イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版 2019年5月25日掲載
イワクラ(磐座)学会会報46号掲載    
   


          巨石のある祭祀遺跡地名表 中部編

整理番号
遺蹟名
時代
時代 所在地と北緯・東経(世界測地系)
出土地の概要(特に巨石との関係)と出土遺物
画像引用サイト(岩の画像)、主要参考文献等
 15新潟県 
15新潟県
博物館6
総覧2
神道考古4巻
小布勢(おぶせ)神社遺跡
御食石
古墳時代

博物館6では
小布勢(こぶせ)神社とあるが、新潟県神社庁の表記にしたがい(おぶせ)とした。
新潟県神社庁
http://niigata-jinjacho.jp
/shrine_niigata
/search.php?area
=15224&keyword
=&page=5&num=10

また、小布勢神社は通称岩坂神とも呼ばれる。

<所在地と北緯・東経>
佐渡市西三川1074(佐渡郡真野町田切須字大畑)
 北緯・東経37.826836,138.322774

<出土地の概要と出土遺物>
真野湾南岸。小布勢神社の本殿裏の御食石(磐座)の近くから出土
 子持勾玉・滑石製有孔石製品

・椎名仙卓「佐渡小布勢神社境内出土の子持勾玉」(『越佐研究』13 1958)

<画像引用サイト>「ハッシー27のブログ」
http://09270927.at.webry.info/201110/article_7.html

小布勢神社の裏にある御食石

16富山県    
17石川県  
18福井県  
19山梨県  
20長野県  
20長野県
博物館16
総覧4
神道考古4巻
片山遺跡
古墳時代前期






























<所在地と北緯・東経>
長野市保科片山(長野市若穂保科)
北緯・東経36.590935,138.242596

<出土地の概要と出土遺物>
丘陵の中腹に土器類が列状に発見され、その傍らに1個の巨石があったという。
現在その巨石がどうであるか不明。
 挙手人面土器
 土師器(長頸壺1・有段口縁壺1・高坏)

・永峯光一『長野県上高井郡保科村片山発見異形土器の出土状態について』
 (『信濃』Ⅲ・第7巻3号 1955)
柱状石は長さ1m強、断面は60cm位の長径を有する安山岩で、やゝ西に傾き、地上には4.5cmの高さに現われていたと言う。最初に壷破片が発見されたのは、この柱状石を引抜いた跡からであつた。
遺物群は、地下約30cmの粘土中、西傾した柱状石の蔭になるような位置の同一平面上に、45cmの長さで一列に並んでいたのである。人面土師器は俯伏せて頭を北にし、それに続いて朱塗の高坏や柑が重り合ふ如く一列に並び、南端は無彩の壷であったようであるが、小石を敷くとか、木炭を充填するとかの特殊な設備は施されていなかつたことは確からしい。
また附近の状態を見るならば、先の柱状石の東約30cmを置いて存在する扁平の大石を中に挟んで、その南北に同形の大石が2mほどの間にわずかの距離をもつてほぼ一線に並列していたと言われる。

<参考文献>
・大場磐雄「挙手人面土師器覚書」(『信濃』Ⅲ・第5館1号 p5 1953)
   人面土師器の顔面から受ける印象は、わずかに笑みをうかべているようで、目と口は土器の壁をくり抜き、表現されている。
顔面の左右には耳がつけられ、耳たぶには孔があけられている。
挙げられた手は、内側を向いていて指を表現する刻み目がつけられている。


一部に朱塗りの跡があり、かつては赤色に塗られていたと思われる。
挙手の意味には、豊かな稔りへの喜びを表現するという説や、この土器を中心に高坏や坩を置き
収穫感謝祭が行われたという説がある。

