イワクラ(磐座)学会 調査報告電子版 2009年11月8日掲載
イワクラ(磐座)学会会報18号掲載    
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              三輪山のイワクラ(磐座)めぐり

1 はじめに
 三輪山(みわやま)は、奈良盆地の南東部に位置する奈良県桜井市にあるなだらかな円錐形の山である。
標高467m、周囲16km。三諸山(みもろやま)ともいう。
 三輪山は、おそらく縄文時代、あるいは弥生時代から、自然物崇拝をする原始信仰の対象であったとされている。
古墳時代にはいると、山麓地帯には次々と大きな古墳が作られた。
そのことから、この一帯を中心にして日本列島を代表する政治的勢力、
すなわちヤマト政権の初期の三輪政権(王朝)が存在したと考えられている。
200〜300mの大きな古墳が並び、そのうちには第10代の崇神天皇(行灯山古墳)、第12代の景行天皇(渋谷向山古墳)の陵があるとされ、
さらに箸墓古墳(はしはかこふん)は『魏志』倭人伝にあらわれる邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかと推測されている。
『記紀』には桜井市の大神神社の祭神・大物主神(別称三輪明神)の三輪山伝説が載せられ、三輪山は神の鎮座する山・神奈備とされている。
 三輪山の祭祀遺跡としては、辺津磐座、中津磐座、奥津磐座などの巨石群、
大神神社拝殿裏の禁足地遺跡、山ノ神遺跡、奥垣内遺跡などがある。
頂上には高宮神社が祀られているが、延喜式神名帳には式内大社として神坐日向神社が載せられている。
この日向神社は、古代には三輪山の頂上に祀られ、太陽祭祀に深く関わっていた神社であったと推測されている。(HP1@)


 三輪山の大物主大神の磐座はあまりにも有名であるが、三輪山の周辺に点在する磐座は案外知られていない。
そこで、愛好家のために、三輪山登拝に合せて周辺の磐座をたっぷり一日かけて回れるコースを紹介する。

 イワクラ(磐座)とはそもそも何であろうか。
これについては諸説あるが、まずは大神神社元宮司の中山和敬氏の言に耳を傾けよう。(文献1@ )
  磐座はかならずしも、天然現象である岩石・巨石、またはその集群を見つけて、これを直接に畏敬し、そのものを神とするものではない。
  日本人は古来、そこを神座と心得、神を招き奉ってはじめて祭祀を行ない、崇拝をするのである。
  したがって山が高いからとか、巨石なるが故で信仰の対象としたものではない。
  磐座はけっして驚くほど大きいものではない。中には一個のみで威厳を備えているもの、巨石群、重なり合っているものなどがある。
  そしてこれらの磐座も自然のものと、人工的な仕組みのものとがある。
  人間の生活が山麓から低地へ移っていくと平野部にも造られている。


同氏は、磐座の確実な事例として、磐座神社の1個、夫婦岩の2個、若宮社の1個、祇園社の2個、九日社の2個、
志貴御県坐神社の4個を挙げている。(文献1A)
また地元出身の考古学者である樋口清之は上記に加えて志貴御県坐神社の立石1個も磐座としている。(文献2)
三輪山麓の祭祀遺跡と遺物を総合的にまとめあげた資料としては、寺沢薫氏の文献3@Aに掲載されている表1、図2がある。
本調査報告は、基本的にこれに準拠している。

 ここで、私の磐座の年代観を示しておこう。
磐座祭祀は6世紀後半の社殿神道の始まりと共に衰退し、7世紀末の律令官社制の確立と共に実質的に終焉した。
磐座祭祀の終焉は社殿神道の発展過程の裏返しでもある。
沖ノ島では、7世紀末に半岩陰・半露天祭祀から露天祭祀への移行が確認されている。
三輪山においても7世紀前半には、磐座祭祀から禁足地の祭祀へと移行したとされる。
つまり人が磐から離れたのである。(文献4@)
7世紀末は古墳時代の終末期にあたり、磐座も古墳も石とかかわる祭祀であると云う点で共通する。
従って「磐座祭祀とは、古墳時代以前に行われた岩石祭祀」であると定義することができる。
これは、磐座祭祀が奈良時代以降に行われなかったという意味ではない。
磐座を研究する上で磐座の年代設定が不可欠であるため、古墳時代以前まで遡れる岩石祭祀を磐座祭祀としたいと考えたしだいである。
神社等にゆくと注連縄の掛けられた岩が多数ある。しかしどれが、古墳時代以前まで遡れる岩かの見極めはきわめて困難である。
なぜなら、ある時誰かが岩に注連縄をかけ、その状態が数十年持続すればその岩は磐座や聖石となる例が多数見かけられるからである。
 以下、三輪山西麓のこのような例につき検討を加える


<磐座(聖石)が否定される例1:若宮社の御饌石(みけいし)>

 図1の写真は若宮社の境内にある御饌石と呼ばれる聖石である。
神社の説明板によれば、正月の御神火祭の時に若宮社の上にある久延彦神社に
神饌を供える石とされる。
石の回りに注連縄が張り巡らされているために誰もが聖石と思うであろう。
伊勢神宮の御饌石を思い出して、伝統の祭祀に感銘する人もいよう。
しかし、この石は、50年ほど前は若宮社の境内に横たわっていた単なる岩であつた。
昭和35年7月に発行された冊子「大美和」第19号には、写真付きで若宮社の境内の
以下のような記述が掲載されている。(文献5)
「(若宮社の)本殿正面前庭の東方に大きな横長の自然石が横たわっている。
上部が机のように平坦である。
おそらくは昔の大御輪寺の堂宇の礎石の一つであつたのだろう。」
神社側の言い分もあろうが、磐座の研究者にとっては迷惑な話である。
 
図1 若宮社の御饌石(みけいし)、聖石?




<磐座(聖石)が否定される例2:貴船社の辺津磐座>

山の辺の道を横切る狭井川を渡り、檜原神社に向かって少し歩くと山側に小さな神社がある。
それが貴船社で、祠の右手(南側)の草むらのなかに写真のような木枠で囲まれた辺津磐座と勘違いしそうな小さな石がひっそりと眠っている。
貴船社の鎮座を調べてみると、「大和国三輪神社之図」(天理大学図書館吉田文庫所蔵)の古絵図には貴船社の記載がないことから、貴船社は宝永年間(1704〜1710)以前には存在してなかったことがわかる。また現在の貴船社の前身は、三輪山大黒谷の「百目石」(文献1B)とよばれる磐座とされる。(文献6)
さらに、大神神社の卯神事に行われる貴船神に関しても、正東と艮(東北)に向かって礼拝していること(文献7@)から上記の石は方角的にも一致しない。
これらのことから、この石が辺津磐座でないことがわかる。
図2 貴船社の辺津磐座?

