷ー杣谷峠ー徳川道ー森林植物園ー山田道ー丸山谷ー神鉄谷上駅」のラインから
「阪急御影駅ー住吉川ー本庄橋ー七曲りー一軒茶屋ー魚屋道ー神鉄有馬駅」のライン間の六甲西部の地域に加え、
摩耶山から旗振山までの摩耶以西の地域を収録しております。

天狗南尾根
天狗岩
六甲山には天狗岩なるものが多数存在する。昔、行者がこのようなところで修行しているのを見た村人が、天狗だと思ったとの説がある。
それはともかく、この岩は六甲山の天狗岩の代表といってよいであろう。

場所:六甲オリエンタルホテル近くの天狗南尾根。近くにロープウェイの鉄塔がある。
天狗岩遠望 天狗岩頂部の広場。
どこか荒地山ボルダー群のプラクティススラブを思い出させる光景だ。
すこし鼻は低いが、確かに天狗である。 左の岩の裏側を写したもの
重箱岩
古地図(参照文献1)を見ていると、六甲山オリエンタルホテル南方の天狗岩の東に重箱岩と呼ばれる岩がある。古地図には、有名な天狗岩(標高769m)の記載はなく、代わりに太郎谷山(標高764m)の記載がある。

さらに、石切り道に立てられた説明板の中に、重箱山、重箱岩(石切り場の名前)の記載が見られる(写真参照)。重箱山の位置は不明であったが、図書館でふと手にした本(参照文献2)の中に石切場の記述を見つけた。

これから推定すると、重箱山とは、特定の山ではなく、山帳場が置かれた地域及び山帳場が管理する地域を指すものと考えられる。

私は最初、正月のおせち等をつめる重箱を想定し、そのような形態の岩を探索し、見つけることができずに悩んでいた。
しかし、重箱山の謂れはさておき、重箱岩とは単に重箱山地域にある岩と考えるのが最も自然であることがわかった。

後に知った<参照文献3 直木氏執筆の新聞記事>によれば、重箱岩は柱状の巨岩とのことであった。
右の写真では、岩場の西端がそれに相当する。
重箱岩の西端 柱状の巨岩である。 重箱岩の中央部、六甲ではかなり大きな岩場だ
重箱岩の東端 石切道に立てられた石切り場の説明板
<参照文献>
1 「六甲ー摩耶ー再度山路図」 直木重一郎著 関西徒歩会 1934年刊(昭和9年)
2 「六甲山の地理ーその自然と暮らしー」田中真吾編 p233 
  1988年刊 神戸新聞出版センター
  『石切場(山帳場)は、御影とは離れた住吉川の上流にあり、荒神山・重箱山・五助山と
  次第に上流に移動している・・・』
3新聞記事 大阪朝日新聞 神戸版 大正15年11月19日発行 
 六甲山の『岩』巡礼(二) 直木重一郎執筆
 寒天山の東を流れている地獄谷を十数町北進すると西に分岐する谷がある。
 それを更に数町上がると眼前に巨岩が柱状にそばだっているのを認める。
 これが重箱岩である。
天狗塚
何一つさえぎるもののない抜群の展望台だ。山も海も存分に満喫することが出来る。
この岩は、明治43年(1910)測図の『正式二万分一地形図集成』にも登場する古くからのものである。
上記の地図において六甲山中に登場する他の岩は、烏帽子岩(石楠花山)、天狗岩(石楠花山)、三石岩(三国岩)、雲ヶ岩(六甲山頂部)、弁天岩(芦屋川)しかない。
 実はこの岩はもっと古くからあり、『摂津名所大絵図』天保七年(1836)の天狗岩がそれにあたるものであろう。
 六甲山に「天狗岩」はやたらとあるが、「天狗塚」と呼ばれるのはこの岩のみである。
これだけがなぜ天狗塚と呼ばれるようになったかは定かではないが、この塚が西灘村と六甲村の境界にあたることに係るのかもしれない。(『正式二万分一地形図集成』
「有馬」参照)
 関連事例:阿弥陀塚・一里塚

場所:長峰山山頂
昭文社 山と高原地図48 
 六甲・摩耶 2005年版によれば、天狗塚と長峰山山頂は離れたところに図示されているが、写真の標柱によれば一致している。
 平成17年(2005)3月発行の「二万五千分一地形図」には記念碑のマークがあるが、現在それらしきものは見当たらない。
尚、国土地理院の記念碑のマークに酷似したものが、六甲登山のパイオニヤである直木重一郎氏の地図「六甲ー摩耶ー再度山路図」にもある。

