研究論文電子版 2014年10月23日掲載
イワクラ(磐座)学会会報32号掲載     
   
    松尾大社の祭神 秦氏本系帳の謎

はじめに
 松尾大社の御祭神は、現在では大山咋神と中津島姫命である。
ここで、どちらが先に鎮座されたかを問うならば、おそらくすべての人が大山咋神と答えるであろう。
それは中津島姫命の鎮座は大宝元年(701)とされており、『古事記』に登場する松尾の大山咋神は神代からの地主神であるからだろう。
しかし、10世紀前半に成立した現在最古の年中行事書『本朝月令』の「四月上申日松尾祭事」所引「秦氏本系帳」には、
松尾大神の御社(松尾社)の記載があるが大山咋神の名は見当たらない。
私はこのことから、秦氏が最初に奉斎したのは中津島姫命で、大山咋神はその後ではないかと思い、本稿を執筆したしだいである。


1 松尾山の磐座

(1)磐座祭祀の起源に関する見解
松尾大社の神奈備山と言われる松尾山に巨大な磐座が鎮座していることは広く知られている。
これについて、松尾大社編纂『松尾大社』(文献1①)は次のように述べている。

(松尾大社の)はじまりは、秦氏を中心とするこの地域一帯に居住していた人々が、
社殿を創建して祭祀を行う以前から、背後の松尾山の大杉谷に現存する磐座で神々をまつり、尊崇してきたことに始まる。
松尾山の山頂近い大杉谷の上部に現存するこの磐座は、巨大な岩石からなり、
古くより日埼岑(ひさきみね)とか、御神蹟とかよばれ、崇められてきた。
今日でも松尾山は、氏子から「おやま」と尊称され崇められているが、
そうした松尾の神への信仰は、遠い古代から親から子へと脈々と受け継がれてきたのである。
本殿・拝殿などの建造物を伴う今日のような社を設け、神々をまつる以前、
太古の人々は、神々は山や森に天降るとされたので、その神々を祭祀した場所である神聖な山や森を、「神奈備」とよんできた。
・・・松尾大社の祭祀もそうした神奈備の信仰を受け継ぐものであった。


図1 松尾橋左岸南から見た松尾大社の鳥居と背後の松尾山の山並み


図2 松尾山山頂近くの磐座(Yahoo!検索 松尾大社画像集より)

松尾山の磐座祭祀の起源については、秦氏が渡来するはるか以前というのが定説となっている。

・井上満郎「秦氏と松尾大社」(文献2)
(松尾大社の磐座には)はるか以前のナチュリズム(自然崇拝)にもとづく信仰があったのであり、
それは渡来人たちが集中的に渡来して京都に住みつく五世紀後半頃より、はるか前に発生したものである。
松尾の神の原型が、こうした日本古来の信仰であることは疑いない。

・梅原猛「松尾大社 秦氏が祀る縄文の神と弥生の神」(文献3) 
(松尾大社は)縄文時代以来の我が国の土着神・大山咋神と、渡来系の稲作農業の神である市杵島姫と合祀して、
恰も夫婦神のように祀り、縄文と弥生が結合した正に日本民族、日本文化形成の秘密そのものを語る神社といわねばならぬであろう。

これに対して、あまり知られていないが次のような異論もある。

・丸川義広「松尾山古墳群と洛西の開発」(文献4①)
 山全体を信仰する祭祀は神奈備信仰とも呼ばれ、巨石の麓を神の降臨する磐座に見立てることで行なう祭祀で、
一般的には古墳築造に先だって行なわれた原初的な祭祀とされている。
しかし、松尾山の場合もこの見方ができるのであろうか。
松尾山全体が古墳時代後期には墓域として利用されたことを今までに述べてきた。
仮に、山全体が古くから信仰の対象とされていたなら、その山上に古墳を築くようなことが行なわれたとは思われない。
とくに山頂に築かれた古墳などは、磐座を見下ろす位置にあるため、いかにも不自然である。
そこで、古墳の築造が終了した後に露出していた巨石が磐座に見立てられ、山全体が信仰の対象となった。
そして、見上げる麓には社殿が構えられた。
古墳群と磐座の関係は、このように考えるのが最も妥当ではなかろうか。

松尾山古墳群の発掘に携わった者ならではの、事実に立脚した冷徹な視点と言えよう。
私は、この磐座は古墳の石材を切り出した跡ではないかと想像している。
群集墳は小規模であるため、石材の調達も身近なところに求めたのではないだろうか。

古墳群と磐座の関係について本格的に取り組んだ論文は見当たらないが、これは今後の重要課題となろう。


(2)磐座と古墳分布
ここで、松尾大社(松尾山)と日吉大社(八王子山)の遺跡地図を比較しよう。

<松尾大社(松尾山)>

図3 松尾山古墳群の分布(『京都市遺跡地図』1996年より作成)(文献4②)

<日吉大社(八王子山)>
『古事記』に登場する「大山咋神。亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐す。」の近淡海国の日枝の山とは、
滋賀県大津市坂本にある日吉大社の八王子山(牛尾山)のことである。
山容は上賀茂神社の神奈備山である神山(こうやま)に良く似たドーム型をしている。(図4)
そして、ここにも山頂近くに巨大な磐座が鎮座している。(図5)
その磐座は金大巌(こがねのおおいわ)と呼ばれ、八王子宮と三宮の社殿の間にある。(図6)

        
 図4A 日吉馬場から眺めた八王子山  図5 八王子山の磐座    図4B(参考) 上賀茂神社の神奈備山 神山
  山容は左図の八王子山に相似

『古事記』に登場する大山咋神のまたの名は「山末之大主神」である。
「山末之大主神」の「山末」は山の頂上部を意味する。逆に「山本(山口)」は山麓を意味する。
つまりは山頂に坐す山の大主神(地主神)の意である。
古代には、山頂近くの岩や樹木がこれにあてられた。


図6 八王子山 日吉社古墳群の分布(文献5)
   金大巌の磐座(山頂の八王子宮と三宮の社殿の間にある)