<磐座(聖石)が否定される例3:綱越神社の磐座>

大神神社の馬場先、一ノ鳥居にすすむ正参道入口に位置する綱越神社は、祓戸の大神をまつる大神神社の摂社で延喜式内社である。鎮座地は三輪川(初瀬川)に近く、いわば大三輪の祓殿(はらえど)というべき神域である。
 磐座は社殿の右側に、二本の大木の間に鎮座している。
説明板のようなものはないが、この近くにある桜井市立埋蔵文化財センター発行の冊子
(文献8)には、磐座との記載がある。
地元では「イワクラさん」と呼ばれ親しまれているそうである。
しかしながら、『大神神社史料』第8巻(1981年刊)の口絵(カラー写真)を見ると岩に注連縄がかけられていないことがわかる。
三輪山の磐座に造詣の深い資料(文献9@)においても「綱越神社の磐座」に関する記述が見当たらない。また、綱越神社の「おんぱら祭」にも磐座の登場はない。
磐座の下に潜り込んだ樹木の根の状況から見て、後世に置かれた可能性すら感じさせる。
これらのことから、綱越神社の磐座は若宮社の御饌石と同様に近年に祀られたものと判断される。
図3 綱越神社の二本の大木の間にある磐座?

 結局、磐座の年代の推定は、祭祀遺物があれば比較的容易だが、無い場合は上記のように歴史的状況・神社の伝承・神社での祭られ方・
地理的条件・各種の資料等を手がかりにする以外にない。
 ここでは、様々な検討をおこなったうえで比較的確度の高いと思われる磐座をとりあげた。
尚、例1〜3の磐座(聖石)は、磐座めぐりのコース沿いにあるので、参考までにコースに盛り込んだ。

 図4と表1は、三輪山麓の祭祀遺跡と遺物出土地を示した地図と一覧表である。
本磐座めぐりは、図4の「大神水垣郷」のエリアに収まる磐座をピックアップし解説したものである。
「大神水垣郷」とは、三輪山山麓と初瀬川・巻向川の水垣によって限られた三角地帯で、昔から現在も墓をつくることを許されない神域である。



                   図4 三輪山麓の祭祀遺跡と遺物出土地(文献3@) ●印が磐座の位置を示す。

 注1 子持勾玉は大型の勾玉の表面に勾玉の小型省略形すなわち子を有し、滑石質の軟らかい石材で作られる。玉の持つ霊力、
     とくに増殖にかかわる呪術的な遺物とされる。
 注2 上図の5番の九日神社の位置は誤りである。(春日神社ではない)
     九日神社は、記載された位置から道路をまたいだ右上部のため池Wの南端にある。詳細は解説J九日神社の項を参照のこと。


                 表1 三輪山麓の祭祀遺跡と遺物の一覧表(文献3A)


2 三輪山の磐座めぐり<順路とコースタイム(徒歩)>
 
[概略スケジュール] <移動歩行時間合計4時間 参拝・昼食等を含めた所要時間 約8時間>
 桜井駅出発9:00 ⇒ 奥垣内祭祀遺跡(大美和の杜)で昼食を済ませた後出発12:30 ⇒
   三輪山登拝の後、狭井神社を出発14:30 ⇒ 桜井駅帰着17:00

[磐座マップ]
 図5に掲載した磐座マップは、大神神社発行のパンフレット『三諸の神奈備 三輪明神』をベースに作成したものである。
 紙上を借りて大神神社に御礼申し上げます。尚、パンフレットは大神神社に申し込めば戴ける。

図5 イワクラ(磐座)マップ 三輪山西麓 「大神水垣郷」

[モデルコース]
 近鉄桜井駅―20分―海石榴市(つばいち)跡(山の辺の道入口)(注1)―11分―@志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社―4分―

A平等寺・神坐日向(みわにますひむかい)神社(注2)―6分―B素佐男神社(祗園社)―4分―二ノ鳥居(注3)―2分―

C夫婦岩・大神神社―4分(くすり道)―D磐座神社―5分―E若宮社(大直禰子神社)―3分―久延彦(くえびこ)神社―2分―

F奥垣内(おくがいと)祭祀遺跡(大美和の杜公園・昼食場所有り)(注4)―4分―

狭井神社(注5)―50分(登り)―G奥津磐座(三輪山山頂)―40分(下り)―狭井神社―5分―H山ノ神祭祀遺跡―8分―貴船神社(注6)

―12分―I檜原神社―12分―国津神社(注7)―8分―国道169号線(注8)―5分―J九日神社― 10分―綱越神社(注9)―25分―近鉄桜井駅

注1 本磐座めぐりで紹介した@〜Jまでの磐座の所在地は、H山ノ神祭祀遺跡とJ九日神社を除き「山の辺の道」として良く知られた場所である。
    「山の辺の道」のスタート地点には、海石榴市の看板が大和川に架かる馬井手橋の手前に立っている。
注2 神坐日向(みわにますひむかい)神社は、平等寺山門より徒歩往復2分
    神坐日向神社は、もと三輪山の山頂にあったとされる延喜式の神社で、太陽祭祀に係わる神社とされる。
    これに関し、現在の高宮神社と神坐日向神社が入れ替わっているとの有力な説がある。
神坐日向神社の隣には注連縄の掛けられた神主の家屋     があり、「高宮」の表札が掲げられている。(文献10)
注3 平成6年の桜井市教育委員会の調査(三輪遺跡第8次調査)において、
   大神神社の二ノ鳥居の右手にある三輪明神交通安全祈祷所の西方約10mの民家敷地から
   5世紀後半から6世紀代にかけての子持器台・大甕・坏身、高坏などの須恵器などが出土した。
   この付近にかって巨岩が密集していたことから磐座祭祀の可能が報告されているが、定かではない。(文献8)
注4 奥垣内祭祀遺蹟のある「大美和の杜」は公園になっていて、屋根のある休憩所があるので雨の時でも昼食をとることができる。
   北側にトイレも近くにある。 
   また、南側には大和三山を眺めることのできる丘があり、天気の良い日はここで弁当を広げるのも楽しいであろう。
注5 三輪山の登拝口は狭井神社の境内にあり、登拝は社務所に申し込みこむ。
   登拝の受付時刻は、午前9時から午後2時であるので配慮して計画のこと。
   登拝禁止日 1月1〜3日 2月17日 4月9日 4月18日 10月24日 11月23日
   登拝の要領は、本文G奥津磐座の項を参照のこと
注6 貴船神社の祠の右手に木枠で囲んだ石(図2参照)がある。
   前述のように磐座ではないが、何かの参考にはなるであろう。
注7 豊鍬入姫命の墓といわれるホケノ山古墳は国津神社より徒歩往復4分(図29参照)
注8 国道169号線はバス道となっているので、最寄のバス停(「箸中」「芝」
   「三輪明神参道口」等)から、桜井駅か天理駅に向かうことができる。
    尚、バス停「箸中」と「三輪明神参道口」のバスの発車時刻の差は3分である。
注9 前述のように綱越神社の磐座は古墳時代に遡るものとは認めがたいが、立派なお姿をしているので見ておくと良いであろう。

