イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版 2015年2月26日掲載
イワクラ(磐座)学会会報33号掲載(増補改訂版)      
   


     銅鐸埋納における鰭の方向について
          <認知考古学からのアプローチ>

はじめに
 良く知られているように、土坑に銅鐸を水平に寝かせ鰭を垂直に立てた状態での発掘事例が多く見かけられる。
図1はその典型例で、1992年12月18日、徳島市の道路建設にともなう事前の発掘調査により出土した銅鐸である。
銅鐸は鰭の方向を垂直にして横に寝かされていた。

徳島県埋蔵文化財センター年報/vol.4
                  1992年度(HP1)より
銅鐸は鰭を上下にして立て、
横倒しになった状態で出土した。
銅鐸は周囲を黒色の砂質土によって包まれており、
さらにその外側には褐色の砂質土が取り巻くという、
非常に丁寧な方法で埋められていた。
また銅鐸の鐸身内部には
心棒状に黄色の砂質土が存在し、
黄色の砂質土と鐸身との間に
黒色の砂質土が存在していた。
周辺からは銅鐸埋納坑を取り巻くようにして
7ヵ所の柱穴が検出された。
柱穴の規模は、それぞれ直径が15~30cm、
深さが約20cmほどであり、
規模が揃っていることや配列の関係からみて、
7本の場合は立柱列、
6本が利用された場合であれば
棟持柱を有するおよそ一間四方の
建物の存在が想定される。
図1 徳島市矢野遺跡 突線鈕5式の最新型銅鐸(文献1①)
    銅鐸の周りを囲むように7つの柱穴が見える
全長97.8cm、重さ17.5kg


 鰭水平             鰭垂直
銅鐸の身は鈕側より見ると銀杏形であり、
鰭の方向が長軸になるため、土坑に寝かせて置く時に
鰭垂直は鰭水平に比べて安定性が悪い。(図2参照)
ごく自然に置くとすれば鰭水平にならざるを得ない。
それを敢えて選ぶのは
ある種の意志が働いているとみるべきであろう。

図2 銅鐸を寝かせた時の鈕側より見た鰭の方向

寺沢薫氏は鰭垂直の置き方の祭祀的意義として次のように述べている。(文献2①要旨)
 銅鐸は穀霊(稲魂)に関する呪器である。
 銅鐸の両面の文様は意図的に変えられている。
 これは、銅鐸の鮨を境にして二つの面を分かち別々の世界を表現したもので、
 春から秋にかけて稲が無事に育つための辟邪と、
 冬から春にかけての稲もみの稲魂が逃げることを防ぐための呪縛の役割を担うものである。
 銅鐸が寝かせて鰭垂直に置かれるのは、この二面性の反映である。

これに対し、石橋茂登氏は論文「銅鐸・武器形青銅器の埋納状態に関する一考察」において次のように述べている。(文献3)
 古い段階の銅鐸は多様な埋納方法だった。
 中国四国地方では細形段階から武器形青銅器の埋納が行われ、銅鐸も埋納された。・・・
 北部九州から瀬戸内、近畿まで広範囲で青銅器埋納祭祀が盛行する中期後半ころに、
 中国四国地方から瀬戸内にかけては銅鐸と武器形青銅器が一括で埋められている。
 そうした祭祀を行う中で、武器形青銅器に適した埋納状態である、
 横倒しで刃を立てる方法が銅鐸にも適用されたのではないか。

本稿は、この課題に弥生人の銅鐸の正面認識からアプローチしたものである。
これは結果的に見れば、人間の原初的な感覚が銅鐸の埋納行為に反映されるという
認知考古学の一つの事例と言えるであろう。
認知考古学は、包括的に「人の心に明確な注意を向けて考古資料の分析・解釈を行うこと」と定義される。(文献4①)
それを本稿に即して述べるならば、
銅鐸埋納時に働く人の意識を考古学的な物証である埋納形態から抽出し、埋納形態の変遷の解釈を行うと共に、
さらに人の埋葬のスキーマ(下注参照)から銅鐸のアニミズムを導き出す方法である。

(注)スキーマschema(文献4②)
 人が環境とかかわっていくことで心のなかに構造化されるひとまとまりの概念。
 それまでの経験から抽出された一般的な知識で,物,出来事,行為など,
 単純なものから複雑なものまでさまざまなレベルにわたって存在する。
 新しい情報を処理するときに,すでにもっているスキーマのなかから関連するものが活性化され,
 それが新しい知識の記憶や変容を方向づける。
 たとえば,与えられた情報のなかにはない部分を,
 既存のスキーマによって穴埋めをしたり,既存のスキーマに合わない情報を省略・変形したりする。


1 銅鐸埋納時の鰭の方向に関する現況分析
 鰭の方向について集計したものに
『青銅器埋納地調査報告書1 銅鐸編』島根県教育委員会 2002(文献5①)の第9図のグラフがある。
これは埋納状況が明らかな銅鐸出土遺跡に限定したもので、鰭上下23遺跡、鰭水平4遺跡と読み取れる。
つまり、比率に換算して、銅鐸の鰭垂直と鰭水平が埋納遺跡件数で85%と15%となる。
一方、寺沢薫氏の「銅鐸埋納論」(文献6①)においては
これが56%と44%(寺沢論文の鰭垂直44遺跡 鰭水平35遺蹟)と大幅に異なった結果となっている。
これは、当然、伝聞等の二次的資料をデータに加えた結果として生じたものであり、
その中に鰭水平のケースが多いことを示している。
梅原末治氏の『銅鐸の研究』(文献7)には多数の出土状況の聞き取り調査の結果が丹念に記述されているが、
それによると鰭水平の事例は鰭垂直の倍以上あることがわかる。
筆者の概略チェックでは、鰭垂直4例、鰭水平10例であった。
数少ない銅鐸発見事例の偏りかも知れないが、鰭水平が多くなりやすい理由として下記が想像される。
①偶然の発見のため、銅鐸を掘り出したときに銅鐸が鰭水平の状態になりやすい。
  銅鐸を置いた時の安定性の問題(図2参照)
②銅鐸を掘り出したときに銅鐸の模様が目につきやすいため、結果的に鰭水平に導かれやすい。
③「銅鐸が横になっていた」とする伝聞を、鰭水平として解釈することが多い。
こうしたことから、伝聞データの鰭水平の件数は幾分割引いて評価する必要があると思われる。
銅鐸は土木工事や農作業等で偶然に発見されることが多いため、正確な出土状況が確認できるものはわずかである。
そのため鰭の方向の変遷を検討するためには、伝聞データを追加せざるを得ない。
そこで本稿では、データの信頼度を三段階に分類して、データを銅鐸の型式別に分類した。
尚、データを銅鐸の個体数でなく遺跡数(埋納坑)でまとめたのは、
銅鐸埋納時の置き方のルールのようなものを調べたかったからである。
詳細データを末尾に付表として示す。

