イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版 2016年7月8日掲載
イワクラ(磐座)学会会報37号掲載      
   


          巨石のある祭祀遺跡地名表 関東編

整理番号
遺蹟名
時代
時代 所在地と北緯・東経(世界測地系)
出土地の概要(特に巨石との関係)と出土遺物
画像引用サイト(岩の画像)、主要参考文献等
 8茨城県 

8茨城県
博物館71
総覧57
神道考古1巻
岩倉遺跡
(波付岩遺跡)
弥生時代~古墳時代
<所在地と北緯・東経>
石岡市染谷(そめや)1548番地(石岡市染谷字岩倉)
 北緯・東経36.204321,140.233998

<出土地の概要と出土遺物>
波付岩と呼ばれる巨岩付近から出土。
波付岩の約260m北には、宮平(みやだいら)遺跡がある。
剣形品、勾玉、未完成品、土師器(器台、杯)

<画像引用サイト>「歴史の里石岡ロマン紀行」
http://www.rekishinosato.com/namitsukiiwa.htm

波付岩(この岩の近くにも数個の岩がある)

<コメント>
博物館71には岩倉遺跡とあるが、これは『宮平遺跡発掘調査報告書』記載の波付岩遺跡に該当するものと思われる。
岩倉遺跡は旧地名が「岩倉」となっていることから名付けられたものであろう。

<参考文献>
・椙山林継『神道考古学講座』第1巻p251
宮平(みやだいら)遺跡の南、谷をはさんで相対する丘陵東傾斜地(標高約35m)
台地の中腹には粘板岩の巨石が存在する。(左記コメント参照)
・『宮平遺跡発掘調査報告書』石岡市教育委員会 1989
p2に遺跡地図、p3に波付岩遺跡の年代は弥生時代とある。 

8茨城県
博物館142
総覧―
神道考古1巻
筑波山頂遺跡
奈良~平安(8世紀)











女体山の方が男体山よりも標高が高いが、遠くにあるので写真では低く見える。
























女体山頂上にも同様の祠がある。
<所在地と北緯・東経>
筑波郡筑波町筑波
 男体山 北緯,東経36.225936,140.098515
 女体山 北緯,東経36.225382,140.106701

<出土地の概要と出土遺物>
筑波山は関東平野にそそり立つ二神山として古典にもあらわれ、その美しい山容は、ことさら祖神の山として愛でられ、『常陸風土記』や『万葉集』に多くの物語や、歌を残している。
全山から土師器・須恵券等の土器類や、銅銭等の発見がみられるが、正式の調査が行なわれていないので詳しいことがわかっていない。

<画像引用サイト>「筑波山ケーブルカー&ロープウェイ」
http://www.mt-tsukuba.com/?page_id=810

筑波山 左の高く見えるピークが男体山871m
 右のなだらかなピークが女体山877m

筑波山男体山山項、南面した磐石の下部、幅2mほどの平坦部分。
女体山山頂、山頂に峻立した巨岩の南面、半岩陰状を呈する。
山頂鞍部の巨岩付近数個所。いずれもほぼ同様の遺物を出土する。
花卉(かき)双蝶八花鏡、墨書土器
土師器、須恵器、仏具、銭他
筑波山の山中にはよく知られた多くの磐座があるが、山麓にも宮山やお宝山をはじめとして、夫女(ぶじょ)ヶ原・飯名神社・月水神社等の磐座がある。これらは、鹿島・香取両神宮・周辺の集落遺跡や祭祀遺跡を含めた筑波山信仰圏として総合的に考察する必要があろう。

<画像引用サイト>「常陸・筑波山 写真集」
http://nabekuni5973.my.coocan.jp/114tsukuba/114photo.html

男体山頂上の筑波山神社男体祠

<画像引用サイト>「パソコンSHOPアークブログ」
http://blog.ark-pc.jp/?eid=88562

女体山山頂にある石碑と磐座

<参考サイト>「泰山の古代遺跡探訪記」
「霊峰筑波の巨石群 その1 筑波山神社~女体山~男体山」
http://www.gainendesign.com/taizan/tsukuba1/tsukuba1.html
「霊峰筑波の巨石群 その2 男体山~女体山~巨石参道」
http://www.gainendesign.com/taizan/tsukuba2/tsukuba2.html