<綱越神社から近鉄桜井駅へ>
・徒歩25分:169号線に戻り南に歩くと陸橋の架かった「桜井市役所北」の交差点に出合う。
 ここを左に曲がり、突き当たりの神社を道なりに右折して南に進むと近鉄桜井駅に達する。
・バス6分:綱越神社の近くのバス停「三輪明神参道口」から「桜井駅北口」行きのバスが約40分間隔で出ている。(反対側車線から天理駅行きも有り)
  「桜井駅北口」行き発車時刻(乗車時間6分)  15:03 15:43 16:23 17:03
  「天理駅」行き発車時刻(乗車時間23分)     15:26 16:06 16:48 17:28
バス時刻は時々かわるので、事前に下記サイトか電話にて確認すれば確実である。
 奈良交通 http://jikoku.narakotsu.co.jp/ 電話0742-20-3100

[バラエティーコース]
健脚組のAグループと体力に自身のない人向きのBグループを組み合わせたコースです。
Aグループは三輪山山頂の奥津磐座を参拝します。 A・Bグループで、集合時間と解散時間を合せることも可能です。

開催日(バス運行日) 土・日・祝日(1日は除く)
 ・集合 大神神社行きバス 近鉄桜井駅北口2番乗り場 11:00発車   ・解散 JR三輪駅到着予定 15時30分(予備時間30分)

<A・Bグループ共通>歩行時間10分
近鉄桜井駅―バス10分―二ノ鳥居バス停―2分―夫婦岩―1分―大神神社―3分(くすり道)―磐座神社―1分―狭井神社―4分―
奥垣内(おくがいと)祭祀遺蹟(大美和の杜公園)(昼食:近くに食堂もあり)

<昼食後別行動>出発12時30分 JR三輪駅到着予定 15時30分

Aグループ(健脚組)歩行時間2時間 
奥垣内祭祀遺跡―4分―狭井神社―50分(登り)―奥津磐座(三輪山山頂)―40分(下り)―狭井神社―5分―山ノ神祭祀遺跡―7分―
久延彦(くえびこ)神社―3分―若宮社(大直禰子神社)―5分―二ノ鳥居バス停(近鉄桜井駅利用者はここで解散)―5分―JR三輪駅(解散)

Bグループ 歩行時間1時間 30分
奥垣内祭祀遺跡―5分―山ノ神祭祀遺跡―8分―貴船神社―12分―檜原神社―18分(引き返し)―久延彦(くえびこ)神社―3分―
若宮社(大直禰子神社)―5分―二ノ鳥居―4分―素佐男神社(祗園社)―9分―平等寺―6分―
志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社―6分―神坐日向(みわにますひむかい)神社―5分―
宝物収蔵庫見学と大神神社周辺散策―3分―二ノ鳥居バス停(近鉄桜井駅利用者はここで解散)―5分―JR三輪駅(解散)


3 磐座の解説

@志貴御県坐(しきのみあがたにます)神社(磯城瑞籬宮址)
 海石榴(つば)市から山の辺の道に入ると銅板葺きの巨大な天理教の教会が見える。
目指す志貴御県坐神社はその東隣にある。金屋石仏を過ぎると、やがて三叉路に出会う。
右は平等寺、左すぐは志貴御県坐神社で「磯城瑞籬宮(しきみづがきのみや)」の標柱が立っている。
「磯城」には、石で堅固に築いた城、周囲を岩石でめぐらした祭場の意がある。
志貴御県坐神社は杉や樫の茂った森の中にある小さな神社で、
本殿の右側に南を向く単独の石と南北に並ぶ四つの石があり、いずれも祀られている。
四つの石は、大神神社の見解(文献1A)や考古学の文献(文献2、3)において確実な磐座とされている。
四つの石は人為的に並べられているように思える。
この地は三輪遺跡の東端にあり、ここから平等寺・大行事社を経て三輪山に入る古代の登拝道(文献9A)の結界石とも想像できる。
また、神社明細帳によれば、祭神は大己貴神とある。これを磐座とあえて結びつけるならば、この磐座は形式的には中津磐座となる。
『大和・紀伊 寺院神社大事典』は、この神社を次のように紹介している。(文献11)                                      
金屋集落の北西山手に鎮座。旧村社。祭神は大己貴神(神社明細帳)・御県の霊(大和志料)のほか、天津饒速日命などの説がある。
由緒はつまびらかでないが、拝殿右には原始信仰を物語る磐座があり、境内は崇神天皇の「磯城瑞籬宮」推定地とされるなど、
鎮座の古さをしのばせる。
俗に「シキノ宮」と称し、大和六御県神(「延喜式」祝詞)の一とされる。
「大倭国正税帳」正倉院文書に、天平2年(730)「志癸御県」の記載がある。
また、「延喜式」神名帳に城上郡「志貴御県坐神社、大、月次新嘗」とみえる。
「日本書紀」神武天皇2年2月条に、弟磯城(おとしき)を磯城県主としたことがみえ、磯城県主は神社付近を中心として、
のちの城上(しきのかみ)・城下(しきのしも)郡に勢力をもち、大和朝廷と独自の婚姻関係を結んだ古代豪族であった。
天武12年に連となり、「新撰姓氏録」大和国神別に志貴連は饒速日(にぎはやひ)命の孫日子湯支(ひこゆき)命の後裔とある。

 御県神(みあがたのかみ)は田の神で、大和では高市御県・葛城御県・十市御県・志貴御県・山辺御県・曾布御県の六つの御県神が著名である。
御県神は大きな川の流域の田圃の中などにも祭られていることが多い。
志貴御県坐神社の境内につづく西側、現在の天理教敷島大教会と北隣りの三輪小学校の両敷地から、
縄文式土器・弥生式土器・石器をはじめ須恵器や土師器のほかに
金屋の地名どおり製鉄に関係のある金クソ・フイゴの口・石製模造品・玉製品などが出土している。
このことから、このあたりが皇居跡ではないかとの説もある。この台地は海抜7〜80mの地で、
考古学上からも三輪遺跡として重要視されている。(文献1C)

図6 南に向いた単独の磐座?
    (なんだか石碑のような感じがする)
図7 南北に四つ並んだ磐座
 (北側より撮影)