表1は付表のデータをグラフ化したものである。
横軸に菱環鈕式から突線鈕5式に至る各型式における鰭の方向(垂直・水平)を示す。
縦軸は遺跡の数を示す。
グラフに示したものは銅鐸を横置きしたものであるが、上段には、銅鐸を正立・倒立に埋納した遺跡の数を記載した。
尚、最上段の出土数は、銅鐸の出土個数を示す。


          表1 銅鐸埋納時の鰭の方向と埋納姿勢の変遷
 〇:発掘調査等で埋納状況が明らかとされるもの
 △:伝聞等による二次的データであるが、比較的信頼性が高いと思われるもの
 ?:鰭の方向に関して若干の疑いが存在するもの
 銅鐸の出土個数の出典
 『青銅器埋納地調査報告書1 銅鐸編』島根県教育委員会 2002 を集計したものとして下記のサイトを参照した。
 「銅鐸分布考 形式別・紋様別データ」http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku06.html

 表1より銅鐸の正立や倒立は突線鈕1式までである。
では正立と倒立は遺跡数において、おおよそどのような割合であろうか。
寺沢薫氏は、これを正立6%、倒立3%とし、きわめて稀有な例としている。(文献6①)
実は銅鐸は傾きをもって出土するものが多く、横置き・正立・倒立の分類は自明ではない。
ここで山の斜面に置かれた銅鐸を例にとって説明しよう。
かなり急な斜面に、銅鐸の鈕が尾根に向けられている時は二通りの見方ができる。
斜面に寝かされていると見れば横置き、斜面に立てかけてあると見れば正立の感覚である。
また、銅鐸の鈕が谷に向けられている時は倒立の感覚になる。
このように、傾いた銅鐸においては横置き・正立・倒立の混在した感覚的な要素が多分に含まれている。
これは、研究者の記述(付表3-2 注3参照)を読んでいても気付くことである。
一方、集落においては水平面の確保が容易であると共に、埋納にあたって必要な諸条件が整っている。
そのため、祭祀観念を表象した造形の完成した姿は集落遺跡に求められる。
図3は、八王子遺跡の居住区域内より出土した倒立の銅鐸である。

   
 図3 愛知県八王子遺跡の倒立の銅鐸(HP2)
    弥生中期の居住区域内より出土 高さ21㎝ 外縁付鈕式 
 

倒立の銅鐸は、佐賀県吉野ヶ里遺跡の発掘調査でも見つかっている。(付表3-1 注3参照)
これは、倒立の銅鐸が孤立したものでなく、
一定の裾野をもって集落の人々に広く認められた存在であったことを示しているものと考えられる。

さて、菱環鈕式から突線鈕1式までは田中琢氏の「聞く銅鐸」の範囲である。
そして、「見る銅鐸」は突線鈕2式より始まる。(文献8)
(注)岩永省三氏は、青銅祭器の変化は単純にいえば大型化であるして、
   その原因について次の三説を挙げ、それぞれの問題点を指摘している。(文献9)
    A説 祭器が見るためのものになったので、必然的に大型化した。
    B説 祭器を使用した祭儀の変質に伴って変貌した
    C説 他種の器物・祭器の影響を受けた
  私は、ここで銅鐸威信財説を述べたい。
  威信財とは、入手が容易でない遠来の珍しい物品であり、
  それを入手した支配者階層の首長が配下の小首長に分配したものである。
  また、威信財システムとは、このような威信財の分配行為によって
  首長が支配権を維持し社会秩序を保つ仕組みである。(HP3)
  ここでは、銅鐸を分配する立場にあるものが支配者階層、それを受け取る集落の長が配下の小首長に相当する。
  銅鐸は集落の祭器であるとともに威信財と考えられるため、
  より豪華なものとして銅鐸の大型化が促進される傾向にある。
  そして、音よりも見栄えが優先されるようになり、飾られる銅鐸(見る銅鐸)になったものと想像される。


表1を全体的に眺めると、鰭垂直は鰭水平を常に上回っていると見ることができる。
ただ、鰭垂直が鰭水平を圧倒し始めるのは、突線鈕4式からである。
突線鈕4式の鰭垂直と鰭水平の比は、表1から5:2である。
『豊饒をもたらす響き 銅鐸』(文献10①)によれば、突線鈕4式は三遠式が消滅した時期にあたり、
そのほとんどすべてが近畿式である。
このことから、鰭の方向の分析にあたっては、三遠式と近畿式に分けて考える必要があることがわかる。
そこでこの部分をさらに詳しく見たものが表2である。

   表2 三遠式と近畿式銅鐸における鰭の方向  
   突線鈕2式  突線鈕3式 突線鈕4式   突線鈕5式
三遠式 鰭垂直  静岡21前原Ⅷ〇


長野1柴宮〇
静岡7西の谷〇
愛知24伊奈〇
愛知27手呂△
愛知24伊奈〇



 
鰭水平   静岡5ツツミドオリ△
静岡6船渡△
静岡7西の谷△
静岡8木船△
静岡9悪ヶ谷△
静岡10日向郷△
   
近畿式 鰭垂直 三重14高茶屋△
和歌山13常楽△
和歌山18久地峠△


静岡22才四郎谷〇
大阪4如意ヶ谷〇
静岡14不動平△
和歌山11向山(荊木)△
静岡20穴ノ谷?
京都1式部谷?
静岡11山田〇
静岡12猪久保〇
三重3柏尾△
和歌山24山田代△


徳島28矢野〇





鰭水平 福井6向笠仏浦△
徳島18畑田△
静岡13七曲り?

和歌山10大久保山△
愛知26堀山田?
 

表2で注目したいのは、静岡7西の谷遺跡である。
ここからは、3本の突線鈕3式の三遠式銅鐸が出土している。
2本は1890年に山芋堀りの最中に偶然に発見されたもので、鰭の方向は水平であったと伝えられる。
残り1本は2000年の発掘調査によって、
前の出土地点から約20m離れたところから発見されたもので鰭は垂直であった。(文献5②)
このことは、同一の遺跡で同じ型の銅鐸が、一方が鰭水平、他方が鰭垂直で埋められていたことになる。
表2を前述のように鰭水平の件数を少し割引いて眺めれば、
三遠式銅鐸においては鰭垂直がやや主流であるが、近畿式銅鐸においてはその傾向がさらに増大していることがわかる。
近畿式銅鐸と三遠式銅鐸は同時期に並行して始まったとされるが、
鰭の方向の変遷に位置付ければ、三遠式銅鐸は近畿式銅鐸に至る前段階であると見なせる。

そして、近畿式銅鐸の最終形態は徳島県矢野銅鐸に象徴される。

見る銅鐸は飾られる銅鐸でもある。
飾られる銅鐸は、飾られる時に正面の方向が意識される。
装飾性が高いものほど、正面の方向がより強く意識されるのではないだろうか。
そこで銅鐸の正面について以下に検討する。