<参考文献>
・椙山林継『神道考古学講座』1巻p257に記載あれど詳細不明
・椙山林継『神道考古学講座』 2巻p36
・『イワクラ(磐座)学会会報』
 2号 宮本造徳「筑波山調査レポート(1)」2004
 3号 宮本造徳「筑波山調査レポート(2)」2005
 5号 鈴木旭「筑波山信仰・磐座を訪ねて」 2005
 6号 茂在寅男「筑波山信仰を読みての所感」2006
 7号 鈴木旭・鈴木美佐子・仲田篤子「筑波山研修旅行特集」2006

9栃木県 
9栃木県
博物館32
総覧19
神道考古1巻
日光男体山
山頂遺跡
古代(8世紀)~
近世(18世紀)
















































 露岩遺跡の断面線→
<所在地と北緯・東経>
日光市中宮祠 男体山(二荒山)、太郎山神社付近。
 北緯,東経36.765567,139.488902

<出土地の概要と出土遺物>
男体山は栃木県日光市にある中禅寺湖の北岸に位置する標高2,486mの火山で、円錐形の大きな山体は関東一円からよく望まれる。
古くから山岳信仰の対象として知られ、山頂には日光二荒山神社の
奥宮と太郎山神社が鎮座している。
太郎山神社は、男体山(二荒山)の山頂2484mにある三角点より165m西方にある。

<画像引用サイト>「太郎山神社 360@旅行ナビ」http://www.360navi.com/photo/13tochigi/01nantaisa/04tarosan/10index.htm

太郎山神社と岩の断崖

遺物は火口に臨む絶壁上、岩石の間より出土。
詳細は次の参考文献参照。
 土師器・須恵器・陶器・磁器
 鉄製馬形・武器・武具・皇朝銭
 仏具・仏器・銅印・銅鏡
 銅鈴・御正体・仏像・馬具

<コメント>
日光三山(男体山・女峰山・太郎山)は山岳信仰の対象となっているが、太郎山(2368m)は男体山と女峰山の長男とされている。
太郎山の頂上にも太郎山神社(祠・太郎山権現)が鎮座しているが、もちろん太郎山の方が本家であろう。

<参考文献>
・日光二荒山神社・喜田川清香編『日光男体山 山頂遺跡発掘調査報告書』 1963
 全437ページに及ぶ報告書で、これさえ読めば十分である。

一帯は東方を除いてU字状の火口壁の断崖で囲まれている。
下図の露岩群は太郎山神社の西に位置する岩の切れ目である。


『日光男体山 山頂遺跡発掘調査報告書』図9より 
 露岩遺跡の平面図(上)と断面図(下)
  五号露岩と六号露岩の20~30㎝の隙間より、錫杖・三鈷杵・鏡・刀子等の多数の遺物が発見された。
  これらは、宗教的な理由から意識的に投げ込まれたものと推定される。


『日光男体山 山頂遺跡発掘調査報告書』PLATE 6より 
上図の六号露岩の正面を左方から見た写真
 五号露岩と六号露岩の隙間が、六号露岩の右手に見える。

10群馬県
10群馬県
博物館24
総覧41
神道考古1巻
北米岡
姥(うば)石(いし)
時代―
<所在地と北緯・東経>
伊勢崎市境米岡230-2(佐波郡境町米岡字南郷)
北緯,東経36.266982, 139.262913<左記コメント参照>

<出土地の概要と出土遺物>
段丘上。磐座としての姥石(自然石)の周辺から出土。
勾玉・有孔円板・剣形品・臼玉・手捏土器・土師器

<画像引用サイト>「伊勢崎市 米岡の姥石」
http://www.city.isesaki.lg.jp/www/contents/1354755144793/index.html(地図あり: 現在の位置)


現在の姥石
伝承:姥石は「甘酒婆さん」と通称される。
約1mの輝石安山岩の自然石で、新田義貞挙兵の際、小休止の軍勢に
甘酒をふるまっていた老婆が武将の馬に蹴られ、死んで石になったという。
百日咳を癒すご利益があるとされ、治るとお礼に甘酒を供えた。