上の単独の石(磐座)の石質は、次の四つの石(磐座)のものと異なるとする樋口清之氏の見解がある。(文献2) 
とすれば、単独の石が四つの石のずっと後に置かれたことも想定され、磐座でない可能性も考えられる。

図8 志貴御県坐神社の境内にある
    四つの石(磐座)を祀る社
    鳥居の左手に単独の石(磐座)がある。
図9 鳥居から見た正面
    両側の石柱の後に、2個の石が隠れている。(計4個)

A 平等寺
 平等寺にゆくには、三叉路まで引き返し、山に向かって登ると赤門と呼ばれる門がある。
そこをくぐれば平等寺の境内である。
寺の案内板の中にはっきりと「磐座」と記載されている。磐座は平等寺の境内にある不動堂の裏手にあり、形から言えばドルメンである。
後世に多少手が加えられた感もあるが、まったく根拠のないものでもない。寺があえて新たに磐座を設ける必要もなかろう。
古絵図(文献12)を見ると、廃平等寺鎮守である春日社の背後に「星降(ほしふり)」と記された巨岩があり、
当時ここが神霊の宿るところとして意識されていたことがわかる。
現在の平等寺は廃平等寺(三輪別所)よりも山裾にあるが、修験道の霊地でもあり寺の創立以前に磐座があったとしても不思議はない。(文献9B)
磐座の正面からは「星降」を拝む形となっており、辺津磐座としては納得のゆくものである。

図10 磐座正面(西側) 図11 磐座右側面(南側)

寺伝は「敏達天皇即位10年(581)聖徳太子が賊徒を平定するために三輪明神に祈願して、
賊徒平定後十一面観世音菩薩を刻んで平和祈願の寺を建立して大三輪寺と称したのにはじまる」とある。
しかし、『大神神社史』は、「平等寺境内の開山堂に慶円の像を安置していた」ことを根拠に、寺伝を否定し、慶円を開山者としている。
『大三輪町史』は、空海説の存在も述べているが、史料上はっきりとした記述は古代にはあらわれない。(HP1A)
慶円は鎌倉時代初期の僧で、大神神社の傍らに真言灌頂の道場「三輪別所」を開き、平等寺と改称してから大伽藍を建立したと伝えられる。
江戸時代には、真言宗の寺院ではあるが、修験道も伝えていた。
平等寺は明治の廃仏毀釈によって一旦廃絶するが、
明治23年になって翠松寺(すいしょうじ)が河内から移され、旧平等寺の山門付近に再建された。
その後、昭和52年に元の「平等寺」という名前に戻った。

B素佐男神社(祗園社)
 平等寺の山門(赤門とは異なる)を出て、車道を西に向かってJR線近くにまで下ると、北側に素佐男神社が鎮座している。
地元では親しみをこめて「祗園さん」と呼んでいる。
南から入った参道右横に「回り石」または「夫婦岩」と呼ばれる磐座があって、
丸餅のような石が2個、南北に並んでコンクリートの枠内に納まっている。
これに似た列石は、志貴御県坐神社にもあり磐座を考える上で興味深い。
明治13年(1880)の「大神神社儀式」の四月上卯日(春の大神祭)の項には、「回り石」について次のような記述がある。(文献7A)
「未ノ刻、神主以下惣員出仕。・・・次渡ノ兒(ちご)武者ヲ始メ、渡リニ関係ノ者、八乙女一(老)等、薬師堂村ギオン(祗園)社ニ至ル。
・・・次渡リノ行列ヲナシ、はぜう社(祗園社境内ニアリ)ノ前ノ石ヲ三度廻ル。次兒、同社ニ向ヒ祠中ニ矢ヲ射込ム」
神社の境内には、「白山祠」の額がかかる白山神社の朱塗りの祠があり、説明板には次のようにある。
「白山神社 この地域は、古くから加賀白山の信仰も篤く、白山大神を祀り、祭礼は氏神社と併せて祭祀しております。
庚申、愛宕、金比羅大権現は「歯定さん」といっては歯痛に霊験あると信仰されています。」

図12 一対の丸い磐座「回り石」 図13「白山祠」の額がかかる白山神社

  これらを、合せて考えるならば、「歯定さん」とは石碑であることがわかる。
白山神社の祠も元は歯定社、現代語読みで「はじょう」と呼ばれていたもの思われる。
図13において、左側から金比羅大権現、愛宕、白山祠、庚申である。
尚、文献13には、一対の丸い石は山神を表すもので春田に迎えられて田の神になったものであり、
この祗園社で春祭の中心行事である田植祭が行われたとの見解がある。
子供が神事に矢を射るのは、柳田国男氏の説によれば「その年の豊作を占うため」である。
また、「はぜう社」は、端山(麓山神)のことで、麓上(はじょ)さんはその俗称とある。

C夫婦岩(大神神社参道横)
 夫婦(めおと)岩に行くには、素佐男神社から西側の道を直進して大神神社の二の鳥居に出るのがわかりやすい。
二の鳥居から参道を進むと大神神社の階段手前の左側にある。
現地の説明板によれば、夫婦岩は辺津磐座の一つで、室町時代の『三輪山絵図』
(文献12)を見ると「聖天石(しょうてんいし)」と称し富貴敬愛を祈ると記されている。
今日では二つの磐が仲良く寄り添っているので「夫婦岩」と称し「夫婦円満」「子授け」「縁結び」「恋愛成就」等に
霊験あらたかな磐座として信仰を集めているとある。
江戸時代の寛政3年(1791)編纂の『大和名所図会』には、三輪明神影向の古跡(文献14@)とあり、
「フウフ石」として絵図(文献14A)に描かれている。
「夫婦岩」なる命名は概して現世利益的・現代的なものであり、太古からのものではないことが多い。
大神神社(おおみわじんじゃ)は三輪明神、三輪神社とも呼ばれ、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る。
日本神話に記される創建の由諸や大和朝廷創始から存在する理由などから「日本最古の神社」と称されている。
三輪山そのものを神体(神体山)として成立した神社であり、今日でも本殿をもたず、
拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。
自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されている。
拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居三ツを一ツに組み合わせた特異な形式のものである。(HP1B)

図14 大神神社の参道横にある夫婦岩 図15 仲良く並んだ夫婦岩

(注)大神神社の境内には宝物収蔵庫があり、大神神社伝世の神宝の他、
   山の神祭祀遺跡・奥垣内祭祀遺蹟・禁足地等の出土品が展示されている。
   (開館日に注意) 開館日:毎月1日と土・日・祝日及び1月1〜5日 開館時間:9時半〜15時半
   また大神神社の三ツ鳥居は、神主さんに頼めば横から拝観させてもらえる。