 
 1図 挙手人面土師器(全高21cm
20長野県
博物館54
総覧16
神道考古4巻
鳴石遺跡
雨境峠

古墳時代
<所在地と北緯・東経>
北佐久郡立科町芦田八ヶ原(北佐久郡立科町芦田雨境峠 鳴石)
北緯・東経36.140409, 138.270182

<出土地の概要と出土遺物>
鳴石(雨境峠祭祀遺跡群)
 剣形品2・有孔円板1・臼玉3・須恵器片3・土師器片1・
 古銭(寛永通宝)6

<画像引用サイト>「鳴石 雨境峠と勾玉原」 
http://tamutamu2011.kuronowish.com/naruisi.htm


鳴石(雨境峠祭祀遺跡群)

<参考文献>
・桐原健「長野県北佐久郡雨境峠祭祀遺跡群の踏査」(『信濃』19-6 1967)
・『雨境峠 祭祀遺跡と古道』立科町教育委員会1995
  決定版(「全国遺跡報告総覧」にて閲覧可)
  http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search?all=%E9%9B%A8%E5%A2%83%E5%B3%A0

鳴石遺跡は、雨境峠の北側にあり、蓼科山麓の広大な北西斜面に位置している。鳴石遺跡は、鏡餅状に重ねられた青灰色角閃石複輝石安山岩の2個の巨石(鳴石)と、巨石の周囲につくられた集石遺構を主体とし、巨石の北西約10mにも球状の巨石と集石遺構がある。
鳴石の下の石は、東側部分が舌状に競り出し、平面は隅丸三角形を呈する南北径295cm、東西径306cmの巨石で、上の石は、南北径が235cm、東西径が218cmを測り、平面は楕円形である。
この巨石は、二つの自然石が、調和よく鏡餅状に重ねられ、一見自然状態の巨石のようにみえる。しかし、二つの巨石は、熔岩構造、割れた部分の形状・寸法が異なり、明らかに別の巨石を重ねたものである。
このように鳴石は、異なる二つの巨石を重ねているので、上の石の端を打つと、二つの巨石の割れ目の隙間に反響して妙なる音を発し、鳴石の名の由来ともなっている。
鳴石の周囲の集石遺構は、外縁部の径が、南北およそ10m、東西およそ11mの方形を呈し、鳴石の周囲では、さらに上面の径が7m、高さ50cmほどの円形につくられている。
鳴石と集石遺構の関係は、峠の祭紀のための磐石と、磐境的な性格をもった巨石と集石遺構で、築造年代は、出土遺物などから6世紀後半から7世紀ごろと考えられる。
また、巨石と集石遺構の構築年代は、構築法と構造などから、同時期と推考され、差があっても極めて小さいものと考えられる。

金子詮寅は、『信陽佐久立科高井飯盛山嶺麓 蘆田八箇略略誌』p46に、
「麓に鏡石と言う奇岩あり。鳴石ともいう。大きさ六七尺なる大石なり。石肌鏡の面の如し是権現の御宝石と言伝えたり。昔時、石工来り此石を割らんと欲して、玄能を以て二つ三つ之を(打)つ。
時に山鳴り谷答えて山中震動す。忽ち火の雨を降らせ、石工之が為に死すと。故に人打つことなし。試みに小石を以て之を(打)つ時、其の声金磐の鳴るが如し、是又奇石なり。」と記している。
(『雨境峠 祭祀遺跡と古道』p30,47)

・小林幹男「峠の祭祀と古東山道 」 長野女子短期大学リポジトリ
 https://nagajo-junior-college.repo.nii.ac.jp

20長野県
博物館55
総覧18
神道考古4巻
鍵引(かぎびき)石遺跡
古墳時代

<所在地と北緯・東経>
北佐久郡立科町八ヶ野
北緯・東経36.135889, 138.271467

<出土地の概要と出土遺物>
 有孔円板・小玉

<画像引用サイト>
http://blogs.yahoo.co.jp/akira_o2ka/59500407.html


磐座(鍵引石)  写真の岩は、全体の一部である。

長径がおよそ5m、短径が3m、厚さ1.5mの青灰の輝石安山岩の巨石である。 鍵引石は、県道の改修工事によって東側が道路下に埋まり、3分の2ほどが塩沢堰の右岸に、船の舳先のように競り出している。