<コメント>
現在の姥石の位置は
何らかの事情で移転したものと推定される。
『第2回東日本埋蔵文化財研究会 古墳時代の祭祀』1993に記載された地図から推定した元位置
 概略の北緯,東経 36.2631171,139.2611155
姥石については、各地に女人禁制を犯して霊場に立ち入ろうとした老女が石と化した伝説が残る。
また、「咳」は「関」に通ずるもので、道祖神信仰が結合したものである。
 柳田国男「老女化石譚」(『妹(いも)の力』p237~265 創元社1940)

<参考文献>
・大場磐雄「上野国姥石の古代祭祀遺跡」
(『神道考古学論攷』p374~376 p481~501 1971)

        出土遺物            姥石
        (『神道考古学論攷』p375 第44図)

・北武蔵古代文化研究会(編)
 『第2回東日本埋蔵文化財研究会 古墳時代の祭祀』
第Ⅱ分冊 p214(地図あり: 元の位置)1993

10群馬県
博物館60
総覧7
神道考古1巻
赤城山
櫃石(ひついし)
古墳後期


<所在地と北緯・東経>
前橋市三夜沢町(勢多郡宮城村赤城山2198)
 北緯,東経36.494251,139.174955

<出土地の概要と出土遺物>
赤城山麓。巨石(櫃(ひつ)石(いし))あり。その周囲から出土。
平坦面中央に長径(南北)4.7m・短径2.7m・高さ2.8mほどの上部がかなり平坦な輝石安山岩製の巨石(櫃石)を中心に南方に2つ、北方に3つ、西方に1つ、計6つの大きな自然石がある。これらの石が本来自然石としてこの位置にあったものかどうか確認はできないが、人工を加えた痕跡は全く無い。いずれにせよ櫃石とその周辺の大小の石群全体をもって祭祀遺構と捉える必要がある。
 勾玉・管玉・剣形品・有孔円板・臼玉・異形勾玉・石鏃
 手捏土器・土師器・須恵器
このことは遺物の出土状況からも言える。出土遺物は、石製模造品及び手捏土器で、集中出土箇所は、中央の堰石の南方下部である。
現地表下30cmほどの深さよりかなりの遺物の出土をみる。また北方の大石の付近からも土器片が多量に出土しており、遺物の出土範囲は、南北20m程になると考えられる。
石製模造品はその器種組成をみるとやはり臼玉が88%と多く、
以下、剣6%・勾玉3%・管玉2%・有孔円板1%の順である。
 巨石祭祀・山岳信仰を考えるうえで重要な遺跡であり、下位にある赤城山南麓の巨石祭祀遺跡群と関連づけて考える必要があるだろう。

<画像引用サイト>「桐生山野研究会」
http://akanekopn.web.fc2.com/yama/sanyaken/sanyaken32.html

櫃石(高さ2.8m・幅4.7m)

<参考文献>
・大場磐雄「赤城神の考古学的考察」(『神道考古学論攷』p342~373 1971)
・岩沢正作「群馬県における祭祀関係遺跡概観」(『毛野』5号p17~18  1933)
・山崎義男『勢多郡誌』歴史編 p177 1958
・北武蔵古代文化研究会(編) 『第2回東日本埋蔵文化財研究会 古墳時代の祭祀』
 第Ⅱ分冊 p229(地図あり) 1993

<コメント>
赤城山南麓の巨石祭祀としては、姥石(10群馬県 博物館24)、
七ッ石(10群馬県 博物館78)、正観寺遺跡(10群馬県 博物館100)
が挙げられるが、下記の文献にもいくつかの地名が挙げられている。
・井上唯雄「赤城櫃石と群馬の祭祀遺跡」 (『群馬文化』192号p6~20 1982)
 p17,18に地図と表があり、櫃石、姥石、七ッ石の他に、室沢大石、ミカジリ(三ヶ尻)、
 産(さん)泰(たい)神社、天神山、石山(観音)の巨石祭祀の地名があるが遺物の詳細は不明。
  産泰(さん(たい)神社 前橋市下大屋町569 http://hatazoku.d.dooo.jp/santai.htm
  石山観音 伊勢崎市下触(しもふれい)町   http://www.go-isesaki.com/shr_ishiyama.htm

10群馬県
博物館78
総覧―
神道考古―
七ッ石
古墳時代
<所在地と北緯・東経>
前橋市西大室町七ッ石(勢多郡城南村西大室七ッ石)
 北緯,東経36.227667,139.607818

