六甲岩石大事典 第1部2章 六甲東部

 このコーナーでは、過去を含め、地図、文献等にその名が確認される岩や石を紹介しています。
2章は、「阪急芦屋川駅ー芦屋川ー蛇谷ー土樋割峠ー石宝殿ー一軒茶屋ー魚屋道ー神鉄有馬駅」のラインから東の地域を収録しております。

奥山刻印
(Carved
Castle Stones
)
 
 2005年4月15日、私は荒地山の岩石群を東側から展望するために、ごろごろ岳の尾根道を登っていた。
その時、一人の若い白人男性が、私に地図を示し英語で問いかけてきた。
地図は六甲山の英文の登山地図で、定かな記憶ではないが、コースの西側に丸印があり、その中にCarved Castle Stonesと記されていた。
要するに、城を作るために切り出された石群であることがわかった。
しかし、私はこのコースは初めてであるし、私の持っている日本語の地図にそれが記載されていなかったため、教えることができなかった。
 その後、Carved Castle Stonesとは、刻印石を指すものであることがわかった。
大坂城(大阪城)は、豊臣氏の滅亡の後、徳川氏による再建が図られた。
徳川氏は、配下の大名家に築城のための石材の切出しを命じた。
各大名家は、石に刻印を施しその所属を明示した。
この刻印石を、家紋石と称する人もいるが、刻印と家紋は本来別物である。刻印には、団子を串に刺した面白いものもある。たぶん石工の遊び心であろう。(左記の団子岩参照)

 それにしても、なぜ日本の地図に記載されていないものが、英文の地図に記載されているのか不思議である。
 後ほど、その外人が持っている地図を入手すべく、出版社や書店に当たってみたのだが、徒労に終わった。
一般に、欧米人は、このようなものに強い関心を持つのかも知れない。とすれば、地図は外国の出版社である可能性も考えられる。

場所:ごろごろ岳に至る柿谷コースの中間の分岐点付近一帯に多数転がっている。

参考サイト
神戸背山の道
 徳川大阪城東六甲採石場

四つ目の刻印を施した岩については、ハイカーの間でも話題になったらしく、「四ツ目岩」として木藤精一郎氏の本 (文献C参照)や中村勲氏の地図(文献D参照)にも登場している。



木藤精一郎氏の
『六甲北摂ハイカーの径』より
「・・・水車谷道を上つて更に一粁半餘で東大尾根の岐路に至る。・・・背上岐點には西北谷頭に、一際大きい石岩があるので、(四ッ目紋章の刻印の岩でそれが目標になる)。
此石岩を西北に下つた谷がアヤメ谷の上流で柿谷ともいつている。』(文献C参照)

ここで東大尾根の岐路の位置が問題となるが国地院25000分の1地図の34.7597,135.2665地点(二つの登山路が出会う所)とするならば、右の写真の四ツ目岩 その2は、岐点からみて西北にあり、かつ八幡谷(アヤメ谷)上流を登りつめた地点にある。
四ツ目岩の位置は、国地院地図の標高475m地点の30m西(34.7602,135.2958地点)に位置する。
つまり、四ツ目岩 その2が、木藤氏の称する四ツ目岩と推定される。

これは、『芦屋市文化財調査報告 第12集』においても言及されている。(文献E参照)
「巨石を積み上げたような高さ10数mの岩山があり、その周囲に四つ目・団子の刻印が彫られているが、この岩山については既に昭和12年、木藤精一郎氏によって「四つ目岩」として紹介がなされている(『六甲北摂ハイカーの径』)。付近一帯は樹木の陰に隠れ、遠望はきかない。」
四ツ目岩 その2は、調査報告I地区No.3の刻印石に該当するものと推定される。

謝辞
『芦屋市文化財調査報告 第12集』の情報は、柴田昭彦氏より提供されたものです。
ありがとうございました。

参照サイト
「ものがたり通信」の「六甲山の話」


四ツ目岩 その1
木に埋もれかかったこの岩の中央に、四つ目状の刻印らしきものが見える。
             (文献@A参照)
そのため、この岩は四ツ目岩とも呼ばれる。
この岩は、石島池の南方の小高いところ、
ごろごろ岳に向かうハイキングコースの右手。              
 左の刻印の拡大写真
中央に黒点を有する正方形を四つ組み合わせた四つ目状の刻印で、
福井藩松平家67万石の刻印である。
                (文献@A参照)
本件は、芦屋市文化財課の調査によるものです。御協力を感謝いたします。
上の岩に彫られた四角い石の穴。
この穴は矢穴(やあな)と呼ばれ、
石を割るためにくさびを打ち込んだあとである。                   (文献B参照)
 すぐ近くには石の標柱がある。
 池の中に大きな石がある。石の島だ。
まさにこの池こそ文献Cの添付地図に記載された「石島池」であろう。
 左の石にも、矢穴がくっきりと残されている。
 その他の刻印石の紹介 


