イワクラウオッチング 第2部4章
近畿のイワクラ 
京都府

 このコーナーでは、京都府のイワクラ(磐座)を霊石も含め幅広く紹介しています。
未来に向けて「イワクラの可能性を秘めた研究材料」をできるだけ多く確保する見地から、現段階でイワクラとは一般に認められてないもの多数収録しております。 
Google Maps』にリンクを示す下線のあるものについては、磐座の概略位置をクリックによりGoogle Maps上にて確認することができます。

Google Maps:01岩屋神社
奥之院

岩屋神社奥之院
(いわや)

岩屋神社は天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、栲幡千千姫命(たぐはたちぢひめのみこと)の夫婦二神と、その皇子・饒速日命(にぎはやひのみこと)の親子三柱を祭神とする。
本殿背後の山腹に陰巌(いんがん)・陽巌(ようがん)と称する一対の巨岩があり、そこに神が降臨すると考えられていた古代に、これを磐座として祀ったことが始まりと伝えられている。
社伝によれば、仁徳天皇31年(343)の発祥とされ、境内から奈良朝以前の土器が出土している。後年、 宇多天皇の寛平年間(889〜898)に陽巌に天忍穂耳命を、陰巌に栲幡千千姫命を、また、岩の前の小社に付近の大宅(おおやけ)氏の祖神として饒速日命を祀った。
社殿は治承年間(1177〜1181)に園城寺僧徒により焼失されたが、弘長2年(1262)に再建され、今日に至っている。
現在、山科東北部における産土神(うぶすなかみ)である。
  「京都市案内板より」

磐座祭祀から社殿神道への移行を説明する貴重な事例である。
岩屋神社正面 岩屋神社奥之院入口
栲幡千千姫命を祀る陰岩 陰岩の右側なある割れ目
天忍穂耳命を祀る陽岩 陽岩の蔓の生い茂る頂部
Google Maps:02笠置山
笠置山(笠置寺)

笠置町企画観光課のパンフレット
「蘇る巨石信仰と光の山」より引用
 古代、笠置山は聖地であった
古来、人々は吃立する巨石を前に頭を垂れた。いかにしてこの巨大な巌は立ち上がり、永い時間を微動だにせずいるのか。人々は人知を遥かに超えた奇跡を見、偉大な自然を前に自らの無力を知り、心静かに山懐に抱かれた…
笠置山は山中に点在する巨大な岩を神の座と崇める磐座信仰の聖地であったが、仏教の時代が到来するとこの岩に仏像が彫られ、数々の奇跡伝説が奈良時代以降生まれました。
今、再び緑に囲まれた巨石は自然の恵みの中で人々の心にやすらぎとふれあいを与えてくれる主体として皆さんとの語らいを待っているのです。


笠置寺の説明板等より

笠置石(笠置町の町名のいわれ)
天武天皇(第40代)が皇子のころ、鹿を追って狩の途中、この岩上で進退きわまり、仏を祈念して難を逃れられたので、後日の目印として笠を置かれたという伝説がある。
笠置町の町名の発祥の石である。

弥勒大磨崖仏
笠置寺の本尊仏であり高さ20m巾15mの石面に弥勒如来が彫刻されていたが、前に建てられていた御堂が三度の火災により焼失、そのつど石面も火にかかり仏像は摩滅してしまった。
奈良時代、東大寺良弁・実忠両和尚の指導のもと、大陸から渡来した人々により彫刻されたようである。平安時代、天人彫刻の仏として多くの人々の信仰を集めた。世に言う笠置詣りである。
特筆すべきことは、この磨崖仏の前で弥生時代の有樋式磨製石剣片が見つかっていることである。有樋式磨製石剣は、弥生時代の磨製石剣の中では後晩期に登場する型式で、一つの集落遺跡から1点程度しか見つからない貴重な石剣である。そのことから、笠置山の巨岩群は、弥生時代の頃から崇められたきた磐座の可能性が高いと思われる。

虚空蔵磨崖仏
寺伝では弘仁年間(810〜824年)弘法大師がこの石にのぼり求聞寺法を修し一夜にして彫刻せし虚空蔵菩薩といわれる。
彫刻の様式から中国山西省雲崗の磨崖仏に相通じるものがあるところから本尊弥勒磨崖仏と同様、奈良時代の渡来人の作と考えられる。8m×10mの大掛け軸の拓本がある。