2 銅鐸の正面とは
 「銅鐸の正面とは?」と問われて即答できる人はいないであろう。
これには、弥生人が何を基準に正面と判断しているかを知る必要がある。

  正方向認識、即ち正面を認識する最も原初的な事例は人間に求められる。
弥生絵画では、人はほとんどすべてが正面に描かれる。
その特質を挙げれば、第一に人の正面には眼がある。
第二に人の正面には鼻を垂直に通る左右対称の軸がある。
第三に人の正面は前に進む。
これは、身体的経験をもとに獲得されるイメージ・スキーマである。
  図4 弓をもち鹿の角をつかむ人を描いた銅鐸絵画(桜ヶ丘5号)  

    これらをもって、動物を見てみよう。
弥生絵画における動物は、ほとんど側面が描かれる。
従って、当然のことながら90度視点を変えた面が正面となる。
つまり、側面の認識の仕方を知れば、正面の認識の仕方もわかるということである。
動物の正面における特質は人間と同じである。

 図5 鹿の銅鐸絵画(桜ヶ丘4号) 上面図は筆者が追記

   次に、無機物としての船である。
船も側面が描かれる。
船の正面には左右対称の軸があり、
移動の方向は人間と同じである。
船首の両側に目が描かれることもある。(文献2②)
動物と対比させると、
長手方向が側面となっていることがわかる。


 図6 船の銅鐸絵画(井向1号) 上面図は筆者が追記

    最後は、銅鐸の鋳型である。
銅鐸の鋳型の分割面は、
鈕や鰭の成形から鰭方向となる。
 図7 銅鐸の鋳型 
    鈕と鰭の掘り込みが見える(HP4)
図8 鋳型の分割線
    左図の鋳型を合わせた写真(HP4)
    鋳型の分割線が対称軸となる。

図2のように銅鐸の上面は銀杏形である。
したがって船と同じく長手方向の面が側面となる。
こうした様々な素材のイメージの組み合わせが、銅鐸のようなものにも正面を規定することになる。
銅鐸の鋳型に紋様を彫っている工人は、銅鐸の正面でなく側面を彫っているという意識をもっていただろう。
ここで工人が銅鐸の正面を意識して製造したと思われる典型的な例を示そう。

   図9は大阪府岸和田市神於(こうの)町より出土した銅鐸である。
この銅鐸は桜ヶ丘2号銅鐸と同范である。
この銅鐸の両目のように見える型持の孔の下あたりに
鹿の絵が描かれている。(図10参照)
 
 図10 中央の鰭に向かって走る鹿(文献11を参考に筆者が作成)
     左右の鹿は中央の鰭に向かって走っている。
     こうしてみると、銅鐸には眼も鼻もあるように思えてくる。


 図9 銅鐸の正面(文献10②) 神於銅鐸 外縁付鈕1式 横型流水文 高さ43.4㎝  京都大学総合博物館

以上の事例から銅鐸の正面を総合的に推定すると、鰭の方向が正方向であることがわかる。。
私は、銅鐸の正方位は銅鐸の製造者である工人より広まったものと想像している。
つまり、工人は銅鐸の製造時において鋳型の分割線が見える面を正面と見なしたのであろう。
これは、鋳型を用いる青銅器全般に言えることであり、
福岡県寺福童遺跡等に見られる武器型青銅器の刃を立てて埋納される事例(HP5)はこれに相当する。

 工人の正面認識が、銅鐸の埋納に反映された典型例として前述の矢野銅鐸が挙げられる。
次の徳島県埋蔵文化財センター編集『矢野銅鐸』(文献1②)の記述は示唆的である。
 土層観察から復元できる銅鐸被覆土の形状は鋳型(外型・中型・芯の関係)に共通し、
 銅鐸の鋳造に熟知した人物、銅鐸工人の関与すら伺われる。
 銅鐸の誕生と埋納は同様の観念のもと執り行われたことを暗示するものであり、
 最新式銅鐸の鋳造地にも派生する問題を含んでいよう。


3 鰭の発達と銅鐸の変遷
 人は聖なるものと向き合うとき、その向き合う方向が重要となる。
それが今まで述べてきた弥生人の正面認識である。
その正面認識の指標となるもののひとつが対称軸である。
銅鐸において、それは鰭となる。
そして鰭の発達こそ銅鐸の神聖さを高めるものである。
図11は、かかる視点から鰭の発達に着目して最古段階の銅鐸を配列したものである。

   
 図11 菱環鈕式・2区横帯文銅鐸における鰭の発達
    図A、B 「銅鐸文様の起源」設楽博己  『東京大学考古学研究室研究紀要』第28号 p112 2014
    図C  『姫路市史』第7巻下 資料編考古 p243 姫路市 2010
 

図11においてAは菱環鈕1式の神庭荒神谷5号銅鐸であり、わずかにではあるが鋳バリのような鰭の存在が認められる。
Bは淡路島洲本市出土の中川原銅鐸で、やはり菱環鈕1式である。
鰭はかなり大きくなっていることがわかる。
Cは姫路市出土の神種(こうのくさ)銅鐸で、菱環鈕2式に分類される。
菱環鈕2式は、菱環鈕1式が寸胴で直線的な身をもつのに対し、
中央部がやや内側に内湾し裾で広がる身をもつのが特徴とされている。
しかし、私がここで強調したいのは、鰭に文様が描かれていることである。
また、鰭の発達は菱環鈕式・4区襷文銅鐸においても
東博33509号銅鐸(菱環鈕1式)と井向(いのむかい)2号銅鐸(菱環鈕2式)の比較により明らかに認められる。
外縁付鈕式は、鰭が鈕に進出したものとしてとらえることができる。
つまり、工人の目からみれば鰭も鈕の外縁も鋳物のバリであり同質のものである。
菱環鈕式における鰭の発達は、外縁付鈕式誕生に向けた火山の噴火前にも似たマグマの隆起であった。
扁平鈕式も見方を変えればバリの鈕の内側への進出である。
これは工人ならではの発想であろう。
銅鐸の変遷は銅鐸を使用するする人々よりも、それを製造する工人にイニシアチブがあったと思われる。

出土数からみて銅鐸の時代は実質的には外縁付鈕式からである。(表1参照)
外縁付鈕式は量産体制によって生み出された最初の銅鐸であり、
鐘の機能を持った祭具として用途の多様性を有していたと想像される。
銅鐸の埋納形態の変遷は、このような銅鐸が視覚化を強調した見る銅鐸という特定の祭具に変遷する過程で、
用途の多様性の収束と正面意識の強化がもたらしたものと言える。

