調査報告 2011年1月5日掲載
キーワード 農業用水 六樋 洽
武庫川東岸六樋探訪
1 はじめに
江戸時代の宝暦年間(1751〜1763)、各地域に水を正確に分水するために洽(こう)と呼ばれる水利施設が農業用水路に設けられた。
これを適正に配置することにより、井組(ゆぐみ)全体の分水システムが実現される。
井組とは、中世末期か近世初期に創設されたといわれる村々で構成された農業用水の管理組合のことである。
図1は、伊丹市昆陽井(こやゆ)の御願塚(ごがづか)用水における洽の配置図である。
洽の詳細については、本ホームページの「昆陽組邑鑑による四つ洽の考察」を参照願いたい。
江戸時代、武庫川両岸には十二の井組があった。
十二の井組とは、東岸の川面(かわも)井・昆陽井・野間井・生島(いくしま)井・武庫井・水堂(みずどう)井・守部(もりべ)井・大島井、
西岸の伊孑志(いそし)井・百間樋井・アンコ井・枝川井である。(文献2 p11)
図1 昆陽井の洽(弐つ洽⇒四つ洽⇒七松洽⇒鎌倉洽⇒富田洽)(文献1
p174)
従来より、武庫川に多数の取水口があるのは万一増水した時に堤防が決壊する恐れがあるため、六樋の一本化が指摘されていた。
このため昭和2年10月六樋合併工事が起工され、翌3年(1928)4月に完成された。
すなわち、尼崎市域の上流から順に設けられていた野間井・生島井・武庫井・水堂井・守部井・大島井の樋門(取水口)がすべて廃止され、
それに代わって六樋共同取水口が野間井旧樋門の少し上流に新設された。(文献2
p110)
水路は、まず六樋共同取水口から武庫川東岸に沿って大島に至る幹線水路を設け、各井組へは各井組の元取水口のあった地点で分水を行っている。
図2は上記の分水システムを説明した概念図である。井組の村々とエリアは『尼崎市史』(文献3 p583)に準拠した。
これを見ると、昆陽井の洽による分水システムと六樋の分水システムがぴったりと重なることがわかる。
図3は1968刊行の『尼崎市史』に掲載されている六樋合併前の六樋水路図である。
六樋合併から80年以上経過しているので図3の水路の状態では完全ではないが、部分的には残されている。
今回は、尼崎市武庫川六樋合併50周年を記念して刊行された『六樋』(文献2)を参考に、
分水システムの確認のため各井組の取水口の跡(分水地点)を訪ねたものである。
尚、江戸時代の六樋の水路図については、本ホームページの「昆陽組邑鑑による四つ洽の考察」の
末尾の付図「宝暦8年(1758)武庫川筋用水井絵図」を参照願いたい。
![]() 図2 六樋合併の分水システムの概念図 左上側の六樋共同取水口からF大島井組に至る水路が幹線水路 黒い小丸は第一から第四の分水地点を示す。 |
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図3 昭和3年(1928)六樋合併前の水路図(文献3 p584) |
2 六樋合併後の水路探訪
@六樋共同取水口 尼崎市西昆陽3丁目37
六樋共同取水口は、山陽新幹線の北側に位置する武庫川東岸にある。(図1.1)
詳しくは、武庫川に注ぎ込む天王寺川の河口左岸にある。(図1.2)
そこには旧六樋共同取水口跡のモニュメント(図1.3)があり、次のような説明プレートがはめ込まれている。
「昭和3年の武庫川大改修に伴って、それまで尼崎市内の武庫川の堤防にあった六つの農業用水の取水口を集約して、
この場所に一つの取水口(六樋)をつくりました。
昭和29年の災害復旧工事で、六樋が現在の暗渠集水を行うようになるまでの間、この場所で取水していました。」
現在、このかたわらには暗渠集水設備(図1.4)がある。
また、道路を渡った東側には武庫川六樋合併記念碑(図1.5)があり、武庫川から取り入れた水はここに出てくる。(図1.6)
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図1.1 武庫川に注ぐ天王寺川(右側手前) 対岸は西宮市 六甲連山が遠くに見える |
図1.2 取水口付近の天王寺川 |
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図1.3 説明プレートがはめ込まれている旧六樋共同取水口跡 |
図1.4 暗渠集水設備 |
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図1.5 武庫川六樋合併70周年の記念碑 | 図1.6 六樋共同取水口の出口 |
A野間井・生島井(第一分水地点)尼崎市西昆陽3丁目35
六樋共同取水口の出口からわずかの距離にある。
野間井の成立は六樋のなかでも古く、承応2年(1653)と言われている。(文献3
p585)
生島井の成立ははっきりしていないが、およそ中世末か元和以前の近世初頭と推測されている。(文献3
p591)
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ゲートが4枚ならんでいる。 左から第1ゲートが野間井、第2ゲートが生島井、 第3と第4ゲートが幹線水路。 兵庫県武庫川六樋合併普通水利組合規約第33条(イ)項によれば 30%が野間井、24%が生島井に供給される。(文献2 p115) 幹線水路には残りの46%が供給される。 生島井は野間井の8割となっているが、 正徳2年(1712)の溝幅の取り決めでは、 野間井2間、生島井1間半であった。 つまり、生島井は野間井の7割5分であった。(文献2 p50) |
図2.1 野間井・生島井のゲート |
B武庫井(第二分水地点)尼崎市西昆陽2丁目29
武庫井の成立は、はっきりしないが恐らく江戸時代に入る前とされる。(文献3
p598)
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左から第1〜6取水口が幹線水路 第7取水口が武庫井。 |
図3.1 七つの開口部がある |
C水堂井(第三分水地点)尼崎市常松町1丁目36
