石仏ウォッチング 甲山八十八ヶ所

4章 讃岐 涅槃の道場 第66番〜第88番

御詠歌の解釈についての参照リンク

第六十六番
 雲辺寺

  (うんぺんじ)
雲辺寺は標高921mの山上にある、札所の中で一番の高所にある古刹である。麓からは自動車道路が通じていたが、歩き遍路を建前とする私達は汗だくになって歩いた。寺に着くと夕暮れが迫っていた。野宿でもするかと思い適当なねぐらを捜していたら、住職が声をかけてくれ、寺に泊めてもらえることになった。
1989年8月11日の若き日の思い出である。

本尊:千手観世音菩薩

詠歌
はるばると雲のほとりの寺にきて
 月日をいまはふもとにぞ見る


石仏の調査
本尊は千手観世音菩薩であるが、石仏は明らかに薬師如来である。
誰が置いたかワンカップ大関が印象的だ。 石仏:薬師如来
第六十七番
 大興寺

  (だいこうじ)
この寺の納経所の前には、三鈷の松と呼ばれる松葉が三本ある珍しい松がある。
三鈷とは両端が三俣の剣先をもつ煩悩滅却の密教の法具で、元はインドの武器で敵に投げるものである。
三鈷の松は高野山にもあり、空海が中国から伽藍の適地探索を念じて投げた三鈷が引っかかっていた松として有名である。

本尊:薬師如来

詠歌
うえおきし小松尾寺を眺むれば
 法の教えの風ぞふきぬる

石仏の調査
石仏が磨耗しているので判定は困難であるが、
第七番の阿弥陀如来と似ていることから、定印(じょういん)阿弥陀如来座像の可能性が高い。
松の木の下の仏様、なかなかの風情だ。 石仏:定印阿弥陀如来(推定) 
第六十八番
 神恵院

  (じんねいん)
大宝三年(703年)、夜の海上に琴の音が流れ一艘の光り輝く神船が現れた。驚いた日証上人は、その船を浜辺に引き上げた。すると船内より「我は宇佐より来る八幡大明神なり。この地の風光明媚につき我去りがたし」との御神託があった。このため、神船と琴を山頂に引き上げ、社殿を造営して、琴弾八幡宮として祀ったのが始まりとされる。
後に、弘法大師が八幡大明神の本地仏である阿弥陀如来を安置して札所とされた。

本尊:阿弥陀如来

詠歌
笛の音も松ふく風も琴ひくも
 歌うも舞うも法のこえごえ
背景は甲山、神呪寺の伽藍が見える。 石仏:定印阿弥陀如来
第六十九番
 観音寺

  (かんおんじ)
市の名称にもなっている由緒ある寺で、元は先に述べた日証上人が琴弾八幡宮を開いた時、神宮寺として創建された。弘法大師が七代住職となった時、奈良の興福寺にならって七堂伽藍が造営された。大師は、中金堂に聖観音を本尊として安置し、それまでの神宮寺の寺号を現在の観音寺と改称し、第六十九番札所に定められた。

実は不思議なことに、第六十九番観音寺と第六十八番神恵院とは同一境内にある。江戸時代までは、第六十八番札所は山頂にある琴弾八幡宮であった。ところが、明治初年の廃仏毀釈令によって、本尊の阿弥陀如来が観音寺の西金堂に移され、神恵院が設立された。このため、同じ境内に二つの札所が共存することになった。
廃仏毀釈令の、神道統治を目指した国家権力による強引さには恐るべきものがある。

本尊:聖観世音菩薩

詠歌
観音の大悲の力強ければ
 おもき罪をもひきあげてたべ

石仏の調査
頭部に化仏を戴き、左手に蓮華を持ち、右手が施無畏印であることから聖観世音菩薩である。
弘法大師座像
石仏:聖観世音菩薩
第七十番
 本山寺

  (もとやまじ)
四国八十八ヶ所中唯一、馬頭観世音菩薩を本尊とする寺である。大同二年(807年)平城天皇の勅願により、国家鎮護を祈願した弘法大師が、一夜のうちに堂宇を建立し、馬頭観音を刻んで安置したのがはじまりと伝えられる。

本尊:馬頭観世音菩薩
馬頭観音は、サンスクリット語でハヤグリーヴァと呼び、「馬の頭を持つもの」を意味する。天馬のように縦横無尽に駆け巡り、困難を乗り越えて衆生を救済する。また、草をひたすら食べる馬のように、すべての煩悩を食い尽くす。密教では、馬頭明王と呼ばれ、宝冠に馬頭を載せ憤怒相を見せる変化観音である。
馬の頭を持つことから、鎌倉時代ごろから交通安全の守護神として信仰されるようになった。時代がくだると、交通安全を祈願して路傍に石像が建てられるようになった。現在でも、石柱に「馬頭観音」「馬頭大士」などと彫ったものが見受けられる。さらに、馬との関連から競馬の守護神として競馬場に祀られることもある。