鰭に走る外周突線の本数による突線鈕式における難波洋三氏の細分(文献12)も、
かかる正面意識の強化に対応しているものと見られる。

ここで改めて、佐原氏の型式に対応させた鰭の特徴を挙げると次のようになる。
 ・菱環鈕式    鰭が鋳バリのようなものから自立する。(鰭の生成)
 ・外縁付鈕式  吊り手菱環部の外側に鰭が進出。鰭に飾り耳が付きはじめる。
 ・扁平鈕式    吊り手菱環部の内側に鰭が進出。飾り耳の基部の線が鰭を貫通し身まで達する。
 ・突線鈕式    鰭に外周突線が走る。さらに近畿式においては、吊り手の頂と左右に二頭渦紋飾り耳が付けられる。


4 鰭の方向の変遷と銅鐸の型式
 佐原真氏は、三遠式銅鐸と近畿式銅鐸の違いについて、次のように述べている。
   近畿地方および中国・四国地方における銅鐸を概観すると、中段階鐸(扁平鈕式)の装飾は規則化し、
   これにしたがって共通する特定の飾り方によって、「銅鐸群」として一括できるものがいくつも成立している。
   しかし、東の地域地方に分布している中段階鐸(扁平鈕式)、新段階初頭鐸(突線鈕1式鐸)は一鐸ごとに個性的で、
   装飾方法に試行錯誤がみとめられる。
   すなわち、畿内および以西の地方における古段階鐸(外縁付鈕式)に共通する現象(古い性質)がうかがえるのである。
   しかも、そのなかに三遠式鐸の前身とみるべき文様もみとめられる。
   三遠式鐸の形態・断面形、太い内面突帯(磨滅したものがある)は、
   同時期の近畿式鐸よりも型式学的に古い性質をおびている。

   サギ・シカなど袈裟襷文の区画内に絵画をもつ実例が五例あることもまた古い性質であって、
   近畿式鐸には絵画をもつものが一例(滋賀県小篠原Ⅰ2号鐸=近畿2式鐸)あるにすぎない。
   東の地域においては、畿内および西の地域に比較して、銅鐸が一段階古い様相をしめしているのである。(文献13)

つまり、正面意識の増大をベースとした鰭の方向の変遷は型式学的にはおおまかに次のように分類される。
Ⅰ期 菱環鈕式~突線鈕1式
    埋納のスタイルが自由な状態 
    銅鐸の姿勢が横置きで鰭の方向が垂直・水平、銅鐸の姿勢が正立・倒立等、様々な埋納形態
    「聞く銅鐸」においては、銅鐸埋納時に正面を向けて置くという意識が「見る銅鐸」に比べて低い。
    このため、銅鐸の埋納形態には様々のものが含まれる。
Ⅱ期 三遠式
    埋納のスタイルが集約された状態 横置きで鰭の方向が垂直か水平のいずれか
    「見る銅鐸」は、見せるという意識が働くため、正面方向(鰭垂直)か模様のある側面(鰭水平)に集約される。
Ⅲ期 近畿式
    埋納のスタイルが定式化された状態 横置きで鰭の方向が垂直
    Ⅱ期よりさらに進んだ段階においては、正面方向(鰭垂直)か強く意識されるようになる。
    そのため、埋納時にはかつて銅鐸が飾られていた状態が反映される。

また、表1に戻って時系列的に鰭の方向の変遷を分類すると次のようになる。
Ⅰ期 菱環鈕式~突線鈕1式の時代
Ⅱ期 三遠式と近畿式が共存する時代
Ⅲ期 近畿式のみの時代

銅鐸埋納時の鰭の方向は、銅鐸の正面に対する意識にかかわる問題であり、銅鐸の型式と対応している。
つまり、一般的に古い型式のものは古い意識でもって古い時代に、
新しい型式のものは新しい意識をもって新しい時代に埋納されたと考えられる。

これは銅鐸の複数埋納において、型式を飛び越えたかたちでの組み合わせが
51遺跡の中で1遺跡(滋賀県大岩山)しか存在しないことからも推定される。(文献14)

5 銅鐸のアニミズム
 初期の銅鐸は神聖なる鐘であった。
それがどのような場面でどのように使われるかについては実に多様であったと想像される。
しかし、後期に至り鐘としての実用性を失うとその用途はきわめて限定されたものとなった。
この銅鐸の用途の多様性の収束は、銅鐸の鰭の方向の変遷と結びついている。
銅鐸の鰭の方向の変遷に内在するものは銅鐸埋納の定式化の動きであろう。
そして、前述のように銅鐸の祭祀観念を表象した造形の完成した姿は集落遺跡に求められる。
かかる意味で、矢野銅鐸は、表1、2に見られるように、銅鐸祭祀の最後に登場する完成された埋納形態を有している。
矢野銅鐸の埋納に類似したものとして、名東(みょうどう)遺跡があげられる。
いずれも銅鐸を驚くほど丁寧に埋納している。(文献15)
また、矢野遺跡・名東遺跡の銅鐸は木枠に納められていたと推定されている。(文献6②)
丁寧に埋納された銅鐸は、銅鐸の謎を丁寧に説明してくれる。

  図12は銅鐸埋納の変遷を模型で示したものである。
下の断面図の先端に位置するのが突線鈕5式の銅鐸を出土した矢野遺跡である。
扁平鈕式の銅鐸を出土した名東遺跡は下部に位置する。
つまり、時間軸は下から上に進むことになる。
図12の上面図は、銅鐸埋納の広がりを示すものである。
中心部は横置き鰭垂直、その外側に横置き鰭水平、
さらにその外側に正立・倒立が囲んでいる。
矢野遺跡と名東遺跡は鮎喰川を挟んで3㎞離れた集落遺跡であり、
扁平鈕式から突線鈕5式に至る銅鐸祭祀のつながりが想定される。
 
 横置き鰭垂直の埋納形態は、
図12に示したように銅鐸祭祀の初めから終わりまでを貫くコアである。
私はこれを銅鐸埋納の本流と呼びたい。
つまり、銅鐸埋納の変遷は川の流れに例えることができる。
それは、たくさんの小さな谷川を集めながら川幅を広げ海にそそいでいる。
その海の近くにあるのが矢野遺跡であり、中間にあるのが名東遺跡である。
図12 銅鐸埋納姿勢の変遷
 