<出土地の概要と出土遺物>
巨石群があり、付近から、祭祀遺物が多数出土と伝うが詳細は不明、
古墳、縄文土器片も付近にある。

<画像引用サイト>「Journey To The End」
http://travelog-jpn.blogspot.jp/2013/12/blog-post_5.html

七ッ石雷電神社の磐座(参考)

<参考文献>
・群馬県教育委員会『群馬県の遺跡』p33 1963

10群馬県
博物館100
総覧―
神道考古―
正観寺遺跡
古墳時代後期





































<所在地と北緯・東経>
高崎市小八木町14  鏡宮神社境内
 北緯,東経36.364961, 139.016017
<コメント>
祭祀巨石は、現在は鏡宮神社の境内に置かれているが、元々の位置は鏡宮神社の北西約230mの地点である。
『正観寺遺跡群Ⅱ』発掘調査報告14集の発掘概念図から推定した祭祀巨石の元位置
 概略の北緯,東経36.366982, 139.012804

<出土地の概要と出土遺物>
調査区の最高所で、縦2m、横2m、高さ1m程の岩石が検出され、その裾部から遺物が出土した。
 土師器・須恵器・石製模造品(鏡・臼玉・剣)

<画像引用サイト>「ブログbeccan」(地図あり)
http://beccan.blog56.fc2.com/blog-entry-2090.html



高崎市 正観寺遺跡群 祭祀巨石

案内板より
正観寺遺跡群 祭祀巨石  六世紀後半
この「巨石」は、高崎市教育委員会が中川北部土地改良に伴っておこなった埋蔵文化財の発掘調査で発見しました。
発見場所はこの鏡宮神社の北西約250m(注参照)の地点。
周辺には多数の竪穴住居跡や、大型の掘立柱建物跡も1棟存在し、
古代の集落跡であることがわかりました。
「巨石」の大きさは縦、横約2m、高さ約1.1m。
石質は榛名山の安山岩で、重量は約8ton。
「巨石」は発掘された集落内のもっとも標高の高い場所に掘られた穴
(直径約3.5m、深さ約40~60cm)の中央にありました。
どこからか運びこみ、平らな面が上になるようにすえられたものと思われます。
穴の中には「巨石」の南東から北東にかけて土師器や須恵器などの土器ほか、勾玉や白玉、有孔円板や剣形の石製模造品などの祭祀具があり、「巨石」とともに人為的に埋められたものとみられます。
(注)前述の祭祀巨石の元位置から推定すると230mとなった。

<参考文献>
・北武蔵古代文化研究会(編)
 『第2回東日本埋蔵文化財研究会 古墳時代の祭祀』
  第Ⅱ分冊 p264(地図あり)1993
・高崎市教育委員会『正観寺遺跡群Ⅱ』発掘調査報告書14集 1980
  p3,4,13,14,15 詳細地図あり
・井上唯雄「赤城櫃石と群馬の祭祀遺跡」(『群馬文化』192号 p18~19 1982)
「巨石」は、型態的には磐座とみられるが、櫃石とはまた性格が異なる形で手捏土器がほとんど見られないことからすると祭祀としては異質な儀礼のあったことを示すものかもしれない。
<コメント>
正観寺遺跡と櫃石における出土遺物の差異は、立地条件であろう。
正観寺遺跡は集落内の祭祀遺跡に対し、櫃石は赤城山中の隔絶した祭祀遺跡である。言わば、本社と末社の差のようなものであろう。

10群馬県
博物館―
総覧―
神道考古―
1990年発掘
西大室丸山遺跡
古墳時代中期
(5世紀後半~)
  <所在地と北緯・東経>
前橋市西大室町丸山1128-1
北緯,東経36.382665,139.179912

<出土地の概要と出土遺物>
赤城山南麓の赤城山起源の火山性泥流丘上に立地する。
古墳3基と巨石祭祀遺構が見つかった。
 ・大量の土師器(坏、高坏中心)と手捏土器(30点以上)
 ・石製模造品(臼玉1万200、剣400、有孔円板120、勾玉40のほか、
  一部未成品や原石破片)総数約1万1000点
 ・少量の須恵器