『摂津名所大絵図』天保七年(1836)
  人文社(神戸中央図書館蔵)
天狗塚(長峰山)の標柱 天狗塚上部
天狗塚上部に設置された4等三角点687.8m 摩耶山を望む。左のアンテナがあるところが摩耶山の山頂。
参考文献  『神戸背山登山の思い出』 棚田真輔編著  松村好浩監訳 p114〜115 1988
同書には、天狗塚にまつわる次のような話が紹介されている。
尚、この原文は、『INAKA』Vol.\ H.E.Daunt著 p6〜10 神戸ヘラルド新聞社 1919にある。

 昔々、山頂の岩の近くに大きな松の木が1本あってその枝に天狗が座っていたのだという。
このあたりに住んでいる人たちはこの鬼たちをたいそう恐れ、山頂に登ることをいましめていた。
殺されるのがこわかったのである。
ある時、勇気のある男が山頂へ登った所、長い鼻をもった鬼のためにさんざんな目にあい、命からがら逃げ戻ったことがある。
文明の到来とともに迷信も後退し、先に述べた松の木は明治時代の初期に切り倒された。
もっとも切られた目的ははっきり分からない。
五毛(石屋と大石の上方)の駕籠屋の話によれば、
昔、鼻の長い鬼たちが山頂の岩にやって来て腰かけたからそんな名がついたのだという。
三国岩
(三石岩)

餅を斜めに三枚重ねたような形が印象的である。このため、昔は三石岩と呼ばれていた。
また、この岩の上に立てば、摂津、播磨、淡路の三国が見渡せることから、三国岩(みくにいわ)の名がついたと言われる。

この岩は、山論に関して境界標となった岩である。同類のものとして生田川トェンティクロスの三笠岩がある。三笠岩については、本ページの下欄参照。
山論:昔の山地利用を巡る村々の争い

参照 『神戸の史跡』(左記参照)
    一里塚 阿弥陀塚


場所:六甲山頂、三国池近傍
三国岩正面(道路側) 三国岩の接近写真
三国岩の標識 近くにある三国池
<三国岩の地名の変遷>
三石岩は三国岩の古名であり「さんごくいわ」と読む、この近くにある三等三角点の点名も三石岩となっている。また、明治44年10月30日発行の大日本帝国陸地測量部の地図
p126にもその名がある。さらに、昭和8年の竹中靖一著「六甲」の添付地図には「サンゴク岩」と記載されている。

つまり、三石(さんごく)→サンゴク→三国(さんごく)→三国(みくに)と呼び名が変化したものと推定される。地名の変化を調べるのもなかなか面白い。思えば三石岩は、形態からくる素直な名前である。
また、この岩は山論に関して半国岩とも呼ばれ、谷上村と神戸灘村との国境となっていた。(『神戸歴史物語』小部史研究同好会p112 1989)

『神戸の史跡』 神戸市教育委員会編 1981 P44より引用
三国岩 六甲山の前ケ辻の旧武庫・菟原・有馬三郡の境界点に自然の巨岩が三つ集まっているので、三つ石、三郡岩とも三国岩ともいわれている。
六甲山系のなかに口一里、中一里、奥一里の名があり、慶長九年(1604)(注)に、山の南つまり神戸側十数か村と、北の山田村(今の北区)とか山論を起こしたが、そのときの文書にこの名がみえる。
この三国岩を基点として、それから南西へ塚を築き、それを見通して口、中、奥一里など境界線を定めていた。
この山論は室町時代から続き、慶長年間に再燃して、明治九年になって解決したという、珍しい山の境界争いであった。
(注)原文は慶長八年とあるが、中一里山山論のはじまりは慶長九年である。   
シェール槍
この山の西にシェール道と呼ばれる道が伸びている。
シェール道 とは、六甲開発期に外人が盛んにハイキングしていた頃、
ドイツ人のシェール氏が好んでこの道を歩いていたのでその名がある。

場所:穂高湖北方
シェール槍の山頂 シェール槍直下の登り
シェール槍の記載された説明板 穂高湖とシェール槍(中央の山)
三枚岩 (天狗岩場)
新穂高にある岩壁がなぜ三枚岩と呼ばれるのか疑問であったが、読者の方から詳細な情報をいただいた。

『六甲の谷と尾根』によると
.「三枚岩は西六甲ドライブウェイが石楠花山南端を大きく迂回するあたりからはっきりと眺められる大きな岩壁である。
三枚の岩で出来ている為この名前がある。」とある。