<参考文献>
・桐原健「長野県北佐久郡雨境峠祭祀遺跡群の踏査」
(『信濃』19-6 1967)
・『雨境峠 祭祀遺跡と古道』立科町教育委員会1995
  決定版(下記「全国遺跡報告総覧」にて閲覧可)
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search?all=%E9%9B%A8%E5%A2%83%E5%B3%A0
・小林幹男「峠の祭祀と古東山道 」p9 長野女子短期大学リポジトリ
https://nagajo-junior-college.repo.nii.ac.jp

20長野県
博物館86
総覧33
神道考古―
御座岩岩陰遺跡
古墳時代

<所在地と北緯・東経>
茅野市池之平(茅野市北山本道 御座岩)
 北緯・東経36.105189, 138.232905

<出土地の概要と出土遺物>
溶岩の巨石(御座岩)
石製模造品(剣)・有孔円板・臼玉
琥珀小塊2・土師器(甕・台付甕)・須恵器(甕片・杯蓋)
灰釉陶器片10・縁釉皿1
・尖石考古博物館『蓼科』1966

<画像引用サイト>
「美咲-創世記-諏訪・茅野・高遠・立科・八ヶ岳の古代祭祀遺跡」
http://misaki.naganoblog.jp/e258045.html

白樺湖湖畔にある御座岩

<参考サイト>「風と土の記録 白樺湖の祭祀遺跡」
http://miyokame.blog82.fc2.com/?mode=m&no=132
池之平御座岩遺跡。 またの名を役堂場跡、もしくは武田信玄休憩の御座岩とも。 白樺湖のほぼ中央、岸から突出した安山岩の岩塊群。
島のようになった中心に、巨石が積み重なっている。
標高1400mの高地にあり、ここより東は雨境峠、 北へは大門峠が控える交通の要衝であった。白樺湖は昭和1946年に造られた人造湖であるが、 1953年に減水したとき、御座岩の南側に岩穴が現れた。
先土器時代の石器、縄文時代の土製品、弥生時代に至るまでの、様々な時代の遺物が発見され、中でも滑石製の幣玉の出土は、この岩を岩座として峠神に旅の安全を祈願したものといわれている。

20長野県
博物館142
総覧82
神道考古4巻
杉ノ木平
古墳時代後期
<所在地と北緯・東経>
下伊那郡阿智村園原字杉ノ木平
 北緯・東経35.460596, 137.654513

<出土地の概要と出土遺物>
丘陵中腹の神坂(みさか)峠の登り口。巨石配置(1号テラス・2号テラス)。
有孔円板10・剣形品15・臼玉1・未成品1
土師器・須恵器・灰釉陶器・綠釉陶器
鉄器片・北宋銭

<参考文献>
・長野県教育委員会・日本道路公団名古屋支社
『長野県中央道埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書
 下伊那阿智村斜坑広場その1』1972 奈 215.21||5||1971-2
・市澤英利『東山道の峠の祭祀』p49~69 新泉社 2008


2号テラス 巨石のかたわらに臼玉と杯形土器が置くような状態で出土した

杉ノ木平は、居住するには一見適さないような場所ではあるが、人びとはここに住居を構え、生活を営んだ。古くは縄文時代後期の人びとが居を構えた。本格的に住み始めたのは平安時代後期から中世にかけての人びとであった。こうした人びとは、神坂峠を往来する人びとの休憩や宿泊場所、物資の提供といった役割をにないながら生活を営んでいたことが想定され、その生活は、東山道とのかかわりにおいて成り立っていたと考えられる。旅人にしてみれば、杉の木平遺跡は安堵できる場所であったろう。
道路状遺構が発見されているように、この神坂地は峠への通過地であった。ここで人びとは峠へ向かう気持ちを引き締めたり、峠から無事下りてきたことへの安堵感にひたったりしたことであろう。
そうした、気持ちをあらわす行為がおこなわれた。最初は、石製模造品を使った祭祀行為で、巨石のある場所などが選ばれた。石製模造品を使った祭祀行為がすたれた後の具体的な痕跡は未発見のためなんともいえないが、紙や布を使って同様の行為がなされたかもしれない。