八王子山の磐座と松尾大社の磐座は山頂ちかくにあり、位置的には大山咋神の御座にふさわしい。
しかし注目すべきは、日吉大社の古墳分布が八王子山の麓にあるのに対し、松尾大社の古墳分布が磐座の周囲にあることである。
中でも、山末之大主神たる大山咋神の御座である松尾山の山頂に、古墳があるのは驚きである。(注)
この問題については次項(3)で別途検討する。

(注)よく神社と古墳の関係が話題になる。
例えば、図6の日吉社は、古墳分布の中に神社があるといっても過言ではない。
しかし、神社と古墳では成立年代が異なる。
神社は古墳が風化したのちに建てられたものである。
それに対して、磐座は古墳時代以前の存在であることから、古墳と磐座の関係はリアリティを有している。

群集墳に関して、辰巳和弘氏は論文「密集型群集墳の特質とその背景」において次のように述べている。

畿内政権は、6世紀後半に各地に台頭しつつあった中小首長層に墓域を与えることにより、造墓をうながし、
従来の散在型群集墳の被葬者を通じての地域支配を、より下位のレベルまで拡大することにより貫徹しようとしたのであり、
新しく造墓集団として墓域の賜与を受けた集団にあっても、造墓を認められることは、
地域における社会的・政治的位置の上昇と安定を手中にすることができるという効果があったのである。
そして従来から群集墳を築造してきた散在型群集墳の被葬者集団との造墓地をめぐる対立を避けて、
経済的にも利用価値の少ない、丘陵急傾斜面に墓域が設定されることとなったとみられる。
(文献6)

上記の「新たな造墓集団」として、秦氏の中間の支配者の人々を当てはめてみたらどうであろうか?
即ち、松尾山は秦氏が進出してきた当初は、利用価値の少ない土地であった。
まして在来勢力の磐座の鎮座する聖地ではなかった。
このことから、八王子山の磐座が本来のものであるのに対し、松尾山の磐座は秦氏によって後世に磐座とされたものといえる。
尚、松尾山の群集墳は嵯峨野の古墳群と関係が深いためその終末は、7世紀後半と推定される。(文献7①)


(3)住居・墳墓・祭祀エリアの関係
ここでは古墳時代における住居・墳墓・祭祀エリアがどのような関係にあったかを、
八王子山から琵琶湖を介した対岸にそびえる三上山(みかみやま)を例として示そう。
三上山は滋賀県野洲市近郊にある高さ432mの山で、「近江富士」の名で知られる典型的な神奈備山である。
この近くは、有名な24個の銅鐸を出土した大岩山古墳群がある。
この山の麓には式内社の御上(みかみ)神社があり、頂上には奥宮と奥津磐座が鎮座している。
『古事記』開化天皇の段に「近つ淡海の御上の祝がもちいつく天之御影神」とあり、
社伝に「孝霊天皇の御世、三上山山頂に天之御影命が出現し御上祝が三上山を盤境と定めて祀った」とある。
当社は、奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社と同様に、古は社殿がなく神奈備山の遥拝所であったと想像される。

<御上神社(三上山)>


図7 三上山(Yahoo!検索 三上山の画像集より
   これぞ典型的な神奈備山である


 図8 三上山山頂の磐座
    磐座の背後に奥宮の鳥居が見える


図9 三上山周辺の遺跡 「野洲市遺跡地図」野洲市教育委員会(HP1)

磐座のある三上山山頂付近には古墳がなく、磐座のある聖地・住居・古墳は独自のエリアを占めていることがわかる。
磐座のある聖地は、今も三輪山に見られる禁足地にあたるものであろう。
図6八王子山と図9三上山においては、山頂の磐座を仰ぎ見る形で古墳が麓に分布しているのに対し、
図3松尾山は磐座と古墳が山頂部に混在しており明らかな相違が認められる。
松尾山の山容(図1)も、神奈備山の典型であるドーム型(八王子山 図4)や円錐型(三上山 図7)とは異質で尾根の一部と見なされる。
土生田純之(はぶたよしゆき)氏も、古墳時代における聖域(神の宿るところ)と古墳は決して混在することはないであろうと述べている。(文献39)

2 筑紫胷形坐中部大神の勧請

(1)筑紫胷形坐中部大神の伝承
『本朝月令』(注)「四月上申日松尾祭事」は、松尾社の祭事について述べた最古の文献である。
その中に、松尾社の祭神に関して「秦氏本系帳(はたうじのほんけいちょう)」の逸文がある。
しかし、不思議なことにそこに記載された祭神は中部大神(現在の中津島姫命)のみで大山咋神の記述はまったくない。
その理由は後ほど述べるとして、ここではまず『秦氏本系帳逸文』の解釈をおこなう。

(注)『本朝月令(ほんちょうがつりょう・ほんちょうげつれい)』は、10世紀前半に著された年中行事の書。
撰者は惟宗公方(これむねのきんかた)と伝えられる。
一年間に行われる朝廷の儀式・行事のそれぞれについて、
関係する先例・法令・伝承などを『六国史』や『類聚三代格』その他の文献から引用している。
年中行事の古例を知るうえで貴重な書であると同時に、「秦氏本系帳」「高橋氏文」などの氏族志の逸文が含まれている。

『本朝月令』「四月上申日松尾祭事」所引「秦氏本系帳逸文」>原文:『群書類従』(文献8①)
正一位勲一等松尾大神御社者。筑紫胷形坐中部大神。
戊辰年三月三日。天下坐松埼日尾。又云日埼岑。
大寶元年。川邊腹男秦忌寸都理。自日埼岑更奉請松尾。
又田口腹女。秦忌寸知麻留女。始立御阿禮乎。
知麻留女之子秦忌寸都駕布。自戊午年為祝。
子孫相承。祈祭大神。
自其以降。至于元慶三年。二百三十四年。