D磐座神社
 磐座神社は大神神社から「くすり道」(山側の道)を通って狭井神社に向かう途中の、狭井神社のすぐ手前にある。
少彦名神(すくなひこな)を祀る辺津磐座の代表格である。
辺津磐座に祀る少彦名神については「大三輪社勘文」に「大神崇秘書」を引用して、
「辺っ宮は・・・神殿無く磐座あり。辺っ磐座と称す。少彦名命なり。清寧天皇の御世・神託に依り賀茂君之を斎祀す」とある。
この辺津磐座については「鎮座次第」では、「清寧天皇が大伴室屋大連に勅して当神社に幣帛をたてまつり、
皇子無きの儀を以て祈祷せしめられ給いし時、大神が宮能売(注1)に憑られ(注2)、
大神の和魂と共に少彦名命を敬祭あそばされんことを請い、
もろともに天津日嗣(ひつぎ)の絶ゆることなく皇孫を守り、人民を済わん」と宣託され、大御心を安んじ給うたと伝えており、
同天皇の元年冬十月乙卯の日に、磐境を立て起して崇祭されたのを起源としている。(文献1D) 
 注1 宮能売(みやのめ):大神神社の巫女 注2 憑る(かかる):神がよりうつる

図16 磐座神社 図17 玉垣に囲われた磐座

少彦名神 は、常世国(とこよのくに)から石(いわ)に示現する神と歌われ、
粟茎(あわがら)に弾かれて淡島(あわしま)より常世国に至ったとも語られる。
またガガイモの舟に乗り、蛾(が)あるいは鷦鷯(さざき)(ミソサザイ)の皮を着て海上を出雲の美保崎に寄り着いたと説かれるので、
この神は常世国より去来する小さな神であったことがわかる。
さらにこの神は、多くの場合、国造りの神として大己貴神(おおなむちのかみ)(大国主命)と並称されるが、
その本質は粟作以来の穀霊であったと考えるべきであろう。
生成神・神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされ、
田の神の案山子(かがし)(久延毘古(くえびこ)に名を明らかにされる話もその本質と関係がある。
大己貴神は、この常世の穀霊と合体して国造りに成功する。(HP2)

E若宮社(大直禰子神社)
 狭井神社前の十字路を西に5分程下ると若宮社が鎮座している。
祭神大直禰子(おおたたねこ)は大田田根子とも書かれ、大物主神の子孫とされる。
記紀神話における伝説的な人物で、三輪君の祖神とされる。
第10代祟神天皇の御代に、疫病が大流行して多くの民が死んだ。天皇が大いに愁い給うていたとき、夢枕に大物主神が現れた。
わが児・大田田根子をして私を祀らせれば天下は平らぎなんと言った。
そこで天皇は、これを茅渟県陶邑で探し出し、大田田根子を神主として、
三輪の大神(大物主神)を斎き祀ったところ、疫病は鎮まり、天下は泰平になったとある。

図18 安産の守護神 御誕生所社 図19 御誕生所社の磐座

若宮社は明治の神仏分離までは神宮寺の大御輪寺(だいごりんじ)であった。
ここに御誕生所社の磐座があり、それにまつわる次のような物語が残されている。
「三輪大明神縁起」によれば、大御輪寺は垂仁天皇99年の草創にかかり、武一原大納言の娘に三輪の明神が通われ、神子を生んだ。
この大納言が自分の住む家を、お寺風につくりかえたのが、この大御輪寺の始めだというのである。
ところが、その神子は生れて七日目に母を亡くし、その後は、来る日も来る日も母恋しさの日を重ねるうち、
ある日、悲しさのあまり邸内の石の上に泣き臥していると、
突然、三輪明神が現われて、母の形見を与え給うたのでようやく悲しみも薄れ、
それからは父なる神のいます御本社へお参りするのを唯一の慰めとして暮らしていた。
十歳の折、大御輪寺の寺内の一室に閉じ籠もったままでふたたび姿を見せなくなった。
のちに聖徳太子が御参詣になり、御戸を開かれると、尊くも十一面観音菩薩像に生身入定されていたという話である。(文献1E)
なお境内には、正月の御神火祭の時に若宮社の上にある久延彦神社に
神饌を供える黒っぽい俎板のような「神饌石(みけいし)」があるが、前述のように磐座ではない。

F奥垣内(おくがいと)祭祀遺蹟(大美和の杜)
 若宮社からもと来た道を引き返すと、久延彦(くえびこ)神社の鳥居があり山に向かって参道がのびている。
祭神の久延彦神は、大国主神に少彦名命の神名を教えた神であり、
『古事記』には「足はあるかねど天下の事を、尽(ことごと)に知れる神」と記されている智恵の神である。
久延彦神社の境内から見る大和三山は絶景である。
本殿右側には三輪山の遥拝所がある。
奥垣内祭祀遺蹟の磐座は、「大美和の杜」と称する山の辺の道沿いの公園にある。
奥垣内祭祀遺蹟の磐座は、発掘当時のものとはまったく別物の記念碑的なものである。
奥垣内祭祀遺蹟の発見当時の概要を以下に紹介する。

 1965年に民間業者による温泉地開発によって、狭井川畔の当遺跡が削平をうけ、多くの祭祀遺物が発見された。
樋口清之氏の紹介によると、斑礪岩の巨石が集結していた地点に重機を入れたところ、
巨石の東側に接して、胴部下半を土中に据えた状態で須恵器の大甕が出土した。
この中に、須恵器の杯・高杯・長頸壷など十数点が多量の滑石製臼玉とともに収められていたという。
また付近には滑石製有孔円板や土師器の破片が一面に散乱していたとのことであり、
現在(大美和の杜)に復元されているような磐座をともなう祭祀遺跡であったと考えられる。
この遺跡で出土したとされる須恵器をみると、その主体は5世紀後半〜6世紀初頭にあるが、
他に4世紀末〜5世紀前半の土師器や新羅系陶質土器が含まれている。
また狭井川畔でも碧玉製管玉や硬玉製勾玉が採集されていることを考えると、
この狭井川畔のやや広い河原では、4世紀後半〜6世紀前半の間、
繰り返し磐座を祀る神マツリが行なわれ、祭器をまとめて埋納した様子がうかがわれる。(文献15@)

図20 奥垣内祭祀遺蹟の記念碑の全景 図21 磐座を象った記念碑

(注)現在の奥垣内祭祀遺蹟の磐座の位置は、遺跡地図などを参照すると発掘現場とは若干異なるようである。
   正確な場所は、この地より少し北を流れる狭井川の川畔である。(図4参照)