銅鐸の形は変遷してきた。しかし、変遷しないものがある。
それは銅鐸が初めから終わりまで一貫して埋納されるという厳然たる事実である。
このように普遍的なものは、人間の生存にかかわる普遍的なものに依拠していると考えられる。
祭祀は人間が作り出したものである以上、人間に帰着する。
だとすれば、それは人の死ではないだろうか?
冒頭の銅鐸祭祀の最終形態である矢野銅鐸は、木製容器に納めて埋められたと考えられている。
この木製容器は箱形木棺に相当するものであろう。
人の埋葬は、人の正面を上に向け棺に納めてから土をかける。
銅鐸の場合、正面は飾られた銅鐸の正面となる。
銅鐸には形状的に二つの正面があるが、左右の面(いわゆるA面とB面)に共通した顕著な差がないことから、
そのいずれを飾られた銅鐸の正面とするかは集落の自主裁量にまかされていたものと想像される。
前述のように、初期の銅鐸祭祀の自由度はあらゆる面で極めて高いと推定される。
このことから、銅鐸埋納における共通性は、人間の本源的な感性のようなものに限定される。
銅鐸の埋納地は実に多様であることから、埋納地の選定は集落の裁量によるものと推定される。
また、銅鐸の埋納を様々な願いに応じた鎮物(しずめもの)として二次的に活用することも行われたと思われる。
矢野銅鐸の埋納状況は埋納ではなく埋葬である。
これらは縄文以来の普遍的な埋葬スキーマの一部が、
弥生時代に発生した銅鐸の埋納において活性化されたものと考えることができる。
(文献4②)
今、我々がみることのできる銅鐸は活動を停止した死んだ銅鐸である。
いかなる紆余曲折があったにせよ最終の姿に違いない。
少なくとも、聞く銅鐸でもなければ見る銅鐸でもない。
この意味で、すべての銅鐸埋納地は銅鐸の墓と言えるであろう。
銅鐸は人と同じように生と死を繰り返してきたのである。
集落の立地変遷の時期と埋納された銅鐸の型式との対応を説く前田敬彦氏の論文(文献16)は、
銅鐸が集落と共に生きたことを示す一例である。
銅鐸は鋳造所で生まれ集落に生き墓に葬られた。
これは銅鐸におけるアニミズムの擬人化とみてよいであろう。

このように考えると、奇異な感じがする正立と倒立も意味を帯びてくるように思える。
つまり、正立は銅鐸の生前の姿、
倒立はその逆の死後の姿(魂が鐸口から空に脱け出した状態)をあらわしているのではないだろうか。
銅鐸を逆さに立てた人々にとって、天は魂の還る異界であった。
さらに、銅鐸の入れ子構造は豊饒を暗示する妊娠を象徴していると想像される。


まとめ
(1)銅鐸の埋納姿勢 始めは横置きに正立・倒立を含む多様なものであったが、
  後に横向き鰭垂直または水平を経て、横置きで鰭を立てることが定式化された。
  この定式化については近畿式銅鐸の影響が大きい。
(2)銅鐸の埋納姿勢の多様性の収束は、初期の銅鐸の祭祀的実用品としての鐘の用途の多様性が
  後に視覚性を強調した祭具として特化されたことと結びついている。
(3)弥生絵画の類推から銅鐸の正面は鋳型の合わせ目となる。
   銅鐸の埋納において鰭を立てることは、鰭水平に比べ意志力が働いており、銅鐸の正面を意識したものと考えられる。
(4)銅鐸は「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」に変遷した。
  「見る銅鐸」は飾られる銅鐸であるため「聞く銅鐸」に比べ正面がより強く意識される。
  「見る銅鐸」の埋納姿勢が鰭垂直に収束したのはこの反映と推定される。
(5)埋納の一貫した継続性と銅鐸の最終形態である矢野遺蹟の埋納状況から、人の埋葬との類似性が確認できる。
  このことから、銅鐸のアニミズム的性質が導かれる。


参考文献
1『矢野銅鐸』①p11 ②p16 徳島県埋蔵文化財センター 1993
2『王権誕生 日本の歴史02巻』①p107~109 ②p120 寺沢薫 講談社 2000
3「銅鐸・武器形青銅器の埋納状態に関する一考察」石橋茂登(『千葉大学人文社会科学研究』 (22) p97 2011)
4『認知考古学とは何か』①p3 ②p255 松本直子・中園聡・時津裕子編 青木書店 2003
5『青銅器埋納地調査報告書1 銅鐸編』 ①p21第9図 p16第3表 ②p28 静岡7西の谷島根県教育委員会 2002
6「銅鐸埋納論」寺沢薫(『青銅器のマツリと政治社会』①p300 ②p304~307 吉川弘文館2010)
7『銅鐸の研究 資料篇』梅原末治 木耳社 1985(1927年の復刻版)
8『古代の日本』5近畿 p48~52 田中琢(みがく)角川書店 1970
9『金属器登場』歴史発掘7 p58~59 岩永省三 講談社 1997
10『豊饒をもたらす響き 銅鐸』①p76 ②p12 大阪府立弥生文化博物館 2011
11『流水文銅鐸の研究』p37 図版9~12 三木文雄 吉川弘文館 1974
12『弥生文化の研究 6』p133 p135~136 難波洋三 雄山閣出版 1986
13『古代史発掘⑤ 大陸文化と青銅器』p103~104 佐原真 講談社 1974
14『日本の考古学6 弥生時代 下』p256~257井上洋一 青木書店 2011
15「徳島市矢野遺跡の銅鐸埋納遺構」藤川智之(『考古学ジャーナル』406号 p11~14 1996)
  「徳島市名東遺跡出土の銅鐸」一山典・勝浦康守(『考古学雑誌』73巻4号 p123~125)
16「紀伊における弥生時代集落と銅鐸」前田敬彦(『古代文化』第47巻10号 p33 1955)

参考サイト
HP1 徳島県埋蔵文化財センター年報/vol.4 1992年度
 http://www.tokushima-maibun.net/modules/xpwiki/?%CC%F0%CC%EE%B0%E4%C0%D7
HP2 埋蔵文化財愛知no.49
 http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/maibuai/49.pdf
HP3 古墳時代における畿内政権の勢力拡大過程の研究  木許守
 http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/1852/1/rd-bn-ky_033_022.pdf
HP4 兵庫県立考古博物館
 http://www.hyogo-koukohaku.jp/collection/p6krdf0000000vvy.html
HP5 寺福童遺跡 奈文研紀要2007
 http://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/626/1/BA67898227_2007_034.pdf


付表 銅鐸埋納における鰭の方向に関する出土データ

<凡例>

文献
文献A:『青銅器埋納地調査報告書1 銅鐸編』島根県教育委員会 2002年3月
      ①p16第3表 ②p101~125銅鐸出土地名表 ③p23~100銅鐸出土地調査票
文献B:『青銅器のマツリと政治社会』寺沢薫 表22 p302~313 吉川弘文館2010
      (上記は『古代文化』44巻5号・6号 1992「銅鐸埋納論」の増補改訂版)

信頼度
〇:発掘調査等で埋納状況が明らかとされるもので、主として上記文献Aより採録した
△:伝聞等による二次的データであるが、比較的信頼性が高いと思われるもの(伝聞データ)
?:鰭の方向に関して若干の疑いが存在するもの

県名
県名は文献Aに記載のものである。
文献Bも統一的把握を容易にするため、該当するものを記載した。
尚、県名の後にNewとあるものは、文献A、Bにないもので新しく出土した銅鐸である。