筆者訳
正一位勲一等、松尾大神の御社(みやしろ)は、筑紫胷形(つくしむなかた)に坐(ま)す中部(ちゅうぶ)の大神。
戊辰(つちのえたつ)の年三月三日、松埼日尾(まつざきひお)(又、日埼岑(ひさきみね)と云ふ)に天下(あも)り坐す。
大宝元年、川辺腹男(かわべのはらお)、秦忌寸都理(はたのいみきとり)、日埼岑より更に松尾に奉請す。
又、田口腹女(たぐちのはらめ)、秦忌寸知麻留女(はたのいみきちまるめ)、始めて御阿礼(みあれ)を立てり。
知麻留女の子秦忌寸都賀布(はたのいみきつがふ)、戊午(つちのえうま)の年より祝(はふり)となる。
子孫相承し、大神を祈祭す。其れより以降、元慶三年に至ること二百三十四年。

語句注解
正一位勲一等松尾大神御社者。筑紫胷形坐中部大神。
これによれば、松尾大神の御社、即ち松尾社の祭神は、「筑紫胷形坐中部大神」となる。
「筑紫胷形坐中部大神」については、次項で詳述する。
ここには大山咋神の名は見当たらず、また中部大神が大山咋神のもとに合祀されたとするニュアンスも感じられない。
尚、松尾大社が正一位勲二等に叙されたのは、『日本三代実録』貞観八年(866)十一月二十日条であるが、
正一位勲一等に叙されたという記録は『六国史』にはない。(HP2)
『六国史』の終了は仁和三年(887)八月二十六日である。
尚、『松尾大社史料集』所収「松尾皇太神宮記」には
「貞観八年ニ神階ヲ正一位勲一等ニ進メ奉ル」(文献9)とあるが、上記に照らして誤りである。

戊辰年三月三日。天下坐松埼日尾。又云日埼岑。大寶元年。川邊腹男秦忌寸都理。自日埼岑更奉請松尾。
「筑紫胷形坐中部大神」は「戊辰年三月三日」に「松埼日尾」またの名を「日埼岑」へ降臨し、
大宝元年(701)に秦忌寸都理により、そこから更に「松尾」へ勧請されたとある。
これには様々な疑問点が多くあり、明確な根拠の乏しいものではあるが、ただ松尾社の社殿の創建については、
『伊呂波字類抄』第六(文献10)や『江家次第』第六 四月松尾祭頭注(文献11)、「松尾社神主東本家系譜」(文献12)に
大宝元年に秦忌寸都理が初めて社殿を建立したことが記されている。


図10 松尾大社の社殿  辺津磐座であろうか、後方に巨大な岩塊が見える。

尚、文中の「川辺腹男」は、川辺の家系に生まれた男という意味であろう。

(注)「戊辰年」を、天智天皇が近江大津宮で即位した天智七年(668)とする説がある。
「松埼日尾」については、松尾山の磐座、京都市左京区の松ヶ崎、出雲の美保関や日御碕にあてる説がある。(文献13②)

又田口腹女。秦忌寸知麻留女。始立御阿禮乎。
「田口腹女」は、田口の家系に生まれた女という意味であろう。
「始立御阿礼乎」の「乎」は、『群書類従』所収の『本朝月令』では「平」となっているが意味がよく通らない。
そのため、以下のような校異がある。
『年中行事抄』(文献14①)は、これが「乎(コ)」になっている。
字の形からいえば「乎」は「平」に近いので、ここではこれを採用した。
意味としては、目的を示す助字「を」、詠嘆の助字「かな」が考えられる。
他には、『本朝月令要文(尊経閣善本影印集成)』(文献15)の「畢(ヒツ)」がある。「畢」には、終えるの意味がある。
また、大和岩雄氏は「(御阿礼)木」(文献16①)としている。
さらには、「平」を削除し、「其」の字を次の「知麻留女」の頭に置いて「其知麻留女」とする校異もある。(文献17①)
いずれにせよ、知麻留女が御阿礼神事を行ったことにかわりがない。

御阿礼(御生)とは神が姿を現すことで、御阿礼神事は磐座に榊を依代として立てておこなう降霊の神事である。

 いこま山手向はこれか木の本に岩くらうちて榊立てたり
              永久四年百首(堀河院後度百首) 源兼昌(かねまさ)

上賀茂神社の御阿礼神事、下鴨神社の御生神事は良く知られている。
私は、知麻留女の御阿礼神事こそが、松尾山の古墳群の中にある岩壁が「御神蹟」と呼ばれる磐座に変貌した時であると想定している。
それゆえ、私はこれを中部大神の磐座と呼びたい。

知麻留女之子秦忌寸都駕布。自戊午年為祝。子孫相承。祈祭大神。自其以降。至于元慶三年。二百三十四年。
文中の「自其以降、至于元慶三年。二百三十四年」には干支において不可解な点がある。(文献13①)
元慶三年(879)から二百三十四年遡った大化元年(645)の干支は乙巳であり、
秦忌寸都駕布が祝となった戊午年とは異なるが、「元慶三年」自体はほぼ問題なかろう。
それにしても、大宝元年(701)の社殿建立からずいぶん年月がたっていることに留意すべきである。


(2)「筑紫胷形坐中部大神」はいかなる神か
 「筑紫胷形坐中部大神」は聞きなれない神名である。
松尾大社においては、この神を中津島姫命(なかつしまひめのみこと)としている。
つまり、「筑紫胷形坐中部大神」の「部」は「都」の書き誤りで中都(なかつ)となり中津と同意であり、
中津大神即ち中津島姫命とするものである。
中津島姫命は宗像三女神の市杵島姫(いちきしまひめ)の別名とされる。(文献1②)
中津島姫の表記は記紀にはなく、9世紀から10世紀初めに成立したと推定される『先代旧事本紀』巻第四に登場する。(文献18①)
市杵島姫とは、天照御大神が須佐之男命との誓約(うけひ)によって生まれた三女神の一柱で、
『古事記』によれば、胷形(宗像)の中津宮(在大島)に坐して海上交通を守護する海の神である。
しかし、現在の宗像大社においては、田心姫神(たごりひめのかみ)は 沖津宮、湍津姫神(たぎつひめのかみ)は 中津宮、
市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)は 辺津宮に祀られている。(HP3)
これは『日本書紀』巻第一 神代上 第六段本文に従ったものとされている。
このように、三女神がどこに祀られているかは史料によって様々である。
これらについてコンパクトにまとめたものとして、正木喜三郎氏の論文「宗像三女神と記紀神話」がある。(文献19)