G奥津磐座(三輪山山頂)
 三輪山への登り口は狭井神社境内にあり、登拝は狭井神社に申し込む必要がある。
奥津磐座は山頂の高宮神社の東にあり、ゆっくり登っても往復2時間で十分である。

<三輪山登拝要領>
受付時間:午前9時から午後2時
下山は午後4時までのこと
氏名・住所・電話番号を申込書に
記入し、「たすき」を受け取る。
入山初穂料300円
山中では写真撮影・食事・
喫煙は禁止 トイレは無し
[歩行時間(目安)]
登り50分、下り40分
図22 狭井神社の登拝道入口

 登拝道入口から8分程歩くと小さな谷川があり、その傍に辺津磐座らしきものが鎮座している。
しかし伝聞ではあるが、これは個人的な信仰の対象で、注連縄も神社ではなく個人が取付けたとのことである。
従って、大神神社のいう「磐座」とは異なるものである。 そこから谷川に沿って10分程歩くと「三光の滝」と呼ばれる行場がある。
その行場から尾根に取りつき10分程歩くと中津磐座に達する。中津磐座は、群をなしていて広いエリアが注連縄で囲われている。
中津磐座は磐座と杉の巨木がセットになった古代祭祀の姿をしている。そこから20分程登ると高ノ宮神社が鎮座している。
『大神神社御由来略記』(文献16)によれば、三輪山のいただきにある高ノ宮は神殿なく
神杉あり。大国主神その杉に降り給いその杉を神体とするとあり、続く神詠のなかに
「岩杉(イワキ)」の語が見える。神はこの杉に降臨し磐に座したのであろう。
目指す奥津磐座はそこから東に100m(1~2分)の距離にある。
山から降りたら、狭井神社の御神水をいただいて喉をうるおそう。甘露である。

 三輪山には、奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の三つの磐座があると言われるが、実際はこの三つにとどまらない。
三輪山の磐座分布図(文献1B)をみると、実に多くの磐座が点在していることがわかる。
しかも分布図に点で表された磐座は群となって存在している場合が多いといわれる。
このような多数の磐座が、ある時一斉に成立したとは信じにくい。やはり長い歴史の中で磐座の数が増えていったのであろう。
私はかって「神奈備山イワクラ群の進化論的考察」(文献17)において、奥津イワクラ・
中津イワクラ・辺津イワクラが、奥津イワクラ⇒辺津イワクラ⇒中津イワクラの順で段階的に成立した可能性を述べた。
また、奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の呼び方が何処から来たのかについても検討した。
「奥津」は普通「オクツ」と読まれるが、実は「オキツ」と読むのが正統である。
(文献16) 古事記の研究書によれば、「奥」は「沖」と同語源とされる。(文献18)
「津」は、「港」でありエリアを示すものと解釈したい。「辺津」はもちろん岸辺のことである。
私は、これらのことから三輪山の奥津磐座・中津磐座・辺津磐座を宗像大社の奥津宮・中津宮・辺津宮と比較検討し、
奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の呼び方が宗像海人族の祭祀の影響を受けて成立したことを「三輪山の源流」(文献19)中で述べた。
『大神神社御由来略記』(文献16)によれば、大物主大神は神代より奥津磐座に鎮座、
大己貴命は考昭天皇の御代に中津磐座に鎮座、少彦名命は清寧天皇の御代に辺津磐座に
鎮座。今も鳥居を三ツに造りて、三柱を斎き奉るとある。
(参考 天皇即位年 第5代考昭天皇 紀元前475年 第22代清寧天皇 480年)



しかしこれは、本当であろうか。
私は、「三輪山イワクラ群の段階的成立」において、ヤマト政権の関与が強いとされる沖ノ島の磐座祭祀の変遷(岩上祭祀⇒岩陰祭祀⇒露天祭祀)と、三輪山祭祀遺跡の発掘事例から、三輪山の奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の祭祀の成立年代を次のように推定した。
 奥津磐座  3世紀後半〜4世紀前半
 辺津磐座  4世紀後半〜5世紀前半
 中津磐座  5世紀後半〜6世紀前半
そして中津磐座を辺津磐座が山中にあふれ出したものとしてとらえると共に、磐座祭祀の全盛期はその中津磐座の時代にあり、6世紀後半の社殿神道の発生をもって衰退に向かったと推論した。(文献4@) 
大物主(おおものぬし)は、日本神話に登場する神、大神神社の祭神。
古事記によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光輝いてやってくる神が表れ、大和国の三輪山に自分を祭るよう望まれた。
大国主が「あなたはどなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。日本書紀の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂(にぎみたま)を大物主神として祀ったとある。
図23 久延彦神社三輪山遥拝所

 奥津磐座は長径四十数メートル、短径十数メートルの楕円形をした、高さ1メートル以下の小ぶりの岩が域内に多数集まった岩群れである。岩群れは無数の筋状の列石のようにも見えるが、人為の介在の有無は不明である。長軸をほぼ南北に置き、南端に小さな拝所が注連縄のかけられた岩の前に設けられている。
 
 三輪山の奥津磐座を初めて訪ねたとき、私はひそかな失望を禁じえなかった。
当時、私は巨石信仰に興味をもっていたので、身の丈にも満たない岩群れがものたらなく思えたのである。その後、百数十箇所の磐座を探訪するうちに、「磐座」の「座」の多様な意味が分りかけてきたのである。
天に突き出した三輪の神杉、そこから神が降臨しこの巨大な岩群れに座すことこそ古代人の宗教的イメージではないだろうか。古代人が山頂に忽然と広がる岩群れを初めて見つけたときの驚きと畏れが伝わってくる。

   岩畳畏(かしこ)き山と知りつつも我は恋ふるかなみならなくに(万葉集 巻7-1331)

私は秋の日差しに照らされた三輪の岩群れの前に立って、いまこそ「岩畳畏き山」言葉に深き共感を覚えたのである。

 三輪山の山頂には太陽信仰にかかわるとされる大神神社の摂社である高宮神社(こうのみや)がある。
大神神社の説明によれば、高宮神社は三輪山の頂上、いわゆる高峯(こうのみね)(あるいは神峯とも書く)に鎮座、御祭神は大物主神の御子、日向御子神である。
本殿は小さな池の中にあり、古来、旱魃の時には郷中の氏子が登拝し、降雨を祈ればかならず霊験ありとされている。これは『日本霊異記』にも出ている雨を支配する竜神信仰が生き継がれているといえるが、今日でも旱魃時は神職参籠の上、登拝して祈雨祭をおこなうときがある。また元旦の撓道祭(にょうどうさい)にさきがけて大晦日には神職が登拝し、御神火拝戴の儀がこの社で行なわれる。(文献1F)
しかし、日向御子神が雨乞いの神というのは弥生時代よりはるかに後のことであろう。
これに関して、考古学者である奥野正男氏の次の見解がある。
 三輪山では一年のなかで太陽の勢いがもっとも弱くなる冬至の日に、司祭者が山頂に登り、磐座に太陽神の依り代としての銅鏡をはじめ玉類・武器類・土器に入れた供物などを供え、東(ひむがし)に昇る太陽に向かって礼拝したと私は推測します。・・・
「日向(ひむか)」という名前が残ったのは日(太陽)に向く、日に向かうというその意味からして、そこで太陽(日の神)に向かって拝むとか、太陽が昇る東(ひむがし)の方に向いて拝むという太陽祭祀がおこなわれていたためでしょう。(文献20)