<参考サイト>「西大室丸山遺跡」http://hatazoku.d.dooo.jp/nisioh1.htm
巨石祭祀遺構は泥流丘南面に位置し、そこから北に向けて赤城山を一望することができるところから、明らかに赤城山に対する信仰から生まれた遺構と考えられる。泥流丘の頂部から南面にかけて巨石の露頭が認められ、その巨石はほとんど下位の地盤とつながっているが、一部の巨石は原位置から動いている。
巨石の基部およびその周辺で集中的に遺物が出土した。
その出土場所と状況から遺物の内容や器種による差異は認め難い。
土器は、もともと破砕された状況であったと考えられる。
西に近接するほぼ同時期の舞台1号墳との石製模造品による祭祀との形態、性格の相違を考える上で貴重な資料である。

<参考文献>
・『西大室丸山遺跡』 群馬県教育委員会 1997
  第1図、p6~7(詳細な遺跡地図あり)


祭祀跡から赤城山を望む(『西大室丸山遺跡』PL18)


祭祀跡巨石群と石製模造品(臼玉)の分布図(『西大室丸山遺跡』p37第30図)
 石製模造品の臼玉は1万200点出土したが、本図はその分布図である。
 中央部の薄い点々が出土地点を示している。

 出土域はかなり広範囲に広がっていることがわかる。

10群馬県
博物館―
総覧―
神道考古―
2001年発掘
宮田諏訪原遺跡
第1区1号祭祀遺跡
古墳時代
5世紀後半~
6世紀初頭
<所在地と北緯・東経>
渋川市赤城町宮田諏訪原(勢多郡赤城村大字宮田字諏訪原957番地1)
 北緯,東経36.529329,139.035051

<出土地の概要と出土遺物>
榛名山に面する赤城山の山麓。火山灰層に覆われて、5か所の祭祀跡が存在。1号祭祀遺構は、巨岩周辺に土器集積を形成する。


1号巨石祭祀跡(Ⅱ区)(『宮田諏訪原遺跡概報』p12 38)

・銅製小型乳文鏡1、鉄鏃38、鉄製U字形鋤鍬先4・曲刃鎌1・
鎌7(鎌形3)・刀子6、小札1、不明鉄製品3
・蛇紋岩製有孔円板20・剣形86・刀子形3・扁平勾玉9・
臼玉482以上・原石・未製品                                                                                  
・土師器(窯8・小型甕7・柑9・壷6・小型壷1・短頭壷1・高杯14・ 杯124)、手捏土器8、須恵器(双耳高杯1)
・須恵器:陶邑窯TK23型式

<参考文献>
・笹生(さそう)衛(まもる)『日本古代の祭祀考古学』p21 吉川弘文館 2012
・赤城村教育委員会『宮田諏訪原遺跡I・II 』2005
・赤城村教育委員会『宮田諏訪原遺跡概報』2003
 p22~23(詳細な地図あり)

 10群馬県
博物館―
総覧―
神道考古―
発掘2014年~
居家以(いやい)
岩陰遺蹟
 <所在地と北緯・東経>
群馬県吾妻郡長野原町
北緯,東経36.558015,138.647450

<出土地の概要と出土遺物>
八ッ場(やんば)ダム予定地の上流にある貝瀬集落の白砂川沢沿に、
6ヶ所の岩陰遺蹟(1号から6号)が点在する。
長野原町内には、21遺蹟、34ヶ所の岩陰遺蹟が見つかっている。
岩陰遺跡は、張り出した岩盤の下のくぼみを利用して雨風をしのぐことのできるいわば天然のシェルターである。
縄文時代前半によく利用された岩陰や洞窟は、特に群馬・長野・新潟をまたぐ山地に多く見つかっている。
居家以岩陰遺跡は約1万4000年前から5500年前までの時期に最も盛んに利用されたと推定される。
その西端にある1号岩陰遺蹟から、わが国では最古級とされる約8300年前の人骨が多数発掘された。


縄文人骨が出土した居家以岩陰遺跡の1号岩陰
岩陰の高さは約6mで、下部は3m程えぐれていて岩陰を形成している。
(国学院大学考古学研究室による発掘状況)

朝日新聞デジタル 2016年9月19日付け記事
https://www.asahi.com/articles/ASJ9H3WBWJ9HUHNB007.html

体を丸めた状態で見つかった成人人骨
(国学院大学考古学研究室提供)