ここで原点に返って、秦氏の願うものはなんであろうか。
やはり、多くの人が指摘するように朝鮮半島との海路の確保であろう。
ならば中津島に坐す神だけでは、不十分と思われる。
祭祀的に見ても、海の正倉院とも呼ばれる沖ノ島の沖津宮、宗像大社のある辺津宮に比べ
貧祖な中津宮がただ一神だけ取り上げられる理由が不明である。
また地理的にも、沖津宮のある大島は九州に接近しすぎており、朝鮮半島との往来を守護するには不適当な位置にある。
このため「中部大神」は「沖都大神」の誤記ではないかとする北條勝貴氏の論考も当然登場する。(文献13③)
清水潔氏は、十七種類の『本朝月令』の諸本を比較しているが、「中部大神」に関しては一貫しているとのことである。(文献20①)
私はこの神を「ちゅうぶのおおかみ」と素直に読みたい。
大切な神名を書き誤り、連綿とこれを看過するとは思えないからである。
「中部」は中央の意で、朝鮮半島と九州宗像の海の中間に位置する沖ノ島と想定したい。
それは秦氏独自の島信仰であり、沖ノ島大神と呼び換えてもよいであろう。
渡来人の秦氏ならではの壮大な命名である。


3 地主神にあらざる神 松尾の大山咋神

(1)賀茂祭への参入
大宝元年(701)に松尾社が創建された頃、賀茂祭は律令政府が騎射の規制を出すほど隆盛をきわめていた。
『続日本紀』などにはそれをうかがわせる記事がある。
①山背国賀茂祭の日、衆を会(つど)へ騎射することを禁ず。(『続日本紀』文武二年(698)三月二十一日条)
②賀茂神を祭る日に、徒衆会集(つど)ひて杖(ほこ)を執りて騎射することを禁ず。
 唯し、当国の人は禁の限に在らず。 (『続日本紀』大宝二年(702)四月三日条)
③詔(みことのり)したまはく、「賀茂の神祭の日、今より以後、
 国司毎年に親(みずか)ら臨(のぞ)みて検(かんが)へ察(み)よ」とのたまふ。(『続日本紀』和銅四年(711)四月二十日条)

秦氏がこのような盛大な祭に羨望を抱くのは自然であろう。
秦氏の賀茂祭への参入を目指す戦略は、和銅五年(712)成立の『古事記』において早くも見られる。

『古事記』:国宝真福寺本 上
近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184132 コマ番号30/46

原文 大山上咋神亦名山末之大主神此神者坐近淡海國之日枝山亦坐葛野之松尾用鳴鏑神者也

筆者訳
大山咋神。亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐す。亦葛野の松尾に坐して鳴鏑を用つ神なり。

西田長男氏は「日本神話の成立年代」において、
上記の一文が和銅四、五年に太安万侶によって『古事記』に挿入されたと述べている。(文献21)
また秦氏が『古事記』の編纂にかかわったとする大和岩雄氏の説もある。(文献22)

古事記には、後世に付け加えられた部分が多くあると言われている。
私は、時期は定かではないが「亦坐葛野之松尾用鳴鏑神者也」のみが後世に追記されたと想像している。
なぜなら、「大山上咋神亦名山末之大主神此神者坐近淡海國之日枝山」は
前述の古墳分布から正しい記述であると思われるからである。
従って、鳴鏑(注)をもつのは松尾の大山咋神のみの属性である。
日吉にはそれらしき矢の伝承が見あたらない。
矢をもつ大山咋神の導入は、賀茂祭にかかわることによって自己の宗教的権威を高めるための神祇的な方策の一つと考えられる

(注)鳴鏑(なりかぶら)は、矢の先端につける発音用具で、木・鹿角・牛角・青銅などで蕪(かぶら)の形につくり、
中空にして周囲に数個の小孔をうがったものである。これを矢につけて発射すると、気孔から風がはいって鳴る。
『史記 匈奴伝』に、匈奴が鳴鏑を用いることがみえるが、東北アジアでは早くから流行していた。
高句麗の輯安(しゅうあん)舞踊塚には狩猟に鏑矢を用いている壁画がある。
日本にも古墳時代中期以降には朝鮮を経て伝わり、『日本書紀』にも登場している。
国内では千葉県富津市の内裏(だいり)塚古墳、栃木県栃木市の七廻り鏡塚古墳の発掘例がある。(文献23)

鏑矢は、渡来系のものである。
鏑矢は、元々は合図のためであったが、戦の開始を告げる矢、神事用の矢としても用いられるようになった。

『古事記』に「亦坐葛野之松尾用鳴鏑神者也」が追記された背景には、矢にまつわる伝承の構想があったと思われる。
『続日本紀』延暦三年(784)十一月二十日条には、都を長岡京に遷せるを以って賀茂上下の二社を従二位に叙し、
松尾・乙訓社の二社を従五位下に叙すとある。
松尾・乙訓社は、秦氏と賀茂氏の伝承に登場する神矢にかかわる神社である。
このことは、松尾社が伝承においても乙訓社と対等の地位を確保したことをうかがわせる。
この時の伝承がいかなるものであったかは知る由もないが、
それは我々が目にしている「秦氏本系帳逸文」の伝承とは異なった素朴な形で賀茂祭に結びつくものであったと想像される。

(2)大山咋神が選定された理由
秦氏の目的は、賀茂祭に堂々と参画することである。
従って、賀茂社に受け入れやすい祭神を選ぶ必要がある。
そのため、賀茂社と日吉社の親密な関係から大山咋神が選定されたと推定される。
日吉大社の創始以来の禰宜の祝部氏は、賀茂氏の出自であるとされる。
伴信友は『瀬見小河』にて「賀茂県主系図に、建角身命より十三世、大伊乃伎の二男、
伊多足尼より九世の裔宇志丸、大津朝祝仕奉而、庚午年籍負祝部姓、為山王最初社司とありて、
宇志丸より三十七世行丸と云まで載せり・・・
為山王最初社司と書たるは、日吉神社の社司に補されたる由なるを、後世の唱によりて山王と書きたるものなり・・・
大伊乃伎の子孫は、賀茂の神等に仕へ奉り、二男伊多足尼の子孫は日吉神に世々仕へ奉る」と述べている。(文献24)