 私は思うのだが、日向御子神が大物主神の御子であるなら大物主神はもと太陽神(海を照らしてより来る神)で、大晦日に御神火拝戴の儀式がこの高宮で行われるとあるのも、太陽から火を戴くという太陽祭祀のなごりではないだろうか。

H山ノ神祭祀遺跡
 三輪山の祭祀を知る上で極めて貴重な遺跡であり、遺物の一部は大神神社の境内にある宝物収蔵庫に展示されている。
尚、山の神祭祀遺跡の磐座は、奥垣内祭祀遺蹟と同様に発掘当時のものとはまったく別物の記念碑的なものであることに留意したい。
<山ノ神祭祀遺跡への行き方>
狭井神社から檜原神社向かう山の辺の道の途中、狭井神社を出てすぐの右に<辰五郎大明神・きよめの滝>の案内板のある細い道がある。その道を狭井川沿いに歩くと三輪稲荷がある。その稲荷をやり過ごして、山に向かって道をたどると1分程度で道の左手に鳥居があり、写真のような岩が見える。 帰りはもと来た道を引き返すこと。(往復10分)

図24 山ノ神祭祀遺跡の磐座を象った記念碑

図25 遺跡の近くを流れる狭井川
     (水の流れの少ない小さな谷川)

 三輪山は神体山であるため基本的に学術調査ができないことになっているが、ここはたまたま民有地となっていたため、詳しく調査された。山ノ神祭祀遺跡は、狭井神社の東北、狭井川の上流にあたる三輪山麓にある。
その概要を文献15Aから以下に紹介する。
大正7年(1918)、ミカン山開墾のために、露出していた巨石を動かそうとしてその周囲を掘り進んだ結果、発見された。巨石組は、約1.8×1.2mの平面長方形の斑礪岩(はんれいがん)を中心にして、5個の石がこれを取り囲む状態で見つかり、石組の下には割石を敷きつめて地固めをしていた。遺物は石の周囲より発見され、中には、土師器坩(はじきつぼ)の内に滑石製臼玉が入れられた状態で出土したものもあるという。
 残念ながら、発見から県の調査までの3ケ月間に巨石が動かされ、盗掘を受けてしまつたが、発掘された遺物を上回る大量の遺物が埋納されていたことが知られる。


 図26A 山ノ神祭祀遺跡の遺物(大神神社宝物収蔵庫パンフレットより)

遺物構成をみると、鏡・剣・玉のセットは明瞭であるが、それ以外の土製品は、いずれも農耕や食事に関係のあるものであり、三輪山の神が農耕としての一面をもつ点を考えあわせると興味深い。
本遺跡の時期については、遺物を検討すると、碧玉製勾玉・(剣形)鉄製品・小形素文鏡などの4世紀後半〜5世紀前半代の一群と、型式的にやや新しいタイプの滑石製模造品
(鏡[有孔円板]、玉[勾玉]、剣のセット)・土製模造品などの5世紀後半〜末の一群とに大別できる。従って、本遺跡の祭祀遺物の埋納は、5世紀後半〜6世紀初め頃になされたと考えられるが、それらは、それ以前に行なわれた数回にわたる神まつりの遺物の集積でもあったといえる。
図26 大正7年(1918)発掘当時の山ノ神祭祀遺跡の
     巨石構築状態(文献1G) 長さの単位 尺(1尺:30.3cm)

5世紀中頃を境とした上記の祭祀遺物の変化は、雄略期の伊勢遷宮によるヤマト王権の太陽神から土着の農耕神への回帰による可能性が考えられる。(文献4A)

I檜原神社(倭笠縫邑)
 大神神社の摂社である檜原神社は、第10代崇神天皇の御代に、はじめて皇祖天照大神(八咫鏡)を宮中から移して祀り、皇女豊鍬入姫命が奉持せられた倭笠縫邑の神蹟とされる。そのため「元伊勢」の別称も残る。
室町時代のものといわれる古図(文献12)をひらくと、三輪山の中でも、檜原峯という峯を背景にし、本殿を設けずに本社と同様、三ツ鳥居・拝殿を構え、石壇が設けられており、その前方左右にわかれて末社が祀られ、御供所(ごくしょ)などがある。
二ノ鳥居もあり、さらには一ノ鳥居までが、本社一ノ鳥居と同線上、上津街道近くに建っていたことが示されている。(文献1H)
このことから、古来より大神神社の摂社の中でもとりわけ重要な神社であることがわかる。
また、檜原神社は日原社とも書かれ、三輪山の朝日と二上山の夕日を遥拝する太陽祭祀であり、これが天照大神の信仰につながったものと思われる。

図27 檜原神社の三ツ鳥居 図28 檜原神社の神籬と磐座

檜原神社は、本社と同じく本殿がなく、三ツ鳥居を通して「神籬(ひもろぎ)・磐座」を拝む古代祭祀がそのまま残っている。
江戸末期より荒れていた社頭を、昭和40年神宮の協力を得て三ツ鳥居を建造し、瑞垣を設け古儀に復したのが現状の姿である。(文献21)
檜原神社から三輪山山頂の間に8群の磐座が連なっており、檜原磐座線と呼ばれる。
これは大神神社にもあり拝殿奥磐座線と呼ばれ、拝殿奥から山頂の間に6群の磐座がある。(文献1I)

私は、山ノ神祭祀遺跡の遺物の変化と沖ノ島の磐座祭祀の変遷から、6世紀中頃に、檜原磐座線から拝殿奥磐座線へと、祭祀の中心が移動したと推定した。それは、伊勢遷宮を契機とした大神神社創生の時期に一致する。(文献4B )

J九日神社(国津神社)
 檜原神社から九日神社への道筋にはホケノ山古墳・箸墓古墳等の有名な古墳があるので、時間が許せば寄ってゆきたい。豊鍬入姫命の墓との伝承が残るホケノ山古墳はのどかな風景が楽しめる。また、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳は池側からの眺めが素晴らしい。