出土地の緯度・経度
「国際日本文化研究センター 弥生青銅器GISデータベース」
http://tunogis.nichibun.ac.jp/iseki/text_search.cgi?db=4 参照

鰭の方向
垂直と水平。
兵庫39本山銅鐸や大阪14西浦銅鐸のように45度程度に傾いたもの等は、動いた可能性もあり不明とした。
垂直と水平から傾き30度以内をデータとして採用した。

型式分類
文献Aを基準とするが、型式に齟齬がある場合は下記のサイトにある
島根県埋蔵文化財調査センター(略称:島根埋文)の記載に従った。
また難波氏の分類についても同サイトを参照した。
「新銅鐸出土地名表 – nifty」 http://homepage1.nifty.com/moritaya/sinsyutudoti.pdf

銅鐸の埋納姿勢
横置き、正立、倒立に三分類した。
正立、倒立の判断は発見者の印象を重視する見地から、
正立は水平面に対して45度以上、倒立は40度以上の開きを有するものをデータとして採用した。
尚ここでは、信頼度〇:△:?内、?は埋納姿勢おいて△よりも信頼性の劣るものを指す。

1 横置き 鰭垂直のデータ

 付表1-1 菱環鈕式 横置き 鰭垂直     
信頼度  県名 遺蹟名 出土地名 文献 備考
  島根7 荒神谷 簸川郡斐川町神庭荒神谷 注1

(注1)外縁付鈕式もあり

付表1-2 外縁付鈕式 横置き 鰭垂直 
信頼度  県名 遺蹟名  出土地名  文献 備考
  奈良9 早田(はやた) 奈良市山町早田  
  島根7 荒神谷 簸川郡斐川町神庭荒神谷  注1
  島根8 加茂岩倉 大原郡加茂町岩倉  注2
    岡山New 神名(しんめい) 総社市福井 神名遺蹟 注3  
  兵庫33 桜ヶ丘 神戸市灘区桜ヶ丘町(通称神岡(かみか)) 注4
  香川7 陶内間(すえうちま) 綾歌郡綾南町陶内間  
  京都2 梅ヶ畑 京都市右京区梅ヶ畑向ノ地町  
  奈良17 初香山(はつかやま) 生駒郡平群町廿日山初香山    

(注1)菱環鈕式もあり
(注2)扁平鈕式もあり、文献Bでは18,23,35号鐸は突線鈕1式とある。
(注3)2014年8月、神名遺蹟の発掘調査にて鈕をやや下に向けて出土(岡山県古代吉備文化財センター)
(注4)扁平鈕式もあり

付表1-3 扁平鈕式 横置き 鰭垂直  
信頼度  県名  遺蹟名  出土地名 文献 備考
  愛知11 朝日 西春日井郡清洲町朝日 注1
  大阪33 跡部(あとべ) 八尾市春日町1丁目跡部    
  大阪34 下田 堺市下田  
  兵庫New 北青木(きたおおぎ) 東灘区北青木 B 注2
  島根8 加茂岩倉 大原郡加茂町岩倉 注3
  岡山19 明見 井原市下稲木町兼安字明見  
  徳島17 安都真(あづま) 徳島市入田市安都真  
  徳島27 名東(みょうどう) 徳島市名東町  
  奈良6 火打 五條市火打町 A  
  和歌山17 平ヶ峯(ヒロサ、林) 田辺市中芳養平ヶ峯 A  
  兵庫33 桜ヶ丘 神戸市灘区桜ヶ丘町(通称神岡)  A 注4
  香川8 羽方(はかた)(西ノ谷) 三豊郡高瀬町羽方西ノ谷 A  
  福井9 南伊夜山(みなみいよやま) 三方郡美浜町郷市南南伊夜山  
  和歌山15 亀山(朝日谷) 御坊市湯川町丸山字朝日谷亀山 注5
  島根1 中野仮屋 邑智郡石見町中野仮屋 注6
  徳島12 神宅(かんやけ) 板野郡上板町神宅字山田98  

(注1)島根埋文では扁平鈕式であるが文献Bでは突線鈕1式とある。
(注2)2006年の発掘調査で、鈕が一部欠損の状態で発見。
   さらにその下にある大きな別の埋納坑から欠損していた鈕の破片が見つかる。(『北青木銅鐸』p14 神戸市教育委2012)
(注3)外縁付鈕式もあり
(注4) 外縁付鈕式もあり、また扁平鈕式で水平もある。
(注5) 扁平鈕式で水平もある 
(注6)突線鈕1式もあり

付表1-4 突線鈕1式 横置き 鰭垂直  
 信頼度 県名   遺蹟名 出土地名  文献  備考
  奈良16 大福 桜井市大福  
  滋賀4 大岩山 野洲郡野洲町小篠原大岩山 (注1)
  島根1 中野仮屋 邑智郡石見町中野仮屋 (注2)

(注1)これは1962年出土の全面1区流水文10号銅鐸
(注2)扁平鈕式もあり

付表1-5 突線鈕2式 横置き 鰭垂直  
信頼度  県名  遺蹟名  出土地名 文献 備考 
  静岡21 前原Ⅷ 浜松市都田町前原 三遠式(注1)
  岡山20 高塚 岡山市高塚 3区流水文(注2)
  三重14 高茶屋 津市高茶屋小森町字四ッ野 近畿式(注3)
  和歌山13 常楽(晩稲) 日高郡南部川村晩稲 晩稲平 近畿式
  和歌山18 久地(くち)峠 日高郡南部川村晩稲 久地峠 近畿式
  徳島9 田村谷 阿南市山口町田村谷 6区流水文(注4)

(注1)文献Bは突線鈕3式、島根埋文は突線鈕2式
(注2)文献Bは突線鈕3式、島根埋文は突線鈕2式。尚、文様は、難波分類では迷路派流水文B2類とある。
(注3)これは1号鐸、2号鐸は破片で出土
(注4)文献Aは突線鈕2式・6区流水文、文献Bは「突・6区流」とある。難波分類では迷路派流水文A2類

付表1-6 突線鈕3式 横置き 鰭垂直  
信頼度   県名   遺蹟名   出土地名 文献 備考
  長野1 柴宮(しばみや) 塩尻市大門柴宮 三遠式
  静岡7 西の谷(にしのや) 磐田郡豊岡村敷地西の谷 三遠式(注1)
  静岡22 才四郎谷(や) 引佐郡細江町中川才四郎谷   近畿式
  愛知24 伊奈 宝飯郡小坂井町伊奈松間 三遠式(注2)
  大阪4 如意ヶ谷 箕面市如意ヶ谷 近畿式
  静岡14 不動平 引佐郡細江町中川不動平 A 近畿式
  愛知27 手呂(てろ) 豊田市手呂町 三遠式
  和歌山11 向山(むこうやま)(荊木(いばらき)) 日高郡日高町荊木向山 A 近畿式(注3)
  静岡20 穴ノ谷 引佐郡細江町中川 A 近畿式(注4)
  京都1 式部谷 八幡市男山指月式部谷 B 近畿式