人骨の他に
・石器 狩猟用の鏃、木の実を加工するための磨石
・土器 縄文時代草創期から晩期までの様々な土器が出土、特に縄文草期・前期のものが多い
・動物の骨 ニホンジカ・イノシシの他、キジ・ノウサギ
・植物種子 クリ・クルミ

<参考文献>
・八ッ場(やんば)あしたの会 https://yamba-net.org/44248/
・ジオなまち ながのはら
http://www1.town.naganohara.gunma.jp/www/contents/1492055003482/files/3007-IwakageIseki.pdf
・群馬県吾妻郡長野原町居家以岩陰遺跡 : 2014年度発掘調査報告書
 国学院大学文学部考古学実習報告第53集

 11埼玉県  
 11埼玉県
博物館123
総覧2
神道考古3巻
こぶヶ谷戸(やと)遺跡
こぶ石
古墳~平安時代
<所在地と北緯・東経>
児玉郡美里村猪俣357
北緯,東経36.158806,139.181714

<出土地の概要と出土遺物>
こぶ石の周りから出土
剣形品
手捏土器・土師器・須恵器
斧頭・鎌・鉇(やりがんな)

<参考文献>
・『こぶヶ谷戸祭祀遺跡発掘調査報告書』
埼玉県児玉郡美里村教育委員会1960
・『新編埼玉県史』資料編2 p951~952 1982
・坂本和俊「こぶヶ谷戸祭祀遺跡」
 (北武蔵古代文化研究会(編)1993『第2回東日本埋蔵文化財研究会 古墳時代の祭祀

-祭祀関係の遺跡と遺物-』第2分冊-東日本編Ⅱ-339~341)
・大場磐雄「埼玉県の祭祀遺跡」(『神道宗教』65/66合併号 p8~10 神道宗教学会 1972)
・椙山林継(『神道考古学講座』2巻 p38~40 1982)
美里村猪俣に七名石と呼ばれる「うなり石」「姥石」「鏡石」「櫃石」「福石」「姥(ばばあ)石」「こぶ石」の七個の石があり、いずれも伝説が付随している。(左の注参照)
「こぶ石」は丘陵と平地への変換線に近く、開かれて水田となった沖積地にある。径約80cm、高50cmほどの自然の花崗岩で地表からわずかに頭を出しているめだたない石である。もっともかつては地上高約六尺(1.6m)と伝えられているからかなり日立つ存在であったかと思われる。
この遺跡は二回にわたり発掘調査がされており、第一回の発掘では、東半が調査されこぶ石の東へ7.5m、南北約6mの半楕円形の部分に遺物が発見された。こぶ石に近く、石製模造品、和泉期とみられる土師器が多く、やや離れては鬼高期に属す土器が発見され、総数1400個にも及ぶ小形手軽土器が群在していた。
 鉄製品では斧、鎌、鉋等がみられるが、これらも石製品とともにこぶ石から2m以内に出土している。
石製品は滑石質の白色を呈する石で粗く造られ、形の明らかなものは剣形品、有孔円板であとは何を模したか不詳のものが多い。
有孔円板二個は単孔で、埼玉県熊谷市西別府湯殿神社裏の別府沼出土品、あるいは千葉県南部から発見される土製有孔円板に類似している。剣形品も、無孔のものが多く、やはり別府沼出土品などに似て、他遺跡の剣形品とは様相を異にしている。精製土器は鬼高期以降が多いが、こぶ右近く地表下75cmの最下部から発見されている一群は和泉期であろう。須恵器は高台付碗、糸切り底杯等が数点ある。
なお第二回調査は、石の南部が掘られ敷か所に小グループの土器・石製品の群在が認められ、このこぶ石を中心にたびたび祭りの行なわれたことを推測する資料が得られている。
(注)大場磐雄「埼玉県の祭祀遺跡」椙山林継『神道考古学講座』2巻では
   「姥(ばばあ)石」が「馬方石」となっているが、これは誤りと思われる。
   「馬方石」は、別に存在する塞の神とのことである。
    小沢国平『こぶヶ谷戸祭祀遺跡発掘調査報告書』p13参照
・吉川宗明『岩石を信仰していた日本人』p170~180 遊タイム出版2011


こぶヶ谷戸祭祀遺跡写真
こぶ石 今はさほど目立たない石であるが、かつては地上高約六尺と伝えられているからかなり日立つ存在であったと思われる。
注:こぶ石の周辺を囲んでいる小石の仕切は、所有者による設置とのことである。
                      (『岩石を信仰していた日本人』p179)