図29 檜原神社・国津神社・ホケノ山古墳・箸墓古墳・九日神社の位置
図29の赤線のルートに従って、箸墓古墳の南側を歩いてから、
国道169号線沿いに九日神社へ向かう。
図30の池の向こうのこんもりした森が九日神社。池の手前には纏向川が流れている。
国道169号線は、近鉄桜井駅に向かうバス道となっており、バス停の数も多い。
詳細は「2三輪山の磐座めぐり」の末尾を参照。
図30 国道169号線沿いの九日神社

九日神社は九日(くにち、くじつ)または国津(くにつ)と呼ばれる小さな神社である。
「国津」と言えば、すでに通ってきた箸墓古墳の手前にある神社も国津神社であった。
国津神社(箸中)付近は、表1(番号2)に示す祭祀遺跡である。
実は、芝と箸中の二つの国津神社は、纏向川を挟んで深い関係にある。
国津神社(箸中)にある説明板には次のような説明がなされている。
当国津神社は、古来より「地主の森」といい、天照大神の御子神五柱を祭神としています。この男神五柱は、「記紀」神話によると、素盞鳴尊が天照大神と天の安河を中にはさんで誓約をしたとき、天照大神の玉を物実として成り出た神であります。
ちなみに纏向川下流の芝の国津神社(九日神社)には、素盞鳴尊の剣を物実としてうまれた奥津島比売、市杵島比売、多岐津比売の三女神を祭祠しています。
この箸中と芝で、神の山三輪山を水源とする纏向川をはさみ、二神の誓約によって成り出た神をそれぞれ祭神としていることに、古代神話伝承の原景を見る思いがします。
また、天照大神の祭祀に奉じた豊鍬入姫命は崇神天皇の皇女で、その墓所が国津神社裏のホケノ山古墳であるという伝承が地元に伝わっています。(ホケノ山古墳は国津神社から徒歩で往復4分)
九日社には、リンガ(陽石)とヨナ(陰石)の磐座(文献2)が東西に並んで鎮座している。
奈良県の飛鳥坐神社には、これに似た夥しい数の陰陽石がある。
九日社は、北に箸墓古墳、東に三輪山、西に二上山を眺めることができる特別な地(注)であるため、この神社の古代史における重要性が指摘されている。

図31 九日神社の磐座 図32 左:リンガ 右:ヨナ

(注)三輪山・箸墓・二上山は、「太陽の道」を構成することで知られている。
「太陽の道」(文献22)は、小川光三氏が発見した伊勢の斎宮から淡路島の伊勢の森に至る北緯34度32分の東西の祭祀線で、その線上には点々と神奈備山や磐座が存在し、太陽神とも云われる天照大神に関係する神社が建ち並んでいる。このことから、その東西線は「太陽の道」と名付けられた。
いわゆるレイライン(leyline)である。
【東西線上の神社と神奈備山】
 [東]伊勢(斎宮)→三輪山→檜原神社→国津神社→箸墓(倭迹迹日百襲姫命の墓) →二上山→大鳥神社→淡路島(伊勢の森) [西]

4 参考文献
1 『大神神社』 中山和敬 学生社 1999年刊 (大神神社の元宮司の著作で、三輪山の磐座を理解するのに最適の良書です)
  @p59〜60 Ap63 Bp64 Cp29〜30 Dp61 Ep214〜215 Fp207 Gp73 Hp210  Ip63〜67
2 「三輪山上に於ける巨石群」『大神神社史料』第4巻 p1088 樋口清之 1974年刊 
3 『大神神社境内地発掘調査報告書』奈良県立橿原考古学研究所編集 寺沢薫 @p38 Ap39 大神神社 1984年刊 
4 「三輪山イワクラ群の段階的成立」 『イワクラ(磐座)学会会報11号』 p19〜52
   @p51 Ap41〜42 Bp49〜50 江頭務 2007年刊
5 「若宮さん」『大神神社史料』第3巻 p419〜423 中西守 1971年刊
6 「三輪山の雨増宮と貴布禰社」『大神神社史料』第8巻 p709〜715 大神神社禰宜 佐藤文正 1981年刊
7 「大神神社儀式」『大神神社史料』第7巻 @p698~699 Ap702 1980年刊
8 『平成12年度秋季特別展解説書 三輪山周辺の考古学』 p13
  (桜井市立埋蔵文化財センター展示図録 第20冊)桜井市文化財協会(編) 2000年刊
9 「三輪山崇拝についての覚書」『大神神社史料』第4巻 石崎正雄1974年刊
   @p552〜553 Ap547〜548 Bp545〜547
10 『日本の神々』第4巻 p32 大和(おおわ)岩雄 白水社 1985年刊
11 『大和・紀伊 寺院神社大事典』p429〜430 平凡社 1997年刊
12 「三輪山絵図(室町時代)」『大神神社史料』第6巻 口絵(カラー写真) 1974年刊
    室町時代を桃山時代とする景山春樹氏の下記の解説もある。
   「大三輪神社古絵図について」『大神神社史料』第3巻 p1166〜1181 1971年刊
   「三輪山古図(文政13年)」『大神神社史料』第2巻 p1245  1974年刊
   「和州三輪大明神絵図」『大神神社史料』第2巻 p1246 1974年刊
13 「大神系の式内社について」『神道史研究』第9巻第6号(大神神社特集)p116,117 志賀剛 臨川書店 1961年刊
14 『大和名所図会』@p341 Ap334 秋里籬島 歴史図書社 1971年刊
15 『古墳時代の祭祀―祭祀関係の遺跡と遺物 第V分冊 西日本編』
    前坂尚志 @V-235 AV-237~238 東日本文化財研究所編 1993年刊
16 「大神神社御由来略記」『大神神社史料』第1巻 p916 1968年刊
17 「神奈備山イワクラ群の進化論的考察」 『イワクラ(磐座)学会会報9号』p17〜19 江頭務 2007年刊 
18 『日本思想体系1 古事記』 p39注釈 青木和夫 石母田正 岡田精司 佐伯有清 小林芳規 岩波書店1982年刊
19 「三輪山の源流」『イワクラ(磐座)学会会報10号』 p21 江頭務 2007年刊 
20 「古代人は太陽に何を祈ったのか」 p24 奥野正男 1995年刊 大和書房
21 「倭笠縫邑の神蹟」『大神神社史料』第3巻 p624〜625 1971年刊 大神神社宮司 中山和敬 
22 『大和の原像 知られざる古代太陽の道』小川光三 大和書房 1980年刊

<HP:ホームページ>
1 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 @「三輪山」 A「平等寺(桜井市)」 B「大神神社」
2  Yahoo!百科事典「少彦名命」吉井巖



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