千手窟
1200年来、笠置寺の修行場であり二月堂のお水取りの行法も実忠和尚がこの修行場で行中感得されたものである。
東大寺大仏殿建立の用材は木津川を利用し奈良へ送る計画をたてたが、日照りつづきで水量少なく計画どうり大仏殿の建立があやぶくなったとき、実忠和尚がこの場で雨乞いの修法をおこない大雨を降らせ予定どうり大仏殿を完成させたと伝う。
この故事から以後、大仏殿の修理の折は必ずこの場で無事完成を願っての祈願法要がとりおこなわれたという。

貝吹き岩
元弘の戦い(1331年)の折、勤皇軍の武士の士気をたかめるため、この岩上よりさかんにほら貝が吹かれたといわれる。また修験者もこの岩の上でほら貝を吹いたといわれている。

胎内くぐり
笠置山修行場の入口にあり、行場入りする前に滝で身を清めるのが普通であるが、笠置山は滝がないためこの岩をくぐりぬけることにより身を清めたという。安政地震で天井岩が落下、以後切り石の天井となった。

場所:JR笠置駅下車
    笠置町の笠置山(標高288m)

参考サイト:笠置山の岩石祭祀事例
薬師石 文殊石と上に乗っかった笠置石
弥勒石 笠置弥勒像
虚空蔵菩薩の磨崖仏 右の拡大写真
千手窟の祠 千手窟の祠の上方
平等石 貝吹き岩
胎内くぐり 人の力で動くと言われる「ゆるぎ石」
Google Maps:03松尾大社
松尾大社
松尾大社は京都最古の神社で、太古この地方一帯に住んでいた人々が、松尾山の頂上の近くにある巨大な磐座を祀っていたのが起源とされる。5世紀の頃、朝鮮から渡来した秦氏が、松尾の神を氏族の総氏神と仰ぎ、現在の地に社殿を造営したのが松尾大社である。
醸造の神でもあり、三輪山の狭井神社と地形において類似点が多い。

注 磐座の拝観は社務所に申し込めばできるが、撮影は禁止されている。
磐座は、大亀の姿に似ているとも言われている。

参照論文
六甲山系ごろごろ岳 漢人の磐座
松尾大社本殿(松尾造り) 御手洗川にある霊亀の滝
Google Maps:04伏見稲荷大社
伏見稲荷大社
伏見稲荷大社は、稲荷神を祀る全国約4万社の稲荷神社の総本宮である。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。稲荷山には数多くのイワクラが点在している。

御膳谷神蹟 御饌石(みけいし)
稲荷山三ヶ峰の北背後にあり、昔この地に御饗殿(みあえどの)と御竃殿(みかまどの)があり神々に神供をしたところと伝えられる。
現在では祈祷殿において毎日、朝夕、お山の神々に御日供(おにっく)が供えられている。
 (伏見稲荷大社の説明板より)

長者社神跡の剱石・雷石
長者社は伏見稲荷の司祭者である秦氏の祖神を祀った社で、ここはその最初の社があった神跡として伝えられている。長者社神跡には御剱社があり、社殿内には「剱石」という聖石が祀られている。
 剱石のある御剱社のすぐ裏には「雷石」と呼ばれる巨岩がある。享保17年(1732年)に編まれた『稲荷谷響記』の中に「古老が伝えるには、昔ここで激しい雷が落ち、神が呪文を唱えこの岩に雷を縛った(封じた)」という記述がある。
 稲荷山を描いた最古の図「山上旧跡図」(1531年)には両方の聖石の存在が記されており、それぞれ共に古くからの信仰があったことがわかる。神社は、元々雷石と剱石は両者一体の岩石信仰だったものが、後に剱石だけ鍛冶伝説関連の石として独立したと説明している。

参考サイト
伏見稲荷大社・稲荷山の聖石群
参照論文
六甲山系ごろごろ岳 漢人の磐座
神様の御食事を供える「御饌石」 御膳谷神蹟の全景
長者社神跡にある御剱社の剱石 御剱社の社殿の背後に立つ雷石
稲荷山山頂(233m)の稲荷社 山頂の神石(背面)
Google Maps:05瓜生石
瓜生石
(うりゅういし)
 瓜生石は、京都の知恩院・黒門前道路上に、周囲を石柵に囲まれてある。石は、ほとんどが地下に埋まっているように見えて、地上に出ているのは高いところで25cmくらい、横幅2m弱である。
 この石は、大昔に宇宙から落ちてきた隕石だという話もある。石の種類としては、やや白〜灰色のチャートの層を含んだ複合岩体で、接触変成岩のようである。