団子岩
石島池西方の八幡谷上流付近
四ツ目岩 その2
左記、団子岩のとなりにある。
<参考文献>
@芦屋文化財調査報告 第44集 徳川大坂城東六甲採石場V 芦屋教育委員会 2003年刊
芦屋市立図書館蔵 p23〜26中、p25の第16図に掲載されている「@奥山刻印石群A地区No.1」は、ホームページの写真の石と同一のものである。
A上記「奥山刻印石群A地区」の説明は、
芦屋文化財調査報告 第31集 徳川大坂城東六甲採石場T芦屋教育委員会 2003年刊 芦屋市立図書館蔵 p16、17及びp38(地図)参照のこと。
B自然環境ウォッチング「六甲山」 兵庫県立人と自然の博物館「六甲」研究グループ編
    神戸新聞総合出版センター 2001年刊 p96〜99参照
C六甲北摂ハイカーの径 木藤精一郎著 阪急ワンダーホーゲルの会 1941年刊 p124
  添付地図「六甲山登路図」 四ツ目岩の表記あり
D「六甲 摩耶」地図 中村勲 日地出版 1992年刊 四ツ目岩の表記あり
E芦屋市文化財調査報告 第12集 芦屋市埋蔵文化財遺跡分布地図及び地名表(第1分冊)
  芦屋市教育委員会、1980年3月発行 p9 p27( 地図 図D)
芦屋川
烏帽子岩
烏帽子には様々な種類があって、これは恵比寿さんが被っている風折り烏帽子である。
『西摂大観』に「岩石の形状恰も烏帽子に似たるを以て名つく、芦屋川の上流夫婦岩に至る間路の右側に聳立し、いまや墜落せんとするの状勢なるより、之を仰き看るもの自ら心胆を寒ふす」とある。
この岩は古くから知られていて、
寛延3年(1750)の山論裁許状にもその名が見える。

場所:ごろごろ岳の芦有ドライイブウェー側山腹
旧発電所の送水管の北側。
道畦谷北尾根より撮影。 指の指す方向に荒地山第3鉄塔が見える。
肉薄して撮影。
指の先端部分が空に突き出ている。
岩の下部はコンクリートで芦有ドライイブウェーを護るための崩落防止の処置がしてある。
左の写真の裏側から撮影。
指先が砲身のように伸び、
城山尾根の第3鉄塔が見える。
<参考文献>
@古地図『六甲ー摩耶ー再度山路図』 直木重一郎著 関西徒歩会 1934年刊
A『六甲』 竹中靖一著 朋文堂 1933年刊 p494
「(芦屋川沿いの弁天岩)のあたりには大きな岩が多い。福岩(夫婦岩)は少し上流に、烏帽子岩は少し下流にある」
B『西摂大観』郡部の巻  仲彦三郎編 1911年刊 p111 
C『新修芦屋市史 資料篇二』 芦屋市役所 1971年刊 p310〜313 
ごろごろ岳
烏帽子岩(山伏岩)

場所:ごろごろ岳の三角点の北側の樹林の中。
観音山に向かうルートの右手。付近には、いくつかの岩が点在しているので、角度をかえてチェックすること。
この岩の形はまさしく烏帽子である。 別の角度から見た烏帽子岩。とても烏帽子とは言えない代物である。
<参考文献>
古地図『六甲ー摩耶ー再度山路図』 直木重一郎著 関西徒歩会 1934年刊
老ヶ石(大石)
触れると老けるといわれる巨大な老ヶ石
この岩には「血を流した老ヶ石」というおもしろい民話(目次7)がある。
これについて、柴田昭彦氏の綿密な研究報告がある。
「ものがたり通信 」老ヶ石の伝説

場所:船坂谷中流
林道の終点
老ヶ石というよりは、鯰のようだ。 老ヶ石の背中、やはり鯰か鮟鱇の背中。
剣岩
1937年刊の古地図(六甲北摂ハイカーの径 木藤精一郎著)を見ると、東六甲縦走路の宝塚市最高峰の岩原山の南に細ヶ谷と呼ばれる谷がある。その谷の左岸に剣先のように鋭くとがった岩がある。

場所:上記
剣岩の全景 剣岩の拡大図
大谷乗越
屏風岩
上記の細ヶ谷の右岸に当たる尾根の反対側(西側)に広がる屏風状の岩である。岩も崩れ樹木も茂り迫力はまったくない。
かっては、屏風のように折り曲がった岩肌が東西に広がっていたのだろうか。