詠歌
本山に誰か植えける花なれや
 春こそ手折れ手向けにぞなる

弘法大師
石仏:馬頭観世音菩薩 頭部の馬の顔
第七十一番
 弥谷寺

  (いやだにじ)
この寺は岩窟寺院であり、石仏のメッカである。
岩盤の中に堂宇があり、四国霊場唯一の阿弥陀三尊の鎌倉時代の摩崖仏がある。仏像は、比丘尼谷と呼ばれる崖の面に彫り窪めた舟形光背の中に半肉彫りにされているが、摩滅がひどく、阿弥陀如来の脇持の観音・勢至菩薩は顔がほとんどわからない。
また山内には、八万四千体といわれるの石仏群がある。

本尊:千手観世音菩薩

詠歌
悪人とゆきづれなんも弥谷寺
 ただかりそめも良き友ぞ良き
岩窟の中に安置された仏様 石仏:千手観世音菩薩
第七十二番
 曼荼羅寺

  (まんだらじ)
弘法大師が大日如来を本尊とし、唐から請来した金剛界と胎蔵界の両界曼荼羅を納めたと伝えられる。
曼荼羅とは、諸仏菩薩明王を体系的に描いた図で仏の悟の世界を象徴する。
金剛界曼荼羅は、精神的原理を説いていることから智(主観世界)の曼荼羅と呼ばれる。
一方、胎蔵曼荼羅は、宇宙の物質的生成原理を説いていることから理(客観世界)の曼荼羅と呼ばれる。

本尊:大日如来

詠歌
わずかにも曼荼羅拝む人はただ
 ふたたびみたびかえらざらまし

明るい日差しに輝く大日如来 石仏:金剛界大日如来
第七十三番
 出釈迦寺

  (しゅっしゃかじ)
出釈迦寺の奥の院のある我拝師山の頂上には、七歳の弘法大師、幼名 真魚(まお)が、「仏道に入り、衆生を救わんとする我が願い、成就するものならば霊験を、さもなくば賭したこの身を諸仏に捧げん」と念じて身を投げた断崖絶壁がある。身を投げた大師は、紫雲と共に現れた釈迦如来と天女によって抱きとめられたという。

本尊:釈迦如来

詠歌
迷いぬる六道衆生すくわんと
 尊き山に出ずる釈迦寺

石仏の調査
「神呪寺八十八箇所調査報告書(西宮市文化財資料第四十二号)」によると、『石仏は薬師如来』とあるが、薬壷が左手に載っていないこと、薬師三界印でないこと、江戸時代(寛政)以降の作であること等から薬師如来ではなく釈迦如来と推定される。
石仏:釈迦如来
第七十四番
 甲山寺

  (こうやまじ)
弘仁12年(821年)、嵯峨天皇より満濃池の修築を命じられた大師は、その年の五月に下向し、この寺で工事の完成祈願を修し、薬師如来を刻んで安置した。黒部第四ダムの七分の一の貯水量を誇る満濃池は、弘仁9年に大決壊、朝廷が派遣した築池使の手に負えなかったが、大師が監督するに及んで、あれほど手を焼いた難工事もわずか三ヶ月で完成した。

本尊:薬師如来

詠歌
十二神みかたにもてるいくさには
 己と心かぶと山かな
石仏:薬師如来
第七十五番
 善通寺

  (ぜんつうじ)
この寺は弘法大師の誕生地にして、唐から帰った大師が先祖の菩提を弔うため建立した真言宗最初の根本道場である。高野山の金剛峯寺、京都の東寺とともに弘法大師三大霊場とされる。
この寺の御影堂の地下にある戒壇めぐりは、暗闇の中を三十七の仏が描かれた壁を伝いながら歩き、自分自身を省みる精神修養の場であり、なかなか興味深い。凡俗の私も反省するところ大であった。

本尊:薬師如来

詠歌
われ住まばよもきえはてじ善通寺
 深きちかいの法のともしび
石仏:薬師如来
第七十六番
 金倉寺

  (こんぞうじ)
この寺には、弘法大師の甥 智証大師円珍が5歳の時に、天女姿の鬼子母神が現われ「仏道に入るなら生涯を守る」と約束して去ったという伝説が残る。鬼子母神は子育てと安産が功徳のインド伝来の仏で、一度は他人の子を食らう鬼のようであったが、自分の子を奪われてその悲しみを知り、以後はの子供の守護神となった。
東京入谷(いりや)にある真源寺の鬼子母神などは「恐れ入谷の鬼子母神」と言われるほどゆく知られている。