参考サイト「京の瓜生石」
http://www.h6.dion.ne.jp/
~chusan55/kobore7/411uryuishi.htm
三叉路の真ん中にある瓜生石 瓜生石の接近写真
瓜生石の伝説
 はるか昔、この石にキュウリが芽生え、一夜のうちにつるが伸びて花が咲き実がなって、
その上に祇園精舎の守護神・牛頭天王(ごずてんのう)が降り立ち給い、
果実の表面に牛頭天王の文字が現れたといいます。
それは貞観2年(860年)6月14日の深夜のことで、その後牛頭天王の神霊は
今の粟田神社の場所に移られたともいわれています。
 また、この瓜生石は頂部ごくわずかが地表に出ているだけで、
地下は地球の深部までとどいているとか、石の下に二条城までつづく抜け道があるとか、
さまざまに言い伝えられています。
Google Maps:06地主神社
地主神社
(じしゅ)
 
地主神社HPより
 地主神社の創建年代は神代(かみよ:日本の建国以前)とされ、近年、アメリカの原子物理学者・ボートン博士の研究により「恋占いの石」が縄文時代の遺物であることが確認された。
また、周囲が湖であった時代にも、地主神社の境内地は島となっており、不老長寿の霊山「蓬莱山(宝来山)」 あるいは、「蓬莱の島」として信仰をあつめていた。
清水寺の境内にある地主神社 縄文時代の遺物とされる「恋占いの石」
「恋占いの石」の占い方
神社の境内に数メートルの距離をおいてに一対の石が置かれており、
一方の石からもう一つの反対側の石に目を閉じて歩き着くことが出来れば恋の願いがかなうとされる。どこの神社でもよく見かける占い方である。
Google Maps:
07貴船神社 船形石

貴船神社 船形石
 
 創建の年代は不詳であるが、社伝では反正天皇の時代の創建としている。延喜式神名帳には「山城国愛宕郡 貴布禰神社」とある。
社伝によれば、神武天皇の母である玉依姫命が、黄色い船に乗って淀川・鴨川・貴船川を遡って当地に上陸し、水神を祭ったのに始まると伝えている。
社名の由来は「黄船」によるものとし、奥宮境内にある「船形石」が、玉依姫命が乗ってきた船が小石に覆われたものと伝える。「気の産まれる根源」が転じて「気生根」になったともいう。

磐座としては、貴船山の中腹に、神が丑の年の丑の月の丑の刻に天から降りたとされる「鏡岩」が知られている。この磐座は禁足地にあるが、下記参照サイトにてその概要を知ることが出来る。
参照サイト:http://kibune.jp/meisho/

その他には、信仰の対象からはずれるが「つつみが岩」「天の磐船」「天津磐境」「烏帽子岩」 「蛍岩」 等がある。
奥の宮の船形石上面 船形石の正面(左の写真の左側)
結社(ゆいのやしろ)の天の磐船 貴船神社の境内の石庭「天津磐境」
烏帽子岩 蛍岩
Google Maps:08山住神社
山住神社

山住神社の案内板より
 山住(やまずみ)神社には社殿はなく、神南備と仰ぐ巨石を磐座と崇めた古代祭祀の形態を伝える。古来石座明神と云われ、岩倉の産土神であり、四岩倉の一つとして数えられる。
 『三代実録』の元慶4年10月13日条に「山城国正六位上石座神に従五位下を授ける」とある。天禄2年、岩倉の鎮守を大雲寺の鎮守社である八所・十二所両明神社に遷した。
『雍州府誌』に、「石座大明神、北石蔵に在り、天神が籠る所の窟戸なり」とあり、『山城名跡巡行誌』に「石座の神祠、同村に在り、鳥居は東向き、祭所は厳かを以って鎮座の所と為す、神伝詳しからず、旧記に天神が籠る所の窟戸なり」とある。
 明治以後は、石座の名を八所・十二所両明神社に譲り、山住神社と号す。

上記文中の四岩倉とは、北岩倉:山住神社(左京区岩倉)、西岩倉:西岩倉山金蔵寺(西京区大原野石作町)、東岩倉:東岩倉山(左京区粟田口大日町)、南岩倉:明王院不動寺(下京区石不動之町)を指す。
山住神社拝殿 神殿と背後の磐座
神殿と背後の磐座 磐座の上部
石座(いわくら)神社正面 石座神社の拝殿
Google Maps:09岩上神社
岩上神社
京都市左京区の松ヶ崎にある岩上神社は、山城國愛宕郡末刀(まとの)神社の式内論社である。神社には本殿がなく、平らな岩が御神体として祀られている。磐座には立石が多い中で、平石は珍しい。