参考文献:『六甲の谷と尾根』
石上隆章(中村勲編集、やまゆき会事務局発行、昭和60年) p161、162

場所:国土地理院 2万5千分1地図 神戸首部「三枚岩」と六甲岩石大事典 第2部1章「天狗岩場」参照。
尚、国土地理院の地形図では、三枚岩は尾根上に描かれているが、正確には写真のように斜面に広がった露岩である。

三枚岩の全体を眺める時も、新穂高に登る時も、送電鉄塔が良き目印となるので、地図にて確認すること
 西六甲ドライブウェイからの三枚岩の全景 新穂高側から見た西六甲ドライブウェイの撮影地点(送電鉄塔の下あたり)
左の写真:かなりぼやけているが、一番左に見えるのが一枚目の岩壁、その右の二つの尾根に挟まれたのが二枚目の岩壁、ほとんど見えないが送電線鉄塔の下あたりが三枚目の岩壁。
つまり、三枚岩は山頂から尾根筋に並んだ三つの岩壁である。
最上部の岩壁、中央部には水路とおぼしき黒い溝が見える。 送電鉄塔の近くの最下部の岩壁
岩登りの対象としては、緩い傾斜である。
石楠花山
烏帽子岩
言われてみると、確かに烏帽子だ。
タイプは侍烏帽子となろう。
こうした岩は全国に多数分布する。
この岩は、正徳二年(1712)頃出版された『和漢三才図會』(巻第74の巻頭「摂津之図」矢田部郡)にも登場する岩と思われる。
『六甲北摂 ハイカーの径』によれば、炭ヶ谷道から烏帽子岩が仰ぎ見られたとある。そういえば、六甲山は、昔、禿山であったと聞く。

場所:石楠花山(炭ヶ谷道を登り切った分岐点に道標あり)
国土地理院 2万5千分1地図 
 神戸首部「烏帽子岩」参照

<参考文献>
『六甲』 竹中靖一著 p417 
      複刻版1976年刊
『六甲北摂 ハイカーの径』 木藤精一郎著        p208 1940年刊
侍烏帽子とすると、これが正面となる。
前部の土を除去すると、よりリアルな形となるかもしれない。
 参考 侍烏帽子の関連サイト
侍烏帽子の後部。納得の形である。
石楠花山
天狗岩
この岩からの眺めは素晴らしい。
暖かい日差しを浴びて、ここで弁当を食べると最高の気分になる。
この岩は、正徳二年(1712)頃出版された『和漢三才図會』(巻第74の巻頭「摂津之図」矢田部郡)に上記の烏帽子岩と並んで登場する岩と思われる。
『山田郷土誌』には次のような記述がある。
「山の麓に福浄寺という小字名があるが、これは修験道場として栄えたかなりの大寺の跡という。石楠花山に天狗岩、烏帽子岩という二つの巨岩があるのも、修験道場の名残りかもしれない」

場所:石楠花山(道標なし)
石楠花山の展望台に至る車の通れるような広い道を進んでゆくと、右手に写真のような広場がある。
その広場の右手にルートがある。

<参考文献>
『六甲』 竹中靖一著 p417 
      複刻版1976年刊
『山田郷土誌』第二篇 p339 1979年刊
天狗岩西峰 天狗岩北峰(やや西よりに向いている
 約10度)
天狗岩の手前の標柱 天狗岩に至るルートは右手にある。
赤テープ有
丸岩
市立森林植物園から神鉄谷上駅に下る道は、山田道と呼ばれる歴史街道の一部である。
古地図によると、山田道は、丸山谷で二つに別れ、右が上谷上、左が下谷上に通じていた。
そして、写真のような裏に昭和三年十一月と刻まれた道しるべが今も残されている。その近くに立つ神戸市の道標には、右の道は行き止まりと表記されているが、道は今も赤テープがあり通れそうである。
丸岩は、樹木に覆われその巨大な存在に気付く人は少ない。私も、何回となくこの場所を通過しながら、古地図を見るまでその岩に気付くことはなかった。そして、誰もが眼にするであろう道しるべも漫然と眺めていただけであった。
昔の山越えの旅人は、この道しるべから巨大な丸岩の姿を眺め、里が近いことを喜んだであろう。
丸岩は歴史の証人として、樹木の影で厳として今も存在している。