(注1)これは2000年の発掘調査によって発見された1本である。
    尚、1890年にこの出土地点から約20mのところで鰭水平の2本が山芋堀りの最中に発見されている。
                                        (静岡県埋納文化研究所2000)
(注2)これは1号鐸、他に突線鈕4式もあり
(注3)これは2本あり、文献Bは内1本を突線鈕4式とする。
(注4)栗原雅也1988「静岡県引佐郡細江町穴ノ谷出土銅鐸」(『考古学雑誌』73巻4号p117)
   「工業用地造成に伴い伐採した木の根抜きをしたところ、根に抱えられるようにして銅鐸が出土とあり、
   鰭は斜面と平行する方向で斜め上下に位置していたと推測される」とある。
   鐸の姿勢が木の根によって動かされた可能性が大きい。

付表1-7 突線鈕4式 横置き 鰭垂直  
信頼度  県名   遺蹟名 出土地名 文献 備考 
  静岡11 山田 引佐郡三ヶ日町釣山田 近畿式(注1)
  静岡12 猪久保(いのくぼ) 引佐郡三ヶ日町日比沢猪久保 近畿式
  愛知24 伊奈 宝飯郡小坂井町伊奈松間 三遠式(注2)
  三重3 柏尾(かしお) 名賀郡青山町柏尾字湯舟 近畿式
  和歌山24 山田代(やまだしろ) 田辺市秋津 A 近畿式

(注1)もと分寸出土といわれるもの
(注2)これは2,3号鐸、他に突線鈕3式もあり

     付表1-8 突線鈕5式 横置き 鰭垂直
信頼度  県名  遺蹟名 出土地名 文献 備考 
  徳島28 矢野 徳島市国府町矢野 近畿式

2 横置き 鰭水平のデータ

菱環鈕式 横置き 鰭水平 データなし

付表2-1 外縁付鈕式 横置き 鰭水平      
信頼度  県名 遺跡名 出土地名  文献 備考
長野New 柳沢 中野市柳沢 注1
香川12 我拝師山C地点 善通寺市吉原町我拝師山北面 A  
大阪22 神於(こうの) 岸和田市神於町  
  大阪10 恩智垣内山(おんちかいとやま) 八尾市恩智垣内山  
愛知4 外山(とやま) 小牧市北外山南屋敷    
香川9 明神原 坂出市加茂町明神原   注2
鳥取3 泊村小浜(とまりむらこはま) 東伯郡泊村小浜池ノ谷  
広島1 福田木の宗山 広島市東区安芸町福田木の宗山 注3

(注1)2007年、刃を上に向けた銅戈5本と共に発掘調査で出土。銅鐸は破断した上部のみが、鰭水平の形でおかれていた。
(注2)文献Bは扁平鈕式
(注3)山腹の巨石の下から、福田型銅鐸、銅剣、銅戈各1口が出土した。
   これについて再埋納の可能性を指摘する文献として下記がある。
   尚、福田型は佐原・春成1982『考古学ジャーナル』210号に外縁付鈕式とあるので便宜上それに分類した。
    ・吉田広2005「福田木ノ宗山の遺跡と銅剣、銅戈」『考古論集』
    ・大野勝美1998『銅鐸の谷』

付表2-2 扁平鈕式 横置き 鰭水平
信頼度 県名   遺跡名  出土地名 文献 備考
岡山22 雄町(おまち) 岡山市雄町137  
兵庫7 閏賀(うるか) 宍粟郡一宮町閏賀  
兵庫33 桜ヶ丘 神戸市灘区桜ヶ丘町(通称神岡) A 注1
奈良8 竹之内 天理市竹之内町庵治山 A  
和歌山15 亀山(朝日谷) 御坊市湯川町丸山字朝日谷 注2
鳥取2 米里(よねさと) 東伯郡北条町米里字ゾウガラ 注3
  岡山11 兼基鳥坂山(かねもととっさかやま) 岡山市兼基鳥坂山  
徳島13 曲り 阿南市椿町曲り  
京都3 相楽山(さがらかやま) 相楽郡木津町相楽台 注4
  兵庫27 津門稲荷町 西宮市津門稲荷町    

(注1)桜ヶ丘では14本の銅鐸が出土。12本が垂直、この2本(6号と7号鐸)のみが水平と推定されている。
(注2) 扁平鈕式で垂直もある。
(注3)島根埋文は扁平鈕式とある
(注4)文献Aは〇、文献Bは?とあるが、『京都府埋蔵文化財情報 第6号』1982に
   正確な位置・出土状態は明らかでないとあり、文献Bが妥当と思われる。

付表2-3 突線鈕1式 横置き 鰭水平    
信頼度  県名  遺蹟名  出土地名 文献 備考 
  奈良4 石上(いそのかみ) 天理市石上町  A 鐸は2本あり

付表2-4 突線鈕2式 横置き 鰭水平   
 信頼度  県名   遺蹟名   出土地名 文献  備考
  岡山1 備中呉妹(びっちゅうくれせ) 吉備郡真備町呉妹蓮池尻 6区流水文(注1)
  福井6 向笠仏浦(むかさほとけうら) 三方郡三方町向笠仏浦 近畿式
  徳島18 畑田 阿南市下大野字畑田68 A 近畿式
  福井4 鯖江新町 鯖江市新町 6区流水文(注2)

(注1)難波分類は迷路派流水文A2類
(注2)難波分類は横帯分割型D2類

付表2-5 突線鈕3式 横置き 鰭水平
信頼度 県名  遺蹟名 出土地名 文献  備考
  静岡5 ツツミドオリ 浜松市芳川町ツツミドオリ 三遠式
  静岡6 船渡(ふなと) 引佐郡細江町中川・岡地・船渡 A 三遠式
  静岡7 西の谷(にしのや) 磐田郡豊岡村敷地・西の谷 A 三遠式(注1)
  静岡8 木船 浜松市和田町永田・木船 A 三遠式
  静岡9 悪ヶ谷(あくがや) 引佐郡細江町中川・悪ヶ谷 A 三遠式
  静岡10 日向(ひなたごう) 引佐郡細江町小野 A 三遠式
  静岡13 七曲り 引佐郡細江町中川・滝峰・七曲り A 近畿式(注2)

(注1) 文献Bの出土地名は中の谷とあり(佐原・春成1982『考古学ジャーナル』210号の地名)
   この鐸(2本)は1890年に山芋掘りの最中に発見されたものである。
   また2000年の発掘調査でも、ここから20m離れたところで鰭垂直のものが出土している。
(注2)七曲りでは近畿ⅡA(1号鐸)と三遠式(2 号鐸)の両方が出土。埋納壙は別で30mほど離れている。
   文献Bは両方を△とするが、1号鐸はブルドーザーによる銅鐸の移動の可能性があるので?とした。
   2号鐸も同様であるが、1号鐸よりもさらに状況が悪いのでデータから除外した。(『考古雑誌』68巻1号p152) 