『寺院神社大事典 京都・山城』より
 狐坂・宝ヶ池へ至る林山の西麓に西面して鎮座。
 社殿を設けず天然の岩を神石とするところからその名がつけられた。当地域には露出した岩の山肌が多く、松樹茂る所であり古くから清浄の地として知られるが、当社も林山を背景とした古代祭祀の磐座信仰の地であったと推定される。
 神石は昔、兵庫の海中で霊光を発していたものを得て勧請したと伝え、古くから漁猟・牛馬の神として信仰されていた(京都府愛宕郡村志)。
「式内末刀岩上神社」の石碑が立つ岩上神社 落葉に埋もれた平石状の御神体
磐座の前の石の祠、背景は神体山 地下鉄「蹴上」駅付近から望む神体山
Google Maps:10岩上神社
          (岩神祠)

岩上神社(岩神祠)
 上欄の岩上神社と同名の神社が、京都市上京区上立売通にもある。御神体は岩神と呼ばれる大きな2m近い立石である。陽石、道祖神、塞神の類であろう。即ち、「岩上」とは「岩神」でもあることがわかる。
 この神社は、別名、岩神祠(いわがみのほこら)とも呼ばれている。
 かっては、有乳山岩神寺の授乳神として婦人の信仰を集めたが、西陣焼けと天明の大火で類焼、一堂だけとなり、明治期に廃絶、巨石のみ残った。
小さな神社である 真新しい注連縄のかかる岩神さん
<伝説>京都市の案内板より
この巨石は二条城の南にあったのを内裏の築山に引こうとしたら吠えたとか、
小僧に化けて神泉苑で怪をなしたとか伝える。子供に化けたこともあり禿童(かぶろ)石とも呼ぶ。
もと二条堀川辺りにあったらしく、中和門院(後水尾天皇女御)の御所に移したところ怪異が
起こったので、 真言僧が当地に移し岩神寺の本尊として祀った。
Google Maps:11白石神社
白石神社
 白石大明神として、伊ざなぎの尊・伊ざなみの尊を祭神とする。
その創立は古く大同年間に朝廷より村中に建立勧請と伝えられている。
境内に大きな白石があるところから、社名になったらしいが、この巨石に対する信仰が神社の始まりかもしれない。
              「神社案内板より」
巨石の正面 閑寂のなかにその岩はある 巨石の上部
Google Maps:12諸羽神社
諸羽神社
 通称四ノ宮。 上古、祭神二柱の神が山科郡柳山に降臨されたので楊柳大明神と称した。
この二柱の神は天尊降臨時に左右を補佐した神であるところから両羽大明神とも称した。
 清和天皇の貞観四年(862)に社殿が造営され、両羽大明神と唱え、裏山の名も両羽山と称するに至った。
 中古の後柏原天皇の永世年間(1504〜1521)より中央に八幡宮、左に伊弉諾命を、右に素盞嗚命および若宮八幡宮を配し以上六柱を合祀し、両羽を諸羽と改称した。

人康親王の琵琶石
 人康親王が琵琶を弾きながら座っていたとされる石。人康親王は、仁明天皇の第4皇子で、若くして失明し出家した。盲人などに琵琶や詩歌を教え、琵琶法師の祖神とされる。
 江戸時代には多くの琵琶法師が集まって琵琶を弾いていたといわれる。
本殿の北西背後にある琵琶石(左)と磐座(右) 屋根に覆われた神木の切り株
参道 拝殿
Google Maps:13宇治上神社
宇治上神社
 すぐ近くに宇治神社があり、明治維新前は両方を合わせて宇治離宮明神、八幡社と呼ばれ、宇治神社を下社・若宮とするのに対して、宇治上神社は上社・本宮と呼ばれている。
『延喜式神名帳』には「山城国宇治郡 宇治神社二座」とあり、それぞれ宇治神社・宇治上神社を指している。近くに平等院ができるとその鎮守社とされた。

本殿
年輪年代測定調査によれば、本殿は1060年頃のものとされ、現存最古の神社建築であることが裏付けられるとともに、1052年創建の平等院との深い関連性が考えられている。
建物の中には三棟の内殿が並立し、右殿に仁徳天皇、中殿に応神天皇、左殿に菟道稚郎子皇子をそれぞれ祀っている。
この三棟を覆う形の覆屋部分は鎌倉時代の建立である。