場所:山田道 丸山谷

<参考文献>
古地図『六甲ー摩耶ー再度山路図』 直木重一郎著 関西徒歩会 1934年刊
丸岩の側面 丸岩の頂部
谷川に面した丸岩の下部 右が上谷上、左が下谷上の道しるべ
黒岩
国土地理院の2万5千分の1の地図「有馬」を見ると、阿弥陀塚の近く、市町村界が通る付近に黒岩と呼ばれるところがある。
北側は神戸市北区山田町上谷上、南側は神戸市灘区六甲山町である。
商売柄?気になった私は、そのポイントに出かけることにした。
下調べとして、地図を拡大コピーし谷筋を詳細に読み取り、国土地理院のホームページから得た空中写真と照合した。
さらにルートの検討として、1937年刊の古典地図『六甲山登路図』で、今はおそらく廃道となっているであろう旧道を調べた。がむしゃらに道なき道を進むよりも、いくらかでもましであろうと考えたからである。
沢登り・薮こぎ辞せずの悲壮な決意で、地形図を頼りに進むと、あちこちに古びたビニールテープが貼ってある。なんと、道があったのである。
おまけに、黒岩の上部の尾根に赤いプラスチック製の国土地理院の三等多角点標示杭と神戸市の三等多角点(写真参照)を発見した。神戸市の三等多角点は、市町村界を示す標示物と思われる。

場所:石楠花第4ダムより、右の谷筋(左の谷筋はダイヤモンドポイントに至る一般ルート)を進むと水の溜まったダムがある。下に降りるロープが張ってあるので、これが目印。ここを降りて、また右の谷筋に進むと、またダムがある。
このダムの手前のガレ場を登る。良く見れば、ビニールテープがあちこちに貼ってあるので、それに従って登れば、頂上近くの登山道の左下に岩場がある。
黒岩、前部の岩は地震で崩落している。 黒岩全景、他にも岩が多数ある。
近くには、こんな岩がごろごろ 神戸市の三等多角点 No.181 59408
<参照文献>
@地図『有馬』国土地理院の2万5千分の1
A国土地理院のホームページの空中写真
B地図『六甲・摩耶』 山と高原地図48 昭文社 2005年刊
C地図『六甲山登路図』 木藤精一郎著『六甲ー北摂ハイカーの径』付録 1937年刊
D「新しい六甲山」 山下道雄著 山渓文庫12 1962年刊 p129の説明図 
五助山
天狗岩
六甲山には、実に天狗と名のつく岩が多い。
この岩は、凌雲台から五助山に下るルートの最初に出会う巨岩である。
その下にも、大きな岩があり、この岩がはたして本当に古地図に示される天狗岩かどうかの疑問は残るが、今となっては確かめるすべもないので、位置的に、また天狗様の気持ち酌んで、この岩を天狗岩と判断した。

場所:凌雲台から五助山に下るルート

<参照文献>
「六甲ー摩耶ー再度山路図」 直木重一郎著 関西徒歩会 1934年刊(昭和9年)
天狗岩の西側面 天狗の御座所。枯れた松葉でふかふかだ。
古寺山
天狗岩
古地図によると裏六甲の古寺山から南に伸びる尾根の先端に天狗岩と呼ばれる岩がある。
変哲もない岩ではあるが、ここからの眺めは良い。 下の方にも岩が多数崩れている。
<参考文献>
古地図『六甲ー摩耶ー再度山路図』 直木重一郎著 関西徒歩会 1934年刊
@地図によると、この岩は材木ガケと呼ばれる逢ヶ峰側に降りる道と阪神高速北神戸線に降りる道にはさまれた中間の尾根にある。写真の岩は、確かに当該の位置にあることから、この岩を天狗岩と認めた。
Aどう欲目に見ても取るに足らない岩ではあるが、このあたりだけ展望が良いことと、先にあげた二つの道の目印になることから名前がついたのかも知れない。
B下部には、かなりの数に岩が崩れており、昔はもっと高かかった可能性も考えられる。
多聞寺系列
修行岩
(清盛の涼み岩)

シュラインロードを下りきった北側に古寺山と言ういかにも何かありそうな山がある。
それで、今日も色々な調査で忙しい行程であったが、どうしても寄り道したくなり、その山に登った。
道はややこしく、所々に「本堂跡」、「護摩堂跡」の表示板がかかっている。
昔ここに多聞寺という寺があり、平清盛が福原に都を移したときに都の鬼門(北東)護る寺として大切にした。その後、源平合戦で源義経が一の谷を攻める時に、その道案内を断ったために焼き払われそうである。
頂上には、写真のような岩が鎮座していた。

場所:古寺山山頂
道に迷いやすいので注意のこと。
修行岩 岩の近くには修行岩(清盛の涼み岩)の表示板が落葉に埋もれていた。
上の写真の向かって左の岩の上部 上の写真の向かって右の岩の右側面

摩耶山以西

 
三笠岩(立岩)