文中の宇志丸は、『賀茂神官鴨氏系図』などの鴨県主賀弖の尻付に
「此人五世子孫鴨県主宇志、大津朝祝仕奉、而庚午年籍負祝部姓」とある宇志のことと推定されている。(文献25)
庚午年籍(こうごねんじゃく)は、天智天皇九年(670) 庚午の年に部民制や氏などを基礎に作成された全国的戸籍である。
つまり、賀茂社と日吉社は同族の奉斎する神社である。

『古事記』における鳴鏑をもつ大山咋神の登場は、賀茂社にとっても悪い話ではない。
日吉社の祭祀への賀茂社の影響はそれによって急激に強まったと考えられるからである。
八王子山の山頂の牛尾社(八王子宮)には大山咋神の荒御魂(注)、三宮社には鴨玉依姫神の荒御魂が祀られている。(図6参照)
(注)荒御魂(あらみたま)は神の荒々しい側面で、神の祟りは荒御魂の表れである。
   それに対し、和御魂(にぎみたま)は神の優しい側面で、神の加護は和御魂の表れである。
   祭を行うことにより、荒御魂は和御魂へと変わる。

日吉山王祭は、大山咋神が鴨玉依姫神と結婚して別雷神を出産するまでを象徴した祭とされる。
「午の神事」は両神が御輿にのり暗闇の中を松明に導かれて山を下るもので結婚を、
「宵宮落とし」は御輿を激しく揺さぶった後落下させるもので陣痛と御子誕生を表すと言われる。(HP4)


4 松尾の大山咋神の伝承の検討

(1)松尾の大山咋神の伝承
はじめに注意すべきは、『本朝月令』は一年間に行われる祭祀について述べたものではあるが、
神社の縁起を一対一で正面から述べたものではないということである。
そのため『本朝月令』「四月上申日松尾祭事」に登場しなかった大山咋神(実は中部大神)は、
『本朝月令』の別のところ、「四月中酉日賀茂祭事」に記述されている。
以下に、その核心部分である「秦氏本系帳逸文」に小見出しをつけて紹介する。
本文は、基本的に松尾大社編纂『松尾大社』(文献1③)を引用したものであるが、
原文『群書類従』(文献8②)との重要な相違点については(注)をつけて解説すると共に、全体的に文章をわかりやすくしている。

「秦氏本系帳」について大和岩雄氏は次のように述べている。
『本朝月令』の編者である惟宗公方(938~970年頃)の引く『秦氏本系帳』は、
『三代実録』元慶五年(881)三月二十六日条に、
松尾社の祝部の氏人に「本系帳」を提出させたとあるので、このとき書かれたものであろう。
『三代実録』元慶七年(883)十二月二十五日条によれば、秦宿禰・秦忌寸らが惟宗朝臣に改姓しているから、
『秦氏本系帳』は惟宗家にあって、惟宗公方はそれを『本朝月令』に引用したのであろう。(文献16②)

ただ、我々が目にしている「秦氏本系帳逸文」が、当時の役所に提出されたものと同一のものかどうかは次のように疑いが残る。

『本朝月令』「四月中酉日賀茂祭事」所引「秦氏本系帳逸文」
A 賀茂社伝承
賀茂建角身命の紹介
秦氏本系帳にいう。正一位勲二等賀茂大神御社(かものおおかみのみやしろ)(注1)、
賀茂と申すは、日向の高千穂の峰に天くだりされた神、
賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと:賀茂氏族が祖神として奉じた神)である。

(筆者注1)松尾大社の訳では、「正一位勲一等賀茂大神御社」であるが、『群書類従』の記載どおりとした。
鎌倉時代に成立した『年中行事抄』(文献14②)の引用においては「勲一等」となっているが、これは当然の誤りを正したのであろう。
ただ、研究のためにはこうした誤りも重要である。
「勲二等」の校異については、清水潔氏の比較表と諸本系統図がある。(文献20②)
それによると、群書類従本系は「勲二等」であるのに対し、
金沢文庫旧蔵本と九条家旧蔵本系は、「勲一等」または「勲等」(等級ヌケ)となっている。
「勲二等」を「勲一等」に校訂するのは自然の流れであることから、
不明となっている群書類従本の親本が、諸本の中でより古い可能性も考えられる。
賀茂社が正一位勲一等に叙せられたのは、『類聚国史』(巻十九神祇十九祝)によれば、
上社が天長元年(824)四月十五日、下社が翌日の十六日である。
前述の松尾大社正一位勲一等の勲位も確かな記録が見当たらない。
このような誰にでもすぐわかるような誤りのある本系帳が役所に提出されるはずがない。
これらから、我々が目にしている「秦氏本系帳逸文」は、秦氏の私的な文書であったと推定される

賀茂建角身命の移動
賀茂建角身命は、神倭石寸比古(かむやまといはれひこ:神武天皇)の御前に立たれた後、
大倭葛木山(やまとかつらぎやま:奈良県と大阪府の境)の峰に宿(やど)られた。
そこから山城の国の岡田の賀茂(京都府相楽郡加茂町)に遷(うつ)られ、山代川(やましろがわ:木津川)に沿って下りて、
葛野川(かどのがわ:桂川)と賀茂川と合流する所に立たれた。
はるかに賀茂川を見まわしてこの川は「狭く小さいが、石の多い清き川である」といわれ、
石川の瀬見の(流れの急な)小川と名づけられた。
その川をのぼり、久我の国(賀茂川上流地方の古いよび名)の北山のふもと(下鴨神社の旧社地と伝えられている)に鎮座された。
その時より、神の御称(みな)の賀茂にちなんでそのあたりの地名を賀茂とよぶことになった。

賀茂建角身命の結婚
建角身命、丹波の国神伊賀古夜比賣(かむいがこやひめ)と結婚して生まれた子どもを                
玉依日子(たまよりひこ)といい、つぎに生まれた子供を玉依日賣(たまよりひめ)といった。