本尊:薬師如来

詠歌
誠にも神仏僧をひらくれば
 真言加持のふしぎなりけり
石仏:薬師如来
第七十七番
 道隆寺

  (どうりゅうじ)
創建時の薬師如来を胎内仏に弘法大師が刻んだ薬師如来は、京極左馬造の幼少の頃の眼病をなおしたことから、「眼なおし薬師」と呼ばれ親しまれている。京極左馬造は、道隆寺の薬師如来の信仰により眼病が快癒したことから医学を志し、後に丸亀藩のおかかえ医となつた。本堂西の潜徳院にある京極左馬造の墓所には、「め」の字を書いた眼病祈願の札が多数奉納されている。

本尊:薬師如来

詠歌
ねがいをば仏道隆に入りはてて
 菩提の月を見まくほしさに
石仏:薬師如来
第七十八番
 郷照寺

  (ごうしょうじ)
この寺は四国霊場のなかで唯一の宗派である時宗であり、御詠歌のとおり一遍上人の開いた踊り念仏の道場であった。念仏をとなえ踊りはねる姿は奇異に見えるかも知れないが、信仰がある種のパトスであることを思う時、その姿も納得できる。だが、釈尊の自灯明を忘れるなら、それは危険な熱狂と化すであろう。

本尊:阿弥陀如来

詠歌
おどりはね念仏申す道場寺
 拍子をそろえ鐘をうつなり
石仏:定印阿弥陀如来
第七十九番
 高照院

  (こうしょういん)
この寺は、崇徳上皇の柩を一時安置したことから天皇寺とも呼ばれる。

本尊:十一面観世音菩薩

詠歌
十楽の浮世の中をたずねべし
 天皇さえもさすらいぞある

この寺から3分ほど歩いた所に、弥蘇場の泉がある。弥蘇場の泉は、崇徳院の崩御から火葬までの二十数日間、その遺体を浸して保管したところと伝えられている。泉の近くには、この水で冷やした心太(ところてん)の店があるが、こうなると心太がうまいなどと言っている場合ではない。時の流れとは、誠に恐ろしいものだ。
石仏:十一面観世音菩薩
俯きかげんのやさしいお顔だ。
第八十番
 国分寺

  (こくぶんじ)

本尊:十一面千手観世音菩薩
千手観音は、詳しくは千手千眼(せんじゅせんげん)観自在菩薩といい、ヒンドゥー教のシヴァ神の別名である。千の手のひらにはそれぞれ眼があり、千の眼で一切衆生の願いを漏らさず見届け、千の手であらゆる手段を尽くして願いを叶えてくれるといわれる。

詠歌
国を分け野山をしのぎ寺々に
 詣れる人を助けましませ

石仏:千手観世音菩薩
第八十一番
 白峯寺

  (しろみねじ)
この寺は、崇徳院と西行法師との対話を描いた上田秋成の「雨月物語」で名高い。
崇徳院は保元の乱でこの地に流され、都復帰の願いもかなわず、崩御の後白峯の山頂で荼毘に付される。四年後、白峯を訪れた西行の前に、復讐に燃えて悪霊と化した崇徳院が現れ、西行に語りかける。西行は念仏の力をもって極楽往生に導こうとするが、いかんともし難くむなしく山を降りる。

本尊:千手観世音菩薩

詠歌
霜さむく露しろたえの寺のうち
 み名をとなうる法のこえごえ
石仏:千手観世音菩薩
第八十二番
 根香寺

  (ねごろじ)
金剛界曼荼羅の五智如来は、大日(中心)・阿閃(東)・宝生(南)・阿弥陀(西)・不空成就(北)である。この五仏を感得した弘法大師は、この地が密教にふさわしいとして山々に青峯、黄峯、赤峯、白峯、黒峯と命名した。曼荼羅の文献によれば、色と仏には密接な関係があり、青は不空成就、黄は宝生、赤は阿弥陀、白は大日、黒は阿閃に対応する。
また、五つの峯は五色台と総称され、根香寺は青峯山、白峯寺はその名の通り白峯山にある。

本尊:千手観世音菩薩

詠歌
宵の間のたえ降る霜の消えぬれば
 あとこそ鐘の勤行のこえ


この祠には、神呪寺の第八十三番の表示があるが、第八十二番の誤りと思われる。
神呪寺の第八十二番の表示のある場所は、弘法大師の石仏が二体安置されているのみであり、本尊がない。
また、第八十三番は自動車道を北に渡ったところにもあり、これが本当の第八十ニ番である。
石仏:千手観世音菩薩
神呪寺の第八十三番の表示があるが、第八十二番の誤りと思われる。 神呪寺の第八十二番の表示があるが、ここは札所ではない。二体の石仏はいずれも弘法大師像
第八十三番
 一宮寺