拝殿
鎌倉時代の建築だが、平安時代の様式を採り入れた寝殿造りで、宇治離宮の遺構とも伝えられている。現在残っている平安中世の拝殿のうちで、最も古い形とされている。

岩神さん
磐座と説明される場合もあるが、それは俗説である。古い神社では社殿の跡地に巨石をおいてその場所を伝えることが行われており、これもその類と思われる。
岩神さん(社殿の跡地に置かれた巨石) 現存最古の神社建築である本殿(国宝)
盛り砂の置かれた拝殿(国宝) 上賀茂神社の立砂に似た盛り砂
上の盛り砂は「清め砂」と呼ばれ、八朔祭り(9月1日)氏子により奉納され、
境内の「清め砂」として1年間盛られ続ける。
(聞くところでは、盛り砂が置かれたのはそんなに古いことではないとのことである)
盛り砂は、祭り等の大切な日に境内を清めるために撒かれるものである。
上賀茂神社の鬼門よけとして名高い立砂とは直接的な関係はない。
それにしても、宇治上神社は平等院からみて正に鬼門の位置にある。
平等院・宇治上神社・仏徳山が北東の方向に一直線にならぶ・・・いい感じである・・・
しかし、これを裏付ける文献や伝承は、今のところ見当たらない。
(誰か知っていたら教えてください)
一方、平等院の南西に位置する県(あがた)神社には、
藤原頼道が平等院を建立した際、裏鬼門よけの鎮守となったとの言い伝えがある。
なのに宇治上神社は・・・
Google Maps:14船岡山
船岡山
 船岡山は標高112mの丘陵である。
山が船の形に似ていることから「船岡山」と名付けられた。
 平安京選定の際、船岡山を縦の基点とし、中心軸に朱雀大路を造ったとされる。大極殿の中心部は、現在の千本丸太町交差点付近にあった。
平安京は陰陽五行思想・風水思想に基づいて造られ、この山が大地の力が溢れでる玄武の小山とされる。
 山頂の岩は、磐座ではないかと言う人もいる。
ここは、かつて祭祀の場であった。
天安2年(857)、貞観元年(858)には、陰陽寮に命じて五穀を食い荒らす害虫をはらう祭りが行われた。(『三代実録』貞観元年8月3日条)
また正暦5年(994)、疫病の流行により、船岡山山頂に木工寮の造った神輿を置いて疫神をまつり御霊会が営まれたとある。(『日本紀略』正暦5年6月27日条)

参考サイト 「船岡山‐磐座‐」
山頂の磐座とされる岩 左の岩を下側から見上げた写真
西南に双ヶ岡を望む 西北に左大文字を望む
 Google Maps:15白幽子巌居跡
白幽子巌居跡
 江戸時代、北白川の瓜生山に白幽子と呼ばれる仙人がここに住んでいた。
白隠禅師の 『夜船閑話』によれば、岩窟の広さはやっと五、六尺四方であって、衣食の道具は全くなく、ただ机の上に 『中庸』 と 『老子』 と『金剛般若経』とを置いているだけであった。
白隠禅師は、白幽子に「内観法」 を教えられ、それによって禅病を治すことができた。
 

参考サイト 白隠禅師 《夜船閑話》
白幽子巌居跡
現状の岩は屏風の形をしていて、岩窟ではない。岩が崩れたのであろうか?
雨露をしのぐのは困難と見られる。
左の岩の左側面
Google Maps:16月読神社

月読神社
当社はもと葛野郡の「歌荒樔田(うたあらすだ)」にあったが、水害の危険を避けるため斉衡3年(856)にこの地に遷ったとされる。
「月延石(つきのべいし)」は、神功皇后が出産の際、この石で腹を撫でて安産したと伝えられる石である。このため「月延石」は別名「安産石」とも呼ばれ、妊婦の守り神として崇敬を集めている。
この石は月読尊の神託により、舒明天皇が伊岐公乙等を筑紫に遣わして求めてきたといわれる。

私は、別の意味で注目している。
『松尾大社史料集 文書篇三』p247によれば、四月の松尾祭の酉日に月読神社において「御あれ有り」とある。
もしかしたら、この石の上で御生(みあれ)神事が行われたのではないどろうか・・・

参考文献
 『平安時代の国家と祭祀』 
       p471 岡田荘司
 1994
参考サイト 日本伝承大鑑
月延石とむすびの木 名前の書かかれた白い小石が
多数積み重ねられている。
近くには「願掛け陰陽石」もある。 左の石が陽、右が陰であろうか。

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