賀茂別雷命の縁起
玉依日賣が石川の瀬見の小川で遊んでいた時、丹塗矢(にぬりや:赤く塗った矢)が川上より流れくだった。
そこでこの矢を取って床の上に置いた。すると感(かま)けて(感じて)孕(はら)み男子を生んだ。
人となりし時、外祖(母方の祖父)である建角身命が、八尋屋(やひろや:広い建物)をつくり、
多くの扉をすべて閉じて、大量の酒を造った。
そこに多くの神さまが集まり、七日七夜楽遊(なぬかななようたげあそ)んでいる時、
その男子にあなたの父にこの酒を飲ませなさいといった。
そこで酒杯を挙(ささ)げて、天に向かって神を祭ったところ、屋の甍(いらか)を突き抜けて天に昇った。
そのゆえに外祖父の名にちなんで賀茂別雷命(かものわけいかづちのみこと)と名づけた。
今、世にいう丹塗矢は、乙訓(おとくに)の郡(こおり)の神社に鎮座する
火雷命(ほのいかづちのみこと)である(京都府長岡京市に鎮座する乙訓神社、
古くは「乙訓坐火雷(おとくににいますほのいかづちの)神社」とよんだ)。
賀茂建角身命、丹波の神神伊賀古夜比賣、玉依日賣、三柱(みはしら)の神は蓼倉(たでくら)の里の三井の神社に鎮座する。

賀茂祭のはじまり
兄の玉依日子(注2)は、今、賀茂県主などの遠い先祖にあたる。
志貴島宮御宇天皇(しきしまのみやにあめのしたしらししすめらみこと:欽明天皇)の御世(みよ)、
天(あま)の下の挙国(きょこく:国全体)に風が吹き雨が零(ふ)った時、
卜部伊吉若日子(うらべいきのわかひこ)(注3)が勅(みことのり)により占ったところ、賀茂の神の崇(たた)りとでた。
そこで、四月の吉日を撰び、祭祀が行なわれた。馬には鈴をかけ、人は獅子頭をかぶって駆け走って、
手おちなく祷祀(ねぎまつら:まつり)をさせた。これによって、五穀は成熟し、天下は豊かに平安となった。
馬に乗ることは、ここに始まった。

(筆者注2)松尾大社の訳では、「妹玉依日子(売)」とあるが、これでは意味がはっきりしない。
『群書類従』では「妋玉依日子」とある。「妋」は「せうと」と読み兄の意である。
『大漢和辞典』(文献26)によれば、「妋はせ、せうと。此の字は妹に対して夫兄の意。
類聚名義抄に妹妋(イモセ)、字鏡集に妋(セウト)、天台六十巻音義に妋(セウト)など」とある。

(筆者注3)松尾大社の訳では、「卜部伊吉が若日子に・・・」とあるが、
これは同一人と見て「卜部伊吉若日子」とすべきであろう。(文献17②)


B 松尾社伝承
賀茂別雷命の縁起
また、はじめ秦氏の女子が、葛野川にでて、衣裳(ころも)を幹濯(かんたく:洗いすすぐ)していた時に、
一本の矢が上流より流れくだってきた。
女子は、これを取って帰り、戸の上に刺しおいたところ、女子は夫がないのに懐妊し男子を生んだ。
父母はこれを怪しんで問い責めた。女子に、再三詰問(きつもん)したが、いつまでたってもついに知らないという。
父母は、知らないと言うが、夫がないのに子を生む道理はない。
家に出入りする親族や隣の村人たちの中に、きっと夫がいるはずである。
そこで、盛大に饗宴の用意をして、多くの人を招集し、その男児に盃をとらせて、父と思う人にこれを差し上げるよう祖父母は命じた。
その時、男児は衆人を指さず、仰ぎ見て戸の上の矢を指さした。たちまちその矢は雷公となり、屋根を折り破り天に昇りて去った。
このようなことから鴨上社は別雷神と名づけられ、鴨下社は御祖神(みおやのかみ)と名づけられた。
戸の上の矢は、松尾大明神である。このようなことから秦氏は、三所大明神を祭った。

賀茂祭の譲渡
鴨の氏人が、秦氏の婿となった。秦氏は、婿に鴨祭を譲り与えた。
このため、今日(こんにち)鴨氏を祢宜として祭るのはその縁によるものである。

賀茂祭における秦氏の役割
鴨祭の日には、楓山(かえるでやま)(注4)の葵を頭にさした。
当日の早朝、松尾社司などに頭に挿す費用をたまわった。
内蔵寮(くらりょう:祭祀の奉幣などをつかさどった役所)に参上し、祭りの使も来た。
楓山の葵を庭中に置き、祝詞を奏上する使いなど、それぞれが頭に挿して出立。
祢宜や祝などに禄物(ろくもつ:禄として賜う金銭や品物)を賜った。
また走馬があり、近衛二人が、謝幣をささげて祢宜や祝とともに松尾神社に詣でた。
これは、すなわち父母が子を愛でるの道理であり、芬芳(ふんぽう:香りのよいもの)として永く残す気持ちである。

(筆者注4)楓(かえるで)は楓(かえで)の古名。葉が蛙の手のように奥深く切れ込んでいるところからつけられた。(文献27)

(2)賀茂祭事に松尾社の伝承が付加されている理由
上記は賀茂祭・賀茂社の伝承である。
それにもかかわらず、松尾社の伝承(B)が付加されているのはなぜであろうか。
賀茂社の伝承(A)は『山城国風土記』(文献28)のものと基本的に同じものである。
賀茂社の伝承であれば『山城国風土記』を引用すればことたりるのに、「秦氏本系帳」の引用は余計なことではないだろうか。
これから導かれる結論は、松尾社の伝承の付加は、賀茂祭において松尾社が果たす役割とその由緒を開示することにあったと言える。