  (いちのみやじ)
一の宮は、昔の六十六ヶ国の各々において、中央からのお達しなどを最初にその神社に伝えることになっていた神社で、一般にその国において最も格式の高い神社である。ただし伊勢神宮のように、別格扱いで一の宮にはなっていない例もある。神仏習合で一の宮には寺が設けられ四国においては、阿波の大日寺、土佐の善楽寺、伊予の南光坊、讃岐の一宮寺がこれにあたる。

本尊:聖観世音菩薩

詠歌
さぬき一宮の御前に仰ぎきて
 神に心を誰かしらゆう
石仏:聖観世音菩薩
第八十四番
 屋島寺

  (やしまじ)
この寺にはおもしろい狸の話が残されている。
この山の太三郎狸は四国狸の総大将で、佐渡の三郎狸、淡路の芝衛独と共に日本三大狸と言われる。屋島寺住職の代替わりの時は、屋島合戦の模様を鳴り物入りで演じたり、日清・日露の戦争に多くの子分を連れて奮戦した。現在、蓑山大明神として本殿横に祀られ、水商売の神様となっている。

本尊:十一面千手観世音菩薩

詠歌
あずさ弓屋島の宮に詣でつつ
 祈りをかけて勇むもののふ

石仏:千手観世音菩薩
第八十五番
 八栗寺

  (やくりじ)
弘法大師は、唐留学の成就を祈願してこの地に八個の焼栗を埋められた。帰朝後、再びこの地を訪れた大師は、栗の木が八本とも茂っているのを見て、寺の名を八栗寺とした。

本尊:聖観世音菩薩

詠歌
ぼんのうを胸の智火にて八栗をば
 修行者ならでたれか知るべき

石仏の調査
本尊は聖観世音菩薩であるが、石仏は明らかに千手観世音菩薩である。
石仏:千手観世音菩薩
第八十六番
 志度寺

  (しどじ)
天智天皇のころ、藤原不比等が亡父鎌足の供養に奈良興福寺の建立を発願した。唐の高宗皇帝の妃であった妹はその菩提にと三つの宝珠を船で送ったが、志度の浦で龍神に奪われた。兄の不比等はあきらめきれず、姿をかえて志度の浦へ渡り、土地の海女と夫婦になり一子・房前をもうける。やがて海女は観世音に祈願し、夫とわが子のために命を捨てて龍神から宝珠をとりかえす。不比等は海辺の近くに海女の墓と小堂をたて「死度道場」と名づけた。後に房前は母の追善供養に堂宇を増築し、寺の名を志度寺と改めた。

本尊:十一面観世音菩薩

詠歌
いざさらば今宵はここに志度の寺
 祈りの声を耳にふれつつ
石仏:十一面観世音菩薩
第八十七番
 長尾寺

  (ながおじ)
天平十年(738年)行基菩薩が巡錫の折、道端にある楊柳をもって聖観世音を刻み、小堂を建てて尊像を安置したのが寺のはじまりといわれる。
弘法大師は入唐するにあたりご本尊に祈願し、護摩修法された。さらに、大師は唐より帰朝してから大日経を一字一石に書写して入唐の大願を成就したことを謝し、万霊の供養塔をたてて修法された。この供養塔は現在護摩堂の前にある。
後の天和元年(1681年)、堂塔や田畑を寄進した高松藩主松平頼重は、本尊を讃岐七観音のひとつとし、真言宗から天台宗に改めた。
一般に天台宗では六道の救済にあたる六観音を聖(地獄)、千手(餓鬼)、馬頭(畜生)、十一面(阿修羅)、不空羂索(人)、如意輪(天)とし、真言宗では不空羂索観音のかわりに准胝観音を挙げる。これらを合わせて七観音と呼ぶ。

本尊:聖観世音菩薩

詠歌
あしびきの山鳥の尾の長尾寺
 秋の夜すがら御名を唱えよ
石仏:聖観世音菩薩
不動明王 弘法大師
第八十八番
 大窪寺

  (おおくぼじ)

本尊:薬師如来

詠歌
南無薬師諸病なかれと願いつつ
 詣れる人は大窪の寺

1990年8月13日、長かった四国霊場八十八ヶ所の巡礼も、この寺で結願を迎えた。1985年5月2日より、会社の大型連休を利用した6年がかりの断続的な旅であった。
続いて1990年10月27日、高野山町石道を登り奥の院に参拝することができた。
妻とともに四国霊場を元気に回れたことを、御仏にただ感謝するのみである。
 羯諦羯諦波羅羯諦
  波羅僧羯諦菩提薩婆訶

石仏:薬師如来

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