付表2-6 突線鈕4式 横置き 鰭水平
 信頼度  県名  遺蹟名  出土地名 文献 備考 
  和歌山10 大久保山 日高郡南部川村西本庄大久保山   近畿式(注1)
  愛知26 堀山田 渥美郡田原町西神戸堀山田   A 近畿式(注2)

(注1) 型式について、文献Aは「突線鈕4式? 近畿ⅢC」とある。文献Bは、「突線鈕4式 近畿ⅢC」とある。
(注2) 文献Aは〇、文献Bは?とあるが、
   「愛知県渥美郡田原町堀山田の銅鐸」小野田勝一(『考古学雑誌』第68巻第1号 1982)によれば
   ブルドーザーによる銅鐸の移動の可能性が考えられるので文献Bの判断が妥当と思われる。

突線鈕5式 横置き 鰭水平 データなし


3 正立または倒立のデータ

菱環鈕式 正立・倒立 データなし

付表3-1 外縁鈕式 正立・倒立    
信頼度   県名   遺蹟名  出土地名 文献 備考 
正立 兵庫37 野々間 氷上郡春日町野上野字野々間 A 注1
三重10 神戸(かんべ) 津市神戸木ノ根 A
島根2 上条(城山) 浜田市上府町城山 A 注2
倒立 愛知13 八王子 一宮市大和町 A
島根3 志谷奥 八束郡鹿島町佐陀本郷 A 1号鐸
佐賀1 吉野ケ里 神埼郡東脊振村辛上 A 注3
香川6 一の谷(古川) 観音寺市古川町南下一の谷  注4 倒立

(注1)これは1号鐸、他に2号鐸(正立・扁平鈕式)がある。
(注2)これは2号鐸、島根埋文には1号鐸が扁平鈕式、2号鐸が外縁鈕式とある。文献Bは両者を扁平鈕式とする。
(注3) これは福田型。福田型は佐原・春成1982『考古学ジャーナル』210号に外縁付鈕式とあるので便宜上それに分類した。
   『吉野ヶ里銅鐸』(佐賀県文化財調査報告書 第152集 2002)p12~14によれば、銅鐸は1998年の発掘調査にて発見、
   重機の掘削により身の大半が失われていたが、鈕の破片が倒立した状態で埋まっていた。
   復元された埋納坑は径約0.3m、深さ約0.26m。
(注4) 梅原末治1927『銅鐸の研究 資料篇』p353には、鈕を下に45度傾いていたとある。

付表3-2 扁平鈕式 正立・倒立 
信頼度  県名  遺蹟名  出土地名 文献  備考
正立 兵庫37 野々間 氷上郡春日町野上野字野々間 注1 2号鐸
島根3 志谷奥 八束郡鹿島町佐陀本郷 A 2号鐸
島根2 上条(城山) 浜田市上府町城山 A 1号鐸
滋賀5 山面(やまづら) 蒲生郡竜王町山面高塚 A
岡山3 猿ノ森(さわのもり) 井原市木之子町 注2
   香川10 安田極ヶ谷(ごくがだに) 小豆郡内海町安田 A
倒立 岡山14 百枝月西畑(ももえづきにしばたけ) 岡山市百枝月西畑 A
徳島16 源田 徳島市国府町矢野源田 A 2号鐸
兵庫9 投上(なげし) 神戸市垂水区舞子坂3丁目投上 注3

(注1)これは2号鐸、種定淳介1996「兵庫県野々間遺跡の銅鐸形祭器の埋納遺構(『考古学ジャーナル』406号 p18)には、
   鰭を水平にして鈕をほぼ45°上方に向けていたとある。
(注2)梅原末治1951「岡山県下発見の銅鐸」(『吉備考古』83号 p11)には
   「銅鐸は赤土の中に四十五度位の傾斜で鈕を上にして埋もつてゐた」とある。
(注3)直良信夫・直良勇二1929「垂水村新発見の銅鐸とその出土状態」(『考古学雑誌19巻10号p104』)によれば、
   銅鐸は鰭を東西にして、鈕を下にして40度の角度で倒立していたとある。

付表3-3 突線鈕1式 正立・倒立 
信頼度  県名   遺蹟名 出土地名 文献 備考 
倒立 徳島16 源田 徳島市国府町矢野源田 1号鐸

突線鈕2式から突線鈕5式 正立・倒立 データなし


4 リストより除外したデータの説明
①大阪14 羽曳野市西浦 西浦小学校校庭西 扁平鈕式 西浦銅鐸 垂直?
 『羽曳野市埋蔵文化財調査報告書』24 p11によれば鰭は45度に傾いている。
②大阪18(伝)四条畷市 扁平鈕式 四条畷銅鐸 正立?
 下記の文献に正立に関する記述が見当たらない。
 ・梅原末治1927『銅鐸の研究』資料篇p52~53木耳社1985(復刻版)
 ・「関西大学博物館所蔵「伝四条畷出土銅鐸」の検討」高島洋(『関西大学博物館紀要』第9号 2003)
③兵庫28 川西市加茂1丁目 突線鈕5式 近畿ⅣB 栄根銅鐸 鰭水平?
 下記の文献に鰭水平に関する記述が見当たらない。
 ・『考古学雑誌』2巻8号 p501 1912
 ・梅原末治1927『銅鐸の研究』資料篇p65木耳社1985(復刻版)
 ・直良信夫1929『考古学雑誌』19巻8号 p502 1929 
④兵庫39 神戸市東灘区本山南町8丁目 扁平鈕式 本山銅鐸 垂直?
 『兵庫県史 考古資料』p194によれば鰭は45度に傾いている。
⑤和歌山22 和歌山市有本 扁平鈕式 有本銅鐸 垂直?
 『和歌山県文化財学術調査報告書』第3冊 p64によれば、銅鐸の出土地は紀ノ川の流れから1m離れた砂礫中とある。
 川の氾濫等を考慮すると、弥生時代から今日までの間に銅鐸が動いた可能性が大いに考えられる。

お願い
  銅鐸埋納における鰭の方向については、
 鰭の方向に関する確実なデータがあまりに少ないことから、結論が出せないのが現在の実情と思われます。
 データを蓄積すれば、鰭立て問題も解決の道が自ずと見えてくるはずです。
 つまり、銅鐸の出土データを統一的に管理するセンターが必要なのですが、それまでは個人的に収集するしかありません。
  本稿のデータに関して、データの誤りや新しいデータ等がありましたら、
 エビデンス明示の上、本サイトのトップページ下部にあるメールボタンにて連絡くだされば幸いです。

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