(3)「秦氏本系帳」の編集方針
「秦氏本系帳」は元慶三年(879)頃に書かれたもので、かなり意図的な脚色がある。
例えば、「秦氏本系帳」においては、松尾社の神階・勲位は正一位勲一等であるが、賀茂社の方は正一位勲二等である。
これでは賀茂社が松尾社の格下になるが事実は逆である。
つまり、「秦氏本系帳」は、松尾社と賀茂社の関係において松尾社優位の視点から編集されていることがわかる。
「鴨の氏人が秦氏の婿となったので、秦氏が婿に鴨祭を譲り与えた」という話もかかる方針のあらわれであろう。
また、松尾大明神の初見とされるものとして『日本三大実録』仁和二年(886)八月七日条があるが、
「松尾大明神」は「秦氏本系帳」の中にも神矢の正体として登場する。
これは、「秦氏本系帳」を8世紀の伝承と仮定したとしても、早すぎる登場である。
「秦氏本系帳」は、奈良時代の頃の原素材を、元慶三年(879)頃に松尾社優位の視点から脚色してまとめあげたものと推定される

(4)「秦氏本系帳」の松尾社の祭神に大山咋神の登場がないのはなぜか
秦氏の葛野地方への到来は通説では5世紀の後半とされるが、
最新の考古学的研究によれば600年頃ではないかとする説がある。(文献7②)
その後、松尾山は群集墳の地となった。
そのような新参者の秦氏に、山城に根差した伝承を急に作り上げることは無理である。
しかしながら、宗教的権威の確立は在来勢力との関係を有利に築くうえで急務であった。
そのため、松尾社の伝承はすでにあった賀茂社の伝承をベースに作り上げたものと考えられる。

「秦氏本系帳」の松尾社の神矢の伝承によれば、矢の正体は大山咋神でなく「松尾大明神」とある。
「松尾大明神」は「秦氏本系帳」自身の定義にしたがえば「松尾大神御社者、筑紫胷形坐中部大神」から、中部大神となる。
とすれば「別雷神誕生にかかわる一矢」は、中部大神が持っていたことになる。
これは中部大神による大山咋神の吸収と言えるであろう。
松尾社の神矢伝承の矢の正体は、一般に言われている大山咋神でなく松尾大明神(中部大神)である。
このように考えてくると、松尾の大山咋神は『古事記』に存在する祭祀実態のない観念的な神であることがわかる。
その役割は、秦氏の奉斎する中部大神に神矢を引き渡すことにあった。
秦氏はそのことにより、中部大神の神威を高め、賀茂社との紐帯を求めたと言える。
大山咋神が入植地の仮想的な神であるのに対し、中部大神は秦氏本来の神である。


松尾社創建当時、すなわち中部大神の勧請の大宝元年には、大山咋神は祀られていなかった。
大山咋神は中部大神のかなり後に祀られたものである。
それは「秦氏本系帳」に云うところの元慶三年(879)から
「松尾神社二座」とある『延喜式神名帳』が成立した延長五年(927)の間と推定される。

消え去った『古事記』の大山咋神が祀られるようになったいきさつは定かではないが、
次に述べる『先代旧事本紀』の影響が大きいと考えられる。


5 二座奉斎後の主祭神
ここでは二座奉斎後の大山咋神と中部大神の祀られ方を比較する。
文明元年(1469)に吉田兼倶(かねとも)が撰したとされる『二十二社註式』には次のようにある。

 松尾。
 延喜神祇式曰。
 山城國葛野郡松尾神社二座。一座大山咋神。(本社也。)
 一座胷形中初大神。(市杵嶋媛也。素戔鳥御子。)
 人皇四十二代文武天皇治五年大寶元年。秦都理奉勸請松尾始造立神殿。
(文献29)
(注)中初大神は中部大神の誤記と思われる。
   素戔鳥は素戔嗚と書くのがほとんどであるが、用例として『先代旧事本紀』がある。(文献18①)

ここで注目すべきは文中の「一座大山咋神(本社也)」である。
このことは、中部大神が本社の外、末社に祀られていることを示している。
つまり、本社の祭神が「秦氏本系帳」の中部大神から大山咋神に入れ替わったことを意味する
年代が比較的古いと思われる史料として松尾大社社蔵文書の「松尾大明神縁起」がある。
そこでは、松尾大明神即ち主祭神は、大山咋神とある。(文献30)
この文書は後半部分が欠落しており年代は不明であるが、松尾大明神の本地が大通智勝仏とあることから推定ができる。
大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)は『法華経』化城喩品(けじょうゆほん)に出てくる仏で、法華経を釈迦に説いたとされる如来である。
石清水八幡宮の『宮寺縁事抄』第一末に「大通智勝仏、松尾分身歟、松者神也、尾者處也」とある。(文献31)
清原貞雄氏の『神道史』(文献32)によれば、松尾社の本地のはじまりは鎌倉時代末期の釋迦となっているが
「松尾大明神縁起」によって鎌倉時代初期の大通智勝仏まで遡ることがわかる。
この頃には賀茂社の本地仏(上社:観音 下社:釋迦)も定められている。
室町時代以後の典籍は、大山咋神を主祭神として扱っているものがすべてと言ってよいであろう。
例えば、『二十二社註式』(文献29)、『二十二社本縁』(文献33)及び
松尾大社社蔵文書の「松尾社総論」(文献34)とその系譜である「山城国葛野郡松尾社並末社系図」(文献35)が挙げられる。
これらは、本社に大山咋神、末社の櫟谷(いちいたに)社に中部大神を奉斎していたと考えられる。

櫟谷社は、『続日本後紀』嘉祥元年(848)十一月二日条に「山城国無位櫟谷神に従五位下を授ける」、
『三代実録』貞観十年(868)潤十二月十日条に「山城国従五位下櫟谷神に正五位下を授ける」、
また『延喜式神名帳』延長五年(927)に「山城国葛野郡 櫟谷神社」とある。
この神社がその後いつ松尾社の末社になったのかは定かではないが、
『百錬抄』仁治二年(1241)八月七日条に「櫟谷宗像の両社焼失、御躰同じく焼失、是松尾末社也」とある。
櫟谷社と宗像社は、昔はそれぞれ独立した神社であったが、現在は、櫟谷宗像神社に統合されて嵐山渡月橋の右岸西にある。
神社のある小高いところから、秦氏の葛野大堰(かどのおおい)が築かれたとされる桂川が見渡せ、水神の鎮座地としてふさわしい。
現在、櫟谷神社の祭神は奥津島姫命、宗像神社は市杵島姫命となっているが、これは昔とは逆である。
これについては、『式内社調査報告』の調査がある。(文献36)