場所:屏風岩の位置は、参考文献の@とAでは位置が異なっている。
私が探査した結果では、古地図@の位置(古地図Aよりかなり下側)にそれらしき岩は発見できなかった。従って、古地図Aの位置を正しいものとして採用した。
樹木に覆われた屏風岩 崩れた岸壁
<参考文献>
@古地図「六甲ー摩耶ー再度山路図」 直木重一郎著 関西徒歩会 1934年刊
A古地図「六甲北摂ハイカーの径」   木藤精一郎著 阪急ワンダーホーゲルの会 1937年刊
小天狗山
天狗岩
奥池の北方に小天狗山と呼ばれる山がある。
この山には、一般ルートがないので登るには下記のサイトを参照すること。バスの便を考慮すると奥池の遊びの広場から盤滝口へのルートがあるので、そこから入ったほうが便利である。
 大藪谷から小天狗山

場所:小天狗山西方
天狗岩はルートの反対側にあるので注意 岩壁は谷底まで垂直である。
<参考文献>
古地図『六甲ー摩耶ー再度山路図』 直木重一郎著 関西徒歩会 1934年刊
馬ノ背岩
樫ヶ岳の東方の縦走路沿いに馬ノ背岩と呼ばれるちょいとした岩がある。そばに「馬ノ背岩展望台」の標識があるだけあって、樫ヶ岳随一のすばらしい眺めが広がる。休憩場所には最適である。

場所:樫ヶ岳の東方の縦走路沿い
馬ノ背岩の頂部、東六甲を望む 北側下部より見た馬ノ背岩
紋左衛門岩
古地図を見ていると、甲山の西北にある樫ヶ峰の麓に紋左衛門岩と呼ばれるおもしろい名前のついた岩があった。
さっそく行ってみると、それはすぐに判明した。
崩落防止用の金網に覆われ見る影もないが、昔はかなり立派な岩であったことが偲ばれる。この岩には、紋左衛門が天狗に化けて水争いの村人を諭したとされる民話が残されている。

場所:樫ヶ峰の麓、西宮甲山高校の北側の道路沿い

<参照文献>
地図『六甲山登路図』 木藤精一郎著『六甲ー北摂ハイカーの径』付録 1937年刊
樹林の上に岩の先端が覗く。 金網に覆われた岩
蓬莱峡
奇岩のオンパレードで、いちいち取材している暇がないほどだ。
整理の方法は、いずれゆっくりと考えることにしよう。

場所:阪急バス停「知るべ岩」下車
大多田川上流一帯(バス道側)
特異な風光だ。 中央の岩が小屏風岩、その右が大屏風岩
蓬莱峡
黒岩
その名のとおり黒い岩で、蓬莱峡のゲートロックでもある。

場所:阪急バス停「しるべ岩」先の
太多田川右岸
河原にどっしりと腰をすえた姿は頼りになる蓬莱峡の門番だ。 双耳峰とは、なかなかのものだ。
<参考文献>
古地図『六甲ー摩耶ー再度山路図』 直木重一郎著 関西徒歩会 1934年刊
蓬莱峡
狆岩

(ちんいわ)
竹中靖一著「六甲」の添付地図の蓬莱峡に、狆岩という面白い名の岩が記載されていた。
狆は座敷犬として有名で、左右に垂れた黒い毛が特徴的である。地図からはおおまかな位置しか分からなかったが、黒岩から屏風岩に向かう川筋の右岸にそれらしき岩を見つけた。
これも、確たる証拠を示すことはできないので、真偽のほどは読者の判断におまかせいたします。
狆の顔の正面、コリーのようにも見える。 狆の顔の右側面
蓬莱峡
ニードル

関西の岩場p55掲載の地図にでてくる、ニードルと呼ばれる針のように尖った岩である。
蓬莱峡広場より眺めたニードル ニードルは左の第1峰
しるべ岩(弘法の投げ岩)
参照サイト 民話 座頭谷のいわれ

場所:阪急バス停「知るべ岩」のすぐ先の川の左岸に表示板あり。
ガードレールを乗り越えて、道なき斜面を強引に降りると川べりにある。
ごみが散乱している陰気なところに、木々に包まれて忘れ去られたように鎮座している。
貴重な文化財なのに、嘆かわしい。

<伝説>「六甲山ハイキング」 大西雄一著 創元社 1975年刊 p124より
碑文によると、むかし豊臣秀吉が有馬入湯の際ここで旅人がしばしば道に迷うと聞き、この岩に「右ありま道」と刻んで道しるべにしたとある。その後、江戸時代のある秋の夕間暮れ、一人の京の座頭がせっかくのしるべ岩を見るに良しなく、左の谷深く迷い込み、さまよううちに倒れてしまった。里人は哀れと思いねんごろに弔って、以来この谷を座頭谷と呼んだ。

弘法大師が有馬に向う際に、通行の妨げになっていた大岩を山腹に投げ上げた。
人々はこれを弘法の投げ岩と呼んだ。
しるべ岩は、元々はこの投げ岩であったとも伝えられる。
碑文の立つしるべ岩 岩に「右ありま道」の文字が彫りこまれている。
蓬莱峡の南側にある座頭谷 座頭谷の景観、まるで中世の城のようだ。

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