美里町遺跡の森館の展示物 上:手捏土器 下:石製模造品

 12千葉県  
 12千葉県
博物館―
総覧―
神道考古―
1987年発掘
小滝(おたき)涼源寺遺跡
古墳時代
5世紀後半~6世紀初頭
<所在地と北緯・東経>
南房総市白浜町白浜小滝涼源寺(安房郡白浜町大字白浜字小滝涼源寺)
 北緯,東経34.912611,139.913292

<出土地の概要と出土遺物>
房総半島の先端。海岸段丘上。
自然石周辺などに形成された土器集棟を伴う祭祀遺構。
遺跡内では17か所の祭祀遺構が存在。部分的に焼土を伴う。
・鉄剣1・鉄鏃1、鉄製鎌形3(短冊状で、鉄鋋(てつてい)の可能性が高い)
・滑石製有孔円板10・剣形10・勾玉1・管玉2・臼玉224
・土製品の勾玉2
・土師器(甕壺760・柑170・高杯90・器台55・杯椀鉢10)、
手捏土器等140 
・土師器:古墳時代前期Ⅶb期~古墳時代中期3期

<参考文献>
・笹生(さそう)衛(まもる)『日本古代の祭祀考古学』p23 吉川弘文館 2012
・朝夷地区教育委員会『小滝涼源寺』1989 p5~6(詳細な地図あり)p18~19
本遺跡は、南北15m、東西10mの大きさの楕円形を呈する遺構で、緩やかな斜面に存在し、約220点の遺物が折り重なるように堆積していた。遺物は、第11図中の2つの岩(凝灰質泥岩、凝灰質砂岩)の南側で特に集中して検出されている。
東側の凝灰質泥岩は、長軸3.60m、短軸2.30m、厚さ90~150cmを計測し、形状は不定形。その西側の不定形な凝灰質砂岩は、長軸1.90m、短軸1.50m、厚さ80~160cmを計測する。
この2つの岩は、上面に若干の凹凸はあるが、平らな面を有している。これらの岩の上部は地表に露呈し、下部は地表面より20~40cmの深さで、遺物の包含している黒褐色土中に埋没していた。
なお、この2つの岩の南側では遺物が集中しているものの、北側では遺物が数点しか検出しておらず、その数点の遺物はすべて東側の凝灰質泥岩の北面に置かれたような状態で出土している。このことからも、この2つの岩、特に東側の凝灰質泥岩は、磐座としての可能性が考えられる。また、磐座ではないとしても、石の南側で多量の遺物を捨てている廃棄祭祀が行なわれていることは明確である。
 なお、遺物の時期は、伴出している土師器より五領期後半から和泉初頭にかけてである。(『小滝涼源寺』p18~19)



遺構SX05(『小滝涼源寺』p19 第11図 例言7)
 図中の点のようなものは、遺物出土地点を示す。


遺構SX05(『小滝涼源寺』図番15)
この岩は磐座と目されている。
上図の遺構SX05の上部の大きい方の岩が該当する。
この岩の前から、多数の遺物が出土した。

 13東京都 
 14神奈川県 
 14神奈川県
博物館―
総覧36
神道考古3巻
駒ヶ岳山頂遺蹟
馬降石・馬乗石
時代 中世
<所在地と北緯・東経>
足柄下郡箱根町駒ヶ岳
北緯,東経35.224679,139.025309

<出土地の概要と出土遺物>
神体山山頂(1356m)。磐座(馬降石・馬乗石他)付近より出土。
土師器・鏃

<参考文献>
・坂詰秀一「駒ヶ岳山頂遺跡の調査」
(『箱根町誌』第1巻 p121~126 1967)
駒ケ岳山頂の駒形権現付近に存在する磐座は、5個(A~E)の安山岩質の自然石より成り立っている。そこは火口の東側に接しており、西方の眼下に芦ノ湖を望みうる景勝地に位置している。


磐座の配置図(A: 馬降石 最大長3.9m B: 馬乗石 最大長3.3m)