水堂井の成立は、はっきりしないが享保3年(1718)に武庫井と水堂井の争論の文書が残されている。(文献2 p55)
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図4.1 左:水堂井水路 右:幹線水路 水分けは画像から、2:3と推定される。 |
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近在のお百姓さんの話によると、 このあたりは武庫川の伏流水が流れていて、 土を掘れば水が湧き出してきたとのこと。 このため現在は埋め立てられてほとんどないが、 昔は多数の涌水池があったそうである。 甲武橋の下にある新池(しんけ)、守部池、西武庫公園内の池の他、 武庫元町3丁目9の「西武庫村野菜洗浄場」(文献4 p152〜153)と 呼ばれているところも元は涌水池であった。 これらは、江戸時代の絵図では「出水(でみず)」として 記載されることがある。 現在、常吉井(つねよしゆ)と呼ばれている新池(しんけ)の水は、 水堂井水路と平行して常吉2丁目の源太郎橋に向かっている。 昭和11年の大旱魃の際、この池の水を水堂井に1時間いくらで 流したこともあったという。(文献4 p148〜149) |
図4.2 甲武橋の下にある常吉井の水源:新池(しんけ) |
D守部井(第四分水地点)尼崎市武庫豊町3丁目2
守部井の成立は、はっきりしないが争論の文書から少なくとも近世初期のものと推定されている。(文献2 p62)
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左から第1取水口が守部井水路、 第2〜4取水口が幹線水路 連結用の塩化ビニール管が幹線水路を跨いでいるのが見える。 守部池の水は幹線水路とは切り離されていて 幹線水路を跨いで守部井水路に水が供給されている。 守部池は水路と武庫川の堤防の間、図5.1の柵の右側にある。 |
図5.1 四つの開口部がある |
守部井は県立西武庫公園の北側の武庫川堤防の下にある。現地にはあずま屋や案内板もある。
守部井は武庫川の樋門に続く水路の溝跡があり、草に覆われているが現在でも確認できる。(図5.2)
現在は、武庫川とは切り離された守部池(涌水池)となっている。(図5.3)
守部井は守部池の他、幹線水路から1/4の水の分与を受ける。(図 5.4 5.5)
さらに、西武庫公園の涌水池からの水も守部井に合流している。(図5.6 5.7)
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図5.2 守部井の取水口の溝跡、今も水が流れている |
図5.3 守部池、右は武庫川の堤防、左にあずま屋が見える |
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図5.4 守部池の取水口 幹線水路の下をくぐって守部井水路に繋がっている さらに連結用の塩化ビニール管もある |
図5.5 左の水路に守部池からの水が加わる 右の四角の口が守部池からの水の出口 連結用の塩化ビニール管が幹線水路を跨いでいる |
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図5.6 西武庫公園の涌水池 前方のコンクリートブロックの前に井戸がある |
図5.7 亀が遊ぶ西武庫公園涌水池の井戸 |
E大島井 尼崎市武庫町3丁目12
大島樋は、六樋のなかでもっとも下流に位置する。
大島樋の成立は、文書から天正8年〜天正11年(1580〜1583)とされている。(文献3
p605)
現在は、鉄製の階段が南北に2ヶ所あるだけの見逃してしまいそうなところである。
文献『六樋』p64に写真が掲載されているので、それとわかる。
ここが正しいとすれば、図3の大島樋の位置は少し北にずれていることがわかる。
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図6.1 鉄製の階段が残る大島井跡 |
3 六樋の分水システム
水路の幅から、六樋共同取水口から取水した水をどのように配分したかが推定される。
表1は六樋合併普通水利組合の規約の分水比と、今回の推定値を比較したものである。
概算ながらかなり良くあっており、水路の幅によって分水システムの骨格が決まることがわかる。
江戸時代の井組における洽の連続した設置は、この分水システムを確立することにあったと言える。
表1 六樋共同取水口の水量を1とした時の分水比 | |||
井組 | 六樋分水比(%) 下注参照 |
分水比(推定値) 六樋探訪の水路幅から推定した概略値 |
左欄の%表示 |
野間井 | 30.0 | 30/100 | 30.0 |
生島井 | 23.9 | 24/100 | 24.0 |
武庫井 | 6.5 | 46/100×1/7=23/350 | 6.6 |
水堂井 | 17.1 | 46/100×6/7×2/5=138/875 | 15.8 |
守部井 | 5.2 | 46/100×6/7×3/5×1/4=207/3500 | 5.9 |
大島井 | 17.3 | 46/100×6/7×3/5×3/4=621/3500 | 17.7 |
計 | 100 | 1 | 100 |
(注)兵庫県武庫川六樋合併普通水利組合規約第33条(イ)項に記載された渇水期を除いた分水比(文献2
p115)
分水比は、潅漑反別に比例して求めたもの。六樋水利組合結成時の潅漑総面積は1,198町であった。(文献2
p125)
従って、六樋分水比は厳密には実際の水量ではなく、目標値と解釈すべきであろう。
参考文献
1 『伊丹古絵図集成 本編 伊丹資料叢書6』 八木哲治 1982 伊丹市
2 『六樋』池田徳誠 1978 尼崎市武庫川六樋合併50周年記念実行委員会
3 『尼崎市史 第2巻』 1968 尼崎市
4 『尼崎の農業を語る』 尼崎市立地域研究史料館 2006 尼崎市
5 『水路の用と美 農業用水路の多面的機能』 渡部一二(わたべかづじ)
2002 山海堂
(C20121220)