20長野県
博物館―
総覧―
神道考古―
1989年発掘

鶴萩(つるはぎ)
七尋(ななひろ)岩陰遺跡

縄文時代早期~近代
主な時代
弥生中期~古墳時代










右の『報告書13』p139の平面直角座標X・Yの位置情報は誤りと思われる。
遺跡の位置は、中央自動車道長野線の長谷トンネル北出口の上り線の高架下である。(『長野市誌』
第12巻 付図1)

<所在地と北緯・東経>
長野市篠ノ井塩崎字白(しら)助(すけ)866
 北緯・東経36.551440,138.101320

<出土地の概要と出土遺物>
篠山東麓の斜面にある七尋岩と呼ばれている薬師堂がある巨岩。
北には眼前に鶴前遺跡が広がっている。
<遺物>
縄文時代:土器片・石器
弥生時代:土器・石器
古墳時代:土器・鉄製品・骨製品・石製品
古代以降:土器・陶磁器・鉄製品・銭貨・五輪塔

<参考文献>
・『長野市誌』第12巻 p73 長野市 2003
篠山東斜面に突きだすような形でそそり立つ巨岩とその下に形成されたわずかな平坦部は、弥生時代には縄文時代晩期以来の伝統を根強く残す再葬墓の墓域として利用され、古墳時代には墓域とともに、社殿発生以前に信仰の対象となった自然石塊、すなわち磐座として祭祀がおこなわれた可能性が高い。
さらに近世から現代にかけては、薬師堂を祭る庶民信仰の場とされた。長期にわたり、時代とともにその性格を変え形成・利用されてきた特殊な遺跡ととらえられよう。
(筆者注)墓域は洞窟状になっており、当HP関東編の居家以(いやい)岩陰遺蹟 群馬県吾妻郡
      長野原町と類似している。 磐座と墓域の親和性は高いと言える。

・長野県埋蔵文化財センター
『中央自動車道長野線埋蔵文化財発掘調査報告書13』
図版2 p137~161 PL40~46 1994
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/7996

・長野県歴史館『いのる人びと 信濃の風土と歴史12』p11 2006
http://sitereports.nabunken.go.jp/8501

鶴萩七尋岩
一(ひと)尋(ひろ)とは両手を広げた長さのことである。
七尋は、七人が手を広げて繋がった長さのことである。

21岐阜県
21岐阜県
博物館1
総覧2
神道考古
神坂峠
山畑(やんばた)遺跡
古墳時代
<所在地と北緯・東経>
佐渡市西三川1074(佐渡郡真野町田切須字大畑)
北緯・東経37.826836,138.322774

<出土地の概要と出土遺物>
真野湾南岸。小布勢神社の本殿裏の御食石(磐座)の近くから出土
子持勾玉・滑石製有孔石製品
・椎名仙卓「佐渡小布勢神社境内出土の子持勾玉」
(『越佐研究』13 1958)

<画像引用サイト>「ハッシー27のブログ」
http://09270927.at.webry.info/201110/article_7.html

<所在地と北緯・東経>
中津川神坂字新道(中津川市大字立石字山畑)
 北緯・東経35.514278,137.562861

<出土地の概要と出土遺物>
湯舟沢から馬籠に向う西部の山道、大字新道の通称「山畑」の西斜面に巨石群が累々と露出している個所がある。
この巨石群は三群に分れるが、それぞれの巨石の前で祭祀を行なったもので、多数の遣物が採集されている。
石製模造品(鏡1・有孔円板7・勾玉3・臼玉80・剣5・斧3・管玉1・垂玉1)
土師器・須恵器・鉄鏃・ガラス製小玉 ・鏡