出土状況
磐座Aの南面 土師器細片・古銭片(宋銭)・ 鉄釘片
磐座Bの西面 土師器細片
磐座Dの東面 古銭(寛永通宝)
第二トレンチ西端 土師器杯・土師器細片

磐座の配置

磐座CとEは人為的に位置された可能性も考えられる。
他は自然の感が強い。

<画像引用サイト>Facebook

駒ヶ岳山頂の磐座 馬降(ばこう)石(いし)(左)と馬乗(ばじょう)石(いし)(右)
 馬降石の上の穴は降馬の折の蹄跡で、穴にたまる水は旱天にも枯れたことがないと伝えられる。
 神は、馬乗石から馬に乗り、天を駆け巡った後、馬降石に降りられるのであろう。
<コメント>
馬降(ばこう)石(いし)(左)にはしめ縄がかけられているのに対し、馬乗石にはしめ縄がない。
信仰上、馬降石が重要視されていることがわかる。
これは、磐座的に考えれば、神の降臨を重視したことになる。

<参考サイト>「箱根元宮」
http://hakonejinja.or.jp/02-contents/02-main/08-keigai-jinja/
03-contents/02-motomiya/02-motomiya.html#motomiya-anchor01
駒ヶ岳山頂から1㎞のところに神山(1438m)が望まれる。その方位は、社殿や参道の方位と一致している。(注参照)
これは上記サイトによれば、「今から凡そ2400年前、人皇五代孝(こう)昭(しょう)天皇の御代、聖(しょう)占(ぜん)仙人(しょうにん)が、神山に鎮まります山神の威徳を感應し、駒ヶ岳山頂に神仙宮を開き、次いで利行丈人、玄利老人により、神山を天津神籬(あまつひもろぎ)とし、駒ヶ岳を天津(あまつ)磐境(いわさか)として祭祀したのに始まる」とある。
毎年10月24日には、駒ケ岳山頂古代祭祀遺跡の岩垣に囲まれた祭場で、神山(神籬)を真正面に拝して御神火祭が斎行される。

(注)その方位は真北から西に20度であり、冬至の夜にシリウスが輝く古代ペルシャの聖方位である。
14神奈川県
博物館―
総覧(静岡県47)

神道考古3巻
足柄峠遺跡
笛吹石(吹笙石)
古墳時代~平安時代
 
<所在地と北緯・東経>
足柄下郡足柄峠(静岡県駿東郡小山町竹ノ下字峠)
北緯,東経35.320106,139.011646
<コメント>
「総覧」においては、足柄峠は静岡県駿東郡小山町竹ノ下字峠とあるが、ここでは「神道考古」と『神奈川県の地名』に従い神奈川県側にて紹介した。

<出土地の概要と出土遺物>
峠神奉斎の磐座と思われる笛吹石付近から出土。
土師器・須恵器

<参考文献>
・椙山林継『神道考古学講座』3巻p294
・小野真一『祭祀遺跡地名総覧』p70
 峠の頂上付近、笛吹岩などの巨岩(磐座)
・直良信夫『峠路』p50,65 校倉書房 1961
 山頂に遺存している足柄城址の西側、笛吹石に接した道路の露頭部で採集したといわれる一群の土器片は、はなはだ興味の深いものであった。縄文中期以降と考えられる土器片三個、土師器片七個、須恵器片一個の遺物がそれである。その翌日、私たちも同じ場所で数個の土師器片をひろいあつめた。(『峠路』p65 p50に遺物の図あり)
・鳥居竜蔵『武蔵野及其周囲』p188~191 磯部甲陽堂 1924
・『神奈川県の地名 日本歴史地名体系14』p642 平凡社 1984

<画像引用サイト>「足柄峠の古道探索」
http://michis27.main.jp/ashigaraT_folder/touge_folder/asiga-touge01.html

新羅三郎義光の吹(すい)笙(しょう)石(笛吹石)
伝承:源義光は近江の新羅明神の宝前で元服し「新羅三郎」と呼ばれていました。『古今著聞集』『時秋物語』には、新羅三郎義光と豊原時秋の笙の秘曲伝授の物語がでています。義光は奥州(後三年の役)で戦っている兄の義家の救援に向かう途中でした。義光を慕い後を追ってきた時秋に義光は、時秋の父である豊原時元より授かった笙の奥義を伝授して時秋を京に引き帰えさせたといいます。この吹笙石は秘曲伝授を行ったところだと伝えています。

                                                              (C20160304 カウンター )
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