1963年(昭和38年)に出版された大西雄一氏の「六甲ハイキング」は、読んでいて実に気持ちがいい。いかにも実際に山を歩いて書いているといった感じがひしひしと伝わってくる。説明図も丁寧で登山者の身になって描いてある。最近の、実際に山を歩かないで、机の上だけで書かれた儲け本位の案内書にうんざりしている私にとって、それは一服の清涼剤である。

 さて、大西氏の「六甲ハイキング」の説明図によれば、トェンティクロスの高雄山ダムの前に三笠岩なる岩がある。
三笠岩、それはどのような岩なのか?
想像するに、三笠とは奈良の三笠山(若草山)を指し、その山容は笠状の山塊を三層に重ねた形をしているのだろうか。
それとも、御笠と解し、ひとつの笠形の巨岩であろうか。
 調査に赴くと、その岩はすぐに見つかった。そして三笠の意味は、三層になった岩であることを知った。
岩登りの対象でもあったらしく、ひときわ高い中段の岩の背面には、古びたハーケンとボルトが残されていた。

この岩は昔、立岩と呼ばれていた。
神戸市立森林植物園内に立てられた説明板に中一里山境界図が紹介されているが、その中に一里塚として瀧谷道の「立岩」とある。トェンティクロスは瀧谷道の一部をなすことから、この岩がそれに該当するのかもしれない。

参照
「石楠花山の一里塚と生田川の立岩」


参照文献
「六甲ハイキング」 大西雄一著
 1963年版 p153 説明図
『再度山史話』 添付地図 
 神戸中央図書館蔵
『六甲』 竹中靖一著 付録地図
      複刻版1976年刊
参照サイト
奈良県HP 若草山
三笠岩全景、前部の巨岩は下段の岩 木々に隠れた、上段の岩。外からは見えない。
三笠岩の核心をなす中段の岩 左の写真の背面の打ちこもれたハーケンとボルト
鍋蓋山
天狗岩
私は岩を捜す場合、よく地図に記載された送電線を利用する。
今回も、古地図に記載された天狗岩の位置が、直線距離で、鍋蓋山の頂上と有馬街道にかかる天王吊橋の距離の半分であることを確認した。それを、国土地理院の2万5千分の1地図に当てはめると、そこに送電線が走っていることが分かった。
さらに、古地図によれば、この辺に尾根の分岐があり、天狗岩はこの左右の尾根の股の付け根あたりにあることが分かった。

以上の予備知識のもとに岩の探索をすると、鍋蓋山から送電線を少し下った登山路沿いにかなり大きないくつかの岩を容易に見出すことができた。
この中で、天狗様の気持ちになって、一番高所にある見晴らしのよい場所にある岩を天狗岩と推定した。

さらに気付いたことは、古地図に記載された鍋蓋山から天王吊橋に降りる道がほぼ直線的に西に走っているのに対し、国土地理院の道は南西方向にかなり迂回していることである。このことから、現在のルートは天王ダムの建設時?に新しく作られた道であることが判明した。そして、旧道のなごりが、写真の尾根の分岐にあることが分かった。

天狗岩の正面 天狗岩の上部、眺めは抜群だ。
菊水山の電波塔が見える。
天狗岩の下にもかなり大きな岩がある。
天狗岩とは、これらの岩の総称とも考えられる。
道標が立つ天狗岩のすこし上部の尾根の分岐点
この道(有馬街道に向かって右)は、昔の天王吊橋に降りる道の一部であると推定される。
<参照文献>
「六甲ー摩耶ー再度山路図」 直木重一郎著 関西徒歩会 1934年刊(昭和9年)
須磨アルプス
 馬の背

岩がもろく岩場としては不適である。
六甲全山縦走路の一部になっている。

場所:横尾山と東山のコル
君影
ロックガーデン

岩登りの対象ではないが、実に気持ちのいい岩だ。菊水山や鈴蘭台の町並みを眺めながら食う弁当の味も格別だ。

場所:君影町の団地のハイキング道入口から550m。途中、分岐に道標がある。
この看板の裏には「山で遊び山で学ぶ」とある。いい言葉だ。 岩の頂部を下から見上げたところ。
岩の頂部から菊水山を望む 妙号岩近くから見た君影ロックガーデン
対岸の菊水ルンゼ 鈴蘭台市街
鵯越
蛙岩
この岩がなぜ蛙に似ているのか現場ではよく分からなかった。しかし、家に帰って写真を何度も見ている内にようやく分かった。

場所:鵯越墓園新芝地区西方(道路の西側に道がある)
参照サイト 神戸北区の史跡
蛙の正面の顔である 蛙の顔の拡大写真
横に走る溝が口、その上の二つの窪みが眼。

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