・岐阜県『岐阜県史』通史編 原始 p367 1981
遺物をみると、この遺跡における祭祀の時期は5世紀後半から6世紀前半にかけての、比較的限定された時期を示している。
神坂峠における祭祀の第Ⅰ期の最盛期と合致している。
この遺跡に立てば、すぐ眼前に恵郡山(標高2190m)および神坂峠を望むことができる。この山畑遺跡のすぐ東北に神田遺跡があり、馬籠から湯舟沢に降る谷をこえると平遺跡に出る。
この山腹を東方に辿ると、殿畑遺跡を経て欅平にいたる。
それから谷越えに霧ケ原に出、神坂峠に向う山麓の湧水地が強清水・水またぎ両遺跡であって、この遺跡群を連ねると、古東山道が復原しうるわけである。

<参考文献>
・山畑遺跡発掘調査団「山畑だより」第4号
・押野谷美智子「石製模造品に関する諸問題」
(『中部高地の考古学』Ⅱ 1982)

・国立歴史民俗博物館研究報告 第56集 1994 
共同研究「日本出土鏡データ集成」p164

21岐阜県
博物館―
総覧―
神道考古―
1999年発掘

大平前遺跡
古墳時代から
奈良時代
(注)時代ははっきりしないが、榿ノ木洞遺跡との関係や
8世紀頃の須恵器の出土から上記のようにした。

<所在地と北緯・東経>
関市下(しも)有(う)知(ち)大平前
 北緯・東経35.513375,136.926248

<出土地の概要と出土遺物>
遺蹟は関市市街地が広がる盆地の北縁を形成する丘陵上の、東に向かって突き出た尾根頂上部にある。頂上(127m)近くに巨岩があり、この周辺が遺跡の範囲である。北には山並みが屏風のように連なっているが、南は麓を一望できる位置にある。遺蹟の南方約300mには、古墳時代から近世に続く榿(はん)ノ木(き)洞(ぼら)遺跡の集落が存在する。
・須恵器破片50(杯身・杯蓋) 8世紀頃
・岐阜県文化財保護センター『南青柳遺跡・南青柳古墳・大平前遺跡』p11,261~272 図版20,21 2002
http://sitereports.nabunken.go.jp/1832

<画像引用サイト>「岐阜県公式ホームページ」
https://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku/bunka/bunkazai/27221/iseki/mino_iseki/ohira.html


祭祀遺跡の巨岩(幅4.5m 長さ3m 高さ2.7m)

 まつりの場とある巨岩の東側約5m四方は、東に向かってゆるやかに傾斜するものの、他と比べて著しく平坦である。巨岩のすぐ前には、上面が平らな二つの大きな石が存在し、「祭壇」のような雰囲気をかもしだしている。
この岩の東には、礫群が検出された。その下には明褐色の強粘質土が約10㎝の厚さで存在し、その下に安定したチャート岩盤が広がることが確認された。礫群は巨岩のすぐ前の平坦面に敷き詰められたように集中しており、礫の上面の高さの揃っていることから人為的に敷かれたものが風化により割れた可能性も考えられる。


大平前遺跡遺物出土状況図
(本図の左側が北方位 縮尺は右下の横棒の全長が2m)

22静岡県
22静岡県
博物館1
総覧1
神道考古
多賀神社境内
古墳時代~
平安時代

<所在地と北緯・東経>
熱海市上多賀宮脇
多賀神社境内(式内白波之弥奈阿和命神社)
 北緯・東経35.062196,139.070836

<出土地の概要と出土遺物>
遺蹟の北東部に笠形に聳える向山227mの麓の多賀神社境内にある。境内には、磐座の他、御神木とされる欅の大木がある。
山・木・石・海という古代祭祀の四代要素が揃う例として注目されている。
・有孔円板・手捏土器・土師器(五領式)・土馬
・仿製漢式鏡(変形神獣鏡)1・素文儀鏡5・鉄製鍬先1・古銭