図11 現在の櫟谷宗像神社

現在の松尾大社においても、明らかに大山咋神を主祭神としていることがホームページ上から窺える。(HP5)
このことは、明治五年十一月七日の奥書のある松尾大社社蔵文書「松尾神社幷摂社末社年記區別書」によっても確認される。(文献37)

では、平安時代はどうであろうか。
祭神に関する文書で平安時代のものはほとんどないが、『本朝月令』「松尾祭事」の冒頭には次のようにある。(文献8①)
先代舊事本紀云。次大山咋神。此神者坐近淡海之比叡山。亦坐葛野郡之松尾。用鳴鏑神也。」
私は、
『先代旧事本紀』が大山咋神を主祭神に奉斎する典拠になったものと推定している。
『先代旧事本紀』における「中津嶋姫命」の記述は宗像三女神の説明であって、
ここには秦氏・松尾との関係が何ら述べられていないからである。
これは明らかに、大山咋神と中津嶋姫命の現在の祀られ方に対応しているものと考えられる。
そして注目すべきは、「中津嶋姫命」の神名の初出がこの『先代旧事本紀』であることである。
「市杵嶋姫命。亦名佐依姫命。亦云
中津嶋姫命。坐宗像中津宮。是所居于中嶋者也。」(文献18①)
これらから
『先代旧事本紀』が現在の松尾大社の原型を与えたと考えられる。

ここで、これまでに登場した重要文献を時系列的に挙げると次のようになる。
 ①「秦氏本系帳」    元慶三年(879)頃?
 ②『先代旧事本紀』  9世紀末?(注1)
 ③『延喜式神名帳』  延長五年(927) 松尾神社二座
 ④『本朝月令』        朱雀天皇朝(930~946) (注2)

(注1)『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』は天地開闢から推古天皇までの事績を記した神道の歴史書で、記紀にならぶ書とされた。
その成立は大同年間(806~810年)以後、延喜年間の日本書紀講筵(904~906年)以前と推定されている。
つまり、『延喜式神名帳』の前の成立である。
ただ、「秦氏本系帳」と『先代旧事本紀』の前後関係は定かではないが、ここでは一応「秦氏本系帳」の後とした。
惟宗公方が『本朝月令』に『古事記』でなく『先代旧事本紀』を引用したのは、
『先代旧事本紀』が神道の歴史書である点に重きをおいたからであろう。

(注2)『本朝月令』は、醍醐天皇の御母贈皇太后藤原胤子(いんし)を「先帝之妣」(文献8③)と記している。
「妣(はは)」は、亡くなった母の意。醍醐天皇が先帝とされるのは、次の朱雀天皇朝以降である。
このことから、『本朝月令』は『延喜式神名帳』の後に成立したことがわかる。
尚、『本朝月令』の成立については、清水潔氏の綿密な論考がある。それによると、成立時期は朱雀天皇朝とある。(文献38)

これは私の想像であるが、惟宗公方は『本朝月令』編纂の史料である「秦氏本系帳」を前にして考えあぐねたと思われる。
この頃、松尾社は大山咋神と中部大神を奉斎していた。
『本朝月令』の編集方針は、撰者は語らず、典籍の引用をもって祭事の本縁を明らかにすることである。
しかるに最も大切な大山咋神の名は、「秦氏本系帳」の松尾大神の御社(松尾社)の記述の中には見当たらなかった。
そのため、公方は『本朝月令』「松尾祭事」の冒頭に次のように記述した。(文献8①)
「先代舊事本紀云。次大山咋神。此神者坐近淡海之比叡山。亦坐葛野郡之松尾。用鳴鏑神也。」(文献18②)
中部大神については、もちろん「秦氏本系帳」を引用した。
その後、中部大神は『先代旧事本紀』の影響により、しだいに中津嶋姫命と解釈されるようになった。


6 まとめ

(1)「秦氏本系帳」は、元慶三年(879)頃に、賀茂社との関係において松尾社優位の視点から、
  松尾社の古伝を編集・脚色した私的な文書である。
  松尾の神矢伝承も原型とはかなり異なるものと予想される。

(2)秦氏による神矢伝承の創作は、新参の秦氏が賀茂祭とのかかわりを通して
  山城盆地の一角に根をおろそうとした神祇上の策であった。
  またそれによって自己の宗教的権威を高めるためのものであった。
  『古事記』における「鳴鏑をもつ大山咋神」の追記はその一環であった。

(3)松尾社の神矢伝承の矢の正体は、一般に言われている大山咋神でなく中部大神である。
  松尾の大山咋神は『古事記』に存在する観念的な神で、その役割は秦氏の奉斎する中部大神に神矢を引き渡すことにあった。

(4)松尾山は、松尾社の創建前は群集墳の地であった。山容も尾根の一部と見なされ平凡である。
  それゆえ、松尾の大山咋神は地主神に成り得ず、松尾大神に吸収された。
  松尾大神は中部大神に大山咋神の属性を付加したものである。

(5)松尾山の岩壁は、大宝元年(701)、知麻留女の御阿礼立てによって中部大神の磐座となった。
  松尾社創建当初の神は、中部大神の一神であった。
  大山咋神が主祭神として祀られたのは、「秦氏本系帳」に云うところの元慶三年(879)から
  『延喜式神名帳』が成立した延長五年(927)の間と推定される。
  要因としては、神道歴史書としての『先代旧事本紀』の影響が考えられる。


参考文献
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26『大漢和辞典』巻三 p643 諸橋轍次 大修館書店 1984 
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ホームページ
HP1「野洲市遺跡地図」野洲市教育委員会
 http://www.city.yasu.lg.jp/doc/seisakusuisinbu/kouhouhishoka/files/14091.
 pdf#search='%E4%B8%89%E4%B8%8A%E5%B1%B1+%E9%81%BA%E8%B7%A1%E5%9C%B0%E5%9B%B3'
HP2「神社資料データベース」國學院大學 http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/kindex2.php?J_ID=10201
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