<画像引用サイト>http://unmonologue555.blogspot.jp/2012/01/blog-post.html


多賀神社境内にある磐座
ここから銅鏡6面が出土した。磐座の位置は、古図によると「地主神」の祀られた位置と一致している。
<参考文献>
・大場磐雄「伊豆多賀神社の祭祀遺跡」
(『神社新報』595・596号 1958)
・小野真一「静岡県熱海市上多賀祭祀遺跡」
(『日本考古学年報』11 1958)

22静岡県
博物館―
総覧17
神道考古―
宇留井島
歴史時代

総覧17に留井島とあるのは宇留井島の誤記と思われる。

<所在地と北緯・東経>
南伊豆町伊浜(賀茂郡南伊豆町子浦 宇留(うる)井(い)島)
 北緯・東経34.673320,138.765725

<出土地の概要と出土遺物>
子浦湾入口の島頂の磐座
島頂に磐座と思われる扁平な巨石と小祠あり。未掘
古銭

<画像引用サイト>「ちょっと秋色、哀愁の伊豆ツーリング」
http://miura-oands.com/?p=8562


宇留井島 沖にある中央の島 右上は波勝崎

<参考文献>
・小野真一「南伊豆の自然と人々」
(沼津女子高校郷土研究部編『うぶすな』第9号 1963)


22静岡県
博物館―
総覧―
神道考古―
天白磐座遺跡
古墳時代~
平安時代13世紀

<所在地と北緯・東経>
静岡県浜松市北区引佐(いなさ)町井伊谷1150
 北緯・東経34.833145,137.663691

<出土地の概要と出土遺物>
渭伊(いい)神社の裏手の薬師山にある巨岩。薬師山の南・北・西の三方を神宮寺川に囲まれた水の祭祀場。
古墳時代前期後葉~後期前葉:滑石製勾玉・手づくね土器・
土師器・鉄製武器・同工具
奈良時代:土馬・須恵器
平安時代(9世紀~10世紀前半):灰釉(かいゆう)陶器・須恵器
平安時代(11世紀末~13世紀中葉):山茶碗・経筒外容器

<画像引用サイト>「巨石と磐座探訪記」
http://megalithtrek.web.fc2.com/Tohkai/Shizuoka/TenpakIwakura/TenpakIwakura.html


天白磐座遺跡 左側がA岩、右側がB岩、中央にC岩が覗いている。(次の測量図参照)

<参考文献>
・辰巳和弘『聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』 p77 新泉社 2006



天白磐座遺跡の測量図
『聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』図36より

A岩の西側はⅠ区祭祀場で古墳時代から平安時代(9世紀~10世紀前半)の遺物が出土、A岩とB岩の間はⅡ祭祀場で平安時代(11世紀末~13世紀中葉)遺物が出土。祭祀の場所の変遷が認められる。
測量図の右下の台形状の平地は、渭伊(いい)神社の境内である。

祭祀場は、岩Aの巨大な壁が吃立する側を除く三方が神宮寺川に囲続されている。川の瀬音は、磐座の岩壁に跳ね返り、そこで祭祀を実修する祝(はふり)らを四方から包み込む。そこが水の聖地であることが体感される。渭伊(いい)神社々前の広場から神宮寺川へ、急傾斜の細い道をくだる。川を横切る堰が設けられ、塞き上げられた水は左右両岸に築かれた用水路を経て分水され、井伊谷盆地内の過半の水田を潤し稔りをもたらす。
磐座をいただく薬師山は井伊谷盆地の喉元、水分(みくまり)の地を占めている。井伊谷に住む人びとの命の源。換言すればそれは〝うぶすな(産土)″の地でもある。それこそ、古代人がここを神の座と定めた第一の要素であった。そこに祀られた神が「水の神」「井の神」であったことはいうまでもない。

 23愛知県  

                                                              (C20160304 カウンター )
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